はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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003-本居宣長と江戸時代の医学―儒医1/2―

2013-07-25 20:16:52 | 本居宣長と江戸時代の医学

 徳川家康が覇権を握りつつあった時代になると儒医が誕生し、江戸時代に入るとそれは爆発的に増加して医師と肩を並べるほどになり、そして明治時代には消え去りました。では儒医の誕生はなぜその時代だったのでしょうか。

 

 それは豊臣秀吉が文禄・慶長の役を起こしたからです。なぜ朝鮮侵略戦争が起きたら儒医が増えたのか。それは簡単に言えばこんな訳です。

 

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 秀吉軍がそれらの戦争で李氏朝鮮に勝利すると、戦利品や捕虜と共に儒学書も日本に入ってきたのです。そこに登場するのが藤原惺窩であり、彼は藤原定家の家系、冷泉家の血筋でしたが長男ではなかったために仏門に入り、五山の儒仏兼修の学を受け継いでいました。しかし朝鮮の捕虜から多くの儒学書を得るとそれらを独学で学び、朱子学を禅を理解させたり神主仏従の教理を強化するためなど別の学問や宗教に利用される今までの立場から脱却させました。慶長五年に家康は石田光成と関が原において対決しましたが、同じ年に惺窩は家康の招きによりその側近の五山の学僧と対決し、それに勝利することで朱子学も覇権を手にしたのです。しかし惺窩は家康に仕官することを断り、その代りに林羅山を推挙し、後に儒学が幕府の官学になるに至りました。

 

 惺窩が現れた頃にはすでに朱子学に基づいた医学、いわゆる金元医学とも後世方医学とも呼ばれるものが輸入されており、曲直瀬道三により啓廸院において医学教育が行われていました。ちなみに道三は儒学者ではなく、どちらかといえば臨済宗の僧でしたが、儒学の知識は十二分にあったことでしょう。

 

 そもそも後世方医学というものは朱子学に基づいて進化発展したもので、通常なら朱子学が先に普及してもおかしくありませんでした。様々な民族にとって、先にある思想を導入し、その後それを応用した技術や学問を取り入れるのがよくあることですが、日本ではその導入や普及が逆転しているところが興味深く、これも哲学思想よりも現実的実利を重視する日本人の特徴が表れているのかもしれません。もっとも朱子学が普及したのも幕府の官学になったからであり、また後に触れることになりますが、普及したと言っても、日本人は朱子学を自分たちの受け入れ易いように作り変えたり、また都合の良い所だけを受け入れたのです。

 

 そうして日本において(朱子学の)儒者と(後世方医学の)医師が出そろい、儒医が誕生する下地ができました。もともと朱子学を学ぶものにとって医学は切っても切り離せないものでありましたが、そのことを惺窩はこう言いました。

 

「古を稽えるとは、嘉言(戒めとなる言葉)によってその理を窮めることを学び、善行によってその事の実行を学ぶことである。思うに、言と行とは二つではない。言と行は一つと言うべきである。これを二つにするときは、それは古を稽えることではない」

 

 と言行一致すべきを主張し、続けてこう述べました。

 

「聖人が春秋を修めて、「我これを空言に載せんと欲するも、これを行事に見はすの深切著名なるに如かず」と言ったが、医を学ぶ道も、またそれと同じであろう。常法を学んでも、発用の術を知らなければ、則ち徒法*のみである。この行の善なるは、家にありて親に仕える事が始めであり、親に仕える事は病に侍することが最も重要である。故に程夫子(宋の大儒)が「親に事ふる者は医を知らざるへからず」と言ったのである。近世、世も降り、親に仕える道を知らない人が増えた。まさに父母を無くする国に成ろうとしている。すでに自分を治めることを知らないで、どうしてよく人を治め、よく物に及ぼすことができようか。たとえ終日よく言っても、それらは鸚鵡である。猩猩である*。ああ、止まん……」

 

  惺窩にとって、儒学を修める者は必ず親を養ひ、必ず人を救い、人のみならず鬼でも蛇でも馬でも万物を利することを実践すべきなのです。言葉だけでなく実行しなければならない。それも儒者にとって最も重要な「孝」から始めねばならず、それには医学を修養することが必要不可欠だったのです。ちなみに惺窩のこの言葉は吉田宗恂の『古今医案』序文にあり、彼は博物学にも精通して豊臣秀次に仕え、後陽成天皇の脈をとり、後に家康に仕えた名のある医師であり、惺窩の門人でもありました。彼の父は吉田宗桂という足利義晴の侍医であり、明国の皇帝世宗に拝謁しその病を治したとも伝えられています。羅山は宗恂について、「惺窩先生とその医術を共に語り合い、しばしば暦数・運気・病論・方剤のことに及び、宗恂の技術の進んたのはこれのお蔭である」と言っています。

 

 また惺窩門の中で特に医に精通していたのは羅山とともにその四天王の一人であった堀杏庵(正意)であり、惺窩や羅山は彼が方技に精しかったので彼のことを医正意と呼んでいました。彼の父は曲直瀬道三に師事し、彼自身は曲直瀬正純に師事しました。次回は杏庵についてですが、なぜかと言うと彼の曾孫が堀景山であり、宣長は彼に入門して儒学を学び、そして宣長に最も影響を与えた一人が景山だからです。

 

つづく

 

(ムガク)

 

*『孟子』離上:徒法は以て自ら行うを能はず。
*『礼記』曲礼上:鸚鵡は能く言して飛鳥を離れず。猩々は能く言して禽獣を離れず。

 

本居宣長と江戸時代の医学

002-本居宣長と江戸時代の医学―医師―

2013-07-24 16:29:53 | 本居宣長と江戸時代の医学

 私たちが宣長がどのような医師であったかを知ろうと欲する時によく行う方法の一つはその肩書きを調べることでしょう。例えば彼は小児科医であったとか、後世方派の医師であったなどとも言われていましたが、それは真実でしょうか。またそれで理解したことになるのでしょうか。その有効性考えるのは後回しにして、まず医師とはどのようなものか、どんな種類があるのか見てみましょう。

 

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 宣長が39歳であった頃、明和五年には『京羽二重大全』という京都のガイドブック、タウンページのようなものが出版されており、そこには当時よく知られた吉益周介(東洞)や賀川玄悦など様々な医師の名と所在地が連ねられてあります。それを読むと、医師には、医師、儒医、小児医師、産前産後医、目医師、口中医師、外科、針、経絡導引、灸医などがあり、この頃すでに医療の分業化、専門化が進んでいたことが分ります。

 

 この専門化には歴史があり、古代中国の名医扁鵲は晋の邯鄲では婦人科の医師、周の洛陽では老人科(耳目冷痺)の医師、秦の咸陽では小児科の医師へと、その土地の習俗にしたがって専門を替えました。これは患者の年齢や性別によるものでしたが、その後、目や口など疾患の部位、針や灸などの治療手段によるものも進みました。

 

Isi_2 そもそも日本においては医師の歴史は大化改新にまで遡ります。そこで律令国家を形成するための重要な大宝律令(後に養老律令に改定された)が成立しましたが、その片隅に医事制度を定めた医疾令があります。中務省には内薬司(正・佑・令史・侍医・薬生・使部・直丁)があり、宮内省には典薬寮(頭・助・允・大属・小属・医博士・医師・医生・針博士・針師・針生・按摩博士・按摩師・按摩生・咒禁博士・咒禁師・咒禁生・薬園師・薬園生・使部・直丁)がありました。現代の日本において医師(Doctor)のことを医師と呼ぶのはこれに由来し、また針師や灸師、按摩師も同様であり、それら以外の多くが時と共に自然消滅してしまいましたが、写真にあるように典薬頭などの肩書きはまだ江戸時代にはありました。

 

 ただし医師という言葉は『周礼』天官冢宰にあることから古代中国は周代にはすでに存在していました。その頃には医師、食医、疾医、瘍医、獣医があり、それらは官名であり職名であり、おのおの職分が異なりました。それぞれ、医師は医の政令を、また毒薬を聚めて医事に共するを掌り、また食医は王の食事や飲み物、味などの調和を、疾医は万民の疾病を養うを、瘍医は腫瘍や潰瘍、金瘍、折瘍の治療を、獣医は獣病、獣瘍の治療を掌っていたのです。

 

 そんな訳でここでの医師には四つの意味があるのでご注意を。また『京羽二重大全』に医師の並んで記載されている儒医は江戸期特有の医師であり、本目的のためにはまずこれを理解することが重要です。

 

つづく

 

(ムガク)

 

本居宣長と江戸時代の医学

001-本居宣長と江戸時代の医学

2013-07-17 18:09:23 | 本居宣長と江戸時代の医学
Norinaga

 前回まで貝原益軒の『養生訓』(総論上・下)の解説を連載してきましたが、これもまたその続きです。と言っても焦点は儒学者である益軒から国学者である本居宣長に移ります。


 益軒と宣長はどちらも医師でもありましたが、彼らの思想を見ていくと日本人特有の思考が見えてきます。特に宣長にはそれが顕著に表れており、それは決して宣長が特殊であったのではなく、彼は非常に一般的な日本人であったと言えるでしょう。近世日本において彼の業績は皇国史観や国粋主義、尊皇攘夷の思想の中心にあり続け、復古神道も宣長の存在なしにはあの時代に生じることは無かったでしょう。宣長は天竺や唐から入ってきた仏教や儒教の絶対性を排撃し、皇国の優位性を主張し続けました。しかし、それでも宣長は仏教徒であり、彼は浄土宗の信者の家に生まれ、若き時より甚だ仏を好み、人生を終える時は自らの葬儀を遺言してまで仏式で行ったのです。現代でも、生まれて神社へお宮参りし、教会で結婚式を挙げ、お寺で葬式をすることがよくありますが、このようなことに矛盾を感じることなく平然と行えるのは日本人の特徴の一つかもしれませんね。


 さて医師として生計を立てていた宣長はどのような治療を行っていたのでしょうか。また当時の医学についてどのように考えていたのでしょうか。江戸期の他の名の知れた医師たちが自ら医書を著し彼らの医術や思想を世間や後世に伝えようとしたのに対し、宣長は医書を著すことはなく、彼のそれは我々にとってよく知るものではありません。なぜ宣長は医書を著さなかったのか。それについてはこれから次第に明らかになるでしょうが、宣長の残した膨大な著作や資料から医師としての宣長を明らかにしていくことが可能です。その時、彼がどのような薬を使っていたとか医学書を読んでいたかというのは記録に残されていますがあまり重要でもなく、どのような思想で医療を行っていたかという所、それも日本人特有の思考方法が関係していた所が重要であり、それが現代そして未来の日本の医療を知ることにも繋がるのでしょう。


 それではこれから彼を批判することなく礼賛することもなく、医師としての宣長をありのまま見ていきましょう。きっとそこにはもののあはれを知る心が必要かもしれません。


つづく


(ムガク)

 

本居宣長と江戸時代の医学