日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

無心はともかく

2022年08月24日 | 無心

久しぶりのリアル無心研


人気のない境内に入ったら「ご法要ですか」と誰何された


(説明しにくいけど)

塔頭で集まりがあってとお返事


私は近いけど遠くからもいろんな人(曲者)たちが集まり

人の器量を広げる方法を模索する


学ぶことももちろんだけれども


蚊取り線香の煙さ


隣に座る人の靴下のかわいらしさ


ポットを洗って水気を切る時の重さ


そんなものをふくんだ

ふんわりとした大きな風船のような場が


じわじわと今朝も私を包んでいる






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思考は私ではないと知る

2022年02月23日 | 無心

「思考は私ではないと知る」



私のうちから見る。


例えば。


それが欲しかったから手を伸ばしたのではなく、手を伸ばしたかったからそれが欲しく見えた、と知ることもできる。


そうしたら伸ばしたい気持ちをあやしながら、これはよしておくこれは伸ばすとタイミングを決められるかもしれない。

手が届かなくても取り乱さないかもしれない。


「私」というものが乗る流れをもう少しうまく捌けるかもしれない。


思考/言語は目立つ線だけが見える仕様になっている。


うねりながら流れるドライブの上に乗っているテキスト。


地図。


間違いというわけじゃなく、ほんの一部、補助線だということ。


思考以外を省くと見やすくわかりやすいけれど、あまりに多くを取り落とす。

肉を見ずに骨だけ見るような。


取り落とされるものは本体の全て。


余白。


身。


あるいは仏性。









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Lectio Divina

2022年02月01日 | 無心

レクティオ・ディビィナ


聖なる読書


それに値する書物は何でもいいわけではない


噛んで噛んで咀嚼して

心の糧になる血肉になるような書物


元々は聖書か聖人の書いたもの


(一冊選べ、と言われたら(正法)眼蔵かな)


坐禅もそう


自分という書物を読むことだと思っている


(無心研メモ/藤田一照師講義)






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第一章 「無心のケア」という問題提起 西平直

2021年09月28日 | 無心

 仕事へと向かう湘南新宿ラインの中でなんとかアワノさんに連絡してから、そのまま参考資料を読み始めた。

 それは電車に揺れる私の胸をふるふると震わせた。

 最初の数行からぶんぶん首がうなづく言葉ばかりだった。この数年自分が生きることから学んだことが丁寧にまとめられていた。

(無駄な装飾のない洗いざらしのことば)

 苦難に打ちのめされた時のこと、苦しみの中にある人を「助ける」のではなく、共にあること。
その中ある恵み、砕かれたからこそ現れることのできるもの。
主体性つまり命の本来の流れ。
出会うことによって立ち現れるもの。
謙虚でしかいられないその場所、祈りの場所。

純粋文節。

(ここにいる人たちは誰もみんな苦しみを知っている)

 胸がふるふるした後はお腹がぐるぐるした。
思考だけではなく感情だけでもなく、全存在が感動して満たされているんだけれど、それに名前をつけるなら感謝が近いかもしれない。

 わかってもらえて。
 わかっている人がいて。
 そのようにある人がいて。

 私が見ていた風景の中にその人はすでにいて、過去の苦しみ(クライシス)にまでそのメッセージは届き、解放されていくようだった。

 特に「寄り添うということ」については、学校に行かないこどもたちを育てるコミュニティでホームエデュケーションについて話す内容(とてもわかりにくい「アクロバティック」なことが必要とされる現場)ととても関連が深かった。

 不思議なんだけれども、書かれてあることを理解するという形ではなく、書かれてある眼差しでこちらが理解され許されるようだった。

 「たまたま足を踏み入れた公園に感じの良い池があって、水辺に近づいた。何も難しいこともなく親しみやすいその水になんとなく目をやったら、きらきら光る水面と清廉な流れ、ひたひたと胸を全存在を満たす水だった。」

 西平先生、ありがとう。





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「無心と悟りの関係は?」

2021年07月30日 | 無心

という質問に答えて。


「無心というのは尿路結石が溶けて

おしっこで流れて無くなったもの。」


「悟りはふたつ。


尿路結石は自分で作ってると気がつくこと。


もう石ができなくなること。」



(……師!!)






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