はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 049 (修正版)

2016-01-30 12:56:17 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

七情は喜怒哀楽愛悪慾也。医家にては喜怒憂思悲恐驚と云。又、六慾あり、耳目口鼻身意の慾也。七情の内、怒と慾との二、尤徳をやぶり、生をそこなふ。忿を懲し、慾を塞ぐは易の戒なり。忿は陽に属す。火のもゆるが如し。人の心を乱し、元気をそこなふは忿なり。おさえて忍ぶべし。慾は陰に属す。水の深きが如し。人の心をおぼらし、元気をへらすは慾也。思ひてふさぐべし。

養生の要訣一あり。要訣とはかんようなる口伝也。養生に志あらん人は、是をしりて守るべし。其要訣は少の一字なり。少とは万の事皆すくなくして多くせざるを云。すべてつつまやかに、いはゞ、慾をすくなくするを云。慾とは耳目口体のむさぼりこのむを云。酒食をこのみ、好色をこのむの類也。およそ慾多きのつもりは、身をそこなひ命を失なふ。慾をすくなくすれば、身をやしなひ命をのぶ。慾をすくなくするに、その目録十二あり。十二少と名づく。必是を守るべし。食を少くし、飲ものを少くし、五味の偏を少くし、色欲を少くし、言語を少くし、事を少くし、怒を少くし、憂を少くし、悲を少くし、思を少くし、臥事を少くすべし。かやうに事ごとに少すれば、元気へらず、脾腎損せず。是寿をたもつの道なり。十二にかぎらず、何事も身のわざと欲とをすくなくすべし。一時に気を多く用ひ過し、心を多く用ひ過さば、元気へり、病となりて命みじかし。物ごとに数多くはゞ広く用ゆべからず。数すくなく、はばせばきがよし。孫思ばくが千金方にも、養生の十二少をいへり。其意同じ。目録は是と同じからず。右にいへる十二少は、今の時宜にかなへるなり。

(解説)

 七情については「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 003」にも出てきましたね。七情は、『礼記』には「喜怒哀懼愛悪欲」のこととありましたが、ここでは益軒は「喜怒哀楽愛悪慾」と言っています。前者の「懼」(おそれ)が後者では「楽」(たのしみ)に代わっていますね。これはどういう訳でしょうか。それはもしかしたら益軒の頭の中に『中庸』の一節があったためかもしれません。

喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆節に中る、之を和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、萬物育す。

 この益軒が最も人々に伝えたかったものの一つ、中庸の精神を七情に合体させた、という可能性が一つありますね。またもっと単純に、『養生訓』を著す際に益軒の言葉を筆記する、あるいは出版する人物が「懼」(ku)を「楽」(laku)と違えてしまった、という可能性も一つあります。

 『千金方』道林養性第二には以下の様にあります。

善く摂生する者は、常に少思、少念、少欲、少事、少語、少笑、少愁、少楽、少喜、少怒、少好、少悪。此の十二少を行う者は、養性の都契なり。

 益軒の「十二少」と比べてみると、より精神的な「十二少」ですね。しかしこれは『千金方』を著した孫思邈が精神的なことを重視したということではありません。『千金方』の中には益軒の「十二少」が散在しています。というより、益軒は『千金方』の中から内容を選び新たに「十二少」を作り上げています。ここでの共通点は単に「十二少」というグループ名であり、また厳密に言えば、益軒の「十二少」の数は十一なので名前の付け方が正確ではありません。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 048 (修正版)

2016-01-30 12:55:55 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

素問に怒れば気上る。喜べば気緩まる。悲めば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気とづ。暑ければ気泄る。驚けば気乱る。労すれば気へる。思へば気結るといへり。百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調るにあり。調ふるは気を和らぎ、平にする也。凡そ気を養ふの道は、気をへらさると、ふさがらざるにあり。気を和らげ、平にすれば、此二のうれひなし。

臍下三寸を丹田と云。腎間の動気こゝにあり。難経に、腎間の動気は人の生命也。十二経の根本也といへり。是人身の命根のある所也。養気の術つねに腰を正しくすゑ、真気を丹田におさめあつめ、呼吸をしづめてあらくせず、事にあたつては、胸中より微気をしばしば口に吐き出して、胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし。この如くすれば気のぼらず、むねさはがずして身に力あり。貴人に対して物をいふにも、大事の変にのぞみいそがはしき時も、この如くすべし。もしやむ事を得ずして、人と是非を論ずとも、怒気にやぶられず、浮気ならずしてあやまりなし。或は芸術をつとめ、武人の槍太刀をつかひ、敵と戦ふにも、皆此法を主とすべし。是事をつとめ、気を養ふに益ある術なり。凡技術を行なふ者、殊に武人は此法をしらずんばあるべからず。又道士の気を養ひ、比丘の坐禅するも、皆真気を臍下におさむる法なり。是主静の工夫、術者の秘訣なり。

(解説)

 この解説では何度も引用しましたが、『養生訓』では、ここで『素問』という書名が初めて出てきました。今回の出典はその中の挙痛論からです。「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 039」でも出てきましたね。「百病は気より生ずる・・・」というのは黄帝の言葉でした。

 またここでもう一つ、『難経』(別名『八十一難』)というもう一つの医学書の登場です。これは経絡や脈診法、鍼治療などに関する古典医学書です。その名前のわりに文量も少なく読み易いことから現代でも鍼灸師を中心に読まれています。以前は薬物治療と鍼灸治療は車の両輪のごときものであり、『難経』は勉強する医師に読まれていました。この本はいつ誰が著したかはっきりしません。著者にはいろいろ説があり、一つは黄帝(『太平御覧』中の『帝王世紀』)、一つは秦越人扁鵲(『難経』の序文)、もう一つはそのどちらでもない人であるというものです。著された時代は、その内容が陰陽五行論を中心に組み立てられているため、鄒衍の時代よりも後世であり、『傷寒論』の序文に『八十一難』の名があることから、張仲景の時代より前であると考えられています。

 その『難経』八難にこうあります。

寸口の脉の平にして死すは、何の謂ぞや。 然り。諸の十二の経脈は皆生気の原に係る。いはゆる生気の原は、十二経の根本を謂うなり。腎間の動気を謂うなり。此れ五蔵六府の本、十二経脈の根、呼吸の門、三焦の原、一名は守邪の神なり。故に気は人の根本なり。根が絶ゆれば則ち莖葉は枯る。寸口の脉の平にして死すは、生気が独り内に於いて絶ゆるなり。

 この「腎間の動気」がある場所が「臍下三寸」にあると言っていますが、ここは伝統医学の中では一般的に関元(CV4)と呼ばれる場所です。関元を丹田と呼ぶものは『扁鵲神應鍼灸玉龍経』や『鍼灸資生経』など宋から元代の医学書があり、もっと時代をさかのぼる晋代の『鍼灸甲乙経』では臍下二寸の石門(CV5)を別名丹田と言っています。また臍下一寸半の気海(CV6)を丹田と呼ぶ医学書も『脈経』や『千金方』など多くあります。

 と言うわけで臍の下には三つの丹田があるのですが、ここではその中でも「臍下三寸」にある丹田を取り上げています。この辺りは医学や儒学の分野と言うより神仙術、道教の分野と言って良いかもしれません。武夷山人(白玉蟾、宋代の道士)はこう言いました。

生を養ふの要、先づ形を練るに如かず。
神を凝れば則ち気聚まる。気聚まれば則ち丹成る。
形を練るの妙、心を凝らすに在り。
丹成れば則ち形固し。形固ければ則ち神全し。

 「丹」とは不老長寿の素(モト)のようなものであり、それを体内で育てる場所を「丹田」と呼ぶのです。神仙術は仏教、とくに禅宗と相性が良く、禅宗は常に死と隣り合わせであった武士と相性が良かったのです。名のある戦国武将もそうであったように、宮本武蔵(吉川英治の小説の中ですけど)であれ柳生宗矩であれ沢庵禅師に多大な影響を受けました。臨済宗の中興の祖と言われた白隠禅師は『遠羅天釜』でこう言っています。

丹田なる者の一身三処、吾が謂ゆる丹田は、下丹田なる者なり。気海丹田各々臍下に居す。一実にして二名在るが如し。丹田は臍下三寸、気海は寸半、真気常に者裏に充実して、身心常に平坦なる時は、世寿百歳を閲すと云へども、鬢髮枯れず、歯牙動かず、眼力転た鮮明にして、皮膚次第に光沢あり。是れ則ち元気を養ひ得て神丹成就したる効験なり。寿算限りあるべからず。但し修養の功の精麁如何にも有るらくのみ。古の神医は未だ病ざる先を治す。能く人をして心を治めて気を養はしむ。庸医は是に反す。已に病むの後を見て鍼灸薬の三つを以て是を治せんとす。救はざる者多し。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

000―序―徒然草の中の医療

2016-01-27 20:07:28 | 徒然草の中の医療

 鎌倉末期の歌人、卜部兼好(吉田兼好)は後二条天皇に左兵衛佐として仕えていましたが、天皇崩御の後、出家し遁世しました。兼好は歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされました。

 兼好は晩年、自らの墓を京の西方にある仁和寺のほとり雙の岡に定め、歌を詠んでいます。

   雙の岡に無常所まうけてかたはしに桜を植ゑさすとて

契りをく花と雙びの岡のへに あはれ幾世の春をすぐさむ 

 『兼好法師集』

 本居宣長もこれに倣いました。自ら松坂の西方にある山室山に墓をこしらえ、そこへ山桜を植えるように計画し、歌を詠んだのです。

   山室の山の上に墓ところをさためてかねてしるしをたておくとて

山むろにちとせの春の宿しめて 風にしられぬ花をこそ見め

今よりははかなき身とはなげかじよ 千代のすみかをもとめえつれば *1

 宣長懐紙 一幅、寛政十二年(1800年)九月十七日、山室山妙楽寺

 兼好と宣長、彼らの歌の文句は異なりますが、その句の底にある意識、そこはまったく同じです。彼らは死を恐怖や不安なく受け入れ、自らの死後も、時は無常に移り過ぎゆくことを悟っています。春や桜の花は生の象徴であり、彼らは死の中にも生を見ているのです。

 山室山の宣長の墓:横にあるのが山桜

 宣長の遺言書、寛政十二年七月執筆

 このような意識は彼らだけのものではありません。例えば日本の医学流派「多賀法印流」の医書には「生死に始め無く終わり無し」とあります。*2 もしかしたら日本人の心の奥底にはある種の共在意識のようなものが脈々と流れ続けているのかもしれません。

 さて、兼好法師は『徒然草』の作者としても知られています。この有名な随筆には医療に関するものが結構でてきます。なぜなら彼は人の身に必須なものとして、「食う物」、「着る物」、「居る所」と並び、「医療を忘るべからず」と言い、「薬」を挙げているからです。 *3

 先日、当ブログでお灸について述べましたが(「024-お灸・漢意・もののあはれ-本居宣長と江戸時代の医学」)、『徒然草』では「灸」という言葉は2回使われてます。「薬」は8回。「医」は11回。「病」は25回です。

 そして「死」は38回でてきますが、「生」は61回、約二倍です。これから、つれづれなるままに徒然草の中の医療の世界を見て行きましょう。

つづく

(ムガク)

*1:『鈴屋集』八之巻
*2:『印流医術書類』「本無生死論」
*3:『徒然草』「百二十三段」

001―もくじ―徒然草の中の医療

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 047 (修正版)

2016-01-27 15:11:00 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の身は、気を以て生の源、命の主とす。故に養生をよくする人は、常に元気を惜みてへらさず。静にしては元気をたもち、動ゐては元気をめぐらす。たもつとめぐらすと、二の者そなはらざれば、気を養ひがたし。動静其時を失はず、是気を養ふの道なり。

もし大風雨と雷はなはだしくば、天の威をおそれて、夜といへどもかならずおき、衣服をあらためて坐すべし。臥すべからず。

客となつて昼より他席にあらば、薄暮より前に帰るべし。夜までかたれば主客ともに労す。久しく滞座すべからず。

(解説)

 その昔、孔子は斎衰の喪服を着た人や礼楽に関係する人に遇った時、盛大なもてなしを受けた時、そして「迅雷風烈」、「大風雨と雷はなはだし」時には必ず顔色衣服を正し、態度を改め、敬意を表しました。そのことを「迅雷風烈には必ず変ず」と言い、それは『論語』郷黨に記されています。

 伝統的に中国には天に対する信仰がありました。人民を支配する者は天子であり、祭礼により天の声を聴き、天に代わって人々を導くという建前があったのです。それ故、王は人々の上に立てるのであり、もし干ばつや洪水や地震などの自然災害、大規模な飢饉で人々が苦しめば、それは王が適切に政治していない、天子としての役割をしていない、天に認められていないということで、首をすげ替えられてもおかしくなかったのです。天には人々の倫理道義に反した行動に対して天罰を与える力があるとも信じられていました。

 『孟子』離婁上には、「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ」とあるように、天に従うことは天下の平和を目的とする儒者にとって重要なことです。『左伝』文公十五年には、「詩に曰く、天の威を畏れて、時に之を保つ」とあり、嵐でも地震でも洪水でも一たびそれらが起れば、人間は全く無力なものです。

 『書経』太甲には、古代中国の名宰相、伊尹の言葉が残されています。

「先に奉ずるには孝を思い、下に接するには恭を思い、遠きを視るには明を惟い、徳を聞くには聡を惟え。・・・、・・・天には親なし、克く敬するを惟れ親しむ」

 天は家系や血統などを親しむことはなく、ただ敬いの心を持っている人を親しむのです。孔子の行動にも、益軒の言葉の裏にもそんな意味が隠されているのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 046 (修正版)

2016-01-26 23:46:16 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

一時の浮気をほしゐまゝにすれば、一生の持病となり。或は即時に命あやうき事あり。莫大の禍はしばしの間こらえざるにおこる。おそるべし。

養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過てほしゐまゝなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。

心をつねに従容としづかにせはしからず、和平なるべし。言語はことにしづかにしてすくなくし、無用の事いふべからず。是尤気を養ふ良法也。

(解説)

 これらも「貝原益軒の養生訓」で何度も述べられてきました。でも少しだけ付け足します。

 『礼記』礼運には、「飲食男女、人の大欲存する。死亡貧苦、人の大悪存する」とか、「夫れ礼の初めは、之を飲食に始む」などとあります。益軒が繰りかえす言葉には、人として最も重要なものの一つ、「礼」が深く関わっています。決して長生きするためだけの養生法を説いているだけではないのです。そして益軒は『五常訓』でも「飲食ノツツシミハ、礼ヲ以テ慾ヲ制スルニアリ。飲食ノ礼多シ。中ニツヰテ、放飯流歠(せつ)ヲイマシムベシ」などと言っているのです。

 宋代の思想家、邵尭夫(諡は康節)は『漁樵対問』でこう言っています。

口に過なきは易く、身に過なきは難し。身に過なきは易く、心に過なきは難し。既に心に過なくんば何の難きことこれあらん。

 目に見えない心を「和平」にすることが難しければ、より簡単にできることから始めても良いのです。「言語はことにしづかにしてすくなくし、無用の事」を言わないことは、意識的にできるものだからです。

(ムガク)



(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 045 (修正版)

2016-01-26 23:44:57 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

聖人やゝもすれば楽をとき玉ふ。わが愚を以て聖心おしはかりがたしといへども、楽しみは是人のむまれ付たる天地の生理なり。楽しまずして天地の道理にそむくべからず。つねに道を以て欲を制して楽を失なふべからず。楽を失なはざるは養生の本也。

長生の術は食色の慾をすくなくし、心気を和平にし、事に臨んで常に畏慎あれば、物にやぶられず、血気おのづから調ひて、自然に病なし。かくの如くなれば長生す。是長生の術也。此術を信じ用ひば、此術の貴とぶべき事、あたかも万金を得たるよりも重かるべし。

万の事十分に満て、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。古人の曰、酒は微酔にのみ、花は半開に見る。此言むべなるかな。酒十分にのめばやぶらる。少のんで不足なるは、楽みて後のうれひなし。花十分に開けば、盛過て精神なく、やがてちりやすし。花のいまだひらかざるが盛なりと、と古人いへり。

 (解説)

 聖人の説いた「楽」には大きく分けて二つの意味があります。一つは音楽(music)であり、もう一つは楽しみ(pleasure)です。ここでは益軒は後者を取り上げていますが、前者の意味もあることを知っておきましょう。そしてこの二つの「楽」は相即不離のものであり、これは政治や礼儀、道徳などにとって非常に大切なものでありました。詳しくは『荀子』楽論にありますが、長いので割愛します。

ここでの「古人」とは明代の思想家、洪自誠のことであり、彼は『菜根譚』でこう述べています。

花は半開を看、酒は微酔に飲む。此の中に大いに佳趣有り。若し爛漫もう(酉+毛)とう(酉+匋)に至らば、便ち悪境を成す。盈満を履む者、宜しく之を思うべし。

 これらは、「貝原益軒の養生訓」の中で何度も繰り返されてきましたね。

(ムガク)



(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)