鍼灸医学は医学書『黄帝内経』(註1)により基礎が築かれましたが、それには陰陽五行説が含まれています。それは自然の物や現象、人体や生理など様々なものごとを陰陽五行に分類整理し、それぞれを関係づけて病気の診断治療に役立てています。しかし陰陽五行説は病気とは何であるのか、そしてどのように行動すべきかという問題の一部を説明するのみです。病気についての基本的な思想、方針はどうも『老子』『荘子』と『孫子』の思想に基づいているようです。そう思う理由は『黄帝内経』にそれらの用語が多く引用されているためだけではありません。
老子や荘子は「無為自然」を説いた道の哲学者であり、また孫子は兵法を説いた軍事戦略家です。一見すると何の関係も無いと思えなくもないですが、その間には共通点もあり、差異もあります。
まず『老子』、『荘子』と『孫子』の共通点はというと、これらはどれも戦いの哲学であるということです。つまり古代中国の春秋戦国時代という戦争と殺戮、権力闘争や欲望渦巻く世界の中で、死や恐怖、悲しみや苦しみに負けず、いかに勝利し生き残るかという知恵を語っているのです。そしてその方法は鬼神や呪い、オカルト的なものに依存しない、いわゆる合理的方法を選択しています。これは当時の陰陽家と一線を画すものでした。
甲骨文によると商王朝では病気とは祟りのようなものと捉えられていました。甲骨文が卜占により残されたことを考えると、たとえるなら、ある地域の病院に行ってこの地域は病人ばかりだと思ってしまうような錯誤と同じ可能性があります。しかし『春秋左氏伝』の医緩や子産の逸話によると春秋時代はまだ祟りや鬼神が信じられていた時代のようです。
『黄帝内経』は戦国時代から漢代にかけての医学論文集であるとする見方が有力のようです。戦国時代、斉の国は諸子百家による学問の中心地であり、陰陽五行論、道の哲学、兵法もこの国で栄えていました。『黄帝内経』はその思想のるつぼの中で形成されたのかもしれません。
そして当時の医学理論の中で、病気とは闘い勝利する対象であるという思想が生まれました。そこでの病気とは祈り、去ってもらう対象ではありません。現在でも「闘病」という言葉があるように、また東洋西洋かかわらず、この思想は生き残っています。(その後また別の思想も生まれましたが)
『老子』『荘子』と『孫子』の思想で異なっている点は、その戦いが『孫子』では国家(と国家)のレベルであり、『老子』『荘子』では個人(と社会)のレベルであるという点です。『黄帝内経』では戦いは人体内部(と環境)のレベルとなりました。
そのように考えると、この医学が何故、養生を大切にするのか、自然や季節に合わせることを大切にするのか、鍼や灸の治療方法や理論を発達させてきたのかという問題が解決できるようになります。それについてはまたいつか。
(註1)『黄帝内経』:『漢書芸文志』にその名前が残されている医学書ですが、三国時代の戦乱により消失しました。晋代に皇甫謐(214-282年)は自分が発見した『素問』と『鍼経』(『霊枢』)それぞれ九巻が『黄帝内経』であると主張し、現在はそれが通説となっています。
(ムガク)