はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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013―堀景山と宣長2/2下 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-21 12:37:03 | 本居宣長と江戸時代の医学

 

 宣長は平素、書斎「鈴の屋」に堀景山が『唐詩選』から選んだ詩、「春思」や「上皇西巡南京歌の軸を掛けており、賀茂真淵の命日には「県居大人之霊位」と自ら書いた軸を掛けていたと伝えられています。*1

 宣長は宝暦二年三月に京に上って景山の弟子となりました。彼はこのことを『家のむかし物語』でこう述べています。(難しくない文章なので原文で引用します)

まづ景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす、[此先生は、堀禎助と申て、先祖惺窩先生の弟子、堀正意先生より、世々安芸殿の儒士にて、禄二百石なり、宣長すなはちその綾小路室町の西なる家に寄宿す]

 宣長は医学を学ぶ前に、儒学を学ぶために景山に入門しました。これは当時ありふれたことであり、貝原益軒は『養生訓』巻第六の中で、「およそ医となる者は、まず儒書をよみ、文義に通ずべし。文義通ぜざれば、医書をよむちからなくして、医学なりがたし。また、経伝の義理に通ずれば、医術の義理を知りやすし。故に孫思邈いわく、およそ大医たるにはまづ儒書に通ずべし」、と言っています。そして、『家のむかし物語』は、こう続きます。

此時より、小津といひし称をやめて、むかしの本居にかへれり、同三年九月、弥四郎を健蔵と改む、同四年五月より、武川幸順法眼の弟子となりて、くすしのわざをまなぶ、[此先生、南山先生と号す、世々児くすしにて、其業いよいよ盛に行はれ、後桃園天皇の、いまだ親王と申せし御ほどより、典薬としてつかうまつり給へりき、宣長、同年の十月より、かの室町四條の南なる家に寄宿せり、] 同五年三月、健蔵を改めて、春庵と号し、名を宣長とあらたむ、かくて此ほどの皇朝の学びのすぢの事は、玉かつまにいへるが如し、同七年十月に、京より松坂にかへり、これよりくすしのわざをもて、家の産(ナリ)とはして、[ 医のわざをもて産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業をまめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうをはかるべきものぞ、これのりなががこころ也、] もはら皇朝のまなびに心をいれて、よるひるといはずいそしみつとめぬ。

 おそらく誰もがここに宣長のジレンマを感じ取ると思います。彼は「医のわざをもて産とすること」を、とても愚かであり、心汚く、男子の本意ではないと考えていました。それなのに医師にならざるを得なかったのです。どうして医師になれたのか。そのジレンマをどのように解消したのか。そもそも、宣長はなぜ「医のわざをもて産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらぬ」と思っていたのでしょうか。医師の身分や世間からの評価が低かったから、というのは見当はずれです。宣長は後の寛政四年に、加賀藩から藩校明倫同の国学学頭として禄二三百石で招聘されましたが、それを断っています。彼には身分やステータスなどよりも大切なものがあったのです。また『養生訓』巻第六を覗いてみましょう。

医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て、志とすべし。わが身の利養を、専に志すべからず。

 宣長の心の中に、この言葉は残っていたでしょう。彼は『経籍』に『養生訓』を書き記し、近世名人の一人として藤原惺窩や林羅山とともに貝原篤信(益軒)の名を挙げ*2、益軒の『大和本草』を読み、貝原先生と呼び*3、吉野や大和路への旅行には益軒の『大和めぐりの記』を携帯して行きました。宣長は景山のもとで儒学を学んだうえ、上記のように考えたのです。「医のわざ」を用いる目的、その条件、宣長にはそれらが観えていて、ある時期には、それらが本末転倒にならぬよう心を悩ませていたかもしれません。「医者になった、さあ、たくさん宣伝して患者さんを集めよう、生活を豊かにしよう」という積極的な気持ちは、はたして宣長にあったのか。開業してもしばらくは暇であり、四五百の森を散歩している時、宣長は何を思っていたのでしょう。

 さて、景山の下で学問をしている中、宣長は師の『不尽言』を読みました。これについては前回抜粋したので、宣長の思想、学問の方法の多くが景山の大きな影響を受けいていることに気づかれたでしょう。とくに和歌に関するもの、古今伝授や八雲伝授とよばれる和歌流派の秘伝に関するものなどは、ほぼ景山の受け売りと言ってよいかもしれません。このあたりも重要なところですが、今回は後回しにしておき、『不尽言』の中に、こんな一文が出てきます。

いかなればとて儒医などと云う名目は、文盲の甚しき事なり。医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なるが、成程妙手にもなるはず、また殊勝不凡にもある事なり。儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事なれば、人情に通ぜずして、何を以てすべきにや。

 景山は、儒者と医師はその業がまったく異なり、儒者であり、かつ医師であるというのはあり得ないと言うのです(004-本居宣長と江戸時代の医学―儒医2/2―)。

 これを、いつ宣長は読んだのでしょう。宣長の『不尽言』の筆写は『本居宣長随筆』第二巻にあります。その筆写の直前と後の文にて、彼は「栄貞(ナガサダ)」という、彼が寛延二年九月から使っている名を用いていることから、彼が名を「健蔵」に改める前の、宝暦二年三月から宝暦三年九月の間に、それを読み写したと推察できます。実際、随筆中の『不尽言』の後で、「宣長」の名を用いたり(宝暦五年三月に改名)、『本草綱目』を抜粋しました(武川幸順に入門し『本草綱目』を学び始めたのが宝暦四年十一月)。やはり、医学を学び始める前の、儒学を学んでいた期間でしょう。

 景山は、「儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事」と、宣長が儒学を学んでいる時に言ったのです。また、宣長は『経籍』の裏表紙に以下のように書き入れました。

○学問に四あり
○訓詁の学とは、聖人の書の文義をくわしくしる事をつとむ
○記誦の学は、ひろく古今書古事事跡を覚る事
○詞章学は、詩文をつくる事をつとむ
○儒者の学は、天地人の道に通じて、身を治め人を治る道を知るを云*4

 これは、書き記されている場所の前後から推測すると、景山から直接、あるいは間接的に教えられた学問の分類かもしれません。そして宣長は、『玉勝間』で以下のように言いました。

道を行うことは、君とある人の務めなり。物まなぶ者の業にはあらず。もの学ぶ者は、道を考え尋ねることこそ務めなり。吾はかくのごとく思ひとれる故に、自ら道を行おうとはせず、道を考え尋ねることこそ務める。そもそも道は、君の行い給いて、天の下に敷き施し給う業にこそあれ、今の行いが道に適わないだろうに、下なる者の、改め行なわむは、私し事にして、中々に道のこころにあらず。下なる者はただ、良くもあれ悪しくもあれ、上の御おもむけに従いおる物にこそあれ、古への道を考え得たからといって、私に定めて行うべきものにはあらず。*5

 と言うように、宣長は儒者の政治的な業は「君とある人の務め」であり、一般庶民の行うものではないと、当時の、今でも、常識的な、いわゆる分をわきまえた考え方をしています。またある日、彼の同門の友人、清水吉太郎が、宣長の和歌好きを批判した時、彼はこのような手紙を書きました。

足下僕の和歌を好むを非として当る、則ち誠に僕の師なり。敢へて敬領せざらんや。足下僕の和歌を好むを非とす。僕も亦たひそかに足下の儒を好むを非とす。是れ何となれば則ち儒なる者は聖人の道なり。聖人の道は、国を爲め天下を治め民を安んずる道なり。ひそかに自づから楽しむある所以の者にあらざるなり。*6

 と、宣長は吉太郎の儒を好むところを批判し返しました。友人同士の手紙であり、皮肉も込められているところが、若い学生らしいですね。宣長は、儒は聖人の道であり、それは個人的に楽しむ道ではない、と言うのです。そして孔子が曾皙に賛同したという話を挙げつつ*7、こうも言いました。

大日霊貴の寵霊に頼り、自然の神道を奉ず。そして之に依れば、則ち礼儀智仁、あに異国の道を待ちて之をもとめんや。僕の六経論語を読むや、ただその文辞を玩ぶのみ。そして六経論語は是れ聖人の言にして、或いは黙して去る。それ是くの如くなれば、僕の学を好むは、人の学を好むに異なるなり。その好む所は、ただ文辞のみ。そして僕の好む所、文辞よりも甚だしき者あり。和歌なり。ただに之を好むのみならず、また之を楽しみ、ほとんど寝食を忘れる。*8

 言ってしまいましたね。仲間うちだったとしても、景山の門下だから許された発言かもしれません。また宣長は、当時の日本の多くの儒者にある問題を感じていました。

儒者に皇国の事を問うには、知らずと言いて、恥とせず、漢国(カラクニ)の事を問うに、知らずと言うをば、いたく恥と思いて、知らぬことをも知り顔に言い紛らわす。これはよろずを漢めかさんとするあまりに、その身をも漢人めかして、皇国をばよその国のごとくもてなさんとするなるべし。されどなお漢人にはあらず。御国人なるに、儒者とあらんものの、おのが国の事を知らであるべき業かは、ただし皇国の人に対ては、さあらんも、漢人めきてよかめれど、もし漢国人の問いたらんには、我は、そなたの国の事はよく知れれども、我が国の事は知らずとは、さすがにえ言いたらじや。もしさも言いたらんには、己が国の事をだにえ知らぬ儒者の、いかでか人の国の事をは知るべきとて、手をうちて、いたく笑いつべし。*9

 外国かぶれ、西洋かぶれが今もあるように、この時代は漢国かぶれというものが大手を振っていたのです。自分の国の事を知ろうともしないで、ただよその国の事を学ぼうとする風潮があったのですが、このころは日本最古の神話でもあり歴史書でもある『古事記』や、歌集『万葉集』は、その特殊な表記方法から正確な解読が出来ていない状態でした。宣長は医学を学び始めると、それらの書を購入しましたが、それらを本格的に読み解いていくのはまだ先の話になります。*10

 さて、景山の弟子のうち医師志望であったのは、宣長だけではありませんでした。宣長の友人、岩崎榮令(藤文與)も医師のたまごでした。景山は、「医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なる」と言いましたが、彼は門弟たちがそのような医師になることを望んでいたとは考えられません。また、門弟たちすべてが聖人の道を行う儒者になることを望んでいたとも考えられません。

  宣長は景山の下で、『易経』、『詩経』、『書経』、『史記』、『晋書』、『礼記』、『左伝』、『世説新語』、『漢書』などを学びましたが、『不尽言』で景山が主張した通り、学問に興味を持たせるために歴史をかなり学ばされています。また、しばしば門弟たちと、琵琶とともに平家物語を謡いあったり、花見で歌を詠みあったり、月見で歌や詩を詠み、風流な京生活を一緒に楽しんだのでした。景山は、学問を好み、そして楽しむ、人間らしい人を育てていたのです。*11  しかし、「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て、志とすべし。わが身の利養を、専に志すべからず」、といった原則があるにもかかわらず、医師として「産業をまめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうをはかる」という目的をいかに果たしたらよいのか。宣長がその解決方法を得るのは香川修徳(修庵)からでした。

つづく

(ムガク)

(特にことわりのない宣長の文は、ある程度読みやすいように、今風にアレンジしています)

*1: 吉田悦之『心力をつくして―本居宣長の生涯』
*2: 『萬覚』、本居宣長全集より
*3: 『在京日記』、全集
*4: 『経籍』、全集
*5: 『玉勝間』、道のおこなふさだ
*6: 『書簡集』、全集
*7: 『論語』先進、「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 036」
*8: 『書簡集』、全集、何某宛(おそらく手紙の内容から清水吉太郎宛)
*9: 『玉勝間』、儒者の皇国のことをばしらずとてある事
*10: 『経籍』、全集
*11: 『在京日記』、全集

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


012―堀景山と宣長2/2中 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-21 12:36:36 | 本居宣長と江戸時代の医学

 前回、宣長の筆写した景山の『不尽言』をご紹介しましたが、今回は宣長が写した場所を示します。箇条書きの全文のうち、写さなかった箇所を小文字にして、色を薄く表示します。なぜこのような一見無駄な、非効率的な方法を選択したのかというと、宣長の理解のためには、彼と同じ経験を味わう、一種の追体験にまさる理解はないと考えるからです。では『不尽言』は箇条書きではなく、全文をそのまま読んでもらうべきではないかという意見もあるでしょう。まったくその通りです。これは原文で何度も読む価値のある作品であり、当時の江戸中期だけでなく、平安朝から黒船来航、明治維新後の日本の歴史が想起される内容です。原文は書籍でぜひお読みください。ただし当ブログでは、データ容量がたくさんないこと、原文中に内容の重複がかなりあること、データの入力や読む人の手間、著作権などを鑑みてこのように妥協しています。

 

○不盡言

 

1.日本人の学問の入り方は、まず字義と語勢をよく弁じ、それを和語に翻訳して、合点するのが、最も第一の事である

 

・元来、書物はみな中華の物であるので、まず下地に中華の文字の意味によく通達しなかったら、書は読まれない。
・文字という物は元来中華の物であり、日本へ伝来したものである。
・我国には文字の音というものはかつてなかった。文字の音は呉音と漢音の二つがある。
・日用書通の文字も、その本はみな中華の草書の体である。
・筆法はみな中国より伝授したため、古人はみな手跡古雅にして唐流である。
・文字というものは、元来一つも日本の物ではなく、そのため中華の文字四十八字を借り用いて、以呂波とした。
・書を読むとはいうは、その意義を合点して吟誦する事である。
・和訓というものは、即ち字義にして、また和語である。しかし和訓ばかりでは、文字の意味には通達できない。心で合点せねばならない。
・中華は天性文字の国なるため、だれもが文字の意味に通達している。林羅山など、日本の大儒といわれる人でも、羅山文集の内には大きな転倒が多くある。
・日本人の学問の入り方は、外の事はまず差し置き、文字の意義をよく味い合点するのが、第一の事である。
・古聖賢の語は書を離れて外にはなく、その書という物はみな中華の物である。
・かの字義を弁ずる内には、また中華の人の語勢を合点しなかったら、書は読まれない。
・元来文字というもの、神妙不測なるありがたき物であり、天地の間に一日もなくては叶はない。
・書を読むには日本人の心持ちをはなれて中華人の心持ちになり代わらねば、正真ではない。
・日本人の学問の入り方は、まず字義と語勢をよく弁じて、それをずいぶん違わぬように徐々に和語に翻訳し、合点するのが、最も第一の事である。
・書を読まずして学文という事はない。
・理というものは畢竟極まったようなもので極まらぬもの、空なるものであるため、その内に正真の理を知るというのは、聖賢でなくてはならない。
・日本の儒者のいうものに、ただ仮名抄であり講釈の弁書きを、その師匠より互に秘伝し口訣とし、学文という事をそれですまし、孔子の意にも朱子の意にもかつてない事などを、私意より造り拵へ、人を面白がらす弁をふるい、俗人を誤まらす輩などが多くある。
・日本に剣術者流というものは、それぞれ理屈を造り拵へて、一種の道を説くものが多く、文盲なる武士をあざむく類もあり。近頃には京師に茶道といって、点茶の道の根源は論語の理より出たる事とて、孔子の語を借り用ひ、その理を弁ずる事甚だ面白く、人の耳を驚かし、間に文盲な者はもっともなる事と感服する輩もあり、京ではこれを茶儒と称する。
・三代先王・孔夫子の書を借り用い、己れが私意をもって下賤なる家業の飾とし、人を騙弄する事、さてさて悲むべく物体ない。

 

2.道理よりも歴史を先に学ぶべし

 

・古来、経と史とは、車の両輪、鳥の両翼の如きものである。
・経はみな、そうでなくてはならぬはずの定まりたる道理を説いて、兼々に人に教訓しおきたるものである。
・史はみな、古より近代迄の代々の時勢風俗、事により時に臨んでの人の言行、善悪ともにありのままに記録し、代々の君臣の政治、行跡、人情の変態を、ことごとく知らしめるものである。
・中人以下の人は、平生あまりに理ばかり詮議しすぎ、それに拘泥して理屈臭くなるので、必ず時に臨み事によりて、結局偏屈であり通用しない事が出てきて、理を取り惑い、悪くしては、しそこなう事もある。
・人君と立ち、国家を支配する人は、まず古今の事実、時勢の成敗をよく考え知らねばならない。
・たいていの人にとって、『大学』の教は聞いても理解が難しく、優れた人でなければ、『大学』の教えを聞いても役にたたない。
・『小学』の教は、あらゆる人の教であり、まずたいてい普通の人は、『小学』の教だけで足りる。
・すべて人は幼少からの教が一番大切であり、その教というのは心の敬より外にはない。
・何芸を学んでも、その師匠に習うばかりで、弟子朋輩なく友の吟味がなければ、励みなく勢なくて、その芸もあがらぬものである。
・日本、武家の政治になってこのかた、しっかりと師傅・友の役人も設る事なければ、近代の大名の世子は殊さらおおかた幼少より我儘に育て上げ、傍から善悪ともに言わせぬようにし、人を何とも思わず、学文は精が尽きるので悪いものとして、幼少の時はさせずにおき、ただ勝手次第、そのままに成長させるので、かの我慢の性根、はや幼少より我しらず出来て、習慣自然となるはず。
・『貞観政要』という書は、議論の文章なので、諫諍する事の理屈、入組みたる事のみ多く、工面を始終よく合点しなければ、なかなか心やすくは通しない書であるため、この字義語勢に通じなければ、その意味を合点しがたい。
・初心の人、下地に一向字義語勢の合点なき人に、入組たる議論の理屈を、たとえ講釈しても、その心にとくとは徹しがたい。
・すべてどんなことも、心易き方よりいたって難き所へ入りこむのが順理である。
・事実の成敗を記録した書は、畢竟、昔物語や今日の世上咄を聞くことと同じものであり、誰でもまず耳近く面白く、その慰にもなので、かの精を尽かし書を疎むわずらいも少く、それよりに学文に取り付きやすくなる。
・学文というものは、少でも心の内に楽しみ、面白いと思い、感徹したいと思うものが一つ生じ出来てこなければ、少しも進まない。
・『資治通鑑』という書は、人君たる人の左右には一日もなくてならぬ物であり、古来の政治の得失、事跡の成敗、臣下の忠邪をありのままに記録した書である。
・古の成敗得失の実を今日の政治の上に通じて鑑み合せ見れば、大きな政治の資助となる。
・およそ史書を読む心持ちは、まずその時代の様子をよく考え、次にその時の天子と臣下の身の上を想像し、直に我が身の上に引き当て、万事その心になり代わって、その時の政事を今日の事と思い込み、我が処置心になりきって見るべし。
・未だろくに字義語勢をも弁ぜぬ内に、難しき議論ある書を読めば、必ず我意をもって理屈を作るようになり、その書の本意にない事を掘り出し、聖人の意にもなき事を心得るようになるため、書を読まぬも同然である。
・我意が混じれば、必ず我慢(高慢)になり、学文をした益はなく、結局却って理屈臭き害がでてくる。  

 

 

3.人君は下の意見にしたがい、諫を容れて用いるべし

 

 

・古来よく諫を用いる人君は甚だ少ない。殊更に日本の武家の風として、すべて人に智恵をつけられた事をその通りに受けて用い、自分の仕損、誤りを改めなおす事を、人の卑下恥辱とする習慣があった。
・世に忠臣孝子一人でもあれば、即ち観賞を加え、天下に表彰する事は、古代よりの政治であるのに、どんな事があれば、かかる赤穂の四十七人の忠臣に罪をかぶせて、一人も残さず一時に殺すとはいかなる政治か。
・武威熾盛なる世に、また近代は軍学とて、かの権謀功利の道に仁義の名を借り、面白く理屈を通り合わせ、これをもって武家の大事とし、甚だ尊敬する事、聖人の教を越えている。軍学に仁義の理を傅会することは、前に言った茶儒の同類である。
・日本の武家は武威を護する為に、治世に成ってもやはり一向に軍中の心をもって政治をしている。
・軍学をもって吾道であると心得、これを尊信するため、ついにいつとなく我知らず人の心術を悪くし、ただ人に卑下しないようにし、何事でありも人に勝つ事を専らとする気になり、人に智恵をつけられる事を大きな恥辱と思い込み、現在に悪くても我を立て通すようにみな人の心がなったのは、軍学の失である。
・武を忘れぬと言うのは、平生じっと心に武を忘れず、用心せよという事ではない。治世にも、武備を一向に思いも出さぬようにして怠り忘れぬように、時々吟味せよという事である。
・朝夕片時でも万一の事あろうかと用心要害し、寝ても覚めても武を忘れぬ事と思うは、文盲も甚だしい。
・今の軍学がどんなものかは知らないが、孟子の「人の和に如かず」と言ったことこそ真の軍学である。人和がなくては、何流の隊立、いかなる城立も、崩れ易いだろう。
・中華の風俗として、町人百姓の内でありも、誰でも、所存があれば、遠慮なく上書して、公儀の政治の悪き事を申し上る事がある。たとえ表向きにすでに勅詔の下った事であっても、その非を申し上る風になっても、咎めはない。
・日本の武風において、下として上の仕置をとやかく批判するのは、理非の差別なしに、まず慮外無礼の至極とする、急迫厳酷なる風習があれば、たいていの気量の人君では諫を容れることはない。
・人君として下を下知し、自由に引きまわす身で、我がしようと思いこんだ事を止めて、下の意見に従い、諫を容れ用いる事は普通はない。聖人という者の、凡人と各別なるというは、このような所の違いばかりである。
・聖人というは、その心は公平であり少も我意がなく、かの我慢なる気味は微塵もなく、気量が大きいばかりである。
・漢の文帝と唐の太宗の諫を容れ用いられた。
・日本は中華に合すれば小国なるため、自然と人の気量も狭く、かの武風も畢竟みな気量が狭いことから起こる。
・漢の高祖に実徳はないが、自然と気量のひろい人だったために、円い物を転がすように、よく人の諫を用いられ、我が過ちを早く悟ったために、良き人も手下に多く集り、小軍をもって項羽の大軍に勝ち、漢の四百年の基を開かれた。
・項羽には勇気はあったが甚だ気量が小さく、物を容れる事ができず。人に疑い深く我慢なる人だったため、ただ我が武威が強く、人の恐れるのを恃みとし、大軍でありながら人和なく、好き臣下もみな失い散り、ついに高祖に亡された。少量なる人は必ず我慢なるものである。
・威光のみを恃みとして国家を治めるは、危なきものである。徳をもって国家を治めるべし。

 

4.武威よりも徳をもって国家を治め、民を安んずるべし

 

 

・武士というものの武士たる所以の理を言えば、軍旅の事、弓馬の事ではない。では義に臨み一命を捨てる事を主とする事か。これを武士だけの道と思うのは甚だ狭き見識であり、文盲である。
・和流軍学者とて、権謀功利の学を主とし、表向きに仁義の説を借りて、飾り拵えたものを武道と言えるが、これは即ち孫子がいえる詭道であり、「夫の人の子を賊う」の学術なので、聖人の仁義忠臣の道とは氷炭胡越のように相違し、少しも論ずるに足らない。これらの他に武士の道とする事に何があるのか。いつも不審に思う。
・「士」という字を、和訓には「さぶらひ」と言うが、士の義は元来男子を通じておしなべて称する字であり、大夫以下の官位俸禄ある人を、貴賤を問わず普通に士と言い、士の内には文官も武官もあって、武官に限らない。
・「侍」の字の「さぶらひ」という訓は、侍衛の心であり、番兵警護の事なので、大将分上の人を仮初にも称する言葉ではない。
・日本は清盛、頼朝以来は、王政の衰たるに乗じ、武家の威勢が盛んになり、武力弓馬でなくては天下は取れぬと思い込み、その武功を誇ることが、自然と風俗となり、武力を面々に鼻にかけ、ただもの武威を張り耀かし、武士という名目を結構なることと心得た。
・日本でも、太閤秀吉公なども「将に将たる」の気量があった。これこそ武家に慕い学ぶべき事なのに、どうしてただ武士ということを面目とし、これに安んずるのか。
・英雄名将の威力にて天下を取り、兵戈の事が終って、国家を治め民を安んずる場になっては、一途に武力ばかりではなかなか国家は治まらない。
・ただむきに武威ばかりを恃みとし、無理やりにおしつけ、人を威勢でもって服させるは、なるほど一旦は人の服するものでも、少しでもその威光が落ちれば、そのままに人心は離れ天下が乱れる。
・徳をもって人心を感服させれば、人が実に服するため、気遣いなく安穏であり、その徳の光耀すなわち威光となって、自然の威光なので何があっても冷める事なく、人が遺背する事がなく、これこそが真の威光と言う。
・『中庸』に言える智仁勇の三徳の名も、三つ相並び、智だけでなく、仁だけでなく、勇だけでなく、三つでちょうどつり合い、一つでもなければ用にたたない。
・聖人の武勇はその徳の光輝にして、内より自然と持って出たものなので、いつまでも衰え変わることはない。
・武士の武勇と思うは、みな人の血気より出来たる客気というものであり、いつまでもあるものではない。
・日本を武国であると言って自慢すれども、元来日本は聖人の国なる事、いやといわれぬ近き証拠はあるが、人は気づかない。
・武家の天下とて、武威をもって天下の政治を自由にしても、とにかく表向きの名代は、天子を君と仰ぎ、自身は臣下となっておらねばならないという事は、どうしても止められず、嫌とは言えない。
・我国人皇は、天照大神より今上皇帝までは三千年に及び、皇統相承けて一王の血脈を相続し、万民これを天子と仰ぐ事、実は中華にも例がない。
・清盛、義満、秀吉も、皇統を絶ち、天子に取って代る事は恐ろしくて出来なかった。
・「天照大神、女体ということでも、呉の太伯である」という説と、その神道者からの反論について。
・和語の解も、神道者の言うことは、みな理屈をもって我意であり拵えたるものである。
・神は即ち古の聖神なので、いかさま天照大神の聖徳が、数千年の間、人心に染み込み失なわなかったというのは、神妙不測のことであり、神国と言われるのも理があり、かの武国と言うよりは一理ある。
・すべて聖徳の武威はだれにも何もせず、世話をやかずに自然と人が懾服し、その人がすでに世を没して後も、なお人を畏れさせる。

 

5.人情の本を知り、五倫の間の人の実情を察するべし

 

・儒者の業は、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み歴史に達する事なので、世間の人よりは各別によく人情に通達せねばならない。
・儒医などという名目は、文盲の甚だしい。或は出家の僧徒や、山居の隠居や、亦は一芸を業とする文人詩人や、射御の師、医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他にする事もないため、自然と世上の事に不案内になるが、成程妙手にもなるはず。
・人情を知る事は、「仁を求む」の手がかりであり、学者の最初の工夫である。
・恕は即ち「仁を求む」の方術であり、人情に通じると言うのは、恕を致す方術である。
・孔子の門弟子の学文として書を読むというのは、まず『詩経』からである。
・『詩経』は人情を知る為の書である。学者の第一に業とするものは、『詩経』である。
・詩を学ぶというは、全く人の五倫、世上朝夕の間において、貴賤上下、色々様々なる人情の善も悪も酸も甘いも、委細に知り通じるためである。
・和歌というものも、本は詩と同じものであり、紀貫之が古今の序に、「人の心を種として、万の言の葉とはなれりけり」と言い、「見るもの聞ものにつけていい出せる」と言えば、詩の本意と符合する。
・人の思いは知らずにふっと実情を言い表す事である。これが詩となるものであり、人の底心骨髓から出でたるものである。しかればその詞を見るによって、世上の人情の酸も甘いもよく知ることができる。
・詩は三百篇あれども、詩というものはことごとく、ただ一言の「思邪無し」の三字より出て来ない詩というものは、一篇もない。
・善悪邪正ともに、人の内にひそめたる実情の隠されないものは、詩にある。
・詩の教は、人の実情を察し明らかにするため、仁恕もこれより求め得る手がかりとする。元来詩を学ぶというのは、学者以上の事であり、なべて世俗の人の学ぶ事ではなかった。
・人の上に立て国家の政治をする人は、必ず学文をして人情をよく知り、下の委曲の情をとくと察しなければ、だれも実に帰服しないため、人情に通達せずして、国家の政治は必ず定まる事はない。
・「邪」の字の義は、邪悪、邪佞などの字の気味だけではない。邪行、邪視、または邪幅などといえる邪の字の義もある。元来邪字の音義に斜の字あれば、斜の字の意が即ち邪の字の本義である。
・人の心の思う通りずっと出てすぐに行こうする所を、すぐにやらず、内で横筋違に言い換え、ひと思案し按排料理するは、邪である。その思う通り我しらず内から自然に真っすぐに出て、実情を吐露した所を、「邪無し」と言う。
・和歌の道もこの通り少しもかわる事はない。ただ中国大和と人の言語の違いがあり、共に人の「思邪無し」になる所より発出する。
・万葉集時代の和歌は、『詩経』の詩によく似たるもの、殊勝なるものである。
・『礼記』に「飲食男女は人の大欲存す」とある聖語のように、人情の最も重く大事なるものは男女の欲である。そのため、夫婦の間ほど人の実情深切なるものはない。
・欲と言えば悪き事のようにのみ心得るは、大きな違いである。欲は即ち人情の事であり、これがなければ人ではない。欲は天性自然に具足したるものなので、人と生れて欲がないものは一人もない。
・色々様々に己が身勝手な事と思い、私の料見を出して造り拵え、理義にそむき、ない事を欲して願うために、私欲と名がつけば、悪しきものになる。
・男女の欲は、人たるもの誰であってもこれには溺れ惑って良いものであり、人は最も第一にこれを大事として、慎み畏れるべきである。これはとても危ない所であり、これにおいて克念すると聖となり、でなければ狂となる分かれ目である。
・聖人も欲は凡人とかわる事はないけれども、その欲が凡人より甚だ少なく、どんなことでも溺れ惑う事はない。これこそ聖人の聖人たる所以である。
・夫婦の間に楽しむと淫するは、どうやら似たようなもので、悪くしたら踏みそこないそうな危ない場であり、しかもその情思の邪正相判れる事は氷炭の違いであり、こここそ聖人と凡人との境めである。
・敬というは、物事を畏れ慎み、前方に気をつけることである。
・夫婦の間には常に別を立てる事を忘れてはいけない。
・和歌は、日本古来宗匠の論にも、恋の歌をもって大事とし、重き事としたる事も、夫婦の情は人情の本源であり、和歌のよって起る所なので、万葉集にも、相聞とて恋の部の歌を巻首に載せ、全体に恋の歌が多く入れられ、後の代々の撰集にも、恋の歌を多く載せてこれを主としている。
・万葉時代の恋歌は、後世の恋歌とは違い、その様子は質直であり、かの温柔敦厚の雅なる風に見えるが多くして、楽という気味に似たるものもある。
・俊成卿の歌に「恋せずば人は心のなからまし物のあはれはこれよりぞ知る」と詠まれたものは、それほど秀歌ではないが、その意趣は向上であり、人情によく達している。
・和歌は古くも日本の治道の助けとなり、その時代の和歌の風を見て、政治の善悪、世の盛衰がわかる。
・俗人の汚き心は、夫婦の実情は淫慾より生ずることなので、交会する事なければ、実情は出てこないと考える。
・親の子を思う心、兄弟の間、君臣朋友の交にも思慕深切の実情あれば、またこれも恋である。
・人の思慕深切の実情というものをよく考えれば、即ち孟子のいわゆる「人に忍びざるの心」というものであり、これが仁の本体であり、人の本心、性の善なる所である。かの「物のあはれを知る」と俊成卿の詠まれたのも、この場を見つけ得られたので、殊勝なること、尊仰すべき歌と、いつもめでたく思える。
・人情に通じるのは仁を求めるための方術である。 
・今世に流行る三線は、打ち聞くに人の心を蕩し躁がし、起こりもせぬ淫欲を誘うものである。
・琵琶というものは、紫式部も「らうらうじきもの」と言い置き、高古遠雅にさびて、しめやかなる音であり、打ちあがりたるものなので、聞く内には自然と人の心も静まり落つき、いつともなく清浄になるように覚える。
・琵琶は古楽・雅楽であり、三線は鄭衛・鄭声である。聖人の教にも、「鄭声を放つ」とはあるが、鄭声を嫌い悪くむとは結局言わなかった。その鄭声を、人が雅楽である、真の音楽であると思い込み、混乱させるのを悪くむと言ったのである。
・総じて音楽の音節繁急にして面白すぎるものは、すぐに人心を浮き躁がし、それより起らぬ淫欲も感動させるものなので、音楽は人心を感動させる事が素早いものであり、人心に関係する事の、重く大切なものである。
・古の聖人が天下を治めるのに、礼と楽との二つをもってした。礼は人の行儀の作法の教、楽は人の心を正しくさせる教である。
・人というものは、常住窮屈な、折詰めた事ばかりでは続き難きものなので、必ず打くつろいで心を和らげ、遊び慰む事がなければならない。その心が和らぎ打ちくつろいだ時には、黙っていられぬものであり、必ず音声を発し拍子を通り、歌い舞わねばいられない。これが自然である。
・聖人は情によって人を教えるので、楽をもって教として、人の心をそれでほぐすようにした。かの鄭声を放ち遠ざけ、平生に正しき雅楽を人に聞かせ、いつともなくかの鄭声の事を打忘れさせ、雅楽を面白いと思わせるようにさせる。
・金銀財宝、富と言えば、人欲の最も目当てにする事であり、聖人も凡人も同じである。しかし聖人は、貧賤に耐えかねて、富を無理に求めようとせず、我が心の真実に面白いと思い好む事は、古聖人の書を読み、学文をし、義理を分別し、心を清浄にする方を選ぶことが、凡人と異なる。
・和歌の道に大事とする恋というものは、夫婦思慕深切、天性自然の実情なるものであり、かの今様の淫慾交会の事のみを恋と思い込むのは、見当違いである。
・五倫の内では夫婦の間の思慕深切なる実情は、一番重要なことであり、日本の和歌の道も、自然とここをもって大切とするのである。
・人情の本を知り、五倫の間の人の実情を明らかに察すれば、心が公平になり、気量が大きくなり、料見よく物を受け容れ、すべての人を憐憫し、自然と人の諫をも受け容れ用いるようになる。
・国家の政治をするというのは、古聖人の徒ともなるべき事なので、人情に達する事は、また政治の本に達するという事である。

 

6.和歌は日本の大道であり、秘伝はあってはならない

 

・和歌の道は日本の大道なので、元来和歌の道に秘伝があらねばならないとは思われない。八雲の伝は全く後世の拵え事なので、一向に議論には及ばない。
・和歌の道は以心伝心なるもので、委細に言句伝授などで言い伝えられるものではない。詩の道もまた同じ事であり、天然と和漢符合しているわけは、人情が同じだからである。
・近代に及んでは古今伝授などが出来て、和歌は詠まれないもののように難しくなり、公家でなくては歌は詠まれず、地下の人は歌は詠まれないと言っているのはどういうことか。
・百人一首、古今集、廿一代集をみても地下の人の歌は数しれずあり、昔は堂上地下の差別はなかった。
・古今伝授の由来の説は、後人の偽造であるという証拠はそろっている。
・古今伝授という事は、元来は地下より公家へ伝えたもの。古今伝授しなくても和歌は詠まれる事は明白である。
・和歌を良くするのは我が朝の大道と思われるが、どうして秘伝と言って自ら狭く小さくするのか。嘆くべく悲しむべき事である。
・秘事として伝授するのは、陰謀を主意とする軍学である。和歌には秘伝はあってはならない。

 

7.心を平らかにして、我を立てて私意を指し出さぬようにせず、聖人の道は見つける学文をすべし

 

・学問をすれば必ず人を非に見るようになり、人柄が悪くなるという事は、俗論でも、現在俗人の内に多くある事である。俗人に限らず、なかなか学者にさえ多い。
・その病根は、我慢高慢という病より起こる事であり、学問をもって口実としただけである。
・一片を聞いて、下地の我慢の助けとして、書を読んでも、みな我が意の勝手の良いように私の料見をもって理屈をつける故に、そのような人の学文は、名は学文をすると言っても、畢竟文盲と同じ事、俗に言う、論語よみの論語しらずなので、真の事ではない。学問をしたために人が悪くなるのではない。
・殊更日本武家の政治となって、師傅の役を立てる事もなく、その上軍学の功利陰謀の事を第一と心得、ただむきに武威をもって人を推し、権を取る風習となるため、人に知恵をつけられる事を卑下恥辱と覚え、威を張る事をのみ専らとする事によって、必ず学文は中国の事、武士には武士の道があり、聖人は昔の人であり、当代の風には合わぬ事と、いよいよ我慢の威風を張るようになるので、何があっても学文の方へは移らぬはずである。
・総じて何によらず、臭気のする物は悪いものであり、味噌の味噌臭き、鰹節の鰹臭き、人では学者の学者臭き、武士の武士臭きが、大方は胸の悪い気味がするものである。これが俗語にいえる、無い樽の鳴ると言うものであり、内にいっぱい物が詰まらず、いまだ不足なるため、少しある物ゆえ、人が知るまいかと思い、人に知られたくなり、ひけらかす心ができて、こちらから人に鳴らして見せるのである。また、ただ自慢高慢の心より、人を推して我を立てようと競う仕形と見える。無い樽の鳴るは、外からついその内が知れて、却って信向がさめるものである。ただただ心を公に平らかにして、少しでも我を立てて私意を指し出さぬようにしなかったら、真実に聖人の道は見つけられないだろう。

 

前回、宣長の筆写箇所を予想された方、結果はいかがでしたか。

 

つづく

 

(ムガク)

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


012―堀景山と宣長2/2上 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-21 12:35:56 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長は堀景山の『不尽言(不盡言)』を筆写しました。この書は、景山は安芸公に仕えていましたが、その藩の重役、岡本貞喬からの質問状に答える書簡の形式をとっています。ここでは、宣長がそのどこを写したかについては触れずに、この『不尽言』にはどのようなことが書かれてあるのか、ざっと見ていきましょう。彼は伊勢に生まれ、この頃は京で儒学等を学んでいました。そして和歌に志していたいたことを踏まえて、彼がどこを筆写したのか想像してみると良いかもしれません。なぜなら、いくら抽象的な説明を重ねるよりも、実際にその本を体感するのにまさる理解はないからです。ただし、読みやすさと、文量の関係から現代語に直して、箇条書きにして追って行きましょう。

 

○不盡言

 

1.日本人の学問の入り方は、まず字義と語勢をよく弁じ、それを和語に翻訳して、合点するのが、最も第一の事である

 

・元来、書物はみな中華の物であるので、まず下地に中華の文字の意味によく通達しなかったら、書は読まれない。
・文字という物は元来中華の物であり、日本へ伝来したものである。
・我国には文字の音というものはかつてなかった。文字の音は呉音と漢音の二つがある。
・日用書通の文字も、その本はみな中華の草書の体である。
・筆法はみな中国より伝授したため、古人はみな手跡古雅にして唐流である。
・文字というものは、元来一つも日本の物ではなく、そのため中華の文字四十八字を借り用いて、以呂波とした。
・書を読むとはいうは、その意義を合点して吟誦する事である。
・和訓というものは、即ち字義にして、また和語である。しかし和訓ばかりでは、文字の意味には通達できない。心で合点せねばならない。
・中華は天性文字の国なるため、だれもが文字の意味に通達している。林羅山など、日本の大儒といわれる人でも、羅山文集の内には大きな転倒が多くある。
・日本人の学問の入り方は、外の事はまず差し置き、文字の意義をよく味い合点するのが、第一の事である。
・古聖賢の語は書を離れて外にはなく、その書という物はみな中華の物である。
・かの字義を弁ずる内には、また中華の人の語勢を合点しなかったら、書は読まれない。
・元来文字というもの、神妙不測なるありがたき物であり、天地の間に一日もなくては叶はない。
・書を読むには日本人の心持ちをはなれて中華人の心持ちになり代わらねば、正真ではない。
・日本人の学問の入り方は、まず字義と語勢をよく弁じて、それをずいぶん違わぬように徐々に和語に翻訳し、合点するのが、最も第一の事である。
・書を読まずして学文という事はない。
・理というものは畢竟極まったようなもので極まらぬもの、空なるものであるため、その内に正真の理を知るというのは、聖賢でなくてはならない。
・日本の儒者のいうものに、ただ仮名抄であり講釈の弁書きを、その師匠より互に秘伝し口訣とし、学文という事をそれですまし、孔子の意にも朱子の意にもかつてない事などを、私意より造り拵へ、人を面白がらす弁をふるい、俗人を誤まらす輩などが多くある。
・日本に剣術者流というものは、それぞれ理屈を造り拵へて、一種の道を説くものが多く、文盲なる武士をあざむく類もあり。近頃には京師に茶道といって、点茶の道の根源は論語の理より出たる事とて、孔子の語を借り用ひ、その理を弁ずる事甚だ面白く、人の耳を驚かし、間に文盲な者はもっともなる事と感服する輩もあり、京ではこれを茶儒と称する。
・三代先王・孔夫子の書を借り用い、己れが私意をもって下賤なる家業の飾とし、人を騙弄する事、さてさて悲むべく物体ない。

 

2.道理よりも歴史を先に学ぶべし

 

・古来、経と史とは、車の両輪、鳥の両翼の如きものである。
・経はみな、そうでなくてはならぬはずの定まりたる道理を説いて、兼々に人に教訓しおきたるものである。
・史はみな、古より近代迄の代々の時勢風俗、事により時に臨んでの人の言行、善悪ともにありのままに記録し、代々の君臣の政治、行跡、人情の変態を、ことごとく知らしめるものである。
・中人以下の人は、平生あまりに理ばかり詮議しすぎ、それに拘泥して理屈臭くなるので、必ず時に臨み事によりて、結局偏屈であり通用しない事が出てきて、理を取り惑い、悪くしては、しそこなう事もある。
・人君と立ち、国家を支配する人は、まず古今の事実、時勢の成敗をよく考え知らねばならない。
・たいていの人にとって、『大学』の教は聞いても理解が難しく、優れた人でなければ、『大学』の教えを聞いても役にたたない。
・『小学』の教は、あらゆる人の教であり、まずたいてい普通の人は、『小学』の教だけで足りる。
・すべて人は幼少からの教が一番大切であり、その教というのは心の敬より外にはない。
・何芸を学んでも、その師匠に習うばかりで、弟子朋輩なく友の吟味がなければ、励みなく勢なくて、その芸もあがらぬものである。
・日本、武家の政治になってこのかた、しっかりと師傅・友の役人も設る事なければ、近代の大名の世子は殊さらおおかた幼少より我儘に育て上げ、傍から善悪ともに言わせぬようにし、人を何とも思わず、学文は精が尽きるので悪いものとして、幼少の時はさせずにおき、ただ勝手次第、そのままに成長させるので、かの我慢の性根、はや幼少より我しらず出来て、習慣自然となるはず。
・『貞観政要』という書は、議論の文章なので、諫諍する事の理屈、入組みたる事のみ多く、工面を始終よく合点しなければ、なかなか心やすくは通しない書であるため、この字義語勢に通じなければ、その意味を合点しがたい。
・初心の人、下地に一向字義語勢の合点なき人に、入組たる議論の理屈を、たとえ講釈しても、その心にとくとは徹しがたい。
・すべてどんなことも、心易き方よりいたって難き所へ入りこむのが順理である。
・事実の成敗を記録した書は、畢竟、昔物語や今日の世上咄を聞くことと同じものであり、誰でもまず耳近く面白く、その慰にもなので、かの精を尽かし書を疎むわずらいも少く、それよりに学文に取り付きやすくなる。
・学文というものは、少でも心の内に楽しみ、面白いと思い、感徹したいと思うものが一つ生じ出来てこなければ、少しも進まない。
・『資治通鑑』という書は、人君たる人の左右には一日もなくてならぬ物であり、古来の政治の得失、事跡の成敗、臣下の忠邪をありのままに記録した書である。
・古の成敗得失の実を今日の政治の上に通じて鑑み合せ見れば、大きな政治の資助となる。
・およそ史書を読む心持ちは、まずその時代の様子をよく考え、次にその時の天子と臣下の身の上を想像し、直に我が身の上に引き当て、万事その心になり代わって、その時の政事を今日の事と思い込み、我が処置心になりきって見るべし。
・未だろくに字義語勢をも弁ぜぬ内に、難しき議論ある書を読めば、必ず我意をもって理屈を作るようになり、その書の本意にない事を掘り出し、聖人の意にもなき事を心得るようになるため、書を読まぬも同然である。
・我意が混じれば、必ず我慢(高慢)になり、学文をした益はなく、結局却って理屈臭き害がでてくる。  

 

3.人君は下の意見にしたがい、諫を容れて用いるべし

 

・古来よく諫を用いる人君は甚だ少ない。殊更に日本の武家の風として、すべて人に智恵をつけられた事をその通りに受けて用い、自分の仕損、誤りを改めなおす事を、人の卑下恥辱とする習慣があった。
・世に忠臣孝子一人でもあれば、即ち観賞を加え、天下に表彰する事は、古代よりの政治であるのに、どんな事があれば、かかる赤穂の四十七人の忠臣に罪をかぶせて、一人も残さず一時に殺すとはいかなる政治か。
・武威熾盛なる世に、また近代は軍学とて、かの権謀功利の道に仁義の名を借り、面白く理屈を通り合わせ、これをもって武家の大事とし、甚だ尊敬する事、聖人の教を越えている。軍学に仁義の理を傅会することは、前に言った茶儒の同類である。
・日本の武家は武威を護する為に、治世に成ってもやはり一向に軍中の心をもって政治をしている。
・軍学をもって吾道であると心得、これを尊信するため、ついにいつとなく我知らず人の心術を悪くし、ただ人に卑下しないようにし、何事でありも人に勝つ事を専らとする気になり、人に智恵をつけられる事を大きな恥辱と思い込み、現在に悪くても我を立て通すようにみな人の心がなったのは、軍学の失である。
・武を忘れぬと言うのは、平生じっと心に武を忘れず、用心せよという事ではない。治世にも、武備を一向に思いも出さぬようにして怠り忘れぬように、時々吟味せよという事である。
・朝夕片時でも万一の事あろうかと用心要害し、寝ても覚めても武を忘れぬ事と思うは、文盲も甚だしい。
・今の軍学がどんなものかは知らないが、孟子の「人の和に如かず」と言ったことこそ真の軍学である。人和がなくては、何流の隊立、いかなる城立も、崩れ易いだろう。
・中華の風俗として、町人百姓の内でありも、誰でも、所存があれば、遠慮なく上書して、公儀の政治の悪き事を申し上る事がある。たとえ表向きにすでに勅詔の下った事であっても、その非を申し上る風になっても、咎めはない。
・日本の武風において、下として上の仕置をとやかく批判するのは、理非の差別なしに、まず慮外無礼の至極とする、急迫厳酷なる風習があれば、たいていの気量の人君では諫を容れることはない。
・人君として下を下知し、自由に引きまわす身で、我がしようと思いこんだ事を止めて、下の意見に従い、諫を容れ用いる事は普通はない。聖人という者の、凡人と各別なるというは、このような所の違いばかりである。
・聖人というは、その心は公平であり少も我意がなく、かの我慢なる気味は微塵もなく、気量が大きいばかりである。
・漢の文帝と唐の太宗の諫を容れ用いられた。
・日本は中華に合すれば小国なるため、自然と人の気量も狭く、かの武風も畢竟みな気量が狭いことから起こる。
・漢の高祖に実徳はないが、自然と気量のひろい人だったために、円い物を転がすように、よく人の諫を用いられ、我が過ちを早く悟ったために、良き人も手下に多く集り、小軍をもって項羽の大軍に勝ち、漢の四百年の基を開かれた。
・項羽には勇気はあったが甚だ気量が小さく、物を容れる事ができず。人に疑い深く我慢なる人だったため、ただ我が武威が強く、人の恐れるのを恃みとし、大軍でありながら人和なく、好き臣下もみな失い散り、ついに高祖に亡された。少量なる人は必ず我慢なるものである。
・威光のみを恃みとして国家を治めるは、危なきものである。徳をもって国家を治めるべし。

 

4.武威よりも徳をもって国家を治め、民を安んずるべし

 

・武士というものの武士たる所以の理を言えば、軍旅の事、弓馬の事ではない。では義に臨み一命を捨てる事を主とする事か。これを武士だけの道と思うのは甚だ狭き見識であり、文盲である。
・和流軍学者とて、権謀功利の学を主とし、表向きに仁義の説を借りて、飾り拵えたものを武道と言えるが、これは即ち孫子がいえる詭道であり、「夫の人の子を賊う」の学術なので、聖人の仁義忠臣の道とは氷炭胡越のように相違し、少しも論ずるに足らない。これらの他に武士の道とする事に何があるのか。いつも不審に思う。
・「士」という字を、和訓には「さぶらひ」と言うが、士の義は元来男子を通じておしなべて称する字であり、大夫以下の官位俸禄ある人を、貴賤を問わず普通に士と言い、士の内には文官も武官もあって、武官に限らない。
・「侍」の字の「さぶらひ」という訓は、侍衛の心であり、番兵警護の事なので、大将分上の人を仮初にも称する言葉ではない。
・日本は清盛、頼朝以来は、王政の衰たるに乗じ、武家の威勢が盛んになり、武力弓馬でなくては天下は取れぬと思い込み、その武功を誇ることが、自然と風俗となり、武力を面々に鼻にかけ、ただもの武威を張り耀かし、武士という名目を結構なることと心得た。
・日本でも、太閤秀吉公なども「将に将たる」の気量があった。これこそ武家に慕い学ぶべき事なのに、どうしてただ武士ということを面目とし、これに安んずるのか。
・英雄名将の威力にて天下を取り、兵戈の事が終って、国家を治め民を安んずる場になっては、一途に武力ばかりではなかなか国家は治まらない。
・ただむきに武威ばかりを恃みとし、無理やりにおしつけ、人を威勢でもって服させるは、なるほど一旦は人の服するものでも、少しでもその威光が落ちれば、そのままに人心は離れ天下が乱れる。
・徳をもって人心を感服させれば、人が実に服するため、気遣いなく安穏であり、その徳の光耀すなわち威光となって、自然の威光なので何があっても冷める事なく、人が遺背する事がなく、これこそが真の威光と言う。
・『中庸』に言える智仁勇の三徳の名も、三つ相並び、智だけでなく、仁だけでなく、勇だけでなく、三つでちょうどつり合い、一つでもなければ用にたたない。
・聖人の武勇はその徳の光輝にして、内より自然と持って出たものなので、いつまでも衰え変わることはない。
・武士の武勇と思うは、みな人の血気より出来たる客気というものであり、いつまでもあるものではない。
・日本を武国であると言って自慢すれども、元来日本は聖人の国なる事、いやといわれぬ近き証拠はあるが、人は気づかない。
・武家の天下とて、武威をもって天下の政治を自由にしても、とにかく表向きの名代は、天子を君と仰ぎ、自身は臣下となっておらねばならないという事は、どうしても止められず、嫌とは言えない。
・我国人皇は、天照大神より今上皇帝までは三千年に及び、皇統相承けて一王の血脈を相続し、万民これを天子と仰ぐ事、実は中華にも例がない。
・清盛、義満、秀吉も、皇統を絶ち、天子に取って代る事は恐ろしくて出来なかった。
・「天照大神、女体ということでも、呉の太伯である」という説と、その神道者からの反論について。
・和語の解も、神道者の言うことは、みな理屈をもって我意であり拵えたるものである。
・神は即ち古の聖神なので、いかさま天照大神の聖徳が、数千年の間、人心に染み込み失なわなかったというのは、神妙不測のことであり、神国と言われるのも理があり、かの武国と言うよりは一理ある。
・すべて聖徳の武威はだれにも何もせず、世話をやかずに自然と人が懾服し、その人がすでに世を没して後も、なお人を畏れさせる。

 

5.人情の本を知り、五倫の間の人の実情を察するべし

 

・儒者の業は、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み歴史に達する事なので、世間の人よりは各別によく人情に通達せねばならない。
・儒医などという名目は、文盲の甚だしい。或は出家の僧徒や、山居の隠居や、亦は一芸を業とする文人詩人や、射御の師、医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他にする事もないため、自然と世上の事に不案内になるが、成程妙手にもなるはず。
・人情を知る事は、「仁を求む」の手がかりであり、学者の最初の工夫である。
・恕は即ち「仁を求む」の方術であり、人情に通じると言うのは、恕を致す方術である。
・孔子の門弟子の学文として書を読むというのは、まず『詩経』からである。
・『詩経』は人情を知る為の書である。学者の第一に業とするものは、『詩経』である。
・詩を学ぶというは、全く人の五倫、世上朝夕の間において、貴賤上下、色々様々なる人情の善も悪も酸も甘いも、委細に知り通じるためである。
・和歌というものも、本は詩と同じものであり、紀貫之が古今の序に、「人の心を種として、万の言の葉とはなれりけり」と言い、「見るもの聞ものにつけていい出せる」と言えば、詩の本意と符合する。
・人の思いは知らずにふっと実情を言い表す事である。これが詩となるものであり、人の底心骨髓から出でたるものである。しかればその詞を見るによって、世上の人情の酸も甘いもよく知ることができる。
・詩は三百篇あれども、詩というものはことごとく、ただ一言の「思邪無し」の三字より出て来ない詩というものは、一篇もない。
・善悪邪正ともに、人の内にひそめたる実情の隠されないものは、詩にある。
・詩の教は、人の実情を察し明らかにするため、仁恕もこれより求め得る手がかりとする。元来詩を学ぶというのは、学者以上の事であり、なべて世俗の人の学ぶ事ではなかった。
・人の上に立て国家の政治をする人は、必ず学文をして人情をよく知り、下の委曲の情をとくと察しなければ、だれも実に帰服しないため、人情に通達せずして、国家の政治は必ず定まる事はない。
・「邪」の字の義は、邪悪、邪佞などの字の気味だけではない。邪行、邪視、または邪幅などといえる邪の字の義もある。元来邪字の音義に斜の字あれば、斜の字の意が即ち邪の字の本義である。
・人の心の思う通りずっと出てすぐに行こうする所を、すぐにやらず、内で横筋違に言い換え、ひと思案し按排料理するは、邪である。その思う通り我しらず内から自然に真っすぐに出て、実情を吐露した所を、「邪無し」と言う。
・和歌の道もこの通り少しもかわる事はない。ただ中国大和と人の言語の違いがあり、共に人の「思邪無し」になる所より発出する。
・万葉集時代の和歌は、『詩経』の詩によく似たるもの、殊勝なるものである。
・『礼記』に「飲食男女は人の大欲存す」とある聖語のように、人情の最も重く大事なるものは男女の欲である。そのため、夫婦の間ほど人の実情深切なるものはない。
・欲と言えば悪き事のようにのみ心得るは、大きな違いである。欲は即ち人情の事であり、これがなければ人ではない。欲は天性自然に具足したるものなので、人と生れて欲がないものは一人もない。
・色々様々に己が身勝手な事と思い、私の料見を出して造り拵え、理義にそむき、ない事を欲して願うために、私欲と名がつけば、悪しきものになる。
・男女の欲は、人たるもの誰であってもこれには溺れ惑って良いものであり、人は最も第一にこれを大事として、慎み畏れるべきである。これはとても危ない所であり、これにおいて克念すると聖となり、でなければ狂となる分かれ目である。
・聖人も欲は凡人とかわる事はないけれども、その欲が凡人より甚だ少なく、どんなことでも溺れ惑う事はない。これこそ聖人の聖人たる所以である。
・夫婦の間に楽しむと淫するは、どうやら似たようなもので、悪くしたら踏みそこないそうな危ない場であり、しかもその情思の邪正相判れる事は氷炭の違いであり、こここそ聖人と凡人との境めである。
・敬というは、物事を畏れ慎み、前方に気をつけることである。
・夫婦の間には常に別を立てる事を忘れてはいけない。
・和歌は、日本古来宗匠の論にも、恋の歌をもって大事とし、重き事としたる事も、夫婦の情は人情の本源であり、和歌のよって起る所なので、万葉集にも、相聞とて恋の部の歌を巻首に載せ、全体に恋の歌が多く入れられ、後の代々の撰集にも、恋の歌を多く載せてこれを主としている。
・万葉時代の恋歌は、後世の恋歌とは違い、その様子は質直であり、かの温柔敦厚の雅なる風に見えるが多くして、楽という気味に似たるものもある。
・俊成卿の歌に「恋せずば人は心のなからまし物のあはれはこれよりぞ知る」と詠まれたものは、それほど秀歌ではないが、その意趣は向上であり、人情によく達している。
・和歌は古くも日本の治道の助けとなり、その時代の和歌の風を見て、政治の善悪、世の盛衰がわかる。
・俗人の汚き心は、夫婦の実情は淫慾より生ずることなので、交会する事なければ、実情は出てこないと考える。
・親の子を思う心、兄弟の間、君臣朋友の交にも思慕深切の実情あれば、またこれも恋である。
・人の思慕深切の実情というものをよく考えれば、即ち孟子のいわゆる「人に忍びざるの心」というものであり、これが仁の本体であり、人の本心、性の善なる所である。かの「物のあはれを知る」と俊成卿の詠まれたのも、この場を見つけ得られたので、殊勝なること、尊仰すべき歌と、いつもめでたく思える。
・人情に通じるのは仁を求めるための方術である。 
・今世に流行る三線は、打ち聞くに人の心を蕩し躁がし、起こりもせぬ淫欲を誘うものである。
・琵琶というものは、紫式部も「らうらうじきもの」と言い置き、高古遠雅にさびて、しめやかなる音であり、打ちあがりたるものなので、聞く内には自然と人の心も静まり落つき、いつともなく清浄になるように覚える。
・琵琶は古楽・雅楽であり、三線は鄭衛・鄭声である。聖人の教にも、「鄭声を放つ」とはあるが、鄭声を嫌い悪くむとは結局言わなかった。その鄭声を、人が雅楽である、真の音楽であると思い込み、混乱させるのを悪くむと言ったのである。
・総じて音楽の音節繁急にして面白すぎるものは、すぐに人心を浮き躁がし、それより起らぬ淫欲も感動させるものなので、音楽は人心を感動させる事が素早いものであり、人心に関係する事の、重く大切なものである。
・古の聖人が天下を治めるのに、礼と楽との二つをもってした。礼は人の行儀の作法の教、楽は人の心を正しくさせる教である。
・人というものは、常住窮屈な、折詰めた事ばかりでは続き難きものなので、必ず打くつろいで心を和らげ、遊び慰む事がなければならない。その心が和らぎ打ちくつろいだ時には、黙っていられぬものであり、必ず音声を発し拍子を通り、歌い舞わねばいられない。これが自然である。
・聖人は情によって人を教えるので、楽をもって教として、人の心をそれでほぐすようにした。かの鄭声を放ち遠ざけ、平生に正しき雅楽を人に聞かせ、いつともなくかの鄭声の事を打忘れさせ、雅楽を面白いと思わせるようにさせる。
・金銀財宝、富と言えば、人欲の最も目当てにする事であり、聖人も凡人も同じである。しかし聖人は、貧賤に耐えかねて、富を無理に求めようとせず、我が心の真実に面白いと思い好む事は、古聖人の書を読み、学文をし、義理を分別し、心を清浄にする方を選ぶことが、凡人と異なる。
・和歌の道に大事とする恋というものは、夫婦思慕深切、天性自然の実情なるものであり、かの今様の淫慾交会の事のみを恋と思い込むのは、見当違いである。
・五倫の内では夫婦の間の思慕深切なる実情は、一番重要なことであり、日本の和歌の道も、自然とここをもって大切とするのである。
・人情の本を知り、五倫の間の人の実情を明らかに察すれば、心が公平になり、気量が大きくなり、料見よく物を受け容れ、すべての人を憐憫し、自然と人の諫をも受け容れ用いるようになる。
・国家の政治をするというのは、古聖人の徒ともなるべき事なので、人情に達する事は、また政治の本に達するという事である。

 

6.和歌は日本の大道であり、秘伝はあってはならない

 

・和歌の道は日本の大道なので、元来和歌の道に秘伝があらねばならないとは思われない。八雲の伝は全く後世の拵え事なので、一向に議論には及ばない。
・和歌の道は以心伝心なるもので、委細に言句伝授などで言い伝えられるものではない。詩の道もまた同じ事であり、天然と和漢符合しているわけは、人情が同じだからである。
・近代に及んでは古今伝授などが出来て、和歌は詠まれないもののように難しくなり、公家でなくては歌は詠まれず、地下の人は歌は詠まれないと言っているのはどういうことか。
・百人一首、古今集、廿一代集をみても地下の人の歌は数しれずあり、昔は堂上地下の差別はなかった。
・古今伝授の由来の説は、後人の偽造であるという証拠はそろっている。
・古今伝授という事は、元来は地下より公家へ伝えたもの。古今伝授しなくても和歌は詠まれる事は明白である。
・和歌を良くするのは我が朝の大道と思われるが、どうして秘伝と言って自ら狭く小さくするのか。嘆くべく悲しむべき事である。
・秘事として伝授するのは、陰謀を主意とする軍学である。和歌には秘伝はあってはならない。

 

7.心を平らかにして、我を立てて私意を指し出さぬようにせず、聖人の道は見つける学文をすべし

 

・学問をすれば必ず人を非に見るようになり、人柄が悪くなるという事は、俗論でも、現在俗人の内に多くある事である。俗人に限らず、なかなか学者にさえ多い。
・その病根は、我慢高慢という病より起こる事であり、学問をもって口実としただけである。
・一片を聞いて、下地の我慢の助けとして、書を読んでも、みな我が意の勝手の良いように私の料見をもって理屈をつける故に、そのような人の学文は、名は学文をすると言っても、畢竟文盲と同じ事、俗に言う、論語よみの論語しらずなので、真の事ではない。学問をしたために人が悪くなるのではない。
・殊更日本武家の政治となって、師傅の役を立てる事もなく、その上軍学の功利陰謀の事を第一と心得、ただむきに武威をもって人を推し、権を取る風習となるため、人に知恵をつけられる事を卑下恥辱と覚え、威を張る事をのみ専らとする事によって、必ず学文は中国の事、武士には武士の道があり、聖人は昔の人であり、当代の風には合わぬ事と、いよいよ我慢の威風を張るようになるので、何があっても学文の方へは移らぬはずである。
・総じて何によらず、臭気のする物は悪いものであり、味噌の味噌臭き、鰹節の鰹臭き、人では学者の学者臭き、武士の武士臭きが、大方は胸の悪い気味がするものである。これが俗語にいえる、無い樽の鳴ると言うものであり、内にいっぱい物が詰まらず、いまだ不足なるため、少しある物ゆえ、人が知るまいかと思い、人に知られたくなり、ひけらかす心ができて、こちらから人に鳴らして見せるのである。また、ただ自慢高慢の心より、人を推して我を立てようと競う仕形と見える。無い樽の鳴るは、外からついその内が知れて、却って信向がさめるものである。ただただ心を公に平らかにして、少しでも我を立てて私意を指し出さぬようにしなかったら、真実に聖人の道は見つけられないだろう。

 

つづく

 

(ムガク)

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学



011―堀景山と宣長1/2 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-21 12:35:40 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長には三人の尊敬する師がいました。一人は堀景山(儒学)、一人は武川幸順(医学)、そして賀茂真淵(古学)です。なぜこれらの三人なのか、他にも医学を教わった堀元厚や諸々の歌の先生を数えても良いのではないか、という意見もあるかもしれませんが、実際に、宣長が『法事録』に命日を記載し、法要を行っている師は、この三人なのです。その中でも堀景山は宣長にとって別格であり、それ故、日本の歴史や思想においても重要な人物なのです。なぜそう言えるのでしょう。


 宣長の『古事記伝』など古学、国学における業績は賀茂真淵なしには語れません。彼が若き日に真淵の『冠辞考』に出会い、彼に教えを請わなければ、『古事記伝』は宣長存命中に完成しなかったでしょう。武川幸順も宣長には不可欠でした。彼と出会い、彼から医学を学んだからこそ、医師としての収入があり、生活することができ、またそれにより研究を続けることが可能となりました。また後の天皇の侍医であった彼を通して、公家社会とのつながりを持つことで、新しい学問を広めるための一種のロビー活動を行うことも可能となりました。しかし、景山の宣長への影響というのは、そういうものではありません。


 宣長の家は木綿商を営んでいましたが、彼は16歳のころ、その江戸の店に出されたことがありました。しかし、一年で松坂の実家に帰されました。そして二、三年間のニート生活の後、今度は伊勢山田の紙問屋へ養子に出されましたが、今度は二年で離縁され、また実家に戻されたのです。宣長の母は、彼は「商いの筋には疎くて、ただ本を読むことだけ好む」と言い、それでは医師にでもしようと、宣長を京へ留学させたました。宣長は読書や歌を好んだ一途な若者でした。しかし彼は商人の家に生まれたので、商売ができない彼は落伍者だったのです。宣長が景山に出会ったのはそんな時でした。


 もし和歌や源氏物語の世界に強く惹かれていた宣長が入門したのが、江戸の林羅山を祖とする一門であったのなら、日本はまったく違った歴史になっていたかもしれません。景山の学風、堀杏庵や藤原惺窩の、藤原定家や冷泉家からつながった、いわゆる京学派と呼ばれる儒学の流れの中に身を置いたからこそ、あの我々の知る宣長が誕生したのです。どんな学風なのでしょうか。これを簡単に感じ取るために、実際に儒学書を、ここでは惺窩が著したとも伝えられている『仮名性理』は冒頭部分を、今回は現代語訳しないで、そのままながめてみましょう。(改行だけはしてあります)





としたちかへる朝の空の気色も長閑に、きのふにはやうかはりて、谷のうぐいすも歩をこころみ、軒端の梅のえならぬ匂に移り来て、うゐごとのねも事新しくめづらし。人のこころもそぞろに延て、思ふままなる友うちかたらひ、ここの山かしこの寺にただよひあるき、歌をよみ、文をつくりて、其心ざしをのべ、その興をもよほす。あるは又女どちわらべのこことよげなるをあとさきにひき倶して、高いやしきをうち物かたらひて、若草根ぜりなどやうの物をとりつみ、ことある興におもひて、世のうきわざをわすれて、けふはかひある我身かなと心おごりもせられ侍る。



三月半は吉野の麓は散すぐれば、山の花いまをさかりと色めきたり。都のもここかしこちりもはじめず、咲ものこらず。人のこころも空になりて、山の奥谷のそこまでまどひ行て、暮ゆくはるのなごりををしみ、はるの風のおもてを吹には寒からねども、花にふるる声は山賤のおのの音よりもはげしく、昨日まではにほやかにして、色に出香にほこりて、天下の人の心をまよはせしむくひにや、一夜のほどになかば散て、かつがつのこりたるも、なかなか見しおもかげもなく、たとへばやめるおふなの匂ひおとろへたるにことならず。


又衣がへの日は心もあらたまりて、内も外もみどりの色々にそめなして、出仕のよそほひを引つくろひ、又せちゑ*1にはあやめふきわたし、あふひ*2かけたるもいとめづらし。牡丹は花の君なりと唐人の云しも、げにことはりぞかし。閨のとしは花のやうもひとへにまさりて、ちしほの色に咲みだれ、柳はみどりに、山ぶきは中央の色をふくむ。又軒端も山もとりつくろひて、みどりのぬれぬれとぢてわかやかなるは、花よりもいみじくめづらし。




文月のはじめごろは、あつしさなおをしきれども、夕べの風の心はかはりて、いつとなく一葉ちりそめて、野山の色々にそめわけて、錦をはれる世界となるも、いとになくすぐれて興有見ものなりけり。

月はいつもめでたしと云へども、ことさらまちうけたる十五夜の、峰のこずゑよりこごれかかりたるやうにあでやかにさし出たる、心もこと葉もおよびがたし。いにしへの人たちもはる秋のおとりまさりは、いづれをいづれをわきかたかりし。よべの月のまどかなりしも、けふの夕はおもがはりして、物のかけたるやうにおぼえ侍る。


神無月の朔日ころより、露じものおくての山田吹風も身にしみて、まがきの花もしぼみおちて、本あらの萩もかつちりて、そともの虫のこゑもなきからし、世をすて人のはらわたをくだくたよりとなり、いなかの山はなかばも過て雪くだり、あられまじりの風おちて、民のすみかもあわれなりけり。



目に見えぬ天地のこころはかりしりがたしといへども、四季の転変してうつりかはれる次第を察するに、さかんなればかならずおとろへ、満ればかくるならひは、皆是自然の理と見え侍る。いきとしいけるものの内に、人ばかり盛久きはなけれども、よろこびきはまればかなしみきたり、おごれるものは久しからず、是又自然の理なるべし。


斉の桓公の廟にあやしき器あり。夫子見て、是は宥坐のうつはものなり、と宣ふ。水なき時はかたぶき、又水中ぶんなる時はろくなり*3。十分にみつる時は此うつは物かならずくつがへる。明君是をいましめとして、常にその座のかたはらにおき給ふ。子路問曰、十分にみつるともかけぬ道あるべしや。夫子曰、才智すぐれて君子のごとくなりとも、愚人のおもひをなすべし。天下に大なるこうをなしたりとも、人にゆづりて、わが功にほこるべからず。勇力世の人にすぐれたりとも怯をもつておもふべし。とめる事は四海をたもつとも、謙をもつてまもるべし、といへり。ああ聖人だもかくのごとし。諸人これを心とせば、みてりと云ともあやうからずかし。


一 天道とは天地の主人なり。かたちなきゆへに、目に見えず。しかれども春夏秋冬のしだひのみだれぬごとくに四時をおこなひ、人間を生ずることも、花さきみなることも、五穀を生る事も、みな天道のしわざなり・・・・・・。





 一つの文学作品としても成り立っている本書は、本文を読まなければ、これが儒学書であるとは分らないことでしょう。そしてこれは宣長の景山から学んだ儒学の雰囲気というものをよく表わしています。ここでは宣長がこの『仮名性理』を読んで学んだということを言っているのではありません。細かな学説もここでは関係ありません。彼は、この学風、雰囲気の中で儒学や詩歌を学び、風流な遊興生活を送ったのでした。もし、宣長が景山から朱子学を学んだ、とだけ捉えていると、本質を見落としてしまうかもしれません。


 彼の和歌や源氏への思いは、景山の下で満たされることになりました。それだけではありません。彼の思いは、景山の儒学的裏付けのために、まったく正当化されたのです。景山により、和歌も詩も、欲や恋も、人にとって、そして国家を成り立たせる上でも必要不可欠なものであると説かれました*4。ここでやっと宣長は、自分の意識の奥に押された落伍者の烙印を消し去ることができ、宣長は宣長として生きていくことが可能となったのです。


 さて、もう少し具体的な景山の宣長への影響をどうしたら知ることができるのでしょう。それを知るための鍵の一つが、景山の著した『不尽言』です。宣長は『不尽言』を筆写しました。しかし全文を写したわけではなく、一部だけなのです。重要なのは何を写したかだけではなく、何を写さなかったのかという所であり、そこに宣長の心を見ることができるのです。


つづく


(ムガク)


*1 五月五日の節句
*2 葵
*3 器の水が半分の時は立つ
*4 『不尽言』

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


010―宣長の症例その1―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-21 12:34:23 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長は、「意(ココロ)と事(ワザ・コト)と言(コトバ)とは、相応しているものなので、後世において、古の人の思える心、為した事を知ることで、その世の有り様を正しく知るべき*1」であると言いました。宣長の言葉だけを捉えて彼を理解しようとするのは、車の片輪がない状態で進むようなものであり、正しい結論には辿りつけず、万一辿りつけたとしてもそれは根拠のない仮初めのものなのです。そんな訳で、ここで宣長が具体的にどんな治療を行ったのか、ちょっと見てみましょう。

(症例1)天明二年
大平生清兵衛
正月
四日 葛根湯 二日分
九日 二陳湯 二日分

 大平さんは風邪ですね。これは寒い季節、「葛根湯」を二日間服用しましたが、その後、咳や痰が残り、二日間様子を見ても治らなかったので、また診療を頼んで「二陳湯」を処方してもらい、それで良くなった、というケースです。

(症例2)天明二年
塚本市郎兵衛
七月
十五日 下り・渇き・むし・不食 五苓散 三日分
十八日  五苓散 三日分
      五苓散加半夏厚朴 二日分
二十三日 五苓散加半夏厚朴 三日分
二十九日 下り・渇き・熱 五苓散加柴胡 五日分
八月
四日   五苓散加柴胡 五日分
六日   五苓散加乾薑桂皮 五日分
八日   補中益気湯 一日分

 塚本さんは、今風に言えば暑気あたりのような胃腸炎でしょう。宣長は、「五苓散」を基本にし、患者の状態により、薬を加減しました。八月に入り、「五苓散加柴胡」や「五苓散加乾薑桂皮」が、それぞれ五日分処方されましたが、服用したのは二日だけ。急激に改善したようですね。最後には、体力をつけて回復を助ける「補中益気湯」が処方されました。


 これらはほんのごく一部ですが、宣長は患者の何かをしっかり見て、何かをしっかり考えていたことが分ります。それ故、彼が、「世のすべての病は、みな神の御しわざである。病ある時に、薬を服用し、あるいはその他の治療法でこれを治しても、またみな神の御しわざである*2」とか、「いともいとも妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎり智(サト)りもては、測りがたきわざ*3」、と言ったとしても、彼を、あらゆる因果律を考慮しない不可知論者として見なすことはできません。

 そもそも宣長は、「てにをは」、「係り結び」、「活用」など、日本語にはさまざまな法則があることを明らかにしてきました。それらの文法は現在でもほとんど揺らぐことのないものですが、これらの発見は、膨大な情報を集め、整理するだけでは不可能であり、それらの背後に、ある種の法則、因果律が働いていると信じていなければ、為しえなかった事業なのです。宣長の言う「神の御しわざ」は、究極的な、根源的な、答えの出ない領域の問題について使われる言葉であり、例えば「人はなぜ誕生したのか」とか、「病気はなぜあるのか」などというような問いに対して用いられるのです。

 ということで、宣長の医学には何の思想もない、と言うことはできません。なくはないのであれば、安心して彼のそれを明らかにしていきましょう。


つづく

(ムガク)

*1 『うひ山ぶみ』
*2 『答問録』
*3 『古事記伝』

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


009―医学と和歌2/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-19 16:18:15 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長は、いわゆる後世方医学を学びましたが、その基礎理論である陰陽五行論などを漢意として真っ向から否定しました。また、いわゆる古方派医学も学びましたが、「古方をもって今の病を概すはもとより不可なり」と言い、それでいて後藤艮山風の医師を目指していたのです。一見すると宣長のこの言行は矛盾だらけですが、さあ、それではいったい彼はどのような医療を行っていたのでしょう。


 宣長は開業すると『済世録』という帳簿を作成しました。カルテではなく一種の「売方貸方覚帳」です。そこに宣長が用いた薬が記されているのですが、その名は省略されていて、何と書かれているか、ほとんどの人にとって不明です。しかし、前回明らかにした「省略ルール」を知っていると、それらを知ることができるので、少し見てみましょう。




 写真にある宣長の直筆の『済世録』の薬、左から順に、「加味逍遙散加半夏」、「錢氏白朮散」、一つ飛ばして、「半夏瀉心湯」、「胃苓湯加葛根」を意味しています。ちなみに、左から三番目は宣長が多用したものであり、彼はそれに麻黄と沢瀉を加えたことがあるので、それらを含まない風邪の処方、「参蘇飲」と推測できるのですが、確定するには情報不足であり、一番右の処方は、「五香散」あるいは「五物香薷飲」のどちらかかもしれませんが、やはり確定するにはいたりません。*


 そのようにして宣長の処方を見ていくと、風邪や、眼疾患などもいろいろ診ていますが、胃腸に働く薬を非常に多く使っており、胃腸の治療が主だったことが分ります。とは言っても、当時は痘疹や麻疹といった病気も胃腸の治療が重要となるので、われわれの考える単なる食あたりや水あたりだけを想像してしまうと、誤解してしまうでしょう。そして宣長は実際に、ある人に「葛根湯」や「小承気湯」などを使いながら、同時に別の人には「錢氏白朮散」や「内托散」などを使い、古方と後世方の処方をどちらも用いているのでした。いったい、どんな思想に基づいていたのでしょう。


 宣長はカルテを残しませんでした。それゆえ、そこからそれを読み取ることはできません。彼は小遣いをいくら使ったとか、風呂を何時に沸かしたとか、あらゆることを記録していたのに、また彼が半年ほど師事した堀元厚は、『医按啓蒙』といういわゆるカルテの書き方の本を書いており、宣長はそれを読んだ形跡があるのに、そうしなかったのです。また彼は医書も著していないのです。平田篤胤は開業して数年で医師を辞めたのですが、それでも三冊の医書を著しているのに、宣長は72歳で亡くなるまで医師を続けたにも拘わらず、歴史や歌学、文法、随筆などさまざまな書を残したにも拘わらず、医書もカルテも残さなかったのです。なぜでしょう。それを明らかにするのは後にし、とりあえず、安易に結論に飛びつく前に、少し彼の歌に対する考え方を『うひ山ぶみ』から見ていきましょう。


 『うひ山ぶみ』は、宣長が『古事記伝』を書き終えた後に弟子たちのために書いた晩年の作品です。若き日の宣長の歌に対する考え方を、そこから引用して良いのでしょうか。実は良いのです。なぜなら宣長のそれの基本は、若き日よりまったく変わっておらず、たとえ彼の尊敬する賀茂真淵に何度も注意されても、破門寸前になった時でも、変わることはなかったのです。ここで『うひ山ぶみ』を見ていくのは、それが入門者向けに書かれているので分かり易く、よくまとまっているためであり、少し長くなりますが、当時の状況も知ることができるため、また今後のためにそうしておいて損はないでしょう。





 当時、和歌は古風(いにしえぶり)と後世風(のちのよぶり)の二つの時代による区別がありました。古風とは、簡単に言ってしまえば、『万葉集』にあるような素朴で力強い、また源実朝が詠んだような歌風であり、後世風とは、それ以降の、特に『新古今和歌集』にあるような技巧を凝らした、京の都の堂上(貴族社会)で詠まれたような歌風でした。そしてこの二つの歌風には対立があり、いや対立と言うよりは古風家たちからの一方的な批判であり、後世風家たちは彼らで自分たちのコミュニティーの中で特に古風を学ぶことなく平和に過ごしていた、と言ってもいいかもしれません。


 「後世の歌をひたすら悪いもののように言い放っている」古風家の人々、例えば賀茂真淵の門弟やその信者たちの言動に対して宣長は、「それは実に、良い悪いを良く心で観て深く味わい知ってそう言っているのではない。ただ一わたりの理にまかせて、すべての事を古ヘは良し後世は悪いと決めつけて、根拠もなく言っているだけである」、と言いました。それを説明する宣長の比喩はとても分りやすいものです。


 「古風は白妙衣のごとく、後世風は紅紫いろいろ染たる衣のごとし。白妙衣は白妙にしてめでたいもので、染衣もその染色によりて、又とりどりにめでたい。であるのに白妙をめでたいとして、染たる衣をひたすら悪いとするべきではない。ただその染たる色には、良きもあり悪しきもあれば、その悪しきをこそ棄てるべきである。色良きをも無視して棄てることは、偏ってはいないか。今の古風家の論は、紅紫などはどれほど色が良くても、白妙に似てなければ、みな悪いと言うようなものだ」


 また古風家は、「歌は思う心を言い述べる技であるのに、後世の歌は、みな実情ではなく、題を設けて、自分が心に思ってもいない事をさまざま取りつくって、意をも詞をも難しく苦しく巧みに成しているのは、これはみな偽リであり、歌の本意に背いている」、と主張しましたが、宣長はそれにこう反駁しました。


 「歌は思うままに、ただ言い出た物ではなく、必ず言葉にあやをなして、整えて言う道であり、神代よりそうであり、そのよく出来てめでたきに、人も神も感じる技であるため、既に万葉に載れるころの歌とても、多くはよき歌を詠もうと、求め飾りて詠めるのもであり、実情のままだけではない。上代の歌にも、枕詞序詞などがある事をもって悟るべきである。枕詞や序などは、心に思う事ではない。詞のあやをなさんがために設けたものであり、もとより歌は、思う心を言い述べて人に聞かれて、聞く人のあはれと感ずるによりて、わが思ふ心がこよなく晴れるので、人の聞くところを思うのも歌の本意である」と言い、宣長と彼らの間に、歌とは何かという基本的な考え方の相違が存在したのです。


 また彼は、「心も言も事も、上代のさま、中古の人は中古のさま、後世の人は後世のさまが有り」と時間の相違に言及しました。宣長は、儒学で言われているような聖人のいた上古の時代が絶対的に良かったとか、仏教で言うところの「正法・像法・末法・法滅」のような、時代が下るにしたがって世界が悪化するというような思想を持たなかったのです。どの時代が良かったなどではない、あらゆる時代において、どの人のどの歌が優れているか、一つ一つを具体的に詳しく見ていくことに宣長の意識は向いていたのです。


 それゆえ宣長は、「そもそも後世風には悪いところもあるのは勿論の事である。しかし悪いところのみを選んで、悪く言うのなら、古風の方にも悪いところは有るのだ。ひたすら後世をのみ、言い落とすべきではなく、後世風の歌の中にも言い知らずめでたくおもしろく、さらに古風にてはとても詠めない趣のものが有るのである。すべてもろもろの事の中には、古ヘよりも後世の勝っている事もないこともないので、ひたぶるに後世を悪しとすべきでもない」と言いました。なぜなら、「万葉の歌」も、「此の集は、良い悪いを撰びなく集めてあるので、古ヘながらも悪い歌も多い」からであり、よって「善悪をわきまえて選るべき」であると、宣長は主張しました。ここで「古風を詠むともがら」の歌を詠んでいたさまを、宣長がどのように思ったか見ていきましょう。


「今の世で古風を詠むともがらの、詠んだ歌を見ると、万葉の中でもとりわけ耳慣れない怪しい詞を選び出して使い、ひたすらに古めかして人の耳を驚かそうと構えているものがあるが、とても良くない。歌も文も、強いて古くしようと求め過ぎるのは、何度でも言うが、うるさく見ぐるしいものだ。万葉の中でも、ただ安らかに姿よき歌を手本として、詞も怪しいものを好んではいけない。


今の世の人で、万葉の古風を詠んだものは、それは己の実情に合ったものでなく万葉を真似た作り事である。もし自分が今思う実情のそのままに詠む事を良しとするのなら、今の人は、今の世俗の人々が歌うような歌をこそ詠むべきであって、古ヘ人のさまを真似るべきではない。万葉を真似たものは、すでに作り事である以上、後世に題を設けて意を作り詠む事も、どうして悪いことがあろうか。良い歌を詠もうとするには、数多く詠まなければならないが、多く詠むには題がなければできるものではなく、これらも自然の勢いなのである。


それゆえ、今の世に古風を詠む輩も、初心のころこそ何のわきまえもなく、妄りに詠み散らし、少しわきまへも出来てからは、万葉風のみにては、詠みとり難い事などが多いので、だんだんと後世風の意詞をも、混じえて詠んでいるうちに、いつしか後世風に近くなって、なお時々は古めかしい事も混じりて、さすがに全くの後世風にもあらず、しかも又古今集の風でもなく、自然と別に一風をなすものも多いのである。これが古風のみにては事が足りない理由である」


 この古風の状況があった上で、宣長は古風を詠む人々は、「古風をまず主にと詠むべき事は、言うまでもないが、また後世風をも捨てずに習い詠むべきである」、と主張したのです。実際に宣長は、「もっぱら古学によりて、人にもこれを教えながら、自ら詠むところの歌は古風だけではなく後世風をも多く詠」んでいましたが、その理由は上記のごときであり、またなぜ「古風の歌を数少なく詠み、後世風の歌を多く詠んだ」という理由は、「古風は詠むべき事が少なく、後世風は詠む事が多い」、からであると宣長は言いました。しかし彼のその言動を、「理解できないと非難する人は多」かったのです。


 宣長は、では「どちらを先に学ぶべきであるか、という問い」には、こう答えます。「万の事は本をまず良くして後に、末に及ぶべきであるのは勿論の事だけれども、また末よりさかのぼって、本に至るのが良い事もある。よくよく思うと、歌もまず後世風より入て、それを大抵会得した後に、古風に取り掛かるのが良い子細もある。その子細を一つ二つ言えば、後世風をまず詠みならいて、その法度を詳しく知っておけば、古風を詠む場合でも、その心得が有るので、慎むために、あまり妄りなる事を詠むことはない。また古風は時代が遠いので、今の世の人はどんなに良く学ぶと言っても、今の世の人なので、その心は全く古人の情のごとくには変化し難ければ、詠み出る歌が自分では古風と思っていても、それでもややもすれば、近き後世の意詞の混じりやすいのだ。


 当時、古風でも後世風でも、「わが宗の代々の祖師の説であれば、善悪を選ぶ事なく、悪い事があっても、無理に良しと定めて尊信し、それに違える他の説が、良くても用いない」人々がいました。彼らは、「他門の人の歌と言えば、どれほど良くても採用せず、また心を留めて見ようとせず、すべて己が学ぶ家の法度掟を、ひたすらに神の掟のように思って動く事もなく、これを固く守る事のみを重要な目的としたから、その教え法度にしばられて、とても馴染んでしまったため、詠み出る歌のすべて」が、「悪いくせが多く、いやしく窮屈であり、たとへば手も足もしばりつけられたもののように、動く事が出来ないような、とても苦しく侘しげに見えて、少しも豊かで伸びやなところがない」ものとなってしまったのです。それでも彼らは、「自ら省みる事なく、ただそれを良き事と固く思っている」のであり、宣長は、そんな教条主義の自分の知性や感性を用いない人々のそれを、「非常に固陋にして拙く愚なる事であり、もう何と言って良いか分らない」と言って嘆くのです。彼は、「たとえ柿本人麻呂や紀貫之の歌であっても。実に良い悪いを考へ見」るべきであると、主張するのです。そして宣長は言いました。


「ただ古と後と混雑するをこそ嫌うべきものである。これはただ歌文の上だけではない。古の道を明らかにする学問にも、このわきまえがなければ、知らないうちに後世意にも漢意にも、落入る事が有るだろう。古意と後世意と漢意とを良くわきまえる事が古学の肝要である」





 そうとうあちこち省略し短くまとめようと試みましたが、やはり長くなってしまいました。が、これらが宣長の歌に対する基本的な思想であり、また「歌文の上だけではない」思想なのです。これ以上くだくだしく医学と歌学の考察を続けなくても、もう宣長を、いわゆる後世方派と、いわゆる古方派に分類する必要はなくなったことに気付かれたことでしょう。そもそも、当時自分が後世方派と思っていた医師などはおらず、また古方派の代表者である後藤艮山は自分が古方派であるとは思っておらず、また彼は『傷寒論』などの古方を用いることもなかったのです。古方派も後世方派も、それらは我々を含めた後世の人の色眼鏡を通したレッテルに過ぎないのでした。特に、偉い先生がそのように分類することを始めると、それに当然のように従いたくなるのが日本人の性というものかもしれません。後世方派と古方派という言葉は、長い年月使用され、誤解された使用もあり、使い古されてほとんど意味を持たなくなってしまいましたが、言葉の定義を新たにすることで、再たび医師を分類することは可能です。しかし、それに重要な意味があると信じる人ははたして何人いるのでしょうか。サロンやお酒の席でのコミュニケーションを目的とすれば話は違いますが。


 さて、宣長が実際の臨床で、後世方と古方のどちらの処方も用いてたこと、歌学と医学の学び方というものが密接に関係していたことが明らかになりました。では、彼はそれら後世方と古方を、一種の道具として、どのように、いかなる思想でもって用いていたのでしょうか。さあ、これは明らかにできるでしょうか。


つづく


(ムガク)


* 『済世録』にある処方の解読法


(例1)一番左の処方は「加逍田」と書かれています。「田」というのは、「008-本居宣長と江戸時代の医学―医学と和歌1/2―」で明らかにしたように、「半夏」を意味しています。そして「加逍」とは「加味逍遙散」の略であり、「加逍田」は「加味逍遙散」に「半夏」を加えた加減方であることが判明します。



 ただし、略字からのみで決定することには無理があり、必ずその処方が、宣長の勉学ノート『折肱録』や『方剤歌』、『方彙簡巻』や、あるいは彼の所持していた医書群、例えば『痘疹良方』や『嬰童百問』などや、また彼の在京中の講義、例えば『局方発揮』に載っている必要があり、そして、さらに宣長の薬箱(久須里婆古)に入っている生薬で製することができるものでなければなりません。しかし宣長の約40年にわたる医師歴の間に、薬箱の内容が変化した、あるいは伝染病の流行や特殊な患者などにより臨機応変に内容を一部入れ替えた場合も考えられるので、絶対に入っていなければならないこともありません。


(例2)二番目の処方は「千朮」と書かれています。「朮」というのは「白朮」を意味していますが、宣長は「錢氏」の「錢」の同音の文字、「千」を代わりに用いました。「千朮」は「錢朮」であり、「錢氏白朮散」であると分ります。


(例3)三番目の処方は「十ソ」と書かれています。これは少し注意が必要です。『傷寒論』には「十棗湯(ジッソウトウ」の処方があるので、それに飛びついてしまいがちですが、『済世録』には、少しですが処方と一緒にその患者の情報が書かれている場合があります。「十ソ」と一緒に記されているのは、「風マギレ・親ニ飲マス・便少シ緩シ、小熱・熱、痰、咳・熱、乳飲マズ・咳ジヤジヤ風残リト云・咳、少シ風・風、ムシ・痰、熱、下リ、セクリ(しゃっくり)・痰・少シ腹ハリ・咳・・・」などとあり、必ずしも治療対象の症状ではありませんが、これら「十ソ」を用いた患者たちは虚証の風邪であった可能性があり、この場合は「十棗湯」は絶対に用いません。また彼はそれに「麻黄」と「沢瀉」を加えたことがあるので、「十ソ」には「麻黄」と「沢瀉」が含まれていないことが分かります。これらの症状の薬はいろいろありますが、宣長なら『方剤歌』で記憶した、「参蘇飲(ジンソイン)」を使うかもしれませんね。


(例4)五番目の処方は「イレ齊」と書かれています。つまり「伊礼齊」であり、「齊」は「葛根」のことなので、これは「胃苓湯」に「葛根」を加えたもの、「胃苓湯加葛根」なのです。

 

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


008―医学と和歌1/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-19 16:18:00 | 本居宣長と江戸時代の医学



 伊勢は松阪、蒲生氏郷の築いた松阪城跡の一角に本居宣長記念館があります。そこには宣長の使用していた往診用の薬箱(久須里婆古)が展示されています。宣長はこれを持ち歩き医業に励んでいたのですね。

 さて、この薬箱の中には薬包がきちんと整理されて、一包毎に薬の名前が記されて入っています。一段目から見ていきましょう。



葛・朴・防・雪・苓・童・芋・薑・茈*1・桂
圖・薑・茈・芍・精・葛・蕗・皓・苓・田

*1 茈: 艸カンムリ+此 (注: 文字が消えている場合はUnicodeに設定してください)

 とありますが、これらはどんな薬か分るでしょうか。分らなくても大丈夫です。おそらく一見して全て分かる人は専門家の中でも数える程かもしれません。どうしたらそれらの薬が何であるか知ることができるのでしょう。どうぞご安心を。中身を取り出して分析しなくても、誰でも簡単にそれらを知る方法があるのです。

 宣長は医学を学んでいる時、『折肱録』という名の勉強ノートを作りました。このノート名は、『春秋左氏伝』定公にある「肱を三折して良医と為るを知る」から取られています。これは、「張仲景傷寒論摘方」と「同・金匱要略摘方」、「眼科秘書」と「一本堂家方抜粋」そして「方剤歌」、および他の雑多な処方から成っています。『傷寒論』や『金匱要略』は、宣長が古方派たちが彼を視ること「神のごとし」と言った、張仲景が著した医書であり、「一本堂家方」というのは香川修徳の家方です。またこれと別に『方剤歌』と『方彙簡巻』という処方集も作っています。これらを読んでまとめれば一目瞭然なのです。

 例えば、『方彙簡巻』に、「四君子 【彡伽匿甘】」とありますが、この「四君子」とは「四君子湯」のことで、これを構成する生薬は、「人参・白朮・茯苓・炙甘草」です。なので「甘」は「(炙)甘草」を意味していることが分りますね。また、きっと「彡」は「人参」の「参」の省略形でしょうが、確定するにはまた別の処方を比較する必要があります。「四君子」の隣には「六君子 【皓田四君子】」とあり、「六君子湯」という処方は「四君子湯」に「陳皮」と「半夏」を加えたものなので、「皓」と「田」はそれぞれどちらかを意味しています。また「二陳 【皓田匿甘】」というのもあり、「二陳湯」というのは「陳皮・半夏・茯苓・甘草」から成り立っているので、ここで「匿」が「茯苓」であること、「伽」が「白朮」らしいことが分ります。このようなことを続けていくと、ほとんどすべての物が特定できるのです。

 ということで、薬箱の一段目は、

葛(葛根)・朴(厚朴)・防(防風)・雪(桑白皮)・苓(茯苓)・童(青皮)・芋(沢瀉)・薑(生姜)・茈(柴胡)・桂(肉桂・桂皮)
圖(桔梗)・薑(生姜)・茈(柴胡)・芍(芍薬)・精(蒼朮)・葛(葛根)・蕗(甘草)・皓(陳皮)・苓(茯苓)・田(半夏)

 と判明しました。では次に宣長が「一本堂家方抜粋」をどう書き記したか、その一部分を見ていきましょう。

順気剤 匿 田 洞 淡 甘 姜
潤涼剤 匿 嬴 文 理 井 甘 姜
解毒剤 土ヘン+匿 翁 忍 芎*2 軍 (「甘」の書き洩れ有り)
敗毒剤 莞(「茯」の書き間違い) 揺 吉 芎 洞 周 甘 姜

*2 芎: 艸カンムリ+弓

 とありますが、修徳の『医事説約』を見ると、

順気剤 茯 半 売 厚 草 姜
潤涼剤 茯 果 芩 知 膠 甘 姜
解毒剤 茯 通 忍 芎 大 甘
敗毒剤 茯 獨 桔 芎 枳 柴或は升に代う 甘 姜

 とあり、また他の部分も比較すると、宣長はこの『医事説約』を書き写したことが推察できます。ちなみに、修徳の敗毒剤の処方で、「柴 或は升に代う」とある所は、本来は「柴胡」を使い、時には「升麻」に代えても良い、という意味なのですが、宣長は柴胡は無視して「周(升麻の略)」を記していますし、また処方を書き違えた所があるのですが、それらはここでは問題ではありません。それぞれ生薬の名の省略の仕方を比べると、

茯苓(匿・茯)、半夏(田・半)、枳実(洞・売)、厚朴(淡・厚)、甘草(甘・草)、生姜(姜・姜)
栝楼*3(嬴・果)、黄芩*4(文・芩)、知母(理・知)、阿膠(井・膠)、木通(翁・通)、金銀花(忍・忍)、川芎(芎・芎)、大黄(軍・大)、獨活(揺・獨)、桔梗(吉、桔)

*3 栝: 木ヘン+舌
*4 芩: 艸カンムリ+今

 とあり、大部分は異なっています。では、なぜ同じ生薬なのに人それぞれ違った名前に代えるのでしょうか。これが中国だったらそうはならないのです。産地や性質などにより生薬の名を変えることはあっても、歴史的民族的風土的に異なる生薬の名前が残ることはあっても、その名を積極的に使用することはありません。あらゆる医書は例えば「葛根」をあくまで「葛根」と書き表すのです。しかし、なぜ日本ではこうなるのでしょう。生薬名の略し方を見ると、大きく分けて三種類あります。

(1) 生薬名の中から文字を一つ(三文字以上では複数の場合もある)抜き出す。(例:葛根→葛)
(2) 生薬の別名の中から文字を一つ抜き出す。(例:桑白皮→延年巻雪→雪)
(3) 生薬名の中から文字を一つ抜き出し、それを同じ意味(または音)を持つ別の文字に置き換える。(例:茯苓→茯→匿)

(注) その後、さらに文字を省略することもある。(例:人参→参→彡)

 (2)については、生薬の名前が日本の人々にとって外国語であり、その翻訳を行ったため、ということが考えられます。例えば、「桑白皮」を「雪」と略したのは、その別名が「延年巻雪」であったためであり、「青皮」を「童」と略したのは別名が「童皮」、「沢瀉」は「芒芋」、「桔梗」は「房圖」、「蒼朮」は「山精」、「甘草」は「蕗草」、「陳皮」は「皓隠」、「半夏」は「守田」などとそれぞれが別名を持っていたのです。実物を想起しやすい名前を使用することは、医学薬学の普及や教育にとってメリットが多いものです。しかし、なぜ略したのか。その歴史は江戸時代よりさらにさかのぼりますが、省略は他の人にとって理解できなくなったり、誤解を生む可能性もあります。ここで『方剤歌』に移りましょう。

 宣長は、『折肱録』に「方剤歌」を80首、そして別の独立した『方剤歌』には54首を収載しました。これは何を意味しているのでしょうか。「方剤歌」は、『折肱録』に他の抜粋と一緒に載っていることから、またそこに「春庵撰」と記されていることから、宣長が創作した歌ではなく、以前からすでに有ったものと推察できます。また宣長は80首の中から54首を選び、それを『方剤歌』としてまとめているのであり、ここに宣長のそれらを記憶しようとする意志を感じますよね。

 「張仲景傷寒論摘方」や「同・金匱要略摘方」、「一本堂家方抜粋」などを『折肱録』に書き写すことと、『方剤歌』を新たにまとめ直すことは目的が異なります。前者は、自分が所持していない書を、その内容を忘れた時にそれを見て思い出すことが目的であり、後者は、その内容を忘れないように記憶することが目的なのです。なぜそう言い切れるのか、例えば『方剤歌』の第一首を見てみましょう。

参蘇
参蘇飲 二陳葛根 桔梗しそ 人参前胡 きこく木香

 この歌の意味は、参蘇飲という『和剤局方』に収載されている処方は、二陳湯(半夏・陳皮・茯苓・甘草)に、葛根・桔梗・紫蘇・人參・前胡・枳殻・木香を加えたものである、というものです。このまったく風雅の趣を感じることも何の感動もない歌は、単なる語呂合わせと同じ、処方を記憶するためだけのものです。参蘇飲のようなあまり複雑ではない処方であれば、生薬名を省略する必要もありませんが、それが複雑になるとどうなるのでしょう。『方剤歌』の二十八首を見てみましょう。

防風通聖
芒消に わうごん芎歸 麻苛堯兌 伽軍吉丹 餘液荊防

 これは、防風通聖散という『宣命論』にある処方で、芒消・黄芩・川芎・当帰・麻黄・薄荷・連翹・石膏・白朮・大黄・桔梗・山梔子・芍薬・滑石・荊芥・防風から成り立っている、という歌です。これはもう、名前の省略法を知らない人が見たら、きっと歌の意味は何も分らないことでしょう。しかし、ここに省略することのメリットが一つありましたね。そうしなければこの歌は創れなかったのです。

 ここにおいて日本の詩歌・和歌について考えていく必要が生まれました。三十一文字に意を込め、俳句ではもっと短く十七文字であり、そんな詩歌の形態が日本人を魅了してきました。多くの国々では、言葉を尽くし、その結果、文字が多くなってもそれを厭わないような詩が非常に多く残されており、それらをながむると、その作者たちは多くの人々からの理解、共感を求め、また影響を与えたいと望んでいるように感じられるのです。最近では中国でも「漢俳」のような短い詩がありますが、これはやはり日本との交流や相互理解を目的に始められたような印象があります。しかし、日本では異なります。彼らは多くの人々からの理解、共感を求めることはなく、歌は自然な感情の発露であり、求める理解や共感は、一あるいは少数の、特定の人またはコミュニティーからのものなのです。この潜在意識にある働きが、日本仏教や諸芸学問のあり方をも決定してきたのであり、これは現在も続いていることなのです。

 ということで、この生薬の名前の省略も、その働きの一つなのです。彼らは書き記した処方が多くの人に理解されることを望んでおらず、ただし理解されたくないとも思ってなく、ただ無意識に、また伝統に従っていたのです。省略するにも上記のようなルールがあるのであり、流派が異なればルールの選択傾向も異なるのです。

 さて『方剤歌』を見ていくと、そこにはいわゆる後世方派の処方が書き連ねられているのですが、『折肱録』には、「張仲景傷寒論摘方」や「同・金匱要略摘方」、「一本堂家方抜粋」などいわゆる古方派の処方が書かれてあります。いったい宣長はどちらの派閥に属するのか、それともどちらにも属さないのでしょうか。

つづく

(ムガク)

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


007―漢意―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-19 16:17:46 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長のいたころ、朱子学が官学になり日本に普及したころ、学問と言えば中国から入ってきた儒学のことであり、世の中の事すべてを、日本の神話や和歌なども陰陽論や五行論で説明しようとする風潮がありました。例えば、和歌が五七五・七七の文字で成り立っているのを、「上の句は天に象り、十七字にて陽の数、下の句は地に象り、十四字にて陰の数なり。五句なるは五行・五常・五倫にあたり、三十一(卅一)字は世の字をならいて、終われば又始まりて極まりなき理など」と言う人がいたのであり、それを聞いて喜ぶ人もありました。こういうことに対して宣長は主張します。

 

陰陽五行などいう事は古にさらになき事なり。これらはみな人の国にて賢(さか)しら人の云い始めたる事なり。すべて漢国の人は何事にも道理をこちたく(仰々しく)せめて考えるくせにて、かように二つ相向いたる物には、必ず陰陽という事の理を説くけれど、基本を探れば、実にはみな造り事なり。わが御国はただ直く雅かなる道のみ有りて、さように目にも見えず耳にも聞こえぬ隠れたる理を尋ねもうけてとかく言える事さらになければ、火はただ火なり。水はただ水なり。天はただ天、地はただ地、日月はただ日月なりと見る外なし。まさに陰陽という物ありなんや。しかるを人ごとに、天地の間にあらゆる物は、おのずから此の陰陽の理は備えたるように思うは、みな漢文に染みたる心の惑いにて、実にはさる物あることなし。されば此の方の言にうつしては、女男又は火水などより外に言うべき詞なし。また五行と言う事は、いよいよ造り事なり。これも漢人のくせとして、この五つをよろずの物に配り当てて、その理をこちたく言うけれど、みな強言である。*1

 宣長は、こんな風に漢意(からごころ)の理という物の存在を否定しました。このことは『玉勝間』でも『古事記伝』でもずっと一貫して主張していることです。ところで、伊藤仁斎は「けだし天地の間は、一元気のみ。あるいは陰となり、あるいは陽となり、ふたつの者ひたすらに両間に盈虚消長往来感応して、いまだかつて止息せず」と「気一元論」を主張しました。彼は理の存在を、形而上学的に否定するのではなく、具体的な物を挙げることで否定したのです。

今もし板切れを六つもって相合わせて箱を作り、密閉するように蓋をその上に加える時は、自然と気は有り、その内に満ちている。気が有り、その内に満ちる時は、自然と白カビが生じる。すでに白カビが生ずるときは、また自然とキクイムシのシミが生じる。これが自然の理なり。思うに天地は一つの大箱である。陰陽は箱の中の気である。万物は白カビでありシミである。この気は、したがって生ずるところ無く、亦したがって来るところ無し。箱が有るときは気も有り、箱が無いときはすなわち気もない。故に知るのである。天地の間は、ただ是れこの一元気のみ。見るべし。理が有って後にこの気を生ずるのではないことを。いわゆる理とは、かえって是れ気中の条理のみ。それ万物は五行に基づく。五行は陰陽に基づく。そうして再びかの陰陽たる理由の基を求むるときは、すなわち必ずこれを理に帰することはできない。これが常識の必ずここに至りて意見が生じなくなる理由であり、そうして宋儒の無極太極の論が有る理由である。いやしくも前の譬喩をもってこれを見るときは、すなわちその理は彰然として明らかなること甚だしい。おおよそ宋儒のいわゆる理が有って後に気が有り、およびいまだ天地ができる前に、畢竟まずこの理が有る等の説は、みな臆度の見解にして、まるで蛇を画がいて足を添え、頭上に頭を安んずるような、実に見られた物ではない。*2

 というように、宣長のあの思想は、伊藤仁斎(あるいは荻生徂徠の)の「気一元論」と同じであることが分ります。この仁斎の「気一元論」は、最新の、日本人に受け入れやすい、今風に言えば「弁証法的唯物論」とでもいうべき理論ですが、なぜ宣長はその論を信じて受け入れたのでしょうか。彼は上京してすぐに契沖の『百人一首改観抄』の、歌の解釈に一つ一つ古書を引用し、根拠を積み上げていく学問方法に衝撃を受け、その方法を生涯貫き通しました。また、「師の説なりとて、必ず泥み守るべきにもあらず、良き悪しきを言わず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には、言うかいなきわざなり*3」と言い切った宣長がそれを信じて受け入れた理由が、本にそう書かれてあったとか、ある先生がそう言った、というのはありえません。その答えは、宣長が堀元厚に入門した時期に鍵が隠されているのです。

 宣長は宝暦二年三月十六日、23歳で上京し堀景山に入門し儒学を学びました。そして宝暦三年七月二十二日に、堀元厚に入門し医学を学び始めます。入門日はもっと前でも後でも良かったかもしれません。なぜなら宣長はその時すでに十分儒学書や医書を読む能力があったからです。でも宣長はその日にしたのです。なぜでしょう。

 それは、その時麻疹の大流行が起きていたからです。麻疹は江戸期に13回大流行しましたが、これはその7回目。麻疹は「はしか」とも言い、何万何十万の単位で死者を出す恐ろしい伝染病でした。宣長が伊勢に一時帰国していたころ、三四月ころから流行し始め、五月に帰京し六月になってもその流行は止みませんでした。京の町で多くの人々が麻疹に苦しみ亡くなっていく中で、宣長は江戸の木綿店の支配人であった布屋五兵衛や小津七右衛門が亡くなったのを聞きました。その時彼は何を思ったのか。おそらく彼がまだ11歳のころ、江戸で木綿商をしていた父の突然の死だったかもしれません。

 父小津三四右衛門定利が水分(みくまり)神社に祈誓し、誕生したのが宣長であり、宣長は父のその恩、亡くなった悲しみを終生忘れませんでした。そして、また似たような出来事が起きたのであり、さらに今回は身の回りで多くの人々が同じ悲しみに暮れているのです。七月十一日には、師景山の従兄弟、堀南湖(安芸候の儒官)の病死が知らされました。十六日に彼の葬儀が行われ、その六日後、宣長は二十二日に医学を学び始めたのです。

 その時、彼がそうすることは彼の心理にとっても、社会にとっても必要だったことでしょう。彼はもう何もできない子供ではなく、医を学び力をつければ多くの人を救うことができるのです。そして彼は医学を学び始めましたが、九月の中旬に頂髪を伸ばし始める間も、麻疹の流行は続いていたのです。

 その時、彼が講義を受けていたのが、霊枢、局方発揮、素問、運気論、溯集などであり、もし理論を「説明理論」と「記述理論」の二つに分けるとするなら、これらの講義の大半は「説明理論」であったと言えるでしょう。きっと宣長は思いました。人々が次々と亡くなっていく中で必要なのは説明ではない。人をいかに治し、いかに救うかが必要なのであると。もしそれらの講義の内容が、陰陽論や五行論が、麻疹の収束に少しでも貢献したのなら、その後の宣長の思想も変わったかもしれません。しかし実際にはそれらは無力であり、宣長を古医方の道へと進ませたのであり、漢意を否定する思想的根拠を与えたのでした。

 ここで次に進む前に、誤解のないように言っておくと、宣長は古医方を学びましたが、彼は古方派ではないのです。ついでに言ってしまえば後世方派でもありません。これらを次第に明らかにしていきましょう。

つづく

(ムガク)

*1『石上私淑言』巻三
*2『語孟字義』
*3『玉勝間』師の説になづまざる事

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


006―薙髮―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-19 16:17:22 | 本居宣長と江戸時代の医学

 前回、宣長がどのような医師になろうとしたのか明らかにする鍵が「稚髮(薙髮)」にあると言いましたが、それはなぜでしょう。結論から先に言ってしまえば、宣長が京都留学中に記した『在京日記』にこうあるからです。


宝暦五年
三月三日 稚髮を為し、名を更めて宣長と曰く。号を更めて春庵と曰く。春庵を以て常に相呼す。


 この時、宣長の叔父村田清兵衛は書状に、「改名され、稚髮になられたこと、めでたく大変悦ばしいことです。だんだん療用などもお勤めのこと、第一段の義、随分と医業にご油断なく精を出してください」と述べ、宣長が母に頼んだ医師としての衣装十徳と脇差を用意しました。ここが宣長の医師としての第一歩だったのです。


 「薙髮」とは「髪を薙ぐ」ことで、文字通り髪の毛を剃ることです。隣の清国では1645年に「薙髮令」が発せられ、「頭を留むる者は髪を留めず、髪を留むる者は頭を留めず」と漢民族は満州民族に弁髪を強要されていました。儒者にとっては毛髪も父母から授かった大切なものでありましたが、その切断だけでなく伝統的な衣冠の変更も強制されていたのです。


 日本でも同じようなことが起きていました。もともと薙髮は僧侶として出家する時に行うものであり、例えば僧であり歌学者でもあった契沖は「十三歳にして薙髪し、高野山に登」っています。しかし徳川家康は儒学者林羅山を側近に登用するために「薙髮をして道春と称」させ、また民部卿法印(僧の階級の一つ)の位に就けたのでした。それ以来、儒学者は仕官するためには僧侶でなくても、たとえ仏教を全く信じていなくても髪を剃り、僧侶のような格好をせねばならなかったのでした。これは家康にとって、士農工商の階級社会の中で、低い身分の者を法外の者として高い者と同列に置くための、単なる方便だったのです。





 そしてそれは医師にとっても同じでした。幕府や各藩のお抱え医師になるには、「薙髮」し僧侶のような服装を身に着けることが必要だったのです。たとえ儒医であってもオランダ流外科医であってもです。名のある医師のほとんどが坊主頭であり、杉田玄白や山脇東洋(右絵)もそうだったのはそんな訳です。貝原益軒も医師になる時には薙髮しました。ただしこれは彼が習慣に従ったからであり、後に儒者になる時には髪を伸ばしましたが、それは彼が武士階級だったからでしょう。


 では宣長は「稚髮を為し」て、髪を剃って坊主頭になったのでしょうか。いいえ、実は違います。『在京日記』をもう少し前から見て追って行きましょう。


宝暦三年
七月二十二日 堀元厚氏に入門し、医書講説を聞く。
七月二十六日 堀元厚先生の講釈始まる。毎朝、霊枢、局方発揮なり。二七四九の日の夕は、素問、運気論、溯集なり。
九月九日 仮に名を健蔵と改めて曰く。
九月二十日 中旬より予め頂髮を生長す。


宝暦四年
正月二十四日 堀元厚[北渚先生と号す]先生死去。
五月朔日 武川幸順法橋の門に入り、医術を修業す。

・・・

宝暦五年
三月三日 稚髮を為し、名を更めて宣長と曰く。号を更めて春庵と曰く。春庵を以て常に相呼す。





 このように、宣長は医学を学び始めて約二ヶ月後には頭頂の髪を伸ばし始めているのです。もちろん宣長は江戸時代の商人の家の生まれで、普通の月代のある髷でした。その剃ってある頭頂の髪を約一年半の間伸ばすことで「稚髮を為し」たのです。つまり、これは宣長の薙髮は薙髮ではなく、それは医師を称すること表現した言葉のあやであり、苦労することを骨を折ると言ったり、可笑しい時にへそで茶を沸かすと言ったりすることと同じなのです。ではなぜ宣長は髪を剃らず、逆に伸ばしたのか。江戸期の多くの名医が坊主頭であり、宣長の家は浄土宗の信徒であり、彼も「小来甚だ仏を好」んでいたので、剃髮してもおかしくなかったのです。でもしませんでした。なぜでしょう。




 後藤艮山  香川修徳

 それは宣長は後藤艮山に倣ったからです。もちろん昆山は宣長が上京した時にすでに亡くなっていたので、正確には香川修徳など後藤流の門弟たちにです。昆山の肖像画と比べれば一目瞭然ですね。昆山は自分が儒学では伊藤仁斎よりも、仏教では隠元より勝ることはできないと自覚し、医学で頂点を目指そうと医師の道を選んだのでした。彼は、薙髮し僧衣を身に着け僧官を拝することを嫌い、髪を束ねて縫腋(十徳)を着て医業や研究に励んだのです。昆山の髪型は医師として画期的でしたが、これは彼が伊藤仁斎のそれに倣ったからかもしれません。なぜなら彼の医論「一気留滞論」は仁斎の「気一元論」を基に組み立てられているからです。彼らは終生仕官することなく、それ故清く貧しくもあり、髪を剃る必要が無かったのであり、きっとそれを望みもしなかったのです。そして彼らの、儒学では古学、医学では古医方と呼ばれるものが、門弟が増えるに従い世に広まりました。


 そして宣長も古医方の儒医に惹きつけられたのです。それも堀元厚の下で霊枢、局方発揮、素問、運気論、溯集など、いわゆる後世方医学を学び始めて二ヶ月後には自分が進む道の決心を固めたのです。それはなぜでしょう。また古医方のどのような所に惹きつけられ、どんなことを学んだのでしょうか。


つづく


(ムガク)

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


005―杉田玄白の見た江戸時代の医療と―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-18 17:48:45 | 本居宣長と江戸時代の医学



 宣長が儒学や医学を学ぶために京へ留学していた時代は、医学史上の様々な出来事が起きた時代でもありました。宣長が勉学中のすぐ近所で、日本初の医学的な解剖が山脇東洋によって行われ、吉益東洞は「万病一毒論」を主張してその門弟を増やし、旅先で亡くなった「儒医一本論」の香川修徳は葬され、まさに時代が変わりつつある場に若き日の宣長がいたのです。宣長は宝暦七年、28歳で故郷松阪に帰り医師として開業しましたが、その同年、杉田玄白はオランダ流外科を日本橋にて開業しています。では玄白が見た当時の医学の状況を、彼が老年時に著した『形影夜話』から見ていきましょう。きっと宣長の意見と一部似通っていることに気が付くことでしょう。



 ちょっと見たことでも眼に留まり、ちょっと聞いたことでも耳に留め、これを心に徹底させておき、用に臨んで行うのが聡明、叡智というものであろう。手っとり早く言えば、万事に気の付く人をいうのであろう。医を行おうと思う人はここを一番大事だと思って学ぶことが必要であろう。昔から医を業とする人が、このことに心付かない訳ではあるまい。昔から一家を立てた人々は、みな博学多才の人でそれぞれ自分の意見を大いに発表した人も多いが、みなはっきりしないことを基礎として議論したから、真理を詳らかにすることが出来なかったのだと思われる。それは昔から医者が拠りどころとする『素問』『難経』をはじめとして、たくさんの医書の中に、実験に基づいた真実が少ないからである。

 医者は人の病を治す業だから、まず身体の内外の構造をよく知るということを第一の仕事とすべきである。ところが、これまでの医者はこれをよく知らないから、従来、内臓のことを説くにも、肝臓は右にあるのだが、その治療法は左に取ると説いたり、甚だしいのになると、飲食はまず肝臓に入り、肝臓から脾臓に伝わり、脾臓から胃に送られるなど、でたらめの説を唱えるものまで出てきても、誰もこれを怪しんで、実物についてこれを明らかにしようとするものがない。こうして昔から一致した本がなく、空しく数百年も過ごしてきたのである。これはとんでもないことだ。例えば背骨の椎骨のごときものも、元の滑氏(滑寿・伯仁)は、その接続は毎節下の低いところと決めている。だから大椎の兪穴を決めるにも、第一椎の上のくぼみの中にありと説いている。ところが明の張氏(張介賓・景岳)の説では、その節上の高いところで接続するとしている。こうなると背骨について見ても両家の説では一寸ほどの違いがある。しかも人々は自分勝手な証拠を挙げているが、どちらが良くどちらが悪いと言わないのはおかしな話だ。これは始めに言った、「好むところの切なる人」がないからであろう。本当に医学を好む人であったら、そんなことはあるまい。人は同じだのに、こんなに違いがあっては人を治す業はなりたたないぞと、疑義を抱くのが当然ではないか。

 さればこそ、我が国で後藤艮山氏は一つの意見を立てて『内経』の欠点を見破って、今言ったようなあやしい説を反撃するためか、経絡は無用なものだと断言された。それはなるほど大した卓見であるというべきである。その門人の香川修徳氏がこれに次いで立って、先生の業を唱え、それに自分の見解を加えて一家をなした。またそれに続いて山脇東洋君が出て、この点に気付かれてか、自ら解剖して従来の旧説を改め、むしろ古書にある「九臓の目」を唱えて、昔からの一つの大きな誤りを正そうそして『蔵志』を著された。しかしこれも確実というところまでに至っていない。ただわずかに、実物についてのその元を明らかにせよ、というきっかけを作られただけである。

 また吉益東洞氏等は近来の豪傑だが、その基とすべき医書がないために、ただ『傷寒論』の一書に精力を尽くされたが、これにしても大雑把な本で、確かなところが少ないと言って、自分に納得出来る説ばかりを採用して、結局、脈などは用のないものだ、大切なのは腹候だけだと門人に教えられたそうである。これも止むを得ないことであろう。

 私の家も代々医術で我が君に仕えているのであるから、逃れようとしても逃れられぬ業である。ことに自分としても嫌いな道でもない。それて幼い時から和漢の医書を断片的に見たが、生まれつき不才でどの本を読んでも是非が分らない。他の人はよくも分るものだと自分の不才を恥ずかしく思いつつ年月を経てきた。ところが二十二歳の時に同僚の小杉玄適(玄白と同じ小浜藩の藩医)という男が京都での勉強から帰ってきて、京都では古方家と称える人が出てきたが、その中で山脇東洋先生などは専らこのことを主張して自分で刑屍を解剖して古来説いているところの内臓の構造とは大いに違っていることを知られた、ということを聞いた。その頃、松原、吉松などという人たちが共に復古の業を起こしたとか、そのいろいろの論説を聞いて、私はさてさて羨ましいことだ、内科医ではすでに豪傑が起こって旗を関西に立てた。幸いに外科医に生まれた身だから外科で一家を起こそう。そう考えて断然志を立てたが、何を目当てに何を力に事を計るべきかも分らないのでいたずらに思いを巡らすばかりであった・・・。



 当時の医学の経典、教科書であった『内経』、『素問』や『霊枢』と呼ばれるものや『難経』は、まじめに医学を学ぼうとするものに必読の書でありました。しかしその内容が抽象的または現実離れし過ぎて多くの医生に理解できないものとなっていたのです。そこへ現れたのがいわゆる古方派に属する人々でした。親試実験を主張し、現実、実際の生命を、過去の抽象化した理論にしばられずに見つめて対処しようと試みたのでした。これを評価しまた惹きつけられたのは玄白だけではありません。多くの若者が古方派に影響され、そして宣長もその一人なのです。宣長が京で医学を学んでいたころ、堀景山の門下生であり共に医学を学ぶ友人であった岩崎榮良(藤文輿・肥前大村藩の藩医)にこう言っています。



この頃、本邦の医人は往々にして素霊・陰陽旺相・五行生剋説を迂誕(大げさなウソ)として退けて棄てる。甚しき者は五藏六府、十二経絡を廃するに至る。思うに後藤氏がこれを初めに主張し、香川氏がこれを継ぐ。その論は千古において卓絶、ああ盛言かな。しかれども言う所はおおむね彼らの憶測より出ている。すなわちまだ謬誤がないわけでははい。山脇氏のごときは識見が高過ぎて、かえってそれがせまくていやしい。根拠がないでたらめを言っているのであり、取るに足らない。わずかによく峻剤(強力な下剤)を用得するが、害が出るものが過半を見て、全き者は十のうち三四である。畏るべきかな。

たいてい今人の少しく見解有る者は、事に務めることに抜き出て優れていると自惚れ、小方(小さな治療法)を屑とは考えず、ただ古方を施す。まさに概をもって百病を治そうとするようなものだ。難しきかな、古方をもって今の病を概すはもとより不可能である。かつ明らかでもないのにこれを使い、天年を誤らざるを恐れる者はたいへん少数である。俗医が李朱(李杲と朱丹渓)を視るや、聖人のごとし。古方家はこれを嗤う。しかしまた彼らが長沙(張仲景・『傷寒論』の著者)を視ることは、神のごとし、殊に知らないが仲景は何人ぞ、丹渓は何人ぞ。彼らはみな単なる古(いにしえ)の一人の医師なのだ。優劣を方べ立てるも、時に循いて世は変化する。その宜しきを截ち切り、古を是とし今を非とするは、偏れるかな。未だ五十歩の失を免れないのだ。



 ということで玄白と宣長の言葉から当時の医学の状況が見えてきたのではないでしょうか。彼らの意見で大きく異なるのは、山脇東洋の評価です。なぜその相違が生じたのか。その一つは、東洋が玄白の友人小杉玄適の師だったからです。そして玄白はその解剖が行われた半年後にはそれについて直接彼から聞いて知っていたのです。解剖の実現には玄適の力も大きく、彼もまたそれに立ち会い、玄白はその結果だけでなく、いろいろな苦労話も聞くことができたかもしれません。もう一つは、宣長は上記のように言った時、東洋が解剖を行ったことについて、まだ知らなかったためです。解剖は宝暦四年三月七日六角獄舎の中でも人の目に触れない場所で秘密裏に行われました。それ故、それが行われた事実は宝暦七年に東洋が解剖の報告書『蔵志』を刊行するまで、徐々に漏洩はしたでしょうが、一部の関係者以外知ることはなかったのです。東洋が口だけの人ではなく、行動できる人であると知っていれば、宣長のこの評価も変わったかもしれません。もう一つ、東洋がまだ生きていたことが関係しています。もし彼が亡くなっていれば、宣長もそこまで非難することは無かったかもしれません。昆山や修徳にも欠点はあったのですが、彼らはすでに亡くなっていたので、彼らへの批判は長所を認めた上での客観的な指摘に止まります。こういう所も日本人の特徴の一つですね。

 また玄白は外科医師の家に育ち、外科医師を志しました。関西では古方派が興ったので自分は外科で一家を起こそうと考えました。宣長はどうであったのでしょう。彼は19歳の頃、寛延元年に紙商売を行う家に養子となるも、その年に「和歌道に志」し、翌年には「専ら歌道に心をよ」せました。そして翌年にはその家と離縁し、宣長の母の勧めで生活のために医師になろうと上京してきたのでした。宣長には医師で一家を起こそうという考えは微塵もなかったことでしょう。「自分が何を目当てに何を力に事を計るか」を知るのは、玄白に『ターヘル・アナトミア』というオランダの医書と前野良沢らとの出会いが必要であったように、宣長には『古事記』と賀茂真淵との出会いが必要だったのです。しかし、それは宝暦十三年、宣長が34歳の時であり、もう少し後のことです。

 さて宣長は生活のために医師になろうとしましたが、どのような医師になろうとしたのでしょうか。それを明らかにする鍵、それは「稚髮」にあります。

つづく

(ムガク)

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004―儒医2/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-18 17:38:57 | 本居宣長と江戸時代の医学

 堀景山と荻生徂徠は親交がありましたが、徂徠は景山への書簡の中で徂徠の父荻生方庵が杏庵に会った時のことを記しています。


「私が幼年の時、このことを先大夫に聞きました。昔、洛(京都)に惺窩先生という者がいました。其の高第の弟子、羅山、活所諸公の若き者五人、名は海内に聞え、皆務めて弁博をもって相高っていました。しかるに屈(堀杏庵)先生は、独り温厚の長者であり、四人の間に詘然として退謙し、自ら率先して名の高きを求めませんでした。先生が東都(江戸)に来ると先大夫はまた一二度接見したと云っていました。儒者は断断として古より然りと為すが、能くしかる者は千百人中一人のみなのです」(『先哲叢談』巻之二)


 杏庵は、自分が正しいと思い熱く議論しあう他の儒者と異なり、温厚で謙虚であり、静かな人柄であったようです。そんな彼に捧げられた詩が残されているのでここで少し取り上げてみましょう。なぜわざわざそうするかと言うと、宣長の医学に対する考え方というのは基本的に詩歌に対するものと同じであり、それは景山に入門したことによる影響が大きく、また宣長が京都留学していたころ彼が師や友人と共に漢詩を歌いあったり、有賀の歌会に参加していたこともあり、その辺りのことも知っておいて損はないからです。


 惺窩門の石川丈山は漢詩で有名であり、彼の著作『覆醤集』には杏庵に悼げたものがあります。


新声妙句 韶光を写す
西堂に興起すること 夢一場
素問霊枢扁鵲を兼ね
春秋左伝 公羊を説く
昔は洛邑無辺の月に吟じ
今は蓬丘不老の方を弄ぶ*
仁術功成りて 才芸に富みたり
春風千載の 呂純陽



*蓬丘: 蓬莱山のこと。太上真人という仙人が住むとされる。
呂純陽: 道教仙人、八仙の筆頭。


 また別の漢詩も悼げています。


学は鄒軻の気を養い
術は廬扁の伝を包ぬ*


*鄒軻: 鄒衍と孟軻(孟子)。
廬扁:扁鵲のこと。扁鵲が廬の国に家居したことから。


 また林羅山も杏庵に悼げた漢詩を残しています。


筆は邪正を評して 洙水に臨み*
薬は君臣を弁じて 上池に汲む


*洙水: 孔子が弟子たちに儒学を教えたところ
上池: 桑君が扁鵲に薬を与え上池の水で以て飲ませたことから。扁鵲が名医となったきっかけ。



 杏庵が皆から儒学だけでなく医学に関しても一目置かれていたことが分かりますね。そして医正意、堀杏庵の人柄、彼の持つ雰囲気、学風というものは宣長の師である景山に引き継がれました。室鳩巣はこう言っています。


「屈景山は京師の人なり。其の先杏庵先生より、儒を以て当時に聞ゆ。翼子賢孫、家声を墜さず。君に至り大いに前烈を振ひ、祖業を恢(ひろ)め、旁らに師友の益を求めて已まず。その志を観るに、将に大成有らんとす。其の徳、古人と千載の上に頡頏す。夫の世の小を得て自足し下問を恥づる者を視るに、其の見る所の高下懸絶、何如と為すや」(『後編鳩巣文集』)


 そんな景山のもとで宣長は彼が亡くなるまで様々なことを学び過ごしていたのでした。ここで少し注意することは杏庵も景山も儒医ではないということです。彼らは非常に高い、おそらく普通の医者よりも高い、医学知識をもった儒者なのです。


 ところで景山と同年代に香川修徳(秀庵)という儒医がいました。彼は伊藤仁斎に儒学を、後藤艮山に医学を師事しました。宣長は医学医術に関して修徳に大きく影響を受けているので、それについて詳しくは後述します。修徳は「儒医一本論」を主張し、それに従う医師も多く、それ故その時代に儒医を称する医師が増えることとなりました。



 そうして儒医が『京羽二重大全』に医師と並んで記載されるようになりましたが、その全体的な質には疑問が多く、平賀源内は『根南志具佐』でこう言っています。


「近年の医者どもは、切りつき普請の詩文章でも書きおぼえ、所まだらに傷寒論の会が一ぺん通り済や済まずに、自ら古方家あるいは儒医などとは名乗れども、病は見えず薬は覚えず・・・」

 とあるように、ろくに儒学も医学も学ぶことなく儒医を自称するものが少なくなかったのです。また修徳の師、伊藤仁斎などは儒者として身を立てるため、家族の勧めも聞かず医者を兼ねなかったので、儒医のことを、源内の言の比ではなく、非常に激しく非難しています。(『古学先生文集』儒医弁)


 また宣長の師、景山は「いかなればとて儒医などと云う名目は、文盲の甚しき事なり」と名前の付け方から批判しました。「医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なるが、成程妙手にもなるはず、また殊勝不凡にもある事なり」と、彼らの医術の向上を褒めつつこう続けます。


「儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事なれば、人情に通ぜずして、何を以てすべきにや。世間の俗人をはなれて、五倫はいづくに求めんや」(『不尽言』)


 と儒医と称する人々は儒者の業を行っておらず、儒者ではないと言いました。さあ、医師になるために上京し、医学を学ぶ前段階として儒学を学んでいた宣長は、その師の言を聞いてどう思ったのでしょうか。それを明らかにする前に、もう少しその時代のまわりの状況を見ていきましょう。


つづく


(ムガク)

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003―儒医1/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-18 17:36:07 | 本居宣長と江戸時代の医学

 徳川家康が覇権を握りつつあった時代になると儒医が誕生し、江戸時代に入るとそれは爆発的に増加して医師と肩を並べるほどになり、そして明治時代には消え去りました。では儒医の誕生はなぜその時代だったのでしょうか。

 それは豊臣秀吉が文禄・慶長の役を起こしたからです。なぜ朝鮮侵略戦争が起きたら儒医が増えたのか。それは簡単に言えばこんな訳です。


 秀吉軍がそれらの戦争で李氏朝鮮に勝利すると、戦利品や捕虜と共に儒学書も日本に入ってきたのです。そこに登場するのが藤原惺窩であり、彼は藤原定家の家系、冷泉家の血筋でしたが長男ではなかったために仏門に入り、五山の儒仏兼修の学を受け継いでいました。しかし朝鮮の捕虜から多くの儒学書を得るとそれらを独学で学び、朱子学を禅を理解させたり神主仏従の教理を強化するためなど別の学問や宗教に利用される今までの立場から脱却させました。慶長五年に家康は石田光成と関が原において対決しましたが、同じ年に惺窩は家康の招きによりその側近の五山の学僧と対決し、それに勝利することで朱子学も覇権を手にしたのです。しかし惺窩は家康に仕官することを断り、その代りに林羅山を推挙し、後に儒学が幕府の官学になるに至りました。

 惺窩が現れた頃にはすでに朱子学に基づいた医学、いわゆる金元医学とも後世方医学とも呼ばれるものが輸入されており、曲直瀬道三により啓廸院において医学教育が行われていました。ちなみに道三は儒学者ではなく、どちらかといえば臨済宗の僧でしたが、儒学の知識は十二分にあったことでしょう。

 そもそも後世方医学というものは朱子学に基づいて進化発展したもので、通常なら朱子学が先に普及してもおかしくありませんでした。様々な民族にとって、先にある思想を導入し、その後それを応用した技術や学問を取り入れるのがよくあることですが、日本ではその導入や普及が逆転しているところが興味深く、これも哲学思想よりも現実的実利を重視する日本人の特徴が表れているのかもしれません。もっとも朱子学が普及したのも幕府の官学になったからであり、また後に触れることになりますが、普及したと言っても、日本人は朱子学を自分たちの受け入れ易いように作り変えたり、また都合の良い所だけを受け入れたのです。

 そうして日本において(朱子学の)儒者と(後世方医学の)医師が出そろい、儒医が誕生する下地ができました。もともと朱子学を学ぶものにとって医学は切っても切り離せないものでありましたが、そのことを惺窩はこう言いました。

「古を稽えるとは、嘉言(戒めとなる言葉)によってその理を窮めることを学び、善行によってその事の実行を学ぶことである。思うに、言と行とは二つではない。言と行は一つと言うべきである。これを二つにするときは、それは古を稽えることではない」

 と言行一致すべきを主張し、続けてこう述べました。

「聖人が春秋を修めて、「我これを空言に載せんと欲するも、これを行事に見はすの深切著名なるに如かず」と言ったが、医を学ぶ道も、またそれと同じであろう。常法を学んでも、発用の術を知らなければ、則ち徒法*のみである。この行の善なるは、家にありて親に仕える事が始めであり、親に仕える事は病に侍することが最も重要である。故に程夫子(宋の大儒)が「親に事ふる者は医を知らざるへからず」と言ったのである。近世、世も降り、親に仕える道を知らない人が増えた。まさに父母を無くする国に成ろうとしている。すでに自分を治めることを知らないで、どうしてよく人を治め、よく物に及ぼすことができようか。たとえ終日よく言っても、それらは鸚鵡である。猩猩である*。ああ、止まん……」

  惺窩にとって、儒学を修める者は必ず親を養ひ、必ず人を救い、人のみならず鬼でも蛇でも馬でも万物を利することを実践すべきなのです。言葉だけでなく実行しなければならない。それも儒者にとって最も重要な「孝」から始めねばならず、それには医学を修養することが必要不可欠だったのです。ちなみに惺窩のこの言葉は吉田宗恂の『古今医案』序文にあり、彼は博物学にも精通して豊臣秀次に仕え、後陽成天皇の脈をとり、後に家康に仕えた名のある医師であり、惺窩の門人でもありました。彼の父は吉田宗桂という足利義晴の侍医であり、明国の皇帝世宗に拝謁しその病を治したとも伝えられています。羅山は宗恂について、「惺窩先生とその医術を共に語り合い、しばしば暦数・運気・病論・方剤のことに及び、宗恂の技術の進んたのはこれのお蔭である」と言っています。

 また惺窩門の中で特に医に精通していたのは羅山とともにその四天王の一人であった堀杏庵(正意)であり、惺窩や羅山は彼が方技に精しかったので彼のことを医正意と呼んでいました。彼の父は曲直瀬道三に師事し、彼自身は曲直瀬正純に師事しました。次回は杏庵についてですが、なぜかと言うと彼の曾孫が堀景山であり、宣長は彼に入門して儒学を学び、そして宣長に最も影響を与えた一人が景山だからです。

つづく

(ムガク)

*『孟子』離上:徒法は以て自ら行うを能はず。
*『礼記』曲礼上:鸚鵡は能く言して飛鳥を離れず。猩々は能く言して禽獣を離れず。

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002―医師―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-17 19:59:08 | 本居宣長と江戸時代の医学

 私たちが宣長がどのような医師であったかを知ろうと欲する時によく行う方法の一つはその肩書きを調べることでしょう。例えば彼は小児科医であったとか、後世方派の医師であったなどとも言われていましたが、それは真実でしょうか。またそれで理解したことになるのでしょうか。その有効性考えるのは後回しにして、まず医師とはどのようなものか、どんな種類があるのか見てみましょう。



 宣長が39歳であった頃、明和五年には『京羽二重大全』という京都のガイドブック、タウンページのようなものが出版されており、そこには当時よく知られた吉益周介(東洞)や賀川玄悦など様々な医師の名と所在地が連ねられてあります。それを読むと、医師には、医師、儒医、小児医師、産前産後医、目医師、口中医師、外科、針、経絡導引、灸医などがあり、この頃すでに医療の分業化、専門化が進んでいたことが分ります。

 この専門化には歴史があり、古代中国の名医扁鵲は晋の邯鄲では婦人科の医師、周の洛陽では老人科(耳目冷痺)の医師、秦の咸陽では小児科の医師へと、その土地の習俗にしたがって専門を替えました。これは患者の年齢や性別によるものでしたが、その後、目や口など疾患の部位、針や灸などの治療手段によるものも進みました。



 そもそも日本においては医師の歴史は大化改新にまで遡ります。そこで律令国家を形成するための重要な大宝律令(後に養老律令に改定された)が成立しましたが、その片隅に医事制度を定めた医疾令があります。中務省には内薬司(正・佑・令史・侍医・薬生・使部・直丁)があり、宮内省には典薬寮(頭・助・允・大属・小属・医博士・医師・医生・針博士・針師・針生・按摩博士・按摩師・按摩生・咒禁博士・咒禁師・咒禁生・薬園師・薬園生・使部・直丁)がありました。現代の日本において医師(Doctor)のことを医師と呼ぶのはこれに由来し、また針師や灸師、按摩師も同様であり、それら以外の多くが時と共に自然消滅してしまいましたが、写真にあるように典薬頭などの肩書きはまだ江戸時代にはありました。

 ただし医師という言葉は『周礼』天官冢宰にあることから古代中国は周代にはすでに存在していました。その頃には医師、食医、疾医、瘍医、獣医があり、それらは官名であり職名であり、おのおの職分が異なりました。それぞれ、医師は医の政令を、また毒薬を聚めて医事に共するを掌り、また食医は王の食事や飲み物、味などの調和を、疾医は万民の疾病を養うを、瘍医は腫瘍や潰瘍、金瘍、折瘍の治療を、獣医は獣病、獣瘍の治療を掌っていたのです。

 そんな訳でここでの医師には四つの意味があるのでご注意を。また『京羽二重大全』に医師の並んで記載されている儒医は江戸期特有の医師であり、本目的のためにはまずこれを理解することが重要です。

つづく

(ムガク)

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001-本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-17 19:55:46 | 本居宣長と江戸時代の医学

(文字化けなどの修正版です)



 前回まで貝原益軒の『養生訓』(総論上・下)の解説を連載してきましたが、これもまたその続きです。と言っても焦点は儒学者である益軒から国学者である本居宣長に移ります。

 益軒と宣長はどちらも医師でもありましたが、彼らの思想を見ていくと日本人特有の思考が見えてきます。特に宣長にはそれが顕著に表れており、それは決して宣長が特殊であったのではなく、彼は非常に一般的な日本人であったと言えるでしょう。近世日本において彼の業績は皇国史観や国粋主義、尊皇攘夷の思想の中心にあり続け、復古神道も宣長の存在なしにはあの時代に生じることは無かったでしょう。宣長は天竺や唐から入ってきた仏教や儒教の絶対性を排撃し、皇国の優位性を主張し続けました。しかし、それでも宣長は仏教徒であり、彼は浄土宗の信者の家に生まれ、若き時より甚だ仏を好み、人生を終える時は自らの葬儀を遺言してまで仏式で行ったのです。現代でも、生まれて神社へお宮参りし、教会で結婚式を挙げ、お寺で葬式をすることがよくありますが、このようなことに矛盾を感じることなく平然と行えるのは日本人の特徴の一つかもしれませんね。

 さて医師として生計を立てていた宣長はどのような治療を行っていたのでしょうか。また当時の医学についてどのように考えていたのでしょうか。江戸期の他の名の知れた医師たちが自ら医書を著し彼らの医術や思想を世間や後世に伝えようとしたのに対し、宣長は医書を著すことはなく、彼のそれは我々にとってよく知るものではありません。なぜ宣長は医書を著さなかったのか。それについてはこれから次第に明らかになるでしょうが、宣長の残した膨大な著作や資料から医師としての宣長を明らかにしていくことが可能です。その時、彼がどのような薬を使っていたとか医学書を読んでいたかというのは記録に残されていますがあまり重要でもなく、どのような思想で医療を行っていたかという所、それも日本人特有の思考方法が関係していた所が重要であり、それが現代そして未来の日本の医療を知ることにも繋がるのでしょう。

 それではこれから彼を批判することなく礼賛することもなく、医師としての宣長をありのまま見ていきましょう。きっとそこにはもののあはれを知る心が必要かもしれません。

つづく

(ムガク)

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015-本居宣長と江戸時代の医学― 宣長の症例その2 ―

2015-02-07 18:33:21 | 本居宣長と江戸時代の医学

 ここでまた少し本居宣長の実際の症例を見ていきましょう。これらは『済世録』に膨大に残されているもののほんの一部です。治療の方法や成否に係わらず、出来るだけ無作為に、しかしなるべく患者の情報が記載されているものを選びご紹介します。( 010-本居宣長と江戸時代の医学―宣長の症例― の続きです)

 

(症例1)

天明三年 四月二十五日

高町 (無名): 目あか、虫気なし ・洗薬 二日分 補中益気湯 一日分

 これは伊勢松坂の高町のだれかの処方。洗薬とは目を洗う薬のことで、配合は以下の通り。

目掛薬方

胡礬 山梔子 辰砂 各四分、薄荷 黄柏 各三分、伊勢真珠 二分 

 

(症例2)

天明三年 四月二十七日

田原村源八: 生まれつき不足、虫 ・補中益気湯 二日分

 宣長は、貝原益軒のように、補中益気湯を良く使いました。ただし使うのは虚弱な人や、乳幼児に、あるいは病気の治療が終わった時の最後の締めとして用いていました。宣長は通常は一日分を処方しましたが、二日分処方することもあります。長期間使用する事はありません。「不足」とは元気の不足のこと。

 

(症例3)

天明三年 四月二十七日

伊藤七左衛門: 痰咳、おりおり小熱 ・烏梅丸 一日分

 烏梅丸も宣長が多用した処方です。回虫などの寄生虫による病気に使うもので、『傷寒論』に載っています。配合は以下の通り。

烏梅 黄連 各二両、 乾姜 五銭、 蜀椒 当帰 各二銭、 細辛 炮附子 人參 桂枝 黄柏 各三銭

 

(症例4)

天明三年 五月四日

曲村新兵衛: 痰、咳、熱、不食 ・桑白皮湯 五日分

 桑白皮湯は咳や痰に用います。いろいろな文献にでてきますが、宣長は『方剤歌』で以下のように処方を覚えました。

勒メコシ田ノモノ水ニ雪フリテ聯ナル徳モ丹(クチナシ)の文(フミ)

 意味は、桑白皮湯は貝母(勒メコシ)、半夏(田ノモノ)、蘇子(水ニ)、桑白皮(雪フリテ)、黄連(聯ナル)、杏仁(徳モ)、山梔子(丹の)、黄芩(文)の配合である、というものです。

 

(症例5)

天明二年 七月十五日

塚本市郎兵衛: 下り・渇き・むし・不食 ・五苓散 三日分

七月十八日  ・五苓散 三日分
七月二十日  ・五苓散加半夏厚朴 二日分
七月二十三日 ・五苓散加半夏厚朴 三日分
七月二十九日 ・下り・渇き・熱 ・五苓散加柴胡 五日分

八月四日   ・五苓散加柴胡 五日分
八月六日   ・五苓散加乾薑桂皮 五日分
八月八日   ・補中益気湯 一日分

 この症例は、「 010-本居宣長と江戸時代の医学―宣長の症例― 」にも取り上げましたが、実は続きがあります。

八月十四日  ・渋り下りなめど数多し、熱 ・不換金正気散加枳実乾姜檳榔 三日分
八月十八日 ・補中益気湯 一日分
八月二十五日 ・下り、不食、ジヤジヤ ・補中益気湯 一日分

 市郎兵衛さんは再発してしまったようですね。しかし前回と同じ薬は用いません。不換金正気散というのは『和剤局方』にある処方で、急な嘔吐や下痢の時に用います。宣長は『方彙簡巻』では「三味洞密洗」と、枳実・木香・檳榔の組み合わせを記していますが、ここではあえて枳実・乾姜・檳榔の加減を行っています。

 

つづく

(ムガク)