はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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江戸時代の医学-人面瘡(2)-

2011-01-25 20:07:16 | 江戸時代の医学

 人面瘡を実際に治療した人がいるのですが、それは『解体新書』の翻訳にたずさわった桂川甫周の祖父であり、幕府の蘭方医であった桂川甫筑(1697-1781年)です。漢詩人、菅茶山の随筆『筆のすさび』にその記録が残されていますが、短いので全文を見てみましょう。


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Jinnmen 城東材木町に一商あり。年二十五六。膝下に一腫を生ず。逐漸にして大に、瘡口泛く開き、膿口三両処、其位置略人面に像る。瘡口時ありて渋痛し、満るに紫糖を以てすれば、其痛み暫く退く。少選あつて再び痛むこと初めのごとし。


城東材木町(今の日本橋のあたり)にある商人がいた。膝の下に一つの腫瘍ができたが、日を追うにしたがってだんだんと大きくなり、瘡口は広く開きはじめ、膿が出る穴が三か所ほどあり、その位置がまるで人面のようであった。瘡口は時々痛み、ひどい時に黒砂糖を塗布すると、その痛みはしばらく退いた。が、それからまたしばらくすると、また前のように痛むのであった。


夫、人面の瘡は固より妄誕に渉る。然るにかくのごときの症、人面瘡と倣すも亦可ならん乎。蓋、瘍科諸編を歴稽するに、瘡名極めて繁し。究竟するに、其症一因に係て、而発する所の部分、及び瘡の形状を以て、其名を別つに過ざるのみ。人面瘡のごときも亦是なり。


そもそも、人面の瘡ははじめは根拠のない嘘であった。それなのに、このような病症を人面瘡と呼ぶのは正しいのだろうか。たしかに瘍科に関する古今の医学書をいろいろ読むと、瘡の名前は極めて多い。しかし結局のところ、その症は要因が同じでも、発生する身体の部位と、瘡の形状によって、様々な瘡名が付けられているに過ぎない。人面瘡もその一つなのだ。


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 というのが甫筑の主張です。彼はいわゆる飲食会話する怪談的人面瘡を「固より妄誕」として片付けました。瘡が人の顔に似ていれば人面瘡と呼んでいいのであって、それをそれと呼ぶためには、それが何かを食べたり飲んだりするとか、しゃべったりする必要はまったく無いのです。


 また治療に紫糖を使っているのは時代を反映していますね。享保時代に吉宗が糖業を奨励し、甘蔗の栽培法や、製糖法を求め、宝暦、明和ころから製糖法は諸国に広められました。それ以前は糖は輸入に頼る高級品であったので、瘡の治療に実験的に使えるようになったのは、この時代辺りからかもしれません。


 甫筑は人面瘡をどのように治療したか、ここでは言い残しませんでしたが、彼の四代後の桂川甫賢はもう少し詳しく書き残しています。


つづく


(ムガク)


江戸時代の医学-人面瘡(1)-

2011-01-20 19:22:29 | 江戸時代の医学

 現代にまで語り継がれてきた「人面瘡」、怪談・奇談の一種として知られています。江戸前期の作家、浅井了意(1612-1691年)の『伽婢子』に記されてから、様々な小説、漫画などに取り上げられてきました。この人面瘡、どのようなものだったのか。それは身体の一部にできた人の顔そっくりのデキモノであり、物を食べたり酒を飲んだりして、その人を死に追いやるほど苦しめます。『伽婢子』ではある農民の足に人面瘡ができて死ぬところを、旅の僧が「金、石、土をはじめて、草木にいたりて、一種づつ瘡の口に」入れ、「貝母を粉にして、瘡の口ををし開き、葦の筒をもつて吹き入」れると、十七日後にその人面瘡は消えました。


 この貝母とは、ユリ科アミガサユリ属に属する植物の鱗茎のことであり、貝原益軒(1630-1714年)は『大倭本艸』の中で、「結気を散じ、煩熱を除き、心肺を潤し、所以に嗽を治し、痰を消す」と言っています。これは当時の中国でも癰瘍や瘰癧などによく使われていた生薬でした。


 さて実際に人面瘡のような、奇妙な病はあったのか。実は当時の外科に関する医学書にそれについて記載されています。それは林子伯の『錦嚢外療秘録』(明和九年出版)ですが、少し引用してみましょう。


九十四 人面瘡
人面瘡、古有りと言ふ。近世罕(まれ)なり。此三陽の湿熱、患いを成す。膝上に生じて、人面に似たり。
荊防排毒散 貝母を倍して、之を治す。方は十七に見たり。太乙膏之を治す方は一に見たり。


 明和九年は西暦1772年なので、林子伯は浅井了意よりも数世代後の人。江戸中期には人面瘡はまれであったことが分かります。三陽、身体の太陽、陽明、少陽という陽部の湿熱が発症の要因です(と子伯は言っています)。


 荊防排毒散は「諸瘡疥癬便毒下疳を治す」薬のことで、荊芥、防風、羌活、獨活、柴胡、前胡、薄荷、連翹、枳殻、桔梗、川芎、茯苓、金銀花、甘草、沢瀉に生姜や燈心などを入れて作りますが、配合は結構適当です。症状によって同じ名前でも生薬の配合はかなり変わります。旅の僧が使った様々な生薬はもしかしたら、この荊防敗毒散の一種のことだったかもしれませんね。やはり貝母が、倍量使っているように、重要な役割を担っていますが、はたして実際に効果があったのでしょうか。


 ちなみに太乙膏は軟膏の名前で、肉桂、白芷、当帰、玄参、赤芍、生地黄、大黄、木鼈子、阿魏、軽粉、槐枝、柳枝、血餘、黄丹、乳香、没薬、麻油などから作られています。現在でも薬局で売ってますね。


(つづく)


(ムガク)