はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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貝原益軒について (修正版)

2015-06-27 17:06:24 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

 ここまで『養生訓』の解説をしてきましたが、貝原益軒についてはどんな人物なのかほとんど説明してませんでしたので、ここでざっと彼の経歴を見てみましょう。



一六三〇年 寛永七年
十一月十四日、福岡城内、東邸に生まれる。

 (この年は、徳川家光が征夷大将軍に就いてから八年後、古学者伊藤仁斎が四歳の頃です)

一六三五年 寛永十二年 五歳
四月三日、母を失う。

一六三六年 寛永十三年 六歳
草子類を読みはじめる。走ったり跳んだりすることが得意でなく、友人と遊ぶことを好まない。

一六三七年 寛永十四年 七歳
父寛斎にしたがって穂波郡八木山の知行所に移る。

一六三八年 寛永十五年 八歳
島原の乱、父従軍。次兄存斎から漢文の手ほどきをうける。家が貧しく、他から借りて平家・保元・平治物語を読む。

一六三九年 寛永十六年 九歳
次兄存斎、医をまなぶため京都に留学。

一六四〇年 寛永十七年 十歳
福岡の新大工町に移る。

一六四一年 寛永十八年 十一歳
父にしたがって怡土群井原に移る。太平記を読む。

一六四二年 寛永十九年      十二歳
継母を失う。

一六四三年 寛永二十年      十三歳
父寛斎、知行所を失う。生活のため福岡荒戸新町に出て医を営む。益軒、父の蔵書の医書を読む。次兄存斎、京都から帰り、 仏教をけなす。益軒、以後仏を拝しない。

一六四六年 正保三年        十六歳
荒津山の下に移る。はじめて『小学』を読む。

一六四七年 正保四年
三年前より江戸に留まっていた父帰る。

一六四八年 慶安元年 十八歳
任官して国主忠之の近侍となる。四人扶持。父にしたがってはじめて江戸に行く。

一六四九年 慶安二年 十九歳
江戸から帰って元服。忠之から譴責をうけ、十五日間閉門。

一六五〇年 慶安二年 二十歳
忠之の怒りにふれ失職。以後七年間浪人。

 (藩主黒田忠之は、お家騒動「黒田騒動」の中心人物であり、益軒はこの頃、その忠之から被害がありました)

一六五一年 慶安四年 二十一歳
『近思録』を読む。

一六五五年 明暦元年 二十五歳
長崎に遊ぶ。医者となる決心をし、江戸に行く。川崎の宿で剃髪し柔斎と称した。

 (江戸初期の医師は、剃髪をし僧衣を身に着けるのが常でした。士農工商の身分制度から外れた存在であるとアピールするためです。同じように、貴人に仕える近従や儒学者なども剃髪し僧衣を身に着けました)

一六五六年 明暦二年 二十六歳
国主の光之に仕え六人扶持をもらう。

一六五七年 明暦三年   二十七歳
京都に遊学、安楽小路上町に住む。山崎闇斎・木下順庵・松永尺五らを訪ねる。

 (益軒は藩費で儒学を学ぶため京に遊学することになりました。松永尺五と言えば、あの藤原惺窩の弟子であり、林羅山・那波活所・堀杏庵とともに窩門四天王と言われていました。残念ながら二ヶ月で尺五は他界しました)

一六五八年 万治元年     二十八歳
『大学』を講義する。木下順庵の講義に列する。

 (木下順庵は松永尺五の弟子であり、益軒と順庵はお互いに講義を聴きあっていました)

一六六二年 寛文二年     三十二歳
一時帰藩。三十石に加禄される。また京都に帰る。講義にあつまるものが多くなる。

 (益軒の講義は、『小学句読』『孝経』『大学章句』『論語集註』『近思録』などです)

一六六四年 寛文四年     三十四歳
福岡に帰る。知行一五十石となる。十月、江戸に行く。

一六六五年 寛文五年     三十五歳
三月、江戸を発し京都に滞在。父寛斎、福岡で死亡。著書『易学提要』『読書順序』

一六六六年 寛文六年     三十六歳
一月、福岡に帰る。十月、江戸に行く。

一六六七年 寛文七年     三十七歳
二月、京都に向かう。春夏の間に淋疾・疝気・痰火(気管支炎)を病む。秋、大和旅行。著書『止戈編』

一六六八年 寛文八年    三十八歳
六月二十六日、江崎広道の娘初(十六歳)と結婚。十一月、江戸に行く。髪をのばし久兵衛を名のる。著書『近思録備考』

 (益軒は、この歳に髪をのばしました。これは正式に医師を辞めて武士階級の儒者になったことを意味します。知行も儒臣として最高の二百石になりました)

一六六九年 寛文九年    三十九歳
三月、京都に向かう。七月、福岡に帰り、荒津の東浜に邸宅を国主よりもらう。著書『顧抄』『小学句読備考』

一六七一年 寛文十一年     四十一歳
三月、京都へ行く。七月、福岡に帰る。黒田家譜編集の命令をうける。

一六七三年 延宝元年    四十三歳
京都滞在一ヶ月

一六七四年 延宝二年    四十四歳
九月、主君光之にしたがって江戸に行く。

一六七五年 延宝三年    四十五歳
幕府薬園の薬草を見学。五月、福岡に帰る。

一六七六年 延宝四年    四十六歳
長崎に藩命で図書を買いに行く。

一六七七年 延宝五年    四十七歳
命令により宗像郡大島に行き漂流してきた朝鮮人と筆談する。その後も機会あるたびに朝鮮人と筆談し、朝鮮の学問と風習を知ろうとした。

一六七八年 延宝六年    四十八歳
『黒田家譜』をつくり献上して、光之より白銀百両をもらう。

一六七九年 延宝七年    四十九歳
著書『杖植紀行』『伊野太神宮縁起』『初学詩法』『増福院祭田記』

一六八〇年 延宝八年
長門・大阪・京都・奈良・吉野山・箕面・有馬を旅行。著書『畿内吟行』『京畿紀行』『大和河内路記』『本草綱目目録和名』

一六八一年 天和元年    五十一歳
飢饉、知行所の農民に銀一七一匁を分けあたえる。

一六八二年 天和二年    五十二歳
十月、海路江戸に行く。著書『頣生輯要』

一六八三年 天和三年 五十三歳
三月、江戸を出て伊勢・大和をへて京都に入る。五月、福岡に帰る。

一六八四年  貞亨元年 五十四歳
幕府の命で黒田長政の戦事歴の調査。二月、江戸に行き、関が原・播州をみて・五月、帰福。十一月、再度江戸に行く。著書「黒田公勲功記』『大宰府天満宮故実』『大学新疏』

一六八五年 貞享二年 五十五歳
三月、江戸を発し、日光・足利学校・妙義l山にいたり、中仙道をへて、東近江から敦賀に行く。四月、京都に入り、六月、帰福。著書『西帰吟稿』

一六八六年 貞享三年 五十六歳
明の朱竹坨、、長崎に来て益軒の『近思録備考』を読み、好著とし自ら筆写して帰る。

一六八七年 貞享四年 五十七歳
著書『学則』『和字家訓』『吾嬬路記』

一六八八年 元禄元年 五十八歳
筑前風土記をつくる準備をはじめる。国内を巡遊。七月、京都に行く。約一年滞在。米川玄察に筝を習う。十一月、南都見物。

一六八九年 元禄二年 五十九歳
一月、京都を出て、丹波・若狭・近江をめぐる。二月、河内和泉から紀伊に行く。五月、京都を発して帰福。著書『平韻弁声』『香譜』『厳島図並記事』

一六九〇年 元禄三年 六十歳
福岡。博多の諸寺をたずね故実を問う。西方諸群巡遊。著書『香椎宮紀事』『都鄙行遊記』

一六九一年 元禄四年     六十一歳
四月、京都に行き、五月、東近江に遊ぶ。八月、福岡に帰る。著書『黒田家臣由来記』『筑前名寄』『江東紀行』『背振山記』

一六九二年 元禄五年     六十二歳
四月、船で室津にいたり、書写山にのぼり、姫路・大阪・大和・伊勢をへて、五月、江戸に着く。七月、発して京都にいたって滞在。著書『続和漢名数』『壬申紀行』『大和巡覧記』

一六九三年 元禄六年     六十三歳
著書『磯光天照宮縁起』『講説規戒』

一六九四年 元禄七年     六十四歳
十一月、京都に行く。著書『熊野路記』『豊国紀行』

一六九五年 元禄八年     六十五歳
京都にあって公卿と交遊。五月、帰福。辞職を願ったが許されない。次兄存斎、死去。

一六九六年 元禄九年     六十六歳
知行三百石となる。客を招いて祝宴数日。

一六九八年 元禄十一年    六十八歳
二月、夫人・侍僕を伴って大阪・京都見物。九月、有馬温泉に遊ぶ。

一六九九年 元禄十二年    六十九歳
著書『和字解』『日本釈名』『三礼口訣』

一七〇〇年 元禄十三年     七十歳
七月、辞職を許される。

一七〇一年 元禄十四年 七十一歳
著書『近世武家編年略』『至要編』『宗像郡風土記』

一七〇二年 元禄十五年 七十二歳
末兄楽軒の病重く再三訪う。三月、楽軒、死去。著書『音楽紀聞』

一七〇三年 元禄十六年 七十三歳
国内巡遊。著書『筑前国続風土記』『点例』『和歌紀聞』『黒田忠之公譜』『五倫訓』『君子訓』

一七〇四年 宝永元年 七十四歳
夏、夫人大病。著書『宗像三社縁起並附録』『菜譜』

一七〇五年 宝永二年 七十五歳
命により『三才図会』の修補。著書『古詩断句』『鄙事記』

一七〇六年 宝永三年 七十六歳
『三才図会』の修補おわって献上。著書『和漢古諺』

一七〇七年 宝永四年 七十七歳
三月、国内を巡遊し古蹟をさぐる。五月、先君光之、死去。

一七〇八年 宝永五年 七十八歳
著書『大和俗訓』

一七〇九年 宝永八年 七十九歳
著書『大和木草』『岐蘇路記』『篤信一世用財記』

一七一〇年 宝永七年 八十歳
著書『楽訓』『和俗童子訓』

一七一一年 正徳元年 八十一歳
著書『岡湊神社縁起』『有馬名所記』『五常訓』『家道訓』

一七一二年 正徳二年
著書『心画規範』『自娯集』

一七一三年 正徳三年 八十三歳
秋より重症の東軒夫人、十二月二十六日、死去。著書『養生訓』『諸州巡覧記』『日光名勝記』

一七一四年 正徳四年 八十四歳
夫人を失ってから孤独でさびしく健康も正常を失う。春になっても客をことわって逢わない。二月に一度よくなって笛崎あたりまで出かけられるようになったが、四月、再発し、手足麻痺し、ついに起たない。夏に『大疑録』を完成、八月二十七日、死去。西町金竜寺の竜潜庵に葬る。

 十三歳の頃から、益軒は仏教を好みませんでした。埋葬は寺でしたが、葬儀は仏式でありません。ひたすら儒教の研究と普及に力を注いだ一生でした。

参考文献:『日本の名著 貝原益軒』中央公論社

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 027 (修正版)

2015-06-27 17:04:31 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

気は、一身体の内にあまねく行わたるべし。むねの中一所にあつむべからず。いかり、かなしみ、うれひ、思ひ、あれば、胸中一所に気とどこほりてあつまる。七情の過て滞るは病の生る基なり。

俗人は、慾をほしゐままにして、礼儀にそむき、気を養はずして、天年をたもたず。理気二ながら失へり。仙術の士は養気に偏にして、道理を好まず。故に礼儀をすててつとめず。陋儒は理に偏にして気を養はず。修養の道をしらずして天年をたもたず。此三つは、ともに君子の行ふ道にあらず。

(解説)

 貝原益軒はここまで養生法にことよせて君子の道を説いてきました。人には色々な生き方があります。俗人、仙術の士、また陋儒などの生き方ですが、陋儒は、儒者の中でも頭でっかちで理屈を弄ぶだけで正しい行動をしません。彼らは、「理に偏にして気を養はず。修養の道をしらずして天年をたもた」ないのです。仙術の士は、仙人になること、仙術を会得することを目的に修行を積み重ねますが、道理や礼儀を修め、天下万民に尽くすことを考えません。彼らは、「養気に偏にして、道理を好まず」、「礼儀をすててつとめ」ないのです。そして俗人ではそのどちらの生き方もせず、「慾をほしゐままにして、礼儀にそむき、気を養はずして、天年をたもたず、理気二ながら失」います。

 理と気、これらは「総論上 解説023」でもでてきましたが、何なのでしょうか。『易経』繋辞伝には、「一陰一陽、之を道と謂う」とありますが、これに対し、程伊川(宋代の哲学者、朱子学の始祖の一人)はこう言っています。「陰陽は気なり。気は是れ形而下なるもの、道は是れ形而上なるもの」と。つまり、ここでの理は、道理の理であり、また形而上の存在であることが分かります。形而上とは、形の無いもの、例えば「一年は約365日である」とか、「人は誰でも必ず死ぬ」、「何の養生もしなければ天年を保てない」などの事柄がそうです。これらはモノではありませんね。また気とは、固体でも、液体でも、気体でも何でもいいのですが、形而下の存在であり、これは物質のことです。

 人の身体は天地の気が聚まったものであるので、死んでしまうことは気を失うことであり、「慾をほしゐままにして、礼儀にそむ」く生き方は、理に背くことである。そう益軒はここで言ったのです。

 益軒は黒田藩の、また日の本の儒者として、天下の民の感化に力を注いできました。儒学の講義を続け、儒学を一般の人にも分かりやすく読み下した本を作ったり、時には自ら知行所の領主として飢饉の時に農民に施しをしました。『養生訓』総論上には『孫子』など兵法の話がよく出てきましたが、益軒の仕えた黒田光之は、豊臣秀吉の成功を支えた兵法家、黒田官兵衛の子孫です。黒田藩には自然と兵学を大切にする空気があり、中国の医学は、また養生法も、兵法と深く関連しているのですが、益軒はこのような藩の中で、その関連を隠すことなく、惜しみなく披露することができたのです。

 総論上はこれで終わりです。次は総論下です。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 026 (修正版)

2015-06-27 16:56:12 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の道は、恣なるを戒とし、慎を専とす。恣なるとは慾にまけてつつしまざる也。慎は是恣なるのうら也。つつしみは畏を以、本とす。畏るるとは大事にするを云。俗のことわざに、用心は臆病にせよと云がごとし。孫真人も、養生は畏るるを以本とす、といへり。是養生の要也。養生の道におゐては、けなげなるはあしく、おそれつつしむ事、つねにちいさき一はしを、わたるが如くなるべし。是畏るなり。わかき時は、血気さかんにして、つよきにまかせて病をおそれず、慾をほしゐままにする故に、病おこりやすし。すべて病は故なくてむなしくはおこらず、必、慎まざるよりおこる。殊に老年は身よはし、尤おそるべし。おそれざれば老若ともに多病にして、天年をたもちがたし。

人の身をたもつには、養生の道をたのむべし。針灸と薬力とをたのむべからず。人の身には口腹耳目の欲ありて、身をせむるもの多し。古人のをしえに、養生のいたれる法あり。孟子にいはゆる、慾を寡くする、これなり。宋の王昭素も、身を養ふ事は慾を寡するにしくはなし、と云。省心録にも、慾多ければ即ち生を傷る、といへり。およそ人のやまひは、皆わが身の慾をほしゐままにして、つつしまざるよりおこる。養生の士はつねにこれを戒とすべし。

(解説)

 益軒はここでも、畏れ慎しみ、そして慾を少なくするようにと説きます。孫真人とは唐代の医師であり、『千金方』を著しました。益軒は『養生訓』巻六択医で、「孫思邈は、又、養生の祖なり。千金方をあらはす。養生の術も医方も、皆宗とすべし。老荘を好んで異術の人なれど、長ずる所多し。医生にすすむるに、儒書に通じ、易を知るを以てす。廬照鄰に答えし数語、皆、至理あり。此人、後世に益あり。医術に功ある事、皇甫謐、葛洪、陶弘景等の諸子に越たり。寿、百余歳なりしは、よく保養の術に長ぜし効なるべし」、と述べています。

 また、ここでは慾を少なくするを説くために、孟子や宋代の道徳人王昭素、同じく宋代の詩人林逋の『省心録』などから言葉を集めました。主張していることは、今まで「養生訓総論上」で述べてきたことと同じです。益軒はそれを言葉を換え、角度を変えながら繰り返します。

(ムガク)

江戸時代の外科手術(6)-腫物に針を刺切焼法- (修正版)

2015-06-11 19:40:56 | 江戸時代の医学

 前回の「鉄砲之玉をぬく方」では灸が少し出てきたので、今回は針を使う治療法をご紹介しましょう。

萬ノ腫物ニ針ヲサスハ、先ツ腫物処ヲ見テ、アシキ処カ、亦ハ脉処ナラバ針ヲササズ、膏薬ニテ吸ヤブラセヨ。両ノ手ノ脉計ニテアラズ。動脉トテ幾処モ身ノ内ニヲドル処アリ。



 すべての腫物に針をして良いというわけではありません。治療前によく見て、アシキ処、つまり心臓や肺など針が内臓に達するおそれがあるなど針をするのに向いていない部位や、動脈がある部位には針をせずに、膏薬で治療します。
 両ノ手ノ脉計とは寸口の脉のこと、つまり手首の脈、橈骨動脈のことです。医者はここの動脈の拍動から患者さんが助かるかどうかを診ました。ちなみに重傷の人の脉は「沈小弱沈遅」がよく、「浮大浮数」はよくないと考えられていました。当時は医者の間で脉といえばここを指すので、ここではなく全身にある拍動する動脈のことである、と言っているのです。

夜ツネニ我身ノ内ニテ覚ベシ。又筋ノアル処ヲヨケテサスベシ。

 これは、つねづね夜中に自分の身体を触って、どこに動脈があるか確認するようにという意味です。夜中の暗く静かな環境では感覚が研ぎ澄まされ、小さな拍動の動脈も発見できるようになります。また訓練を重ねると騒がしい昼間でも分かるようになります。これが夜に行う主な理由だと思いますが、昼間だと、裸になって自分の全身を触っている姿を人に見られるリスクが高い、というのも理由かもしれません。
 筋や腱は避けて針をするように、とのことです。

 三稜鍼

膿タルハ押テ見ルニ、クボクナリタル処指ヲトレバ上ヘフキアガルナリ。ウマヌハ押テ見レハ、クボクナリテアガラヌゾ。

 これは腫物が膿んでいるかどうか調べる方法です。

ウマヌニサセハ、針殊外イタムナリ。アトモ久シクウヅクナリ。

 膿んでもいないのに、針を刺すと結構痛いし、痛みが長く続きます。針をするのは膿んでいる腫物に限ります。
 ちなみにここでの針は火鍼のこと、燔鍼とも焼鍼とも呼ばれます。火で真っ赤になるほど熱した針を刺して、排膿するとともに、熱により内部を消毒します。この一石二鳥の方法は、意外にも抗生物質の服用や単なるメスでの切開よりも、早くすっきりと治ります。しかしこの火針は、何度も自分の身体で試しましたが、勇気が毎回必要です。

針ヲタテニサセバ、タトヒ筋ヲ刺テモ筋キレズ。ヨコニサセバ筋キレテ針刺ヤウノナンニナルヘシ。フカサハ大形ハ三分四分入レヨ。物ニヨリテ五六分モ入ヨ。

 これは筋肉や腱の流れ、起始停止を結ぶ直線に平行に針をすると、たとえ筋に針を刺しても筋が切れることはありません。しかし垂直に針すると筋が切れることがあります。針刺ヤウノナンとは針刺様の難のこと。

針サシテアトヘサグリヲ入テ、サグレハ殊外膿血出ルナリ。押ベカラズ。ヲセハ肉イタムゾ。

 腫物に針を刺したまま、グリグリと動かすと膿だけでなく、血も出て肉が傷むので、必要以上に針を入れてはいけません。

口ニ紙ヨリヲシテ四分ホド入テヲケ。ソレヲノミト云フソ。長サ八分許シテ内ヘ四五分サシ入、アマリハ腫物ノハリグチヘヨコニシテ折イガメ、其上ニカウヤクヲ付テヲキ毎日右ノ如クカウヤク付替ル時ノミヲヌキ、又ノミヲ今付ヨ。次第に内イユレハ、ノミ入時ソコイタムソ。其時ハノミイレズ。

 また傷口に和紙をひねって作ったこよりを入れて残っている膿を吸い取らせます。ノミとは隙間にいれる詰め物のこと。こよりは8cmくらいで中へ4、5cmほど入れて、残りは横に折り曲げて、その上から膏薬を貼ります。こよりは毎日取り替えるので、少し長めに作っておくと、それが楽になります。次第に治ってくると、ノミを入れると痛むので、そうなったらもう入れる必要はありません。

     ついでながら、ここで使える膏薬についても紹介しておきましょう。

○黄膏ハウミスイアゲシ、シアゲイヤスコトハヤシ。
○紫金膏ハヨクウミヲスイ肉ヲアグル、イタミヲトムル、イヘヤスシ。
○青膏モ同前

 気づかれた人もいると思いますが、似たような名前の薬が今でも売られていますね。そう、一般的に華岡青洲が考案したとされる中黄膏と紫雲膏です。それぞれ黄柏と紫根が主成分です。

つづく

(ムガク)

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


江戸時代の外科手術(5)-鉄砲之玉をぬく方- (修正版)

2015-06-11 19:39:24 | 江戸時代の医学

 今回は鉄砲で撃たれて、その銃弾が体内に残った時にそれを摘出するための手術です。現代の日本ではほとんど関係ないですね。でもこれも歴史と文化の勉強です。

 「賤ヶ岳合戦図屏風」

先其疵、此如灸ヲシテ、抜薬ヲ入テヲケバ六七日ホドシテクサルナリ。其時キリヤブリ玉ヲトリ出シ、アトニハ青膏ヲ付ヨ。



 銃弾が身体の深くに残った場合は、上の図のように銃創とその周囲の四点に灸をします。灸とはヨモギから作られた艾を身体の表面で燃やす治療法のこと。もともとはユーラシア大陸の遊牧民族、烏丸族などの伝統的な治療法でした(正史『三国志』魏書参照)。それが春秋戦国時代あたりには中国にもたらされ(『孟子』参照)、その後日本へ輸入されたようです。灸は身体を温めるという作用とともに、患部を熱により消毒する作用があります。また人工的に火傷を作ることにより、白血球数などが増加することが知られています。
 抜薬については後にくわしく記されています。

亦処アサク玉アラバ、当座ニキリヤブリ、テンタヲ入テスクヒトルナリ。

 銃弾が浅い所にある場合は、すぐさま摘出します。テンタとは「玉ヲトル道具」のこと。

弱モノニハ気付ヲ度々用テ気ヲトリタテ療治スベシ。

 患者さんが弱っている場合は気付を行います。「腹を納る法」でも気付が出てきましたが、ここでは気付の薬を二種類ほどご紹介しましょう。
 まずは蒲黄散、これは「金瘡並産婦気ヲ失ウヲ治スルコト神ノ如シ」と言われていました。これは蒲黄、人参、葛根、甘草、胡椒などを粉末にして服用させます。これは蒲黄が主薬です。大国主神が因幡の白兎を治療するために使ったことで知られていますね。止血の効果が高いので出血した時の気付向きです。
 それから茯神散、これは当帰、川芎、人参、白茯神、赤茯苓を煎じて使います。これは気血を補い、その巡りを促進するため、貧血や立ちくらみのような症状の時の気付に良いでしょう。
 次に抜薬について記載されています。

 矢根ヨロズ鉄針木竹肉ノ中ニ有を抜薬
○磁石(一匁)、鮫皮(内ノ白トリ用)、生栗、松茸、各七分
右細末ニシテ之塗、竹木ヲ抜ニハ磁石ヲ去リ、柿核霜加ヘテ水ニテネバネバトシテ付ル。

 面白い配合ですね。中国にもヨーロッパにもない処方かもしれません。主薬が磁石、つまりここでは朱砂です。殺菌消毒が目的です。また鮫、栗、松茸、これらは内服薬として使用されることがありますが、外用薬として使っている医学文献を、まだこれ以外見たことがありません。栗、松茸、柿と秋の味覚、おいしそうな薬剤です。きっと秋に開発された薬なのでしょう。ネバネバにするためだけでしょうか。いえ、目的は患部を腐らせること、そして弾丸を排出しやすくすることです。しかし、どの程度効果があるかは不明です。ちなみに栗粉は小麦粉の代用品にもなるので良い基材になりそうです。
 そう言えば天明八年(1788年)に「柿栗松茸」という落語が作られましたが、『外科手引艸』が記されたのは天明七年、その一年前です。何か関係有るのでしょうか…。

 なさそうですね。

○抜毒散 萬腫物ノ根ヲ抜ク、亦金創鉄砲之玉抜取ニ用ユ。秘伝ノ薬ナリ。
信石(五分)、赤六(五分)、雄黄(一匁)

 信石とは砒霜とも呼ばれ、三酸化二砒素 (As2O3 )のことです。昔から外用、特に患部が腐るような時、また内服にも使われてきました。砒素なので高い毒性がありますが、現在でも白血病や骨髄異形成症候群、多発性骨髄腫にも使われています。雄黄とは(三)硫化砒素(AsS・As2S3)のこと。これも皮膚の化膿や傷、寄生虫症など解毒や虫下しに使われてきました。信石ほどではないにしろ、砒素なので毒性があります。
 赤六とはアカニシ(赤螺)の黒焼きのことです。現在ではサザエの代用品として知られています。

右三味細末ニシテ、腫物ニハナカミ四分バカリニフトサ一分ニシテ、ソクイニテ、口ニ入ル。又金創ニモ右ノ通ナリ。但シ、スグニ用ルコト。有ソクイニテヲシ合セ丸メテ用ユルコトモアリ。口伝ナリ。

 この三味を粉末にしてから練って長さ4cm、太さ1cmくらいの円柱状に形を整え、傷口に挿入します。傷を負ったらすぐに手当てすること。あるいは丸めて用いることもあります。口伝ナリとは、実際のこと、臨床の微妙なことは面と向かって伝えるということです。

つづく

(ムガク)

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


江戸時代の外科手術(4)-手足の落たるを続法- (修正版)

2015-06-10 20:01:26 | 江戸時代の医学

 今回は手足を切り落とされてしまった時の手術です。紹介はしますが、真似はしないでくださいね。身近な人の手足が切れて落ちたら、応急救護をして救急車を呼びましょう。

 「施薬院男解体臓図」

先、ヲチタル手ヲトリヨセ、砂ナドツキタラバ其口ヲ洗テ、能々見ヨ。筋肉ノ内ヘチヂミ入テアルモノナリ。



 其口ヲ洗テとありますが、洗う方法はいくつもあります。ここでは疵洗薬を使う方法をご紹介しましょう。疵洗薬は藤瘤、蓮葉、石南、車前草、それから塩を三合、水を八升を煎じて六升五分になるまで煮詰めて作ります。これを温かいうちに疵口にかけて洗うのです。これは相当塩分濃度が高いことが分かると思います。仮に天然塩で一合170gとした場合だと、この塩分濃度は7.8%あり、人間の体液の浸透圧が0.9%の食塩水と同じなので、相当しみるはずです。しかしそれを補って余りあるメリットがあります。それは煮沸消毒した直後の洗浄液を使用するという点と、浸透圧による殺菌を期待できるという点です。
 ちなみに疵口を温めた酒で洗うという方法もあります。華岡青洲も焼酎で傷を洗ったように、これらはアルコール消毒のことですね。

ソレヲツガニノツメニテ筋ヲカキヲコシ、トウシンニテモ生柳ノ枝ナリトモ骨ノ内ヘシンニ入レ両方ノ筋ヲ合セ、皮ノ上ニ墨ニテシルシヲシテヲキ、…

 ちょっと長い文なので、間に解説を挟みましょう。ツガニ(頭蟹)とはモクズガニという蟹のことです。日頃、その蟹を多く採っておき、肉やミソを全て取り去り、干して保存しておきます。その蟹の爪を、落ちた手の切口の内側に縮み入った筋肉を掻き起こすのに使います。そして灯心や生柳ノ枝など細い棒を、骨の切口の穴に入れて真っ直ぐになるようにし、両方の筋肉を合わせて正しい位置になるように調節して、ずれないように皮膚の上に墨で印を付けておきます。

扨、筋渡シノ薬ヲ両方ノ筋ノ処ニバカリ貼テ、落タルキレクチニ人油ヲヌリ、アイシルシノテンニ合セ少シモチガハヌヤウニヲシ合セテ、針ニ糸ヲツケテ八處ヌヒテ、人油ヲ切口ニクルリト引テ、…

 筋渡シノ薬は河童から製法を教わったという伝説の薬の名前。新撰組の芹沢鴨が作っていたことでも知られています。医者がそれぞれ独自の秘伝の製法を持っていたようですね。詳細は不明ですが、おそらくここでは人油膏の一種(人油や葡萄酒、野師油、乳香、小麦などから作られた軟膏)のことだろうと思います。
 墨でつけた印に合わせて、筋肉や腱を縫合していきます。

偖テ唐綿ノイカニモホソキウスキカネキンヲ水ニテ洗ヒ蝋気ヲナクシテ、常ニタクハヘ置、長サ三寸ホドハバ四分カ三分ニイクツモキリテ、…

 これは手術用の脱脂綿の作り方ですね。長さが約9cm、幅は3、4cm。カネキンとはカナキン(金巾)のこと。ガーゼのポルトガル語です。

其モメンニ天利膏ヲアツク貼テ、鶏ノ卵ツブシ白ミヲ皿ニ入テ、天利膏ノ貼タル木綿ヲタマゴニヒタヒタニツケテ、ヌウタルイトヲ一処ツツニテキリテ、合セタル両口ヲモメンノマンナカニナルヤウニ間ヲ一分カ半分アケテクルリトツケテ、其上ニ青膏ヲ紙ニ付テ、上ヲ張ナリ。

 前々回(腹を納る法)でも出てきた、鶏ノ卵。古来、日本で使われてきたその卵の白身は無菌状態であり、良質のタンパク質を豊富に含み、また細菌の細胞壁を分解するリゾチームも含んでいます。卵を割らない限り、衛生状態が保たれるので、合戦の陣中でも使える質の良い薬でした。
 次の段落はグロテスクな表現を含みますので、気の弱い方は飛ばしてお読みください。

其上ヲ鶏ノヒヨコノウヅラホドナルヲケヲムシリ、クビノキハカラト羽モ胴ノキワカラ足モキワカラキリテ、二ツニワリテワタヲ去テ温マリ有ル内ニヲチタル方ヘ大分カケテクルリトマクホド、ヒヨコヲキリテマキ、上ヲフクサニテツツミ、イタニノセテ、ヲチタル方ヲ少シサカリカゲンニシテ女ヲソバニヲキ、ヲチタル方ヲソロソロサスラスベシ。ソバ伴ヲツケヲクベシ。

 ウズラ位の大きさの鶏ノヒヨコを用意します。それを生きたまま毛をむしり、首と羽と足を根元から切断します。そして胴体を二つに割って、内臓を取り、温かいうちに、切断した手の末端側、青膏を貼布した上に、くるりと巻いていきます。大部分を覆ったらフクサで包みます。患部を板にのせて位置を少し下げます。馬肉の湿布というものがありますが、このヒヨコの湿布は作用がまったく異なります。馬肉の湿布は冷やして炎症を鎮めるのが目的ですが、これは保温が主な目的です。またヒヨコの若い生命力や成長促進因子をもらう、という意味もあったかもしれません。手を少し下げるというのは新鮮な血液を供給させたいがため。そしてマッサージを行います。

次ノ日ハイロハズ中一日ヲキテヒヨコヲトリ、青膏モ天利膏モトリテ亦前ノ如ク療治スベシ。十五六日シテ本ノ如クツゲルナリ。股ヲツグモ同前ナリ。少シ二三分ホド成トモ皮カカリアレバ、ナヲナヲツギヤスシ。

 次の日は何もしないで、中一日おいたら全て取り替えます。これを繰り返すと15、6日ほどで手は元通りにつながる、とのことです。しかし、ここでは血管も神経も縫合していませんし、元通り動かせたか否かは不明です。現代の日本での実証は困難でしょう。

惣ジテ手ヲヒニカカリテハ、今死スルモノニモイカニモ心ヤスキヤウニ云モノナリ。ソレニテ手ヲヒチカラヲエルナリ。ソバノ人ガ云分ニハ實ニセネトモ、医者ノ言コトハ實トヲモヒテ気ヲヨクスルモノナリ。大事ノ手ヲヒナラバ、手ヲヒニカクシテシンシヤクスベシ。

 手ヲヒとは患者さんのこと。一般的に、今にも死にそうな患者さんにでも、安心するように話さねばなりません。そうすると患者さんは治す力を得られるのです。身近の人からの励ましを信用しなくても、医者が「大丈夫。心配いらないよ。だんだん良くなるよ」などと言えば本当のことだと思って、気分が良くなります。命の危険がある患者さんに「あなたは死ぬかもしれない」などと言わず、斟酌すべきであると、言っています。

 ここであえてこのように言及しているのは、当時死にそうだと思われる患者さんに、「あなたは死ぬ」という医者がいたからです。でもこれは江戸時代からではありません。二千年以上前から死を予言する医者の逸話が数多く残されているのです。むしろ死を予言することが名医であるように伝えられてきたので、医者がそれを目指すことは普通でした。現代でも「あなたの病気は治りません。余命〇年です。あきらめなさい」などと医者から言われる患者さんが結構いますね。でも、もしそう言われても信じないことです。フランスの哲学者、アランも以下のように言っています。

カッサンドラは不幸を告げる。眠っている魂たちよ、かずかずのカッサンドラに不信をいだけ。真の人間は奮起して未来をつくるのである。

つづく

(ムガク)

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


江戸時代の外科手術(3)-疵を縫う法- (修正版)

2015-06-10 20:00:56 | 江戸時代の医学

前回(腹を納る法)、前々回(頭脳を納る法)と傷口の縫合が出てきましたが、今回はそれについて、もう少し詳しくご紹介いたします。出典はやはり『外科手引艸』からです。

針ハ皮ヌイ針ヲ用ユ。糸ハ南毛大白上々ヲ、ツネノ絹糸ノフトサニシテ、イカニモクリニヨラセテ持ツナリ。其糸ヲ長サ一尺ホドヅツニシテヌウナリ。



 南毛とは南蛮から輸入された木綿糸、コットンのこと。 大白とは、きわめて清潔なものという意味です。それを撚ってふつうの絹糸の太さにして使用します。  現代でも縫合の糸には、化学合成のもの(ナイロンなど)がいろいろ出て来ていますが、依然、絹糸も使われています。絹糸は自然のものの中で人体への親和性が高く、縫合には最適なのですが、この当時は使うことが出来ませんでした。なぜなら絹は非常に高価なものであり、また一般人の使用には規制があったからです。そんな訳で華岡青洲も縫合には絹糸を使えず、蝋を引いた木綿糸を使っていたのです。ちなみに麻糸だと小児などの柔らかい肉が切れやすいので、使い難かったようですね。(『外科摘要』参照)

一処ヅツニテヨクシメテ、三ツハカリムスビテ、残リノ糸ハキルナリ。腸入レテモヌイ、手足ツギテモ縫、イグチヲツギテモヌウナリ。イグチツグニハ三処ヌウナリ。何モ糸ハ一処ヅツニテヌイキルベシ。

  糸は一つ縫うごとによく締めて、三つ結び、切ります。こうすると抜糸するのが楽になります。イグチとは生まれながらにして、口唇が縦に裂けている奇形のことです。今で言うところの口唇裂のこと。

ウチ身ニモキヅニヨリヌウコトアリ。同シ心得ナリ。其薬モ人油、天利膏ヲ用ユ同前ナリ。

 縫合した傷口の上には例によって人油、天利膏を使います。これが縫合の一つの方法です。

 『金創口授』より

つづく

(ムガク)

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江戸時代の外科手術(2)-腹を納る法- (修正版)

2015-06-10 06:09:55 | 江戸時代の医学

 今回はお腹を刀などで切られてしまい、はらわたが出てしまった時の手術です。紹介はしますが、真似はしないでくださいね。身近な人のお腹が裂けてしまったら、応急救護をして救急車を呼びましょう。

 「寛政婦人解剖図」

腹ヲ納ルコト先ツ、気付ヲ用テ入ルベシ。大麦ヲヨク煮テ其汁ニテ腹ヲ洗ヒテ、モシ腹ニ疵アラバ人油ヲ付テ糸ヲ以テヌイ、右ノ麦ノ煮タルアツキヲフクサモノニツツミ、二ツモ三ツモコシラヘテ腹ニヲシアテ、腹をアタタムナリ。アタタマレハ、腹ヤハラクナリ、チイサク成ナリ。冷レハコハバリ、大キニフトルナリ。



 お腹を入れるに先立って、患者さんを気付けさせます。それから大麦を使うのですが、これは煮汁とカスを両方使います。煮汁はお腹の洗浄に使いますが、この中にはカンジシンが含まれています。これは血圧を上げたり、呼吸や心拍数を抑制したりといった作用を持っています。また煮出した麦は熱いうちにフクサに包んでホットパック(カイロ)を作ります。こうしてお腹を温めると、傷口の筋肉が過剰に収縮した状態を緩和できます。一石二鳥ですね。

サテ生レテ十七日ノ内ノ赤子ノフンヲ、鳥ノ羽ニテヨク腹ニクルリトツケテ、柳ノヘラニテソロソロト押シ入ベシ。イラズバ、人ヲシテ童ノアヲノキネタルヲ膝ヘアゲルヤウニ、病人ノ左ノ方ヨリ片手ハクビボンノクボヘ入レ、片手ハ足ノヒツカガミニサシ入レテ、ソロソロヲコサセテヘラニテ押入ルベシ。入レテ両ノ疵ノ口ニ人油ヲ引テヌウナリ。人油ヲ引トキシヅクモ内ハヲチヌヤウニ引ベキナリ。

 前回の「頭脳を納る法」でも出てきた赤子のフン、これは生後17日以内のものを使います。赤ちゃんのウンチは、生まれてからの日数とともに質が変ってきます。だんだんと臭いが強くなり、清潔でなくなってくるのです。なので外科医は、どの家にいつ生まれた赤ん坊がいるか、常に調べておく必要があったでしょうね。
 鳥ノ羽は、柔らかくて人体に与える刺激が少なく、フンをまんべんなく塗るために使います。これも清潔なものが良いですね。
 柳ノヘラはしなりがあり柔らかく、またサリチル酸を含んでいるので、痛みや炎症に少しは良いかもしれません。でもこれを使う最も重要な理由は、後に記されています。
 赤ちゃんのオムツを換える時の姿勢にするとお腹が緩み、はらわたを入れやすくなります。

サテ疵ノ大小ニヨリ、イク処ナリトモヌイテ、天利ヲモメンニ付テタマゴニヒタシ、上ニ付テ其上ニ青膏ヲ紙ニ付テ上ニ貼ヲクナリ。毎日天利青膏ヲ替テ療治スベキナリ。

 天利青膏は前回も出てきましたね。

多クハ入リ残リタル腹有ベシ。其レハ巴豆ヲ皮ヲ去リテ油ヲトリ、右ノ糸三筋バカリ一ツニ合セ、其糸ニ巴豆ノ油ヲヨク付テ腹ノ入リノコリタルキハヲ三ツ四ツマトヒテ、シツカリトムスビテ、糸サキヲキリテ、上ニ青膏ヲ付テヲクナリ。

 巴豆ノ油は歴史の長い毒薬です。主に下剤として使われてきましたが、とても毒性が強いので、現代ではほとんど使われることはありません。ありとあらゆる生物に毒性を示します。皮膚につくと強い灼熱感や炎症をひき起こし、水疱になることもあります。また白血球を増加させるというデータもあります。それを、お腹に入りきらなかった肉を縛るための糸に塗るのです。

亦色々ニ入レテモ、腹大キニフトリ、コハバリテ入リガタクバ、ヘラニテ腹ノ痛マヌヤウニ、ワキヘヲシヨセ、切カタナニテ腹ヲ五分バカリキリヒロゲ入ルベシ。

 なかなか腸がお腹に収まらない場合は、メスで傷口を切り広げて入れる場合があります。

先ツ萆麻子ヲツブシ、ソクイノヤウニヲシテ、アツアツトカミニ付テ、疵ノトヲリノウシロニ、大キサ四寸四分バカリニシテ付テヲキ、腹モ入テ療治シ、マイタラハ背ノ付薬ハトルベシ。

 萆麻子はひまし油のひましです。少し毒がありますが、排膿や抜毒、止痛や患部の腐敗防止の効果などがあります。
 ソクイというのは続飯のことで、ご飯粒をつぶして練って作った糊のことです。

又モヤシ麦ヲ細末ニシテ腹入時ヒネリ懸ルハ一段トヨシ。入レサマニ内ヘ磁石滑石等分ニシテ細末ニシテウス茶一プクバカリ湯ニテ用ユ。其跡ニテモ日ノ内二三度用ヨ。

 モヤシ麦とは食べ物ではなく、燃やし麦のことで、炭化した麦です。炭は毒物の吸着に優れていて、内服薬としても用いられます。現代でも尿毒症の時によく服用します。
 磁石滑石はどちらも薬です。磁石は、ここでは磁鉄鉱のことではなく、おそらく朱砂をさしています。朱砂は水銀鉱物で化膿に使われていました。今ではほとんど見かけなくなった赤チンも水銀です。でも有機水銀ではないので中毒の心配はありません。
 滑石は加水ハロサイトのことです。現代の漢方薬にもよく使われていますが、浸出の多い皮膚炎などに外用薬としても使われていました。

其後ハ内薬ハ補気調血飲ヲ用ユルナリ。

 補気調血飲とは煎じ薬のことで、「諸々ノ金瘡尤モ反張アル者、治之如神」と言われていました。配合は当帰、川芎、生地黄、人参、白芍薬、白茯苓、白芷、沢瀉、蒲黄(生)、紫檀、枳殻、沈香、大黄(半生半炮)、肝木(葉クキトモニ日ニホシ各等分)、甘草(少)などですが、症状により他の生薬を加えます。詳しくは割愛します。

大事ノ者ナリ。不功者ナレバ見アヤマリ死スルナリ。脉ヲタシカニシテ、問薬ヲ用ヒ、能タメシテ療治スベシ。若シ死レハ、ヘタニテ療治シコロシタルト人ニイワルルナリ。様子ヲヨク見テコトハツテスベシ。

 お腹を切られて、はらわたが出ている患者さんは命を落とす危険がある大事ノ者である、ということです。程度の低い医師だと見誤り、患者さんは死んでしまいます。慎重に慎重を重ねて治療しなければなりません。治療した後に患者さんが死んでしまうと、「ヘタニテ療治シ、コロシタル」と言われてしまうからです。診断とインフォームドコンセント(説明と同意)の重要性を、医師の立場から説いています。
 問薬というのは、薬を飲ませて患者さんの生死を試定する診断法のことです。小児の臍帯を刻んで煎じて用います。これを服用させ三度吐くと、必ず死ぬと言われていました。また陰干ししたイノシリ草や虎の肉を使う方法もあります。残念ながら、この診断法の仕組みや精度は不明です。

偖又、始終腹ヲ指ニテイロフベカラズ。毒ナリ。ヘラニテイロフベシ。モシワタニモキズアラバ、ソレモヌウテ青膏ヲツケズニ入テウヘヲヌウベシ。

 イロフとは弄ふのこと。始終、お腹を指で触ってはいけない、それは毒になると言っています。面白いですね。院内感染予防の父と呼ばれるゼンメルワイスが、産褥熱の研究から院内感染の原因が医師の汚染された手である、と主張したのは19世紀中頃のことです。それより半世紀以上前、江戸時代にそのような思想があったのですからね。柳のヘラで処置する理由は感染の予防のためなのです。

つづく

(ムガク)

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江戸時代の外科手術(1)-頭脳を納る法- (修正版)

2015-06-10 06:06:11 | 江戸時代の医学

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

 しばらく育児を言い訳にしつつブログを休んでいましたが、そろそろ再開させていただきます。さて、何について書こうかなと考えましたが、広く知られている事柄については面白くないので、江戸時代の外科的医療についてはいかがでしょうか。ただここでは華岡青洲(1760-1835)の業績のようなエポックメイキング的なものではなく、日々日常のドロドロとしたものを取り扱っていこうかと思います。主な出典は天明七年頃(1787年頃)に記された『外科手引艸』です。



江戸時代の外科手術(1)-頭脳を納る法-

 「解剖存真図」

 頭を強打し頭蓋骨が割れて、中身が出てしまった時の手術です。紹介はしますが、真似はしないでくださいね。身近な人の頭が割れてしまったら、応急救護をして救急車を呼びましょう。

ハチワレタラハ、ワレメニ人油ヲ付テツヨクヲシ合セ、両方ニ物ヲカヒテツヨクシメテユイテ、件ノ天利ヲ玉ゴニヒタシ付テ上に青膏付テヲク。



 この人油というのはどうも人間から採った油脂のようですね。牛から採れば牛脂、豚から採れば豚脂、ゴマから採ればゴマ油、ヤシから採ればヤシ油と呼ばれます。同じ水に溶けない油脂でも動物性のものと植物性のものではその融点が異なります。動物性の油脂は融点が高いので常温では固体であるのに対して、植物性のそれは低いので常温では液体です。固体だとハマグリなどの貝殻に入れるなどして携帯や取り扱いが楽になります。この人油、どうやって採ったのでしょうか。想像したくないので記しません。しかし人体というものは宗教的道徳的そして法的に禁じられるまでは、世界のあらゆる場所で、食料としてまた薬として扱われていました。日本でも明治時代になっても薬店で人体から作られた薬が売られていました。人の尿も乳も薬です。「爪の垢を煎じて…」の爪も薬です。プラセンタと呼ばれる胎盤もそうです。輸血や臓器移植も人体を利用した医療ですね。その目的が生命を助けること、そこに仁愛があるのであれば、それらの印象も変ります。

 天利というのは天利膏のことで、これは白蝋と野師(ヤシ)油を混合して作った軟膏です。続物縫物によく使われます。配合は季節によって異なります。白蝋と野師油の比率は、夏は6:4、冬は5:5となっています。夏は暑いので融けにくくなるように工夫されていますね。
 青膏は「たこの吸出し」という名で今でもありますね。殺菌力のある塩基性炭酸銅、緑青が使われています。

毎日薬を替ベシ。脳出デタルモ、ウス皮ヤブレズハ生ベシ。ソレトモドロケタルモノ出ルニハ赤子ノフンヲウスキ皮ニモ脳ニモ付テ入レハ則チ入ナリ。ムラナク出タル分ニ付ベシ。入タルアトハ右ノゴトク療治スベシ。

 ウス皮とは脳を保護する硬膜やクモ膜、軟膜などのことです。頭が割れて脳が出ても、これらの膜が破れなかったら、クモ膜などの出血もなければ、大丈夫です。(大丈夫でもないですが)
 ドロケタルモノ、これはなんでしょう。脳脊髄液のことでしょうか。出ても大丈夫なの?っていう声も聞えてきそうですが、もし脳圧が亢進している状態だったら、少し出たほうが逆に良いかもしれませんね。(良くもないですね)

 赤子のフンは衛生的にどうなんでしょうか。ちょっと心配ですね。でも当時の他のものと比べるとはるかに良いものです。乳児は完全栄養食であり、殺菌力もあるラクトフェリンが含まれる母乳だけ口にして、腸内の細菌叢もまだありません。乳児のフンは人体に親和性が高く、また免疫グロブリンを多く含んでいるのです。問題はそれの保存であり、細菌が繁殖する前の新鮮なフンを使うのがベストですね。

内ヘ水油気入レハ死スルナリ。惣体赤子ノフンハ手足ヲツグニ骨ニ両方ニヌレ。ヨク骨ズイニ入テ合コト妙ナリ。

 もし脳のウス皮の中に水分や油分が入れば死んでしまいます。あるいは手術をしたのに死んでしまった場合に水分や油分が入ったためである、と説明したのかもしれません。赤子ノフンは手足の骨折にも使えるようですね。妙ナリというのは実際に成功する確率が高い、ということです。

 頭の外科手術は現代医学だけのものではありません。すでに古代ギリシャのヒポクラテスもインドのジーヴァカも頭の外科手術をしているのですから。現代のそれは、より衛生的に、精密に、深く治療できるように進歩したのです。ただ、今の時代も、昔の人が全国からあるいは海外から腕の良い先生を探す必要があったように、そういう努力や運が必要みたいですね。

つづく

(ムガク)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 025 (修正版)

2015-06-06 12:10:55 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

聖人は未病を治すとは、病いまだおこらざる時、かねてつつしめば病なく、もし飲食色欲などの内慾をこらえず、風寒暑湿の外邪をふせがざれば、其おかす事はすこしなれども、後に病をなす事は大にして久し。内慾と外邪をつつしまざるによりて、大病となりて、思ひの外にふかきうれひにしづみ、久しく苦しむは、病のならひなり。病をうくれば、病苦のみならず、いたき針にて身をさし、あつき灸にて身をやき、苦き薬にて身をせめ、くひたき物をくはず、のみたきものをのまずして、身をくるしめ、心をいたましむ。病なき時、かねて養生よくすれば病おこらずして、目に見えぬ大なるさいはいとなる。

孫子が曰、よく兵を用る者は赫々の功なし。云意は、兵を用る上手は、あらはれたるてがらなし、いかんとなれば、兵のおこらぬさきに戦かはずして勝ばなり。又曰、古の善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ也。養生の道も亦かくの如くすべし。心の内、わづかに一念の上に力を用て、病のいまだおこらざる時、かちやすき慾にかてば病おこらず。良将の戦はずして勝やすきにかつが如し。是上策なり。是未病を治するの道なり。

(解説)

 『素問』四気調神大論には、こう書かれてあります。「聖人は已病を治せず。未病を治す。已乱を治せず。未乱を治す・・・。夫れ病を已に成りて後に之を薬し、乱を已に成りて後に之を治めるは、譬えれば猶ほ渇きて井を穿ち、闘いて錐を鋳す。亦た晩からずや」と。聖人は、未病を治すのであって病気を治さず、戦争を治めるのではなく、起こる前に治めるのであると。病となり、また戦争になった後に治そうと努めても、それは咽が乾いてから井戸を堀り、戦闘が起きてから武器を鋳造するようなものなのです。

 益軒は、「解説011」にもあったように、病気を戦争に、医療を兵法に喩えました。この考え方は、医療が呪術から科学技術になった時代、病気が祟りでも天罰でもなくなった時代、古代中国は戦国時代にまで遡ります。病気は神や超自然的な力によりひき起こされるのではなく、祈りや呪ないで治癒するのでもなく、人の力により戦って治療されるべきものである、という考えが生まれ、今日に至りました。

日本に中国医学が輸入されてからも―「大宝律令」に医疾令があるように飛鳥時代には已にそれは輸入されていました―安土桃山時代に至るまで、祈祷による治療が主流でしたが、益軒は、この思想を広めることに一役を担ったのです。彼は、ここでも『孫子』の「古の善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ」(形篇)を、また謀攻篇に見られる「よく兵を用る者は赫々の功なし」という思想を引用しました。そして「未病を治する」ことの重要性を説いたのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 024 (修正版)

2015-06-06 12:09:36 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿をおさえ、慾をふさぎて、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿と慾をこらえず、ほしゐまゝにしてあやまり多し。

万の事、一時心に快き事は、必後に殃となる。酒食をほしゐまゝにすれば快けれど、やがて病となるの類なり。はじめにこらゆれば必後のよろこびとなる。灸治をしてあつきをこらゆれば、後に病なきが如し。杜牧が詩に、忍過ぎて事喜ぶに堪えたりと、いへるは、欲をこらえすまして、後は、よろこびとなる也。

(解説)

 『周易』損に、こうあります。「君子以て忿りを懲らし欲を塞ぐ」と。忿怒の感情と欲望は君子としてこらえるべきものであり、すぐに怒り散らし、食欲や色欲の奴隷になっている人は君子ではないのです。益軒は「養生に志あらん人」に君子になって欲しいと願ったのですね。

 杜牧とは、唐代の詩人であり、ここでの「忍過ぎて事喜ぶに堪えたり」と言うのは、「遣興」という詩からの引用です。



 鏡弄白髭鬚 如何作老夫
 浮生長勿勿 兒小且鳴鳴
 忍過事堪喜 泰来優勝無
 治平心径熟 不遣有窮途


 詩の出来栄えを論ずるのは良いとして、益軒がここでこれを持ち出したのは、当時、この詩が一般的だった、または手軽に知る事ができる環境だったのでしょう。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)