この記事は2010年3月にサイモン・シンの『代替医療のトリック』の補足として書かれたものです。著者は、とある鍼灸大好きな科学思想家、Claude Magie氏です。
Claude Magie
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今日では鍼灸治療は世界中に広まり、またその効果を評価するための臨床試験が進行中です。そして時には鍼灸治療は効果がないとか、あってもプラセボ効果に過ぎないなどと評価されています。現在最も信頼できる臨床試験の方法はランダム化プラセボ対照二重盲検試験であるとみなされ、鍼灸治療の評価でもこれを用いています。これは被験者を、経穴に鍼を深く刺入する群(真の鍼)とプラセボ―鍼を浅く刺入する、または接触するだけ、あるいは経穴から外して刺入する―の鍼をする群(対照)にランダムに振り分けて治療し、被験者がどちらの群に属しているか知ることなく評価するというものです。公平な評価をすることで名高いコクラン共同計画でもこの方法を採用していますが、今回はあえて2つの点においてこのランダム化プラセボ対照二重盲検試験に対して異議を主張します。
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まず1つめは、プラセボが真のプラセボになっていないということです。プラセボは人体にまったく影響をあたえないものでなければいけません。しかし日本の鍼灸治療にはいろいろ流派がありますが、鍼を非常に浅く刺入する治療や、また刺入せずに接触させるだけの、さらに接触させずに鍼を近づけるだけの治療もあります。私も日本の鍼灸治療をいくつか受けてみましたが、痛いところに鍼を向けられて空中で上下に動かすだけで、患部の奇妙な感覚とともに痛みがなくなったという経験があります。このような現象はランダム化プラセボ対照二重盲検試験ではプラセボ効果と呼ばれます。なぜなら研究者の間では鍼は深く刺さないと効かないという思い込みが存在するからであり、そうでないものはプラセボだからです。しかし鍼を接触させずに近づけるだけで、響きと呼ばれる違和感や痛みを感じたり病気による症状が治まることは実際に存在し、この現象をプラセボ効果という言葉でかたづけずに、そのメカニズムを見つける努力をするのが科学的な態度です。
さて鍼を皮膚に近づけた時には何が起こっているのでしょうか。鍼と皮膚の間の状態を目に見ることができれば簡単です。18世紀にイタリアのガルヴァーニが生物が電気を発生することを明らかにしましたが、すべての電気を持つものの周囲には電磁場(Electromagnetic Field)が存在します。ゆえに、その電磁場に電気を流し、電気エネルギーを光エネルギーに変換すれば、それを間接的に目で見ることができます。鍼と皮膚の間には窒素や酸素、二酸化炭素などの分子が飛び回っています。これらの分子は原子から成り立っていますが、原子の直径は約1Å(オングストローム)であり、原子核の直径はそれの約1/100000Å、電子は原子にある軌道上に存在し、その質量は陽子の約1/1800です。外部から電子をぶつけて、原子中の電子をエネルギー状態がE1の軌道からE2の軌道に遷移させると、電子がもとの軌道に戻るときに、E2-E1のエネルギーが光として放射されます。なお、このエネルギーは電子の質量、速度、軌道の半径、円周率、プランク定数に依存します。このようにして場を見ることができますが、電子と電子をぶつけるには、気体はあまりにも密度が低く、また原子中の電子密度も低いので、高い電気エネルギーが必要です。この実験を人ですると火傷をする危険があるので、今回は桜(ソメイヨシノ)の花をモデルとして使いました。
写真1を見てください。電圧を印加した桜にステンレス製の鍼を近づけた時のものです。鍼の先端と桜の花弁が光り始めています。鍼をもう少しだけ近づけると 写真2のようになります。桜と鍼が薄っすらとしたもやでつながり、その中心に一本の糸のような電気の流れが観察できます。なおこの時の光は鍼と桜という電極間の距離だけでなく、それらの形態や電気抵抗の値、印加する電圧や電流、周波数やデューティー比などにも依存します。
写真3を見ると、場が少し複雑になっているのが分ります。鍼と桜の最短距離だけ光るのではなく、それぞれの花弁の先端から光が発せられています。これを見ると人の治療でも鍼をしたところ以外に変化が起きてもおかしくありません。 写真4は銀製の員鍼を近づけたものです。この時、鍼を少しだけ動かすと、 写真5のようになります。ほんの少しの鍼の移動で場の状態が大きく変わります。また興味深いことに桜と鍼が直線ではなく、曲線でつながっています。人体でも鍼は経穴にまっすぐに向けなくてもよいと推測されます。
あらゆる随意運動は脳内のかすかな電光―その電光はどこから生まれるのかは分りませんが―から生まれ、さらに現在では精神の発現すら脳の電気が引き起こすものと考えられています。このように生物にとってはたとえわずかでも電気的状態を軽視することはできませんが、現在のところ臨床試験ではそれを無視しています。しかしながら日本には良導絡治療があります。これは皮膚の電気抵抗を測定することで治療点を決める合理的な方法です。皮膚の電気抵抗値が異なれば、治療家と鍼とで作られる場も変わり、それらの相互作用も変化します。効率のよい場を選択すれば小さなエネルギーで大きな変化が期待できます。
また、鍼を経穴から外して刺入するものをプラセボとすることにも問題があります。医学は神から授かったドグマではなく経験の積み重ねにより生まれたものであると、古代中国の文献にも書いてあるように、経穴の場所というものも臨床経験の集積であると考えられます。古代のある人がある経穴に鍼することで治癒したあと、その場所を文字情報として抽象化し、その抽象化された情報を別の人に当てはめて治療した時に同じように治癒するとはかぎりません。もしよくなったのなら、それは運がよかったのです。臨床試験において使う文献上正しい抽象的な経穴とそこから少し外した場所と、どちらが具体的に正しい経穴か明らかではありません。しかしそれらの両方に効果が認められると、鍼はプラセボに過ぎないと評価されます。このように鍼を経穴から外すプラセボは、抽象を具体とおき違える錯誤をしていますし、教条主義(原理主義)にも陥っているのです。
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プラセボ対照二重盲検試験に対する2つめの異議は、評価する対象を誤まっていることです。本来、鍼灸治療―また多くの伝統的医療―は医術という人間の技術(techne)なのですが、現在世界中で評価しようと試みているものは、経絡や経穴などが含まれる理論です。
ヒポクラテスは『医師の心得』の中で、理論とは人の感覚によって捉えられた内容の総合的記憶であり、医療は理論をたよりに行うものではなく、実地に理論を配しながら行うものでなければならないと言っています。また『技術について』に記されているように、医療とは技術であり、それを発揮できるか否かは医師の個人的な能力です。中国の医学書『難経』には、上手な医師は患者の9割を治すことができ、普通の医師は8割を治し、下手な医師は6割を治すと記されています。たとえばショパンのピアノコンチェルトが人に感動をあたえるか否かを評価しようと演奏者と聴衆を無作為にグループ分けし、プラセボ対照二重盲検試験を試みることは誰もがおかしいと感じるはずです。演奏家の技術力や精神性などに大きく左右されるからです。しかし医療の世界ではそれが当然のように行われているのが現状です。最近では治療家の熟練度を考慮した臨床試験がデザインされていますが、あくまで評価するのは理論のようです。ちなみにこのとき熟練度はどのように測定するのでしょうか。臨床経験年数やペーパーテストは当てにはならないので、治療家の治癒率に従うのがよさそうですが、これには治癒したものはプラセボ効果ではないのかという批判があがりそうです。治療家の評判や治療費の高さなどは治癒率に大きな影響をあたえるからです。しかし以下のように考えれば問題がなくなります。技術は有機的な存在である人間の能力であり、またプラセボ効果も人間の有機的な現象であるので、機械論的には評価できないと。プラセボも含めて治療技術の評価をすると話が簡単になります。
効果がプラセボか否かこだわる時には、実験することも可能です。たとえば治療家の評判を下げるなど、非物質的条件を変えることで治癒率が下がるのであれば、その条件の働きをプラセボ効果と称することができます。しかし治療家が一生をかけて技術の向上に努力している時に、プラセボ効果を分類するために、わざわざ治癒する人たちを減らす必要はありませんし、またそれは医の倫理に反することです。
もちろん薬や治療道具などの物質を評価するにはプラセボ対照二重盲検試験はすぐれている方法であり、それを否定することはできません。しかしそれを鍼灸治療の評価に用いることは無理があると世界の研究者たちが気づき、日本の繊細な鍼灸治療、また世界の鍼灸治療を行う人々に正当な評価をあたえることを願っています。
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今回お見せした桜の写真は鍼がアースとして地面に接続されているので、これは桜と大地の電気回路としてとらえることができます。臨床では鍼を介して患者と治療家が一種の電気回路を作ります。また、冬にドアノブを触る時に静電気で痛みを感じることがありますが、敏感な治療家の中には患者に触れずに場の状態を感覚できる人がいます。そのような治療家の中には治療にあたる(すぐに疲れたり気分が悪くなったりする)人がいます。もしこの現象が非言語的暗示から生じているのではなく、電気と関係があるのなら、回復には放電がよい方法です。流水で手を洗ったり裸足で大地に立ったりすると放電することができます。
すべての病は電気的現象であり、鍼は単なるアースであるなどと言うつもりはありません。ただ、患者と治療家は精神的、物理的にだけでなく、電気的にも相互に作用しており、鍼はそこに介在しているのです。