折々スケッチ

小さなスケッチブックやハガキに水彩と鉛筆ペン等で描いた絵を中心に、感じたこと等日記代わりに添えています。

風が止んで穏やかな日

2024年03月11日 | 名城公園

柳の芽が柔らかな色になって木立の向こうの天守閣も春色に見えました



先週は晴れれば強風が吹き荒れて、散歩に出かける気にもなりませんでした。そして昨日の日曜日は少し風が収まって晴「名古屋女子マラソン」にも良かったのではと思っています。テレビ中継で名古屋市役所近くの高低差12メートルの登り坂を速度を落とさずに駆け抜ける選手たちに、いつも息を切らせてあの坂を歩いている私はただただ凄いなぁと感心していました。7時間以内にコースを完走するだけでも凄いことです。

月曜日の今日は風も弱く晴れたので久しぶりの名城公園へ。早咲きの桜にメジロが・・・私のスマホでは動きに追いつけず、見てただけ。柳の芽も春の色でした。



木立の中ではいくつものグループがグランドゴルフ


子供の頃に父から聞いていた「春はフリ フキ ドンだでな」。降った後は風が吹いてその次に穏やかな日が来る。昔から春は雨と風が過ぎないとぽかぽかの日にはならないようです。明日は雨の予報です。


公園の帰りに近くのオオカンザクラの並木道にちょっと寄り道、満開でした。









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14 コメント

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春到来 (ポッポちゃん)
2024-03-11 18:34:54
こんにちは!
日曜日は晴天に恵まれて、満開のカンザクラ&メジロに出会って、春を満喫ですね!
柳が芽吹き天守閣も春を感じているよう・・・・
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昨日今日腫れましたが・・・ (ふきのとう)
2024-03-11 19:05:30
昨日今日は晴れましたが、やはり明日は雨が降るようです「菜種梅雨」のように思いました。明日晴れてくれましたら今年最後の切り干し大根も干しあがりましたのに、先ほど取り込みました。2月の汗ばむように晴天はいったい、どこへ隠れてしまったのでしょう。春が道草をしているようですね。
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ポッポちゃんさんへ (ひろ)
2024-03-11 19:29:52
こんばんは。
冷たい風さえなければ、陽射しは暖かいです。
閉じ籠っていないで色々な春を探しに歩かねば!と、思っています。
でも、まだ寒いですね~・・・(#^^#)
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ふきのとうさんへ (ひろ)
2024-03-11 19:36:04
2月のビックリする暖かさ、そして繰り返す寒さ。
今年の春は気まぐれですね。

お手製の切り干し大根、よくなさいますね。
大きな大根が安く出回った時、作ってみればよかったと今頃思っています。
来年は・・・と。
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おぉ~、ホントだ! (ショカ)
2024-03-12 00:19:54
ひろさん、こんばんは~。
おぉ~、ホントだ!
すばらしい桜並木!
若い樹でしょうか。
でも、とてもゴージャスな咲きっぷり♪

こちらも、明日はしっかり雨降り。
一雨ごと、ですね。
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Unknown (せしお)
2024-03-12 08:34:32
昨日は暑かったのに今日は雨で明日は雪の予報です。
今年の三寒四温はいつ終わるのかな~?(;^ω^)
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ショカさんへ (ひろ)
2024-03-12 08:37:33
ショカさん おはようございます。
予報通り雨の朝です。

オオカンザクラの並木道は地元の要望で1961年頃に植え始め今も少しずつ距離を伸ばして1・4㎞に140本
最初の木は植え替えられて残り少ないようです。
住宅街なので、平日は観る人も少ない・・・これがいい(^^♪
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せしおさんへ (ひろ)
2024-03-12 08:47:05
明日は雪の予報ですか・・・寒い!
気まぐれなお天気ですね。
東北の春、バイクも山菜も楽しめる季節が待たれますね。
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春はフリ フキ ドンだでな」 (hitareri)
2024-03-12 15:30:26
お父さんとの思い出も多いひろさん❤️‍🩹
私の父親は、戦争体験者(陸軍の歩兵部隊の一兵士として、中国→シンガポール→南方)に派遣され20~26才の青春時代を、生死の境目で過ごした男です。終戦時に、たまたま所属部隊が居た場所がニーギニア島の西のセラム島だったので…終戦前の激しい米軍の北上コースから外れていたために、九死に一生を得て、終戦の翌年の6月に日本に帰還出来た男でした。
その為か?PTSD(戦争中の)に悩まされての戦後の人生だったようです‼️
そんなで?ひろさんのお父さんの様な?父との和やかな日常会話は?私の記憶にありません❗
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hitareriさんへ (ひろ)
2024-03-12 19:22:02
お父様 帰還されたとはいえ大変なご苦労をなさったのですね。今ではそういう時代だった等と簡単に言ってしまいますが、その周囲にもずっと影を落とす悲しいことです。
私の父は年齢的にも兵隊に行くことは無く家にいてくれました。また私の夫は母親のお腹にいる時に父親が出征してそのまま戦死。「父親がいたらなぁ」とよく言っていました。悲しい家族が増えないように、今ニュースで見聞きする各地の戦争や紛争、一刻も早くやめて欲しいです。天災ではなく人間が起こしているのですから止めることは出来るはずななのに・・・。
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ありがとうございます (hitareri)
2024-03-13 15:10:18
ひろさん
父親は、スポーツマンでバンカラな男でしたから、戦後の価値観の急速な変化には、かなり戸惑ったと思えます。
が…頑張って我々(2人の娘)と両親を最後までよくよく面倒見てくれました。
父は退職後、やっと好きな中国語教室に通い若い学生らと色んな体験をしたり、旅行(海外+国内)を楽しんでましたよ。
退職後の父親は、柔らかい表情の事が多くて親しみ易くなったが…
子どもの頃は、何か?気難しい雰囲気でしたよ!!
父親が今生きていたら、今の世界(戦争に向
かっている?ような)の動きを?どうおもうでしようかね?
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hitareriさんへ (ひろ)
2024-03-14 19:52:59
こんばんは。
お父様が中国語を勉強されておられたとか・・・
夫も退職後ボランティアで中国へ5年赴任していました。その間に父親が戦死した地へ中国の学生と慰霊の旅にも行きました。今ではいろいろな事がみな良い思い出になっています。
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Unknown (hitareri)
2024-03-15 11:11:41
戦前、父は、中学校を卒業した翌年に満州に単身行き、満州塩業という会社に就職しました。16才~17才頃です。中国語を勉強しながら希望に燃えて中国の各地を視察してました。が、20才では、徴兵検査のために一度帰国し、佐賀県の唐津港から南方(シンガポール)へ送られました。その後は、シンガポールでマラニアになって現地の日本人病院に入院したこともあるが、それでも帰国はさせてもらえずに、病気がなおったら、また転進という名で、南方の島(セラム島)に向かう部隊に戻されて送られたようです。
最初は、希望に燃えて習っていた中国語も、戦争で中断し、やっと退職後、再開させたようです。退職後は、ハワイの真珠湾に行ったり、シンガポールに行ったり、17才で初めて降り立った中国の大連(ダーリヤン)に港に行ったり、台湾に行ったり…
米寿のお祝いには、私たち夫婦と父+母で、父の希望の鹿児島の知覧特攻平和記念館に行ったり…
今から思うと「父親の青春時代、ひいては人生を振り回したあの戦争は!何だったんだろう‼️」と、ずっと自分の足で踏みしめて確か
めていたのだと思えます。
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hitareriさんへ (ひろ)
2024-03-15 14:41:41
お父様が17歳で上陸された大連、どんなだったでしょうね・・・。
夫が4年ほど大連に単身赴任していましたので私も時々出かけては、あちこちスケッチしながら楽しんで来ました。(2001年~2005年)懐かしいです。
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