シュレディンガーの猫という「重ね合わせ」というパラドックスの影響を受けたかどうかはよく解りませんが、大森荘蔵(1921-1997年)という哲学者は17世紀の科学革命以来、科学から心が排除されてしまったことで生じた問題を解決する方法を提案しました。
「道徳的行為も芸術活動も、放射能崩壊や惑星運動と同様に全く無意味な死物運動にすぎない。こういう見方が現代科学が与える世界描写なのであり、現代に生きるわれわれに巣食う不安の根源であって、それに較べれば流行の自然破壊や脳死その他の生命倫理の問題は取るに足らないように見える。…この不安を根絶することはできないが、多少とも鎮静させる方策がないでもない。…私が本書で提案するのは「重ね描き」の概念である。」(大森荘蔵『知の構築とその呪縛』)
大森荘蔵はこの「重ね描き」の概念を提出したのち、たとえとして科学者が鉄の一片とその原子集団をどのように認識するのかについて、は以下のように言っています。
「…彼(科学者)は見えている場所に見えているままの形で鉄の原子という「物」の配列がある、と考えていることは確かだからである。いい換えれば、彼は知覚風景によって「物」の存在と形とを「定義」しているのである。…この定義によって「物」は「知覚像」にぴったり密着していることになる。…「物」と「知覚像」の一心同体的同居は、それぞれの住宅である客観的世界と主観的世界との一心同体的同居を伴う…。日常描写と科学的描写は共に、一にして「同じ状況」の二通りの描写なのである。換言すれば日常描写に科学的描写が「重ね描き」されるのである。」
12世紀に生まれた朱子学はその時代の最先端の科学を含んでいました。その内の気の哲学を受け継いだ人々が気を認識した方法は現代の科学者が原子を認識した方法と同じであると思います。これは原子顕微鏡を使用するなどの観測レベルはもちろん異なりますが、原子顕微鏡そのものが目の前にありそれを触り認識する経験、その仕方は同じという意味においてです。
江戸時代の儒医は気を観ていました。それも超能力などによるものではなく、いわゆる客観的なものに重ね合わせて観ていたのかもしれません。これは気の一つの定義です。江戸時代には気の意味は他にまだ存在し、それは武士社会であったことが関係していると思いますが、それについてはまた今度…。
(ムガク)