はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.45 五輪と五行(その2)

2008-08-28 17:36:09 | 気・五行のはなし

五輪(地水火風空)とは物質の構成元素とエネルギーおよび総括に対する名称で五大とも呼ばれていました。

 

実は、ものごとを五つのカテゴリへ分類する思考形態は古代のインドや中国に限ったものではないようです。


例えば北米のネイティブアメリカンであるアルゴンキン族やウィンネバゴ族は地・水・水中・低空・高空の五つ、またメノミニ族は陸地面の四足獣・湿地に住む四足獣・地鳥・水鳥・地中動物の五つのカテゴリで分類するようです。またスー族では地上動物・天空動物・至高空動物・水中動物・水底動物の五つのカテゴリで分類するようです。もちろんこれらのカテゴリの名前は部族(クラン)などを分類するもので動物の分類に限ったものではありません。カテゴリの名前は一種の記号として使用されています。


古代ギリシャのエンペドクレス(BC490-430年頃)は火・水・土・空気からなる四元素説を唱えましたし、またヒポクラテスは人体は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁から構成されているとする四体液説を唱えました。分類する数というものは恣意的なものなので特にこだわらなくても良いようです。


ここに何故これらの民族はものごとを五つに分類したのかという疑問が生まれます。


人はあるものの測量を試みる時に単位を創り出します。例えば長さですが星と星の距離をあらわすには「光年」という光の速さで一年という単位を使用します。また原子と原子の距離をあらわすには「Å(オングストローム)」という1/(10×10)mという単位を使用します。ある大きさのものを測量する場合はその大きさのものと近いスケールの単位を使用すると便利です。


人と同じスケールのものだと古代から中東や西洋で使われていた「キュビット」という肘から中指の先までの長さの単位があります。「ヤード」はそれから派生した単位のようですね。古代中国では例えば指一本分の幅の「寸」や拇指と中指を広げた長さの「尺」などがあります。周王朝の時代には既に長さの単位は人体が基本だったようです。


さてそう考えると五つという数字は人体から出てきたようですね。基本は片手で数えられる数でしょうか。そのうち手足頭の「五体」とか感覚の「五感」などという共通する数に意識が向けられると、その数が特別な存在になるようです。(ちなみに感覚を五つに分類するのは古代中国も古代ギリシャのアリストテレスも同じだったようです。)


その片手で数えられる数字を選び取ったのはどういう訳でしょうか。そこにはその民族が関心を向けるものが存在していたのかもしれません。それはハイデガー(註1)のいう「ゾルゲ」が関係しているのでしょうか。


では五行とは何なのでしょうか。続きは次回にしようと思います。


(註1)マルティン・ハイデガー(1889-1976年):ドイツの哲学者であり、フッサールに師事しました。『存在と時間』の著作で有名です。


(ムガク)


No.44 気一元論と理気二元論

2008-08-21 19:46:32 | 気・五行のはなし

伝統医学が基づく存在論には大きく分けて二種類あります。それは「気一元論」と宋代では画期的であった「理気二元論」です。


中国では古来、気一元論が伝統的であり、それは「天人相応」思想と密接に関係しています。


「生や死の徒なり。死や生の始めなり。孰か其の紀を知らんや。人の生は、気の聚まるなり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。若し死生が徒為らば、吾又何をか患えんや。故に万物は一なり。是れ其の美とする所の者は神奇為り。其の悪む所の者は臭腐為り。臭腐は復化して神奇と為り、神奇は復化して臭腐と為る。故に曰わく、天下を通じて一気のみと。聖人は故に一を貴ぶ」(『荘子』知北遊篇、小川環樹訳より)


と、『荘子』にあるように、紀元前から、人は気が集まったものであり、自然界の全てのものも同じであると考えられていました。生死も美醜も同じものの変化として捉えられていました。そこには根源的な一つの構成要素を仮定し、自然・生態系の中で循環するというヘラクレイトス(註1)の思想と共通点が見られます。これは宋学では張横渠(1020-1077年)の思想に引き継がれていきます。


「形よりして上なる者、之を道と謂い、形よりして下なる者、之を器と謂う。」 (『易経』形而上より)


「天地宇宙の間には、形あるものと形ないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるもので、器といわれ、それ以上のものは、形のないもので、道という。現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを研究対象とする学問を形而上学と呼ぶのは、これから起った。」(諸橋轍次『中国古典名言事典』より)


朱熹(1130-1200年)は程伊川(1033-1107年)の思想を受け継ぎ、この『易経』の言葉の中の「道」を「理」、「器」を「気」と定義しました。理も気も共に存在するものですが、理は非物質であり、気は物質です。これを理気二元論と呼びます。


現代の自然科学の中にも無数の法則や原理、定理が存在します。それらは形はありませんが、無いことを疑う科学者はいません。それを物質から独立させたのが朱子学のようです。


さてこの気一元論と理気二元論はどちらが正しいのでしょうか。どうもどちらも正しいように思えます。それはものごとを観察する視点が異なるというよりも、数えている対象が異なるのかもしれません。譬えると同じサイコロがあっても、一方はサイコロそのものを数え、もう一方はサイコロの目を数えているようなものです。


理気二元論は次第に気と理の価値の比重が変化していきました。人々の中で形而上的な理を重視する傾向がでてくると、現実をありのままに見れなくなり、現実が非有機的なものとなります。これが医学(例えば後期の後世方医学)の中で起こると悲劇が生じ、またそれが空理空論などと批判される対象にもなります。この問題は現代の医療界でもあるかもしれません。


(註1)ヘラクレイトス(BC540-480年頃): 古代ギリシャの哲学者。、「万物は流転する(Panta rhei)」の言葉で有名です(が本当に言ったかどうかは分かりません)。


(ムガク)


No.43 中医学に対する批判の存在

2008-08-07 18:54:21 | 医学のはなし

現在の東洋医学を代表するものの一つに中医学というものがあります。中国政府の積極的な研究奨励、保護、人材育成があり、また世界各地へと輸出され、日本漢方や鍼灸とは比較にならない大きな力を持っています。


この中医学は診療科目が内科、外科、婦人科、小児科など分類されている特徴をもっていますが、それ以上に医学理論が体系だっていることが特徴です。


この中医学に対して批判が存在します。そのうちの一つが、理論どおりそのまま治療を施しても治癒率が高くない。他の種類の治療法に切り替えたら治癒率が上がった。それ故、理論的過ぎる中医学は現実的ではない、というような批判です。さてこのような批判は妥当なものなのでしょうか。


そもそも中医学とは文化大革命以降に新しく創られた(まだ半世紀ほどの)医学です。それは伝統的な中国文明特有の医学をマルクス・レーニン主義の篩を通して創られたものです。その新しく創られた医学理論は正しいと言えるでしょうか。毛沢東(1893-1976年)は以下のように言っています。


「人間の正しい思想は、社会的実践のなかからだけ、くる。…無数の客観外界の現象は、人間の眼・耳・鼻・舌・身という五官をつうじて、自己の頭脳に反映し、はじめは感性認識となる。この感性認識の材料がたくさん蓄積されると、一つの飛躍が生じ、理性認識にかわる。これが思想である。これは一つの認識過程である。


これは認識過程全体の第一の段階、すなわち客観物質から主観精神への段階、存在から思想への段階である。このときの精神・思想(理論・政策・計画・方法をふくむ)が客観外界の法則を正しく反映しているか、どうかは、まだ証明されていないし、正しいかどうかも確定できない。


しかしさらに認識過程の第二の段階、すなわち精神から物質への段階、思想から存在への段階がある。これが、第一の段階で得た認識を社会的実践にもちこみ、これらの理論・政策・計画・方法などが所期の成功をおさめうるかどうかをためすのである。一般的に言って、成功したものは正しく、失敗したものはまちがっている。…人間の認識は実践という試練を経て、さらに一つの飛躍を生む。


…この飛躍だけが、認識の最初の飛躍、すなわち客観外界の反映過程から得た思想・理論・政策・方法などが、けっきょく正しかったか、まちがっていたかを証明でき、これ以外に真理を検証する方法はないからである。」(毛沢東『人間の正しい思想はどこからくるか』安藤彦太郎訳、より)


つまり中医学の理論は、つくられた当初は、正しいか否かは大した問題ではありませんでした。現在は実践を行っている途上のようですね。


「はじめにきめた思想・理論・計画・方策では、部分的にせよ全面的にせよ実際に合わず、部分的にまちがうことも全面的にまちがうこともある、…多くのばあい、何度も失敗をくりかえして、はじめてまちがった認識をただし、客観過程の法則性との合致に到達でき、したがって主観的なものを客観的なものに変える。


すなわち予期された結果を実践のなかで得ることができるようになるものである。だが、いずれにせよ、ここまできたとき、ある発展段階におけるある客観過程についての人間の認識運動は完成したことになるのである。」(毛沢東『実践論』より)


このような思想的背景により生まれた中医学は理論的と批判することは妥当ではないと思います。もし批判するのであれば、適切に実践を行い適切に飛躍をしているか否か、という点になるのでしょうか。それを国家の責任とするか、実践を行う医療者各々の責任とするか、それとも両方であるかは一つの問題です。


ちなみにこの思想(これを唯物論的弁証法と呼びますが)は日本の昭和時代における伝統医学界にも影響を与えました。その影響を受けた一人が鍼灸界の巨人、柳谷素霊です。


(ムガク)