徳川家康が覇権を握りつつあった時代になると儒医が誕生し、江戸時代に入るとそれは爆発的に増加して医師と肩を並べるほどになり、そして明治時代には消え去りました。では儒医の誕生はなぜその時代だったのでしょうか。
それは豊臣秀吉が文禄・慶長の役を起こしたからです。なぜ朝鮮侵略戦争が起きたら儒医が増えたのか。それは簡単に言えばこんな訳です。
秀吉軍がそれらの戦争で李氏朝鮮に勝利すると、戦利品や捕虜と共に儒学書も日本に入ってきたのです。そこに登場するのが藤原惺窩であり、彼は藤原定家の家系、冷泉家の血筋でしたが長男ではなかったために仏門に入り、五山の儒仏兼修の学を受け継いでいました。しかし朝鮮の捕虜から多くの儒学書を得るとそれらを独学で学び、朱子学を禅を理解させたり神主仏従の教理を強化するためなど別の学問や宗教に利用される今までの立場から脱却させました。慶長五年に家康は石田光成と関が原において対決しましたが、同じ年に惺窩は家康の招きによりその側近の五山の学僧と対決し、それに勝利することで朱子学も覇権を手にしたのです。しかし惺窩は家康に仕官することを断り、その代りに林羅山を推挙し、後に儒学が幕府の官学になるに至りました。
惺窩が現れた頃にはすでに朱子学に基づいた医学、いわゆる金元医学とも後世方医学とも呼ばれるものが輸入されており、曲直瀬道三により啓廸院において医学教育が行われていました。ちなみに道三は儒学者ではなく、どちらかといえば臨済宗の僧でしたが、儒学の知識は十二分にあったことでしょう。
そもそも後世方医学というものは朱子学に基づいて進化発展したもので、通常なら朱子学が先に普及してもおかしくありませんでした。様々な民族にとって、先にある思想を導入し、その後それを応用した技術や学問を取り入れるのがよくあることですが、日本ではその導入や普及が逆転しているところが興味深く、これも哲学思想よりも現実的実利を重視する日本人の特徴が表れているのかもしれません。もっとも朱子学が普及したのも幕府の官学になったからであり、また後に触れることになりますが、普及したと言っても、日本人は朱子学を自分たちの受け入れ易いように作り変えたり、また都合の良い所だけを受け入れたのです。
そうして日本において(朱子学の)儒者と(後世方医学の)医師が出そろい、儒医が誕生する下地ができました。もともと朱子学を学ぶものにとって医学は切っても切り離せないものでありましたが、そのことを惺窩はこう言いました。
「古を稽えるとは、嘉言(戒めとなる言葉)によってその理を窮めることを学び、善行によってその事の実行を学ぶことである。思うに、言と行とは二つではない。言と行は一つと言うべきである。これを二つにするときは、それは古を稽えることではない」
と言行一致すべきを主張し、続けてこう述べました。
「聖人が春秋を修めて、「我これを空言に載せんと欲するも、これを行事に見はすの深切著名なるに如かず」と言ったが、医を学ぶ道も、またそれと同じであろう。常法を学んでも、発用の術を知らなければ、則ち徒法*のみである。この行の善なるは、家にありて親に仕える事が始めであり、親に仕える事は病に侍することが最も重要である。故に程夫子(宋の大儒)が「親に事ふる者は医を知らざるへからず」と言ったのである。近世、世も降り、親に仕える道を知らない人が増えた。まさに父母を無くする国に成ろうとしている。すでに自分を治めることを知らないで、どうしてよく人を治め、よく物に及ぼすことができようか。たとえ終日よく言っても、それらは鸚鵡である。猩猩である*。ああ、止まん……」
惺窩にとって、儒学を修める者は必ず親を養ひ、必ず人を救い、人のみならず鬼でも蛇でも馬でも万物を利することを実践すべきなのです。言葉だけでなく実行しなければならない。それも儒者にとって最も重要な「孝」から始めねばならず、それには医学を修養することが必要不可欠だったのです。ちなみに惺窩のこの言葉は吉田宗恂の『古今医案』序文にあり、彼は博物学にも精通して豊臣秀次に仕え、後陽成天皇の脈をとり、後に家康に仕えた名のある医師であり、惺窩の門人でもありました。彼の父は吉田宗桂という足利義晴の侍医であり、明国の皇帝世宗に拝謁しその病を治したとも伝えられています。羅山は宗恂について、「惺窩先生とその医術を共に語り合い、しばしば暦数・運気・病論・方剤のことに及び、宗恂の技術の進んたのはこれのお蔭である」と言っています。
また惺窩門の中で特に医に精通していたのは羅山とともにその四天王の一人であった堀杏庵(正意)であり、惺窩や羅山は彼が方技に精しかったので彼のことを医正意と呼んでいました。彼の父は曲直瀬道三に師事し、彼自身は曲直瀬正純に師事しました。次回は杏庵についてですが、なぜかと言うと彼の曾孫が堀景山であり、宣長は彼に入門して儒学を学び、そして宣長に最も影響を与えた一人が景山だからです。
つづく
(ムガク)
*『孟子』離上:徒法は以て自ら行うを能はず。
*『礼記』曲礼上:鸚鵡は能く言して飛鳥を離れず。猩々は能く言して禽獣を離れず。
本居宣長と江戸時代の医学