はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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024-お灸・漢意・もののあはれ-本居宣長と江戸時代の医学

2015-11-09 15:59:42 | 本居宣長と江戸時代の医学

 先日、東京は船堀で伝統鍼灸学会・第四十三回学術大会「日本伝統鍼灸の確立 ―よみがえる江戸―」が開かれました。普段お会いできなかったなつかしい先生方と言葉を交わしたり、貴重な講演、お話を聴くことができました。

 K先生やN先生の講演にはお灸の話が多く出てきました。M先生はこの分野における本居宣長の重要性に気づかれていました。今回は「宣長とお灸」をテーマにいたします。

  「病草子」

 お灸と言うのは艾(モグサ)を皮膚のツボなどの上で燃やす治療法で、鍼と同様、伝統医学・東洋医学の重要な位置を占めています。『詩経』や『周礼』にも『淮南子』や『荘子』などにもお灸が出てきます。司馬遷の『史記』「扁鵲倉公列伝」ではお灸での症例がいくつかあります。中国医学の古典『黄帝内経素問』や『黄帝内経霊枢』にはお灸の治療方がたくさん出てきました。『三国志』の華佗はお灸をすえる時は一、二箇所だけ、またそれぞれの箇所にも七、八壮すえるだけで、病気をすぐに治した、と伝えられています。

 『三国志』(『魏書』)「烏丸伝」には、「病気になると、彼らの知識では、艾で灸をしたり、あるいは焼いた石を患部におしあて、火をたいて温めた土の上に寝転がり、あるいは痛みのある病気の箇所ごとに、小刀で血管を切って血を出したりする。また天地山川の神々に病気の平癒を祈願する。鍼や薬はない」*1 とあります。

 また『黄帝内経素問』「異法方宜論」には、「北方地域の自然界の気候は冬季の状況によく似ており、閉し蔵める気象を有し、地形は比較的高く、人々は山稜に住み、普段は風が冷たく氷の張る環境の中にいます。北方地域の人たちは、遊牧生活を好み、四方の原野を仮住まいとし、食べ物はみな牛羊乳製品です。そこで内臓が寒を受け、脹満の疾病を生じやすくなります。これらの病気に対する治療法としては、艾を用いて焼灼すべきです。ですから艾灸による焼灼療法は、北方より伝来したものです」*2 とあります。

 お灸は中央アジアの遊牧民から中国を経て日本へ入ってきた治療法のようですね。

 安藤広重「中仙道六十九次 柏原」かめやはモグサ屋、奥に薬艾と書かれている

 艾はどうやって作るのでしょう。これは貝原益軒の『養生訓』「灸法」を見てみましょう。ちなみに江戸時代、本郷正豊が著した鍼灸医学書『鍼灸重宝記』にもお灸に関して同じ記載がありますが、より詳しく書かれているのは『養生訓』です。

艾葉の製法
 艾葉(ヨモギ葉で作る)とは、燃え草の略語である。三月三日、五月五日に採る。しかし長いのは良くないので、三月三日に採るのがもっとも良い。光沢のある葉を選んで、一葉ずつ摘み取って、広い器に入れ、一日中、天日に干して後、広く浅い器に入れ、広げて陰干しにする。数日後、良く乾いた時、また少し日に干して早く取り入れ、暖かいうちに臼で良くついて、葉が小さく砕けて屑になったものを、篩でふるって捨て、白くなったものを壺か箱かに入れ、あるいは袋に入れて保存し用いるが良い。
 また乾いた葉を袋に入れておいて、使用する時に臼でついても良い。茎と一緒にして軒に吊っておくのは良くない。性が弱くなるからである。使ってはいけない。三年以上経過したものを使用するのが良い。使用する時にあぶって乾かすが良い。すると灸に力があって火が燃えやすくなる。湿ったものは効力がない。*3

 ヨモギ

 と言うように、ほとんどのモグサはヨモギの葉を乾燥させ、すり潰し、篩にかけ、葉の裏の毛を集めて作ります。「ほとんど」と言うのは、ヨモギ以外で作るモグサもあるからです。例えばエビヅル。「この葉を日に乾かし揉んで灸に据えれば疣が落ちる」*4 と、イボを取るため、この植物の葉をモグサにすることもありました。

 エビヅル

 また現代でも養生灸と言って、病気にならないように据えるお灸もあります。『養生訓』にはこう記されています。

毎日すえる灸の効果
 今日では天枢脾兪(胃と膀胱の灸のつぼ)などのつぼに、一度に多くの灸をすえると、のぼせて、痛みに耐えられないと言って、一日に一、二壮、それを毎日続けて百壮に至る人がいる。また三里(胃脈に属するつぼ)に毎日一壮ずつ灸をして百日間つづけた人もいる。
 これもまたその時の気を防いで、風を退け、のぼせを下し、鼻血を止めて眼をはっきりさせ、胃の気を開き、食欲を増進させるので、もっとも有益であるという。
 が、私はこの方法を述べている医書をまだ見たことがない。だが、この方法を実行して効果があったという人の多いのも事実である。*3

 この養生灸、実は本居宣長も若いころ実践していました。宣長の日記、延享五年(=寛延元年・宣長十九歳)には「同十月上旬ヨリ、足三里三陰交に日灸をすへ始る。同しうひとり按摩をし始」と書かれてあります。宣長は、なぜ十九歳というまだ若いうちから養生のためにお灸を始めたのでしょう。

 それはその年、宣長は松坂の小津家から山田の今井田家に養子に行くことが決まったからでした。これまでしばらくの間「端原氏系図並城下絵図」のようなものを作り、空想の世界に遊んでいた宣長に、今井田家の跡を継ぎ家門を存続させるという重責が与えられたのです。宣長が正式に今井田家の養子になるまでは、小津家の一員としてその責務を果たさねばならなかった、そのための養生です。(もっとも宣長は今井田家に入ってからは「和歌道ニ志」し、紙問屋としての仕事をせず離縁され、また小津家に戻されてしまうのですけどね)

 宣長の「足三里三陰交に日灸」は養生灸ではなく病気の治療であった可能性はあるでしょうか。なくはないのですが、やはり養生灸と考えるのが妥当でしょう。なぜなら彼の日記にはその時に病気になったという記載がなく、また同時期、宣長は様々な書物から養生に関する事項を抜粋し、『覚』「養生紀」をまとめているからです。内容のいくつかを見てみましょう。

○病ハオコラヌ前ニ用心スベシ
○いつとても萬の病は気より生ず、気をつかわずして身をつかうべし、気をはらすべし、朝はやくおきて歩をはこぶべし、気はれやまいなし
○気ハ一身ノ主ナリ、カナラズ周流順行シテ病無ニ在、逆スル時ハ病生ず、男は其気ヲ養テ其神ヲ全スベシ、女ハ気ヲ平ニシテ其経ヲトトノウベシ、モシ七情ニヤブラルル者ハ、喜ブ時ハ気散ジ、怒ル時ハ逆シ、憂時ハ陥、思ウ時ハ結ル、悲ム時ハ消ズ、恐時ハ怯、驚時ハ耗也…
○人ノ一身ハ脾胃ヲ以テ主トス、脾胃ノ気実スル時ハ肺其ノ養ウ所ヲ得、肺気スデニ盛ナレバ水を自ラ生ず、水昇ル時ハ火降ル、水火既濟而、天地交泰の令を令クシテ脾胃スデニ虚スレバ、四臓トモニ生気ナシ、故に東垣ナド専ラ脾胃ヲ固クスルヲ本トス、腎ヲ補ウハ脾ヲ補ウニシカズト也
○無病トキ薬ヲ服スベカラズ、無病ノ時ハタダ常ノ食ニテ培養スベシ、無病ナルニ薬ヲ服スレバ、返テ病ヲ生ズ、薬ハ其性偏ナレバ也、モシ病有テ薬ヲ服ストモ、病イヘバ薬ヲ服スベカラズ也

 などと書かれています。どこかで見た考え方です。これまで「貝原益軒の養生訓」や「本居宣長と江戸時代の医学」を読んでくださった方はピンときましたね。宣長の生涯貫き通した医療の基本は、上京し医学を専門的に学んで身に付けたものではありません。江戸時代に流布していた、専門家でもなくても読むことのできる養生に関する書物、『察病指南』や『千金方』など、特に『養生訓』、それらに起源があるのです。

 起源はそこにあるのですが、基本が全く変化しなかった訳ではありません。医学の修行前後で何が変わったのでしょう。

それは「漢意」(カラゴコロ)です。

 「漢意」というのは何でしょう。宣長は『玉勝間』でこう述べます。

 漢意とは、漢国風(中国風)を好み、かの国を貴ぶのみを言うのではない。おおかた世の人の、萬の善悪是非を論い、物の理を定め言うたぐい、すべてみな漢籍の趣なるを言う。
 それは漢文を読む人だけにではない。書という物一つも見たことのない者も同じである。そもそも漢文を読まない人は、意識することはないが、何でも漢国を是として、まねる世の習いが千年も続いたので、自然とその意は世の中に行き渡りて、人の心の底に染みつき、常の地となった故に、我は漢意を持たないと思い、これは漢意ではない、当然の理(シカルベキコトワリ)であると思うことも、なお漢意から離れがたい習いである。
 そもそも、人の心は日本も外国も、異なることなく、善悪是非に二つなければ、別に漢意ということもないと思うことは、もっとものように聞こえるが、そう思うことも漢意であり、人の心からこの意を除くことは難しい。人の心の、いづれの国も異なることがないものは、根本の真心であり、漢文に言える趣は、みなかの国人の言葉が大げさで煩わしい利口ぶった心によって、偽り飾ったことばかりが多く、真心ではない。
 彼が是とすること、真の是にはあらず。非とすること、真の非であるたぐいも多ければ、善悪是非に二つなしとも言うことはできない。また当然の理と思いこむことも、漢意の当然の理にこそあれ、真の当然の理にあらざることも多い…。
 また太極無極陰陽乾坤八卦五行など、ことごとしく仰々しく言ったことも、ただ漢国人のわたくしの造説(ツクリゴト)にて、真にはそこに理などはない。*5

 その「漢意」、『覚』「養生紀」には(陰陽五行論的な)それがかなり含まれています。しかし、上京し医学を学んだ後からは、「漢意」が宣長の著作や覚書から影をひそめるのです。むしろあらゆるものから「漢意」を排除しようと努力し続けました。これは『古事記伝』「直毘霊」でも『石上私淑言」でも『うひ山ぶみ』でも生涯一貫しています。

 また松平康定の儒臣、小篠敏(おざさみぬ)は医者でもありましたが、宣長は門人の彼から、中国から新しくもたらされた医学書『温疫論』について質問されました。宣長の返答が天明五年九月廿八日の書簡に残されています。

医書温疫論、奇々妙々ニ思召候よし、其心得不申候、右之書何之やくニ立申書ニて無御座候、其論ノ、今ノ症ニ符合いたし候を以テ是ヲ信し候ハ、医の愚昧に御座候、此事甚論アル事也、又其薬方もさらに益なき事也、尚能々御工夫アルヘシ

 一読すると、おそらく多くの人が誤解してしまうかもしれませんが、これは『温疫論』、中国から入ってきた医学書やその薬方は役に立たない、と言っているのではないのです。なぜなら宣長は、その書に掲載されている薬方を実際の臨床でいくつも使用しているからです。

 『温疫論』はその大半が科学的根拠に裏付けされていない理論と説明によって構成されています。それ故宣長は、たとえそれが「今ノ症ニ符合いたし」、「其薬方」によって病が治癒したとしても、それらの理論や説明を信じることは、「医の愚昧に御座候」と言っているのでしょう。ここでは「漢意」を問題としているのであり、弟子にも注意するように説いているのでした。

 宣長の心は世間の人と同様、医学を学ぶ前は「漢意」に染まっていました。「おおかた世の人の、萬の善悪是非を論い、物の理を定め言」ったのは、若いころの宣長でもあったのです。宣長は若いころはどのように学問をしていたのでしょう。『玉勝間』でそれが分かります。

おのれは小さいころから、書を読むことが、何よりもおもしろく思って、読んでいた。それはしっかりした師について、本格的に学問していたのではない。何も志すこともなく、その筋と定めた方向もなく、ただ唐の大和の、いろいろな文を、有るにまかせ、得るにまかせ、古い近いもの問わず、何でも読んでいたが、十七、八歳になったころから、歌を詠みたい心が出てきて、詠み始めたが、それもまた師にしたがって、学んだものでもない。人に見せることもせず、ただ一人詠み出るばかりであった。歌集なども、古き近きこれかれと見て、形式どおりの今の世の詠みざまであった。かくて二十歳あまりになったころ、学問をしに、京に上った…。*6

 宣長は師に付かずに濫読することで学んでいました。ちょうどショーペンハウエルが言う以下のような状態だったのです。

 ショーペンハウエル

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほどんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実情である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。だが、バネに、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでにいたらない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。しかし一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。
 さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目をもちいなければならない。*7

 しかし宣長は京で堀景山に師事し、また契沖の著作『百人一首改観抄』に出会い、学問の方法を学ぶことができたのでした。また医者となったことが、宣長の学問を大成させた大きな要因となりました。つまり往診が主体である医者は一日の大半を歩くことに費やさねばならないのです。仕事の合間や夜間に読みこまれた膨大な書物は、歩いている間に「反芻され熟慮されるまでにいた」り、宣長の「精神の中に根をおろ」すことになりました。そうして宣長は「もののあはれ」の重要性を説いたのです。

「紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目をもちいなければならない」

 「漢意」を排斥した宣長ですが、医学修行中に全巻購入し読んだ『黄帝内経』、『素問』や『霊枢』、これらは陰陽五行論を核とした理論書としての側面が大きい医学書です。その医学の基礎理論を無視し、医療を行うことはできるのでしょうか。できます。江戸時代のその代表がいわゆる古方派、『傷寒論』などの古医方を学んだ流派です。しかし宣長を古方派と見なすことはできないと、これまでのブログで述べてきました。

 他にもあります。現代の日本の伝統医学・東洋医学にたずさわる医師や薬剤師、鍼灸師なども、たとえ陰陽五行論を患者への説明や、コミュニケーションの道具に利用していても、それが宇宙の根本原理であり、生命活動や病の治癒を完全に支配していると心の底から信じている人はいないでしょう。もしいたとしたら、その人は幸せです。理論があてはまるケースというものは探せばきりがないのですが、あてはまることがあっても理論が正しいと言うことはできません。「其論ノ、今ノ症ニ符合いたし候を以テ是ヲ信し候ハ、医の愚昧に御座候」なのです。

 では宣長は具体的にどのような方針により治療を行なっていたのでしょう。それを明らかにする鍵の一つが薬学書、『本草綱目』です。宣長は京で景山門の兄弟子、小児科医である武川幸順に師事し、最もよく学んだものの一つが薬学でした。

 薬学は観念的・抽象的な理論ではなく、実際に使用してみて具体的にどのような結果を生んだという経験を蓄積した学問です。宣長は『古事記』や『源氏物語』などの物語を非常に好みました。しかし人々の命を救うという現実の医者としての仕事の中では実践、実際に役に立つことを重視しており、それが宣長の症例に顕れているのです。

 では宣長は、より現実的な実践的な医学理論を、なぜ作らなかったのか。それについてはまた少し長くなるので後回しにし、話をお灸にもどします。

 宣長は医者としてお灸をどのように用いていたのでしょうか。彼はカルテを残さなかったので具体的なことは分かりません。小児科の内科医であった彼の治療は九割九分が薬物療法、湯液療法でした。しかしお灸を治療に用いていたことは、医療帳簿『済世録』にその記載が残されていることから確認できます。それによると、ある傾向が見えてきます。

1.宣長はお灸をする場所に印をつけるだけで、自分で灸をすえるわけではない。
2.お灸は初診の時、かつ一回限りの治療の時に用いられる。
3.お灸は宣長が五十歳(安永八年)から六十九歳(寛政十年)の期間、寛政七年をピークに年に一回から四回行なっている。
4.約五割の割合で診療報酬は請求していない。請求する場合はその半数が一匁、他は二または三匁。また金一分を貰ったことが一回ある。

 宣長は診療報酬を請求したのに支払われなかったのではなく、診療の半数は請求をしなかったのです。きっと初めから報酬をもらうことを想定していませんでした。なぜならその内の何人かは名前すら記録していませんし、一度しか治療していないからです。おそらく、往診先でそこの家の者以外から治療を頼まれた時、たまたま出先にて体調の悪い人と遭遇した時、何かの合間に「ちょっと具合が悪いのですが」などと相談された時、自分でお灸をしたいのでツボを教えてほしいと頼まれた時、機会的あるいは金銭的な条件により何度も診療できない時などに灸点を下したのでしょう。

 ではお灸はどこにしたか。症状や患者の証ごとにそれは異なるのでしょうが、どのように場所を決めたのでしょう。宣長は「漢意」を否定したので、抽象的な理論に基づいて位置を決定したわけではありません。では何に基づいてでしょうか。『経籍』、宣長の図書目録のうち「医書」(覚書の方)を見ると、その多くは小児科関係のものですが、鍼灸医学の古典『黄帝内経』を除けば、一つ鍼灸のものが見つけられます。それは本郷正豊の『鍼灸重宝記』です。

 『鍼灸重宝記』は宣長の誕生する十二年前、益軒が『養生訓』を出版した五年後、享保三年(1718年)に出版されました。正豊はどうしてこの本を出版したのでしょう。彼はあとがきにこう記しています。

鍼灸は『素問』『霊枢』を源流として、古の名医、扁鵲もまたこれを学んだと言っても、今の我が日本の諸々の医師は専ら湯液ばかりを用いて、鍼灸はただ腕の良くない医者や、盲人の業とされている。絶対に、これを捨て去ってはいけない。古来、鍼灸の書は多いと言っても文盲の人はどうしてこれを調べてみることができようか。故に私は、学問の浅狭さにもかかわらず、分をわきまえず、群書の要領を抜粋し、最も必要で重要な所を採録して、野巫(ヤブ)医者の助けになるようにした。そしてこれを名付けて「鍼灸調法記」と号した。請い願わくば、自ずから生きるべき者が、死なないように、生を救う一助になってほしい。

 これが正豊がこの本を出版した目的でした。その内容は『素問』『霊枢』に基づきながら、理論を極力排除し、治療法重視の実践的なものとなっています。

 『鍼灸重宝記』と言えば、忘れられない人がいます。それは近世の鍼灸の達人、八木下勝之助です。翁は十二歳の時に『鍼灸重宝記』を手に入れ、その後六十有余年、寝てもさめてもそれを懐から離したことがなく、これを唯一の経典として何百遍か繰り返し繰り返し克明に精読した、と伝えられています。古典鍼灸の大家、城一格は八木下翁についてこう述べています。

或る一書に絶対信頼をもって実地の活用に努力工夫したならば、そしてそれが良書であったならば、自然にその書の紙背にある真理が、心に会し手に得られて、ついにはその堂に進み、ここに確乎たる信念の下に活技を顕現する境地に達しうるのではないか。*8

 『鍼灸重宝記』をその体裁から、いわゆる鍼灸治療マニュアルのハンドブックとして見ることもできます。しかし「その書の紙背にある真理が、心に会し手に得られ」ると、マニュアル本が経典に変わります。それには「もののあはれを知る心」が必要なのです。

 本だけでなく人の話についても当てはまります。患者の話を聞いて、その心や病の原因を知ることができる医者や鍼灸師もいれば、あまりできない人もいます。ここにもやはり「もののあはれ」が重要です。

 宣長が『鍼灸重宝記』にのっとってお灸をしていた、という確かな証拠はまだありません。しかし、そうであったとしても、まったく不思議ではないし、むしろそうであった方が、しっくりくるのですが。真相はいかに。

つづく

(ムガク)

*1:陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史三国志4』魏書Ⅳ
*2:石田秀実監訳『現代語訳◎黄帝内経素問』上巻
*3:貝原益軒、伊藤友信訳『養生訓 全現代語訳』
*4:青木信一『妙藥植物圖鑑』
*5:本居宣長『玉勝間』「からごころ」「漢意」
*6:本居宣長『玉勝間』「おのが物まなびの有しやう」
*7:ショーペンハウエル、斎藤忍随訳『読書について』
*8:『柳谷素霊選集 下』「八木下翁実験実証 脈診による鍼灸治療法」

注:史料は分かりやすくするため適宜、現代語訳を行なっています。

家庭でもかんたん・もぐさの作り方

020―第百四十八段(三里のお灸)―徒然草の中の医療

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学