みんなの幼稚園

ひぶな幼稚園での子どもたちの様子
モンテッソーリ教育について紹介いたします。

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(1) 青春時代

2019年11月15日 | キミヱ先生

今年はひぶな幼稚園が生まれて60年になります。

 


改めて30周年記念誌に目を通してみると、後ろの方に 初代園長 故 鈴木キミヱ先生の

 『子ども達に生かされた私の三つの青春』 

と綴られたページがあり、ひぶな幼稚園の誕生の歴史、時代は違えど親として参考になることもあると思い、何回かに分けて紹介していきたいと思います。

 

 

『子ども達に生かされた私の三つの青春』 初代園長 故 鈴木キミエ

ひぶな幼稚園創立30周年記念を迎えて今、私の人生をかえりみる時、そこには何時も沢山のいろいろな子ども達が居てくれたことです。

私は、この子ども達に助けられ今日まで生かされて来たことを思うと、大変ありがたく幸せ者に思います。

 

⑴青春時代

私は、女学校を卒業すると直ぐに待望の小学校教諭として働きました。昭和10年の春です。

不況とインフレ、失業の時代の続く中で、当時鉄道員と学校の先生は一番給料が良いとされていた時でした。

事実私は3つ年上の兄よりも額が多いので、兄にすまないと思ったものです。

 

持てる者と持たざる者、貧富の格差が大きく開いて、欠食児童という名前も生まれました。

就任の翌日、欠席した子どもの家を訪ねると、入口の板戸はこわれて半開き、さげたムシロをくぐって中に入ると畳の代わりにムシロが敷かれ、小さなみかん箱を前にして隅のところに弟と二人して震えているではありませんか・・・・・・・・

父親は仕事を探しに出かけたそうで留守、母親はこの「みかん箱に入っている」というのです。

 

子どもの指差す「みかん箱」を覗くと、小さな位牌とお水が入っていました。私は思わぬことにびっくりしました。

おそらく此の母親は食もなく、ろくに薬も与えられないまま、この可愛い二人の子どもを残してどんな想いで死んで行かれたことかと胸がつまりました。

私は二人の姉弟をヒザに上げ、両腕でしっかり抱きしめ思い切り泣きました。

「もう大丈夫、先生がいるよと。」

 

学校出たての新米教師ではありましたが、何とかこの子ども達を助けなければと、全身の血が躍動したのです。

そこで私は、給料の半分を苦労した母に、残りの半分は自分の最低必要な分を除き、あとは子ども達の靴下、パンツ、シャツ、モモ引き、石鹸、ちり紙他、学用品を買い求め、他人に気づかれないように順番にカバンの中に入れてやりました。

物の豊富な今日では、とてもとても考えられない事ですが貧困家庭には石鹸など高価なもので、易々と使える品ではありませんでしたから、頭には黒い、体には白いシラミ横行していたものです。

 

昭和の前半史(1936年)山場の年、二・二六事件を境に、反乱軍は鎮圧されましたが、軍のそのものはこれに依って、行動を束縛するものすべて振り捨て、軍国主義日本から軍事国日本へと切り替わり、軍需工業が好転して景気は上昇して行きましたが、不穏の続く真っ只中で受持つ65人の生徒一人ひとりを守るのに精いっぱい、使命に燃えた青春時代でありました。

 

次回は(2)「幼児教育をおしえてくれたもの」です。

 

 

(写真) 昭和13年 11.3 「明るさを取り戻した子ども達」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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