みんなの幼稚園

ひぶな幼稚園での子どもたちの様子
モンテッソーリ教育について紹介いたします。

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(6)ひぶな幼稚園創設にあたって (1)

2019年11月22日 | キミヱ先生

(6)ひぶな幼稚園創設にあたって

 

★生みの苦しみ(その1)園地の確保

 

子育てが終わって、いよいよ念願の幼稚園創設の時が来ました。

市内の空き地に園地を求めて捜し歩き、漸く現在地をその最適と考え、夫と二人で地主さんをたずねますと、この土地はもともと私有地で昭和前期の不況時代に、失業対策の一環として、今の新道、当時は小高い丘陵であったから、新しい道を作りながら、その土を運んでここに埋め立てをしたものということです。

 

柏木小学校前の道住を建てる時に、この土地を交換させられて、「ここ数年中に整地してくれる約束になっているので、それまでは手放すつもりはない」と言われたのです。

整地されてからではもう遅い、いつのことになるか分からない、それに値上がりは目に見えている。

何としても今、お願いするより他に道はないと考えた私は、いやでも拝み通そうと決意したのです。

 

夫の同伴はもう許されません。

男が一旦断られたものをまたと二の足は出ないだろうし、当時の旭小学校は児童1900を超す大世帯、教頭の苦労は並々でないことを承知していましたから、ここは自分が頑張るしかないと勇気をふるって再三再四、一人でお願いに上がりました。

所が地主さんは、当時開発にお勤めで、地方の土地測量の現場監督の立場から不在がち、奥様にお願いして帰るより他にありませんでした。

 

要を得ず、空振りするのもまたむなしい物、幾たび立ち止まったことか、けれども私は諦めることが出来ませんでした。

普段の私ならもうとうに諦めていたでしょうが、この時はその裏のもう一人の居て、そうさせなかったのだと思います。

毎度。日曜日には性懲りもなく執拗に通ったものです。

 

この地に魅せられた理由は、おおよそ3つありました。

 

一つ目は

目の前に春採湖があることです。

これは貴重な市の財産であると同時に、市民の宝でもあります。

街の中央でもなく、といって端でもない、こんな静かな所に湖があることは希ってもないことです。

誰が付けたのでしょう、春を採る湖なんて、夢を誘う素敵な名前、そしてそこには「ひぶな」がいて・・・・

 

二つ目は

柏木小学校の広々としたグラウンドが隣にあることです。

周辺の葦原は小鳥の宝庫、この広い空間は誰の迷惑にもなりません。

 

三つ目は

右に竹老園、左に春採公園があることです。

春は桜、秋はなまかまどど赤い実と、子どもの夢を結ぶどんぐりがあります。

この素晴らしい自然環境は、人間の手の及ばないところ、ましてや私如き無一物ぬいは、神の御助けを頂く他に道はないです。

 

幼児教育には、自由な自然の空間が欲しいと、こいがう一心で拝みつづけました。

漸く奥様のお口添え頂いて「あとで文句を言っても知りませんぞ。あなたの執念にはまいりましたなぁ」とおっしゃって、最初の200坪の分筆が許されたのです。

 

「どうやら地主さんは、「こんな湿地帯に家が建つだろうか 子どもは集まるのだろうか」と心配されての事でしたが、当の私自身は少しも心配しませんでした。

 

土地と言うのは、そこに住む人よって創られていくものだからです。

私には作る楽しみが有りました。

1年余りの永い永い交渉でした。

辛いつらい難産の末、やっと産声を上げることが出来たのです。

 

すべての手続きを終えて、竹老園の高台にのぼり、夫と共に漸く手にした我が土地を眺めた時の感動は・・・・・

 

明日への希望にあふれたこの日、私は、私の全てをこれにかけたのです。

忘れもしません。

昭和33年、12月30日のことでした。

 

 

 

 

 

 

 


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