久しぶりのリアル無心研
人気のない境内に入ったら「ご法要ですか」と誰何された
(説明しにくいけど)
塔頭で集まりがあってとお返事
私は近いけど遠くからもいろんな人(曲者)たちが集まり
人の器量を広げる方法を模索する
学ぶことももちろんだけれども
蚊取り線香の煙さ
隣に座る人の靴下のかわいらしさ
ポットを洗って水気を切る時の重さ
そんなものをふくんだ
ふんわりとした大きな風船のような場が
じわじわと今朝も私を包んでいる

久しぶりのリアル無心研
人気のない境内に入ったら「ご法要ですか」と誰何された
(説明しにくいけど)
塔頭で集まりがあってとお返事
私は近いけど遠くからもいろんな人(曲者)たちが集まり
人の器量を広げる方法を模索する
学ぶことももちろんだけれども
蚊取り線香の煙さ
隣に座る人の靴下のかわいらしさ
ポットを洗って水気を切る時の重さ
そんなものをふくんだ
ふんわりとした大きな風船のような場が
じわじわと今朝も私を包んでいる
「思考は私ではないと知る」
を
私のうちから見る。
例えば。
それが欲しかったから手を伸ばしたのではなく、手を伸ばしたかったからそれが欲しく見えた、と知ることもできる。
そうしたら伸ばしたい気持ちをあやしながら、これはよしておくこれは伸ばすとタイミングを決められるかもしれない。
手が届かなくても取り乱さないかもしれない。
「私」というものが乗る流れをもう少しうまく捌けるかもしれない。
思考/言語は目立つ線だけが見える仕様になっている。
うねりながら流れるドライブの上に乗っているテキスト。
地図。
間違いというわけじゃなく、ほんの一部、補助線だということ。
思考以外を省くと見やすくわかりやすいけれど、あまりに多くを取り落とす。
肉を見ずに骨だけ見るような。
取り落とされるものは本体の全て。
余白。
身。
あるいは仏性。
レクティオ・ディビィナ
聖なる読書
それに値する書物は何でもいいわけではない
噛んで噛んで咀嚼して
心の糧になる血肉になるような書物
元々は聖書か聖人の書いたもの
(一冊選べ、と言われたら(正法)眼蔵かな)
坐禅もそう
自分という書物を読むことだと思っている
(無心研メモ/藤田一照師講義)
という質問に答えて。
「無心というのは尿路結石が溶けて
おしっこで流れて無くなったもの。」
「悟りはふたつ。
尿路結石は自分で作ってると気がつくこと。
もう石ができなくなること。」
(……師!!)