はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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026-イアトロジェネシス・医原病-本居宣長と江戸時代の医学

2016-03-25 22:31:25 | 本居宣長と江戸時代の医学

 現代ではイアトロジェネシス(iatrogenesis)が大きな問題となっています。

 (これは医原病と言ってもいいのですが、ここでは少し広い意味を持たせたいのでこの言葉を用います)

 本来は病人を救うはずの医療が、逆に病人を増やしているのは皮肉な話ですね。

 大宅太郎光圀妖怪退治之図 

 記憶に新しいところでは、ミドリ十字の血液製剤です。これにより多くの血友病の方がエイズウイルスに感染しました。

 また大腸菌O157による集団食中毒事件の時には、病院に搬送されはしたものの、下痢止めが処方されたことにより体内のベロ毒素が排泄されず、逆にそのことが害となりました。

 それ以外にも、体調が悪くて病院に行ったら、別の病気に感染したとか、治療薬やワクチンなどで薬害がでたとか、検査をしただけで重篤な副作用にあったなど、いろいろあります。中には単純な医療過誤と言ってもいいようなものもあるのですが、手術など外科的処置による害は枚挙にいとまがありません。

 また癌や悪性腫瘍の治療において、毒性の高い抗癌剤を使い、激しい副作用に苦しむことがあります。その人にとって、それを使用するメリットとデメリットがはっきりしていないのに、統計的に効くかもしれないからとか、マニュアルにあるからとか、漠然と用いられることもありました。毛髪が抜け、吐き気に苦しみ、食事も睡眠もままならず、結局治癒することもなく、延命することもできず、何のために薬を使ったのか悩んだご家族もいるでしょう。

 このようなイアトロジェネシスは江戸時代でもありました。その代表が、いわゆる古方派による治療です。

 特に吉益東洞の流派は、人の生死は天が定めるところであって、医者には何の責任もないと主張しました。それだけなら良かったのですが、「親試実験」を主張し、「毒を以て毒を除く」ことを目標にして、作用の激しい巴豆や甘遂、大戟、芫花などの峻剤・毒薬を多用しました。*1

 吉益東洞

 この治療に対して『斥医断』を著した畑柳安は、「痘疹の治療に至りては惨刻益々酷し、忍と謂わざるべけんや」と、本居宣長は「害が見られる者過半にて、全き者十のうち三四、畏るべきかな」と言い、「古方家の諸々の攻は失敗」と評価しました。*2

 また、もっと複雑な産業システムから生まれたイアトロジェネシスもあります。例えば、医療に依存する病です。二三日寝ているだけで治ってしまう風邪でも、仕事を休めば同僚に迷惑をかけてしまう。上司に病院に行くように言われたら断れない。仕事を休んだら収入がその分減ってしまう。たとえ仕事を持っていなくても、病院に行って薬をもらわずにはいられない社会的文脈ができあがっています。それに従わない人は異端者として扱われることもあります。

 薬の病退治之図

 少しでも痛みがあれば鎮痛剤、寝つきが悪ければ睡眠導入剤、不安があれば坑不安剤を用います。不都合な症状を医師に診てもらい、彼ら専門家の判断を仰ぎ、盲目的に薬で症状を抑えようとする社会的な習慣や常識が広まりました。

 薬を用いることが悪いのではありません。必要な時には医師を頼ってもよいのです。ただ主体性を持たずに専門家に依存すると、しだいに人間が本来持っていた忍耐力、苦しみを乗りこえることで学び、成長する力、その後の幸福や達成感、そして、より高い人格を形成するという、大切で美しい人間性が失われていくことが問題なのです。

 これは今に始まったことではありません。宣長の医療帳簿『済世録』を読んでいくと、現代と同じような問題が見えてきます。

 例えば、天明二年の症例の大平生清兵衛さんは、葛根湯を二日分、次に二陳湯を二日分を宣長に処方してもらい、治癒しました。*3 彼は軽い風邪をひいたのでしょう。四日で治ったのですが、診療を頼まず、薬を服用しなくても、寝ているだけでも大差なかったかもしれません。

 また寛政八年の症例の藤村治右衛門さんは医者と薬に頼りきっていました。宣長が彼の精神を安定させながら治療を進めていくのに四苦八苦していたことが、その処方記録から見えてきます。*4

 本居宣長

 宣長の患者に医者に依存気味だった人がいる理由は、明和六年の松坂の人口が9078人であり、そのうち医者が35名だったので、医者が過剰だったこと。*5 また松坂は木綿産業で潤っていたので裕福な家が多く、また医者は往診を義務化されていたので、人々は気軽に医者を呼ぶことができたからです。しかし、それだけではありません。

 病気になったり、何か心身に苦しいことがあった時に医者に診てもらうことが当たり前になった時代にいると、あまり不思議に思わないものですが、そうではない時代もありました。

 例えば、兼好法師は『徒然草』「第百二十二段」でこう言います。

「人の才能は、文を明らかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出だせり。必ずこれをうかゞふべし」

 兼好法師は、人々が鎌倉時代の戦乱の世で生き残るために必要な兵法よりも、人間がどのように生きるべきかを説く聖の教えや、読み書き学問、医術を学び、自分を養い人々を救い、忠孝を務めることの優先順位が高いと考えていたのです。

 安土桃山から江戸初期にかけて活躍した儒学者、藤原惺窩は「親に事ふる者は医を知らざるべからず」と言い、親孝行のためには必ず医も学ばねばならないと説きました。*6

 藤原惺窩

 彼の門弟もそれに倣い、特に惺窩門の四天王の一人、堀杏庵(正意)は特に医術に精しく、それは曽孫、堀景山に引き継がれました。その景山が宣長の最も尊敬する儒学の師でしたね。彼らはみな医者ではありません。*7

 医者でなくても医者以上に医術や医学に精通していることが当たり前の時代もあったのです。そのような人々は専門家に頼ることなく自分で自分の病に対処できたのです。

 

 では、人々が医者に依存してしてしまうのは、医学を学ばなくなったからでしょうか。そうではありません。それもある部分では正しいのですが、根本的な問題はもっと深く、その起源は医療の分業化・専門化が起こった、約二千五百年前にまでさかのぼるのです。

 医療の専門家が現れるまでは、シャーマンなどの呪術医、巫医、僧医、江戸時代では(一部の)儒医などがその役割をになっていたのです。彼らは人を診療することで稼いで生活していたわけではありません。それぞれ別の仕事を持ちながら、必要に応じて医療を施していたのです。

 しかし春秋時代には医師の官僚制が誕生しました。医師、食医、疾医、瘍医、獣医という職名があり、おのおの役割が異なりました。医師は医の政令を、また毒薬を聚めて医事に共するを掌り、また食医は王の食事や飲み物、味などの調和を、疾医は万民の疾病を養うを、瘍医は腫瘍や潰瘍、金瘍、折瘍の治療を、獣医は獣病、獣瘍の治療を掌っていたのです。*8

 戦国時代の名医、扁鵲は晋の邯鄲では婦人科の医師、周の洛陽では老人科(耳目冷痺)の医師、秦の咸陽では小児科の医師へと、その土地の習俗にしたがって専門を替えました。これは患者の年齢や性別によるものでしたが、その後、目や口など疾患の部位、針や灸などの治療手段による専門化も進みました。*8

 江戸時代には、医師、儒医、小児医師、産前産後医、目医師、口中医師、外科、針、経絡導引、灸医などがあり、この頃すでに医療の分業化・専門化が進んでいたことが分ります。*8

 分業化・専門化が進むと、それぞれの治療がより高度に進化することができます。堀景山は、分業化・専門化した医者の医術が向上することに気づいており、「医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なるが、成程妙手にもなるはず、また殊勝不凡にもある事なり」 と『不尽言』で述べています。*9

 しかし、良いことばかりではありません。医療が産業のしくみに従いはじめるからです。医者を開業すると、たとえ腕が良くても悪くても、既存の患者が離れることなく、新規の患者を増やすことができ、一人当たりの診療報酬や頻度が高くなければ、自然淘汰されてしまうのです。淘汰が進み、生き残った医者がある割合を超えた環境になると、社会の意識が変化します。

 そして具合が悪くなれば医者に診てもらうことが主流となってきたのかもしれません。

 きたいな名医 難病療治

 その一方、香川修徳は当時の儒医の巨頭として知られていますが、病人を治療することはほとんどありませんでした。原念斎の『先哲叢談』には、こう書かれています。

「都下、見ざること三有り。宇野三平が市に至るを見ず。香川太冲が病を治むるを見ず。谷左中が文を作るを見ず」

 香川修徳

 修徳は多くの優れた医学書を著し、医者を志す人々を教育し、本居宣長も彼に影響を受けているのですが、患者を治療することで生計を立てていたわけではないのです。

 日本で初めて医学的な解剖を行ったことで知られる山脇東洋は、初めは儒学者として教育をして生活していましたが、しだいに彼の医術が評判になり、儒医として医療を行うようになりました。*10

 山脇東洋

 本居宣長は初めは医者として生活していました。彼は『家のむかし物語』でこう言っています。

「医のわざをもて産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業をまめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうをはかるべきものぞ、これのりなががこころ也」

 その後、しだいに宣長の国学の研究が進むと、寛政四年ころから、教育での収入が医者の収入を上回ることになりました。東洋と宣長は、時とともに仕事における教育と医療の割合が逆転しましたが、宣長は景山や修徳の生き方を忘れず、長い年月をかけて(本当の意味での)儒医となったのです。

 医療の分業化・専門化が拡大する中、著されたのが、貝原益軒の『養生訓』でした。あるいは平野重誠の『病家須知』です。これらの書には、病に対してどのように生きるべきか、また具合が悪くなれば医者に診てもらうのではなく、自分で病気にならないようにする重要性が説かれています。

 貝原益軒

 しかし、それがベストセラーになったとはいえ、書物の一冊二冊ですぐに社会が変わるほど、問題の根は浅くはありません。その前に日本は明治維新を迎え、イアトロジェネシスは次なる段階へ進みました。

 明治六年に佐野諒元が著した『養生手引草 初編』にはこう書かれています。

「養生の学は人生を保全する所以なり、故に主とする所は、則ち健康の一科のみ」

 この書の内容はほとんどが解剖と生理学なのですが、ここで心に留めておきたいことは、健康と言う言葉が形容詞ではなく名詞として用いられていることです。そこに注目すると、その時代を理解しやすくなるかもしれません。

 明治から日本はひたすら軍国主義、産業主義中心の国造りをしてきました。その中では、人間は一つの人格を持ったかけがえのない存在であるよりも、国の財産、資本として扱われます。人は城であり石垣であったのです。*11

 これは現代の資本主義社会において、人間が人材・人財として扱われていることとまったく同じです。

 その人的資源の保全を目的として、公衆衛生の改善、ワクチンなどを用いた予防医学を発展させ普及させてきました。これにより、死亡率が下がり、また食糧生産の安定や栄養状態の改善が進むと、平均寿命もしだいに伸びていき、国力を増大させることができました。

 健康は個人ではなく国家の問題だったのです。

 以前であれば、「私は健やかである」というような、形容詞を用いた表現であったものが、近代国家が設立してからは、「私は健康である」という名詞を用いた表現にとって代わります。

 なぜなら健康とは国家や軍隊が定める基準であり、官僚的に医師が決定するものだったからです。現代に至ってもその基本的な骨格に変わりはなく、健康診断における数値などにより、健康の度合いが評価されます。

 そして、より良い健康を目指す競争がはじまりました。限りなく健康を追及すること、また人々が医療の分業化・専門化に慣れ親しみ過ぎ、当然のように自分の健康の保全だけでなく、その健康の判断ですら、専門家の手にゆだねたところに、イアトロジェネシスを生み出す原因があるのです。

 国民皆保険制度が施行されると、医療を受けることがますます容易になりました。保険料を支払っているために、それを受けないと損しているように思うことが、その流れに拍車をかけているのです。

 また近代化の中で、人々はたくさんの権力を医師に与えてきました。病気の診断や治療の独占だけでなく、死亡の診断、治癒を証明する権利、保育園や学校、大学、企業、国家資格の受験、健康保険や生命保険の加入・支払いなど、すべての人にとって人生のさまざまなところで医師とは切っても切れない関係が生まれました。

 これらの権利は医師が望んで手に入れたものではありません。社会が医師に与えたのです。そしてこの権力の集中が社会に格差を生みだし、新たな問題を作りつつあります。



 現代では、病院で生まれ病院で死ぬことが当たり前になりました。依存し管理されることに慣れすぎすると、人間として大切なことを失っていきます。誰だって、効いているのかいないのか分からない薬を一生飲み続けたいとは思いません。薬漬けになってロボットのように生きたいとは思いません。ベッドに固定され、チューブやコードにつながれ、生きる自由や死ぬ自由をを失いたいとは思いません。

 ジャン=ジャック・ルソーは、「人間よ、人間的でありなさい。それがあなたたちの第一の義務なのだ」、と言いました。*12

 では、どうすればよいのでしょう。

 病院に行ってはいけないとか、薬を飲んではいけないのではありません。イヴァン・イリイチがコンヴィヴィアル(convivial・自立共生)な社会にはバランスが重要である、と言ったように、もちろん病院に行っても、薬を飲んでもいいのです。*13

 それならどうしましょう。

 養生です。

 貝原益軒も本居宣長も養生の大切さを説きました。その本質は健康を大事にすることではないのです。病気の予防でもありません。

 養生の本質は、自分の心身を管理する主体を、医者ではなく、自分自身にすることなのです。

 ひとりひとりが主体性を持ち、歴史を学び、コンヴィヴィアルな意識を継続して持つことによって、現在そして未来の社会の問題を解決していくことが可能となるのです。


(ムガク) 


「過去は死んだ歴史ではない。過去は、人間が自分自身をつくりだし、将来を建設する生きた材料である」*14


*1: 鶴田元逸『医断』
*2: 「020―宣長と自然治癒力 ―本居宣長と江戸時代の医学
*3: 「010― 宣長の症例その1 ―本居宣長と江戸時代の医学
*4: 「016― 宣長の症例その3 ―本居宣長と江戸時代の医学
*5: 『松坂市史』
*6: 「003―儒医1/2―本居宣長と江戸時代の医学
*7: 「004―儒医2/2―本居宣長と江戸時代の医学
*8: 「002―医師―本居宣長と江戸時代の医学
*9: 「013―堀景山と宣長2/2下 ―本居宣長と江戸時代の医学
*10: 原徳斎『先哲叢談 後編』
*11: 立川昭二『病気の社会史』
*12: ジャン=ジャック・ルソー、戸部松美訳『エミール』
*13: イヴァン・イリイチ、渡辺京二・渡辺梨佐訳『コンヴィヴィアリティのための道具』
*14: ルネ・デュボス、野島徳吉・遠藤三喜子訳『人間であるために』

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


貝原益軒の養生訓―総論下―解説 054 (修正版)

2016-03-10 22:13:17 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

天地の理、陽は一、陰は二也。水は多く火は少し。水はかはきがたく、火は消えやすし。人は陽類にて少く、禽獣虫魚は陰類にて多し。此故に陽はすくなく陰は多き事、自然の理なり。すくなきは貴とく多きはいやし。君子は陽類にて少く、小人は陰類にて多し。易道は陽を善として貴とび、陰を悪としていやしみ、君子を貴とび、小人をいやしむ。

水は陰類なり。暑月はへるべくしてますます多く生ず。寒月はますべくしてかへつてかれてすくなし。春夏は陽気盛なる故に水多く生ず。秋冬は陽気変る故水すくなし。血は多くへれども死なず。気多くへれば忽ち死す。吐血、金瘡、産後など、陰血大に失する者は、血を補へば、陽気いよいよつきて死す。気を補へば、生命をたもちて血も自ら生ず。

古人も、血脱して気を補ふは、古聖人の法なり、といへり。人身は陽常にすくなくして貴とく、陰つねに多くしていやし。故に陽を貴とんでさかんにすべし。陰をいやしんで抑ふべし。元気生生すれば真陰も亦生ず。陽盛なれば陰自ら長ず。陽気を補へば陰血自生ず。

もし陰不足を補はんとて、地黄、知母、黄栢等、苦寒の薬を久しく服すれば、元陽をそこなひ、胃の気衰て、血を滋生せずして、陰血も亦消ぬ。

又、陽不足を補はんとて、烏附等の毒薬を用ゆれば、邪火を助けて陽気も亦亡ぶ。是は陽を補ふにはあらず。丹渓の陽有余陰不足論は何の経に本づけるや、其本拠を見ず。もし丹渓一人の私言ならば、無稽の言信じがたし。易道の陽を貴とび、陰を賎しむの理にそむけり。もし陰陽の分数を以其多少をいはゞ、陰有余陽不足とは云べし。陽有余陰不足とは云がたし。後人其偏見にしたがひてくみするは何ぞや。凡、識見なければ其才弁ある説に迷ひて、偏執に泥む。

丹渓はまことに古よりの名医なり。医道に功あり。彼補陰に専なるも、定めて其時の気運に宜しかりしならん。然れども医の聖にあらず。偏僻の論、此外にも猶多し。打まかせて悉くには信じがたし。功過相半せり。其才学は貴ぶべし。其偏論は信ずべからず。

王道は偏なく党なくして平々なり。丹渓は補陰に偏して平々ならず。医の王道とすべからず。近世は人の元気漸く衰ろふ。丹渓が法にしたがひ、補陰に専ならば、脾胃をやぶり、元気をそこなはん。只東垣が脾胃を調理する温補の法、医中の王道なるべし。明の医の作れる軒岐救生論、類経等の書に、丹渓を甚だ誹れり。其説頗る理あり。然れども是亦一偏に僻して、丹渓が長ずる所をあはせて、蔑にす。枉れるをためて直に過と云べし。

凡古来術者の言、往々偏僻多し。近世明季の医、殊に此病あり。択んで取捨すべし。只、李中梓が説は、頗る平正にちかし。

(解説)

 長かった「貝原益軒の養生訓―総論上・下―解説」もこれで最後です。もう皆さんお気づきのように、この総論は「孝」に始まり「中庸」に終わるといった儒学の思想をもとに構成されています。それはまったく不思議なことではありません。そもそも当時の医学(後世方医学とも呼ばれるもの)自体が朱子学の自然哲学に立脚したものだからです。有名な言葉、「医は仁術なり」というのは単なる方針や理念などではなく、「医」と「仁」は哲学的に密接に関係しているものなのです。

 ここに登場するは朱丹渓(1281-1358)(朱震亨)という元代の名医。丹渓は「陽有余陰不足論」を作り上げ、江戸期の日本の医療に多大な影響を与えました。また彼の理論は李東垣(1180-1251)(李杲)のそれと共に現代中医学理論の基礎ともなっています。多くの医師が無批判的にその理論に追随していた頃、益軒はそれに異議を唱えたのです。なぜでしょう。もちろん中庸の教えに背くからです。

 丹渓に反論していた人は他にもいます。『軒岐救正論』は「朱丹溪の苦寒補陰を以てする若きは生命を戕伐せん」と、『類経附翼』は「陽常有余陰常不足之論・・・其の害孰か甚だし」などと丹渓を攻撃しました。『類経』を著した張景岳(1563-1640)(張介賓)は逆に「陽は有余に非ず、真陰が不足す」と主張し、陽不足を補うために右帰丸など附子(烏附とは烏頭と附子)を含んだ薬を用いました。益軒はこれにも異議を唱えます。理由は同じです。

 益軒は『養生訓』択医においても、「凡諸医の方書偏説多し。専一人を宗とし、一書を用ひては治を為しがたし。学者、多く方書をあつめ、ひろく異同を考へ、其長ずるを取て其短なるをすて、医療をなすべし」、と言っています。それ故、理論に偏りがあるといえども「朱丹渓が書」を李中梓や李東垣の諸書と並べて「医生のよむべき書也」と勧めているのです。しかし『軒岐救正論』や『類経』、張景岳が書を読むべき書とは言いませんでした。なぜでしょう。それは彼らの言説が君子のものではなかったからです。

 『養生訓』択医にはこうも書かれてあります。「我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし」と。

 また益軒が当時、自分や家族に対して最も多用していた薬の一つが補中益気湯であり、これは『脾胃論』にある李東垣の代表的な処方です。その方意を簡単に言うと胃の気を補うこと。これは「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 037」にも出てきましたね。益軒は「医の王道」を自ら実践していたのでした。

 これで「「貝原益軒の養生訓―総論下―解説」も終わりです。次回からは「本居宣長と江戸時代の医学」が始まります。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


東洋医学カードゲーム製作計画 (その3)

2016-03-10 22:10:40 | 雑記

 前回の種々の問題から試作品2号を制作してみました。


 年をとると、新しいルールをなかなか覚えられません。たとえ覚えた後に、楽しく子供と一緒に遊べるとしても、その前にたいてい面倒くさくなって、やめてしまうかもしれません。


 なので、かるたやトランプ、花札など大人がすでに知っているゲームにこれを組み込むのが良いと考えました。


 ためしに作ってみたのが、これ↓。



 内容は前回と同じツボ(経穴)ですが、大人も一緒に遊べて、ゲームのヴァリエーションも多いためトランプにしてみました。


 これでカード枚数を減らすことができ、また、場所を示すイラストとともに、ふりがな、そのツボが何に効果があるか(主治症)も入れ、少し分かりやすくしてみました。


 これを、子供に与えてみると・・・


つづく


(ムガク)