書評欄で紹介されていたので、読んでみた。
有料ホームにいる認知症の人たち。その中の三人の老女。その人たちの中に眠る宝石のような輝かしい記憶たち。
認知症は、直近のことや近い記憶は忘れていくという。遠い昔、輝かしい記憶に戻るよう。そして物理的にはないものが見えたりするけど、それを否定してはいけない。
主人公の初音さんは、満州国時代の天津租界に暮らしていた。当時としては、ハイソで豪華で自由な生活。夫の同僚の奥様たちと共にイングリッシュネームを持ち、その名前で呼び合っていた。
そこへ交差する、清朝最後の皇帝・満州国皇帝溥儀とその妻婉容。婉容が、エリザベスというイングリッシュネームを持っていたのは、知っていて一昨年、大連に行った時も溥儀と婉容の部屋なども見たけど。
時々、初音さんはその輝かしい時代に戻り、なぜか会ったはずもない婉容=エリザベスと出会うのだ。
認知症は気の毒なイメージがあるけど(実際、壮絶な介護をされている方も)本人は、その輝かしい時代に自由に戻れるの。母も今、その輝かしい時代に戻っているのかな?いつも、同じことを言うから今度はその話に合わさなければ。本人達にとっては、自由にその時間と行き来が出来るそう。
牛枝さんは、家で兄弟同様に飼っていた馬3頭と会う。これは、泣いてしまった。この本を読んで初めて戦時中には、馬・犬・鳥までが軍に徴用されたことを知った。そして(軍的にというか戦争的に役に立たない)犬が、残酷な末路を辿ること。ホームにいるおじいさんが、提供した犬と会い、おいおい泣きながら謝るところなどたまらない。
この本のテーマは、認知症なのだけど、戦争の残酷さ、悲惨さ、弱いものが一番に犠牲になることを訴えているのだと思う。又、現代の地理と歴史の教育方法の問題点も。だって、若いホームの職員が満州とか分からないし、戦前アジアのたくさんの地域を植民地にしていたこと、果てはアメリカと戦争したのを知らん人まで。
最後に松村由利子さんの短歌「もう誰も私を名前で呼ばぬからエリザベスだということにする」が出てくるの。とても心に残る短歌。元々松村由利子さんの短歌は好きだけど、ここで出会うとは。
著者の村田喜代子さんは、この短歌からインスパイアされて、この作品を書いたそう。
松村さんのツイッターにコメントをすると「思いがけないコメントをいただき感激しています~」とレスが来て、こちらこそ大感激。
松村さんを大好きでよく取り上げてらっしゃった、あの方のブログを思う。
どうしていらっしゃるのか?お元気でいて欲しい。
さて、私と本の出会いですが。
父が大変、読書家でした。家の大きな本棚にたくさんの本が。子供心に「大きくなったらお父さんの本を読もう。」と。小学校中学年くらいから、父の本を読んでいたのだけど子供には分からないものもたくさん。よく質問をして、答えづらい質問の時もあり、親を困らせていたと思う。小5の時には、松本清張の「黄色い風土」を読んでいた。←怪しい小学生か?その頃ので、心に残っているのは安本末子の「にあんちゃん」や「キューポラのある町」。
今は新聞の書評欄に取り上げられている本や新刊広告などから、興味の持ったものを。うちは、新聞を二紙取っているのだけど、これがポリシー的には真逆な二紙。なのに、書評欄で取り上げられている本が被ることが多い。もちろん、切り口や解説は全く違うのだけど。
図書館に行って、装丁や帯の紹介文に魅かれて読んでみるものも多い。読みづらいものは途中でリタイアする。もう、無理なものは苦行のように我慢して読み通さないの。今の私には無理やねんなってね。
色んなブログで紹介されているものを読んだり、後は「読書メーター」というサイトで紹介されてるのを読む。
どうしても、偏ってしまうから視野はこの年でもというかこの年だからこそ広げたい。
若い人の感性も受け入れて、偏ることなくね。自分から世間を狭くする必要はないし。
安定のおいしさ。
クッキーかと思ったら、ポップコーンだった。おいしかった~
割とあっさりしてた。
土曜日が22時まで勤務だったので、昨日の日曜日は、一日4回昼寝。フィナンシェ・ダックワーズ・プリン・シュークリームを食べていた。
年々22時勤務は、堪えますが、やらないとね。
今日も片付けしながら、ケーキ焼いてました。
食べることには、手抜きなしね。