日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

七夕に

2018年07月07日 | 死について
みんなと出かけようとしたら下駄箱にあったのは母の靴だった。
母はもう歩けないので、代わりに私がはいている。
母がもう歩けないということが、少し悲しい。
でも歩けなくてもまだ一緒にいるのは嬉しいんだと思い直して、そうだ、母に会いに行こうと思って踵を返す。
早足に母の元に帰ると、彼女は私を待っている。
どうしてか私が来るのをわかっていて、喜びに踊るように両手を振り回している。

ああよかった。

会えたね。

ぎゅっと抱きしめる。

もう話せなくても流れ込む動画のように言いたいことが送られてくる。

そうなんだ。

うん、そうか。

会うことの、深い満足。



それが、今日の朝方のこと。

母が亡くなってから、初めて見た夢。

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もりながばし

2018年05月03日 | 死について
懐かしくうれしい

その人の気配の残り香をかぐ

別れの時いつも

あなたは手をふってくれた

その度に私もふりかえした

だから

今もふる

心の中で

大きく

出会ったことは失われることがない

私たちは今も出会いつづける

悲しみではなく祝福とともに




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おとうと

2017年10月04日 | 死について
出張で近くまで来ているんだとメールがあって、思いがけず九州に住む弟に会えた。

いつも入りたいと思っていたお店。
ソファや観葉植物が不規則に並び水槽にカエルが泳ぐ不思議に素敵なお店で、私たちは二時間くらいおしゃべりした。弟は少し仕事をしながらビールとおつまみ、私はコーヒーとデザート。

弟はすっかり大人なのに懐かしくかわいかった。

この気持ちは私のものでもあるけれど、私の記憶の中に残る母のものでもあるような。

いつも遠くにすむ末の弟に会いたがった母の気持ちの記憶、名残、残滓、こだま。

会えてよかった、と私が言う。

会えてよかった、と母が言う。



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死の瞑想

2017年09月13日 | 死について
死の瞑想っていうのがあるんですよ。

自分が死ぬ瞬間をリアルにイメージできるように、今あなたは病室のベッドに横たわっています、みたいな指示に従って想像し体感する。
死の教育(というのもあるんです)では棺桶まで用意するそうです。生まれ変わったような新鮮な気持ちになる人もいるんですって。

私はもう角を曲がったところに死はあると思ってます。だってついこの前のように思うことが何年も前だったりするんだから、逆から見たらそのくらいの計算です。ちょっと前の母のように、私は死の床にある(かもしれない)そしてちょっと前を懐かしく思い返している。その「ちょっと前」は、今かもしれない。病院の白いシーツの上ではっきりしない頭で、自由に動けた時を思い出しているかもしれない。
そんなこと思い返す余裕はないかな。
ベッドの上とも限らないしね。

死の瞑想、先日機会があったのでやってみました。わざわざやらなくてもと思ったけれど、やったらやったで発見がありました。
最後にすべてを手放す時に私がちょっとほっとしたことです。

できうる限りを尽くして、生き尽くして、最後は心おきなくお別れしたい。
おそらくみんな、元々いた場へ還っていくのだから。

今日も元気に、行ってきます!

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100日

2017年08月14日 | 死について
女友達と待ち合わせて私の実家へ。

母が好きだったからと持って来てくれた涼しげな色合いの花束とお菓子を仏壇に供える。
せっかくだから母のもの何かもらってと、二人で母の部屋で試着大会。
これよく着てたね、あの時羽織ってたとか言いながら。
その後近くでランチしてお茶して、お店を楽しくぶらぶら見て彼女と別れた。

思い出す母はだんだん生き生きと元気になる。
最初に声を次第に体の自由を無くしていった母が昔どんなだったかここ数年思い出せなくなっていたのに、死んでから母はどんどん若くなっていく。思い出すと懐かしい声が聞こえる気がする。

帰り道、通りすがりに見かけた素敵なテイッシュケースを、頭の中で母が私に買ってあげたいと言う。
元気だった頃にお土産にとよく買ってきてくれたフルーツタルトも、買ってあげたいわと言う。

ちょっと考えてせっかくの気持ちだから、母に買ってもらったつもりで両方買って帰った。

昔みたいに今日は女友達と母と三人で遊んでたみたいだった。

母の愛に包まれている気がして、とてもしあわせだった。


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