私たちが宣長がどのような医師であったかを知ろうと欲する時によく行う方法の一つはその肩書きを調べることでしょう。例えば彼は小児科医であったとか、後世方派の医師であったなどとも言われていましたが、それは真実でしょうか。またそれで理解したことになるのでしょうか。その有効性考えるのは後回しにして、まず医師とはどのようなものか、どんな種類があるのか見てみましょう。
宣長が39歳であった頃、明和五年には『京羽二重大全』という京都のガイドブック、タウンページのようなものが出版されており、そこには当時よく知られた吉益周介(東洞)や賀川玄悦など様々な医師の名と所在地が連ねられてあります。それを読むと、医師には、医師、儒医、小児医師、産前産後医、目医師、口中医師、外科、針、経絡導引、灸医などがあり、この頃すでに医療の分業化、専門化が進んでいたことが分ります。
この専門化には歴史があり、古代中国の名医扁鵲は晋の邯鄲では婦人科の医師、周の洛陽では老人科(耳目冷痺)の医師、秦の咸陽では小児科の医師へと、その土地の習俗にしたがって専門を替えました。これは患者の年齢や性別によるものでしたが、その後、目や口など疾患の部位、針や灸などの治療手段によるものも進みました。
そもそも日本においては医師の歴史は大化改新にまで遡ります。そこで律令国家を形成するための重要な大宝律令(後に養老律令に改定された)が成立しましたが、その片隅に医事制度を定めた医疾令があります。中務省には内薬司(正・佑・令史・侍医・薬生・使部・直丁)があり、宮内省には典薬寮(頭・助・允・大属・小属・医博士・医師・医生・針博士・針師・針生・按摩博士・按摩師・按摩生・咒禁博士・咒禁師・咒禁生・薬園師・薬園生・使部・直丁)がありました。現代の日本において医師(Doctor)のことを医師と呼ぶのはこれに由来し、また針師や灸師、按摩師も同様であり、それら以外の多くが時と共に自然消滅してしまいましたが、写真にあるように典薬頭などの肩書きはまだ江戸時代にはありました。
ただし医師という言葉は『周礼』天官冢宰にあることから古代中国は周代にはすでに存在していました。その頃には医師、食医、疾医、瘍医、獣医があり、それらは官名であり職名であり、おのおの職分が異なりました。それぞれ、医師は医の政令を、また毒薬を聚めて医事に共するを掌り、また食医は王の食事や飲み物、味などの調和を、疾医は万民の疾病を養うを、瘍医は腫瘍や潰瘍、金瘍、折瘍の治療を、獣医は獣病、獣瘍の治療を掌っていたのです。
そんな訳でここでの医師には四つの意味があるのでご注意を。また『京羽二重大全』に医師の並んで記載されている儒医は江戸期特有の医師であり、本目的のためにはまずこれを理解することが重要です。
つづく
(ムガク)
(文字化けなどの修正版です)
前回まで貝原益軒の『養生訓』(総論上・下)の解説を連載してきましたが、これもまたその続きです。と言っても焦点は儒学者である益軒から国学者である本居宣長に移ります。
益軒と宣長はどちらも医師でもありましたが、彼らの思想を見ていくと日本人特有の思考が見えてきます。特に宣長にはそれが顕著に表れており、それは決して宣長が特殊であったのではなく、彼は非常に一般的な日本人であったと言えるでしょう。近世日本において彼の業績は皇国史観や国粋主義、尊皇攘夷の思想の中心にあり続け、復古神道も宣長の存在なしにはあの時代に生じることは無かったでしょう。宣長は天竺や唐から入ってきた仏教や儒教の絶対性を排撃し、皇国の優位性を主張し続けました。しかし、それでも宣長は仏教徒であり、彼は浄土宗の信者の家に生まれ、若き時より甚だ仏を好み、人生を終える時は自らの葬儀を遺言してまで仏式で行ったのです。現代でも、生まれて神社へお宮参りし、教会で結婚式を挙げ、お寺で葬式をすることがよくありますが、このようなことに矛盾を感じることなく平然と行えるのは日本人の特徴の一つかもしれませんね。
さて医師として生計を立てていた宣長はどのような治療を行っていたのでしょうか。また当時の医学についてどのように考えていたのでしょうか。江戸期の他の名の知れた医師たちが自ら医書を著し彼らの医術や思想を世間や後世に伝えようとしたのに対し、宣長は医書を著すことはなく、彼のそれは我々にとってよく知るものではありません。なぜ宣長は医書を著さなかったのか。それについてはこれから次第に明らかになるでしょうが、宣長の残した膨大な著作や資料から医師としての宣長を明らかにしていくことが可能です。その時、彼がどのような薬を使っていたとか医学書を読んでいたかというのは記録に残されていますがあまり重要でもなく、どのような思想で医療を行っていたかという所、それも日本人特有の思考方法が関係していた所が重要であり、それが現代そして未来の日本の医療を知ることにも繋がるのでしょう。
それではこれから彼を批判することなく礼賛することもなく、医師としての宣長をありのまま見ていきましょう。きっとそこにはもののあはれを知る心が必要かもしれません。
つづく
(ムガク)
028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学
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ここでまた少し本居宣長の実際の症例を見ていきましょう。これらは『済世録』に膨大に残されているもののほんの一部です。治療の方法や成否に係わらず、出来るだけ無作為に、しかしなるべく患者の情報が記載されているものを選びご紹介します。( 010-本居宣長と江戸時代の医学―宣長の症例― の続きです)
(症例1)
天明三年 四月二十五日
高町 (無名): 目あか、虫気なし ・洗薬 二日分 補中益気湯 一日分
これは伊勢松坂の高町のだれかの処方。洗薬とは目を洗う薬のことで、配合は以下の通り。
目掛薬方
胡礬 山梔子 辰砂 各四分、薄荷 黄柏 各三分、伊勢真珠 二分
(症例2)
天明三年 四月二十七日
田原村源八: 生まれつき不足、虫 ・補中益気湯 二日分
宣長は、貝原益軒のように、補中益気湯を良く使いました。ただし使うのは虚弱な人や、乳幼児に、あるいは病気の治療が終わった時の最後の締めとして用いていました。宣長は通常は一日分を処方しましたが、二日分処方することもあります。長期間使用する事はありません。「不足」とは元気の不足のこと。
(症例3)
天明三年 四月二十七日
伊藤七左衛門: 痰咳、おりおり小熱 ・烏梅丸 一日分
烏梅丸も宣長が多用した処方です。回虫などの寄生虫による病気に使うもので、『傷寒論』に載っています。配合は以下の通り。
烏梅 黄連 各二両、 乾姜 五銭、 蜀椒 当帰 各二銭、 細辛 炮附子 人參 桂枝 黄柏 各三銭
(症例4)
天明三年 五月四日
曲村新兵衛: 痰、咳、熱、不食 ・桑白皮湯 五日分
桑白皮湯は咳や痰に用います。いろいろな文献にでてきますが、宣長は『方剤歌』で以下のように処方を覚えました。
勒メコシ田ノモノ水ニ雪フリテ聯ナル徳モ丹(クチナシ)の文(フミ)
意味は、桑白皮湯は貝母(勒メコシ)、半夏(田ノモノ)、蘇子(水ニ)、桑白皮(雪フリテ)、黄連(聯ナル)、杏仁(徳モ)、山梔子(丹の)、黄芩(文)の配合である、というものです。
(症例5)
天明二年 七月十五日
塚本市郎兵衛: 下り・渇き・むし・不食 ・五苓散 三日分
七月十八日 ・五苓散 三日分
七月二十日 ・五苓散加半夏厚朴 二日分
七月二十三日 ・五苓散加半夏厚朴 三日分
七月二十九日 ・下り・渇き・熱 ・五苓散加柴胡 五日分
八月四日 ・五苓散加柴胡 五日分
八月六日 ・五苓散加乾薑桂皮 五日分
八月八日 ・補中益気湯 一日分
この症例は、「 010-本居宣長と江戸時代の医学―宣長の症例― 」にも取り上げましたが、実は続きがあります。
八月十四日 ・渋り下りなめど数多し、熱 ・不換金正気散加枳実乾姜檳榔 三日分
八月十八日 ・補中益気湯 一日分
八月二十五日 ・下り、不食、ジヤジヤ ・補中益気湯 一日分
市郎兵衛さんは再発してしまったようですね。しかし前回と同じ薬は用いません。不換金正気散というのは『和剤局方』にある処方で、急な嘔吐や下痢の時に用います。宣長は『方彙簡巻』では「三味洞密洗」と、枳実・木香・檳榔の組み合わせを記していますが、ここではあえて枳実・乾姜・檳榔の加減を行っています。
つづく
(ムガク)