(6)ひぶな幼稚園創設にあたって
★生みの苦しみ(その1)園地の確保
子育てが終わって、いよいよ念願の幼稚園創設の時が来ました。
市内の空き地に園地を求めて捜し歩き、漸く現在地をその最適と考え、夫と二人で地主さんをたずねますと、この土地はもともと私有地で昭和前期の不況時代に、失業対策の一環として、今の新道、当時は小高い丘陵であったから、新しい道を作りながら、その土を運んでここに埋め立てをしたものということです。
柏木小学校前の道住を建てる時に、この土地を交換させられて、「ここ数年中に整地してくれる約束になっているので、それまでは手放すつもりはない」と言われたのです。
整地されてからではもう遅い、いつのことになるか分からない、それに値上がりは目に見えている。
何としても今、お願いするより他に道はないと考えた私は、いやでも拝み通そうと決意したのです。
夫の同伴はもう許されません。
男が一旦断られたものをまたと二の足は出ないだろうし、当時の旭小学校は児童1900を超す大世帯、教頭の苦労は並々でないことを承知していましたから、ここは自分が頑張るしかないと勇気をふるって再三再四、一人でお願いに上がりました。
所が地主さんは、当時開発にお勤めで、地方の土地測量の現場監督の立場から不在がち、奥様にお願いして帰るより他にありませんでした。
要を得ず、空振りするのもまたむなしい物、幾たび立ち止まったことか、けれども私は諦めることが出来ませんでした。
普段の私ならもうとうに諦めていたでしょうが、この時はその裏のもう一人の居て、そうさせなかったのだと思います。
毎度。日曜日には性懲りもなく執拗に通ったものです。
この地に魅せられた理由は、おおよそ3つありました。
一つ目は
目の前に春採湖があることです。
これは貴重な市の財産であると同時に、市民の宝でもあります。
街の中央でもなく、といって端でもない、こんな静かな所に湖があることは希ってもないことです。
誰が付けたのでしょう、春を採る湖なんて、夢を誘う素敵な名前、そしてそこには「ひぶな」がいて・・・・
二つ目は
柏木小学校の広々としたグラウンドが隣にあることです。
周辺の葦原は小鳥の宝庫、この広い空間は誰の迷惑にもなりません。
三つ目は
右に竹老園、左に春採公園があることです。
春は桜、秋はなまかまどど赤い実と、子どもの夢を結ぶどんぐりがあります。
この素晴らしい自然環境は、人間の手の及ばないところ、ましてや私如き無一物ぬいは、神の御助けを頂く他に道はないです。
幼児教育には、自由な自然の空間が欲しいと、こいがう一心で拝みつづけました。
漸く奥様のお口添え頂いて「あとで文句を言っても知りませんぞ。あなたの執念にはまいりましたなぁ」とおっしゃって、最初の200坪の分筆が許されたのです。
「どうやら地主さんは、「こんな湿地帯に家が建つだろうか 子どもは集まるのだろうか」と心配されての事でしたが、当の私自身は少しも心配しませんでした。
土地と言うのは、そこに住む人よって創られていくものだからです。
私には作る楽しみが有りました。
1年余りの永い永い交渉でした。
辛いつらい難産の末、やっと産声を上げることが出来たのです。
すべての手続きを終えて、竹老園の高台にのぼり、夫と共に漸く手にした我が土地を眺めた時の感動は・・・・・
明日への希望にあふれたこの日、私は、私の全てをこれにかけたのです。
忘れもしません。
昭和33年、12月30日のことでした。