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022―宣長は下女に夜這いをして蹴飛ばされた?(斎藤彦麿について) ―本居宣長と江戸時代の医学

2015-08-13 12:54:11 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長が下女にしつこく夜這いをして蹴飛ばされたという話が残されています。はたして本当でしょうか。この話は民俗学者、中山太郎の『愛慾三千年史』に残されてます。


本居宣長ノ宮: 現在は山室山から松坂城址の隣、四五百の森に移転されています



 国学の大家、本居宣長といえば、今日では伊勢の松坂の岩室山(ママ)に、神として祭られているが、その本居翁の内弟子に斎藤彦麿と云う人があった。此の人は相当の国学者であったが、先年、林若吉氏が此の彦麿自筆の日記を講読され、本居翁の日常生活に就いて二三の話を試みられたことがある。然るにその一節に、如何にも人間としての本居翁真骨頂を想わせる珍談があった。その概要を述べると左の如きものである。

 彦麿が或る朝のこと、他の二三の内弟子と共に、朝飯を食べながら

「本居先生こそ、本当の活神様と云うのだろう、学問と云い人格と云い、アレが本当の活神様だ」

 と云うと、同じく朝飯を食べていた他の内弟子が箸を休めて

「本当に活神様だ、日本広しと云えども宅の先生に上越す活神様はあるまい」

 と相槌を打ち、頻りと本居翁を活神様扱いにしていると、傍らに給仕していた下婢が、何を感じたか急に潜然と泣き出した。彦麿が不思議に思って

「何で泣くのか」

 と訊くと、下婢の返辞が実に振っている。曰く、

「その宅の活神様が年甲斐もなく、夜になると毎晩のように私の許え遣って来るのです。昨夜も遣って来ましたので、余り五月蠅ので足で蹴飛ばしてやりました。活神様を足げにかけたので、私は屹度神罰が当たると思うて悲しくなりました」

 とのことに、彦麿を始め他の内弟子達も、暫くは開いた口が塞がらなかったと云うことである。

 神に祭られているからとて本居翁も人間である。斯うした半面があったとしても、それは決して不思議でも何でもない。翁が若年の折に医学修行のため京都に遊学していた時分には、かなり宮川町辺の妓楼へでかけたようであるから、アノ古事記伝を大成した絶倫なる精力の点から云えば、斯うした事のあるこそ寧ろ当然だとも言えるのである。



 林若吉は収集家であり、彼の祖父は大槻俊斎や伊東玄朴と共に、お玉が池の種痘所を設立した奥医師、林洞海であり、父の林研海は直接オランダで医学を学び陸軍軍医総監となりました。また叔父には司馬遼太郎の『胡蝶の夢』で活躍した松本良順(幕府奥医師・初代陸軍軍医総監)がいます。中山太郎はこの林若吉が「彦麿自筆の日記を講読され、本居翁の日常生活に就いて二三の話を試みられた」のを聞き、この逸話を一節に残したのでした。

 「彦麿自筆の日記」を実際に拝見したことはないのですが、この話には何かしっくりしない所があります。別に、妻がいる身で、若くもないのに下女に夜這いをしてもぜんぜん悪くはありません。ぜんぜんと言うと誤解されるかもしれませんが、この当時にはキリスト教的な倫理などはまだ普及していませんでしたし、たとえ『源氏物語』を愛した宣長が光源氏のように振舞ったとしても、まったく責めるところはありません。あえて言えば嫌がる女性の気持ちを察しなかったことがいけませんでした。夜這いは伝統的な日本の文化です。何がしっくりこないのでしょうか。

 斎藤彦麿は国学者として、また平田篤胤が本居宣長に夢の中で会い入門を許された絵を描いた画人としても知られています。どのような人物だったのでしょうか。まずは簡単にまとめられている田中義能の『本居宣長の哲学』から彦麿の経歴を見てみましょう。

 
「夢中対面の図」



彦麿は本姓藤原氏、父は荻野彦兵衛信邦と云ふ。明和五年正月五日、三河国矢作郷に生る。幼名庄九郎。後斎藤家を相続するに及び、名を彦六郎と改め字を可怜と云ひ、号を宮川舎葦仮庵などと称せり。而して通称彦麿といふ。石見国濱田の城主松平康任に仕え、夙に江戸に出でて濱町の藩邸に住せり。

天明二年年十五、初めて伊勢貞丈の門に入りその教を受けしも、僅に二年にして貞丈歿せり。寛政四年彦麿二十五歳、名簿を捧げて宣長の門に入りぬ。爾来宣長の歿に至るまで前後十年、常にその教を蒙れり。

天保年間藩主故ありて封を奥州棚倉に移されぬ。彦麿亦従ひて奥州に赴けり。後幕府藩主を召して閣老とし、武州川越に封ずるや、彦麿亦茲に移りぬ。

彦麿志道に篤く、常に門人を教化し、著書に従事せり。

安政元年三月十二日を以つて歿す。年八十七、従ふて業を受くるの門人、五百二十九人ありき。著す所、『勢語図抄』五巻、『かはほり』一巻、『かたびさし』六巻、『竹箒』一巻、『嵯峨の山踏』三巻、『神道問答』二巻、その他甚だ多し。





 また彦麿の次男豊啓の拵えた「葦仮庵略年譜」*1 が残されているので、これも確認してみましょう。



明和 五、一歳、正月五日、三河矢作郷にて生る。
安永 四、 八、岡崎、渡邊隆□を師として、手習を始む。
同  七、一一、岡崎、志賀與惣右衛門を師として、大和流弓術を学ぶ。
同  九、一三、江戸に出づ。
天明 元、一四、甫喜山主税を師として、獨明流剣術、及び、真砂流柔術を習ふ ○加茂季鷹の門に入る。
同  二、一五、元服す。名を小太朗源智明と改む ○伊勢貞丈の門に入る。
同  四、一七、六月五日、師貞丈大人歿す。
同  五、一八、四月十二日、実父信邦死す。
寛政 元、二二、著述を始む ○座論梅成る。
同  二、二三、野中の古道成る。
同  三、二四、京都大坂を遊覧す。
同  四、二五、三島三木笑談成る ○本居宣長の門に入る。
同  八、二九、斎藤家再興。
同  九、三〇、初学教語成る。
同 一一、三二、長男小太郎生る。
享和 元、三四、 勢語図抄五巻成る ○九月廿九日師宣長大人歿す。
同  二、三五、甲冑色目考評一巻、祭祀略式一巻成る○彦麿と改む。

・・・(省略)・・・

安政 元、八七、三月十二日死す。法名磯岳忠信士、法音寺に葬る ○門人五百二十九人。



 彦麿は寛政四年に宣長の門に入り、享和元年に宣長が亡くなったので、宣長の夜這いの話はその約十年の間に起きたものかもしれませんが・・・。

 ただし、ここで注意することがあります。斎藤彦麿の名は宣長の「授業門人姓名録」に残されていません。内弟子であれば姓名と束脩が「諸用帳」や「金銀入帳」に残されていてもおかしくないのですが、それもありません。斎藤彦麿の名は宣長の跡取の「本居大平教子名簿」に残されています。平田篤胤も、本居春庭(建亭)に入門願いした時の書簡に、「松平周防守様御家中斎藤彦麻呂と申仁、是は大平大人之御門人に而・・・」と記しています。そうすると、寛政四年に「本居宣長の門に入る」という記載は誤りなのでしょうか。それを明らかにする前に、なぜ彦麿は宣長に入門しようとしたのでしょう。

 それは彦麿の主君、石見国濱田藩十二代藩主、松平周防守康定が学識が高く、国学に熱心であり、自ら宣長のもとへ教えを請いに赴くほどだったからです。石見国の多くの家臣、康定の老妻や侍女までが宣長に入門するほどでした。彦麿はその家中にいたのです。


宣長が松平周防守康定から拝領した和歌の色紙


 濱田藩で最初の宣長の門弟は、遠江生れの儒臣、小篠道冲(敏・御野・ミヌ)であり、安永九年に入門しています。次に天明三年には家老の子息、岡田権平次 (源元善)、家中の三浦七左衛門(正道)、そして濱田三隅の医師、斎藤利三(藤原秀麿)が入門しました。

 彦麿は荻野家に生まれましたが、後に養子として斎藤家を相続しました。本姓は藤原です。宣長の門弟斎藤利三(藤原秀麿)は濱田の医師であり、彦麿は康定の子息康任に仕えていました。寛政八年には斎藤家が再興しました。これは何を意味するのでしょう。

 それは、斎藤家は何らかの理由により失職し、医師として濱田藩に仕えていたこと。斎藤利三(藤原秀麿)が宣長に入門したのが天明三年であり、彦麿はその時は小太朗という名で、伊勢貞丈の門下にありました。秀麿と彦麿は同一人物ではないこと。利三(秀麿)は彦麿の養父あるいはそれに代わる家族であり、彦麿は江戸の藩邸に人質として軟禁されていた康任に仕えていたこと。そしてその間に学問に励み、家を再興し、儒臣としての身分を手に入れたこと。(これは貝原益軒も主君の怒りを買い罷免された後、一時期医師として生活していましたが、その後、儒者として復職したことと同じです。)小太郎は宣長が亡くなった後、秀麿の一字を貰い受け、斎藤彦麿と名乗ったことを示唆しています。

 康定やその家臣たちは参勤交代で江戸と石見を往復する生活を送っていました。小篠御野などの宣長の門弟たちは康定に仕えていたので、宣長の許で住み込みで学んでいたわけではありません。ちょうど宣長が賀茂真淵に入門し、江戸と松坂の間を書簡を応酬することで国学の研究や歌の添削などをしていたように、彼らもそのように宣長から学んでいたのです。今で言うところの通信教育です。もっとも御野は康定の命により、宣長の源氏物語の講義を聴くため、しばらくの間松坂に逗留していたことがありますが。

 彼ら門弟たちと宣長との書簡がいくつか残されています。例えば、利三(秀麿)は医者らしく、宣長の子息の春庭の眼病の具合を心配しています。宣長はそんな心遣いに対してかたじけなく思い、「倅の目はもはや治しがたいので、京へ鍼法の稽古に出ている」と手紙を送っています。*2 春庭も日本を代表する国学者でしたが、彼らにとって学問は就職のためでも生活のための手段でもありませんでした。春庭は鍼医となって生計をたてようとしたのです。

 この当時の日本は失明する人が少なくありませんでした。松本良順の師、ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、「眼病もまた日本にはきわめて多い。世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない」と言っています。ポンペは、「その理由は、眼病の治療法をまったく知らないことにその大半の原因がある。そのために、はじめによく処置すればまもなく全快するような病気が、結局失明に終わってしまうということもきわめて多いのである。網膜疾患は特に多い。白内障もしかり・・・」とも言いました。*3


松本良順(左下)とポンペ・ファン・メールデルフォールト(右下)

 もしかしたら、日本に盲目の人が多かった理由はそれだけではなかったかもしれません。つまり日本には盲目になっても食べていける手段があったのです。音楽の才能があれば琵琶法師、学問があれば鍼医、なくても按摩師など、目が見えなくなっても社会的に活躍できる場があったのです。

 話は戻り、彦麿が宣長の内弟子であった蓋然性は極めて低いのです。正式な門弟ですら松坂に滞在することは主君の命による特例でした。では彦麿が寛政四年に「本居宣長の門に入る」という記載はどういうことでしょう。それは、どうも宣長が医者になった時に、頭髪を剃ってもいないのに薙髪したと言ったように*4、言葉の定義の問題がありそうです。

 「門に入る」の定義を、師宣長に「入門誓詞」を提出し、「授業門人姓名録」に登録されることにしても良いですし、あるいは宣長の学問に出会い、それを好み信じ楽しむ境地(好信楽)になった時、個人的な意志により、主観的に門に入ったと言っても良いのかもしれません。篤胤も客観的には本居春庭の弟子でしたが、本人は宣長の弟子であると称していました。「宣長の歿に至るまで前後十年、常にその教を蒙れり」と言っても、身近にいた宣長の高弟から間接的にであっても良いのです。

 それでは彦麿が宣長に寄宿していなかったとすれば、あの夜這いの話はどういうことでしょう。いくつかの可能性があります。

1.彦麿の作り話
2.林若吉の作り話、あるいは「彦麿自筆の日記」は偽物
3.中山太郎の作り話

 彦麿が日記に作り話を載せたという可能性はあるでしょうか。彦麿ほどの国学者、熱心に国学を研究し、多くの門下生を教え導き、その学問は宣長のものに忠実で、珍奇な説を唱えることはありませんでした。彦麿の著作、『諸国名義考』には「見む人他に考へ得たる説あらバ我にさとし給へ、速に改め直してむ」とあり、真摯で謙虚な性格が顕れています。そのような人物が師の醜態を日記に偽って残す可能性はほとんどないでしょう。

 中山太郎はとても真面目で精力的な民俗学者です。彼の本は史料を広くよく調べて仕上げられています。たとえ話の素となる史料、根拠の真偽を深く検証することなく本に著したとしても、積極的に嘘をついたという可能性は、これもまたほとんどないと言っていいでしょう。書を著す学者には責任が伴います。

 と言うことで、この話は林若吉の作り話の可能性が一つあります。内輪の集まりで、おもしろいことを言ってしまった、あるいは「彦麿自筆の日記」が偽物である可能性です。江戸時代には滑稽本、洒落本のたぐいが無数にありました。これもその一つかもしれません。

 結論、宣長が下女にしつこく夜這いをして蹴飛ばされた、という話は嘘でした。

チャンチャン♪

つづく

(ムガク)

*1: 『国学者伝記集成』
*2: 『本居宣長全集』十七巻書簡集
*3: 『新異国叢書』第10巻より『ポンペ日本滞在見聞記』
*4: 「006―薙髮―本居宣長と江戸時代の医学

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


貝原益軒の養生訓―総論下―解説 035 (修正版)

2015-08-13 12:23:45 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

貧賎なる人も、道を楽しんで日をわたらば、大なる幸なり。しからば一日を過す間も、その時刻永くして楽多かるべし。いはんや一とせをすぐる間、四の時、おりおりの楽、日々にきはまりなきをや。此如にして年を多くかさねば、其楽長久にして、其しるしは寿かるべし。知者の楽み、仁者の寿は、わが輩及がたしといへども、楽より寿にいたれる次序は相似たるなるべし。

心を平らかにし、気を和かにし、言をすくなくし、しづかにす。是徳を養ひ身をやしなふ。其道一なり。多言なると、心さはがしく気あらきとは、徳をそこなひ、身をそこなふ。其害一なり。

山中の人は多くはいのちながし。古書にも山気は寿多しと云、又寒気は寿ともいへり。山中はさむくして、人身の元気をとぢかためて、内にたもちてもらさず。故に命ながし。暖なる地は元気もれて、内にたもつ事すくなくして、命みじかし。又、山中の人は人のまじはりすくなく、しづかにして元気をへらさず、万ともしく不自由なる故、おのづから欲すくなし。殊に魚類まれにして肉にあかず。是山中の人、命ながき故なり。市中にありて人に多くまじはり、事しげければ気へる。海辺の人、魚肉をつねに多くくらふゆえ、病おほくして命みじかし。市中にをり海辺に居ても、慾をすくなくし、肉食をすくなくせば害なかるべし。

(解説)

 前回、鬼神についてふれましたが、今回はそれの続きです。とは言っても、それは『論語』を読んだことがある人にとっての続きであり、そしてこの三つの短文も繋がっているのです。

 『論語』雍也篇において樊遅は孔子に「知と仁」とは何かと尋ねると、孔子は以下のように述べました。

民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。

仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂うべし。

 孔子は続けて言いました。

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなリ。知者は楽しみ、仁者は寿し。

 益軒は、「山中の人は多くはいのちながし」と山のメリットを説きながらその理由を述べました。その目的は、人々に「仁者」になって欲しいと願っていたからでしょう。「仁者は山を楽し」み、「静か」に生活し、「寿」であり、たとえ人々の初めの目的が単なる長寿であっても、最終的に「仁者」になれば、天下を平和な人間性あふれる世界に近づけていくという儒者の目的を達成できるのです。

 ちなみに「寒気は寿」は『淮南子』墜形訓から来ています。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 034 (修正版)

2015-08-13 12:21:12 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の道、多くいふ事を用ひず。只飲食をすくなくし、病をたすくる物をくらはず、色慾をつゝしみ、精気をおしみ、怒哀憂思を過さず。心を平にして気を和らげ、言をすくなくして無用の事をはぶき、風寒暑湿の外邪をふせぎ、又時々身をうごかし、歩行し、時ならずしてねぶり臥す事なく、食気をめぐらすべし。是養生の要なり。

飲食は身を養ひ、ねぶり臥は気を養なふ。しかれども飲食節に過れば、脾胃をそこなふ。ねぶり臥す事時ならざれば、元気をそこなふ。此二は身を養はんとして、かへつて身をそこなふ。よく生を養ふ人は、つとにおき、よはにいねて、昼いねず、常にわざをつとめておこたらず、ねぶりふす事をすくなくして、神気をいさぎよくし、飲食をすくなくして、腹中を清虚にす。かくのごとくなれば、元気よく、めぐりふさがらずして、病生ぜず。発生の気其養を得て、血気をのづからさかんにして病なし。是寝食の二の節に当れるは、また養生の要也。

(解説)

 ここで出てくる「神気をいさぎよく」とはどのような意味でしょう。それには古代中国の鬼神信仰を知っておかねばなりません。鬼といっても、地獄の閻魔様につかえている赤鬼青鬼とか、村で悪さを繰り返し桃太郎に征伐された鬼たちとは全く異なります。『論語』泰伯で孔子はこう言いました。

禹は吾れ間然すること無し。飲食を菲くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕に致し、宮室を卑くして力を溝洫に尽くす。禹は吾れ間然すること無し。

 孔子にとって禹王は非のうちどころがありませんでした。それは飲食をきりつめて、先祖や神々をお祭りし、衣服や住居などを質素にし、天下の民を水害から守るための灌漑工事に力を尽くしたからです。当時は人は死ぬと鬼になると信じられていました。そして「孝」は父母に行なうものですが、父母が他界していれば「孝を鬼神に致」すのです。そんな鬼神の信仰に対して、漢代の王充は『論衡』論死の中で以下のように主張しました。

人は物なり。物は亦た物なり。物は死して鬼に為らず。人は死して何故獨り能く鬼と為る。世は能く人物を別つも鬼と為すあたわず。則ち鬼と為す鬼と為さざるは尚、分明し難し。別つあたわざるが如し。則ち亦た以って其の能く鬼と為すを知ること無し。

人の生きる所以は、精気なり。死して精気は滅す。能く精気を為すは血脈なり。人は死して血脈竭き、竭きて精気は滅す。滅して形體は朽ち、朽ちて灰土と成す。何を用って鬼と為す。

人に耳目無ければ、則ち知る所無し。故に聾盲の人、草木に比べられる。夫れ精気が人より去れば、豈に徒だに耳目無しと同じならんや。朽ちて則ち消亡し、荒忽として見られず。故に之れを鬼神と謂う。人の鬼神の形を見るは、故より死人の精に非ざるなり。

何ぞや。鬼神は荒忽として見えざることの名なり。人は死して精神は天に升ぼり、骸骨は土に帰る、故に之れを鬼と謂う。鬼は帰なり。神は荒忽として無形なる者なり。或説に、鬼神は陰陽の名なり。陰気は物を逆して帰し、故に之れを鬼と謂う。陽気は物を導きて生じ、故に之れを神と謂う。神は、伸なり。申復して已むこと無し。終して復た始まる。

人は神気を用いて生じ、其れ死して復た神気帰る。陰陽は鬼神を称し、人は死して亦た鬼神を称す。気は人を生じ、猶ほ水の冰を為すがごときなり。水は凝して冰を為し、気は凝して人を為す。冰は釋けて水を為し、人は死して神を復す。其れ名は神を為すなり。猶ほ冰の釋けて水と名を更めるがごときなり。人は名の異なるを見て、則ち知の有るを謂う。能く形を為して人を害す。據すること無く以って之れを論ずるなり。

 王充は古代中国の合理主義者の代表格ですが、ここでも超自然的な信仰を否定し、高度な言語論を展開しています。もちろん、この論の中で人間の生死を説明する単語、「神気」にも「精気」にも超自然的な意味合いは全くありません。あるのは言語上の曖昧さだけであり、それも現代のそれに比べて五十歩百歩なのです。「神気」、それは人を生命たらしめるもの、大自然からのあずかりものなのであり、そして『淮南子』俶真訓には、「神、清らかなれば、嗜欲乱すこと能ず」とあります。「神気をいさぎよく」、この言葉にはこのような背景があるのでした。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 033 (修正版)

2015-08-13 12:18:57 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人、毎日昼夜の間、元気を養ふ事と元気をそこなふ事との、二の多少をくらべ見るべし。衆人は一日の内、気を養ふ事は常にすくなく、気をそこなふ事は常に多し。養生の道は元気を養ふ事のみにて、元気をそこなふ事なかるべし。もし養ふ事はすくなく、そこなふ事多く、日々つもりて久しければ、元気へりて病生じ、死にいたる。この故に衆人は病多くして短命なり。かぎりある元気をもちて、かぎりなき慾をほしゐまゝにするは、あやうし。

古語曰、日に慎しむこと一日、寿して終に殃なし。言心は一日々々をあらためて、朝より夕まで毎日つヽしめば、身にあやまちなく、身をそこなひやぶる事なくして、寿して、天年をおはるまでわざはひなしと也。是身をたもつ要道なり。

飲食色慾をほしゐまヽにして、其はじめ少の間、わが心に快き事は、後に必身をそこなひ、ながきわざはひとなる。後にわざはひなからん事を求めば、初わが心に快からん事をこのむべからず。万の事はじめ快くすれば、必後の禍となる。はじめつとめてこらゆれば、必後の楽となる。

(解説)

 宋代の類書『太平御覧』にはこんな話が載っています。周の武王と太公望の会話です。

武王、師尚父に問いて曰く。

「五帝の戒、聞くをうべきか」

師尚父曰く。

「黄帝云く。予は民上に在り。搖搖として夕の朝に至らずを恐る、故に金人は其口を三緘し、言語を慎むなり。

堯は民上に居る、振振として深淵に臨むが如し。

舜は民上に居る、兢兢として薄冰を履むが如し。

禹は民上に居る、慄慄として日を満たさざるが如し。

湯は民上に居る、翼翼として敢て息せざるを懼る。

吾は聞く。道は微よりして生じ、禍は微よりして成る。終と始を慎みて、金城の如く完うす。怠に勝つを敬せば則ち吉、欲に勝つを義せば則ち昌。日に慎むこと一日。寿して終いに殃なし」

 太公望は、圧倒的に有利な殷の紂王の軍隊を牧野の戦いでやぶり、周を勝利に導いた伝説的な軍師です。ちなみに牧野の戦いは、『史記』には、周軍は兵車三百乗、勇士三千人、武装兵四万五千人であり、殷軍は七十万の兵であったと記されています。その彼が武王に「五帝の戒」を訊かれて答えたのがこれらの言葉です。

 君子のもっとも尊敬すべき、見習うべき五人の聖帝は常に天下の民のことを考え、慎み深く生きていたのです。益軒は長寿のための養生法を説きましたが、長寿の目的は長く生きることでも、個人的な楽しみでもないのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 032 (修正版)

2015-08-13 12:16:26 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

一時の慾をこらへずして病を生じ、百年の身をあやまる。愚なるかな。長命をたもちて久しく安楽ならん事を願はゞ、慾をほしゐまゝにすべからず。慾をこらゆるは長命の基也。慾をほしゐまゝにするは短命の基也。恣なると忍ぶとは、是寿と夭とのわかるる所也。

易に曰、患を思ひ、予てこれを防ぐ。いふ意は後の患をおもひ、かねて其わざはひをふせぐべし。論語にも、人遠き慮なければ、必近きうれひあり、との玉へり。是皆、初に謹んで、終をたもつの意なり。

人、慾をほしゐまゝにして楽しむは、其楽しみいまだつきざる内に、はやくうれひ生ず。酒食色慾をほしゐまゝにして楽しむ内に、はやくたたりをなして苦しみ生ずるの類也。

(解説)

 「慾をほしゐまゝにすべからず」は「総論上」から何度も繰り返され、またこの後何度も繰り返されます。大切なことだからでしょう。

 「患を思ひ、予てこれを防ぐ」というのは、『易経』の、これは予言書でもあり哲学書でもある儒学の経典の一つですが、その中の既済の卦にある言葉。ちょっと確認してみましょう。

既済 亨ること小なり。貞しきに利ろし。初めは吉にして終わりは乱る。

象に曰く、既済は亨るとは、小なる者亨るなり。貞しきに利ろしとは剛柔ただしくして位当たればなり。初めは吉なりとは、柔中を得ればなり。終に止みて則ち乱る、其の道窮まるなり。

象に曰く、水の火上に在るは既済なり。君子以て患いを思い、予め之を防ぐ。

 既済の卦は、初めは良いが終わりが悪いというもので、君子であれば先を見越して予防しましょう、という内容です。予言書があるくらいなので運命は決定しているのだ、とついつい思ってしまいますが、未来は人間の知性と努力で変えることが出来るのです。

 「人遠き慮なければ、必近きうれひあり」は、『論語』衛靈公にある孔子の言葉。「一時の慾をこらへずして病を生じ、百年の身をあやまる」という益軒の言葉を対になって擁護しています。「一時の慾をこらへ」ないのは「遠慮」がないからなので、「愚なるかな」と言っているのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)