はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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花鍼 ―ランダム化プラセボ対照二重盲検試験に対する異議と電磁場鍼灸学のススメ―

2011-12-31 12:19:29 | 気・五行のはなし

 この記事は2010年3月にサイモン・シンの『代替医療のトリック』の補足として書かれたものです。著者は、とある鍼灸大好きな科学思想家、Claude Magie氏です。


Claude Magie


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 今日では鍼灸治療は世界中に広まり、またその効果を評価するための臨床試験が進行中です。そして時には鍼灸治療は効果がないとか、あってもプラセボ効果に過ぎないなどと評価されています。現在最も信頼できる臨床試験の方法はランダム化プラセボ対照二重盲検試験であるとみなされ、鍼灸治療の評価でもこれを用いています。これは被験者を、経穴に鍼を深く刺入する群(真の鍼)とプラセボ―鍼を浅く刺入する、または接触するだけ、あるいは経穴から外して刺入する―の鍼をする群(対照)にランダムに振り分けて治療し、被験者がどちらの群に属しているか知ることなく評価するというものです。公平な評価をすることで名高いコクラン共同計画でもこの方法を採用していますが、今回はあえて2つの点においてこのランダム化プラセボ対照二重盲検試験に対して異議を主張します。


 ○


 まず1つめは、プラセボが真のプラセボになっていないということです。プラセボは人体にまったく影響をあたえないものでなければいけません。しかし日本の鍼灸治療にはいろいろ流派がありますが、鍼を非常に浅く刺入する治療や、また刺入せずに接触させるだけの、さらに接触させずに鍼を近づけるだけの治療もあります。私も日本の鍼灸治療をいくつか受けてみましたが、痛いところに鍼を向けられて空中で上下に動かすだけで、患部の奇妙な感覚とともに痛みがなくなったという経験があります。このような現象はランダム化プラセボ対照二重盲検試験ではプラセボ効果と呼ばれます。なぜなら研究者の間では鍼は深く刺さないと効かないという思い込みが存在するからであり、そうでないものはプラセボだからです。しかし鍼を接触させずに近づけるだけで、響きと呼ばれる違和感や痛みを感じたり病気による症状が治まることは実際に存在し、この現象をプラセボ効果という言葉でかたづけずに、そのメカニズムを見つける努力をするのが科学的な態度です。
 さて鍼を皮膚に近づけた時には何が起こっているのでしょうか。鍼と皮膚の間の状態を目に見ることができれば簡単です。18世紀にイタリアのガルヴァーニが生物が電気を発生することを明らかにしましたが、すべての電気を持つものの周囲には電磁場(Electromagnetic Field)が存在します。ゆえに、その電磁場に電気を流し、電気エネルギーを光エネルギーに変換すれば、それを間接的に目で見ることができます。鍼と皮膚の間には窒素や酸素、二酸化炭素などの分子が飛び回っています。これらの分子は原子から成り立っていますが、原子の直径は約1Å(オングストローム)であり、原子核の直径はそれの約1/100000Å、電子は原子にある軌道上に存在し、その質量は陽子の約1/1800です。外部から電子をぶつけて、原子中の電子をエネルギー状態がE1の軌道からE2の軌道に遷移させると、電子がもとの軌道に戻るときに、E2-E1のエネルギーが光として放射されます。なお、このエネルギーは電子の質量、速度、軌道の半径、円周率、プランク定数に依存します。このようにして場を見ることができますが、電子と電子をぶつけるには、気体はあまりにも密度が低く、また原子中の電子密度も低いので、高い電気エネルギーが必要です。この実験を人ですると火傷をする危険があるので、今回は桜(ソメイヨシノ)の花をモデルとして使いました。 
 Photo_1 写真1を見てください。電圧を印加した桜にステンレス製の鍼を近づけた時のものです。鍼の先端と桜の花弁が光り始めています。鍼をもう少しだけ近づけるとPhoto_2 写真2のようになります。桜と鍼が薄っすらとしたもやでつながり、その中心に一本の糸のような電気の流れが観察できます。なおこの時の光は鍼と桜という電極間の距離だけでなく、それらの形態や電気抵抗の値、印加する電圧や電流、周波数やデューティー比などにも依存します。
 Photo_3 写真3を見ると、場が少し複雑になっているのが分ります。鍼と桜の最短距離だけ光るのではなく、それぞれの花弁の先端から光が発せられています。これを見ると人の治療でも鍼をしたところ以外に変化が起きてもおかしくありません。Photo_4 写真4は銀製の員鍼を近づけたものです。この時、鍼を少しだけ動かすと、Photo_5 写真5のようになります。ほんの少しの鍼の移動で場の状態が大きく変わります。また興味深いことに桜と鍼が直線ではなく、曲線でつながっています。人体でも鍼は経穴にまっすぐに向けなくてもよいと推測されます。
 あらゆる随意運動は脳内のかすかな電光―その電光はどこから生まれるのかは分りませんが―から生まれ、さらに現在では精神の発現すら脳の電気が引き起こすものと考えられています。このように生物にとってはたとえわずかでも電気的状態を軽視することはできませんが、現在のところ臨床試験ではそれを無視しています。しかしながら日本には良導絡治療があります。これは皮膚の電気抵抗を測定することで治療点を決める合理的な方法です。皮膚の電気抵抗値が異なれば、治療家と鍼とで作られる場も変わり、それらの相互作用も変化します。効率のよい場を選択すれば小さなエネルギーで大きな変化が期待できます。
 また、鍼を経穴から外して刺入するものをプラセボとすることにも問題があります。医学は神から授かったドグマではなく経験の積み重ねにより生まれたものであると、古代中国の文献にも書いてあるように、経穴の場所というものも臨床経験の集積であると考えられます。古代のある人がある経穴に鍼することで治癒したあと、その場所を文字情報として抽象化し、その抽象化された情報を別の人に当てはめて治療した時に同じように治癒するとはかぎりません。もしよくなったのなら、それは運がよかったのです。臨床試験において使う文献上正しい抽象的な経穴とそこから少し外した場所と、どちらが具体的に正しい経穴か明らかではありません。しかしそれらの両方に効果が認められると、鍼はプラセボに過ぎないと評価されます。このように鍼を経穴から外すプラセボは、抽象を具体とおき違える錯誤をしていますし、教条主義(原理主義)にも陥っているのです。


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 プラセボ対照二重盲検試験に対する2つめの異議は、評価する対象を誤まっていることです。本来、鍼灸治療―また多くの伝統的医療―は医術という人間の技術(techne)なのですが、現在世界中で評価しようと試みているものは、経絡や経穴などが含まれる理論です。
 ヒポクラテスは『医師の心得』の中で、理論とは人の感覚によって捉えられた内容の総合的記憶であり、医療は理論をたよりに行うものではなく、実地に理論を配しながら行うものでなければならないと言っています。また『技術について』に記されているように、医療とは技術であり、それを発揮できるか否かは医師の個人的な能力です。中国の医学書『難経』には、上手な医師は患者の9割を治すことができ、普通の医師は8割を治し、下手な医師は6割を治すと記されています。たとえばショパンのピアノコンチェルトが人に感動をあたえるか否かを評価しようと演奏者と聴衆を無作為にグループ分けし、プラセボ対照二重盲検試験を試みることは誰もがおかしいと感じるはずです。演奏家の技術力や精神性などに大きく左右されるからです。しかし医療の世界ではそれが当然のように行われているのが現状です。最近では治療家の熟練度を考慮した臨床試験がデザインされていますが、あくまで評価するのは理論のようです。ちなみにこのとき熟練度はどのように測定するのでしょうか。臨床経験年数やペーパーテストは当てにはならないので、治療家の治癒率に従うのがよさそうですが、これには治癒したものはプラセボ効果ではないのかという批判があがりそうです。治療家の評判や治療費の高さなどは治癒率に大きな影響をあたえるからです。しかし以下のように考えれば問題がなくなります。技術は有機的な存在である人間の能力であり、またプラセボ効果も人間の有機的な現象であるので、機械論的には評価できないと。プラセボも含めて治療技術の評価をすると話が簡単になります。
 効果がプラセボか否かこだわる時には、実験することも可能です。たとえば治療家の評判を下げるなど、非物質的条件を変えることで治癒率が下がるのであれば、その条件の働きをプラセボ効果と称することができます。しかし治療家が一生をかけて技術の向上に努力している時に、プラセボ効果を分類するために、わざわざ治癒する人たちを減らす必要はありませんし、またそれは医の倫理に反することです。
 もちろん薬や治療道具などの物質を評価するにはプラセボ対照二重盲検試験はすぐれている方法であり、それを否定することはできません。しかしそれを鍼灸治療の評価に用いることは無理があると世界の研究者たちが気づき、日本の繊細な鍼灸治療、また世界の鍼灸治療を行う人々に正当な評価をあたえることを願っています。


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 今回お見せした桜の写真は鍼がアースとして地面に接続されているので、これは桜と大地の電気回路としてとらえることができます。臨床では鍼を介して患者と治療家が一種の電気回路を作ります。また、冬にドアノブを触る時に静電気で痛みを感じることがありますが、敏感な治療家の中には患者に触れずに場の状態を感覚できる人がいます。そのような治療家の中には治療にあたる(すぐに疲れたり気分が悪くなったりする)人がいます。もしこの現象が非言語的暗示から生じているのではなく、電気と関係があるのなら、回復には放電がよい方法です。流水で手を洗ったり裸足で大地に立ったりすると放電することができます。
 すべての病は電気的現象であり、鍼は単なるアースであるなどと言うつもりはありません。ただ、患者と治療家は精神的、物理的にだけでなく、電気的にも相互に作用しており、鍼はそこに介在しているのです。



不思議の医学のアリス Alice's medicine in Wonderland

2011-12-21 16:04:41 | 医学のはなし

この記事は 2010年のCogito (創刊号・11月号)に掲載されたものです。作者の許可を得て転載しました。


不思議の医学のアリス 
Alice's medicine in Wonderland


○ トラの穴に落ちて Down the Tigger-Hole


Alice1_3  ウサギの穴に落ちてしまい不思議の国を冒険することになってしまったアリスちゃん。苦労の末、なんとかお姉さんがいる世界へ戻って来ることができました。しかしそれもつかの間。今回は医学のトラの穴に落ちてしまいましたから、さあたいへん。今回は、そこの医学をきわめて、白衣の女王様になるのが目的です。そこってどこかって?。どうも現代の日本のようですね。東京中を歩き回り、やっとメイド喫茶で見つけた医学の先生の名はテロス(*telos)。かわいい女の子が大好きなのでやさしく教えてくれます。


○ 微生物のプール The Pool of Bacteria


テロス  やあ、アリスちゃん。今日はどんなことを知りたいのかな?
アリス  うーん、そうね。わたしがいたところではね、最近コッホというお医者さんが、目に見えない小さな生き物がコレラとか結核とか炭疽とか、いろんな病気をつくっているって言い始めていたけど…。あれって本当?
テロス  そうか、アリスちゃんは19世紀のイギリスから来たんだったね。それはドイツの細菌学者のコッホが言ったことだね。本当だよ。よし、じゃあ今日はその辺のお話をしようか。
アリス  うん。
テロス  昔からね、ある一人の人が病気になると、たちまち家族や町中に同じ病気になる人が増えることがあったんだ。これを疫病と言うんだ。今まで元気だった人がどんどん病気になって死んでいく。昔の人はなんでだろうって考えたんだ。アリスちゃんのおじいちゃんに、なんで疫病にかかるのかって訊くと、どう答えると思う?
アリス  そうね、きっとおじいちゃんなら瘴気が原因だっていうわ。
テロス  そう、昔はね、目に見えずに宙をただよい病を引き起こす力、それに瘴気とか邪気とか疫癘などという名前をつけていたんだ。それが変化し始めるきっかけとなったのが、レーウェンフックというオランダの生物学者がいたんだけど、その人による微生物の発見なんだ。
アリス  へー、なんで発見したの?
テロス  うん、彼は顕微鏡を自作していろんな物を観察するのが趣味だったんだ。1674年のことだけど、池の水を観察していた時に小さな生物が動いているのを発見したんだ。またその頃は、小さな生き物は土や植物から自然に発生すると考えられていたんだけど、彼は小さな虫も卵から生まれるし、微生物にも生死があることを発見したんだ。
アリス ふーん、じゃあ微生物っていうのはなにから生まれるの?
テロス  いい質問だ。小さな虫は卵から生まれると分かったんだけど、微生物は顕微鏡を使ってもなかなかその誕生の瞬間を見ることが出来なかった。だからそれから200年近くは微生物に関しては、今まで通りの自然発生説が主流だったんだ。
アリス  だったということは、今は違うのね。
テロス  そう、それまでいろんな人がさまざまな実験をしてきたけれど、1861年、フランスのパスツールの実験が決定的だったね。白鳥の首のようなフラスコを作ってその中に肉汁を入れる。それをぐつぐつと煮るんだ。普通のフラスコだと肉汁が腐敗してしまうのだけれど、それだと腐敗しないことが分かった。なぜだろうか。それはね、熱により肉汁中の微生物は全部死ぬ。もし空気は入ってきても微生物が入ってこられないと、肉汁に微生物は発生しない。普通のフラスコで微生物が自然に発生したように見えたのは、外から知らないうちに入ってきたからなんだ。微生物はそれと同じ微生物が直接生み出すんだ。
アリス  へー、面白いわね。
テロス  また彼は炭疽や狂犬病のワクチンを開発し、予防接種することで多くの人々の命を救ったんだ。
アリス  ワクチンって、ジェンナーが天然痘のワクチンを発見したって聞いたことがあるわ。
テロス  そう、そのワクチンだよ。16世紀の中国には、天然痘のワクチンが何種類かあったんだけれど(衣苗法・漿苗法・乾苗法・水苗法)、感染する危険があったんだ。ジェンナーは牛を使うことでより安全にすることに成功した。まあそれは置いといて、そのパスツールのライバルだったのがコッホと言うわけだ。
アリス  そして病気がそういう微生物が引き起こしているって言っているわけね。でもなんでそう言えるわけ?病気と微生物は関係ないかもしれないじゃない。たまたま病気の時にそこにいただけかも知れないじゃない。
テロス  いいね。アリスちゃん。その通りだ。ある微生物が病気の要因だと断言するにはちゃんと調べる必要がある。コッホにはヘンレという、まあ師匠がいたわけなんだけれども、彼は、ある微生物がある病気の要因であることを証明するためには三つの条件を満たす必要がある、と考えたんだ。それはね、
(1)、ある特定の病気にはある特定の微生物が発見されること
(2)、その微生物を分離できること
(3)、分離した微生物をある動物に感染させると、同じ病気を引き起こせる
というものなんだ。コッホはそれに加えて、
(4)、その動物の病巣部から同じ微生物を分離できること
という条件を付け加えているね。それら全ての条件を満たした微生物が、ある病気の要因とされるんだ。
アリス  うーん、それならなんだか、反対できないわね。
テロス  それからというものコッホが発見したものに続いて、破傷風菌や腸チフス菌、ジフテリア菌、ウシ口蹄疫ウイルス、ペスト菌、赤痢菌、黄熱ウイルスなどなど、たくさんの病原微生物が発見されてきたんだ。
アリス  へー、たくさんあるのね、でもそれでどうするの?病気の人を治すことはできるの?


○ サバイバル・レースと長いお話 “A Survival-Race and a Long Tale


テロス  それが出来るんだ。アリスちゃんと同じ時代、ウィーンにゼンメルワイスというお医者さんがいた。彼は、医師が分娩をするケースを助産婦が分娩をするケースとを比べると、産褥熱を発生する率が10倍も高いことに気がついた。そして医師の手には産褥熱を引き起こす何かが付着しているのではないか、と考えてカルキで手を消毒する方法を考えたんだ。すると産褥熱で死亡する人が激減した。
アリス  すごーい。それから出産が安全になったのね。
テロス  ところがそうでもない。当時、医師たちは自分の手が病気や死を引き起こしていることを受け入れられなかった。ゼンメルワイスは病院や大学を追い出され、精神病院に入院し、そこで亡くなった。
アリス  かわいそうー。
テロス  しかし彼の思想はイギリスのリスターというお医者さんに受け継がれた。当時は手術をした後、患部が化膿するのは治癒反応であると考えられていたんだが、リスターはそれに疑問を持った。彼はパスツールやコッホ、ゼンメルワイスの発見から、手術後に傷が化膿するのは微生物によるものである、と考えた。そして手術道具や術野、医師の手指を石炭酸、今で言うフェノールで消毒することを思いついた。すると化膿することが減り、早く治癒することになった。
アリス  ふーん。消毒って大事なのね。じゃあ、クリミア戦争のとき、ナイチンゲールが病院の中をきれいにして、いままでたくさん死んでいた兵隊さんが死ななくなったのは、微生物がいなくなったせいなの?
テロス  そうだね。今となっては確認しようがないけど、感染が主な要因だったと思うよ。ナイチンゲールは統計学を使って、病院の衛生状態と、死亡率に深い関係があることを明らかにしたんだったね。
アリス  そうよ、ナイチンゲールはわたしの国の誇りよ。でも彼女はそれだけで満足したわけではないわ。だってどんなに病院がきれいでも、破傷風とかで死んでいく人がいるんだもの。
テロス  そうだね。病原菌が発見されていっても、それをどうにかできないと意味ないよね。当時の人々もなんとかしたいと考え、努力した。そんな中で1890年に、北里柴三郎とベーリングが血清療法をあみ出したんだ。
アリス  えっ、血清?血の?
テロス  そう、破傷風やジフテリアなどの感染症は、人間の体の中でそれらの微生物が毒素を作ることが問題なんだ。この毒が人を死に至らしめる。ということは、それを無毒化できれば問題ない。
アリス  そんなこと、どうやってできるの?
テロス  これがまた、たいへんなんだけど、まず毒素を分離するんだ。分離、精製を繰り返し、それを動物で実験し、特定していく。で、分離できたら、それの毒性を弱くしたりなくしたりして、馬などの動物に注射する。するとだね、動物は毒で死ぬことなく、その毒素を無害にするためのもの、抗体を作るんだ。この抗体は血液の血漿に多く含まれているので、動物から血をもらって血漿から余計なものを、できるだけ除いて血清を作るんだ。感染で死の危険にある場合でも、この血清を注射すると、体内で抗体が毒素を無毒化してくれるので、死亡率がだいぶ減るんだ。
アリス  ふーん。すごいのね。でも動物の血を人間に注射しても平気なの?
テロス  そうだね。精製しても抗体が含まれているほどだから、たくさんの異物が身体に入るわけだからね。副作用がないわけではない。ひどいときはアナフィラキシー・ショックを起こしてしまう。でも命には換えられない。
アリス  そうね。死んじゃうよりはましだものね。でも死にそうな時以外には使いたくないわね。
テロス  まあ、現在では分子生物学や遺伝子工学が進歩したから、動物を使わない血清もあるけどね。まあそれは置いといて、とりあえず毒素に対する抗体が作られる感染症は治療可能となった。しばらくすると血清療法とは別に化学療法というのも誕生したんだ。
アリス  化学?なに、それ?


*


テロス  うん、ところで、小さな微生物は顕微鏡の倍率がいくら高くても、それだけではよく見えない。なんでかな。
アリス  えーとね、なんでだろう?
テロス  それはね、それらは小さくて薄くて、透明だからだよ。だからよく観察するには染色する必要がある。ドイツで微生物や化学を研究していたエールリヒも微生物の観察では化学色素で染色をしていたんだが、ある時その色素に菌を殺す作用があることを発見したんだ。そして化学色素を感染症の治療に使えるように努力し、1904年には志賀潔とともにトリパンロート(眠り病の要因、トリパノゾーマに作用する)を、1910年には秦佐八郎とともにサルバルサン(梅毒の要因、トリポネーマに作用する)を開発したんだ。
アリス  悪い微生物はみんなやっつけちゃえばいいのね。
テロス  当時、梅毒は世界中で猛威を振るっていたので、このサルバルサンは30年にわたり特効薬として使われてきたけれど、なにぶん、これにはヒ素が含まれているので、結構毒性が高いんだ。命が助かった人も多かったが、副作用で苦しんだ人も多かった。
アリス  そうなんだ。じゃあ副作用の少ない薬を作ればいいんじゃない。
テロス  そう、だれもがそう考えた。1930年代になるとサルファー剤と呼ばれる抗菌薬、これも化学色素が由来なんだけれど、これが何種類も立て続けに開発されることになったんだ。しかも副作用を減らすことに成功した。
アリス  やったわね。
テロス  まだある。これが革命的な出来事なんだが、1941年にイギリスのフローレイとチェインがペニシリンの実用化に成功したんだ。
Penicillin アリス  ペニシリンってなに?
テロス  ああ、すまない。これは1928年にイギリスのフレミングが発見したものなんだが、青かびが他の微生物の繁殖を抑えるために分泌する物質のことなんだ。抗生物質と呼ばれているものの代表だ。
アリス  それがそんなに革命的なの?
テロス  ああ、まずその効果だ。当時は太平洋戦争中で戦場で傷ついた多くの兵士が、敗血症や肺炎、ガス壊疽など感染症に苦しんでいた。サルファ剤でも回復の見込みのない兵士たちにペニシリンが使われたんだが、心臓内膜炎などの患者を除き、ほとんどの兵士が劇的に全快した。また淋病や梅毒にも効果があると明らかになった。
アリス  すごいわね。
テロス  ペニシリンは当初は非常に高価なものだったが、大量生産できるようになると、あっという間にサルバルサンやサルファ剤に取って代わったんだ。副作用も圧倒的に少なく、サルバルサンと比べると、ほとんどないと言ってもいい。ペニシリンショックというアレルギーがあるが、これは数万回に1回あるかないかというものなんだ。
アリス  これで感染症が怖くなくなったのね。
テロス  いやいや、これは始まりに過ぎない。細菌は染色のされ方でグラム陽性菌とグラム陰性菌に大きく分けられるのだけど、ペニシリンは黄色ブドウ球菌などのグラム陽性菌にはよく効くんだ。だけどグラム陰性菌には全く効かない。このグラム陰性菌には緑膿菌、肺炎桿菌、インフルエンザ菌、赤痢菌など結構、重篤になる感染症を引き起こすものが多い。
アリス  そうなんだ。でも、それに効くのも作れるんでしょ?
テロス  その通り。ペニシリンが実用化されてから約20年の間に現在も使われているほとんどのタイプの抗生物質が次々に誕生した。ペニシリンに代表されるβ-ラクタム系抗生物質、これはペニシリン系、セフェム系、モノバクタム系、カルバペネム系、ペネム系などに大別される、またアミノグリコシド系抗生物質、クロラムフェニコールやテトラサイクリン系抗生物質、リンコマイシン系やポリエンマクロライド系や抗真菌性抗生物質、ポリペプチド系、グリコペプチド系、ホスホマイシン系、などなど。そうそうキノロン系やニューキノロン系っていうのもあるね。これら、なにとか系という名前は炭素原子からなる分子の骨格で分類されているんだけど、それぞれ作用する微生物や効果が異なる。同じものももちろんあるけどね。こうしてほとんどの病原微生物に対処できるようになった。
アリス  質問するとむずかしそうだからやめておくわ。でもたくさんの抗生物質ができたのは分かったわ。これでやっと感染症の問題がなくなったのね。
テロス  そう、1960年から70年代の人々も感染症は克服されたと思いつつあった。
アリス  あった?違うの?みんな殺せるようになったんでしょ?


*


テロス  うん、問題は微生物を殺そうとした時にすでに始まっていたんだ。抗生物質を使っているとそれが効かない微生物が誕生してきた。それを耐性菌と呼んでいるんだ。ペニシリンも当初は黄色ブドウ球菌に非常によく効いていたんだけど、効かないものも現われてきた。1959年にはペニシリン耐性の黄色ブドウ球菌や肺炎球菌を治療するためにメシチリンが導入された。だけど2年後にはメチシリン耐性の黄色ブドウ球菌(MRSA)が確認され、1980年代には世界中に広がった。このMRSAの厄介な点はメシチリンだけでなく全てのβ-ラクタム系抗生物質が効かない、というものなんだ。これを「交叉耐性」って言うんだけど。
アリス  困ったわね。
テロス  その後、MRSAの治療にバンコマイシン、これはかつて最強の抗生物質とも呼ばれたこともあったけれど、これを導入した。でも2002年にはバンコマイシンにも耐性がある黄色ブドウ球菌(VRSA)が現われたんだ。これらだけでなく、他のあらゆる抗生物質で耐性菌が出現している。
アリス  どうしてそんな耐性菌があらわれたの?せっかく抗生物質ができたのに?
テロス  ね、アリスちゃん、ダーウィンについて知っているかな?
アリス  ばかにしないで。わたしの国の人はみんな彼のことを知っているわ。犬とか鳩とか、生き物って進化するって言ったんでしょ。
テロス  そう。それでねアリスちゃん、たとえば、家から友達のお茶会に行くのにいろんな行き方があったとしよう。いつもはAの道を通っていくのだけど、ある日そこに熊が出たとしたらどうする?
アリス  Aが通れないのね。違う道、Bを通って行く。
テロス  もしBの道にオオカミが出たらどう?
アリス  Cにすればいいじゃない。
テロス  そう、結果は一つでも方法は色々あるよね。これは生物にも当てはまるんだ。生物は生き残るために、絶え間なく変化する環境に合わせて自分を変化させなければならない。このことを、アメリカの生物学者であるヴェーレンは、「赤のクイーン仮説」って呼んだんだ。
Alice2 アリス  赤のクイーン!?、わたし、彼女とチェスの冒険をしたわ。彼女は「同じ場所にいるためには、全力で走り続ける必要があるの」って言っていたけど…。じゃあ微生物も生き続けるために全力で進化しているってこと?
テロス  そう常に進化している。特に、生存の危険にさらされた時にはその変化する力が爆発的に高まるんだ。これはエピジェネティクスという遺伝子の研究で確かめられている。
アリス  ふーん、小さくても頑張っているのね。でもどうして微生物はそうやって変わると生き残れるって分かるの。考えて進化してるの?
テロス  いい質問だね。ある微生物が変化の必要に迫られた時、みんなが同じように変化するわけではないんだ。十人十色で、いろんなタイプが現われる。そして変化したけど生存できないタイプは死んでしまうんだ。うまく変化したものが生き残る。それが進化なんだ。彼らは考えて進化しているわけでもないし、そう進化するように決められていたわけでもないから、ダーウィンはこのことを「自然選択」と言った。
アリス  ふーん、そうなんだ。大人たちはダーウィンのことでもめていたけど、そんなことを言っていたんだ。で、進化することは分かったけど、抗生物質が効かなくなった微生物は、どんなところが変ったの?


○ 仕組みと戦略 Mechanism and Strategy


テロス  そうだね。それを説明するには、まず抗生物質がどのように作用するのか知っていなければならない。ここでは細菌を例にしよう。細菌の細胞の周りには、植物の細胞と同じように頑丈な壁がある。これを細胞壁と呼ぶんだけど、もしこれが無くなったら、細胞内の浸透圧を維持できず細菌は破裂して死んでしまう。β-ラクタム系やグリコペプチド系の抗生物質はこの細胞壁の合成を阻害するんだ。
アリス  ふーん、そうなんだ。
テロス  また、あらゆる生命の構造維持や代謝、成長にはタンパク質が必要だが、細菌でもそうなんだ。テトラサイクリン系やマクロライド系、アミノグリコシド系、クロラムフェニコール、リンコマイシン系などの抗生物質はこのタンパク質の合成を阻害する。
アリス  へー。
テロス  生命には遺伝子も重要だね。サルファー剤はDNAやRNAの前駆体の合成を阻害するし、DNAは分裂の時や遺伝情報をデコードする時に二本鎖が解離するんだけど、それを阻害するのが、キノロン系やニューキノロン系なんだ。
アリス  さっぱり分からないわ。
テロス  きっとそうだろうと思った。DNAの構造が明らかになってまだ半世紀ほどだしね。これについては、今度ゆっくり教えてあげよう。
アリス  そうね。先に進んで。
テロス  これら抗生物質は細菌の身体に特有の標的に結合することで、作用する。もしこの標的の形が変ったとしたら?
アリス  抗生物質はくっ付くことができなくて、作用しない?
テロス  そう、これが一つの方法だね。アリスちゃんは渋谷を歩けばたくさんナンパされると思うけど、悪魔のお面をかぶって歩けばナンパされない。それは外見が変わったからだ。
アリス  あやしい人だと思われて、お巡りさんにつかまるわ。
テロス  そう、外見が変われば結合するものも変わるんだ。まだある。抗生物質が細菌の体内に入って、標的に作用する前に、もし粉々になってしまったら?
アリス  粉々なら作用しないわ。
テロス  そう、酵素を作って分解すればいいんだ。それから、微生物の身体の表面に抗生物質専用の排出ポンプを作って追い出す、っていう手もあるね。
アリス  細菌も頭いいわね。
テロス  いやいや、これらは偶然による突然変異なんだ。考えてそうしたわけではない。
アリス  そうだった。
テロス  しかし、もともと抗生物質とは、微生物が他の微生物から身を守るためにあみだした武器だったよね。自分の武器で自分が傷つかないように工夫する必要があった。だからこれらの戦略はもともと抗生物質を作る微生物の遺伝子に存在していたとも言える。
アリス  そうよね。じゃないと自殺になっちゃうわ。
テロス  このもともとあった抗生物質耐性の遺伝情報、それから突然変異で獲得した遺伝情報、これらは子孫へ受け継がれるだけでなく、全く別の微生物に組み込まれて働くことが明らかになった。これを遺伝子の「水平伝播」と言う。
アリス  えー、なんでそうなるの。子供が親に似るのは当たり前だけど、友達は似ないわよ。
テロス  それはね、日本がミサイル防衛システムをアメリカから輸入したようなものなんだ。せんぶを自国で開発しなくてもいい。
アリス  ???
テロス  すまない。抗生物質耐性遺伝子を含むDNAは、まあ耐性に関わらずあらゆる遺伝子もなんだけど、環になってもとの細菌から抜け出ることがある。これは裸のウイルスのように働くんだけど、プラスミドって呼ばれている。この耐性遺伝子を含んだプラスミドが別の細菌へ移動して働き出すんだ。自分のコピーを作り、遺伝子を残すために、移動先の細菌に抗生物質の耐性を与えるんだ。
アリス  なんでそんなに遺伝子を残したいわけ?
テロス  なんで人間は結婚して子供を作りたいのかな。分からないけど、そういう性質をもっているものが子々孫々と生き残ってきたんだね。ある下水処理場から見つかったプラスミドには9種類もの抗生物質耐性遺伝子が含まれていた。
アリス  たいへんね。そんなにどんどん抗生物質が効かなくなるのなら、新しいものをどんどん作ってかなきゃね。


○ おかしなお茶会 A Mad Drug-Society


テロス  2007年には12歳の少年がバスケットコートで怪我をして、傷口から入ったMRSAで亡くなったというニュースがあった。大病で体力が低下しているとか、外科手術したわけでもないのに、元気な子供が感染症で死ぬということに、人々の間に衝撃が走った。新しい抗生物質はとても必要とされているんだ。しかし1960年代から現在まで約半世紀の間に開発された、臨床で使える全く新しいタイプの抗生物質はと言うと、オキサゾリジノン系、ただ1種だけなんだ。他にも新しそうに見える抗生物質があるにはあるけど、それらは以前に開発されたものをマイナーチェンジしたものなんだ。
アリス  どうしてなの?、20年間であれだけたくさんの抗生物質を作ったのに。
テロス  ひとつはなかなか新しいものが見つからないことが原因だ。新しいものを見つけても、それの効果が既存のものより低かったり、人体への毒性が強かったら意味がない。新しい微生物から発見した抗生物質がすでに発見されていたものと同じだった、ということも結構ある。
アリス  むずかしいのね。でもきっと頑張ればできるわよ。
テロス  そうだね、でももうひとつ、製薬企業の新しい抗生物質を開発する情熱が低下してしまったことも原因なんだ。
アリス  なんでそうなったの?
テロス  現在はね、医薬品を開発するのにはとっても厳しい決まりごとがあるんだ。人々が安全に薬を使えるように、薬害を減らすようにするためなんだけれども、それは動物実験を繰り返し、人間を使った臨床試験を繰り返し、たくさんのデータを集める。そうして、とりあえずデメリットよりメリットのほうが高い薬が市場に出ることが許されるんだ。その期間は十数年、費用は数百億円。
アリス  たいへんなのね。
テロス  しかも抗生物質は耐性菌が出現し、あっというまに広がるから、すぐに使えなくなる。耐性菌が出るのを遅らせるために、MRSAやVRSAに限って使用すると、たくさん売れないし、やはり耐性菌は遅かれ早かれ広まるので、儲けを見込めない。感染が起きている時しか使えない抗生物質よりも、糖尿病や高血圧など長期間にわたって使われる、寿命の長い儲かる薬のほうが魅力的なんだ。製薬企業もそこで働いている人たちを養っていかなければならないからね。
アリス  色々あるのね。でも誰かがなんとかしなければならないんじゃない?なにか方法はあるの。
テロス  もちろんだよ。生物の情報は細胞内の遺伝子に記録されているんだけど、近頃、このDNAの配列を解読する技術が進んで来ている。すでに人間のゲノムも明らかになっているんだ。抗生物質を作る微生物や病原微生物のゲノムの調査も始まっている。ある放線菌は抗生物質らしい分子を合成する酵素モジュールに似た遺伝子がゲノムの中に25個から30個あるのに、それらのほとんどが機能していないことが明らかになった。抗生物質を作る遺伝子はまだまだゲノムの中で眠っているかもしれないんだ。また、今まで探していないところ、海洋や昆虫などから未知の微生物を探して、そこから抗生物質を見つけようとする動きもあるね。
アリス  ふーん、努力しているのね。でも世界中の微生物をぜんぶ調べちゃったらどうするの?もう抗生物質はなくなっちゃうじゃない。
テロス  そうだね。まだまだ探し始めたばかりだから、新しい抗生物質を発見する確率は高い。すべて発見したとしても、マイナーチェンジや遺伝子操作でしばらくはやっていけるだろう。でもやはり抗生物質に代わる治療法を今から用意しておく必要があるだろう。
アリス  そうよね。全部効かなくなってから探しても遅いものね。で、その代わりの治療法ってなに?


*


テロス  バクテリオファージって聞いたことがあるかな。ウイルスの一種なんだけど、ある特定の微生物、それだけにしか感染して殺さないんだ。他の微生物や人間の細胞には全く影響を及ぼさない。
アリス  えー、じゃあウイルスを身体にいれるの?なんだか怖いわ。他にはないの?
テロス  うん、あるよ。その前にちょっと確認しておきたいんだけど、人間の身体は細胞から成り立っている。微生物も細胞だ。仮にある人が60兆個のヒトの細胞から成り立っているとして、その人の身体の中や表面にいる微生物は何個ぐらいだと思う?
アリス  えー、人間が60兆個でしょ、じゃあ1万個くらいかな?
テロス  はずれ。まあ個人差がかなりあるけど、だいたい100兆個くらいかな。
アリス  うそ!人間より多いじゃない。わたしたち微生物なの?
テロス  いやいや多数決じゃないんだから。立派な人間だよ。でも微生物と密接な共生関係にあることが分かるよね。もしこの100兆個の微生物が突然死んでしまったらどうなると思う?。われわれ人間も命を落とす危険性がとても高い。なぜなら外部から毒性の高い細菌が体内に侵入して一気に増殖してしまうからだ。また人間が必要とする栄養素のいくつかも体内で微生物が作っているんだ。なんの治療もしなければ遅かれ早かれ死んでしまう。
アリス  へー、微生物はえらいのね。
テロス  この微生物の働きを助けてあげたらどうだろう。人体に害をもたらす微生物が侵入してきても、その増殖を抑えてくれるのではないか、とイギリスのフューラーは考えた。1989年だったかな。この概念は「プロバイオティクス」って呼ばれている。抗生物質が「アンチバイオティクス」だから、その対語として名づけられたんだ。これは、消化管の感染症ではとても有効だ。食中毒やピロリ菌で起こる胃潰瘍とかね。またそれと遺伝子操作を組み合わせた方法もある。人に害を与えない大腸菌の遺伝子を変えて、致死的な毒素を吸収してもらうこともできる。
アリス  微生物を見なおしたわ。でも消化管はいいとして、怪我や手術の場合はどうなの?まさか傷口に大腸菌を入れるなんて言わないわよね。
テロス  そう、怪我や手術では黄色ブドウ球菌が一番の問題なんだ。これがコアグラーゼとかトキシンショック毒素、表皮剥離毒素、腸管毒エンテロトキシンなどを作るんだけど、これがまた毒性が高い。しかも100度の熱を30分加えても壊れない。感染症の時に黄色ブドウ球菌の増殖を一刻も早く抑えたいのは、これらの毒素が幾何級数的に増加するからなんだ。でも菌を殺すと、後々耐性菌が現われて厄介だ。どうすればいい?
アリス  殺さないで、毒を出さなくすればいいんでしょ。
テロス  その通り。共存の道があったね。最近、黄色ブドウ球菌を殺さずに、その毒性にかかわる分子の合成を阻害する薬剤が発見された。人体に使えるようになるまで、まだ時間がかかるかもしれないけど期待できそうな方法だね。医学の世界の「サティヤグラハ」ってところかな。
アリス  なに、それ?
テロス  インドのマハトマ・ガンジーがした政治運動の名前なんだけど…
アリス  わたしの国の植民地の人ね。
テロス  実はインドは1947年に独立したんだ。
アリス  えー、どうやって。わたしの国の海軍はとても強いってお父さんが言ってたわ。
テロス  そう、とても強かった。アリスちゃんがいた頃は、フランスとロシアの海軍が束になっても勝てたかどうか分からない。当時は世界で最強だったろう。
アリス  それがどうして?
テロス  ガンジーがイギリスから独立するために「サティヤグラハ」を主張してインドを一つにまとめたんだ。どんなことかって言うと、イギリスに対して暴力は使わない、でも服従もしない、っていう運動だ。
アリス  そんなんで勝てるの?
テロス  いや、軍隊をたおすって意味では勝てない。でも服従しない限り、負けることもない。力を持つものは抵抗しないものに対して攻撃しにくいんだ。動物行動学的にもね、爪や牙など相手を殺せる力を持つ動物、例えばオオカミや犬はけんか相手がおとなしく急所を向けると攻撃できなくなるんだ。力学的に言えば、作用がなければ反作用もないってところかな。まあ、結果的にインドは独立国家としてのアイデンティティーを獲得したし、現在でもイギリスとは敵対関係ではないんだ。
アリス  ふーん。強ければいいってものでもないのね。わたし、悪い微生物はやっつけちゃえばいいだなんて言っちゃったけど、それだけじゃいけないのね。
テロス  そう、増えすぎて悪さをしている時は、ちょっと減ってもらいたいけどね。
アリス  いろんな感染症の治療があるんだって分かったわ。でも、これだけ?他にもあるんじゃない?
テロス  と、言うと?


○ アリスの主張  Alice's Insistence


アリス  微生物は生きるために頑張って進化しているのよね。そして微生物の進化の情報は遺伝子っていうものに記録されているんでしょ。でもわたしたち自身はどうなの?。いくら医学が進化しても、いえ、医学が進化すればするほど、人間は「自然選択」されにくくなって、その遺伝子は進化しないんじゃないの?
テロス  確かにその通りだ。
アリス  子供が生まれれば親の遺伝情報が必ず受け継がれるんでしょ。じゃないと絶滅よね。医学はどんどん進化しているみたいだけど、どうなの?後世に必ず受け継がれるもの?
テロス  いや、歴史を振り返って見ると、そうではない。すでに失われてしまった医学や医術は多い。かろうじて生き残っている医学もあるが、とても危うく、はかない存在だ。しかも現代では軍事技術が異常に発達してしまっている。もし核戦争が起こったら、それが局地的なもので、世界にある核弾頭の0.4%が使われるだけでも人類は滅亡するということが、アメリカのロボックやトゥーンといった気候学者によって計算されている。そこまでいかなくても、高度に先進的な医学は経済的にも軍事的にも安定した時代でないと機能しないだろう。
アリス  怖い時代なのね…。で、わたしが言いたいことは、微生物が進化しているのなら、わたしたち自身も進化しなければいけないってこと。
テロス  言いたいことが分かったぞ。世代交代するとともに人間の遺伝子配列も少しずつ変化している。アリスちゃんは、病原微生物に対抗するために、積極的に遺伝子の変化をうながしたり、より適応する遺伝子が後世に受け継がれるようにするってことかな。
アリス  そう、だって人間の遺伝子も変えることができるんでしょ。それに人が亡くなるのも感染症だけじゃないんだから、感染症に強い人が飢えとか戦争とかで死なないように、いい遺伝子を残す手助けをしてあげたらどうかしら?
テロス  うーん、そうだね。
アリス  どう?いい方法じゃない?
テロス  悪くはない…。でも危険をはらんだ方法だ。
アリス  えー、なんで?
テロス  それは、昔の人も考えた方法だ。優生学というもので、イギリスのゴルトンによって1883年に提唱されている。
アリス  なんだ、そうなんだ。でもどうして危険なの?
テロス  アリスちゃんは、もし自分が感染症にとりわけ強くないって評価されて、お腹がすいている時とか、死にそうな時に誰も助けてくれなかったらどう?
アリス  やだな。助けて欲しい。
テロス  家族や友達がそんな状況に置かれたらどうする?
アリス  助けてあげたい…。
テロス  自分や家族、友達が困っている時に、感染症に強いって評価された人ばかり、えこひいきされていたら?
アリス  公平にしてもらいたい。
テロス  そうだよね。普通はそうだ。でも異なる人種間の憎しみが入り込むと、想像を絶する悲劇が生まれるんだ。その代表が第二次世界大戦でナチスドイツが行ったジェノサイトだ。
アリス  なに?それ?
テロス  ドイツのナチスという政党が「アーリア人至上主義」を主張して、ドイツ人の品種改良を始めたんだ。良い遺伝子を残すためにね。それと同時に、それの妨げになるユダヤ人の絶滅を計画した。強制収容所にガス室などの処刑場を作ってユダヤ人を殺戮した。その数は1200万人を下らないと言われている。
アリス  …。
テロス  また遺伝子もね、実のところ、なにが良くてなにが悪いって言うのはないんだ。「人間万事塞翁が馬」って言うように禍は福でもあり、福は禍でもある。良し悪しっていうのは、ある時、ある場所で、ある人の心の中にある、あるものごとの一面を見た時の評価なんだ。例えば、鎌型赤血球症を起こす遺伝子を持っているとマラリアに強いとか、貧血になりやすい遺伝子を持っていると感染症に強くなるとかね。
アリス  良いものが分からないんだったら、なにを残したらいいか分からないわね。
テロス  結果的に残ったものが、良いと評価されるけど、それも次の瞬間には変わるかもしれないね。
アリス  難しいのね。でもよく分かったわ。
テロス  今日はこのくらいでいいかな。
アリス  うん、ありがとう、テロス。チュッ。さようなら。
テロス  さようなら。気をつけてお帰り。


つづく



*註