なんだったっけ、網のつなぎ目に宝石がキラキラしてる、ってやつ。反射する光が次々とまた反射して。あれには名前があったはず。(華厳経の何か。インドラの網、帝網か)
目立つのはドンフンとジアンだけど、目をこらせば二人だけの物語じゃないのがわかる。絡め取られ身動きが取れないドンフンが象徴するあらゆる意味で豊かな人の網、それは孤立無援の少女が「持たない」コミュニティだ。
その網はまた文化という意味の体系を帯びている。母の切なる願いは子のしあわせを祈るけれど、その重みはほとんど呪いではないか。あるいは「葬式が賑やかなことがしあわせ」という測り方のばかばかしさと切なさ。オフィスに付随する全てのホモソーシャルっぷりはどうだ。妬みと欲と酒の席。ビジネスと全く関係ないところでの、余所者の入る隙のない密な人間関係。どこかでうっかり生真面目さを残してしまったドンフンが、苦しくなるのも無理はない。
人とのつながりは、なくても苦しい、あっても苦しい。なんて人の世に生きるのは難しい。苦しみの元でしかないものが、それでも人を助け生かすものでもある。
フゲの冴えない大人たちにジアンが包まれ救われていったように、ドンフンの妻が夫に恋する娘を当たり前のように助けたように。不幸であっても大人がきちんとその役割を果たしていく、傷ついたこどもたちを守っていく、私たちはそんな社会に、大人になれているだろうか。
その網の中にありながらそれぞれが自分の光りを見つけること、それを手放さず放つこと。そこにいることがいいものになる、そんな網を自ら作ること。その網になること。
私は今いる場所の恵みになれるだろうか。あるいはせめて絡めとるよりは繋ぐもの、穴を塞ぐものであれるだろうか。
自分でもあるこの網の、この日常の中で。
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