(7)第二の青春②
私の両親は鹿児島人で、NHKドラマ「翔ぶが如く」に出てくる西郷家の様に典型的な薩摩隼人で、母か優しく忍耐強く、信仰心の厚い人で、何事も善意に解釈する人でした。
父は人情家で正義感にあふれ、勇猛果敢な人でしたか、北の大地に夢見て明治33年渡道したのです。
当時は交通の便も悪く、小舟で70日を要して着いた処が厚岸港だったそうです。
私はそんな両親の血を受け継いだのでしょうか、あまり苦労を苦にしませんでした。
むしろそれを乗り越える意気込みが強かったのかもしれません。
先生方も良く働いてくれました。
幼稚園は初めてと言う方ばかりでしたが、お互いに夢中で頑張り通しました。
この頃長男は大学、次男は高校、次は中学、末っ子は小学4年生でしたからもう一人前、私の両手両足になってよく働いてくれました。
昭和35年、誰もが安保改定に反対した年、岸内閣は強引に国会を通過させたのです。
社会党は浅沼稲次郎を委員長に闘争が繰り広げられ、そして人気政治家「ヌマ」さんが10月に刺殺されたのです。
第29回総選挙に備えた三党首の立会演説会の出来事でした。
強引な岸内閣は遂に総辞職、次に登場したのが池田内閣、騒然と混乱の中で、小学校内の雰囲気も複雑、疲れて帰宅した夫は、こんなことを言いました。
「母さんを見ていると実に楽しそうだなぁ 生き生きしていて水を得た魚の様だ」と、ほめたり羨ましんだりしたものです。
私は当時43歳、やりたいと思う仕事の念願が叶えられ、その喜びは疲れなど忘れさせてくれました。
私は二度目の青春を迎えて、55名の子ども達と途中(9月)からの出発でしたが、1年間のスケジュールを全部こなすことが出来ました。
そして、一回目の卒園生、23名を小学校に送る事が出来ました。
翌年から入園児は地域の方々の幼児教育に対する関心が深まり、ご理解とご支援のもとに順調に伸び、38年には2学級の増築となりました。
この頃第二次池田内閣が成立。
安保が済んで国民はともかくホッとしました。
テレビが1000万台を突破したのに対し、ラジオは1000万台を割る後退振り、豊かになるかもしれないという期待感が生まれた一方、所得倍増をスローガンの産業界は、国際競争力を増すために石炭から石油にエネルギーの転換を行い、三池労組の闘争が始めりました。
昭和38年には鶴見の電車転覆事故、三池の炭塵爆発と大事故の続いた晩秋、ケネディ大統領の暗殺の報道が世界を驚かせ、また遠い世界はテレビによって近い物になりました。
昭和39年は第18回オリンピック東京大会で明け暮れた1年、国鉄新幹線が走り、高速自動車道開通し、日本の外装は生まれ変わりました。
昭和40年秋、近代日本の様子や子ども達を視察見学のため、開園5周年記念行事の一環として職員一同上京し、5日間の研修を収めることが出来ました。
昭和43年春には、次男の大学卒業と共に、自らの希望で幼稚園勤務となり更に1学級増設し、5学級編成の認可を得るまでに成長発展することが出来ました。
この頃、テレビ視聴のあり方が問題視され、学校放送研究会などが発足し、視聴覚教育研究会が生まれ、本園でも全道大会の公開保育を行ったり、札幌、旭川へと研究発表に出かけたりしたものです。
園庭に植える「おんこの木」を運ぶ