はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

伝統医学・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師・・

014-本居宣長と江戸時代の医学― 伊勢神宮と神道医学―

2015-01-13 15:35:17 | 本居宣長と江戸時代の医学



伊勢神宮には独特の医学が残されていたようで、それは神宮医方と呼ばれています。(1)

室町時代には「神宮医方十書」が著されており、例えばそのうち『管蠡備急方』が久志本常光(1540-1541年)によって編纂されています。その内容は『三因方』、『千金方』、『和剤局方』、『傷寒論』、『金匱要略』、『銀海精微』など他にもありますが、いずれも中国伝来の医学書を集めたものでした。日本最古の医学書、『医心方』は丹波康頼(912-995年)によって著されていましたが、これもまた全て中国伝来の医学書を編集し直したものでした。

では何が独特なのでしょう。中国や朝鮮にはない日本で誕生した日本独自の特殊な治療法があったのでしょうか。いいえ、その特徴とは穢れ(ケガレ)の思想が深く関係している点なのです。

神宮では神事に従う前に禊(ミソギ)をする必要がありました。それは川などで身を清めるだけでなく、飲食の制限もあったのです。六畜類諸の不浄物や禁忌のものを摂取してしまうと、それから長期間神事を行えなくなってしまいます。これは神官神職にとって、神宮にとって、ひいては朝廷にとって致命的なことでした。

それゆえ、久志本常任(1007-1095年)は汎用薬種から神宮において不浄禁忌とされるもをの選除することで神宮医方を作り上げたのでした。例えば麝香、現在でも救心などもろもろの漢方薬に用いられるものや、これは現在では全く用いられないものですが、人骨などは「穢れ」のために除かれました。

この「穢れ」自体は日本だけの思想ではありません。インドにもイスラムにも同じものが当たり前のように残っているのです。神宮独特のいうのは、当時の日本に存在した一般的な医学に比較して独特である、という意味です。

ところで本居宣長を神道医学の創設者とする見方があります(2)。この神道医学とは何でしょう。神宮医方と関係があるのでしょうか。似たような名前でもあり、宣長は伊勢松坂に住んでいたので間違いやすいのですが、実は何の関係もありません。

宣長の医学勉学ノート、『折肱録』には麝香や熊胆などが記載されており、また例えば寛政五年二月の処方の書付、抱龍丸には実際に麝香が使われています。宣長は神職を対象にではなく、一般町人を対象に治療を行っていたので、不浄とされていた薬を避ける必要がなかったのです。宣長は神宮医方を用いてはいませんでした。

神道医学とは、石田一良氏によると、神を一切の罹病・治療の原因とすることによって、「一切の病因を穿鑿しない古医方」と「自然の神道」を結合した医学と、それは定義されています。それでは、宣長は実際に神道医学者だったのでしょうか。いいえ、そうとも言えません。

宣長が「一切の病因を穿鑿しない古医方」と「自然の神道」を結びつけたとする主張の根拠は二つ。「一切の病因を穿鑿しない古医方」というのは、万病一毒、つまり全ての病は一つの毒によって引き起こされると説いた吉益東洞の医学流派のことです。宣長は医師になったころ、この新しい医学が流行っており、流派間の論争も活発に行われていました。宣長は東洞の医学に近寄っていたから、というのが一つめ。

そして宣長が『答問録』で、「世に、この疱瘡、また疫病、あるひはわらはやみなどを、殊に神わずらひと思ふなれど、これのみならず、余のすべての病もみな神の御しわざ也。其中に、そのわづらふさまのあやしきと然らざるとは、神の御しわざなることのあらはに見ゆると、あらはならざるとのけじめのみこそあれ、いづれの病も神の御しわざにあらざるはなし。さて病あるときに或は薬を服し、或はくさぐさをしてこれを治むるも、又みな神の御しわざ也。此薬をもて此病をいやすべく、このわざをして此わづらひを治むべく、神の定めおき給ひて、その神のみたまによりて病は治まる也」、と言っていることが二つめです。

まず一つめの根拠、宣長は東洞流であったというのは以下のように論述されています。
「宣長は…、彼の旧師(武川幸順)をまき込んだ医学界の大論争を知らなかったはずはない」
「読書好きで、当時京都がえりの新進の医師として診療に力を入れていた宣長がこうした論争の書物に注意を払ったと考えて間違いあるまい」
「帰郷後、…宣長はさらに進んで東洞の医学に近寄って行ったと考えて、まず間違いなかろう」


医師にある吉益周輔とは東洞、小児科にある武川幸淳とは幸順のこと。『京羽二重大全』三巻より

宣長は『経籍』という当時出版されていた何千もの書籍の目録を作成していますが、その中には東洞の書の名が幾つか掲載されています。宣長はたしかに吉益東洞とその書の存在を知っていました。しかし、京都で医学の修行中に友人と医学について論じ合った記録がありますが、後藤艮山や香川修庵、山脇東洋などという当時を代表する医師の名は挙げていますが、東洞についてはまったくふれてはいません。そしてまた、吉益東洞の書を読み、学んだという証拠もありません。宣長は四十年以上医師として診療を続け、その処方の記録を『済世録』に残していますが、それを読む限り、宣長が万病一毒論に基づく医療を行っていた可能性はありません。

次に二つめの根拠、全ての病気も治癒も神の御しわざである、と宣長が言ったとしても、宣長が因果論的説明を拒否する思考をもっていたとは言えません。もし本気で因果論的説明を拒否してそのように発言したのなら、すべての病気を祈祷などによって治療してもよいのですが、『済世録』によると、宣長は一人ひとりの患者に対し画一的な治療を施すのではなく、かなり複雑に処方を調整して用いています。宣長の言うところの「神の御しわざ」というのは、病理や治療学のメカニズムが明らかに出来ない場合、例えば顕微鏡もなく、細菌・ウイルスの培養もできず何の実証実験もできない場合に用いられます。これまでいわゆる後世方派の医師が観念的抽象的な用語と理論を用いてそれらを説明しようと試みましたが、この試みには文献的根拠はあっても、事実的根拠はありませんでした。

またもう一つ、「神の御しわざ」というのは、メカニズムの範疇を超えたもっと根源的な理由を求める場合にも用いられます。例えば、人から「なぜ愛する子供が病気で死んでしまったのか」と問われた時に、どのように答えたら良いのでしょう。宣長でなくとも、神道家でなくても、古今東西の多くの人がそれを神さまの、あるいは運命の所為にするでしょう。この場合、機械論的・因果論的説明には限界があり、あるところ、原理や法則、神や天などで説明が行き止まりになってしまうのです。

と言うわけで、神道医学が上記の定義である限り、宣長は神道医学者ではありえません。前回までのブログで宣長が古方派でも後世方派でもないと明らかにされてきました。それでは折衷派である。と考えるのが通例なのですが、ここではこれに分類してもあまり意義がありません。それはただ古方派と後世方派が通常使用する処方を使っていたと言っているに過ぎないからであり、これは現代の漢方も処方する医師を折衷派と呼ぶこととまったく同じなのです。

つづく

(ムガク)

(1)久志本常孝『神宮医方史』
(2)石田一良『本居宣長の神道・国学と医学』