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般若心経の解説30、"無罣礙故"

2016-05-12 13:58:15 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀30


🌸🌸「無罣礙故(むけいげこ)」🌸🌸


「罣礙(けいげ)無きが故(ゆえ)に」

この4文字は、次の「無有恐怖(むうくふ)」(恐怖有ること無し)にかかります。
😄
心にこだわりがないから、恐れるものはない、というわけです。

ここでは「無罣礙☁️」ということについて、
別の観点から考えてみることにしましょう。

ふたたび、坂村真民さんの詩を引用することにします。

「サラリ」と題する詩🌸です。

サラリと

流してゆかん

川の如く

サラリと

忘れてゆかん

風の如くに

サラリと

生きてゆかん

雲の如くに


皆さま、どうぞ口🎵に出して、この詩を吟じてみてください。🎵🎵

今日はあった、いやなことや辛いこと、少しは癒されましたでしょうか。😄☀️

よかれと思って心を運んだことが、時として相手に理解してもらえないことがままあります。😵

会社などで、わがままな後輩に対して、よくなってほしい一念から、注意をしたり、

お小言を呈したときに、むくれられたり、反発されたりした方もおありでしょう。☁️

人のお世話をして、よくいって当たり前、

悪くいって、かえって憎まれたりしたお方も。😊

あるいは、理不尽な意地悪やいわれのない妬み、そねみもつらく、そしていやなものです。😵

さらに、

長いあいだ親しんできた友人との仲たがいや、愛する人との別れもつらいものです。😊

とくに恋する人との心変わりは、

つらさにとどまらず、憎しみにまで増幅されることがあります。😵

そのようなときは、

一日☀️もはやく忘れることが肝要🍀です。

別れは新たな出会いの始まりともいいますから。🌸

私は、いらなことややつらいことをがあったとき、

「むけいげ☁️、むけいげ☁️」

と心💓につぶやくことにしています。😄☀️


(「あなただけの般若心経」より)

東日本震災復興の現状4

2016-05-12 13:54:55 | 日記
🌊東日本震災復興🌸の現状4


実は、災害の翌日に、ある夢を見たんですよ。

その日は、父の家に移って、
岩手県まで食料の買い出しに行っていたので、疲れて、夜早く寝ました。

ところが、

夢を見て、夜中に目が覚めたんですね。

ちょうど震災の2年前に、

ある方に言われた言葉があって、

それまで、ずっと忘れていたんですけど、その言葉が夢に出てきたんです。

「震災があると停電が長く続く。

でも町に明かりを灯さないと、

人の心にも明かりが灯らない。

Kくん、あんた電気工事屋だろう。

何かあったら、君の出番だからね」

胸にしみる言葉ですね。

その声が聞こえてきたときに、こんなことをしていられないと思って、

まだ暗いうちに知り合いの自転車屋さんをたたき起こして、
「自転車1台よこせ」と(笑)。

それで町中を駆け回ったら、とにかく送電線が倒れている。

その後、市役所の災害対策本部に行って、

「大型発電機を全部を抑えて欲しい。

それと全国ネットのリース屋さんに掛け合って、

とにかく発電機を集められるだけ集めて、

まず、病院や火葬場などに貸し出すように。

そうしたら後は、電気工事組合で何とか配線するから」

と伝えました。

うちの社員も数名出てきてくれたので、
いろんな所へ行って最低限の電気を生かしていったんですね。

毎日、食べ物もろくに食べられない、家族の安否もわからない。

そういう中で社員は仕事をしていますから、ほとほと疲れているわけですよ。

ところが、ある日私が家に帰ってきたら、
駐車場から社員の笑い声が聞こえてきました。

どうしたんだろうと思っていたら、社員がこう言うんですよ。

「今日、病院に行って、電気を生かしてきました。

そうしたら、入院しているおじいちゃん、おばあちゃんが手を合わせて、

『あんたたちは、神様みてえな人たちだ』

て言ったんです」

と。

社員が自分たちの仕事に誇りと使命感を持って出て、
獅子奮迅の働きをしてくれていると思うと、

こみ上げてくるものがありましたね。

感動的なお話です。


K社長のようにライフラインに関わる会社だったら、震災直後から役に立つんでしょうけど、

我々にはそういう実感は当初は持てませんでした。

酒蔵に保管していた1万本もの一升瓶は1本も倒れずに残ったんですね。

しかし、その時には、もうだめだと思いました。

うちは取引先の8割が、気仙沼市内なんですが、その多くが被災しているし、避難所で酒の出番なんかない。

そういう中で、どうやってこの在庫を処理していくのかと。

ところが、先ほどお話ししたようにいろんな方の応援や支えがあって、酒造りを再開した。

それをメディアが報道してくれまして、何が起きたかと言うと、

4月1日に電気が回復したら、

電話は鳴りっぱなしだし、
メールは1日500通以上くるんですよ。

それはすごいですね。

例えば、鹿児島の方からは、

「うちの80歳を超える父はお宅のお酒が大好きで、震災前から毎日欠かさず飲んでいました。

でも震災に遭ってお宅のお酒が飲めなくなるんじゃないかと気落ちして、元気がなくなってしまいました。

報道を見て、蔵が無事でこれからも飲み続けられると分かった瞬間、

父がものすごく笑顔になりました。

これからも、ぜひ買い続けます」

と。

こういう手紙を、全国各地の方からいただきました。

実は、われわれは、これまでお客様の顔が見えていなかったんです。

卸屋さんに売ったら、それで終わりだった。

ところが、震災を機に、お客様との繋がりが見えるようになったんですね。

石垣島の方なんかは、うちの二千円のお酒を買うのに四千円の送料を払っているんですよ。

電話で確認して、

「本当にいいんですか」

と聞いたら、

「いや、それでいいんだ!」

と。

ですから、我われは様々な思いで飲まれているお客様に対して

改めて真摯に向き会わなければならないと感じました。

それと、やはり会社がこの地に存在して、先祖代々地域と繋がってきたことに、

感謝の思いが湧き上がってきましたね。


これはもう、先祖の徳ですよね。

私も、父親は本当にいい商売を始めてくれたなと思います。

震災のおかげで商売の醍醐味を改めて実感させていただきました。

あとは、やっぱり社員への感謝ですね。

24日に事業を再開するにあたり、その時は、まだ先が見えない状況でしたので、

私は社員一人ひとりと面談してこのまま残るか否か、意思を確認していきました。

辞めて失業保険をもらったほうが当面の生活には困らないということもありましたからね。

ところが、全員が残ると言ってくれたんです。

パートの女性なんかは

「いてもいいんですか」

って泣いて、喜んでいました。

で、これはK社長のところもそうだと思うんですけど、

ある社員は、家も流されて家族も亡くなっているし、
家は残ったけど家族が亡くなったとか、その逆もある。

あるいは、全く犠牲がなかった社員もいるわけです。

一人ひとり置かれている境遇が異なるんですよね。

そういう中で、社員のベクトルを一致させるには、一つの共通の目標に向かっていく以外にはないと思いました。

だから、

「仕事だけは残ったんだから、
目の前にある仕事を一所懸命やろう」

と。

その上で、私は社員に三つのことを言いました。

一つは、
「朝令暮改を許してくれ」。

刻々と状況が変わる中で、変化には柔軟に対応しなければいけない。

だから、言っていることが急に変わる時もあるよと。

それに関連して、支持を待ってはダメだと。

自分からどんどん情報を取りに行きなさいという話をしました。

二つ目は
「ゼロベースで考えよう」。

これだけの被害に遭ったら売り先も変わるし、売る物も変わる可能性がある。

それには前例とこ過去の成功体験に囚われていると対応できなくなってしまうと。

三つ目は、
都合がいいかもしれませんが、
「皆でやってくれ」。

いままではワンマン経営的なところがあったけど、こういう時こそ皆でやっていこう。

皆が主役だと。

じっさ、仕事のない営業の人たちも、自分たちで考えて、手作業で瓶詰めをしたり、ラベルを張ったりしてくれました。

先ほどお話ししたメディアの反響に加えて、

四月中旬頃から被災地の物を買って応援しようということで物産展が始まりましたよね。

気仙沼は製造業が破壊的な打撃を受けていて、
当時気仙沼の物産として出せるものがとても少ない状況でした。

それならうちが気仙沼を発信する役割を担おう、
気仙の元気を発信する役割を担おうと思い、

採算など考えずに、無理をしても出荷を続けたんです。

そうしたら、七月に銘柄や種類によっては、足りないものも出てきました。

どうされたんですか。

その時も、うちの杜氏が八月に来てくれましてね。

酒造りは冬場にやりますから、夏にやるのは異例中の異例です。

しかも、災害で怖い体験をしているので来てくれないだろうと思っていたんですけど、

設備や環境が整っていない中、様々な工夫を凝らしお酒を造ってくれたんです。

これは忘れられないですね。


私も社員には本当に助けられました。

震災後、うちの事務の社員が書類の入った袋を私に渡してくれたんです。

「これは社長が持っていてください」

と。

中を見ると、手書きの売掛帳でした。

もちろん売掛は、すべてパソコンに入れているわけですよ。

ただ、売掛だけは手書きでも残していて、
非常時にはこれを持って逃げることになっていたと。

私は全然知らなかったんですけど、うちの取締役でもある家内がそういう指示を出していたんです。

そのおかげで三月の請求書をきちんと出せて、
社員に現金で給料を払うことができたんです。

本当に首の皮一枚で繋がりました。

また、私が銀行や法務局なんかに出掛けている間、
実際の現場の仕事はうちの部長が全部取り仕切って、指示を出してくれたんです。

実は、その部長も震災で自宅を流されて、
私の父の家に寝泊まりしていたんですが、
そういうことを考えると、うちの社員はすごいなと。

本当にすごいですね。

社員とともに危機を乗り越えていくことによって、
この五年間走り続けることができたのだと思います。

震災後、おかげさまでいろんなことろから電気工事の依頼や相談が来まして、

我われは一つひとつの仕事を確実に仕上げていくことが大切だと思って、実践を繰り返してきました。

その結果、社員に給料を払い続けることができ、
また、グループ補助金制度を使い、僅か35%の手持ち資金で、昨年、以前よりも立派な新社屋を建てることができたんです。

これは、震災のおかげと言うしかありません。


(つづく)