はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.71 ヒポクラテスと経絡経穴

2009-03-18 19:59:59 | 経絡のはなし

伝統医学(中医学、日本漢方、韓医学など色々とありますが)の中で最も興味深いのが鍼灸治療にて重要な位置を占める経絡理論でしょう。


身体には経絡(左右に各12本と正中線上に2本)が張り巡らされ、その上には経穴(左右に各308穴と正中線上に52穴)が存在するとされています。またそれ以外にも奇経と呼ばれる別の流れと、奇穴と呼ばれる経絡上にないツボがあるとされています。


経絡はそれぞれ連絡し合い、各内臓や器官に繋がっているとされ、「営気」と呼ばれる栄養分や生命エネルギーのようなものを身体中に循環させると考えられています。この経絡理論が学術的な体系として完成したのが今から2000年以上前の漢代とされ、『黄帝内経霊枢』という文献により知ることができます。しかし経絡の概念自体は馬王堆や張家山から発掘された文献(陰陽十一脉灸経や足臂十一脉灸経など)によりさらに時代を遡ると考えられています。


さてこの経絡理論により鍼灸医学は東洋医学の神秘などとして取り扱われることもありますが、果たしてこれは古代中国に独特のものだったのでしょうか。


古代ギリシャのヒポクラテス(BC460~377年頃)は医学の父と呼ばれていますが、以下のような論文を残しています。


「脉管のうちもっとも分厚いものは次のようになっている。人体には四対の脉管がある、その一対は頭の後ろから頸を経て背骨の左右の外側部(身体の浅部)を通り、腰に沿ったところおよび腿に達する、それから脛を通って踝の外側および足に達する。それゆえ背部と腰部の痛みのための放血手術を施すには、膝膕と踝の外側から行うべきである」(ヒポクラテス『人間の自然性について』小川政恭訳)


この翻訳された脉管という単語は経絡とほぼ同じ意味ですね。そしてここでの脉管の流れは足の太陽膀胱経(鉅陽、足泰陽の脈)とほぼ同じです。また背部と腰部の痛みの治療点は「委中」と「崑崙」という経穴と場所も主治症もほぼ同じです。


「他の一対の脉管は頭から両耳に沿い頸を通るもので、スパギテスと呼ばれる。これらは背骨に沿い深部において腰部筋肉のそばを通って睾丸と腿に達し、膝膕の内側を経、それから脛を通って踝の内側および足に達する。腰部筋肉と睾丸の痛みのための放血手術を施すには、膝膕および踝の内側からすべきである」(同上)


これなどは足の少陰腎経とほぼ同じですね。腰部筋肉と睾丸の痛みの治療点は「陰谷」と「太谿」という経穴と場所も主治症もほぼ同じです。ここで面白いのは頭や耳にも脉管が通るということです。なぜなら少陰腎経の腎は頭や耳にも関係が深いのに、経絡にはその流れがないからです。


これらから経絡の概念は古代中国に限らず存在していたことが分かります。それはある部分と別の部分の関係性を発見する能力が民族に関係なく存在したことを意味しています。


古代ギリシャも中国も天文学が盛んであり、多くの星座がありました。同じ星空を観察しても星座の作り方(星と星の組み合わせ方)は両者で異なります。このように異なる環境、文化の中で人々の関心を向けるものにより、人体において発見される関係性というものも異なってくるようです。


ただ経絡の概念は古代中国に独特のものではなかったと言えますが、それを経絡理論という一つの治療体系に組み立てて、陰陽五行論など別の理論と融合させ、進化したことは他にはない独特のものであると言ってよいかもしれません。


(ムガク)


No.70 気とアインシュタイン

2009-03-04 22:47:09 | 気・五行のはなし

今も昔も「気」とは何であるのかという議論があります。「気」とは電気や電磁波、磁気のようなエネルギーであるとか、はたまた元素のような物質であるとか議論に絶えません。


鍼灸の世界では「気」とは人間の身体にある経絡という循環器官の内部を流れている生命エネルギーなどと言われることもあります。また外気功の分野では「気」は身体の外に放出されるエネルギーのように捉えられています。


また荘子(BC369-286年頃)や張横渠(1020-1077年)に代表される気一元論の中では、「気」とはあらゆる物質を構成する元素のようなものであると言われています。


数千年の時を経て「気」という単語の意味は多様を極めています。もしそのたくさんの意味の中でどれか一つが正しいのであれば、それ以外の意味は誤まっているのでしょうか。


そうではありません。それらの意味のどれもが正しいものです。


なぜなら、もともと単語の意味と文字には何の関係もないのですから。その間の関係とはある時のある人々の約束事であり恣意的なものに過ぎません。またいったん単語の意味と文字の関係が決定されても、時代とともに単語の使われ方が変化するので、意味の定義も変化します。それを忘れてしまうと「気」を理解することができません。


この言葉の定義の問題は江戸時代にもありました。たとえば朝鮮人参(高麗人参とも御種人参とも呼ばれていますが)は現在でも体力が落ちて元気がない時によく服用されています。後世方医学(李朱医学)では「気」を補う薬として特に重用されていました。


このことに対して吉益東洞(1702-1773年)は「元気は天地根元の気にして人の胎内にやどる時にうけ…気虚する時は死ぬるなり…人参は心下の痞鞕を治す…気を補ふといふ事なし…」(註1)と言っていました。これなどはまさに「気」の定義が後世方派と異なっているという言葉の問題ですね。


また古方派の医師である香川修徳(1683-1755年)は「陰陽の本は一気のみ、一身四肢百骸は気の運動に憑(ヨ)らざるはなし、斯の気は即ち陰陽なり、陰陽は即ち斯の気なり、天地の火に至るや、亦斯の一大元気のみ…」(註2)などと言っています。同じ古方派でも「気」の定義は異なるようです。


さらに本居宣長(1730-1801年)の言うところの「煕然たる一気」など考えるときりがないですね。


科学的分析により「気」を理解する時も単語の意味の恣意性を忘れてはなりません。すなわち、もし科学的分析により「気」とは何か明らかにしたいのであれば、常に「ある時ある人が観察した具体的な現象そのもの」が分析の対象である必要があります。


それはさて置き、とりあえず言えることは「気」がエネルギーであるか物質であるかという議論は、言語学的にみても自然科学的にみても、あまり実のある議論ではありません。


1905年にアインシュタイン(1879-1955年)が特殊相対性理論を発表しました。その理論によりエネルギーと(質量をもつ)物質の境界がなくなってしまいました。それは「E=mc?」という方程式に示されています。この方程式が正しかったために広島と長崎の悲劇が生まれたのは残念なことですが…。


(註1)吉益東洞『医事或問』巻下


(註2)『修庵香川先生文』


(ムガク)