チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

リストをベートーヴェンに会わせたツェルニー

2014-10-18 23:27:35 | 音楽史の疑問

フランツ・リストが少年の頃にベートーヴェンに会ったというのはどうやら本当のことらしいです。

 

Wikipediaによると「(リストが)1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。」とあります。

 

一方、大田黒元雄著「音楽読本」によるとツェルニー(Carl Czerny, 1791-1857 発音は「チェルニー」に近いそうです)がリストをベートーヴェンに会わせたことが書いてあります。

 

「ベートーヴェンはピアノ教師として名声を博したツェルニーに対して常に愛着を示し、死ぬまで交わりを続けた。事実、ツェルニーはこの偉大な先生の新作の校正をしただけでなく、1805年に歌劇『フィデリオ』が上演された時には、特に命ぜられてそれをピアノ用に編曲した。そのほかその甥を教えることをベートーヴェンに依頼されたのも彼であった。これは1815年のことであった。甥を非常に可愛がっていたベートーヴェンは毎日のようにツェルニーのところへ来て、気の向いた時には忘れがたい素晴らしさで即興演奏をするのであった。

 ツェルニーの弟子には多くの逸材があったが、中でも卓越していたのはリストであった。そしてリスト自身が老人になってから弟子の一人に語ったところによると、彼をベートーヴェンのところへ連れて行ったのはツェルニーであった。その時はリストはまだ11歳の少年であったが、バッハの遁走曲【=フーガ】やベートーヴェンその人のハ短調協奏曲の第1楽章を弾いた。すると弾き終った時、ベートーヴェンは少年の額に接吻して、『君は幸福だ。そしてほかの人たちを幸福にするだろう。これほど結構なことはない』と優しく言ったそうである。」

 

リストの誕生日は1811年10月22日なので、確かにWikiの日付(1823年4月13日)時点では11歳ですが、大田黒さんの書きっぷりによるとツェルニーがリストをベートーヴェンの家に連れて行ったような印象を受けます。大田黒さんがテキトーなことを書くわけがない!?それでもやっぱり大田黒さんは4月13日のコンサートのことを書いているんでしょうか?まあ、どうでもいいか。(曲目を手がかりに引き続き調べます。多分ずっと前に解明されていると思いますけど)

 

どっちにせよリストをベートーヴェンに会わせたツェルニーはエラい! ベートーヴェンの孫弟子にあたるリストに自信を持たせて音楽の歴史を変えたかも。

交響曲は7曲あるみたいですね。じっくり聴いてみよう


ショパンがユダヤ人?(初耳)

2014-06-23 18:25:20 | 音楽史の疑問

「音楽現代1979年6月号」では「ショパンに関する48章」という特集が組まれており、その中に有馬茂夫氏(2011年に82歳で亡くなられました)による「ショパンはユダヤ人か?」という記事があってびっくり。

要約すると、ショパンの父であるニコラ・ショパン(1771-1844)が次の4つの疑問からユダヤ人ではなかったかと推論されているのです。

1.ニコラは16歳の1787(1788?)年フランス革命の前年にフランスからポーランドへ移った。革命直前のフランスにおいて、革命近きがゆえにフランスを逃れる必然性は何があったか?しかもなぜ家族はそのままで一人だけ?

→近づく革命によって何らかのインパクトを受けたのであろう。車大工(ニコラの父親、つまりショパンの祖父の職業)は当時ではユダヤ人に特に多い職業であった。ところで当時のポーランドはユダヤ系の人々にとってもヨーロッパで最も住み易い場所の一つで、多くのユダヤ人がそこに集まっていた。宗教的政治的インパクトが少なかったからである。当時ポーランドへ移ることが、ロレーヌあたりの社会で何を意味していたのか、の背景を調べる必要がある。


2.ニコラがポーランドへ移った理由は伝記によると革命軍にとられるのを避けた、あるいは家庭の事情ということになっているが、「家庭の事情」の実態とは?

→ニコラがワルシャワからフランスのロレーヌの実家へ一度だけ手紙(1790年9月15日付)を書いたところ(彼は故国を捨てた、と理解されていたが、この手紙の発見によってそれは覆された)、家族はそれを握りつぶし、ニコラの父親(ショパンの祖父)は彼を除いた娘二人に遺産を相続させた。この手紙の握りつぶしは遺産を相続させない為の手段とされているが、果たしてそうであろうか。前の問題とからめて、「家出」をした息子がポーランドへ転出したことで何かがバレる、それがバレると家族がそれまで営々と築いてきた地位が崩れる、という不安と配慮があったのではないか。身元の割れているユダヤ人とそれを隠しているユダヤ人との間の葛藤は、想像を絶するものがあるのである。


3.ニコラの宗教はその母親の強い希望にもかかわらずキリスト教でなく自然宗教だった。何故か?

→キリスト教を基調としたヨーロッパ、カトリックを基調としたフランスで、自然宗教というのは何を意味するか。簡単に言うと、信じないのではない、信じている、しかし、隣人と同じ神であるか否かについては言わない、という、消極的な表現である。ユダヤ人はキリストの父といわれるヤーヴェは信ずるがキリストは信じない。キリスト信者にとってもユダヤ人にとっても共通に理解できる部分はこの世を、自然を、摂理をつくった創造主の存在である。そういえばハイドンの「天地創造」のテーマがそうであったし、ベートーヴェンも自然宗教の徒であった。キリスト信者ではないという部分を自然宗教という表現で主張しているのである。この主張をキリスト教に対してヨーロッパで行う必要のある立場の人は、ユダヤ人しかいない。切羽詰まった表現なのである。


4.音楽家ショパンは少年だったある日、父の部屋で偶然にフリーメイソンの服を発見する。なぜ父ニコラはフリーメイソンに属したのか?

→なぜか?それは何を意味するのか?【がくっ】


。。。ということで有馬氏は結論として、ショパンの父親の家系をキリスト教に帰依することによってフランスの社会に順応してきたが内面でのユダヤの信仰は失っていなかったユダヤ人だとしています。
さらに、こうも書かれています。「ポーランド生まれの二世であった音楽家ショパンは恐らくそれを意識していなかっただろう。しかしショパンがウィーンやパリでメンデルスゾーン、シューマン、ハイネなどユダヤ系の人々に異常に支持されていたのをみると、何かの脈略がそこに通っていうたのではないかと想像するのである。」


えーっ、シューマンもユダヤ人だったんですか!?それこそ初耳。ハイドン、ベートーヴェンまでユダヤ人になっちゃいそうな勢いですね。他の書籍でブラームスもBrahmsという名前がAbrahamから来ているとか、晩年のヒゲ等を根拠にユダヤ人説(※)があることを読んだことがありますが、誰でもかれでもユダヤ人にしたがる一派が存在するんでしょうか。まー、音楽が素晴らしければ別に何ジンでもいいどぅえす。

どっちにせよショパンはいまだに確定できない生年月日とか謎が多いですね。。最近の研究成果をちょっと調べてみます。

 

(追記)※ネット情報によるとこの説も有馬氏によるようです。


クララが焼却したロベルト・シューマン「ロマンス」とホリガー「ロマンセンドレス」

2014-06-02 18:35:48 | 音楽史の疑問

オーボエ奏者であり作曲家でもあるハインツ・ホリガー(Heinz Holliger, 1939-)の初来日がいつだったのかをネットで調べる過程でホリガー氏が「ロマンセンドレス」(Romancendres)という曲を書いていることがわかりました。



ネット記事を要約すると
「ロベルト・シューマンが1853年に書いた「ロマンス」(Romances for cello and piano)の中にブラームスとのあるまじき仲が暗示されていることを恐れたのか、クララは自分が亡くなる3年前(1893年)に楽譜を焼いてしまい幻の作品になった。しかもこのことをブラームスは知っていた。」
ホリガー氏がこれにショックを受けて書いた曲がその「ロマンセンドレス」なんだそうです。確かにちょっとショック。。

(ソース)ザ・フェニックスホールさんのウェブページ
phoenixhall.jp/newslist/3/ハインツ・ホリガー インタビュー

この曲のCD(ECM NEW SERIES 2055)、聴いてみたいです。

CDの紹介ページ(英語)
www.musicweb-international.com/classrev/2009/July09/CSchumann_ecm2055.htm


ベートーヴェンは本当にモーツァルトに会ったのか?

2014-05-22 21:50:02 | 音楽史の疑問

1787年、ウィーンに到着した16歳のベートーヴェンは31歳のモーツァルトの家を訪ねたそうです。

モーツァルトって紳士なんですね。映画「アマデウス」と全然違う。

このあとベートーヴェンはモーツァルトのソナタを弾きますが、モーツァルトはあまり感心しません。

くやしいベートーヴェンはモーツァルト先生に頼んでテーマを書いてもらい、それに基づく即興演奏を繰り広げます。

(集英社学習漫画・世界の伝記ベートーベンより)

モーツァルト、ベートーヴェンの才能にむっちゃ驚いちゃってますね!

モーツァルトは隣の部屋でピアノを聴いていた貴族達に「この少年はきっと有名な音楽家になりますよ!」と紹介します。パチパチパチ

 

。。。けっこう有名なこの話も残念ながら信憑性が低いようです。共通のソースは何なんですかね。

そもそも31歳のモーツァルトは健康を害していてベートーヴェンを迎える雰囲気じゃなかったとか、会ったけどあまり興味を持たなかったとか、いろいろ説があるようです。

引き続き、調べます。


シューベルトは本当にベートーヴェンに会ったのか?

2014-05-18 17:28:34 | 音楽史の疑問

シューベルトは1827年、ベートーヴェンの死の床にお見舞いに行ったって話は結構有名ですよね。

学習漫画・世界の伝記ベートーベン(集英社1984)より。

ベートーベンもシューベルトが来てくれて心なしかうれしそうですね。

でもこれ、うそつきシンドラー(Anton Schindler, 1795-1860)の作り話である可能性が高いそうです。なんつーこった。

他に、シューベルトが自作の楽譜をベートーヴェン宅に持って行ったがいなかったという説、いたけど和声法上の間違いを指摘されてヘロヘロになった説などがあるそうですが真相やいかに?調査します。