かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(16)

2024年12月23日 | 脱原発

2016年7月8日


「私らのような年寄りは良い。子どもだけでも、この値(年20mSv)から外して欲しい。子どもには選択権が無いんです。大人に従うしかない。自分で決めることが出来ないんですよ。人権侵害ですよ」
 会場から拍手が起こる。原田さんの怒りは、国に反論できない町教委にも向けられた。
 「なぜ教育者から反対意見が出なかったのか。情けない」
 壇上には町役場の職員がずらりと並んだが、誰も反論することは出来なかった。馬場有町長は腕を組み、じっと聞き入っていた。
       「民の声新聞(7月3日)」から抜粋

 明後日に投票日を控えた参議院選挙のための激しい選挙運動のニュースが流れる中、7月1日に開かれた福島県浪江町の住民懇談会の様子が「民の声新聞」に掲載された。政府が2017年3月に避難指示を解除する方針であることを受けて、開かれたものだ。
 政府側は、ICRP(国際放射線防護委員会)の指針を盾に全く住民の意見に耳を貸さない頑なな姿勢を崩さない。そんな「懇談」の様子が詳細に報じられている。ICRPは、もともと原子力を利用したい国々によって設立された国際機関であって、その指針には原子力を推進したいという国家意思のバイアスがかかっている。
 このように明らかに政治的バイアスがかかった機関の見解を全面的に施策の根拠とするのは、政府が再稼働をするとき原子力規制委員会の判断を根拠にすることとその構図はまったく同じである。規制委員会の委員は、政府の都合に合わせてくれる専門家を選んでいることは誰の目にも明らかで、政府の都合のいい結論を出すに決まっているのだ。
 政治家も役人も自らの知見、見識によって政治的判断をする、行政的判断をするという形はけっして取らないのである。それは、それらの結果が大きな不始末となって終わっても全く責任を取らないことに繋がっていて、いつでもどこでも見られる日本社会の無責任な政治的構図にほかならない。

 浪江町で住民の血を吐くような訴えが冷たい拒絶にあっているとき、世間で激しく争われている参議院選挙では、原発問題はほとんど争点になっていない。
 河北新報(7月7日付) によれば、参院選宮城選挙区では「公示後の街頭演説や個人演説会では、両候補とも原発政策や女川原発再稼働についてほとんど触れず、選挙公報にも記述はない」のだ。記事には、上智大の中野晃一教授の「原発問題は国民の関心事なのに、接戦の1人区では立地地域や電力会社関係者などの反発を恐れて候補者は言及しなくなる。一種のカルテルのような状態だ。有権者の問題意識を候補者に直接伝えることが大切だ」という意見も紹介されている。

 福島事故から5年、10万人もの人が避難先で苦しみ、避難できなかった人も汚染の地で苦しんでいるとき、国の政策を争う選挙で事故原因の原発が争点にならない国とはどんな「美しい」国なのだろう。数十万人の人びとの暮らしや命を政治から除外する国とは……。
 たしかに人々の苦しみを見ないことにすれば、「日本の風景」は美しいにちがいない。人の住めない土地の風景の美しさを日本人は誇っているのか?
 日本の現実が見えないのか、見ようとしないのか、いずれにせよ見ることを欲しない日本人に「美しい日本」など見えるはずがないのである。

いくら除染をしても
放射能が高くては帰れない。
ふるさとへ
戻る。
ふるさとへ
戻らない。
ふるさとへ帰る
ふるさとへ帰れない

心は揺れる。
ふるさとを捨てる。
ふるさとに未練はある。
ここで生まれ
ここで育ったのだから。
だが現実は甘くはない。

〔中略〕

望郷の唄が
遠くから聴こえてくる
あの唄は幻聴か?
それとも涙唄か?
幼い昔に聴いた唄だ。

誰もいない野原に
名もない花が咲いて。

誰もいない野原に
羽虫が飛んでいる。

かつて町だった。
かつて村だった。
そこに
その場所に。
    根本昌幸「帰還断念」 [1]

 放射能をばらまいておいて「美しい日本」などとほざくのは、冗談どころかあまりにもたちの悪い言説である。誰がどの口で言っているのか?
  すべての日本人が選挙前にそのことを理解することができれば、少なくとも福島事故をめぐる政治的問題は一挙に解決するのだが、ずっと目を閉じ、声を聴かないままでいたいと思っている人間も多いのだろう。状況の閉塞感(というよりも激しい後退感)に気づいていない人々が……。

 [1] 根本昌幸『詩集 荒野に立ちて ――わが浪江町』(コールサック社、2014年)pp. 78-81。


 

 
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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(36)

2024年12月21日 | 脱原発

2026年6月26日

 86、7歳になったはずのハーバーマスは、イギリス国民がEU離脱を選んだことを聞いてどう思ったのだろう。イギリスの国民選挙のニュースを聞いて最初に思ったことは、そんなことだった。ニュースは離脱がもたらす経済的影響ばかりを伝える内容が延々と続いたが、私の関心はそんなところにはなかったのだった。
 国民国家の完成をもって歴史の終焉を語ろうとするヘーゲル-コジェーヴ的な思惑を大きく越えて世界大戦が2度も起きたヨーロッパで、国民国家の枠組みを超えたヨーロッパ連合の構想は、大哲ユルゲン・ハーバーマスの悲願のように見えた。そのハーバーマスは、ネオリベラルの支配する未来のヨーロッパ連合を心配していた[1]が、今日の結果はその心配が実際に起きてしまったことによるのではないか。
 恒久的な平和と経済的繁栄を求めようとするヨーロッパ連合は、過去から未来にかけての政治的構造を議論し、認識しうる政治的エリートたちによって牽引されてきた。理念というものは、いつでも認知能力の高い人々によってと打ち立てられてきたことは否定しがたい。
 しかし、EUをリードする国々や政治エリ-トたちもアメリカを中心とする新自由主義的経済と国家運営という枠組みから自由であることは出来なかった。東欧共産圏が崩壊し、次々と東欧諸国が資本主義国家に変わろうとするとき、新自由主義的経済(つまりは政治そのもの)がおそいかかる様子はナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』[2]に詳しい。
 経済破綻したギリシャに突きつけるEUの経済政策要求は、アメリカがIMFや世界銀行を通じて世界中に押し付けた新自由主義的な施策そのものだったことは記憶に新しい。
 新自由主義経済は、日本でも猛威を振るっているように一国内の経済格差を拡大するが、新しくEUに加わる小さな国々を周辺国家化する機制も併せ持つ。経済後進性の強い国の国民は、二重の格差に追い込まれ、移民という名の経済難民としてヨーロッパを流動化し、経済先進国家の人種差別的ナショナリズムを刺激する。
 イギリスのEU離脱のニュースから読み取れるのは、右翼ポピュリズムとネオリベ保守との闘いという構図ばかりである。そこには国民国家を超えるヨーロッパ統合という理念も新自由主義を乗り越える経済構想も聞こえてくる余地がないかのようだ。EU離脱の動きが加盟各国に広がると心配されるのは当然と言えば当然である。
 ヨーロッパ統合が失敗に終われば、歴史は一挙に100年以上も引き戻されるだろう。いや、歴史は決して戻りはしない。新しい悲惨、階梯の高い悲惨が待ち受けるのみだ。
 しかし、ヨーロッパの歴史を心配している場合ではない。この参議院選挙で、自公を中心とする軍国主義的右翼政党を勝たせてしまうと、私たちもまた歴史を100年も引き戻されるよりも過酷な戦争の時代に突き落とされてしまう。まずは私たちの抵抗と戦いだ。

[1] ユルゲン・ハーバーマス(三島憲一、鈴木直、大貫敦子訳)『ああ、ヨーロッパ』(岩波書店、2010年)p. 100。
[2] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)。



2016年7月1日

 言葉が、日本語がとても貧しくなったと思うのは、単に私の言語の感受力が衰えたせいなのだとは思えない(思いたくないということなのだが)。
 かつて、ある政治家が「警察は国家の暴力装置」と発言したら自民党が鬼の首を取ったかのように大騒ぎしたが、政治を志す者がごくごく一般的な政治学的用語を誤解している(知らない)ことはとくに気にならなかった。もともと、政治家にはそれほどの知性があるとは思っていなかったからだ。
 それでも、ある時、日本の宰相が自分を批判する人間を「サヨク」と呼んでドヤ顔を見せたときには少しばかりあきれてしまった。その一言で批判し返したつもりなのだ。彼の中では、「サヨク」という言葉が「お前の母ちゃん、でべそ!」などという言葉と同レベルで整理されているらしいのだ。知性がどうのという以前の話だ。
 いまは、参議院選挙の真っ最中だが、正しく政治の言葉を彼らと闘い合わせることは可能なのか。いや、論戦が不可能であっても、選挙には勝たねばならぬ、そうは思うのだ。そして、これが、こんなことがずっと若い時から私が政治家には絶対なりたくなかったと思っていた理由だと、いつもの選挙の時と同じように繰り返し思い出し、自己確認するばかりだ。

 今、エンツォ・トラヴェルソの『全体主義』という本を読んでいる。新書版の本を図書館の書架で見つけ、フランスで全体主義に関するアンソロジーが刊行されたときの序文で、全体主義に関する議論のまとめのような本らしいことで借り出した。
 「全体主義」という言葉は、多くの場合、共産主義国家を批判する際に多用されて来て、アベ首相の「サヨク」という言葉と同様に、「全体主義」と批判することで共産主義国家の歴史的、政治学的問題には一切踏み込むことなく思考停止してしまう役割を担わされた言葉でもある。
 全体主義と括られる政治システムには、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ロシアのスターリニズムがあって、その特質は必ずしも同じではない。アベ自公政権の現在の日本が直面しているのはファシズムだという人もいれば、ナチズムのやり方にそっくりだという人もいる。私には、民主主義を経験したことのない極東アジアの後進国特有の独裁制のようにも見えて、全体主義の括りから外れている部分もあるように思う。宮台真司のいう「田吾作」、大塚英志の言う「土人」 [1] の国ということだ。
 今度の参議院、続く解散総選挙で現在の政権に勝たせたら、いつかの将来、アビズム(あるいはエイビズム)の(abe-ism:abism)の全体主義における位置づけ」だとか「アビズムとナチズムの差異」などという論考が政治学や歴史学の主題としてもてはやされるかもしれない(日本国民の大いなる犠牲の上にだが)。
 いや、冗談を言っているわけではない。

 青葉通りまで来るとすっかり夜である。明から暗へ遷移していく時間帯をたっぷり使うデモは、とても贅沢である。日暮れ時、人を思い、街を思い、国を思ってゆったりと過ごせればどんなにかいいだろう。そんな時間を許したくないらしいこの国の政治家たちにこんな詩句を。

何も約束してくれないモラリストの方がよい
信じやすく 騙されやすい善よりは 抜けめのない善の方が好き
軍服だの制服だのはない国の方がよい
侵略する国よりは 侵略された祖国の方が好き
常に疑問を抱いていたい
整然とした地獄よりは 混沌とした地獄の方がましと思っている
新聞の第一面よりは グリム童話の方が好き
葉のない花よりは 花のない葉の方を好む
尻尾をちょん切られた犬よりも 尻尾のある犬を好む
           ヴィスヴァ・シンボルスカ「可能性」 部分 [1]

 信じやすく、騙されやすい犬、尻尾を切られた犬にはなりたくない。あいつらに尻尾を振るのは嫌だが、尻尾を振ってあの人には親愛の情だけは伝えたい。尻尾を切られてたまるか。

[1] 大塚英志、宮台真司 『愚民社会』 (太田出版、2012年)。
[2] ヴィスヴァ・シンボルスカ(つかだみちこ編訳)「世界現代詩文庫29 シンボルスカ詩集」(土曜美術社出版販売1999年)p.93。


 

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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(11)

2024年12月19日 | 脱原発

2016年9月10日

 とても細くしなやかな一本の白髪を摘まみあげたとき、ふっと時間が止まってしまったような感覚に陥った。7センチほどの長さで、鋏で切られた跡がない。女性のものだろう。
 さて、この白髪をどうしよう。すこし戸惑っている自分に気づいたが、どうもこうもなく、ゆっくりと屑籠に捨てた。
 水曜日の午後、市立図書館から借りだした本の中に『現代短歌全集 第17巻』があった。〈かわたれどきの頁繰り〉として、木曜日の早朝4時ころ、その本の頁を繰っていた。180頁を開いたら、島田修二の歌に付けられたかぼそい付箋のようにその白髪はあった。

歌ひつづけ歩みつづけて来しからに帰りなんいざ無韻の里へ[1]

 何の根拠もないのだが、この白髪の女性も長い人生を「歌ひつづけ歩みつづけて来」た歌詠み人だったにちがいないと思ってしまったのだった。私は歌詠みではないので、「無韻の里」へ帰りたいと願う心をそのまますんなりと理解できるわけではないが、必死で生きてきた人生からまた別の人生へと願ったことはある。
 ただの偶然にすぎないことを、こんなふうに記してしまうと、なにかそれなりの感傷が生まれたような気分になってしまうが、じっさいはそのあいだ空白の感情のまま過ぎていたようにしか思えない。空白の感情というのは、つまりはうまく表現できる言葉が見つからないということでもある。
 白髪によって誘われた短い時間の感傷を離れ、再び頁を繰っていると、冬道麻子の章で次のような歌を見つけた。

此の世にてめぐりあうべき人がまだいる心地して粥すすりおり[2]

 もしかしたら、私のなかにもこんな若々しいロマンチシズムがかろうじて生き残っていて、あの一本の白髪を眺めていたのだろうかなどと一度は思い、いや、そんなことはあるはずもないと否定してみたり……。その答えなど打ち捨てるように本を閉じ、犬と散歩に出かけた。窓の外はとっくに明るくなっていて、予定時間を過ぎて犬は1時間以上も待たされていた。

[1] 島田修二「渚の日々」『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年) p. 181。
[2] 冬道麻子「杜の向こう」同上、p. 428。

 


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(35)

2024年12月17日 | 脱原発

2016年6月3日

 東日本大震災と福島原発のメルトダウン事故は2011年に起きたが、その年は「アラブの春」と呼ばれた民主化運動が起きたことでも重要な年だった。それから3年、「アラブの春」を取材し続けた中日新聞社の田原牧さんが、再びアラブ世界を訪れ、次のように書いている。

 二〇一一年、そのアラブで騒乱が起きた。いくつかの独裁政権が倒された。同じころ、日本では東日本大震災が発生し、それに伴う福島原発事故を目の当たりにした人びとはデモに繰り出した。それから三年以上が経ち、アラブでも日本でも熱狂の舞台はすっかり暗転し、反動の嵐が吹きすさんでいる。 [1]

 エジプトの民主主義を求めた革命は成功したかに見えたが、ムスリム同胞団は革命の成果を盗んで政権に就いた。しかし、革命時に約束したリベラルな公約をことごとく反故にして強硬なイスラム化政策をとったため、リベラルな市民たちの支持を失った同胞団政府は、アッという間に軍事政権に覆されてしまった。革命は二重に盗まれてしまった。
 日本の脱原発運動もまた、事故後の脱原発への全体的な機運を民主党野田政権が再稼働を容認することで挫き、続く安倍自公政権は再び積極的な原子力推進の舵を切り戻す事態の中で進められてきた。
 国会前の10万人を越える反原発の運動は、5年後の今はたしかにその参加人数を大きく減らしてはいるが、国民の過半を越える脱原発への意思を背景に粘り強く続けられている。今や、国会前は反原発と反戦争法制の二元的共闘の場に化しつつある。
 そういう点において、「アラブの春」と福島事故のその後の経過は必ずしも同じではないが、三年後のアラブ世界を旅した田原さんの次のような言葉は、この日本で反原発と反戦争法制の意思表示を続けている私(たち)にとって、とても強く響いてくる。

 革命の理念が成就すること、あるいは自由を保障するシステムが確立されるに越したことはない。それに挑むことも尊い。しかし、完璧なシステムはいまだなく、おそらくこれからもないだろう。そうした諦観が私にはある。実際、革命権力は必ず腐敗してきた。
 革命が理想郷を保証できないのであれば、人びとにとって最も大切なものは権力の獲得やシステムづくりよりも、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないのか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。
 革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。 [2]

 そうなのだ。民主主義というのは、安倍晋三や橋下徹が単純に考えるような多数決で決めるなどという制度のことを指すのではない。民主主義とは、腐敗し、堕落する権力への不服従を不断に維持しつつ、民主主義的な未来へ永続的に主張し行動し続けることまで包含する永続的な革命全体のことを指すのだ。
 権力に不服従な個人、これが民主主義にとって必須な要素だ。反語的に言えば、権力に不服従な個人に居場所が認められた世界こそ民主主義的な世界だともいえる。そして、今ここにある個人として私の精神、私のありようこそが問われているのである。私は、「不服従という精神」を蓄積しつつ、デモに向かわなければならない。
 田原さんの言葉で深く考えさせられたが、それは辺見庸さんの言葉が私の心の奥底でずっと響いていたためでもあった。

 きょうお集まりのたくさんの皆さん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。 [3]

 多くの人々と一緒にデモを歩きながら、「ひとり」として意思表示しているという実感は、私にはとても重要だ。官邸前の抗議行動に加わると、とくにそのような実感を強くする。あの無数の人々が手作りのプラカードを掲げ、声をあげている様子は、あきらかに「ひとり」、そして「ひとり」、また「ひとり」と集まった人々なのだ。
 やはり、市民の抗議行動、不服従の行動は、国会前での原発再稼働への抗議行動から大きく変わったと思う。ことさら「団結」や「連帯」を叫ばずに大勢の人が集まってくるのだ。五野井郁夫さんが言うように、それは「非暴力」の抗議行動であるとともに「祝祭」 [4] でもあるのだ。

[1] 田原牧『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が残したもの』(集英社、2014年)p. 8。
[2] 同上、p.237。
[3] 辺見庸『いま語りえぬことのために――死刑と新しいファシズム』(毎日新聞社、2013年)p. 120。
[4] 五野井郁夫『「デモ」とは何か』(NHK出版、2012年)p. 8。

 

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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(15)

2024年12月15日 | 脱原発

2016年6月10日

 デモの集会の最後に司会者から指名があって、ストロンチウムの話をしてくれという。福島事故の後はもっぱらセシウムばかりが話題になっているが、ビキニ環礁の水爆実験による第5福竜丸の被爆ではストロンチウムが話題になった。そのストロンチウムである。
 ウラニウム235の核分裂では核分裂生成物として様々な放射性核種が生まれるが、その分布は原子量90と140付近にピークがあって、そのなかで半減期28年のストロンチウム90(Sr-90)と半減期30年のセシウム137(Cs-137)による被爆の影響が大きい(初期被爆では甲状腺がんの原因となる短半減期のヨウ素が問題になる)。
 ベータ線とガンマ線を出すCs-137と違って、Sr-90は純ベータ崩壊のためガンマ線を出さない。そのため、電子であるベータ線の測定が難しいこともあって、Cs-137のようにあまり測定されることがない。測定されてもデータにばらつきが多く精度に劣る例が多い。
 問題は、測定されていないということでSr-90の汚染をないことにしようとする原発推進勢力の思惑が強いことである。しかし、核分裂ではCs-137の量に匹敵するSr-90が生まれているうえ、セシウムはナトリウムやカリウムと同じアルカリ金属、ストロンチウムはマグネシウムやカルシウムと同じアルカリ土類金属で、化学的性質が比較的似ているため、原爆から放出された後の挙動に極端な差があるとは考えにくい。測定していないことをいいことに、Sr-90の汚染はCs-137の1000分の1だとか2000分の1だとする言説があるが、まったく根拠がない。食品の政府規制値がkgあたりCs-137、100ベクレルだとすれば、それにともなってかなりの量のSr-90が含まれていることになる。
 おおむね、そのようなことを話した。Cs-137は1個のベータ線を出して崩壊するが、Sr-90は1個のベータ線を出してY-90(イットリウム90)に崩壊し、さらにY-90はもう1個のベータ線を出して安定なジルコニウム90に崩壊する。つまり、Sr-90は内部被爆においてCs-137の2倍の破壊力を持っている、ということまでは話しそびれた。


2016年6月17日

 デモ前集会の最後に、今日も司会者から指名と話題の指示があって、「管理区域」の話をした。
 放射性物質を扱う事業所や職業人を対象とした法律である「放射線障害予防法」に年5mSvを超える被爆のおそれがある施設を管理区域にし、管理区域境界では年1mSv以下としなければならないと定められている。
 管理区域には一定の放射線作業についての教育・訓練を受けた人間のみが立ち入りを許され(未成年は不可)、区域内での飲食は厳禁される(法は内部被ばくの恐ろしさを知っているのだ)。放射線作業従事者の被ばく線量限度は1年で50mSvを越えず5年平均で20mSv以下としなければならない。実際には、成年男子や妊娠の可能性のある女性、身体の部位などに応じて細かな限度が設けられている。この線量限度は、そこまで浴びても大丈夫という指針では決してない。職業上の利益と交換しうるぎりぎりのリスクという意味である。
 私が関係した大学の管理区域での被ばくはフィルムバッジ(とガラスバッジ)で管理されていたが未検出がほとんどであって、たまにわずかでも検出されるとすぐに対策がとられて、法で定める線量限度まで被曝することはまったくなかった。これはほとんどの事業所でも同様で、福島事故以前は少なくとも管理者も作業従事者も法的な線量限度に関係なく「できるだけ放射線は浴びない」という「常識」で行動していたのである。福島の原発事故はそのような健全な常識をも打ち壊したかのようである。


 

 
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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(34)

2024年12月13日 | 脱原発

2016年4月15日

 熊本の大地震の震度7という報道に驚いてまんじりともせず夜を過ごした。東日本大震災のとき、仙台のわが家の近辺ですら震度6だったので、どれほどの被害が出るのか想像できない震度で、テレビにしがみつくしかなかったのだ。
 東日本大震災は現地で震度6を体験したのだが、神戸淡路大震災の時のように離れた土地で起きる震災では、被害が甚大なほど通信網もずたずたになってニュースがまともに伝わらない。
 神戸淡路大震災の時に比べれば、熊本からは被害の報道がそれなりに流れているように見えたが、把握できているのはわずかで、まだまだ被害が拡大するという怖れは払しょくできないのだった。
 「川内原発には異常がない」という報道もあったが、こちらはまるっきり信用できない。たしか、福島第一原発事故の時も地震直後にはどの原発にも異常はないという報道があったような記憶がある。

 デモを終えて家に帰り、夕食もそこそこにテレビとネットで熊本の震災のニュースを追う。日が変わったらさらに大きい地震が起きたという。次々と地震が起きて、被害が拡大しているというニュースだ。
 最初の地震は布田川・日奈久断層帯で起きた地震だが、その後の地震は阿蘇、大分へと震源が移動している。中央構造線に沿った断層帯で次々地震が発生しているということで、気象庁の青木元地震津波監視課長は「広域的に続けて起きるようなことは観測史上、例がない事象」(毎日新聞)である可能性を示唆した。
 また、地震予知連絡会会長の平原和朗・京都大教授も「今後、何が起こるかは正直わからない。仮に中央構造線断層帯がどこかで動けば、長期的には南海トラフ巨大地震に影響を与える可能性があるかもしれない」(朝日新聞)と話し、同じ記事には、東北大の遠田晋次教授が地震活動が南へ拡大する可能性も指摘している。
 震源地が東に移動すれば、中央構造線上にある伊方原発が心配になる。さらに、南海トラフ巨大地震ということになれば静岡の浜岡原発が確実に危なくなる。遠田教授は日奈久断層帯の南端(川内原発に近い)での地震発生を心配するが、日奈久断層帯以外でも次々と地震が発生していることを考えれば、さらにその南の川内原発間近の断層帯での地震発生の可能性も否定できないはずだ。
 九州電力は震度5程度の地震で川内原発は自動停止するから安全だと主張していた。最初の地震はともかく、後続の地震では川内原発付近も震度5に達したはずだが自動停止はしていない。これは、安全装置が作動しない「異常」ではなかったのか。
 この点に関しては九州電力には前科があるという(「小坂正則の個人ブログ」記事より)。19997年3月に川内市は震度6の地震に見舞われ、市内の揺れは444ガルだったのに川内原発では64ガルの揺れしか検出せず、そのまま原発の運転を続けたのだという。今回もまた地震計がまとも作動していなかったという疑いは晴れないのである。
 なぜ、ここまで安全性に配慮することなく原発の稼働に妄執するのだろうか。いったん原発を止めたら再稼働が不可能になると恐れているのだろうか。仮に私が原発推進の電力会社の人間だとしたら、「即刻原発を止めて安全確認をしました。私たちは原発の安全運転に最大の配慮をしています」と大いにアピールする方が長期的には得策だと思うのだが……。
 それとも、自公政権や電力会社は原発が動いている限り自分たちの利益は確保できる、原発なしには自分たちは安寧でいられないとでも妄信しているのであろうか。原発停止と存在不安が直結しているのか。ここまでの執着を見ていると、単なる経済的利益を守るレベルを超えているのではないかと思えてくる。どこかカルト的な信仰心に似たような心性に落ちこんでいるのではなかろうか。政治・経済的イッシューではなくて、精神病理学的な領域でしか解決できない問題ではないかとさえ思えてくる。

 

2016年5月20日

 熊本・大分大震災の被害が続いているというのに、2020年東京オリンピック開催決定を巡る日本側の買収だとか舛添東京都知事の公金不正支出問題などでマスコミが大騒ぎしているさ中、19日の参議院法務委員会で「改正刑事訴訟法」(国民盗聴法)がたいした報道もされずに成立した。国民の自由を憎んでいるかのようなファシズム的統治システムが次々とできあがっているのだ。
 そのニュースと重なるように、沖縄県うるま市で若い女性が元米兵に殺害されるというニュースが流れる。アメリカによる植民地支配をもののみごとに象徴する事件なのに、アメリカとの軍事同盟だけが彼らの生命線と信じている自公政権はまったく関心を示さない。まったくいいニュースがないのだ。「みんな安倍のせいだ」というのが、合言葉のようになりつつある。
 小さな話題だが、「いやな感じ」のニュースがネットで流れてきた。東京のあるカフェで「WAR IS OVER」と「GO VOTE」という小さなビラを店の看板の脇に貼っていたところ、通行人が「政治的過ぎる」とビルの管理者にクレームを付けたうえで「2週間後に確認に来る」と言ったというのである。
 ネットでの大方の反応は、当然ながら「WAR IS OVER」や「GO VOTE」のどこが政治的なのか、というものだった。しかし、「政治的で何が悪い!」と断言する人もいて、私には、これがもっとも正しい反応だと思える。
 かつて、総選挙を前にして「みんな家で寝ててくれればいい」と語った保守政治家がいたが、これは「家で寝ていること」が保守政権にとってもっとも都合のいい国民の「政治的行動」だということを露わに示している。
 「家で寝ている」ことですら決定的に「政治的」なのである。ましてや、ビラが政治的だとクレームをつけるのは「過激な政治行動」だ。本人は、中立な立場で非政治的な正しい行いをしていると信じているかもしれないが、愚昧の極みである(最近、「〇〇の極み」というのが流行りらしい)。
 辺見庸さんが魯迅の『阿Q正伝』を引いて、次のようなことを書いていた。

 満州事変の発端となった柳条湖事件から八十一年目となる九月十八日にも、北京、上海、広州など中国全土で反日デモが行われ、満州事変記念館がある遼寧省瀋陽市では、日中戦争で殺された中国人を哀悼してサイレンが鳴らされた。それと同時に現地のテレビでは「国辱の日を忘れるな」という字幕が映しだされた。サイレンは安徽省、山西省、雲南省など数十の都市でも鳴らされ、市民らが黙禱した。まったく同じ日、若者たちで満員の東京・日本武道館では「AKB48 29th選抜じゃんけん大会」が盛大に行われ、テレビが「緊急生中継」した。二つのできごとには、日中両国の幼(いと)けない阿Qの子孫たちが参加していたことを除けば、とくに共通性はない。 [1]

 時代を遡っていえば、紅衛兵のこともある。政治に煽られて暴走する人々も、AKB48の熱狂する人々も「日中の幼(いと)けない阿Qの子孫たち」なのである。先のクレーマーもまた阿Qそのものだ。

阿Qとは、握れば一つに固まっているようでも、所詮は手指からパラパラとこぼれおちてゆく砂(中国語で「散沙」)のような、哀しくも滑稽な民衆の原像でもあった。阿Qは、ちゃらんぽらんで、なんでも自分に都合よく解釈するオポチュニストであり、時に応じて付和雷同する貧しい愚民の典型である。つまり、魯迅が仮借なくつきだした昔日の中国民衆像が阿Qなのだが、しかし、阿Qの末裔は現代中国のみならず、この日本でも、いや、世界各地でいま急速に増殖してはいないだろうか。 [2]

 今、日本でも大勢の阿Qたちがおのれの行為の政治的意味を知ってか知らずか、右翼政治権力の「生政治」の操られるまま社会の閉塞化、ファシズム化へと加担し続けている。

 私がいちばん気にしているのは、この時代のファシズムは、我々が自ずからやってしまうことであるということです。一生懸命、真面目にやってしまうということです。それはこれから来るということではなく、まさに最中であると思うんですね。あるいはもはや事後かもしれない。僕が苛立つのはそこです。 [3]

 魯迅は阿Qの愚かさを仮借なく描き出したが、阿Q(たち)を愛してもいたのだというのが正しい『阿Q正伝』評なのだろうが、私は、現代日本の阿Qたちを愛しているとはとても言い切れない。
 私もまた無自覚な阿Qではないかと怖れつつ、今日もデモに行くのだ。 

[1] 辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社、2013年)p. 26。
[2] 同、p. 25。
[3] 同、p. 194。

 

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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(10)

2024年12月11日 | 脱原発

2016513

 この頃、めっきり読書量が減った。読書の時間が少なくなったことと、読みたい本がなかなか見つからないのである。読むべき本はたくさんあるが、読む気になれる本が少なくなった。興味や関心を維持する気力が減退したのだろう。
 「日本会議」が出版社に出版停止を求めたということもあって、入手困難だと話題になっている菅野完さんの『日本会議の研究』という本も、刊行二日後にはきちんと手元に届いた。さっそく読み始めたが、15ページくらいで止まってしまった。面白くないわけではない。なぜ、日本会議のもろもろの事情を読まねばならないのか、腹が立ってしまったのだ。敵の本質を知ることは政治的闘いには重要であり、この本が批判的に書かれているとは分かっていながらも、心底から軽蔑している人間たちの行いを詳らかに読むのはなんとも気が進まないのだった。私が政治家にも運動家にもまったく不向きな理由だ。
 読書に費やする時間が減ったこともある。早朝3時半から4時くらいに目覚めて、それから6時くらいまで本を読み、6時から7時くらいまではイオという犬と散歩するのが習いだった。ところが、イオも年老いて足が弱り、近所をゆっくりと歩くだけになった。4050分ほどかかるが、私の歩数は1000歩程度で終わってしまう。イオの調子次第では500歩という時もある。イオには散歩であっても、もはや私には朝の散歩とは言い難い。
 そこで、朝5時にイオとの散歩に出て、次いで7時くらいまで私一人で歩くことにした。急ぎ足での散歩は1時間強で8000歩ほどになる。相棒がいない無聊さを償おうとカメラをぶら下げていくが、写したいと思う被写体はほとんどない。いや、被写体を発見する能力がないのだ。
 そんなことで朝の読書時間が減った。減ったどころか、ゆっくりと読めないと思うと、本を開くことさえまれになったのだ。ほかの時間帯を読書に使えばよさそうなものだが、そちらはそちらで習いとしてやるべきことがあるのだ。

人生に宿題が多すぎて
読むべき本としんぶんとてがみと
うたふべきうた きくべきうたが多すぎて
まるで 生きてゐるひまがない

     吉原幸子「無意味なルフラン」部分 [1]

 若いころ、こんなことを気取って言える人生を夢見ていたが、このフレーズが似合わない方へ私の人生はどんどん傾いでいくようだ。
 本が読めていないなあ、という実感にさいなまれているものの、数日前に2冊の本をあっという間に読み終えた。2時間近く仙台市図書館を徘徊しても読みたい本が見つからず、これでいいかと手にした本が上原善広著『日本の路地を旅する』だった。同じ著者の『異貌の人びと』が並んでいたのでそれも借り出した。表紙に「中上健次は、/そこを「路地」と呼んだ/「路地」とは/被差別部落のことである」とあった。「中上健次」の名前と「被差別部落」という言葉が借り出した最大の理由である。
 自らも関西の被差別部落の出身である著者が日本中の被差別部落を訪ね歩いたルポが『日本の路地を旅する』で、世界のさまざまな被差別民を訪ねたルポが『異貌の人びと』である。著者の心情と差別され続ける人々の複雑な感情が織りなす物語といえるようなルポルタージュだ。著者の恋愛や幼年期、家族との複雑な感情の交流まで内包する良質のエッセイ、小説といってもよいような作品である。二日で二冊、あっという間に読み終えた(他のことどもを投げうって)。
 私たちの社会に深く根差している差別。貧しい農漁村への差別としてあった原発建設。琉球の民族差別を押し隠して進められてきた沖縄の軍事基地化、新たに壮大な経済差別を生み出し続ける新自由主義なグローバル政治、その末端としての自公政権が課している民主主義を要求する日本国民への政治差別。極右政権を後ろ盾としてマイノリティへ言葉の猛威を振るうヘイト集団。
 差別を克服し、否定しようと意思表示をする人びとを社会的に孤立させ、差別することによって成立しているようなこの国の政治システムに思いが及ぶのも、脱原発デモの効能の一つかもしれない。

[1] 『吉原幸子全詩 II』(思潮社、1981年) p. 113

 


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (22)

2024年12月09日 | 脱原発

2016年7月22日

 デモの列に前後して写真を撮りながら、一枚の写真を思い浮かべていた。ジル・キャロンの《サン=ジャック通りで舗石を投げる人、1968年5月6日》 [1] と題する写真である。
 6月の末に東京都美術館で開かれている『ポンピドゥー・センター傑作展』で見た一枚だ。その美術展では、1906年から1977年まで1年に1作品だけを当てて選んだ作品が展示されていて、その写真はタイトル通り1968年の作品として展示されていた。
 1968年のカルチェ・ラタンの一シーンで、砕いた敷石を投げる一人の青年の後ろ姿が写っている。空中に浮かぶように写しとられた石礫の先に壁のように並ぶ黒ずくめの警官が立っている。弾圧する国家権力への激しくも切ない一投の瞬間である。
 機動隊に押しつぶされ、暴力をもって排除されている沖縄・高江の人びとの一投はいったい何だろうと考えてみる。言葉だろうか、眼差しだろうか。あるいは生身の身体そのものだろうか。
 才能があれば、その場でこのような一枚を撮ってみたい。ジル・キャロンの写真を見た一瞬、そんなことを思ったのだが、いったい石を投げる人間になりたいのか、それを写しとる人間になりたいのか、この年になるまで分かっていないことに気づくばかりだった。

 デモはいつものようにとても元気に進み、青葉通りに入る。国道4号の大通りを越えれば、もう解散地点である。沖縄・高江の映像がもたらす感情をうまく処理しきれないままに歩いていたが、コールをあげていると少しは気分が和らぐのだった。
 どのような組織、セクトにも属していない私は、いつでもただの一人としてデモに参加している。そんな私でも、この社会で生きていくからには多くの組織、集団に帰属することになる。かといって、けっして私が帰属するものを無条件に愛するなどということはない。おそらくは、私はもともと帰属意識が希薄なのである。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
                 寺山修司 [2]

 若いころからしばしば寺山修司のこの歌を思い浮かべて、「愛するに足る祖国であるか」、「愛するに足る〇〇であるか」という設問を立てていた。日本で生まれたという単純な事実のみで無媒介に祖国愛とか愛国心に突き進む心性がいかに歴史を誤ったかはあまりにも明白なので、寺山修司のこの歌でみずからが帰属するものから少し身を引き、踏みとどまるのはけっして悪いことではないと思ってきた。
 しかし、日本の政治権力が警察という国家暴力装置を駆使して沖縄の辺野古や高江で行っている大衆意思の圧殺の時代を生きていると、寺山の歌をさらに突き詰めて考えざるを得ないだろう。
 こんな歌がある。

初夏愕然として心にはわが祖國すでに無し。このおびただしき蛾
                   塚本邦雄 [3]

[1] 『ポンピドゥー・センター傑作展 ―ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―』(朝日新聞社、2016年)p. 163。
[2] 寺山修司短歌集(鵜沢梢選)『万華鏡』(北星堂書店 2008年) p. 72。
[3] 『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』(国文社 1988年)p.45。


 


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(33)

2024年12月07日 | 脱原発

2016年3月11日

 5年前の3月11日も小雪のちらつく寒い日だった。町内の避難先はすぐそばの県立高校だったが、グランドが避難先で建物には入れないのだという。避難先で凍死などというのは悪すぎる冗談で、川向こうの小学校に避難させてもらうことになった。
 町内会が今も市と交渉しているのだが、市の管轄外の県立高校なのでうまくいかないのだというのである。どんな災害が起きても、役所は旧弊を変える気はないということらしい。政治家や電力会社のように、ここでも学習しない人たちがいる。
 錦町公園での集会が始まるころから雪がちらつき始めた。ここのところずっと暖かだったのに、今日にかぎってまるで5年前と同じだ。涙雨とはよく言うが、涙雪というのもあるらしい。
 集会は長い黙祷で始まった。これは脱原発の集会だが、参加者のなかには肉親や友人、知人など身近なひとたちを喪った人も大勢いるだろう。私も、家をそっくり流されたり、肉親を亡くした同級生を励ますための会を立ち上げたのだったが、本人たちの心が落ち着くまで待つのに二年もかかったのだった。心の傷が癒えるには長い時間が必要なのだ。そして心の傷が癒えないことを助長するかのように、5年も経ったのに復興はまったくの道半ばなのである。
 黙祷が終わり、主催者挨拶は、「女性自身」という週刊誌(3月22日号)の「福島県60小中学校『放射性物質』土壌汚染調査『8割の学校で18歳未満立ち入り禁止の数値が出た!』」という驚くべき内容の記事のことだった。調査した60ヵ所の約8割で「放射線管理区域」の指定を受ける4万ベクレル/m^2を超える高い数値が観測されたという記事である。
 「放射線管理区域」とは、空間放射線量や表面汚染線量が一定の値以上の場所で、法によって一般人の立ち入りが禁止され、放射線作業従事者(18歳以上で、かつ一定の教育訓練を受けた者)だけが立ち入り可能で、そこではすべての飲食が禁止される。小学生や中学生がそこで暮らすことなど絶対的に法で禁止されている場所なのだ。にもかかわらず、福島原発事故以降は放射線被ばくに関してはまったくの無法状態である。「復興とはいったい何なのか。日本はまったく狂っているとしか思えない。」と怒りのスピーチである。
 3月11日、それに続く東電福一の原発事故の5年後の日を前に、とても大きなニュースがあった。3月9日に、大津地裁が関西電力高浜原発3、4号機の運転を禁止する仮処分決定を行ったのである。主文は、「債務者は、福井県大飯郡高浜町田ノ浦1において、高浜発電所3号機及び同4号機を運転してはならない。」というものだ。
 4号機はすでに緊急停止で止まった状態で、3号機は直ちに運転を停止した。最大限の敬意を表して裁判官の名を記しておこう。山本善彦裁判長、小川紀代子裁判官、平瀬弘子裁判官の三人である。
 決定文(脱原発弁護団全国連絡会のホームページに掲載されている)のなかに、次のような記述がある。

福島第一原子力発電所事故の原因究明は,建屋内での調査が進んでおらず,今なお道半ばの状況であり,本件の主張及び疎明の状況に照らせば,津波を主たる原因として特定し得たとしてよいのかも不明である。その災禍の甚大さに真撃に向き合い二度と同様の事故発生を防ぐとの見地から安全確保対策を講ずるには,原因究明を徹底的に行うことが不可欠である。この点についての債務者の主張及び疎明は未だ不十分な状態にあるにもかかわらず,この点に意を払わないのであれば,そしてこのような姿勢が,債務者ひいては原子力規制委員会の姿勢であるとするならば,そもそも新規制基準策定に向かう姿勢に非常に不安を覚えるものといわざるを得ない。
 福島第一原子力発電所事故の経過(前提事実(6)イ)からすれば,同発電所における安全確保対策が不十分であったことは明らかである。そのうち,どれが最 も大きな原因であったかについて,仮に,津波対策であったとしても,東京電力がその安全確保対策の必要性を認識してさえいれば,同発電所において津波対策の改善を図ることが不可能あるいは極度に困難であったとは考えられず,防潮堤の建設,非常用ディーゼル発電機の設置場所の改善,補助給水装置の機能確保等,可能な対策を講じることができたはずである。しかし,実際には,そのような対策は講じられなかった。このことは,少なくとも東京電力や,その規制機関であった原子力安全・保安院において,そのような対策が実際に必要であるとの認識を持つことができなかったことを意味している。現時点において,対策を講じる必要性を認識できないという上記同様の事態が,上記の津波対策に限られており他の要素の対策は全て検討し尽くされたのかは不明であり,それら検討すべき要素についてはいずれも審査基準に反映されており,かつ基準内容についても不明確な点がないことについて債務者において主張及び疎明がなされるべきである。(決定文44-45頁)

 福島の原発事故の原因が解明されていないにもかかわらず作成された新規制基準や再稼働への行為そのものに疑義を呈している。そして、それらの問題を超えて原発が安全であることについては債務者(関西電力)が責任をもって証明しなければならないと主張している。
 おそらく、現在の原子力村の科学力、技術力では福島事故の解明は当分不可能であろうから、大津地裁の決定文の論理は、再稼働を目指すすべての原子炉にそのまま適用できるものだ。
 これで、志賀原発、大飯原発、高浜原発と三つの運転差し止めの判決が出た。川内原発の再稼働を容認した裁判官たちは心寒い気分に陥っているに違いない。こうして少しずつであってもこのような判例が増えていくことは、これからいくつも続く原発差し止め訴訟で必ずや良い影響を与えるだろう。
 政府の意向に従順な裁判官も少なくないだろうが、法の論理を重んじる裁判官だって少なくないはずだ。これらの判例の論理を重く受け止めてくれることを期待してもいいのではないかと思う。地裁レベルでこのような判決が増え、それが高裁を動かし、もっともあてにならない最高裁も無視できなくなることを、私は期待している。
 泥憲和さんという元自衛官の方がいる。安保法制などに積極的に発言を続けておられ、2月28日に開催された「憲法9条のもとで自衛隊の在り方を考える」(立憲民主主義を取り戻す弁護士有志の会、野党共闘で安保法制を廃止するオールみやぎの会主催)でも講演されている(残念ながら、私は所用で聞くことができなかったのだが)。
 その泥さんが、じつに明快(痛快)に今度の大津地裁の決定文を要約されて、フェイスブックに(ツィッターにも)投稿されている。

【快挙!高浜原発運転差し止め決定】

 ざっくりいうとですね、

「福島原発事故の原因さえわかってないのに、この段階で安全であるなどと、どの口が言うのか」(意訳)

「人類の経験など浅いもので、地球温暖化の影響などで今後どんな災害がやってくるかも分からんのに、裁判所に対して十二分に安全対策がなされたと見なせというのか、ふざけるな」(意訳)

「福島事故を経験したにもかかわらず、過酷事故に対応する設計思想はあかん、外部電源の問題も失格、地震想定もさっぱりで、津波対策はろくなもんじゃないし、避難計画さえまともじゃない。
こんなことで運転許可なんかできるか!運転差し止め!」(意訳)

ぶった切りですな。 

拍手! 

 この通り、もう言うことなしである。


 

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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (21)

2024年12月05日 | 脱原発

2016年3月27日

「3.27 NO NUKES Parade !  ―みんなで止めよう女川原発―」
集会アピール


 あれから5年経ちました。あの日、3月11日午後2時46分に、東北地方太平洋沖地震が起き、それによって東京電力福島第一原子力発電所では1号機、 3号機、4号機の水素爆発、2号機の格納容器破損という史上最悪の原発事故が発生して、悪夢のような放射能汚染と放射線被曝が始まりました。原発事故が生み出した放射能は、16万人の人々を福島の地から追い出し、残された町は人が住むのが困難な土地になってしまいました。
 あれから5年も経ちました。事故を起こした4基の原発は、日本の科学技術では手の施しようもないまま、いまも大量の放射能を海と空に吐き続けています。いまだに10万人余りの人々は故郷に帰れる望みがありません。故郷の町では、強制的に遺棄させられた家畜やペットが命を失ったばかりではなく、すべての生き物たちが放射能に傷ついています。そして、私たちが何よりも恐れていた甲状腺がんの多発は、宮城県に住む私たちにとっても決して他人ごとではありません。
 あれから5年経った今、私たちの子ども、そのまた子ども、そしてずっと未来の子どもたちのことを考えると、心も体も震えるばかりです。それなのに、政府や電力会社は福島を放置したまま、原発の再稼働を始めています。いくつかの裁判では、危険な原発の再稼働を認めない判決が下されました。しかし、私たち多くの国民の願いを聞くこともなく、政府は再稼働への動きを止めようとはしません。
 あれから5年、私たちは、宮城県で生きていく私たちと子どもたちのために、女川原発の再稼働に反対し続けています。日本の未来の子どもたち、地球の未来の子どもたちのために、すべての原発を止めるよう求め続けています。
 仙台市の、宮城県の皆さん、そしてこれからを生きていくすべての皆さんに訴えます。未来の子どもたちに健康で光り輝くような故郷を残すために、どうか原発廃棄の声を上げ続けている私たちの列に加わってください。
 2016年3月27日                         
    「3.27 NO NUKES Parade」参加者一同

(このアピ-ル分は、恥ずかしながら私が起草した。)

 


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