2017/6/27
アルチンボルドの作品は数点見ただけだが、画家の名前もその絵柄も忘れられないものになっている。しかし、それは絵の美しさに感動したというようなものではない。ただひたすら、その奇想に驚いたのだった。その才能に驚きもしたが、正直に言えば、ある種の不快感もあった。
そのアルチンボルドの絵をまとめて眺めたらどういうことになるのか、どちらかと言えば、私のなかに起きる反応に興味があった。優れた才能、その奇才への魅力が昂進するのか、はたまた不快への拒否反応が強まるのか。こういう気分をこそ「怖いもの見たさ」ということだろう(「怖いもの」は、私のなかに生じるもののことだが)。
ミラノ生まれのジュゼッペ・アルチンボルドが画家として成功し、その画業をなしたのは、神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家の宮廷画家としてウィーンとプラハで暮らした時代だ。複雑な気分になった私のアルチンボルド体験はウィーン美術史美術館だったのは当然だったようで、しかも仕事でウィーンに行くたびに性懲りもなくその体験を繰り返したのである。
展示構成は、「I アルチンボルドとミラノ」、「II ハプスブルグ宮廷」、「III 自然描写」。「IV 自然の軌跡」、「V 寄せ絵」、「VI 職業絵とカリカチュアの誕生」、「VII 上下絵から静物画へ」となっていた。とはいえ、私の関心はひたすらウィーンで見た種類の作品なのである。
ジュゼッペ・アルチンボルド《春》1563年、油彩/オークの板、66×50cm、
マドリード、王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館 (図録、p. 83)。
花や木や草、あるいは鳥や魚や獣、人間以外の事物だけを使って人物画を描くというのが、アルチンボルドがアルチンボルドたる理由である(私には)。《春》は「四季」連作に含まれる作品で、私のなかでは「不快」ではなく「快」に属する作品である。会場に入ってからやや速足で進んで、この作品を見つけたので、まずはこれを出発点とした。
「快」だろうが「不快」だろうが、アルチンボルドの絵のなかの小さな一つ一つの要素がじつにリアルに描かれていることは私なりに気づいてはいたが、一連の作品を眺めると、それが博物学的な知識と科学的な描写力に基づいているらしいことも理解できるようになる。そのことは、図録 [1] に収められたシルヴィア・フェリーノ=パグデンの「アルチンボルド――ハプスブルグ宮廷の「プロテウス」」という論考でも確認できる。
マクシミリアン2世の長子ルドルフ2世が1576年に帝位を継ぐと、アルチンボルドは宮廷画家として再任され、ルドルフがウィーンからプラハへ遷都した際もついて行った。プラハは帝国文化の中心となり、ヨーロッパ中から芸術家や哲学者、化学者、数学者らを惹きつけた。ただルドルフが父や祖父と異なる点は、もっぱら地上のことを探求するにとどまらず、その関心を宇宙へ、惑星系へも広げ、ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーなど、一流の天文学者を招聘したことである。〔中略〕ルドルフはアルチンボルドを自然標本と古代美術の専門家としても雇っており、おそらく1585年にルドルフと弟たちが金羊毛勲章を授与された際の祝祭行事も、やはり彼に演出を依頼したと思われる。以前アルチンボルドが評判をとった、いろいろな物を人間に見立てた肖像画を、盟友関係の君主たちへの贈り物として再制作するよう、促した可能性もある。 (図録、p. 37)
私は学者のはしくれだったが、日本ではあまり博物学的な学問に重きが置かれていないものの、西欧文化における博物学的な知識への情熱には圧倒されることが多かった。「ここ(《春》)には約80種もの植物が描かれて」 (図録、p. 83) いて、いわば博物学的情熱と芸術的情熱とによって描き出された作品であることは明らかだ。ジュゼッペ・オルミとルチーア・トンジョルジ・トマーズィは、「つまるところアルチンボルドの絵は、ごく限られたスペースの中に、広大で多様きわまる自然界の姿(植物相や、水棲および地上生物の動物相)を縮図として表現しおおせている」 (図録、p. 37) と端的に評している。
アルチンボルドの作品を、細部のアップから見はじめ、花であれ、草であれ、鳥であれ、魚であれ、それぞれのリアリティ溢れる描写に感嘆しつつ、その細部が織りなす人物像へしだいに眼差しを拡大していくことができたら、感動から驚愕へと理想的な味わいができるにちがいない。そんな不可能な鑑賞法を考えてみたのも、アルチンボルド体験の一つと言っていいだろう。
【左】レオナルド・ダ・ヴィンチ《鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像》1485-90年、ペン、インク、
160×135cm、ウィンザー城、イギリス王室コレクション (図録、p. 35)。
【右】レオナルド・ダ・ヴィンチにもとづく《3つのカリカチュア》ペン、インク、、185×133cm、
ロンドン、大英博物館素描版画部門 (図録、p. 37)。
博物学的な知見、科学的な探究というアルチンボルド作品のベースは、ハプスブルグ宮廷における役割ということもあるだろうが、アルチンボルドが画家として育ったミラノの地にもその理由があるということだ。それを示唆するのが、最初の展示コーナー「アルチンボルドとミラノ」に展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの素描作品である。
ダ・ヴィンチは、「自然の直接的な観察にもとづく芸術表現の主唱者」 (図録、p. 16) で、アルチンボルドの時代にも大きな影響力を持っていた。素描作品の《鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像》や《3つのカリカチュア》は、そのダ・ヴィンチが異様な表情を持つ人物にも強い関心を持っていたことを示している。
つまり、アルチンボルドが徹底した自然観察によって花や魚などをきわめて写実的に描いた素材によって組み上げられた人物像は、ダ・ヴィンチが素描したような異様な貌となり、人物のカリカチュアとなっているのだと考えれば、アルチンボルドはいわばレオナルド・ダ・ヴィンチの優秀な継承者の一人だと言えるはずだ。
【左】ジュゼッペ・アルチンボルド《冬》1563年、油彩/シナノキの板、66.6×50.5cm、
ウィーン美術史美術館絵画館 (図録、p. 89)。
【右】ジュゼッペ・アルチンボルド《水》1566年、油彩/ハンノキの板、66.5×50.5cm、
ウィーン美術史美術館絵画館 (図録、p. 99)。
アルチンボルドの代表的な作品は、「四季」シリーズと「四大元素」シリーズだが、その中の二作品《冬》と《水》から私のアルチンボルド体験が始まった。これらを見て驚いたのは確かだが、美術作品としての感動(と私が思い続けていたもの)とはほど遠い思いで眺め、強烈な印象ばかりが残ったのだった。
不思議なことだが、心を落ち着かせて眺められる今になって、それぞれの人物像に威厳のようなものを感じ取ることができる。とくに《冬》は、木の幹や枝、根の造りに自由度があるせいか、味わい深い人物像とすら思えるのだ。図録解説 (図録、p. 88) によれば、《冬》に描かれた人物像は、藁の網目に「M」の文字が浮かび上がり、頭上の編み込まれた枝は王冠のように見えることなどからマクシミリアン2世を暗示しているという。神聖ローマ帝国の皇帝が《冬》になぞらえられるのは、古代ローマ人の習慣で一年は冬から始まるためだとされている。
《水》には60種類に及ぶ魚類、甲殻類が描かれていて、そのほとんどが地中海に棲む種類だと調べた研究者がいたと図録に記されていた。たしかに花であれ、草であれ、アルチンボルドの絵に描かれた種類をすべて同定するというのも鑑賞の一つの形ではあろう。それにしても、無数に描かれる要素の一つ一つが学術的に同定できるほどに実在種が正確に描写されているというのはやはり驚くべきこととしか言いようがない。
【左】ジュゼッペ・アルチンボルド《ソムリエ(ウェイター)》1574年、油彩/カンヴァス、87.5×66.6cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 177)。
【右】ジュゼッペ・アルチンボルド《司書》油彩/カンヴァス、97×71cm、スコークロステル城
(図録、p. 179)。
ジュゼッペ・アルチンボルド《司書》1566年、油彩/カンヴァス、64×51cm、
ストックホルム国立美術館 (図録、p. 181)。
アルチンボルドの画業にカリカチュアとしての人物像が加わってくる様子が、「職業絵とカリカチュアの誕生」というコーナーで示されていた。ここでは、要素は生物ばかりではなくなっている。《ソムリエ(ウェイター)》では酒に関する道具類、《司書》では文字通り図書類で描かれている。
しかし、《法律家》は羽をむしられた鳥や雛鳥、魚、法学書や書類などで構成されていて、必ずしも法律家に直接結びつく事物ばかりではない。この手法のずれ、はみ出しは次のような創作過程によるのではなかろうか。
この人物は実在していて、アルチンボルドはその醜い容貌を揶揄する「残酷な肖像画を、皇帝の目を愉しませるために描いた」のであり、「その悪ふざけは成功を収めたのだった」 (図録、p. 181) とされている。カリカチュアが実在の人物を対象にすれば、悪意あるものとして作用するのはよくあることには違いない。ここでは、ただ一点、皇帝が愉しんだということによって(その時代においては)許容されたということだろう。
ジュゼッペ・アルチンボルド《庭師/野菜》油彩/板、35.8×24.2cm、
クレモナ市立美術館 (図録、pp. 192、193)。
《ソムリエ(ウェイター)》や《司書》は、静物画に描かれるような素材によって構成される人物像であるが、上下絵によって人物画と静物画を同時に成立させるという作品のコーナーもあった。《庭師/野菜》は、野菜類と盥で描かれた「人物画」が上下逆転によって盥に盛られた野菜類という「静物画」に変容してしまう仕掛けになっている。
「四季」シリーズや「四大元素」シリーズは多様な生物種の集まりが人物画に変容するという仕掛けになっていたが、上下絵は素材から人物への変容の後で、さらに素材そのものの静物画へと再変容するという二段構えになっている。しかし、この二段構えの変容は困難をも生み出しているようだ。静物画として完成度を高めるほど、人物画としては完成度が落ちてしまう。その逆もまた生じる。正直に言えば、「四季」シリーズや「四大元素」シリーズの人物像に驚いたほどには、上下絵の人物像には心は動かされない。ただただ、その機智に感心するばかりなのである。
さて、どうまとめたらいいのだろう。「怖いもの見たさ」には違いなかったが、さしあたって「怖さ」はもうない。いつかまたアルチンボルドを見る機会があったら、さらにもう少しだけ余裕をもって味わうことができるだろう。さほどの根拠はないのだが、一応そんなふうに思いこんで帰りの新幹線に乗ったのだった。
[1]『アルチンボルド展』(以下、図録)(国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2017年)。
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