hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

ゴースト化する血管①

2017-02-23 18:58:40 | 自分でできる健康維持
①💕ゴースト化する血管💕①


「血管」とは、いうまでもなく体にとって、とても大切なものです。

その血管の中に、加齢とともに消えていくものがあることをご存知でしょうか。

消えてゆく血管とは「毛細血管」です。

毛細血管は、名前の通り毛のように細い血管で、

太さは、5〜8マイクロメートル(1000分の5〜8ミリ)。

動脈や静脈などに比べると、毛細血管は話題になりにくく、血管として意識されにくいかもしれません。

しかし、じつは血管の中で圧倒的に多くを占めているのが毛細血管なのです。

長さにすると、血管のうち99%は毛細血管が占めています。

仮に、体にあるすべての毛細血管をつなぐと、その長さは、

地球2周半にも呼びます。

長いだけでなく、毛細血管は、体にとって大変重要な役割をしています。

私たちの体内では、心臓に連結した動脈が、次第に細くなって細動脈になり、毛細血管につながります。

そして、皮膚や臓器、筋肉といった様々な組織に、

網の目のように入り込んだ毛細血管から、

酸素や栄養素が届けられるのです。

酸素や栄養素は、毛細血管からしか組織に届けられません。

毛細血管がじゅうぶん1に張り巡らされていなければ、

組織はたちまち酸素不足、栄養不足に陥ってしまうわけです。


毛細血管は、酸素や栄養素を届ける一方、

二酸化炭素や不要な老廃物、余分な水分などをリンパ管と協力して回収します。

毛細血管の働きが低下すると、こうした不要物の回収率も落ち、組織に「ゴミ」がたまりやすくなるのです。

酸素や栄養素をしっかり届けるためにも、

体で生じた「ゴミ」をためないためにも、重要な毛細血管。

その毛細血管が消えてしまうとはどういうことでしょうか。


ある程度以上の太さがある動脈や静脈は、簡単に消えたりしません。

しかし、毛細血管は、老化現象の1つとして消えてゆく血管なのです。

平均的に、毛細血管は40代半ばから減り始め、80代になるまでに4割も減ってしまいます。

突然に消えるわけではなく、血管の血管壁がしだいに弱くなり、血液成分がもれ出し、血流が乏しくなってきます。

この状態の毛細血管を特殊な装置で観察すると、

本来はしっかり画像に写っている毛細血管が、いまにも消えそうに薄くなり、ところどころで切れているのがわかります。

その様子が、まるで幽霊のようなので、

私は一般の人にわかりやすいよう、

「ゴースト(幽霊)血管」

と名づけました。

健全だった毛細血管がこのように変化することを

「毛細血管のゴースト化」と呼んでいます。

ゴースト血管が多くなるほど、組織に必要な酸素や栄養素が届かなくなり、

老廃物が溜まりやすくなります。

そのことが、様々な老化現象や病気を進める一因となります。


特に、新陳代謝の速い皮膚は、毛細血管のゴースト化が起こりやすく、

影響しやすいのです。

ゴースト血管が増えるほど、肌のくすみやシミ、たるみ、シワが増加してきます。

皮膚に限らず、末端の毛細血管がゴースト化することで、

冷えやむくみも悪化します。

白髪や抜け毛が増えたり、爪がかけやすくなったりと、髪と爪の老化も助長されます。


皮膚と同じく新陳代謝が速い肝臓も、毛細血管のゴースト化が起こりやすい臓器です。

加齢とともにお酒が弱くなることにも、ゴースト血管が関係していると考えられます。

ほかの臓器や器官も、加齢につれて毛細血管がゴースト化します。

その結果、腎臓や呼吸器の機能低下、アレルギー症状、認知症などが進みやすくなります。


もともと私の専門は、がんと毛細血管の研究ですが、

ゴースト血管が増えるほど、長期的にはがんのリスクも高まります。

ゴースト血管の割合は、同じ年齢でも大きな個人差があります。

同じ50代でも、違います。

しかし、毛細血管のゴースト化は、

食事や運動など日常生活のちょっとした心がけで防げます。

さらに、ゴースト化した毛細血管を再生させることも可能です。

具体的な方法の解説の前に、

次のページでは毛細血管のゴースト化の進み具合がわかるチェックリストをご紹介しましょう。


(「ゆほびか」3月号より)

何でもできる

2017-02-21 12:15:34 | お話
🌸🌸何でもできる🌸🌸


「やり抜く力」の鉄人たちは、誰もがみな賢明な父親や母親に育てられたわけではないが、

私がインタビューで話を聞いた人たちは、

必ず人生の中で「誰か」に出会っていた。

絶妙のタイミングと適切な方法で彼らを導き、

目標を高く持ってがんばるように励ましてくれた人に。

そして何よりも必要だった「自信」と「支援」を与えてくれた人に。

ではここで、コーディ・コールマンの例を考えてみよう。


コーディは2年前、私にメールで連絡をくれた。

私のTEDトーク「成功のカギは、やり抜く力」を観て、

もしよければ、いちど会って話したいと言ってきたのだ。

おそらく自分の経験が参考になるのではないか、と考えたという。


コーディは、マサチューセッツ工科大学(MIT)で電気工学とコンピューターサイエンスを専攻し、

ほぼ満点に近いGPA(成績平均点)を獲得して、卒業を間近に控えていた。

しかしメールによるば、そんなみごとな成績を収めることができたのも、

けっして才能や機会に恵まれたせいではなく、

ひたすら情熱と粘り強さを持って何年も努力を積み重ねた結果だという。


「いいですよ、会って話しましょう」と私は返事をした。

そのとき聞いた話を紹介したい。

コーディが生まれたのは、ニュージャージー州トレントンから約50キロ東にある、モンマス郡矯正施設だった。

彼の母親はFBIによって精神異常と診断され、

コーディが生まれたときには、上院議員の娘を殺害すると脅迫した罪で刑務所に入っていた。

父親には1度も会ったことはない。

やがて、祖母がコーディと兄弟たちの監護権を取得した。

そのおかげで命拾いをしたようなものだったが、残念ながら祖母は「賢明な親」とは言い難かった。

孫たちを温かくも厳しく育てたいという思いはあったかもしれないが、

気力も体力も衰えていくいっぽうだった。

そんな祖母の代わって、コーディが弟たちの面倒を見るようになった。

料理も洗濯もやった。

「うちは貧しかったんです」

コーディは言った。

「学校で、フード・ドライブ
(低所得世帯や施設に保存食を配布する助け合い運動)
が行われると、

うちは地域で1番貧乏だったので、食料品が届けられました。

さびれた地域で、僕の学区はどの教科も平均以下の学力でした」

コーディはさらに続けた。

「さらに困ったことに、僕は運動も勉強も得意ではありませんでした。

英語は補習を受けていました。数学の点数も、よくで平均くらいでした」


では、なにがきっかけだったのだろうか?

「ある日、1番上の兄が(僕より18歳も年上なんですが)帰ってきたんです。

中学3年の夏でした。

兄はバージニア州から車でやってきて、一緒に2週間過ごしました。

それで別れぎわに車の中で、兄が僕にたずねました。

『大学はどこ行きたいの?』

僕は言いました。

『わからないけど…、いい大学に行きたいな。プリンストンとか』。

でも、すぐにあわてて取り消しました。

『でも僕がプリンストンみたいな大学に入れるわけないんだけど』」

すると、コーディの兄がたずねた。

「何でプリンストンに入れるわけないなんて思うんだ?

学校の成績だって、まあまあいいじゃないか。

上を目指して、もっとがむしゃらに努力すれば、

プリンストンにだって手が届くよ。

失うものなんかないんだから、かんばれよ」

「その瞬間、僕の頭にスイッチが入ったんです」

コーディは言った。

「どうせ無理だと思い込んでいたのに、

やればできるかも、と思えるようになったんです。

最難関の大学には入れないかもしれないけど、

努力すればチャンスはある。

でも努力しなければ、最初からチャンスはないんだ、と思ったんです」


夏休みが終わって高校1年生になると、コーディは一心不乱に勉強に打ち込んだ。

2年生ではオールAの成績を獲得した。

3年生になると、コーディは、コンピューターサイエンスとエンジニアリングで最高峰の大学を目指すことに決めた。

その結果、彼の志望校はプリンストンからMITに変わった。

まさにそんなとき、コーディはシャンテルスミス先生に出会った。

稀に見るほど賢明なひとりの数学教師が、コーディを養子に迎えたのだ。


コーディを自動車の教習所にかよわせてくれたのは、チャンテルだった。

募金を募って、大学の学生寮の備品を買いそろえるお金をつくってくれたのも、シャンテルだった。

寒さの厳しいボストンの冬を越せるように、

セーターや帽子や手袋やあったかい靴下を送ってくれたのも、シャンテルだった。

毎日、元気でいるかと心配し、休暇のたびにコーディが帰ってくるのを楽しみにしてくれたのも、

祖母の葬儀にともに参列してくれたのも、シャンテルだった。

クリスマスの朝、目が覚めたら、自分の名前の書かれたプレゼントがいくつも置いてある…

そんな嬉しい驚きも、シャンテルの家に来て初めて味わった。

イースターエッグに絵を描いたのも初めてだったし、

家で誕生日パーティーをしてもらったのも、24歳で、生まれて初めての経験だった。


MITに入学したあとは、けっして順風満帆とは言えなかったが、

思いがけない困難にぶつかっても、コーディには強力な応援団が現れた。

学部長や教授たち、友愛会の先輩や、ルームメイトや友人など、

多くの人が力になってくれた。

子供時代とは打って変わって、MITでは周囲の人たちが温かく見守ってくれた。


コーディはきわめて優秀な成績で大学を卒業すると、

大学院へ進学し、電気工学とコンピューターサイエンスで修士号を獲得した。

大学院でも完璧な成績を取り、

博士課程への進学を勧められるいっぽうで、

シリコンバレーの企業の採用担当者からもオファーが次々に舞い込んだ。

すぐに高収入を得られる仕事に就くが、

大学院の博士課程に進むかで悩んだコーディは、

これまでの人生を振り返って、いま自分がこうしていられるのは、なぜかと考えた。

そして翌年の秋、コーディはスタンフォード大学の大学院博士課程に進学し、

コンピューターサイエンスを専攻した。

彼が大学院への出願の際に提出した小論文は、つぎの一文で始まる。

「私の使命は、コンピューターサイエンスと機械学習に情熱を持って取り組み、

社会全体に利益をもたらすこと。

また成功者として手本を示し、社会の将来の発展に寄与することです」


コーディ・コールマンは、残念ながら、賢明な両親にも祖父母にも恵まれなかった。

しかし、彼には兄がいて、絶妙のタイミングで大切なことを言ってくれた。

高校では稀にみるほど賢明な、素晴らしい数学の先生に出会い、

大学では教授たちやメンターや仲間たちに見守られた。

みんなが彼に可能性を示し、前に進むための力を貸してくれた。


「コーディがあんなに立派になって成功したのは、

あなたのおかげですね」

と私が言うと、シャンテルは

「とんでもない」

と首を振った。

「本当はコーディのほうが、私の人生に多くのものをもたらしてくれたんです。

コーディは私に、不可能なことなど何もない、

どんな目標も達成できるんだ、と教えてくれました。

あんなに心のやさしい子はめったにいませんよ。

あの子に "お母さん" と呼ばれるほど、

私にとって誇らしいことはありません」


先日、地元のラジオ局の番組が、コーディにインタビューを行った。

番組の終わりに、コーディは

以前の自分と同じように、恵まれない境遇を乗り越えようと、がんばっている視聴者へのメッセージを求められた。

「ポジティブでいること」

とコーディは言った。

「どうせできなできるわけがないとか、

無理に決まってるとか、

そういうネガティブな思い込みを捨てて、

とにかくやってみることです」

そして、

最後に、おとなたちに向けて、こう言って締め括った。

「子供の人生をよい方向に変えてやらなくては、

なんて気負わなくていいんです。

心から相手のことを思って、

しっかりと見守っていれば、

ちゃんとそれが伝わって、

よい変化が起こります。

その子の人生に、いま何が起きているのか、

理解しようと努めてください。

そして、

一緒に乗り越えよう、

と手を差し伸べてください。

それこそ、僕が身をもって経験したことです。

そのおかげで、すべてが変わったのです」


(「GRIT やり抜く力」アンジェラ・ダックワース著より)


あなたは、なんでも、できる!(^_^)

ひとりっ子

2017-02-20 12:21:18 | お話
🍀🍀ひとりっ子🍀🍀


「ひとりっ子」という忘れられないコラムがあります。

書いたのは私が中学2年の時に担任だったM先生です。

M先生は体育教師でサッカー部の顧問もしており、とても厳しい先生でした。

私も掃除をサボって遊んでいたら殴られたことがあります。

そうかと思えば、私がやってしまったあることを正直に告白したところ、

「お前でもそんなことするんだなぁ、わっはっはっはっ」

と不問に付してくれたこともありました。

3年前、当時不良少年だった同級生に久しぶりに会いました。

その彼から初めて聞いたのですが、M先生は保護者の許可を取って時々

彼やその仲間を夜釣りに連れていっていたそうです。

そんなM先生が、私たちの卒業文集に寄せたのが、
「ひとりっ子」というコラムです。


「私はひとりっ子である。血を分けた兄弟がいない」

という文から始まるそのコラムは、15歳の私に感銘をもたらしました。


🌸🌸🌸


先生が小学生の時の出来事です。

給食で余ったパンをもらい、放課後それを友人の家で食べる約束をしました。

友人の家に行き、パンを焼いて砂糖をふりかけ、いざ食べようとした時でした。

友人の兄が現れ、パンを横取りしようとしたのです。

友人は泣きながら必死に抵抗しました。

ひとりっ子の先生には経験したことがない激しい兄弟喧嘩でした。

兄がついに諦めて去った後、友人は泣きながらも

にっこりと笑い、パンを渡してくれました。

見ると、友人の耳からは血が出ています。

先生は、涙が止まらなかったそうです。

そして、まだ幼いながらこう思いました。

「僕は甘えている」

その出来事を、きっかけに先生は厳しいスポーツの世界に入る決心をしたと書かれていました。


🌸🌸🌸


私は実家に帰る度に、卒業文集に書かれた先生の「ひとりっ子」を何度も読んでいました。

中学を卒業してからM先生には会っていませんでしたが、

1年前の冬、30年ぶりに再会しました。

先生は静かに眠っていました。

夜釣りに行った時に事故にあった先生は、

そのまま60年の短い生涯を閉じたそうです。

あの頃と変わらぬスポーツ刈りで、よく日に焼けたお顔でした。

先生は定年前に退職し農業をしていました。

きっと生命力に溢れたおいしい野菜を作っていたと思います。

遺影の中の優しい目が、

「お前は、まだまだ甘いぞ」

と言ってるようでした。

記憶の中で生き続ける、
私の素晴らしい恩師です。


(「みやざき中央新聞」H29.2.13 山本さんより)

再婚するんか?

2017-02-19 11:28:57 | 物語
🌸🌸再婚するんか?🌸🌸


「ヤス、おまえ、再婚のこと考えとるんか」

「まぁ…、べつに相手がおるわけじゃないんじゃけど…、

やっぱり、アキラにも、お母ちゃんがおったほうがええんじゃろか思うて… 」

「逃げるんか」

「はあ?」

「アキラの世話をそのオナゴに押し付けて、逃げるつもりなんか」

あわてて首を横に振った。

だが、声に出して「違う」とは言えない。

頭の片隅に、そんな思いが、まったくなかった…わけではなかった。

和尚は綿入れの半纏についた雪を手で払い、

初めて寒そうに肩をすくめ、
「アホじゃの」と、つぶやくように言った。

「…どこが、アホなん?」

「ぜんぶじゃ」

そう言われても困る。

突き放されて途方に暮れたヤスさんはうつむいて、足元に積もった雪を軽く蹴った。

「オナゴと夫婦になるときは、惚れてからにせえや。

惚れて、惚れて、どげんしようもないぐらい惚れた先に、結婚があるん違うんか」

和尚はさらに、

「自分の寂しさを、アキラのせいにするな」

とも言った。


ヤスさんは黙り込む。

寂しい?

そんなつもりはない。

けれど、これもまた声に出しては言い返せなかった。

和尚は、数珠を掛けた右手を固め、虚空につきだした。

握り拳(こぶし)の先には、暗い海と、降りしきる雪がある。

「ヤス、よう見てみい」

「…なんも見えんがな」

「見えるもんを見るんはサルでもできる。見えんもんを見るんが人間さまじゃ」

しかたなく、海を見つめた。

「ヤス、海に雪は積もっとるか」

「はあ?」

「ええけん、よう見てみい。海に降った雪、積もっとるか」

積もるわけがない。空から降ってくる雪は、海に吸い込まれるように消えていく。

「お前は、海になれ」

和尚は言った。

静かな声だったが、一喝する声よりも耳のずっと奥まで届いた。

「ええか、ヤス、お前は海になるんじゃ。海にならんといけん」

「…ようからんよ、和尚さん」

「雪は悲しみじゃ。悲しいことが、こげんして次から次に降っとるんじゃ、そげん想像してみい。

地面にはどんどん悲しい雪が積もっていく。

色も真っ白に変わる。

雪が溶けたあとには、地面はぐじゃぐじゃになってしまう。

おまえは地面になったらいけん。

海じゃ。

なんぼ雪が降っても、それは黙って、知らん顔して呑み込んでいく海にならんといけん」

ヤスさん、黙って海を見つめる。

眉間に力を込めて、にらむようなまなざしになった。


「アキラが悲しいときにおまえまで一緒に悲しんどったらいけん。

アキラが泣いとったら、おまえは笑笑え。

泣きたいときでも笑え。

2人きりしかおらん家族が、2人で一緒に泣いたら、どげんするんな。

慰めたり励ましたりしてくれる者はだーれもおらんのじゃ」

和尚が海に突き出した握り拳は、かすかに震えていた、、、寒さのせいではなく。

「ええか、ヤス…海になれ」

ヤスさんも胸が熱くなる。

「笑え、ヤス」

わははははっ、と笑った。

笑うと、つっかい棒がはずれたように涙が目からあふれ出た。

波が寄せては返す。

雪はあいかわらず降りしきっているが、

海はそのすべてを呑み込で、ただ静かに夜を抱いていた。

「アホウ、泣いとったら、笑うてもいけんがな、このアホたれ…」

海を見つめる和尚の太い眉は、降り落ちる雪でいつのまにか白く染まっていた。


(「とんび」重松清さんより)