みんなの幼稚園

ひぶな幼稚園での子どもたちの様子
モンテッソーリ教育について紹介いたします。

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(4)敗戦後の生活

2019年11月22日 | キミヱ先生

(4)敗戦後の生活

 

敗戦後の辛さ惨さは、心にも体にも泌みたものです。

誰もかれもが食うのが精いっぱい。

もっともお金が有れば闇市で、あるはずのない物がいくらでも買えるという奇妙な現象、止まることを知らないインフレは、「新円切り換え」で冷却かと思えばさにあらず。

「物価とは、上りがあっても下がりがない」時代の始まりでした。

 

飢える都会と農村をつなぐのは、買い出し列車。

ところが農家はあの手この手で供出をのがれ、闇米を売りまくり、高価な着物や新円を貯め込み、一方学校の教師の給料は逆転し、給料は止まり、物価は日に日に上昇し、買い出しに行くにも行けず、飢えに苦しむばかりでした。

 

戦後の復興は燃料から ということで、炭鉱は好景気で現物支給が有りました。

この頃、太平洋炭鉱のおひざ元、夫は湖畔小学校勤務でした。

あまりの惨さに、校長と鉱長との話し合いで入坑を許可してもらい、日曜祭日は炭鉱内に入って石炭を積み、校長も教頭も集団で入坑した物です。

そしてその代償は一合の醤油、一袋のカンパン、一個の石鹸、時には長靴が配給されることもあり、とてもとても考えられない不思議な現象でした。

 

また、夏はイカ釣り船に乗せてもらってアルバイト。

その代償も現物のイカでした。

けれどもこのわずかな物品が、物の無い時代にどれ程助かったことか。

一袋のカンパンに、親も子も救われたのです。

しかし、休日の無い夫の体が心配でした。

 

一匹の小さなスケソウ鱈の配給に長蛇の列をなし、延々二時間を要してやっと手に入るという物のない時代、私は昼は畑を耕し、イモやカボチャの生産に、夜はミシンを踏んで、衣服の調達に懸命に働きました。

 

一方、戦後の学童は増えるばかり、一クラス70人は普通でしたから、この時代の学校の先生は一番大変な時でした。

教員不足で、代用教員が採用された時代でもありました。

受持つ生徒の数は多く、その上慣れないアルバイト、栄養失調と疲労とで夫はとうとう倒れました。

6ヵ月間の休職、洞爺のサナトリュウム行きとなりました。

同じころ、小学校2年生の長男も小児結核で療養しなければならなくなり、私は二人の回復に全力で努めました。

 

最低生活獲得全国教員組合大会か開かれ、続いて国家公務員、地方公務員「全官庁労組共同斗争委員会」が結成、越年資金などの共同要求を政府に提出、260万人が結集するまでになりましたが、政府は真っ向から拒否、スト中の賃金カットなど強い警告で応じたのです。

対決ムードが高鳴る中で、吉田首相は元旦のラジオで、労働運動を真っ向から非難、指導者を「不逞の輩」とののしりました。

強烈な反撃パンチでした。

「吉田退陣」が論じられゼネスト態勢に入ったが、マッカーサーは「中止命令」を出しました。

 

 

次回は(5)子育て時代

 

写真 昭和25年「すべてを語る母子の後姿」(益浦~桂恋まで)

 

 

 

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。