はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.47 『老子』『荘子』と『孫子』と鍼灸医学

2008-09-06 19:51:18 | 医学のはなし

鍼灸医学は医学書『黄帝内経』(註1)により基礎が築かれましたが、それには陰陽五行説が含まれています。それは自然の物や現象、人体や生理など様々なものごとを陰陽五行に分類整理し、それぞれを関係づけて病気の診断治療に役立てています。しかし陰陽五行説は病気とは何であるのか、そしてどのように行動すべきかという問題の一部を説明するのみです。病気についての基本的な思想、方針はどうも『老子』『荘子』と『孫子』の思想に基づいているようです。そう思う理由は『黄帝内経』にそれらの用語が多く引用されているためだけではありません。


老子や荘子は「無為自然」を説いた道の哲学者であり、また孫子は兵法を説いた軍事戦略家です。一見すると何の関係も無いと思えなくもないですが、その間には共通点もあり、差異もあります。


まず『老子』、『荘子』と『孫子』の共通点はというと、これらはどれも戦いの哲学であるということです。つまり古代中国の春秋戦国時代という戦争と殺戮、権力闘争や欲望渦巻く世界の中で、死や恐怖、悲しみや苦しみに負けず、いかに勝利し生き残るかという知恵を語っているのです。そしてその方法は鬼神や呪い、オカルト的なものに依存しない、いわゆる合理的方法を選択しています。これは当時の陰陽家と一線を画すものでした。


甲骨文によると商王朝では病気とは祟りのようなものと捉えられていました。甲骨文が卜占により残されたことを考えると、たとえるなら、ある地域の病院に行ってこの地域は病人ばかりだと思ってしまうような錯誤と同じ可能性があります。しかし『春秋左氏伝』の医緩や子産の逸話によると春秋時代はまだ祟りや鬼神が信じられていた時代のようです。


『黄帝内経』は戦国時代から漢代にかけての医学論文集であるとする見方が有力のようです。戦国時代、斉の国は諸子百家による学問の中心地であり、陰陽五行論、道の哲学、兵法もこの国で栄えていました。『黄帝内経』はその思想のるつぼの中で形成されたのかもしれません。


そして当時の医学理論の中で、病気とは闘い勝利する対象であるという思想が生まれました。そこでの病気とは祈り、去ってもらう対象ではありません。現在でも「闘病」という言葉があるように、また東洋西洋かかわらず、この思想は生き残っています。(その後また別の思想も生まれましたが)


『老子』『荘子』と『孫子』の思想で異なっている点は、その戦いが『孫子』では国家(と国家)のレベルであり、『老子』『荘子』では個人(と社会)のレベルであるという点です。『黄帝内経』では戦いは人体内部(と環境)のレベルとなりました。


そのように考えると、この医学が何故、養生を大切にするのか、自然や季節に合わせることを大切にするのか、鍼や灸の治療方法や理論を発達させてきたのかという問題が解決できるようになります。それについてはまたいつか。


(註1)『黄帝内経』:『漢書芸文志』にその名前が残されている医学書ですが、三国時代の戦乱により消失しました。晋代に皇甫謐(214-282年)は自分が発見した『素問』と『鍼経』(『霊枢』)それぞれ九巻が『黄帝内経』であると主張し、現在はそれが通説となっています。


(ムガク)


No.46 五行について(その1)

2008-09-02 21:25:13 | 気・五行のはなし

中国伝統医学は陰陽五行説に基づくと(一般的には)言われています。さて五行とは何でしょうか。『漢辞海』によると「すべての物質を構成すると考えられた五つの元素、木・火・土・金・水。」と書かれています。五行とは本当にそのようなもなのでしょうか。とりあえず、朱熹の『近思録』を参照してみましょう。


「無極にして太極なり。太極動いて陽を生ず。動くこと極まって静なり。静にして陰を生ず。静なること極まって復た動く。一動一静、互にその根と為り。陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。陽変じ陰合して、水火木金土を生ず。五気順布し、四時行はる。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本と無極なり。五行の生ずるや、各其の性を一にす。無極の眞、二五の精、妙合して凝り、乾道は男を成し、坤道は女を成す。二気交感して、萬物を化生す。萬物生生して、変化窮りなし…」(道體類、秋月胤継訳)


とあります。朱熹は周濂渓(1017-1073年)の『太極図説』から影響を受けました。朱熹の完成させた朱子学は「格物致知」方針によりの自然科学的色合いが濃く出ています。それ故、五行は元素のように還元論的説明に使用されていますね。


しかし、五行の初出は『書経』洪範(註1)です。そして多くの儒学者や伝統医学に携わる人々は五行の説明に以下の文章を引用しています。


「一には五行、一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水を潤下と曰う、火を炎上と曰う、木を曲直と曰う、金を従革と曰う、土は爰に稼穡とす。潤下は鹹を作す、炎上は苦を作す、曲直は酸を作す、従革は辛を作す、稼穡は甘を作す…」


そして五行はそれぞれ上記の性質をもった万物の構成元素であり、またそれぞれが味を生み出す、というような解釈が一般的です。しかし残念ながらそれは本来的意味ではないようです。なぜなら単語の意味はその文章の前後や、その時代、状況などの関係によって決まるからです。


『書経』洪範の内容というのは(事実かどうかは別として)、周の武王が殷の紂王を滅ぼした後に(BC1027年頃)、殷のかつての名宰相箕子に天下を治めるにあたっての道を質問し、箕子がそれに答えるというものです。五行の後に五事や八政、五紀などと続いていきますが、それらは政治的な内容です。上記の(元素や「あじ」という)解釈には少し無理があるようです。


ところで、最古の漢字字典『説文解字』によると「五」の象形文字は「二」が「X」で繋がっている形をしています。それ故「五」とは五行であり、二つの陰陽が天地の間で交わることを意味していると記載しています。『説文解字』とは鄒衍(BC305-240年)の陰陽五行説が完成した後に作られた字典であり、全ての数を陰陽五行説を用いて説明しています。人々はある理論が完成するとそれから先、全てのものをそれにより解釈しようと努力してしまうようです。そして無理が積もり積もるとその理論を完全に捨てる人々も現れてきます。


さて『書経』の五行とは何かと簡単に言うとこれはメタファーです。


つづく


(註1)『書経』:帝尭以来の帝王の言行録を中心に、周から戦国時代にかけて書き継がれて成立した経書。現存の五十八編中二十五編は後世の偽作。『書』『尚書』とも。五経の一つ。(『漢辞海』より)


(ムガク)