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そもそも長さが違うものを3膳、という組み合わせなのが理解できなかった。
紐でつながれていることは憎むほど許せなかった。
さすがにイライラした果てに紐は切ったけど。
一本は先が割れている。
もう一本は欠けている。
つまり3膳のうち、まともなのは1膳のみ。
いったいこれでどうやって料理してたのか。
年明け娘と買い物に行った時に100円ショップで菜箸を手にとった。
これでいいかな。
いや。ちがうな。
フロアを横切ってキッチン用品売り場に来た。
少し高いけど好きなのをみつけた。
高いったって大したことない。
これがいい。
3膳、いや4膳。
もちろん紐はなし。
すっきりとしたデザイン、同じ長さ。
帰ってきて洗って、快適に使っている。
脳の片隅がほっとしている。
なぜ早くこうしなかったのか。
そうしてうっすらとずっと気に入らない切れない包丁のことを思う。
次は包丁。
それから大根おろし。
そういうところ、そこをやっていきたい。
私はその辺のところをうかつに甘く蔑ろにしていた。
小さなことは大きなことと地続きなんだ。
嫌いな菜箸を使い続けることは、もっと早く別れたらよかった人と長くつきあってしまったようなことに繋がっている。
(そしてそこにはZ型というかやりすぎようとするベクトルがあるからやらなくなるというひっかかりのような構造がある)
ということが今はわかるんだ。
素敵な古民家のレストランのお庭に面したカウンター席で、美味しいご馳走してもらった。
おめでとう、と心を込めて祝福してもらった。
節目や誕生日や記念日ももちろんだけど、あれは何祝いというよりも私を祝ってくれたんだと思う。
これまではずっと祝われることや褒められることが苦手だったんだけど、私に受け取る余裕がなく、私が形作る関係性に素直に甘えられる環境がなかったからなんだな、と今はわかる。
おめでとう、と言ってもらって。
ただうれしく、ありがとう、と言った。
お店のディスプレイで箸に目が止まった。
探していたわけではない、無くて困っていたわけでもない。
だから止まった目をひきはがしてそのまま先にゆこうとして。
また目を戻してちょっと待てよ、と思う。
値段は高くない。
品質も普通。
だけど悪くない。
なんだか好き。
なくて探してもなかなか見つからない「これでいい/これがいい」という感触。
今必要ではないもの、気になるもの、好ましいものを自分のために買い求める、ことをあえてしていこうと手にとった。
そうでないとなんというか、もうそういうものを見つけることもできなくなりそうな気がして。
そういう感じを与えられたのに無視していたら失われていく。
出会うというドアが開けられたのにその恵みを受け取らなかったら、もうドアは開かない、ドアに巡り会わない。
そんな気がして。
そうしたらその何日かあとにお茶碗をみつけた。
躊躇の時間はこの前より少なく、もう少しスムーズに買うことができた。