(4)敗戦後の生活
敗戦後の辛さ惨さは、心にも体にも泌みたものです。
誰もかれもが食うのが精いっぱい。
もっともお金が有れば闇市で、あるはずのない物がいくらでも買えるという奇妙な現象、止まることを知らないインフレは、「新円切り換え」で冷却かと思えばさにあらず。
「物価とは、上りがあっても下がりがない」時代の始まりでした。
飢える都会と農村をつなぐのは、買い出し列車。
ところが農家はあの手この手で供出をのがれ、闇米を売りまくり、高価な着物や新円を貯め込み、一方学校の教師の給料は逆転し、給料は止まり、物価は日に日に上昇し、買い出しに行くにも行けず、飢えに苦しむばかりでした。
戦後の復興は燃料から ということで、炭鉱は好景気で現物支給が有りました。
この頃、太平洋炭鉱のおひざ元、夫は湖畔小学校勤務でした。
あまりの惨さに、校長と鉱長との話し合いで入坑を許可してもらい、日曜祭日は炭鉱内に入って石炭を積み、校長も教頭も集団で入坑した物です。
そしてその代償は一合の醤油、一袋のカンパン、一個の石鹸、時には長靴が配給されることもあり、とてもとても考えられない不思議な現象でした。
また、夏はイカ釣り船に乗せてもらってアルバイト。
その代償も現物のイカでした。
けれどもこのわずかな物品が、物の無い時代にどれ程助かったことか。
一袋のカンパンに、親も子も救われたのです。
しかし、休日の無い夫の体が心配でした。
一匹の小さなスケソウ鱈の配給に長蛇の列をなし、延々二時間を要してやっと手に入るという物のない時代、私は昼は畑を耕し、イモやカボチャの生産に、夜はミシンを踏んで、衣服の調達に懸命に働きました。
一方、戦後の学童は増えるばかり、一クラス70人は普通でしたから、この時代の学校の先生は一番大変な時でした。
教員不足で、代用教員が採用された時代でもありました。
受持つ生徒の数は多く、その上慣れないアルバイト、栄養失調と疲労とで夫はとうとう倒れました。
6ヵ月間の休職、洞爺のサナトリュウム行きとなりました。
同じころ、小学校2年生の長男も小児結核で療養しなければならなくなり、私は二人の回復に全力で努めました。
最低生活獲得全国教員組合大会か開かれ、続いて国家公務員、地方公務員「全官庁労組共同斗争委員会」が結成、越年資金などの共同要求を政府に提出、260万人が結集するまでになりましたが、政府は真っ向から拒否、スト中の賃金カットなど強い警告で応じたのです。
対決ムードが高鳴る中で、吉田首相は元旦のラジオで、労働運動を真っ向から非難、指導者を「不逞の輩」とののしりました。
強烈な反撃パンチでした。
「吉田退陣」が論じられゼネスト態勢に入ったが、マッカーサーは「中止命令」を出しました。
次回は(5)子育て時代
写真 昭和25年「すべてを語る母子の後姿」(益浦~桂恋まで)