苦しんで足掻いている人や落ち込んで沈んでいる人にどうしてあげればいいんだろうといつも思う。
最近思うのは、そのままのその人でいさせてあげることが必要な場合もあるかもしれないということ。
その人が苦しみをぎゅっと抱きしめている時にその指をこじ開けることがいいことなのかわからない。
その苦しみはその人の人生の大きなピースかもしれない。
決めつけずにどちらも視野に入れて、できることをする。
すぐそばで人の暖かさをふんわり毛布のように広げて。
必要そうな時には忘れてないよ、大丈夫?と声をかけて。
調子のよい時は普通に話しかけて。
ここにいるからね、と
明るい水面で待っていてあげる。
明るい水面に、なる。
最近思うのは、そのままのその人でいさせてあげることが必要な場合もあるかもしれないということ。
その人が苦しみをぎゅっと抱きしめている時にその指をこじ開けることがいいことなのかわからない。
その苦しみはその人の人生の大きなピースかもしれない。
決めつけずにどちらも視野に入れて、できることをする。
すぐそばで人の暖かさをふんわり毛布のように広げて。
必要そうな時には忘れてないよ、大丈夫?と声をかけて。
調子のよい時は普通に話しかけて。
ここにいるからね、と
明るい水面で待っていてあげる。
明るい水面に、なる。
腑分けし続ける、
そしてひとつひとつをきちんと受け入れる、
それをし続けることしかないんだと思うんだ。
その人が痛みや苦しみを抱えていて、
それを見て傍にいる自分がいて。
一緒に痛みや苦しみを感じてしまったり、
どうにかしたいと思ったり。
自分の痛みや苦しみをその人になんとかしてほしいと思ったり。
そう感じてしまうのは、その相手は自分にとって「大切」な人だからなんだね。
だからって、生き物として別だからどうもできないことが多いけど。
そんな風に揺れた自分の心を、まず抱きしめるといいんだね。
その苦しみも痛みも。
そばにいるしかできないね。
「痛みや故障まで含めてそれはその人のもの。ホントは本人以外が取っちゃいけないんだよね。」
「自分で痛みを取ることが出来る。その方法(すんごい詳細なんだよ?)を知らせていきたいんだよね。」
ああ、これが基本姿勢なんだろうなあ、と思った。
その痛みは、その人のもので、その人が自分の成長のために起きてるもので。本当は忌み嫌うものではないんだよ、って。
そして、ちゃんと「見守る」のは、すごい力業だよね、いつだって。