はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 009 (修正版)

2015-04-09 17:53:07 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の害二あり。元気をへらす一なり。元気を滞らしむる二也。飲食色慾労動を過せば、元気やぶれてへる。飲食・安逸・睡眠を過せば、滞りてふさがる。耗と滞ると、皆元気をそこなふ。

心は身の主也。しづかにして安からしむべし。身は心のやつこなり。うごかして労せしむべし。心やすくしづかなれば、天君ゆたかに、くるしみなくして楽しむ。身うごきて労すれば、飲食滞らず、血気めぐりて病なし。

(解説)

 貝原益軒は、「 解説 005」に出てきたように、「人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり」、と言いました。この元気の量の減少、及び、運動の停滞、それら二つが身心に害を与えるのです。過度な飲食・色慾・労動・安逸・睡眠がそれらをひき起こします。

 『素問』の霊蘭秘典論は、人体の内臓の働きを、政治における官職に例えて説明しています。

「心は、君主の官なり、神明、焉より出づ・・・主、明らかなれば、則ち下安んじ、以て此れ生を養えば、則ち寿(いのちなが)し、世を歿(お)うるまで殆うからず、以て天下を為せば、則ち大いに昌んなり、主、明らかならざれば、則ち十二官(十二の臓器)危うし、使道(経絡・血管)は、閉塞して通ぜず、形、大いに傷る。此れを以て生を養えば、則ち殃(わざわい)あり」

 このように心が身体にとって最も重要なものであることを説いています。心には、肉体的なポンプとしての心臓という意味があり、また精神的な意志や意識といった意味もあります。『荀子』の天論には、「心は中虚に居り、以て五官を治める、夫れ是れ之れを天君と謂う」とあります。心は、五官、つまり耳・目・鼻・口・形といった五つの器官で感覚するものを支配するところであり、この心臓ではない方の心を天君と呼ぶのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 008 (修正版)

2015-04-08 16:59:22 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

身をたもち生を養ふに、一字の至れる要訣あり。是を行へば生命を長くたもちて病なし。おやに孝あり、君に忠あり、家をたもち、身をたもつ。行なふとしてよろしからざる事なし。其一字なんぞや。畏の字是なり。畏るるとは身を守る心法なり。事ごとに心を小にして気にまかせず、過なからん事を求め、つねに天道をおそれて、つつしみしたがひ、人慾を畏れてつつしみ忍ぶにあり。是畏るるは、慎しみにおもむく初なり。畏るれば、つつしみ生ず。畏れざれば、つつしみなし。故に朱子、晩年に敬の字をときて曰、敬は畏の字これに近し。

(解説)

 今回は養生するに当たっての心のあり方について述べています。心を小にして、畏れること、それが要訣です。唐の時代、医師であった孫思邈は、「胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す」と言いましたが、心が小さいことは、決して悪いことではなく、むしろ美徳として考えられていました。『詩経』には、「維れ此の文王、小心翼翼たり、昭かに上帝に事へ、ここに多福を懐く」とあり、聖人の代表者である文王は小さなことにも気を配り、慎み深く生きていたのです。

 益軒はここで、朱子の「敬は畏の字これに近し」という言葉を挙げていますが、なぜそうしたのでしょうか。それは敬とは何かを調べていくと明らかになります。

 孔子は、「言は忠信、行は篤敬」と言いましたが、敬とは行いの基本であり、具体的には「門を出ては大賓を見るが如く、民を使うには大祭に承うるが如く」というように、家の門から一歩でも外へ出たら、最も重要な賓客に接するように、民に働いてもらうには最も重要な祭祀において神に供物を献上するように、慎重に、注意深く行動することです。

 この敬は、「己を修むるに、敬を以てす」と孔子が言ったように、自己修養に重要なものであり、朱子学では、「敬字の工夫は、乃ち聖門の第一義」であり、聖人にいたるための重要な入り口であると、捉えられていました。

 ここ、養生訓にある朱子の言葉は、『朱子語類』が出典であり、より正確には、「敬とは是れ塊然と兀坐し、耳に聞ゆる所無く、目に見る所無く、心に思うところ無く、而して後に之を敬と謂うに非ず。只、是れ畏れ謹み、敢て放縱せず所に有り」とあります。朱子学では、聖人や君子に至るために、静座と呼ばれる静かに座り続け、心を引き締め、専一の状態になるという修行法が行なわれていました。朱子は、敬は、禅宗などで行なわれていた坐禅のように、心を無にすることが目的ではなく、静かに座り続けることは単なる道に至る過程に過ぎず、「畏れ謹む所」に敬の本質があると言っているのです。

 益軒は、養生だけでなく、人間としても重要な、畏について人々に説こうとしました。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 007 (修正版)

2015-04-08 16:54:49 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の耳目口体の見る事、きく事、飲食ふ事、好色をこのむ事、各其このめる慾あり。これを嗜慾と云。嗜慾とは、このめる慾なり。慾はむさぼる也。飲食色慾などをこらえずして、むさぼりてほしゐままにすれば、節に過て、身をそこなひ礼儀にそむく。万の悪は、皆慾を恣にするよりおこる。耳目口体の慾を忍んでほしゐまゝにせざるは、慾にかつの道なり。もろもろの善は、皆、慾をこらえて、ほしゐまゝにせざるよりおこる。故に忍ぶと、恣にするとは、善と悪とのおこる本なり。養生の人は、ここにおゐて、専ら心を用ひて、恣なる事をおさえて慾をこらゆるを要とすべし。恣の一字をさりて、忍の一字を守るべし。

風寒暑湿は外邪なり。是にあたりて病となり、死ぬるは天命也。聖賢といへど免れがたし。されども、内気実してよくつつしみ防がば、外邪のおかす事も亦まれなるべし。飲食色慾によりて病生ずるは、全くわが身より出る過也。是天命にあらず、わが身のとがなり。万の事、天より出るは、ちからに及ばず。わが身に出る事は、ちからを用てなしやすし。風寒暑湿の外邪をふせがざるは怠なり。飲食好色の内慾を忍ばざるは過なり。怠と過とは、皆慎しまざるよりおこる。

(解説)

 孟子は、「心を養うは寡欲より善きは莫し」と言いました。心気を養い、養生するには欲望を少なくすることです。それはどんな欲望なのでしょうか。「口の味に於ける、目の色に於ける、耳の声に於ける、鼻の臭いに於ける、四肢の安佚に於ける性なり」、と孟子は言います。また、荘子は、「嗜欲深き者は、其の天機浅し」と言いました。天機とは、天・大自然の理、働き、また狭い意味では、天から人に与えられた、精神や機能のことです。欲深さによる弊害は昔からよく知られており、貝原益軒は養生にからめて、それについて警告したのです。欲望に対しては「忍」、我慢する、堪える、耐え忍ぶ、慎むことが重要であり、欲望に心身をまかせては危険です。

 干ばつ、大雨、大雪、台風、洪水、地震や津波、風・寒・暑・湿など天候や自然の災害に対しては、人は無力であり、思い通りにすることが出来ません。しかし、「わが身に出る事は、ちからを用てなしやすし」であり、出来るのにやらないことを「怠」と言います。出来ることと、やらないこと、これらは昔からよくはき違えられてきました。『孟子』梁恵王章句上に、こんな話があります。

 斉王が、孟子に、「為さざると、能わざるとは、何がちがうのか」と尋ねました。すると、 孟子が答えました。

「大山を脇に挟んで、北海を跨いで越えること、これが本当の能わざることです。年長者に対して礼儀正しい振舞をすること、これは為さざることであり、能わざることではありません」

 心がけ・意志の力で実行することが可能であれば、それは能わざることではないのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 006 (修正版)

2015-04-08 16:52:28 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の術は先、心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。又、臥す事をこのむべからず。久しく睡り臥せば、気滞りてめぐらず。飲食いまだ消化せざるに、早く臥しねぶれば、食気ふさがりて甚、元気をそこなふ。いましむべし。酒は微酔にのみ、半酣をかぎりとすべし。食は半飽に食ひて、十分にみつべからず。酒食ともに限を定めて、節にこゆべからず。又、わかき時より色慾をつつしみ、精気を惜むべし。精気を多くつひやせば、下部の気よはくなり、元気の根本たへて必、命短かし。もし飲食色慾の慎みなくば、日々補薬を服し、朝夕食補をなすとも、益なかるべし。又、風寒暑湿の外邪をおそれふせぎ、起居動静を節にし、つつしみ、食後には歩行して身を動かし、時々導引して腰腹をなですり、手足をうごかし、労動して血気をめぐらし、飲食を消化せしむべし。一所に久しく安坐すべからず。是皆養生の要なり。養生の道は、病なき時つつしむにあり。病発りて後、薬を用ひ、針灸を以病をせむるは養生の末なり。本をつとむべし。

(解説)

 益軒は養生訓で同じことを何度も繰り返し言います。今回は、「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 003 」と内容が大分重なりますが、それは重要な事柄だからです。心を和やかに、気持ちを落ち着けて、怒らず、欲望に身を任さず、憂いや考えすぎを少なくし、眠りすぎず、食べ過ぎ、飲み過ぎをせず、食べても直ぐに寝ないで、色慾を慎み、よく歩き、身体を動かすことなどが養生の要です。

 益軒は、「養生の道は、内慾をこらゆる」が本であり、「病発りて後、薬を用ひ、針灸を以病をせむるは養生の末」と考えました。本と末は「本末顚倒」の本と末のことで、これらはどちらも樹木から作られた指示文字であり、それぞれ木の根や幹と、木の梢を指し示しています。これは養生における行為の、重要性や軽重を意味しているとともに、時間的な先後関係も示唆しています。つまり、病気になる前の健康な時に、養生法を行なうことが重要であり、病気になった後に薬や鍼灸で治療するのは「養生の末」であるのです。

 「精気」とは、『素問』に、「夫れ、精は身の本なり」とあるように、人の身体を成り立たせている気であり、精があるから人の脳髄や骨や脈、筋、肉、皮膚、毛髮など身体の組織が生じると考えられていました。両親の精が合体して、子が生まれ、食事により飲食の精を取り入れて成長し、生命活動を続け、子供を作る時にも、その精を使う、というのが古代中国で生まれた医学の考え方です。それゆえ、養生のためには、精気を無駄に使わないように、色欲を慎むことが必要であると、益軒は説きました。とは言っても、これは紀元前からある「房中術」(男女の交合により健康になる方法)の基本的な思想で、『素女経』や『千金方』、『抱朴子』や『医心方』など、多くの書物に取り上げられています。

 また「補薬」とは、朝鮮人参(高麗人参・御種人参)や黄耆など、体力・気力が落ちた時に使う生薬のことです。特に江戸時代には、人參は大変高価であり、病人がいる家では娘を遊郭に売って手に入れるようなことがあったようです。現代では漢方薬や栄養ドリンクによく使われていますが、これらの薬を使用し、また食事で栄養をとっても、養生しなければ、その効果は期待できません。

 「導引」とは身体をうごかす養生法ですが、後にくわしく出てきますので、ここでの説明は割愛します。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 005 (修正版)

2015-04-08 16:50:17 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜず。生じて後は、飲食、衣服、居処の外物の助によりて、元気養はれて命をたもつ。飲食、衣服、居処の類も、亦、天地の生ずる所なり。生るるも養はるるも、皆天地父母の恩なり。外物を用て、元気の養とする所の飲食などを、かろく用ひて過さざれば、生付たる内の元気を養ひて、いのちながくして天年をたもつ。もし外物の養をおもくし過せば、内の元気、もし外の養にまけて病となる。病おもくして元気つくれば死す。たとへば草木に水と肥との養を過せば、かじけて枯るるがごとし。故に人ただ心の内の楽を求めて、飲食などの外の養をかろくすべし。外の養おもければ、内の元気損ず。

(解説)
 「人の元気」は、例えば「こんにちは、お元気ですか?」と言う時の「元気」とは異なります。それは「天地の万物を生ずる気」であり、この元気があるからこそ、人は生きていられるのです。このような思想は古代中国にはすでにあり、『荘子』の知北遊篇には、

「生や死の徒なり。死や生の始めなり、孰か其の紀を知らんや、人の生は、気の聚まるなり、聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る」

と、記されています。我々は天地父母から命を授かり、他の生物を食べ、水を飲み、呼吸をして「気の聚め」、その命を保持しています。そして死ぬと身体は分解し、土や空気へと拡散します。そして続けて荘子は言うのです。「万物は一なり」、「天下を通じて一気のみ、聖人は故に一を貴ぶ」と。生も死も、同じものから成り立っているので、荘子にとって、それらは同じものでした。同じだから生を軽んじる、というのではなく、生も死も大事なのです。また、同じ篇に、

「汝の身は、汝の有に非ざるなり、…是れ、天地の委形なり。生は汝の有に非ず、是れ天地の委和なり。性命は汝の有に非ず、是れ天地の委順なり。孫子は汝の有に非ず、是れ天地の委蛻なり」

と、あります。自分の身体、自分の生命も、子供や孫も自分の所有物ではなく、天地・自然からのあずかり物である、と荘子は言うのです。そしてそれらは、あずかり物であるので、自分勝手に自由にして良いものではなく、大切に守り、「天地父母の恩」に報いるために養生すべきであると、益軒は主張しました。

 また、飲食など外からの元気を補うことに関して、「かろく用ひて過さざれ」と益軒は言いましたが、これは孔子の言う所の「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」とか、老子の「多く蔵すれば、必ず厚く亡う、足ることを知れば辱められず」と言ったことと同じです。『中庸』に「君子は中庸をす、小人は中庸に反す」ともあるように、多過ぎず、少な過ぎず、丁度良い、それが君子の行いには重要なのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 004 (修正版)

2015-04-05 13:11:22 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

凡ての人、生れ付たる天年はおほくは長し。天年をみじかく生れ付たる人はまれなり。生れ付て元気さかんにして、身つよき人も、養生の術をしらず、朝夕元気をそこなひ、日夜精力をへらせば、生れ付たる其年をたもたずして、早世する人、世に多し。又、天性は甚、虚弱にして多病なれど、多病なる故に、つつしみおそれて保養すれば、かへつて長生する人、是又、世にあり。此二つは、世間眼前に多く見る所なれば、うたがふべからず。慾を恣にして身をうしなふは、たとえば刀を以て自害するに同じ。早きとおそきとのかはりはあれど、身を害する事は同じ。

人の命は我にあり、天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。是皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たる事、顔子などの如なる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。たとへば、火をうづみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず、もしふかくかくし、よく養なへば、夏までもつがごとし。

(解説)

 人の寿命はあらかじめ決められており、どんなに努力しても変えることはできない、という考えは古来、あらゆる民族に存在しました。この考えは大きく二つに分けられます。それは、法とか理とか天など呼ばれる形や人格をもたない存在が、人の寿命を含めあらゆる森羅万象を決定している、と言うのが一つ、それから、人格を持った単一のまたは複数の神がそれらを決定している、と言うのが一つです。前者からは、全ての現象は運命の結果であり、それらは歴史・時間に含まれているので、季節・時間を規定する天体の運動にこそ運命の力があるという考えが生まれました。そして運命を予見するために、天体の星の動きを観察し、その規則性、法則性を発見しようと、天文学や占星術が発展しました。古代中国には、北斗七星の近くに司命と呼ばれる星があり、これが人間の寿命を司っているとも考えられていました。

 例えば『荘子』大宗師篇には、「死生は命なり。其の夜旦の常有るは天なり。人の与るを得ざる所有るは皆物の情なり」とあり、生死と運命、そして天の運行を関連付け一般化しています。

 運命論はとても困難な状況に陥った場合に、それを受け入れたり、あきらめたりする時に役に立ちます。それは自分のせいではなく、運命のせいなのだ、と言うような責任の所在を変えることができます。貝原益軒はこの運命論を否定したのです。健康も長生きも、自身が養生法を行ない続けるか否かにかかっているのであり、それゆえ養生しないことは自害することと同じであると言ったのです。

 老子は、「営魄に載りて一を抱き、能く離るること無からんか、気を専らにし柔を致めて、能く嬰児たらんか」と言いました。「営魄」の「営」とは営衛の「営」で、肉体に栄養を与えるもの、営気のことであり、「魄」とは魂魄の「魄」で、一人の人間は精神的な面と、肉体的な面に分けられますが、この肉体的な要素のことです。

 『荘子』には「衛生の経は、能く一を抱かんか、能く失うことなからんか」とありますが、「一」とは単純な言語では説明できない重要なもののことです。それを「道」と言い換えても、「徳」と言い換えてもあまり意味はないかもしれません。孔子は「吾が道は一を以て之を貫く」と言いましたが、「一」とは何かについて弟子たちに説明しませんでした。

 老子は、「能く一を抱」き、そして「人の生まれるや柔弱、其の死するや堅強なり」と言ったように、生命にとって重要な「柔弱」であることに至り、自然な子供のような状態になることに価値を持たせました。列子はこのことを、「其の嬰孩に在るや、気は専らにして志の一なるは、和の至なり」と言ったのです。

 顔子とは、孔子の弟子の一人で顔回のことです。孔子が「一を聞きて十を知る」と言ったほど、きわめて優秀であり、孔子の教えを守り、権力や富に関心をもたず、質素でまじめな生活をしていましたが、「而立」の年齢には亡くなりました。益軒は、顔子ほどの君子でも、夭折してしまったので、「もしすぐれて天年みじかく生れ付たる事、顔子などの如なる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也」と言ったのです。

 益軒は「天年をみじかく生れ付たる人はまれなり」と言いましたが、江戸時代はそれほど一般の人の寿命は長くありません。例えば、徳川十一代将軍の家斉には五十七人の子がありましたが、その内、流産が四人、一から三才までに亡くなった子が二十四人、四才から二十歳までに亡くなった子が十三人でした。食事にも金銭にも恵まれた将軍家でも、七割が二十まで生きることができず、当時の七五三のお祝いは、現代のような平和的な当たり前の儀式ではなく、もっと切実な本当のお祝いだったことでしょう。

 それでも、益軒はそう言ったのです。これは、そう信じて生きることに意味があるのです。人の寿命は生きている限り誰にも分かりません。死んで初めて寿命が決定するのであり、生まれつき寿命が短いと評価するには、養生法を行い、君子として生活し、それでも早世してしまった場合のみ可能なのです。益軒は人々に希望を与えたかったのであり、また理想的な生き方をして欲しかったのでしょう。


 『荘子』大宗師篇にはこうも記されています。

天の為す所を知り人の為す所を知る者は至れり。天の為す所を知る者は天にして生くるなり。人の為す所を知る者は其の知の知らざる所を養う。其の天年を終えて中道に夭せざる者は、是れ知の盛んなるなり。

 人の寿命が天に決められているとしても、人の「知」によって夭折することなく天年を全うすることが出来るのである、と。

(ムガク)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 003 (修正版)

2015-04-05 13:06:48 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の術は、先わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐままにするの慾と、喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風寒暑湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以、元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。

凡、養生の道は、内慾をこらゆるを以本とす。本をつとむれば、元気つよくして、外邪をおかさず。内慾をつつしまずして、元気よはければ、外邪にやぶれやすくして、大病となり天命をたもたず。内慾をこらゆるに、其大なる条目は、飲食をよき程にして過さず。脾胃をやぶり病を発する物をくらはず。色慾をつつしみて精気をおしみ、時ならずして臥さず。久しく睡る事をいましめ、久しく安坐せず、時々身をうごかして、気をめぐらすべし。ことに食後には、必数百歩、歩行すべし。もし久しく安坐し、又、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひをすくなくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。又、風寒暑湿の外邪をふせぎてやぶられず。此内外の数の慎は、養生の大なる条目なり。是をよく慎しみ守るべし。

(解説)

 いよいよ具体的な養生の方法に入ってきました。まず初めにすべきことは、「わが身をそこなふ物を去」ることであり、身体に良いことをすることではありません。『十八史略』に「一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生ずるは一事を減ずるに若かず」とあるように、ある行いの効果を最大にするためには、その行いの順序がとても重要です。例えば、穴のあいたコップに水を溜めようとして、水を注ぐのを先にするか、穴を塞ぐのを先にするかの関係と同じです。

 そして「身をそこなふ物」を身体の内外で分類し、それぞれ「内慾」と「外邪」と呼びます。前者にまず挙げるのは、儒学の経典『礼記』の礼運に「飲食男女、人の大欲存す」とあるように、人類の本能的な欲望です。そして睡眠と多弁の欲、それから「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」の七つの感情を挙げています。七情は、通常は『礼記』にある「喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲」のことであり、より高度な人情も含まれているのですが、益軒のいう七情は、これとは別の分類のもの、医学におけるものです。

 江戸期につながる日本の儒学の祖と言えば藤原惺窩ですが、医学の祖と言えば曲直瀬道三でしょう。道三は自身が著した医学書『啓廸集』で、「喜楽恐驚は正気を散ず、正気を散ずる者は之を益す、怒憂悲思は邪気を鬱結す、邪気を結する者は之を行らす、此れ七情を治するの要法なり」と述べています。この七情は約二千年前の医学書『素問』の陰陽応象大論や『霊枢』の百病始生などに散見できるもので、身体への影響が大きい感情であり、養生するためには重要な要素です。

 「外邪」とは、「風・寒・暑・湿」という気候・環境のことです。「寒・暑・湿」は分かりやすいのですが、「風」は単なる空気の流れではありません。それは目に見えない病を起こす要因であり、ばい菌やウイルスも含まれている、とも言えなくもないですが、当時は顕微鏡もなく、今日と違って認識できる対象ではなく対処できるものでもないので、そう定義する意味はありません。

 「言語をすくなく」すること、これも養生法の一つですが、これはどういう訳でしょうか。「気をへらす事をおし」むことが、ここでの理由ですが、より具体的に調べていきましょう。

 益軒は、当時を代表する博物学者であり、医学・薬学者であり、それ以上に儒者でありました。儒者とは己を正し、国家を正し、民を感化させ、全ての人々が平和に暮らしていける世の中を作り上げようとする人です。それゆえ益軒の養生法は儒学的香りが強く出ています。孔子は『論語』の中で、「君子は、言に訥して、行いに敏ならんことを欲す」と言ったように、おしゃべり、軽はずみな言葉は、避けるべきものです。話すことがいけないのではありません。「徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず」、であり、有徳者には言葉が必要です。しかし「巧言は徳を乱る」であり、「言未だ之れに及ばずして言う、之れを躁と謂う」とも言うのです。口が上手いこと、必要でない時に話す躁々しさ、それは君子の条件ではないのです。余計な言葉は人々を、そして国をも乱します。

 老子も「多言なれば、しばしば窮す」と言ったように、不必要な言葉は困ったことをひき起こします。言語によって「気をへらす」と言うのは、しゃべると身体から何らかの生命エネルギーのようなものが抜け出てしまう、というような意味ではなく、普段日常で言うような、人間関係などに気をすり減らす、と言うような意味に近いでしょう。「言語をすくなく」はこの後にも何度もでてきますが、それはその時またもう少し詳しく解説します。

(ムガク) (これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 002 (修正版)

2015-04-05 13:06:33 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

万の事つとめてやまざれば、必、しるしあり。たとへば、春たねをまきて夏よく養へば、必、秋ありて、なりはひ多きが如し。もし養生の術をつとめまなんで、久しく行はば、身つよく病なくして、天年をたもち、長生を得て、久しく楽まん事、必然のしるしあるべし。此理うたがふべからず。

園に草木をうへて愛する人は、朝夕心にかけて、水をそそぎ土をかひ、肥をし、虫を去て、よく養ひ、其さかえを悦び、衰へをうれふ。草木は至りて軽し。わが身は至りて重し。豈我身を愛する事草木にもしかざるべきや。思はざる事甚し。夫養生の術をしりて行なふ事、天地父母につかへて孝をなし、次にはわが身、長生安楽のためなれば、不急なるつとめは先さし置て、わかき時より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふは、是人間第一のおもくすべき事の至也。

(解説)

 養生とは、特殊な薬や治療法によって行なわれるものではなく、個人的な努力によって行なわれるものです。「継続は力なり」、と言うように、また「倦むこと無かれ」と言うように、健康は、毎日の積み重ねによって培われるものなのです。 『論語』に「父母は唯だ其の疾を之れ憂う」とあるように、自分自身が病気になって父母に心配をかけることがない、というのが孝であり、健康を保って父母に仕えること、また父母の健康に気をつけることが、孝なのです。そのために養生の術を学び、実践し、継続する、その必要を益軒は説いています。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 001 (修正版)

2015-04-05 13:06:08 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

 江戸時代における一大ベストセラー、貝原益軒の『養生訓』をしばらく解説していきます。この本は医学的、文化的に非常におもしろく健康のためにもなるものです。しかしまたそれだけでなく、この本は江戸期において日本独特の医学、漢方、鍼灸を形成するための哲学が内包されており、その点でも重要な位置をしめています。これから少しずつそれらに迫って行きましょう。

(原文)

総論 上

人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひては、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不孝なり。況、大なる身命を、わが私の物として慎まず、飲食色慾を恣にし、元気をそこなひ病を求め、生付たる天年を短くして、早く身命を失ふ事、天地父母へ不孝のいたり、愚なる哉。人となりて此世に生きては、ひとへに父母天地に孝をつくし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべき程は寿福をうけ、久しく世にながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の各願ふ処ならずや。如此ならむ事をねがはば、先、古の道をかうがへ、養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危をおそるる事、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃なかるべし。豈、楽まざるべけんや。命みじかければ、天下四海の富を得ても益なし。財の山を前につんでも用なし。然れば道にしたがひ身をたもちて、長命なるほど大なる福なし。故に寿きは、尚書に、五福の第一とす。是万福の根本なり。

(解説)

 先ず、なぜ養生しなければならないか、について述べられています。自分自身の命を大切にしなけらばならない理由、それは慾でも本能でもなく孝悌のためなのです。『論語』に「君子は本を務む、本立ちて道生ず、孝弟なる者は其れ仁の本たるか」とあるように、儒教における最も大切なもの、仁の根本にあるのが、孝悌なのです。自分が死んでしまっては、それを行うことができないので養生することが大切なわけです。ただ長く生きることが目的なのではありません。孝行し、仁義を尽くし、人生を楽しく幸せに生きること、それが重要です。

 『尚書』は『書経』とも呼ばれますが、それの洪範という章の中で、もと商の国の宰相であった箕子が周の武王に、国家・政治・王に大切なものを列挙しています。一つめは五行、二つめが五事、三つめが八政と続き、そして九つめに五福があります。この五福は「一には曰く寿、二には曰く富、三には曰く康寧、四には曰く攸好徳、五には曰く考終命」とあり、註に「人、寿有りて、後に能く諸福を享す、故に寿、之を先す」とあります。寿(イノチナガシ)があるからこそ、富を得て、身心の健康を保ち、人としての道を楽しみ、寿命を正しく終えることができるのです。

(ムガク)

018― 麻疹(はしか) ―本居宣長と江戸時代の医学 

2015-04-04 19:59:44 | 本居宣長と江戸時代の医学

 本居宣長は小児科の医師として呼吸器や消化器疾患を主に診ていました。そして還睛丸や目洗薬など眼科の薬も頻繁に用いています。また消毒飲や蝉蛻飲のような皮膚科の薬も用いていました。これは何を意味していたのでしょう。

 それは麻疹の治療です。

国立国会図書館所蔵「麻疹養生の伝」

 麻疹とは、はしかとも赤斑瘡(あかもがさ)とも言い、江戸時代には数十年から二十数年の間隔で流行していました。文久二年(1862年)の麻疹の流行では六月から八月までの二ヶ月間で江戸だけで約一万四千人が亡くなっています。*1

 麻疹は、現代では麻しんウイルスによる感染症と知られています。一度罹患するとウイルスに対する抗体ができ、麻疹に再び発症することがないため、ワクチンの接種が最も有効な予防策です。今のところ麻しんウイルスに対する薬はないので、治療法は対症療法だけです。

 麻疹に感染すると通常10~12日間の潜伏期を経て、カタル期に入ります。この2から4日の間には、38℃前後の発熱、咳、鼻汁、くしゃみ、結膜充血、眼脂、羞明などがあり、熱が下降した頃には頬粘膜にコプリック斑が出現します。乳幼児では下痢や腹痛などの消化器症状、あるいは細菌性腸炎などの合併症が現われることもあります。文久二年の流行時にはコレラが同時に流行り、約六千七百人の人がこれで亡くなりました。

そして発疹期に入ると一度下降した発熱が再び高熱となり(39~40℃)、特有の発疹(小鮮紅色斑が暗紅色丘疹、それらが融合し網目状になる)。発疹は耳後部、頚部、顔、体幹、上肢、下肢の順に広がります。

これが3から4日続き、回復期になると解熱し、発疹は消退し、色素沈着を残します。肺炎、中耳炎、クループ、脳炎を合併する場合があり、麻しんウイルスに感染後、数年から十数年以上経過してSSPE(亜急性硬化性全脳炎)を発症する場合もあります。

 麻疹の感染力は強力です。基本再生産数(R0)は一人の感染者が周囲の免疫を持たない人に感染させる二次感染者の数ですが、これを見るとその感染力が解ります。*2

麻疹:12-18
天然痘:5-7
エイズ・SARS:2-5
インフルエンザ:2-3 *3
エボラ:1.5-2.5 *4

 1918年に発生したスペイン風邪は五億人以上が感染し、五千万人から一億人が亡くなったと言われています。そのインフルエンザのR0が2-3であるのに対し、麻疹は12-18であり、約6倍の感染力を持つと計算できます。

 この麻疹、あるいは三日はしか(風疹)が、宣長の人生に大きく影響し、また医師としての仕事に重要な位置を占めているのです。

 宣長が京で医学を学び始めるきっかけを作ったのが、宝暦三年(1753年)の麻疹流行でした(007-本居宣長と江戸時代の医学―漢意―)。『麻疹精要方』にはこう書かれています。

宝暦癸酉歳、夏秋の際、東都麻疹大流行、其の証、初め大いに発熱、嚏咳咽痛、或は泄瀉、或は衄血、則ち疹を発す。その形、初めは蚊刺のごとく、漸く紅斑を成し、周身錦文のごとく、微かに紅駁色を成し、而して没す。その没する時、或は白屑、而して散落す。その初めは咳を佳と為し、嚔を佳と為し、瀉を佳と為し、微衄を佳と為す。もし誤りて止泄止咳等の剤を用いれば、則ち邪気が閉塞し、而してその害浅からず。

 麻疹になると、様々な禁忌のため都市生活があらゆる所で止まり、不況がおとずれました。例えば、蕎麦や鰻を食べてはいけないので蕎麦屋や鰻屋、男女の交わりを行なってはいけないので遊郭、髪を剃ってはいけないので髪結床、風呂に入ってはいけないので銭湯など、様々な多くの商いが行えなくなったのです。そんな中で繁盛したのが薬屋と医者だけでした。*5

 麻疹は小児の時に感染し、その後回復すれば、もう二度と麻疹になる心配はありません。しかし「もし誤りて止泄止咳等の剤を用い」たり、適切に治療できなかったら命にかかわったです。江戸時代の乳幼児や小児の死亡率は非常に高く*6、「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」という言葉は正しかったと言えるでしょう。

 宣長は宝暦三年の麻疹流行を経て選択しました。小児を救い、人々の苦痛を取り除き、世を済うことと、商い産業を両立させることを。儒と医は一本であることを。宣長が医学勉学ノートに『折肱録』*7、医療帳簿に『済世録』*8と名付けたのにはこんな意味が隠されているのです。その後の宣長の生活と業績を見ていくと、小児科の医師となる事を選び、武川幸順に師事したことは間違ってはいませんでした。

 では宣長は具体的に麻疹をどのように治療していたのでしょうか。『済世録』には病名が記されていないため簡単には判りません。麻疹の流行中の処方記録を見ていくのはどうでしょう。宝暦の流行から二十三年後の安永五年(1776年)、宣長47歳の時に麻疹が流行しました。宣長は『安永五年丙申日記』にこう記しています。

四月
麻疹流行、此の地、二月下旬より始まり、三月下旬に至る。四月上旬の間尤も盛ん、四月下旬に至りて大抵止む。西国より始まりて、次第に東国に移行の趣なり。是の故に大阪は早く京都は少し後れ、此辺はまた少し後れ、江戸は又少し後れたり。凡そ天下諸国残す所なく、先に廿四年以前酉年の流行の後、今年また流行なり。

 この年の『済世録』が残されていれば、宣長の麻疹治療が詳しく判るのですが、残念ながら残されているものは安永七年から享和元年までです。その次の流行は宣長の亡くなった二年後、享和三年なのでやはり流行時の処方記録はありません。

 これを明らかにするには少し工夫が必要です。例えば参蘇飲や二陳湯に注目すると…。

つづく

(ムガク)

*1: 須藤由蔵『藤岡屋日記』
*2: Paul E. M. Fine. "Herd Immunity: History, Theory, Practice " Epidemiol Rev (1993) 15 (2): 265-302
*3:Mills CE, Robins JM, Lipsitch M (2004). "Transmissibility of 1918 pandemic influenza".
*4:Althaus, Christian L. (2014). "Estimating the Reproduction Number of Ebola Virus (EBOV) During the 2014 Outbreak in West Africa"
*5: 鈴木紀子『江戸の流行り病』
*6: 「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 004」,「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 012
*7: 『春秋左氏伝』定公十三年、「三たび肱を折りて良医為ることを知る」より
*8: 『荘子』雑篇、第二十三庚桑楚篇より

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学