かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

原発を詠む(3)――朝日歌壇・俳壇から(9月9日~10月31日)

2012年10月31日 | 読書

 朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした(宮城版「みちのく歌壇、俳壇」を含む)。

 朝日新聞を購読していて、ある日、投稿欄に原発事故やそれに関連したことがらを詠んだ短歌や俳句を見つけて、それを拾い上げてみようと思い立ったのは7月半ばだった。
 まだその頃は、週1回掲載の「朝日俳壇・歌壇」には原発事故や反原発デモを詠んだ短歌が5,6首は選ばれていた。

 俳句は今でも「花鳥風月」を取りあげる写生俳句が主流らしく、深刻な社会事象を扱わないようだ。もちろんまったく選ばれないわけではないが、さすがに金子兜太は取りあげることが多かった。
 太平洋戦争の時代を俳人として生きた山口誓子水原秋桜子も俳句の主題としては、ほとんど重大な社会的事象である戦争を取りあげてはいない。高浜虚子以来の俳句の宿命と言うべきだろう。

 10月に入ったら原発関連の歌、句がほとんど掲載されなくなった。それを詠む投稿者が少なくなったことも理由にあるかもしれないが、短歌、俳句でありながら「新聞の投稿欄」という枠組もまた少なくなった理由であろう。選者としては、優秀な短歌、俳句を取りあげるということを旨としているだろうが、社会的なトピックスについても配慮せざるを得ないだろう。しかも、さまざまなトピックスのバランスを考えて。したがって、ある程度の数の原発やデモの歌、句を選んでしまえば次の社会的トピックに目が移るのだろう。

 やむを得ない、といえばそうなのだが、福島だけではなく、原発事故によって苦しむ現実そのものは事故直後とほとんど変わっていない。にもかかわらず、新聞のある欄からは消えつつある。何か事件の後の新聞の社説は、しばしば「これを風化させてはならない」と主張していて、もちろん、私もそれに同意することが多い。原発事故に関しては(地震、津波の被害についてもだが)、私の周囲ではいまだに生々しい話題である。けれども、少なくとも「朝日歌壇、俳壇」ではその主題はほとんど取りあげられなくなった。その点に関していえば、私の周囲では、新聞が一番早く風化させているのである。ある程度までは事情を推察できるとはいうものの、残念ながら結果的にはそうである。

 いずれ、朝日歌壇・俳壇で原発事故がどう詠まれたか、2011年3月11日から2012年7月半ばまでの分をまとめてみたいと思っている。それには図書館で縮刷版に当たることになる。勤勉さに欠ける私にはしんどいことだが。

 さて、9月9日~10月31日のほぼ2ヶ月分を以下に示すが、これだけである。

 

カワセミが丸太の杭の年輪の上に止まりて線量計はその下
                              (奥州市)大松澤武哉 (9/9 佐佐木幸綱選)

ふるさとを語るとき原発を言わねばならず悲しかりけり
                              (郡山市)佐藤一成 (9/17 佐佐木幸綱選) 

ゼッケンに原発阻止と墨書して独りのデモが炎天を行く
                              (堺市)梶田有紀子 (9/17 高野公彦選) 

原発の海より風の吹く夕べ人居ぬ町にカナカナの鳴く
                              (青森三沢市)遠藤知夫 (9/19 桜井千恵子選) 

ホームレス脱原発署名かきくれぬ住所のなきは無効といえり
                              (神戸市)北野中 (9/24 馬場あき子選) 

なにげなく散歩に出でし真夏日のかげろふの中に原発の廃墟
                              (福島市)渡辺恭彦 (9/26 桜井千恵子選) 

被災地より避難者最多の山形の「住んでみたい度」高くはあらず
                              (山形市)黒沼智 (9/26 桜井千恵子選)

サバンナなら数十キロは駆けたるか原発村を駝鳥出でざり
                              (横浜市)犬建雄志郎 (10/1 馬場あき子選)

二基だけが種火の如く囲われて古い基準で動き続ける
                              (福井市)佐々木博之 (10/22 永田和宏選) 

セシウムの茸を食った鹿の群何事も無く足取り軽く
                              (前橋市)船戸菅男 (10/22 馬場あき子選) 

兀兀(こつこつ)と人生きるなりふくしまの重いひき臼しずかにまわし
                              (福島市)青木崇郎 (10/22 佐佐木幸綱選

 

天の川汚染の空に仄白し
                    (座間市)斎藤敏昭 (9/17 長谷川櫂選) 

みちのくに人は還らず秋刀魚焼く
                    (横浜市)永井良和 (10/1 金子兜太選) 

人もまた絶滅危惧種露葎(つゆむぐら)
                    (川崎市)半澤博子 (10/1 金子兜太選) 

放射能汚染国土を秋の風
                    (東京都)森川嘉子 (10/8 長谷川櫂選) 

柿熟れて触れる人なし汚染の地
                    (須賀川市)佐藤国喜 (10/31 岩田諒選)


『東山魁夷展』(後期) 宮城県美術館

2012年10月24日 | 展覧会

 展覧会の図録に掲載されているものの、宮城県美術館では展示されない絵がいくつかあった。共同企画の北海道立近代美術館では展示されたのだろう。その中で一瞬「写真ではないか」と疑うほどの絵があった。 オーストラリアはザルツブルグでの取材による《樹》である。

 日本の風景を描く、あるいは日本のどこかに画題を取った場合、東山魁夷の絵は、日本の風景の解釈と風景に対峙する画家の美意識はしっかりと確立されていて、写実的であることから大きく離れて、いわば画家の心象風景とも言うべき幻想的な表象として立ち現れているようである。つまり、日本人の美意識が感受しうるような一般化された(抽象化された)風景、日本人が日本画に描かれる風景としてその美を感受しうるような共同的審級に深く根ざして描かれているのではないか、と思う。

 ところが、図録の中の《樹》を眺めていて思いついたことは、ヨーロッパに取材し、画題を定めた絵は、日本の風景を描く場合とは異なって、比較的写実に徹しているのではないか、ということだった。


            《樹》(展示なし) 1984(昭和59)年(オーストラリア、ザルツブルグ)、
                  紙本彩色・額装、114.0×162.0cm、横浜美術館。 [1]

 図録に収められた《樹》を見たとき、写真ではないかと疑った。何回も繰り返された剪定の跡など、そのリアルさは圧倒的である。
 そして、日本画の世界で共有しうる自然とは微妙に異なるヨーロッパの自然を前にして、写実性を重んじるように描く真摯さがこの画家にはあったのだ、というのが思いつきから始まったストーリーだった。 


         《映像》 1962(昭和37)年(スウェーデン、ノルディングロー)、
                  紙本彩色・額装、147.5×221.5cm、東京国立近代美術館。 [2]

 しかし、そのアイデアは上の《映像》や《森の幻想》 [3] のような極端に幻想的、心象的な絵によってあっさりと否定される。湖に映った冬木立は「超現実的な世界」を構成し、画家は「幻想的な情感」を表現する。

 だから、《樹》を見ての私の思いつきは訂正されなければならない。ヨーロッパに取材した絵画群は、日本の風景の場合に較べれば、幻想性(心象性)と写実性のきわめて大きな振幅を示している、と。
 日本画の伝統、日本的美意識の累積によって見慣れた日本の風景は、画家の心象を経ることで現実よりさらに強く日本の風景になる。結果として表象される風景は幻想性を帯びることになる。それを私たちは、日本画家の優れた心象として受けとる。

 一方、ヨーロッパの風景にも日本の風景に共通するものもあるだろうし、画家にとって新しい(場合によっては、異様な)風景として映るものもあるだろう。そして、美しい風景画を描く画家は、やはり自然(風景)に対して真摯であるだろう。だとすれば、時として強く幻想的に描き、時として写実的に描くということがあっても不思議はないのではなかろうか。


       《静唱》 (後期のみ)1981(昭和56)年(フランス、パリ郊外・ソー公園)、
            紙本彩色・額装、140.0×203.0cm、長野県信濃美術館 東山魁夷館。 [4]

 《樹》と同じように、湖面に映る影によって構成される美しさを共通して有する絵を見てみよう。一つは、ヨーロッパで取材した《静唱》で、東山魁夷の絵としては写実性が強い。もう一つは、よく知られた《緑響く》である。明らかに写実的風景と言うより東山魁夷的風景とも言うべきもので、1頭の白馬を配することで極度に幻想的な印象を与える。


           《緑響く》 1982(昭和57)年、紙本彩色・額装、84.0×116.0cm、
                 長野県信濃美術館 東山魁夷館。 [5]

 《静唱》と《緑響く》という2枚の絵の比較も、私の間違った思いつきの原因だったのである。

 後期に入れ替えた作品の中では、どうしても《木枯らし舞う》 を見たかった。ヨーロッパに取材しながら、きわめて幻想的な画家晩年の作である。木の葉が舞う、というよりも、木の葉が辿る風の道を描いているようだ。
 《木枯らし舞う》 を見て、即座に思い浮かべたのが速水御舟の「炎舞」(大正14年、山種美術館)である。上へ上へと燃えあがる赤い炎の周囲を9匹の蛾が舞っている絵である。蛾たちは炎に焼かれて死ぬ運命にあるのか、立ち登っていく炎の道を通じて天上へ向かっていくのか、いわば生と死のあわいを幻想的に描いたものである。ともに、見えない気の道を描いているような印象を受ける。

  
        《行く秋》(展示なし) 1990(平成2)年(ドイツ北部)、紙本彩色・額装、
              114.0×162.0cm、長野県信濃美術館 東山魁夷館。 [6]


      《木枯らし舞う》 (後期のみ)1997(平成9)年(ドイツ北部)、紙本彩色・額装、
                81.0×116.0cm、長野県信濃美術館 東山魁夷館。 [7]

 図録で《木枯らし舞う》の直前に掲載されている絵が《行く秋》である。この絵もぜひみたいものだと思ったのだが、残念ながら展示はされなかった。
 《木枯らし舞う》と較べれば細密で写実的なのだが、それがそのまま琳派につながるようなデザイン性豊かな障壁画のようにも見える。日本画の持つ強靱な描写力なのだと思う。

[1] 『東山魁夷展』(以下、図録)(日本経済新聞社、2012) p. 141。
[2] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 79。
[3] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 109。
[4] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 133。
[5] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 135。
[6] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 146。
[7] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 147。


『東山魁夷展』(前期) 宮城県美術館

2012年10月16日 | 展覧会

 夏に開かれた『松本竣介展』に較べれば、さすがに『東山魁夷展』は圧倒的に人出が多い。いつも思うのだが、展覧会の人出は画家の人気と線型の関係があり、見事なバロメーターになっている。ただ、それが美術の審級と線型性を持っているかどうかは知らない。
 画家の人気もマスコミでの露出度と強く相関しているのは、現代では当然のことだ。なにしろ、政治の世界ですらそうなのだから。政治家になる手っ取り早い方法は、芸人かテレビタレントあるいはアナウンサー、ただの評論家ではなくテレビコメンテーターになることで、政治学や政治思想なんて関係ない。テレビの露出度と投票数との線型性が明確である。テレビで見知ってることが、日本人の「知」なのである。

 話題があらぬ方向に曲がってしまったが、東山魁夷の人気がマスコミでの露出度によるなどというつもりは毛頭ない。東山魁夷の絵は観る機会が多いし、新聞、雑誌、テレビでも取りあげられることの多い日本画のビッグネームであることは間違いないけれども、その高い評価は、ポピュラリティとは関係がないだろう。

 それにしても、私などは、日本画家というと「老大家」というようについ老人をイメージしてしまう。もちろん、それはお粗末なイメージには違いないが、それもまたメディアによって私たちに紹介される日本画家が大成した画家、つまりそれなりの経験を重ねた画家が多いということによるのだろう。
 一方、対極にあるようなモダン・アートの場合には、メディアによっても比較的若い画家たちが紹介されることが多い。メデイア自体がそのようなイメージで芸術家たちを見ているのかもしれないが、そういう情報のなかで私(たち)のイメージ(偏見)が形作られてきたのだ。
 だから、86才になったダダカンこと糸井貫二が仙台で若い時と同じように意気盛んに暮らしているという話を聞くと、凡庸な偏見でしか芸術家を見ていない私のような人間は(理不尽なことに)驚きを感じたりするのである。ダダイストだって年を取る、という当たり前のことに驚いているのである。

 『東山魁夷展』はこのような私の偏ったイメージを確実に一つ潰した。戦後生まれの私にとって、東山魁夷はずっと「日本画の大家」、つまり老大家なのであった。しかし、実際には、東山魁夷が「東山魁夷」となる時期が(私の想像を越えて)かなり若い時なのである。それは、《自然と形象》三部作を描いた時なのだと、展覧会を見終えて私は確信した。

    
           《自然と形象 秋の山》 1941(昭和16)年、紙本彩色・額装、
                                           149.9×150.1cm、個人蔵。 [1]

     
               《自然と形象 雪の谷間》 1941(昭和16)年、紙本彩色・額装、
                                            120.5×120.5cm、個人蔵。 [2]

    
                《自然と形象 早春の麦畑》 1941(昭和16)年頃、紙本彩色・額装、
                                                120.6×120.6cm、個人蔵。 [3]

 「形象」というような抽象画でよく見られるようなタイトルをつけられた東山作品は後にも先にもこの三部作だけではないかと思う(少なくとも、図録には見当たらない)。たぶん、この三部作が厖大な東山画業における特異な位置を占め、重要な意味を持っているのではないか。そのような印象を受けた。

 この「形象」三部作は、描かれた具体的な土地が表示されていて、 いわば写生画、風景画として展示されているらしいのだが、私にはどうしても具体的な風景の写生には思えないのである。実際の風景がいったん画家の心象に写し取られ、その上で一般化された形象、抽象化された風景として「東山魁夷化」されて、再表象された絵だと思うのである。
 「東山魁夷化」されたと表現したが、正しくはこの三部作によって画家は「東山魁夷」となったのではないか。この三部作以前の写実性とは明らかに異なっていて、その後の数々の大作の芽がここに含まれているように思う。
 《秋の山》の裸木や《早春の麦畑》の明瞭な線による空間の区切りは、裸木だけで構成される《森のささやき》や《森の静寂》、《薄暮》などに繋がっていく。《秋の山》の色彩は、はっきりと《秋映》や《黄耀》の先駆けであろうし、《雪の谷間》はそのまま《たにま》であるばかりでなく、魁夷特有の緑青の世界に拡がっていく契機たりえたのではないか。

 いったん「形象」として抽象化された風景は、すでに写生ではなく東山魁夷の想世界となって具象化(再表象)される。芸術は本来そのようなものだと言ってしまえば言えるのだが、そのプロセスを《自然と形象》三部作のように、方法論的に意識化され、実験的に試みられ、そして成功した例というのは珍しいのではないか(私のあまり多くない鑑賞経験からの推測に過ぎないが)。 


         《春兆》 1982(昭和57)年頃、紙本彩色・額装、130.0×180.0cm、
               長野県信濃美術館 東山魁夷館。 [4]

 どの絵も感心して眺めるばかりだったが、長く足止めさせられた絵があった。《春兆》である。 デンマーク・コペンハーゲンの風景ということである。
 描かれているのは、常緑針葉樹のトウヒの林、画家の背後から頭上に覆い被さっている落葉広葉樹のカツラ(ダケカンバやシラカバの可能性もあるが大木を想定しにくい)、そして薄雲の空だけである。
 カツラの木の小さな若葉、萌える若緑によって北欧の春を描いたものであるが、端的に言ってしまえば、日本画の「凄さ」を感じた。主題となるべき春の萌をこのような構図で描き込むような西洋画の記憶がない。展示されている作品の象徴的な日本の風景とは明らかに異なる風景でありながら、日本画に内在する力というものを感じる。それは東山魁夷の力だろうけれども、背後に累々と受け継がれた日本の画家たちの美意識の積分された力でもあるだろう。
 あえて展示中の一作品を、ということになれば、この《春兆》である。


         《白い朝》 1980(昭和55)年頃、紙本彩色・額装、147.0×205.0cm、
                東京国立近代美術館。 [5]

 《春兆》の前で立ちすくんでいたら、妻が追いかけてきて引き戻された。《白い朝》が気に入ったというのである。自宅の庭の風景だという解説にいたく感心している。

 《夏に入る》も気になった作品である。やや大きくなったたった一本のタケノコが初夏を象徴している孟宗竹の林の絵である。


       《夏に入る》 1968(昭和43)年頃、紙本彩色・額装、88.6×129.6cm、
               市川市東山魁夷記念館。 [6]

 正直に言えば、竹林の日本画としてはとりたてて特徴があるとは思わなかったのが、絵から目を放す(絵から焦点がはずれる)瞬間にザラッとした感覚が走ったのだ。その感覚の原因が分からなくて、絵を眺め、目を外す、という動作を繰り返してみて、どうも竹の節が神経に障るらしいということに気がついた。
 絵に私の視線の焦点が合っていないと竹の節が浮き上がってきて、その空間配置のリズムが私の生理にうまく対応しない、ということらしい。竹それぞれの節は問題なく正しく描かれているが、明るく描かれた幹には暗い節、暗く描かれた幹には明るい節、なかには明と暗の2色で描かれる節もある。その多様な節だけが浮き上がって見えるときに不安定感のような感覚が私のなかで生まれるようなのだ。
 東山魁夷の絵の謎だと面白いと思うが、私の神経の問題という可能性のほうが強そうだ。 

[1] 『東山魁夷展』(以下、図録)(日本経済新聞社、2012) p. 35。
[2] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 34。
[3] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 36。
[4] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 136。
[5] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 128。
[6] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 98。

 


【書評】中村純 『詩集 3・11後の新しい人たちへ』 (内部被爆から子どもを守る会、2012年)

2012年10月12日 | 読書

中村純:東京生まれ。詩集『草の家』、『海の家族』。詩と思想新人賞、横浜詩人会賞受賞。3・11後、京都に移住。


 「女に生まれるのではない。女になるのだ」と言ったのはボーヴォワールだったか。それでは、女はどのように母親になるのだろうか。世間の愚かな大人たちは「親になる覚悟が大事だ」と言ったりする。たぶん、これは欺瞞だろう。人類が生まれて数百万年、累々と続く親と子の切れ目のない血類の繋がりが、無数の親たちの覚悟の結果だとでも言うのか。
 人間は、その生まれた自然体で、つまり何の覚悟もなしに、十全に親でありえるはずだ。いや、ありえるはずだった、と言うべきか。

 子を産むこと、それだけが母親が「母親であること」の十分にして無欠な契機である。どんな社会的な(言説の)飾りあるいは汚れも、母親が「母親であること」をそれ以上に称揚することも貶めることもできない。


裸の凛とした肢体で私たちはただの母だ
裸の凛とした肢体で私たちは君たちを産んだ

……(中略)………

君を産んだあの日
素足で世界に降り立って
世界と和解した夜
何度でも君を産みたいと願ったあの夜
        「もしも、私たちが渡り鳥なら―すべての母たちへ」部分 [p. 10-11]

 「裸の凜とした肢体」だけで女は母親になる。それ以外に何が必要だろう。だからこそ、「君たちを産んだ」ことで「世界と和解」できるのだ。そして、「何度でも君を産みたいと願」うほどに、永遠に母親であり続けようとする。それが、「君を産むこと」で「母親になる」ことと「母親である」ことが一瞬にして同時に完結する機制である。

 人は村落共同体や国家を作りあげ、それを支える共同幻想を発達させることによって、あらゆることに覚悟が必要になったのだ。人は覚悟をしなければ親になれなくなってしまったのだ。今や、国家が「あらゆる覚悟」を強要していると言える。
 国家が近代とともに「生政治」に目覚め、「剥き出しの生」を人口として管理するようになってから、国家は、母親に「母性」性を強要するような言説、権力システムを構築する。「母性」性は、近代の国家戦争のための兵士生産の原動力とみなされる。
 そのようにして、社会は母親に薄汚れた「覚悟」を強いるのである。

 それでも、親は(父親も母親も)遠い父祖からそうであるからのように家族を形づくり、食卓を囲む日々を営むのである。

さかさに雨の降る水底の食卓よ
赤ん坊のやわらかな足の裏に触れて
乳を与える母の安堵
見つめる父の静謐な幸福
つつましくはじまったばかりの家族の時間
津波にはぎとられ放射能の雨が降り探し出してあげることもできなかつた
この港に放置された魚の匂いの風が吹くとき
海の底に家族の幻影を視る
            「水底の家族」全文 [p. 17]

 その家族に「国家」は新しい異様な「覚悟」と「決意」を強要する。かつて喧伝された「母性」性の言説は、母親のその子だけを犠牲にせよ、という要求であった。しかし、放射能被爆がもたらす「覚悟」とは、子の命ばかりではない。子の子、そのまた子の子、未来へ繋がる血類のすべての命を犠牲にせよ、と強いる「覚悟」である。「子を産む」母親の類における自らの本性を自ら否定する「覚悟」である。    

きみのやわらかなほほに
吸い込まれる光の粒子は
きみのやわらかなてのひらに
きみのやわらかなあしのうらに
触れる砂は

いのちをはぐくむものか
いのちに傷をあたえるものか

きみたちの幼い時空によぎった放射能の雲を
どうしたらよけることができる?
             「やわらかな者たちへ」部分 [p. 15]

 かつて国家が強要した覚悟は、人種(または民族)殲滅への強要であった(ナチスがユダヤ人を殲滅しようとしたように)。いま、国家が強要する放射能被爆は、人種を越えて、類への殲滅戦に駆り立てるもののようだ。地球に拡がっていくであろう放射能汚染に母親はどう立ち向かえばいいのか。

 国家からもこの社会からも強要されない、母親が母親であることのおのれ自身の「覚悟」と「決意」で、子の手をひいて歩いていくしかない、ということか。

見えない毒から子どもを守るために
幼い子どもたちの手をひいて
見知らぬ土地に行く新幹線に飛び乗ったあなた

世界がたとえあなたを悪しざまに言おうとも
あなたはひとりではない
        「たとえ世界が悪しざまにいおうとも―勇敢な女に」部分 [p. 31]



(写真は記事と関係ありません)


 

 


安冨歩 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』 (明石書店、2012年)

2012年10月04日 | 読書

             

 東大教授という肩書きだったので、もう少し硬質な文章を想像していたが、じつに明解かつ平明で、快適に読み進められる一冊だった。文系と理系は違うかもしれないが、一般に職業的に論文執筆を行なう人の場合、文章が冗長であることを極端に嫌うし、論理的曖昧さを避けるため概念規定の明確な言葉(つまり、定義が厳密な専門用語)を使うことが勧められている(はずだ)。それは、専門家同士の正確かつ迅速なコミュニケーションのためなのである。ときとして、単に衒学的な見せかけのために新しい専門用語をちりばめる研究者(学者)もいないわけではないが、たいがいそういう人は専門用語を流行語のように扱うことになってしまい、厳密な概念理解に達していないことが多く、その結果、不幸なことに研究者の評価の判断材料にされてしまうことになる。
 もちろん本書は学術論文ではないので、誰にでも理解できるように意図して書かれていて、私としてはたいへん助かる。

 本書は、サブタイトルにあるごとく、東大の先生方の「傍観者の論理・欺瞞の言語」を鋭く批判したもので、東京電力福島第一原子力発電所の未曾有の原発事故をめぐる欺瞞的な言説に対する憤りを契機としている。
 ここで批判されている「東大話法」は、筆者が強調されているように、東大の先生だけが駆使しているわけではない。社会一般の欺瞞的な言説の特徴である。その欺瞞性が最も犯罪的となるのは、発話者が権力機構に組み入れられた存在で権力装置の欺瞞に加担する場合である。そして、不幸なことに日本の権力を学術的な立場で支える(と当人たちは信じている)学者としては圧倒的に東大の先生が重用されているので、「傍観者の論理・欺瞞の言語」のチャンピオンとして代表させられているのである。

 政府としては、日本でトップと信じられている東京大学の学術的権威を大いに利用し、東京大学はその見返りに断トツの研究予算を与えられる(個人的な見返りも大いにあるには違いないが)。本来、東京大学は歴史的にそのような使命を帯びて設立されたもので、ある意味、明治以来の大日本帝国における帝国大学の役割を(無反省にか、反省のうえにかは置くとして)果たし続けているとも言える。国家への貢献を為すためには、政府べったりである必然があるかのようである。少なくとも、政府ないし資本権力の先兵としてたいへんな働きをしている先生方は、学術的に想定しうる国家の審級が驚くほど低劣なのである。
 これはあくまで一部の東大の先生の話であるということを著者と同様に、私も一応述べておく。だいたい、著者の安富歩(以下、すべての人名の敬称は省略)その人が東大教授であるし、私の職業上の知人としての東大の先生方もたくさんいるのでぜひ強調しておきたい。そして当然ながら、一所懸命「東大話法」を実践している教授は、私が勤めていた大学にもたくさんいたのである。

 さて、「東大話法」とはいかなるものか。著者はそれを「東大話法規則一覧」として冒頭に紹介している。それは次のようなものである(p. 24-5)。     

           東大話法規則一覧

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。

規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい
     批判する。

規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化
     して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的
      な態度を取らせる。

規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々
      で難しそうな概念を持ち出す。

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出
      する。

規則16 わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張
      を正当化する。

規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを
      並べて、賢いところを見せる。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いた
      いところに突然落とす。

規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。

規則20 「もし〇〇〇であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフ
      リで切り抜ける。

 これを読むと、たいがいの人は心当たりがあるに違いない。テレビでしゃべりまくる政治家の言説が文字通り「東大話法」のパターンなのである(繰り返すが、東大の卒業生かどうかは関係ない)。権力が好きで好きでたまらなくて政治家になったものの政治理念など稀薄なものだから、「東大話法」的な弁論術を(たぶん松下政経塾あたりで)一所懸命勉強してきて大いなる実践として欺瞞術を開陳している、ということだろう。
 学者もまた政治権力の使い走りともなれば、そのような政治家の政策の弥縫対策が主要任務であるため、「東大話法」に磨きをかけざるをえない、ということになる。 

 もうひとつ、「東大話法規則一覧」を読んで、すぐに思い出したのは、野崎昭弘の『詭弁論理学』 [1] という本であった。「強弁」と「詭弁」の種々相を読みやすく記述した中公新書の一冊で、ずっと大学新入生の最初の物理学講義における推薦図書にしていたものである。知識をため込んで受験勉強を勝ち抜いてきた学生は、しばしば知識がすべてを解決すると信じたがるが、知識は正しい論理の船に乗らないかぎり役に立たないということを知って欲しかったのである。
 その本には、強弁術の要諦として、「 (1) 相手のいうことを聞くな。(2) 自分の主張に確信を持て。(3) 逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。(4) 自分のいいたいことを繰り返せ。(5) おどし、泣き、またはしゃべりまくること。」(『詭弁論理学』、p. 52)を挙げている。あるいは、詭弁術の例として「二分法」、「相殺法」、さらには論点、主張のすり替えとしての「部分より全体に及ぼす誤り」、「全体より部分に及ぼす誤り」、「否定二前提の虚偽」、「不当肯定の虚偽」、「特殊二前提の虚偽」、「媒概念曖昧の虚偽」(『詭弁論理学』、第3章)について具体例を引いて詳述している。かなりの部分が「東大話法規則一覧」と重なっているのである。

 つまり、安冨歩が東大教授たちの言動の観察結果として得た「東大話法規則一覧」は、忌避すべき詭弁、強弁として論理学的にも指摘しうるものであって、けっして反論、批評のために恣意的にまとめられたものでないことは自明なのである(そのような意味でも、本書の論理学的背景として『詭弁論理学』を参考にすることを推奨する)。

 さて本書は、「原発危機」をめぐる言説の欺瞞性を明らかにしつつ批判を加えることに主眼がある。そのための思想の重要な礎として「論語」に置いて孔子が語った政治を為すために「必ずや、名を正す」という言葉を引用する。正しく名指す、つまり、言葉を正しい意味で使用する、虚偽に満ちた言説を正す、ということである。

 まず始めに、原発危機に関する正しい言説、「名を正す」思想の系譜を紹介する。それは、武谷三男、高木仁三郎、小出裕章とつながる人々である。とくに36年前に出版された『原子力発電』 [2] で表明された武谷三男の先験性は際立っていた(『原子力発電』は、私たちの世代の数少ない反原発の教科書だった)。 

 「原発」、「原発事故」をめぐる「東大話法」的言説の例として、まず取りあげられるのが玄海原発のプルサーマル計画の安全性をアピールするための「やらせ」討論会における東京大学工学研究科システム量子工学専攻・大橋弘忠教授の九州電力の社員と見まがうばかりの言動である。「プルトニウムは水にも溶けませんし、仮に体内に水として飲んで入ってもすぐに排出され」るという自然科学者としては完全にアウト(水溶性のプルトニウム化合物はいくらでもある)と判定されるような主張などをしているのである。 

 次に取りあげられるのは精神科医の香山リカである。小出裕章は、原発事故後「引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めている」ネット利用者のヒーローになっている、と発言したということだ。彼女は「脱原発」派らしいのだが、そのような人々の言説にも「東大話法」的欺瞞が含まれているという著者の指摘は、あたかもフーコーが指摘したように、微に入り細にわたり私たちの周囲に張り巡らされている権力(の欺瞞の)システムをそのまま示唆しているようで、不気味さを感じる。
 それにしても、オタク世代、もしくはオタクに理解を示す(ふりをする)文化人には、ネットと「エヴァンゲリオン」をセットにして論評する人が多いのはなぜだろう。たしかに、日本の良質の部分はサブカルの世界に集まっているのではないかと私も思っているが、いつでも「ネットとエヴァンゲリオン」というのは、どうも安易なテレビ評論家の口説のようで感心しない。 

 次は東京大学大学院工学研究科の「震災後の工学は何をめざすのか」と同・原子力国際専攻」の「原子力工学を学ぼうとする学生向けのメッセージ――福島第一原子力発電所事故後のビジョン」という「東大話法」満載の公的文書が対象で、「逐語的に解釈」 (p. 120) されている。その特徴は「わが国は……」とか「世界は……」という主語から目指す学問の重要性が主張されることで、「私」ないしは「私たち」という主体から立ち上がる自律的な研究目的が語られないことである。著者は、学究の徒としてそのあり方にも大いに疑問をを投げかける。

 さらに、じつに欺瞞に満ちた「原発発言」を続ける経済学者・池田信夫が取りあげられている。「東大話法」のオンパレードの発言に逐次批判を加えていて、詳細については本書に当たってもらう他はないが、なかで一つ驚いたことがあった。池田は次のように発言しているのである (p. 167-8)

再処理をあきらめて貯蔵するだけなら、途上国に開発援助と交換で引き取ってもらうことも可能である。世界には人の立ち入らない砂漠や山地はいくらでもあり、有害な産業廃柬物も放射性物質だけではない。これはコストの問題にすぎず、河野氏のいうように原発を全面的に廃止する根拠にはならない。

 この発言を知らずに、私はあるブログで次のように書いていたのだ。

 いかに後進国といえども、さすがに事故を起こした日本の原発を輸入しようとするほど愚かでない(そうでもないか)と思うけれども、ネグリ&ハートにしたがえば、日本を含む先進資本主義国家は《帝国》として振る舞うだろう。つまり、《帝国》の一員としてどこかの国が原発を売りつけるだろう。そして、かつて公害産業を押しつけたように、「放射性廃棄物処理施設」や「最終処分施設」もセットにされるに違いない。
 そして、数十年後のあるとき、代替エネルギーによって国内の産業維持のめどが立ったとき(国民の生活維持のめどではない)、日本国政府は「脱原発宣言」をする。大量に出た放射性廃棄物は、資本でがんじがらめにされた後進国に「輸出」することになる(これは危険な原発を後進地域の福島や福井に押しつけ、交付金でがんじがらめにした構図と同じである)。
 「脱原発宣言」が出るとき、「あのとき止めておけばこんなに原発事故による被害が拡大していなかったのに」と悔いる破目に陥っているのではなかろうか。何度かの原発事故があって現在の10倍以上の被害者が出るということになっても、たぶん政府は原発を止めない。「生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の、露骨な貫徹」を貫くであろう。

 当然のことだが、これは現在の日本の政治上から想像される将来の日本の「国家犯罪」の姿であって、世界に対する責任として、何としても避けなければならない。それなのに、池田は、あっさりと放射性廃棄物を「途上国に引き取」らせようとし、それはたんにコストの問題だという。経済は人倫に優る、というわけである。しかも、この考えは著者によって「経済的観点からして、間違っている」と批判されている。経済学者が、人倫上も間違いをおかし、経済学的にも間違っている、としたらどういう救いがあるのだろう。 

 著者は、こうした「東大話法」を続ける人々を、「立場」という概念で理解しようとする。それは、いわば日本で長く続いた「ムラ社会」のなかで生きていく知恵として発達してきたものであろう。著者は、日本人の「立場」主義に歴史的な観点から考察を加えている。

 また、著者は「はじめに」において「魂の脱植民地化」という自らの研究について述べておられる。日本人が「立場」主義を脱却し、「東大話法」に、満ち溢れた政治的言説状況を乗り越えるためには、私たちのそれぞれの社会的存在が抱えている「魂の植民地化」を自らが乗り越えることを通じてであろう、と私は考えていて、「魂の脱植民地化」の研究者である著者による新しい展開を期待するのである。

[1] 野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新書)(中央公論社、昭和51年)。
[2] 武谷三男編『原子力発電』(岩波新書)(岩波書店、1976年)。