かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (阿部崇訳) (筑摩書房、2006年)

2012年06月30日 | 読書

 「フーコーがマネの絵について書いている」とそのことに少し驚いて、急いで借りだした。マリィヴオンヌ・セゾンが、この本ができた経緯を本の「序」に書いている。

 フーコーは確かにマネについての著作を準備していて、おびただしい量のメモをとり、トマ・クチュールのアトリエに興味を寄せていた。しかし、結局はひとつの講演を実現したのみにとどまり、それはいくつかの変更を加えつつミラノで一九六七年に、東京とフィレンツェで一九七〇年に、そしてチュニスで一九七一年に行われた。 [1]

 こうして、このテクストに呼び出される格好で、二〇〇一年十一月、「ミシェル•フーコー、ひとつのまなざし」と題されたシンポジウムが開催された。その迫力あるやりとりが刊行されてほしいという発表者と聴衆の希望から、「書かれた痕跡」叢書での刊行計画が持ち上がり、フーコーの講演とともに、それに喚起された口頭による反応の記録を収めてはどうか、ということになったのである。そしてこの時、思いがけないことが起こる。ドミニック・セグラールが、ディディエ・エリボンから託されていた、講演のオリジナル録音の完全なコピーを自宅の資料から発見したのである。ここに公刊するテクストは、よって、一九七一年の録音の「学問的に厳密な」完全版の書き起こしである。 [2]

 つまり、これはミシェル・フーコーの短い講演録に9人の論者が応答した形の本である。

 フーコーは、エドワール・マネを印象派を準備することができたものを越えて、クヮトロチェント以来の西洋絵画において基礎をなしていたもののすべてをひっくり返したのだということができるのです」 [3] と述べていて、20世紀の絵画の始まりの一人だと考えるのである。
 これは、ちょうど少し前に展覧会を観ることができた「最後の印象派」と呼ばれるアンリ・ル・シダネルが次のように述べていることと符合していて面白い。

 もし間違っていなければ、それはマネが《ライオンハンター》(サンパウロ美術館)の肖像画と《ロシュフォールからの脱出》(オルセー美術館)を出品した年だった。前者は本当に気に入った。しかし、後者の小さな筆触には驚いた。それはその時まで、私が見てきた物とはまるで違っていたからだ。 [4]

 フーコーは、いくつかの絵を示しながら、具体的にマネの絵画がもたらす意味を語っている。例えば、《給仕する女》については、「不可視性」に触れてこう述べている。

        
           
《給仕する女》、1879年、キャンヴァスに油彩、77.5×65センチ、
                   
パリ、オルセー美術館。 [5]

 キャンヴァスの両方の側には、二人の人物によって見られている二つの光景があるのですが、しかし絵は、結局そこで見られているものを示すかわりに、隠し、奪っているのです。表と裏という二つの面を持つこの表面は、絵の可視性が明らかになる場所ではなく、それとは逆に、絵の画面の中にいる人物が見ているものの不可視性をもたらす場所なのです。[6]

 そして、《バルコニー》については「不可視性」に加えて、タブローの二次元性に触れる。

              
              
《バルコニー》、1868-1869年、キャンヴァスに油彩、
                  
169×125センチ、パリ、オルセー美術館。

 ……タブローは、明暗法を用いたタブロー、すなわち影と光が混ざり合うタブローとなるのではなく、ひとつの奇妙なタブローとなります。そこでは、すべての光が片方に、すべての影がもう一方に、つまり、すべての光はタブローの前面に、すべての影はもう片方に位置しており、あたかもキャンヴァスの垂直性そのものが、背後の影の世界と前面の光の世界とを分け隔てているかのようです。
 そして、この背後の影と前面の光との境界にこの三人の人物がいて、彼らはいわば宙吊りになっていて、ほとんど何もないところに浮いているようです。 [7]

 そしてここでも、三人の人物がそれぞれ別の方向を見ており、もちろん我々には分からない強烈な光景に心を奪われることによって、不可視性が示されているようです。それぞれ別の光景、というのも、ひとつはキャンヴァスの前に、もうひとつはキャンヴァスの右、三つ目は左にあるからです。いずれにせよわれわれには何も見えておらず、ただそのまなざしが見えます。あるいはひとつの場所ではなく、ひとつの動作を見ているわけですが、それはまたしても手の動きであって、閉じた手、半ば開いた手、完全に開いた手。そして、手袋をした手、手袋をしていない手、そしてこの経巡っている同じ動作こそが、つまるところ三人の人物が行っている動作なのです。手の形づくるこの円環だけが、先ほど《温室にて》や《草上の昼食》で見たように、タブローのちぐはぐな諸要素を繋ぎとめています。そしてこのちぐはぐさとは、不可視性そのものの炸裂にほかならないのです。 [8]

 そして最後に、「それはおそらくマネの全作品を要約してみせてくれるようなもので、マネの最後の絵の一枚でもあり、もっとも観るものを混乱させる作品のひとつ」 [9] として、《フオリー・ベルジェールのバー》をあげる。
 この絵の奇妙さは、画家と鑑賞者の位置にある。画家は女性の前に向きあっているはずだが、背後の鏡には女性と向きあってシルクハットの男性が立っていて女性の後ろ姿も移っている。光学的には奇妙で配置になっていて、これもフーコーを刺激する(この光学的な矛盾をティエリー ・ド・デューヴが詳細に議論している [10] )。

     
           
《フォリー・ベルジェールのバー》、 1881-1882年、キャンヴァスに油彩、
                 
96×130センチ、ロンドン、コートールドギャラリー。

 フーコーが《フォリー・ベルジェールのバー》に与えた解釈は次のようなものである。

 結局、次のような三つの両立不可能性のシステムがあることになります。〔一〕画家はここにいると同時にあちらにいなければならない。〔二〕ここに誰かがおり、また誰もいないのでなければならない。〔三〕見下ろす視線と見上げる視線がある。われわれが今見ているような光景を見るためにはどこにいればよいのか知ることができない、というわれわれが直面している三重の不可能性、そして言うなれば、鑑賞者が占めるべき安定した確乎たる場所が排除されていること。勿論それが、この絵の根本的な特徴のひとつなのです。そしてそれは、この絵を見る人が感じる、魅惑と不安とが混じり合った気持ちを説明してくれるでしよう。 [11]

 確かにマネは、非表象絵画を発明したわけではありません。マネの作品はすべて表象的なのですから。しかし彼は、キャンヴァスの基本的な物質的諸要素を表象の内部において用いたのであり、こう言ってよければ、〈オブジェとしてのタブロー〉、〈オブジェとしての絵画〉を発明しつつあつたのです。それはおそらく、人がいつか表象そのものを捨て去り、空間がみずからの純粋で単純な諸特性、その物質的諸特性そのものと戯れるがままにするための根本的な条件だったのです。 [12]

 これでフーコーの講演録は終わるが、多くの論者がそれに続く。とくに、キャロル・タロン=ユゴンがミシェル・フーコー、ジョルジュ・バタイユそしてマイケル・フリードの三者のマネの絵画論を比較検討しているのが興味深かった [13] 。そして、その論を『序』でセゾンが要約してみせる。

 ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・フーコーとマイケル・フリードは、一九五五年から一九九六年にかけて、同じフォーマリズム批評の視点から、マネの作品のうちに「自分自身をあるがままのものとして提示する絵画」を見ることで一致していた。バタイユによれば、マネの絵画は、その主題にもかかわらず雄弁さを取り除かれていることで、剝き出しかつ崇高であり、その媒体にまで縮減されていることで、事物の謎めいた力を提示している。フーコーによれば、空間の物質的特性を表に出すことで表象の条件を明るみに出したからこそ、マネは「オブジェとしての絵画」を創始した。またフリードによれば、マネの絵画は、見られるために差し出されている、ということについて受け手の注意を喚起する点で、伝統と断絶している。こうした三つの見方が、鑑賞者の混乱について理解するよすがになるだろう、とキヤロル・タロン=ユゴンは結んでいる。 [14]

 そして、ダヴイッド・マリーは次のようにまとめる。

 ミシェル・フーコーによれば、マネは現代絵画の歴史を開いた。「マネが印象派をも越えて可能にしたのは、〔……〕二十世紀絵画のすベて〔……〕だったと思われます」。マイケル・フリードによれば、逆に、マネはひとつの歴史的な時期を完成させた。つまり、マネは過去の諸作品との関連に基づいて自分の作品を構成するが、印象派の画家たち、そして近代の画家の多くは、絵画の伝統との関係を絶っているように思われる、というのだ。フーコーにとつては、マネはその「エピステーメー」の最初に位置している。フリードにとつては、マネはその最後に位置しているのだ。 [15]

 残りの論者の中では、カトリーヌ・ペレの論文 [16] がフーコーの講演録の解説として参考になるし、ブランディーヌ・クリージェル [17] はフーコーの現象学を論じていて、面白く読むことができた。  

 印象派の一人としてだけ受容していたエドワール・マネが、印象派の枠組みを超え、20世紀絵画の始祖、あるいは逆にそれ以前を終息させた画家という立ち位置で評論の対象になっているなどと、正直なところ、ついぞ思ってはいなかった。
 セザンヌとモネとルノアール、ゴッホとゴーギャン、そして最近はフェルメールの名を口にしていれば、たぶん、日本では絵画に教養ある人物として通りそうな雰囲気の中で、私のようなものは、なかなかその辺の事情には明るくなるのは難しそうだ。

 絵は観なければ、本は読まなければ、というのが結論(平凡だが)。


[1] マリィヴオンヌ・セゾン「序」『マネの絵画』阿部崇訳(筑摩書房、2006年)(以下、本書)、p. i。
[2] 同上、本書、p. iii。
[3] ミシェル・フーコー「マネの絵画」、本書、p. 7。
[4] ヤン・ファリノー=ル・シダネルによる引用「アンリ・ル・シダネル(1862―1939)、ヤン・ファリーノ=ル・シダネル、古谷可由監修・執筆(古谷可由、小林晶子訳)『アンリ・ル・シダネル展』(図録)(アンリ・ル・シダネル展カタログ委員会、2011年)p. 10。
[5] 本書口絵。以下、図版は同じ。
[6] ミシェル・フーコー「マネの絵画」、本書、p. 22。
[7] 同上、本書、p. 35。
[8] 同上、本書、p. 36-37。
[9] 同上、本書、p. 7。
[10] ティエリー ・ド・デューヴ「「ああ、マネね……」――マネはどのように《フオリー・ベルジェールのバー》を組み立てたか」、本書、p. 109。
[11] ミシェル・フーコー「マネの絵画」、本書、p. 43-44。
[12] 同上、本書、p. 44-45。
[13] キャロル・タロン=ユゴン「マネ、あるいは鑑賞者の戸惑い」、本書、p. 67。
[14] マリィヴオンヌ・セゾン「序」、本書、p. vi。
[15] ダヴイッド・マリー「表/裏、あるいは運動状態の鑑賞者」、本書、p. 92。
[16] カトリーヌ・ペレ「フーコーのモダニズム」、本書、p. 138。
[17] ブランディーヌ・クリージェル「美術とおしゃベりな視線」、本書、p. 176。


『季題別 水原秋桜子全句集』 (明治書院、昭和55年)

2012年06月29日 | 読書

 山口誓子の全句集と一緒に水原秋桜子も再読のために借りてきた。

 これも「季題別」であるが、山口誓子の場合と比べると読み進めるのは少し楽である。ひとつの季語に括られる俳句数がそれほど多くないことと、写生俳句からのずれ幅がやや大きく、そのずれる方向にヴァリエーションがあるせいではないか、と思う。

 読み通しつつ、お気に入りを抜き書きしてみると、印象が強い(つまり、お気に入り度の高い)句は、句集「葛飾」あたりに多いようだ。「ホトトギス」を離れ(つまり、高浜虚子と訣別し)、「馬酔木」創刊にむけて突き進んでいく時代の句作である。

春愁のかぎりを躑躅燃えにけり  葛飾 (p. 28)
葛飾や桃の籬も水田べり  葛飾 (p. 55)
梨咲くと古りたる墳を人訪ひぬ  葛飾 (p. 56)
花葛の雨に立ち濡れ岩魚釣  葛飾 (p. 124)
この原の桔梗の色や霧の中  葛飾 (p. 178)
園枯れて蔓の振舞見られけり  葛飾 (p. 260)

 句集といえば、「磐梯」には戦争俳句が多く収められている。昭和17年~18年の作句を集めた句集である。それでいて、昭和18年~22年の作句を集めた「重陽」には戦争俳句がほとんどない。
 戦勝気分でいられた時期、大東亜共栄圏がリアルな夢としてまだ語りえた時期に秋桜子の戦争俳句が生まれたのだろうか。そして、山口誓子のようにある時期から俳句の世界から戦争を拒否しようとしたためであろうか。
 先ごろ読んだ「齋藤史全歌集」のように時代順であれば、戦争短歌の時代、苦悩の時代、超克と跳躍の時代という風に辿ることもできるけれども、季題別ではそれは難しい。もちろん、時代順に辿れたとしても何かが分かるという保証はないけれども。

タワオ陥ち心をどりて春立ちぬ  磐梯 (p. 3)
東風吹くや昭南島の名のよろしさ  磐梯 (p. 11)
シンガボール陥ちぬ春雪の敷く夜なり  磐梯 (p. 11)
春の雪天地を浄め敵亡ぶ     磐梯 (p. 11)
天明けて御旗かゞやきつ春の雪  磐梯 (p. 12)
語りつがむ春雷の威の皇軍を   磐梯 (p. 13)

  いまさら戦争責任のようなこと言うつもりはさらさらないが、楽しくはない。そういう時代だったとはいえ、なにか、無残な感じがする。一心に俳句に打ち込み、時代を画した俳人においてさえ、やってくる時代の変化、社会的事象に対して、その俳句はけっして何ごとかを保証するわけではない。いや、俳句と限定することはない。
 例えば、私が長いこと職業人として生きてきたもろもろ、現在の行いのもろもろ、そのどれもがこれから生起して来るであろう時代のことどもに私の態度としての何ごとかを保証しているわけではない。私が戦争を賛美するウルトラ・ライトにならない、という保証はない(たとえ現在激しく嫌悪していても、である)。

 いやな話題になったが、ほほえましいこともある。秋桜子は真摯に俳句に取り組み、虚子と訣別するというきわめて意志的に行動する俳人のイメージがあって、次のような一連の俳句が現れたとき、思わず嬉しくなったのである。これは、季題別にまとめられていなければ気づかなかったことではある。

新茶淹れ独り居すれば又愉し  秋苑
朝の用なかれとおもひ新茶汲む  古鏡
新茶ありたのしき稿に朱を入るゝ  〃
新茶来て小さき壷にやゝあふる  重陽
大鷹のこゑはるかにて新茶の香  〃
筆措かむ新茶を淹るゝ湯のたぎり  梅下抄
掃き入れて新茶のかをり箕にあふる  霜林
夜のいで湯新茶の焙炉(ほいろ)にほふなり  玄魚  (p. 100)

 新茶を喜び、心が浮き立っている様が、ありありと見えるようだ。ここにあげた句だけでも、昭和8年から31年にわたる期間である。一貫して、お茶が好きなのである。
 高浜虚子に反逆する秋桜子、石田波郷や加藤楸邨の謹厳な師としての秋桜子というイメージからはついぞ浮かばなかった心優しくなる一面である。これはもう、俳句を越えた人格の話である。


ウンベルト・エーコ『美の歴史』 (植松靖夫監訳、川野美也子訳、東洋書林、2005年)

2012年06月28日 | 読書

 いきなり引用になってしまうが、ジャン・ボードリヤールが次のように述べている。

 ロマン主義以後、芸術の形態についての理論を支配しているのは、結局この同じ形而上学全体性というブルジョワ的形而上学である。それによれば、芸術の特性は「ひとつの全体、あらゆるものを含むより大きな全体(それはわれわれが生きている宇宙以外のものではない)になる能力」を呼びおこすことだ。ウンベルト・エーコはこのコスモロジーをわがものとし、それを言語学の言葉に書き移している。意味のこの全体化は「記号内容の無限の連鎖反応と減速作用」によってなされる(『開かれた作品』)というのだ。ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁司、塚原史訳(筑摩書房、1992年) p. 499)

 そのウンベルト・エーコである。宮城県図書館のこの本の前に立ったとき「美のコスモロジーか」と思った、などということは絶対になくて、ただ、「たまにはお勉強も悪くはないか」と気楽に手にとったのである。

 「気楽に行動すべきではない」という教訓は「序論」でいきなりやってくる。「本書は美の歴史であり、アート(あるいは文学や音楽)の歴史ではない。したがってわれわれは、アートについて時々表明された観念については、これらの観念がアートと美の結びつきについて扱っている時のみ、言及することにしよう。」 (p. 10) という表明がまずなされる。
 そして、美の「比較表」というものが並べられる。たとえば、「裸体のヴィーナス」の項では、「ヴィレンドルフのヴィーナス」(紀元前30万年、ウイーン、美術史美術館)から「モニカ・ベルッチ」の写真(1920年、ピレッリ社カレンダー)まで28葉の図が示される。「裸体のアドニス」の項目では、「クーロス」(紀元前6世紀、アテネ、国立考古学博物館)から「アーノルド・シュワルツネッガー」(1985年、映画「コマンド」より)まで18葉、その調子で、「着衣のヴィーナス」27葉、「着衣のアドニス」29葉、「ヴィーナスの顔と髪型」30葉、「アドニスの顔と髪型」22葉、「聖母マリア像の変遷」27葉、「イエス・キリスト像の変遷」21葉、「君主像の変遷」21葉、「女性君主像の変遷」14葉、「プロポーションの変遷」12葉と続くのである。
 つまり、古代から現代にいたるまで、「美」の表象に関するありとあらゆることを視野に入れて読め、と宣告されたようなものだ。

 博物学は大切だ。ヨーロッパと比べて、日本の学術においては博物学が尊重されていない、と職業人であった頃は広言していたのだが、じつはそのような分野の本を丁寧に読んだことはない。いや、博物学的な本は1ページ目から順に読みすすめるようなものではない。必要な項目にアプローチできればよいのである。
 この本は、「美の博物学」的要素に溢れながら博物学の本ではない。文字通り「美の歴史」本なので、通読しなければ意味がない。正直、「困ったな」と思ったのである。

 話は、古代ギリシァから始まる。「デルフォイの神託はこう答えた。「最も美しいものは最も正しいものである。」ギリシァ美術の黄金時代においてさえ、美はつねに、「中庸」、「調和」、「均整」といった他の諸価値と結びついていた。」 (p. 37)
 そして、ソクラテスとプラトンによって、「理想美」、「精神美」、「機能美」の概念のもとに精密に思考され、それは何世紀にわたって芸術実践に影響を与え続けることになる。
 バロック絵画に代表される中世になると、「醜」、「怪物」が美の補完物として登場する。「これらの怪物たちが全体としての美への単なるコントラストとしても(絵画の中に陰影や明暗があるように)、宇宙の調和の大交響曲にいかに役立っているかを明示するのが、中世の多くの神秘主義者、神学者、哲学者の課題となった。」 (p. 147) のである。

 かくして、怪物たちは愛され、恐れられ、警戒され、しかし同時に容認され、その戦慄すべき魅力をまるごともって、文学や絵画にますます入っていった。ダンテの地獄の描写へ、ボスの絵画へと。偽善抜きで戦慄すべきものの魅力や悪魔の美が再認識されるのは数世紀後、ロマン主義とデカダンスの風土になってようやくのことである。 (p. 148)

 そのあたりまで読み進めてきて、ある1枚に絵につまずいた。ティツィアーノの「聖愛と俗愛」である。中世のキリスト教的美意識をベースにしながら、「この世では完全な実現は不可能であるがゆえに視覚的に認識不可能な、超自然的完成の一段階を観想する美」 (p. 176) を追求する新プラトン主義のシンボリズムによる双子のヴィーナス像である。

       
                ティツィアーノ・ヴェチェリオ「聖愛と俗愛」(部分)
                1514年、ローマ、ボルゲーゼ美術館 (p. 190-191)

 それまで、ヴィーナス像は裸像がほとんどであったので、右の裸のヴィーナスが「天上のヴィーナス=聖愛」、左が「地上のヴィーナス=俗愛」として素直に受けとった。きらびやかで贅沢な衣装を身につけることはじつに俗っぽい。しかし、キリスト教的倫理が支配する中世社会でもそうだったのだろうか。裸の聖母はけっして描かれない。「比較表」によれば、裸の聖母が現れるのは19世紀末のムンクによってである。ヴィーナスと聖母は違うといってしまえばそれまでだが、「双子のヴィーナス」概念が現れたときには、当然ながら俗社会の倫理、美意識も導入されたと見るべきではないか。
 いずれにしても、考えはじめたらますます迷うのである。

 「美は諸部分の比例にあるといういわゆる「大原則」は、ルネサンス期に高度な完成を見た」(p. 214) のだが、「美の新しい表現――仰天させるもの、驚愕させるもの、一見不均衡なもの――の探究」 (p. 228) のバロック芸術へ移行する。

 驚愕の彫刻(の写真)がある。「ヴェールをかけられたキリスト」像である。透明なヴェールを不透明な彫刻素材で表現したような不思議な作品で、たぶん、実物を見る以外に感覚の収めようがない。バロックの世紀についてのエーコの記述を合わせて示しておこう。

何度も創造と再創造をくり返す、釣り合いと形体のネットワークが強制的で客観的な自然のモデルに取って代わった。バロックの世紀は、いわば「善悪の彼岸の美」を表現した。これは、醜を通しての美、偽を通しての真、死を通しての生と言えよう。しかし、この死のテーマはバロックの精神に強迫観念的に存在した。それはシェイクスピアのようなバロックではない作家にも見られるし、さらに、後の世紀に、ナポリのサン・セヴェーロ礼拝堂の驚愕すべき死せるキリス ト像にも見られる。 (p. 233)

              
             ジュゼッペ・サンマルティーノ「ヴェールをかけられたキリスト」
                1754年、ナポリ、サン・セヴェーロ礼拝堂 (p. 233)     

 時代は、「バロック末期とロココの過剰の美と新古典主義の世紀」 (p. 237) に移る。そして、次はゴシックである。

18世紀後半から、新古典主義の比例と比べて、不均衡で不規則であるとしか思えないゴシック建築への趣味が台頭した。そして、まさにこの不規則や不定形への趣味が「廃墟」の新しい評価へとつながった。ルネサンスは古代ギリシアの遺跡に熱中した。残骸を通して、もとの完全な形を推測できたからであった。一方、新古典主義はその形を復活させしょうとした(カノーヴァやヴインケルマンが良い例である)。しかし今や、廃墟はまさにその不完全さゆえに、情容赦ない時間がそこに残した痕跡ゆえに、廃墟をおおう荒れた草むらゆえに、そして苔やひび割れゆえに、評価されることになったのである。 (p. 285)

 そして、ロマン主義の時代がやってくるが、このあたりから美の表現、主義、流派は多様になってきて、本書は、「機械の美」や「メディアの美」の章まで突き進む。詳細にわたるそれを逐一フォローするのはやめよう。
 エーコが「芸術至上主義」の章で引用しているボードレールの言葉を紹介して終わることにする。

 「美は常に奇妙(bizarre)である」。私が言おうとしていることは、美が、意志的に、冷静に、奇妙だということではない。何故なら、その場合には、美は、生の軌道から逸脱した怪物になってしまうからだ。私が言いたいのは、美の中には、常に、少量の奇妙さ(中略)がふくまれており、「美」を特に「美」たらしめているものは、まさにこの奇妙さだということである。 (ボードレール「近代的進歩概念の造形美術への応用について」1868年) (p. 331)


【書評】 『季題別 山口誓子全句集』 (本阿弥書店、1998年)

2012年06月27日 | 読書

 再読である。山口誓子の句が思い出せない、句そのものとはいわないまでも、雰囲気、情緒、作風までもがぼんやりしているのだ。それで同じ本を借りてきた。 

 読み始めてすぐに、記憶の薄さの原因が分かった。「季題別」というのが災いしているのだ。例えば「春」の部で、季語「雪解」には33句、「観潮」には38句、そんなふうに一つの季語にたくさんの句が並べられている。山口誓子は、連作・写生構成に力を入れたらしいから、とくにその傾向が強いのかも知れない。
 同じ季語でいくつかの句を読んで、また同じ季語の句を読めば印象が薄くなるのは仕方がない。どうしたって句が描く世界の差違が小さくなってしまうからだ。写生俳句に徹するほどその傾向は強くなる。

 「季題別句集」というのは、「歳時記」と同じく、句作者のための教科書なのだ。私のように、俳句を作ろうという気はさらさらなくて、他の文学作品と同じスタイルで読もうという者には向いていないスタイルではないか。教科書が面白かったためしは一度もないのだ、私には。 

 「季語」は「写生俳句」にとって必然というのは言うを待たない。そういった意味では高浜虚子は偉大な政策立案者で、「写生俳句」と「季語」のお膳立てで句を作れば容易にそれらしく見える、ということを知っていた。他の文学芸術に比べて、句作が人口に膾炙する重要なファクターである。凡庸な句作者が、写生俳句に主情の要素を入れようとすると駄作に転ずるのは容易に想像できる。
 だから、写生俳句に徹し、季語を大事にしている圧倒的な数の句作者を背景として「季題別句集」、「歳時記」は重要な役目を果たしている。言ってしまえば、商売として、である。虚子は今でも偉大なのである。
 

 そして、じつは、「ホトトギス」以降に名をなした俳人は、水原秋桜子ばかりでなく、虚子に逆らわなかった俳人であっても、主情を巧みに写生俳句に織り込むことによって独自の詩の世界を作った人ばかりである。私はそう思う。
 山口誓子もその一人である。何しろ、私の1番好きな誓子の句は、何度読み返してみても、主情の強い次の句であることは変わらない。

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ  凍港 大15以前 (p. 460)
                        
(句のあとは、句集名、句作年、全句集の掲載ページ)

  好きな句を抜き書きにしていて、そこから任意に選び取っても、必ずどこかに誓子らしい「写生俳句からのずれ」がある。春、夏、秋、冬の部から3句ずつ例をあげてみよう。

君癒えよことしの蝌蚪も生れ出づ  激浪 昭17 (p. 47)
さくら咲けり常陰に壊えし仏あり  炎昼 昭12 (p. 57)
花蘇枋逢ふは他郷の人ばかり  激浪 昭18 (p. 62)

行くものは行け全山の梅雨の水 一隅 昭42 (p. 95)
虹が顕つ女の一生虹が消ゆ  和服 昭25 (p. 97)
炎天の犬や人なき方へ行く  晚刻 昭21 (p. 104)

秋の暮行けば他国の町めきて  激浪 昭19  (p. 260)
うたがひて犬たちどまる秋の暮  晚刻 昭21   (p. 263)
秋晴のビル未完なること暗し  構橋 昭30  (p. 268)

雪あはく画廊に硬き椅子置かれ  炎昼 昭11  (p. 407)
累代の墓や雪嶺悲しきまで  青女 昭22  (p. 428)
激戦の枯野の道に死せしひとよ  黄旗 昭7  (p. 435)

  全句集を読んで、ひとつ、とても気になったことがある。この全句集には、大正13年から平成5年までの期間に作られた句が収められている。そのなかで、昭和17年から昭和22年までの句を収録した「激浪」(第五句集)、「遠星」(第六句集)、「晩刻」(第七句集)の時期の句作数が圧倒的に多い。その前後の時代の3~5倍のペースで句を生みだしている。
 そして、その時期は太平洋戦争から敗戦へ至る時期と重なる。にもかかわらず、戦争にまつわる句は皆無といっていいほど少ない。少なくとも、私はこの全句集から見出すことができなかった。

 人生をかけて取り組んだ俳句と、その渦中にいた未曾有の歴史的事象とが、どんな意味でも交差しないということがあり得るのだろうか。写生俳句に徹すれば、人文、社会のもろもろは俳句の想世界とは無縁だと嘯くことも可能かもしれない
 しかし、山口誓子がそうだとは思えない。戦争の事象全てを強く拒否する意志を感じるが、その理由は私には分からない。

  けっして写生俳句から離れず、季語俳句を貫いた山口誓子にもこんな句があった、という句を最後に。

 放哉に倣ひて「咳をしても雪崩」  不動 昭45  (p. 477)

  放哉も山頭火も、私のなかの俳句審級の中では最上位に近いところにいる俳人である。


『いのちの煌めき 田渕俊夫展』 渋谷区立松濤美術館

2012年06月19日 | 展覧会

 いろいろな意味で圧倒された展覧会であった。ヴァラエティあふれる画題、細密な描写と大胆な余白、技法の多様性、壮大な構成力、どれをとっても驚くばかりである。
 展覧会の図録 [1] に、神谷浩が「田渕俊夫の芸術世界」を解説している。その中から田渕俊夫の絵画の特色を記述した部分を抜き出しておく。

装飾性は田渕芸術全体を貫く大きな特色である…… [2]

それ〔新たな試み〕が急展開するのが、《青木ケ原》(cat.no. 5)である。余白を十分にとり、色数は絞り込まれている。《ヨルバの神々》でほの見えていた、輪郭線と彩色のズレがはっきりと姿を現している。余白を活かしたこの《青木ケ原》は、未完成のようでもあり、当時の画壇状況の中では、ある種意表を突いた出品ともいえる。しかしこれが入選したのである。余白は、描かれていなくても絵の一部であり、描かない表現もありうるということに、今更ながら気付いたことであろう。以後、余白の使用について自信を深めたかのように、余白を活かしたおなじみの画風へと展開していくのである。 [3]

……1978年頃からは、非常に多くの風景画を描き、田渕らしさが明白となってくる。緑、青、赤など、賦彩は単色となり、時に輪郭を無視してぼかすようにほどこされる。まっ白な紙の素地に、黒い線と、緑などの単一の色がのせられ、風景画における田渕様式が完成度を高めてくる。
 この時期の風景画では、新しい試みも見られる。……かつての日本画では避けられてきた電柱やビニールハウスなどを堂々と描き込むようになったことである。 [4]

 例えば、「装飾性」、「輪郭を無視したぼかし」、「黒い線と緑などの単一の色」などの例として、《灼熱の夢》 [5] を見てみよう。
 画面中央右上に薄い青緑色の草の実が描かれている。その下には同じ実が背景の色と同じ淡緑色で描かれ、さらに線描のみの実が左右に描かれている。 

          
                       田渕俊夫《灼熱の夢》 [5]

 中央部分のうねるような背景彩色と周囲の空白の背景。草の実の描き方と背景の違いの組み合わせは、同じ草の実をえがいてもじつに多彩な効果をもたらしているように思える。
 絵の中心、緑白色のスポット状の空間には何ごとかを象徴するかのごとく、カメレオンが描かれ、彩色背景と空白背景の境には羽ばたく小鳥が配置されている。彩度は高くないにもかかわらず、装飾性の濃い作品だと思う。

 風景画の例としては、ビニールハウスを中心に描いた《濃尾平野》 [6] があげられる。田渕風景画の特色かもしれないが、画面の手前と奥の両方に余白ないしは大胆な省略が見られる。一方、描かれるべき主題部分は細密な線描が施されている。この絵でいえば、人の営みの場所の精密な実在感と省略部(余白)が象徴する大地の広がりが一体となって滑らかな世界空間を生みだしている。そんな風に感じるのである。

       
                      田渕俊夫《濃尾平野》 [6]

 そして、何よりも驚いたのは、《刻》という絵である。私の日本画のイメージの中に《刻》のような絵はなかった。画題にも驚いたが、その描法もまた私には未知のものである。
 《刻》と同じような描き方をする作品はいくつか展示されていたが、それらの作品と中国の「界画」との共通性を指摘して、味岡義人は次のように述べている。

 界画は、屋木画とか宮室画ともいわれる。中国絵画の技法の一つで、定規などを用いて、楼閣や橋梁などの構築物、舟や車などを精密に描く技法である。文献上では六朝に遡り、作品としては、五代の衛賢の《閘口盤車図巻》(上海博物館藏)が古い例であろう。また、唐の懿太子墓壁画(705年)もそうした古い例の一つといえる。界画は宋代に隆盛となった。
  ……(中略)……
 それらの〔田渕の界画的描法を用いた〕作品からは、卓越した技法のみならず、精緻で閑雅な趣きを感じ取ることが出来る。それは、他の風景画にも共通するところの田渕の歴史を見る、人の営みを讃える情感からにじみ出てくるものであり、袁江の「蓬莱仙島図」に見られる一つの理想郷を追求する姿勢とも通いあうものと思われる。 [8]

          
                         田渕俊夫《刻》 [7]

 その他に、壁1面を覆うような大作がいくつか展示されていて、その構成力と迫力に圧倒されるが、その中でひときわ目を引いた作品が、《緑溢れる頃》 である。画家本人が次のように述べている [9]。

「ここに描いた木は、代々木公園で見つけたもので、太い幹を無残に切り取られながら、なおも緑の葉を生い茂らせている姿に打たれました。」

 太い幹と枝が何カ所も無造作に切られ、いわば醜い姿をさらしていたはずの木である。残った細い枝を広げ、萌えだしたばかりのような小葉をたくさんつけている姿を、墨一色で雄大に描きあげていて、生命の逞しさ、人間の醜い行いを超克するような神々しさを具象化している、そんな絵である。

 しばらくは日本画に注目せざるをえなくなった、そんな展覧会であった。
 

[1] 田渕俊夫監修『いのちの煌めき 田渕俊夫展』(以下、図録)(中日新聞社、2012年)。
[2] 神谷浩「「流転」、「時刻」田渕俊夫の芸術世界」図録、p. 8。
[3] 同上、p. 8。
[4] 同上、p. 9。
[5] 田渕俊夫《灼熱の夢》(1970年、紙本着彩123.0×76.8cm、大川美術館蔵、取材地:ナイジェリア)、図録、p. 31。
[6] 田渕俊夫《濃尾平野》(1977年、紙本着彩65.0×90.0cm、メナード美術館蔵、取材地:岐阜・長良川河畔) 、図録、p. 47。
[7] 田渕俊夫《刻》(1989年、紙本着彩145.5×112.5cm、名古屋市蔵、取材地:名古屋) 、図録、p. 79。
[8] 味岡義人「田渕俊夫の絵画―中国我を通しての―」図録、p. 155。
[9] 田渕俊夫《緑溢れる頃》(2005年、紙本墨画、屏風(四曲一双)175.0×368.0cm、個人蔵、取材地:東京・代々木公園) 、図録、pp. 128-129。


『初期伊万里展 ~日本磁器のはじまり~』 戸栗美術館

2012年06月19日 | 展覧会

 伊万里焼であれ何焼であれ、日本の陶磁器の基本的な作品を常設展示している施設があって、1年に何回か(回数を区切ることはないけれど)気が向いたときに眺めに行けたら、豊かに気分になれるかも知れない。
 そういった意味で、『初期伊万里展』のような戸栗美術館所蔵品の企画展示は、大切な機会を提供してくれる。仙台からわざわざ出かけて来る身にしてみれば、「気が向いたとき」などと贅沢な気分はまったくないのだが。

 展示室に入って、まず目を引いたのは「染付 吹墨梅花紋」の皿である。美術館の所蔵品を収録した『初期伊万里』 [1] には含まれていないのが残念だが、初めて眼にした図案である。吹墨といえば、図版のような「白兎紋」や「白鷺紋」が代表的(少なくとも私はそのような図案で吹墨を知った)だと思うのだが、梅花紋に吹墨というのは、春霧に霞む庭園で梅が咲いているような、かなりリアルな想像力をかきたてる表象のようで、「じつにいいなぁ」と思ったのである。私の「いいなぁ」は器として使ってみたいということなのだが、初期伊万里では到底不可能で、明治以降の写しでも探すしか手はないのである。 

        
        「染付 吹墨白兎紋 皿 (伊万里、江戸時代(17世紀前期) 口径21.0 cm)[2]

 「山水紋」の器もたくさん展示されていたが、もっともシンプルな下の図版の鉢に惹かれた。岩山に陋屋、遠くに小舟、さらに遠くに山並みが描かれている。中心の空白が抜群である。背後に岩山を背負う村、その前に広がる大河(または湖)、遙か遠くの山脈。この広大さは、もうすでに世界そのもののようだ。中心の空白がかきたてる想像世界は広大無辺なのである。 

        
          「染付 山水紋 鉢(伊万里、江戸時代(17世紀前期) 口径47.1 cm)[3]

 展示品の中では、この山水紋の鉢の絵がもっとも素朴でシンプルである。その他は、絵が上手になり、加えられるものが多くなり、立派な風景画(山水画)となっているが、世界は風景に切りとられた部分に縮小しているように思う。素晴らしい描画技術が世界を描きうるわけではない、ということか。

 菊花紋もよくある図案だが、下の左図に良く似た皿の展示があって、「後年、菊花紋は16弁に図案化されるが、初期では16弁よりも多く描かれている」旨の作品説明があった。確かに、尾形光琳の完全にデザイン化された菊花は16弁である。私は琳派の絵は好きだが、光琳のデザイン化された菊花、特に別誂えで作っておいてペタペタと貼ったような菊花だけはどうしても受け付けないのである(さすがに酒井抱一も鈴木其一も16弁菊は引き継がなかったように思うのだが)。

        
        「染付 吹墨白兎紋 皿 (伊万里、江戸時代(17世紀前期) 口径左20.7cm、右cm)[4]

  自然の菊花の弁数に近いほどいいなどとはけっして思わないが、上の左図くらいの弁数が落ち着いていて、いいように感じる。右の器はたくさん描こうとして何となくバランスを失しているように思う。弁数を多く、かつ美しく表現するには平板化せずに、花弁を重ねるしかないのではないか、自然の八重咲きの花が全てそうであるように。

 いや、いずれにしても、気分の安らぐ時間ではあった。

[1] 後藤恒夫、下条啓一、戸栗美術館監修『初期伊万里 ―蔵品選集―』(戸栗美術館、1997年)。
[2] 同上、p. 17。
[3] 同上、p. 10。
[4] 同上、p. 26。


『大エルミタージュ美術館展』 国立新美術館

2012年06月17日 | 展覧会

 今日は東京の街歩きの予定で、都心から離れて調布のあたりを歩きまわろうと思って仙台から出て来たのである。日曜だったので、娘も付き合って歩くはずが、雨模様の天気予報で急遽予定を変更して、乃木坂の国立新美術館にやってきた。
 世界的な美術館の「美術館展」ともなると、展示作品は多彩多様で、その全体を括る言葉なんてないのが当たり前である。、私などには、せいぜい、「たいしたもんだ」と感心するしかない。

 2時間くらいかけてゆっくりと館内を回った。そこで心に残ったことがらを三つほど。

《寓意》

 
《ヴァニタス(はかなさの寓意)》の絵を見終わって、次の絵に移ろうと動き出したとき、「寓意ってなに?」と娘が呟くように尋ねてきて、戸惑ってしまった。私もそのとき、「シャボン玉を描いて「はかなさの寓意」ってチャチ過ぎないか、寓意っていったい何なんだ?」と思っていたのである。美術にしろ、文学にしろ、歴史的に重要な表象のありようとして重要に扱われてきた「アレゴリー」とはどういうことなのだ、といういつもの疑問である。


ニコラス・ファン・フェーレンダール、カスパー・ヤコプ・ファン・オプスタル(1世)
《ヴァニタス(はかなさの寓意)》[1]


フランソワ・プーシェ《クピド(詩の寓意)》[2]

 さらに歩を進めると、フランソワ・プーシェの《クピド(詩の寓意)》、《クピド(絵画の寓意)》が出てくる。これらも、単にクピドが羽根ペンを手に詩篇を書きつけているだけだったり、筆を手に絵を描いているだけに過ぎない。

 「寓意」というのは、ギリシャ哲学以来の西欧的な思想文化の歴史を持たない現代の日本を生きる私のようなものには困難な概念なのかもしれない。「儚さ」といい、「詩」といい、「絵画」といったとき、そこにはそれぞれプラトン的な確固とした実在のイデーが対応しているのだと信じ、たとえどんなにチャチな寓意であってもそれを表象できたとき、手にも触れず眼にも見えない偉大なイデーに近づけたという喜びがあるのではなかろうか。


 神の実在を信じるものが「神」と口にしたときの恐れと喜び、そして神を信じない者が「神」と聞いたときの無反応、その違いが「寓意」の画家と私の間にはあるのだろう。同じシニフィアンに、一方は偉大な実在(と信ずる)を意味するシニフィエが対応し、他方は空虚な観念に過ぎないシニフィエが対応する。この間には歴史と文化の断絶がある。

 タイトルに「寓意」を含む絵がもう一幅展示されていた。アレッサンドロ・アローリの《キリスト教会の寓意》 [3] である。図録解説 [4] によれば、「岩山を背景として座る女性はキリスト教会の擬人像であり、幼子イエスはその膝の上に立ち、生花で編まれた冠をその頭上に載せようとしている」ことは、キリストが古いユダヤ教会と訣別し、新しい教会と婚約したという物語の寓意だという。
 キリストとそれを信じる一人以上の信者が現れたとき、つまり、キリスト教が社会化するとき教会は立ち現れる。教会は、キリスト教がキリスト1人を越えたときの象徴的イデーであるだろう。それを寓意として表象する強い宗教的感情が基底として存在しているはずだ。

 

《農民、庶民の風俗》

 ヤン・ステーンの《結婚の契約》という絵があって、それを見たとき、何かしら懐かしい感じを受けた。どこで何を観たか忘れてしまったが、ヤン・ステーンの絵は農民や庶民の風俗画としていつも好もしい感じを受けていたようにおもう。
 しかし、この絵に込められている物語にはさほど関心がない。男も女も子供も老人も不自然なほど一堂に集めて構成され、風俗画として描かれた絵に惹かれるのである。王侯貴族の家族などではけっしてない、農民、市民の姿である。ブリューゲルが代表格であろうか。


ヤン・ステーン《結婚の契約》[5]

 ウイーンで観たFeridinand Georg Waldmüllerもそのような画家であった。農家の庭に集まる人々を描いていて、なぜかひどく気に入って、ウイーンの2,3の書店で画集を探したが果たせなかった。そのとき、ヴァルトミューラーではなくワルトミューラーの方が通じやすいことも分かった(べつにどうということもないけれども)。


《謎》

 次に引っ掛かったのは、ダニエル・セーヘルスとトマス・ウィレボルツ・ボスハールトによる《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》 [6] という絵である。解説はこうである [7]。

外側の花飾りを構成する花々や植物の象徴的意味は、この絵の中央の図――幼子イエスの頭に洗礼者ヨハネが花の冠を載せている――に関係している。花飾りは、模様がついたカルトゥーシュ[枠飾り]に囲まれた中央場面の額縁となっていて、刺や針のある植物――アザミ、ヒイラギとブラックベリ一の枝、バラ、ブラックソーン――、つまり、将来のキリストを待ち受ける苦難を象徴的に予告する植物が含まれている。

 


ダニエル・セーヘルス、トマス・ウィレボルツ・ボスハールト
《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》[6]

 しかし、展示室でこの絵を見たときの印象は違うのである。イエスとヨハネは鋼鉄(かどうかは厳密には分からないが少なくとも金属)製の大きな器の中にいて、その金属の器を棘と針に満ちた植物が取り囲んでいる。花飾りという装飾性の印象よりも、あからさまな敵意を持つなにものかに対する文字通りの鉄壁の防御だと思ったのである。

 「将来のキリストを待ち受ける苦難を象徴的に予告」していることを否定はしないが、むしろその苦難、迫害、敵意から幼い二人を守ろうとする強い意志、または願いがモティーフではないのか。構図としては図録解説の通りかも知れないが、少なくともこの植物群が単なるカルトゥーシュなどという生やさしいものだとは思えないのである。

 問題は、この金属製の容器そのものが何であるのか、私にはまったく見当がつかないということである。現実に(たとえ過去のものであっても)このような器があり、用途が明らかであれば私の空想に決着がつけられるかもしれないのだが。

[1] ニコラス・ファン・フェーレンダール、カスパー・ヤコプ・ファン・オプスタル(1世)《ヴァニタス(はかなさの寓意)》(1660年代初め、油彩/カンバス、93×102cm)、千足伸行監修『大エルミタージュ美術館展』(以下、図録)(日本テレビ放送網、2012年)p. 87。
[2] フランソワ・プーシェ《クピド(詩の寓意)》(1750年代末-1760年代初め、油彩/カンバス、82×87cm)、図録 p. 102。
[3] アレッサンドロ・アローリ《キリスト教会の寓意》(1600年代初め、油彩/カンバス、131×115.5cm)、図録 p. 55。
[4]《キリスト教会の寓意》の解説、図録 p. 193。
[5] ヤン・ステーン《結婚の契約》(1668年頃、油彩/カンバス、65×83cm)、図録 p. 95。
[6] ダニエル・セーヘルス、トマス・ウィレボルツ・ボスハールト《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》(1650年代前半、油彩/カンバス、129×97.4cm、パリ、マルモッタン・モネ美術館)図録 p. 70。
[7] 《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》の図録解説 p. 196。

 


『薔薇と光の画家 アンリ・ル・シダネル展』 損保ジャパン東郷青児美術館

2012年06月16日 | 展覧会

  アンリ・ル・シダネル、寡聞にして初見の画家である、いや、寡観にして、というべきか。損保ジャパン東郷青児美術館は、昨年、私の好きな画家の一人である「セガンティーニ展」を開いている。その美術館のキュレーターの企画を信じて、仙台から出て来たのである。

 古谷可由は、ル・シダネルを評するに5つの形容を用いている [1] 。「アンティミスム」の画家、「象徴主義」の画家、「最後の印象派」、「風景画家」、そして「薔薇の画家」である。性向、時代性、画題を尽くしていてわかりやすい。

          
              『アンリ・ル・シダネル展』のパンフレット。

 ヤン・ファリノー=ル・シダネルによれば [2]、ル・シダネルは1862年、モーリシャス島ポート・ルイスに生まれ、10才まで島で暮らした。ダンケルクとパリで絵を学び、印象派の影響をうけつつも、いかなる会派、流派にも属さず、フランス各地で絵画制作を行った。とくにジェルブロワに居を定めた時代には薔薇を主とした庭を作り、自宅を画題とした絵を描いた。「アンティミスト」、「薔薇の画家」と呼ばれる所以である。

 古谷の5つの形容にはないが、ポスターには「薔薇と光の画家」と謳っている。私としては、「光の画家」としての印象が最も強く残った。「光」については、古谷が次のように書いている [3]。

……ル・シダネルの場合、なかでも、先に述べたように弱い光、つまり黄昏時の光や霧に包まれた光などをとくに好んだ。確かに、モネたちのように、光り輝く世界を描いた、まさに印象主義的な作品もあるが(cat.no.9など)、多くは朝霧に包まれたり、夕焼け空の下での光であった。太陽よりも「月光」(月そのものを描いた作品はほとんどない)を好んだのもそのためであろう。それでも、光の効果に興味を寄せ、それを表現したことには変わりない。それゆえ、最後の印象派あるいは印象派の末裔と考えることができる。

         
                アンリ・ル・シダネル《快晴の朝〔カンペル〕》[4]。

  上の絵は、快晴の朝の絵である。同じく朝の絵で、太陽を描いた《朝日のあたる道沿いの川》という作品もある。展示作品の中には、《春の空〔ジェルブロワ〕》という輝くような春の雲を描いた作品もあるが、その1例を除けば、私は朝、昼、夕の時間帯の絵にそれほど「光」を感じなかったのである。奇妙な言い回しであるが、「明るい色彩」ではあるが「明るい光」ではないと感じたのだ。ガスのようなものが漂い、それに光が乱反射して、いわば不透明な感じがする。これはル・シダネル独特な効果のようで、印象派らしい描き方がもたらす効果だとは思えない。

         
          アンリ・ル・シダネル《朝日のあたる道沿いの川〔ブルターニュ〕》[5]。

 あまり「光」を感じないといっても、穏やかな風景画であると思いながら、《朝日のあたる道沿いの川》の前に立ったとき、なにかしら胸苦しさを覚えたのである。霧の朝なのかもしれないが、不透明なガスに包まれた息苦しさのようなものである。それまで感じていた「明るい色彩」の不透明感の過度な例がこれなのか、と思ったのである。

 しかし、歩を進めるにしたがい、印象は一変するのである。

          
            アンリ・ル・シダネル《月明かりのテラス〔ヴィユフランシュ〕》[6]。

 《月明かりのテラス》では、それまでの印象とはまったく逆に「透明な光」をかんじたのである。湖面の波から反射してくる光、テラスに蔦の影を作る光、その少ない光量の「光」が、ずっと向こうから透明な空気を突き抜けて、まっすぐ私の眼に飛び込んでくる。文字通り「光の画家」である、と納得したのである。しかし、この感覚は、図録ではわかりにくい。

 そうなのだ、「風景画家」ル・シダネルは、夜を描くことで(私にとっての)「光の画家」なのであった。《月下の川沿いの家》では、月光は白壁から反射されて川面へ、川面の波から反射されて私の眼へやってくる。月明かりのわずかな光量のはずなのに、光り輝くかのような夜景なのである。

          
              アンリ・ル・シダネル《月下の川沿いの家〔カンペル〕》[7]。

 ル・シダネルの代表作といえば、パンフレットに取り上げられている《テーブルと家》のようなジェルブロワの自宅を描いたもので、「アンティミスト」、「薔薇の画家」の名にふさわしい絵なのだろう。私の一番のお気に入りは、《月明かりのテラス〔ヴィユフランシュ〕》であるが、ル・シダネルらしさという点では《離れ家〔ジェルブロワ〕》をあげておこう。ジェルブロワの自宅で、庭の薔薇が描かれている。何よりも、これは夜の絵である。

 私にとって、アンリ・ル・シダネルは「月明かりの画家」、「月光の画家」である。

          
               アンリ・ル・シダネル《離れ家〔ジェルブロワ〕》[8]。

 これはル・シダネルの画業とは関係ないが、印象に残ったことがある。ル・シダネルの妹マルトは、ジョルジュ・ルオーと結婚している。意図したのかどうか定かではないが、ル・シダネルの展示が終わったところに美術館所蔵のルオーの絵が展示されていた。
 印象派風のほとんど線描のないル・シダネルの絵、対して太い線で輪郭が描かれるルオーの絵。静かな風景の画家、対してフォーヴィズムとも評された画家。ヴェルサイユ時代には同じ地区で暮らしたことすらある二人の画家の縁、そしてまったく異なる画業のその反対称性にいくぶん心惹かれて美術館をあとにしたのである。

 [1] 古谷可由「ル・シダネル、そのイメージと実像」、ヤン・ファリノー=ル・シダネル、古谷可由監修・執筆(古谷可由、小林晶子訳)『アンリ・ル・シダネル展』(以下、図録)(アンリ・ル・シダネル展カタログ委員会、2011年)p. 121。
[2] ヤン・ファリノー=ル・シダネル「アンリ・ル・シダネル(1862―1939)」、図録 p. 9。
[3] 古谷可由「ル・シダネル、そのイメージと実像」、図録p. 121。
[4] アンリ・ル・シダネル《快晴の朝〔カンペル〕》(1928年、油彩/カンバス、73×92cm、パリ、マルモッタン・モネ美術館)図録 p. 70。
[5] アンリ・ル・シダネル《朝日のあたる道沿いの川〔ブルターニュ〕》(1923年、油彩/カンバス、81×100cm、パリ、マルモッタン・モネ美術館)図録 p. 73。
[6] アンリ・ル・シダネル《川明かりのテラス〔ヴィユフランシュ〕》(1923年、油彩/カンバス、73×92cm、個人蔵)図録 p. 63。
[7] アンリ・ル・シダネル《月下の川沿いの家〔カンペル〕》(1920年、油彩/カンバス、73×92cm、岐阜県美術館)図録 p. 71。
[8] アンリ・ル・シダネル《離れ家〔ジェルブロワ〕》(1927年、油彩/カンバス、150×125cm、広島、ひろしま美術館)図録 p. 87。


辺見庸『しのびよる破局――生体の悲鳴が聞こえるか』(大月書店、2009年)

2012年06月13日 | 読書

 仕事のための本、論文ばかり読んでいた一時期があった。能力的に余裕がなかったと言えばそれまでだが、そういう道を選んだのだ、という意固地な感じがないでもなかった。それでも今になって思えば、「私は本を読まないなぁ」と慢性化した、めげた実感の中でもポツポツと読んでいた。
 そんな数少ない読書の中で、辺見庸はいくらかは読んだほうだろう。小説も読んだが、主体は評論の方である。辺見庸の本を読んでいると、何よりもまず、「この人は信頼できる」という感じが強くするのである。思想ばかりではなく、感受性という意味においても、いわば全人格的な意味合いにおいて、である。同じ頃、同じように感じたのは大塚英志である。たまに街に出て本屋によると、辺見庸と大塚英志の本を自然と探すようになっていた。最近は、森達也もその一人である。

 仙台市民図書館で読みたい本を探しあぐねていたとき、たまたま未読のこの本を見つけた。「二〇〇九年二月一日に約一時間半にわたり放送(同三月一日に再放送)されたNHK・ETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」を基として」 (p. 164) 書かれており、「9・11」、「金融危機」、「土浦無差別殺傷事件」、「秋葉原事件」、「年越し派遣村」など時事的な事象の底流への憤りを、カミュの『ペスト』との対称を引きながら語ったものである。

  マスコミュニケーションを通じて次々流れてくる事件に共通する底流に語り進むべく、次のように述べている。

  このことに関連し、資本主義とはなんであるかぼくは自問します。端的にいって、それは〈人びとを病むべく導きながら、健やかにと命じる〉システムです。それはまた、「器官のない身体」になぞらえられます。資本主義はさらに、この世のありとある異なった「質」を、お金という同質の「量」に自動転換していく装置でもあります。「器官のない身体」としての資本主義は、そこに棲む生体としての人間の欲望をどこまでもどこまでもたきつけ、開拓し、抽出し、それを養分にして増殖し、さらにまた新種の欲望の種をまき、育て、肥えていく。
 
人びとを病むように育て導きながら、健やかにあれと命じる資本主義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて"狂者"を(正気を装った狂者が)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるのか……ぼくはそのことがとても気になります。 (p. 17)

 この部分まで読み進んで、これはもうミシェル・フーコーではないか、と思ってしまう。「器官のない身体」というドゥルーズの言葉を引きながら、フーコーが明らかにした近代の表徴たる「生政治」への対決へと突き進むしかないのではないか。そうであれば、ジョルジョ・アガンベンが語るような「ビオス」(社会的な生)ではなく「ゾーエー」(生物学的な生)、つまり「剥き出しの生」がこの国の我々の日常の生として顕在化している現実へと、憤怒の姿で語り進むことは当然であろう。
 日本の日常を語りながら、フーコーやアガンベンの到達地点へ登って行った辺見庸は、次のようにも述べている。

 ドゥルーズがもう自殺していなくなった。サイードも亡くなった。デリタも死んで、まともな思想家、哲学者なんかあまりいなくなるし、フーコーもとっくの昔にいない。好きじゃないけど、スーザン・ソンタグだって死んでしまった。いってみれば、善かれ悪しかれ道しるべみたいな人間たちが次から次へと死んでいったり、あるいは死へのプロセスをたどりつつある。
 
ぼくも死への行列のなかに入りつつある。 (p. 139)

言葉がない。本の最後に書かれた文章を紹介して終わりとする。

 その昔、Dが独り言のようにボソボソとつぶやいたことを私は忘れない。とても喑い眼をしていた。「まちがいとわかっていても、味方しなければならないこともたまにはある……」。なんのことかはわからない。もう本人も忘れているだろう。けれど、さほどのアフォリズムにもならないこの一言もあり、私はDの"芯"を昔から信用することにしている。「まちがいとわかっていても、味方しなければならないこと」とは、「正しいとわかっていても、くみしえないこと」にどこか,似ており、おもいきり飛躍するならば、たとえば、〈テロと愛〉のあいだの喑がりに妖しく仄めく背理をも連想させる。それは私という永遠の失見当識者にとって、なぜか蠱惑的背理であり、かつ畢生の主題のひとつでありつづけるであろう。 (p. 166)


【書評】アラン・バディウ他『1968年の世界史』 (藤原書店、2009年)

2012年06月06日 | 読書

 2009年になってなぜ「68年」だったのか、というのが図書館でこの本の前に立ったときの私の率直な感想だった。もちろん、過去の重要な出来事、歴史的な事象を考えるのはいつだってかまわないとは言えるのだが、それは、「68年」を考える契機を見つけ出せないままにいる私自身の問題だったのだろう。
 「68年」、つまり日本においては全共闘運動の数年間、私は大学院生として渦中にいたのだけれど、紅衛兵のふるまいのような暴力(暴力一般を指しているわけではない)や、新左翼セクトの言説に馴染めなかった私は、その運動体の周辺部に立ち位置があった。いや、最大の理由は、今でもそのままである「集団に馴染めない」という私の性向にあったかも知れないのだが。

 この本は、サルコジが「1968年の5月(革命)を精算しなければならない」とあからさまに言明したことへの、いわば返礼ではないのかと思ったのだが、「はじめに」(藤原書店編集部)によれば、「68年」からの40周年に企画された雑誌「環」の特集を契機とし、「日本国内のみならず世界各地で同時的に発生したこの「六八年」の出来事を世界史の中で照射することを企図した書物は、まだ出版されていない……」 (p. 2) ことを出版の理由としている。そして、その企図は、私にとっては十分な読後感を与えてくれるものになっている。

  私が気にしていたことの一つに、フランスの「68年のその後」と日本の「68年のその後」の違いである。バディウも次のように述べているように、ポストモダンの思想状況を牽引してきたフランスの思想家たちは、「68年」の歴史的意味を体現しようと模索してきたのではないかと思う。

その後すぐに彼らの全員がこの出来事に関心をもち、全員が何かを変えたのです。七〇年代のフーコーは六〇年代初頭のフーコーではない。七〇年代から八〇年代のデリダは『幾何学の起源』のデリダではない。『国家のイデオロギー装置』のアルチュセールも大変違っています。六八年五月は彼らに思考の素材を与えたばかりではなく、彼らを心底変容させたのです (アラン・バディウ「六八年とフランス現代思想」(藤本一勇訳)、p. 33)

 アルチュセール、フーコー、デリダに加え、モーリス・ブランショもまたその歴史的意義について言及している(西川長夫「パリの六八年」、p. 56)。

 ポストモダンの思想家たちが語ったようには、日本の「68年」は日本の思想家たちに語られなかったのではないか。もちろん、ポストモダンの思想を輸入することに必死だった日本の思想状況で、フーコーやデリダの立ち位置に相当する場所にいる日本の思想家を想定するのは難しいだろう。
 しかし、誰がどうという指摘は難しいものの、全共闘運動に対するしらけた気分や、揶揄気味の論調が支配的だったように思う。もちろん、小熊英二や絓秀実の仕事があること、大澤真幸、大塚英志、北田暁大などによる真摯な戦後分析があることは知ってはいるが、にもかかわらずそんなネガティブな印象をもっている。
 確かにフランスにおいても日本においても既成左翼は徹底的に学生運動に敵対してきたのではあるが、フランスでは労働者によって運動が広がり、日本では学生が孤立していたということからみれば、その社会的影響の差は歴然としていただろう。しかし、その日本における学生運動の社会的孤立を、椹木野衣が言うような「未完の近代」としての戦後の「悪い場所」 [1]  を私達は生きていたためではないか、と私は疑っているのである(詳細に論証する力量はまだないが)。

 本の話に戻そう。
 ちょっと油断をすると、「68年」に世界の至るところで学生(青年)の叛乱が一斉に発生したと思ってしまいそうになるが、本書が明らかにした最大のポイントは、そのスペクトラム中の変位の著しい点である。むしろ、これだけ異なった歴史的意義を持つ叛乱がほぼ同時に生じたということに驚かされる。「68年」という物理的時間は同じでも、それぞれの歴史の固有時間ではまったく異なっていると考えてもよさそうなほどである。
 例えば、バディウはパリの「68年5月」を次のようにまとめている。

私はいつも言うのです。同時に三つの六八年五月があつたのだ、と。それらは入り混じつている。もしかしたら四つあるとさえ言えるかもしれません。若者の運動としての六八年五月があった。それは実際には、複雑で混沌としたさまざまな問題――特には高校生と大学生のさまざまな問題――に関する若者の反抗でした。また、新しい側面と古い側面の人り混じった労働者の大ストライキだった六八年五月があった。また、アナキズム的で自由奔放主義的だった六八年五月もあった。すなわち風俗に支えられた六八年五月です。オデオン座の占拠、「お祭りだ」、「想像力を権力にしょう」、性の解放……等々です。それから新しい政治形態を探求した、とりわけ知識人と労働者との結合を探求した六八年五月があった。新しい組織形態、新しい集会形態を模索した六八年五月です (同上、p. 49) 

 しかし、おなじ68年のチェコスロヴァキアの「プラハの春」の終焉について、伊藤孝行は「現存社会主義」の成立を指摘している。

ニュルンベルグ裁判で通訳を務め、のちにモスクワの大学で歴史、東ドイツの大学で哲学を教えたヴォズレンスキーは、「現存社会主義」という言葉をはじめて聞いたのは一九六八年三月のプラハであったと回想している。チェルヴォネンコ大使は自ら車を運転しながら、こう話したという。「ドウプチェクとその仲問は、人間の顔をもった社会主義について語っている。しかし、マルクス主義者なら誰でも、社会主義はただ一つしかないし、またただ一つしかあり得ないことを理解している。つまり、現実に存在する社会主義だ」。これを見れば、言葉が現体制を理念の名において批判することを封じるために考え出されたことが分かる。それはまさに改革共産主義の対抗概念であった。へーゲルの言葉を借りれば、「存在するものは合理的」なのであって、社会主義における保守主義の精神を言い表している。「プラハの春」と「三月事件」は改革共産主義の死、「現存社会主義」の誕生を画する出来事であった (伊藤孝行「ソ連・東欧圏の68年」、p. 143)

 西欧(この場合は日本も含むが)では、「大きな物語」(その骨格はマルクス―レーニン主義)の喪失の契機として「68年」はあった。左翼の言説はしだいに人々に届かなくなっていった。一方、東欧では、「68年」を契機に「改革共産主義」が「現存社会主義」、つまり「現に存在する社会主義」 (同上、p. 142) という身も蓋もない反動に取って代わられる。この完全なアンチ・シンメトリーは、誰かが描いたフィクションのようですらある。

 上記のアンチ・シンメトリーを一国で体現したようなメキシコ。オクタビオ・パスは指摘する。

メキシコの学生運動には、西洋と東欧のいずれの諸国のものとも類似点があった。私には、最大の類似性は東欧との問にあつたと思われる。すなわち、ソビエトの干渉に対してではなく、米国の帝国主義に対するナショナリズム。民主的改革への熱望。共産主義的官僚制に対してではなく、制度的革命党(PRI)に対する抗議。  (オクタビオ・パス「メキシコの六八年」(北條ゆかり訳)、p. 104)

 つまり、「東欧諸国の若者の闘争には西洋にはない点が二つある。ナショナリズムと民主主義である (同上、p. 103) 」。メキシコもまた「ナショナリズムと民主主義」の闘争であったというのである。

 中国の「68年」は文化大革命の三年目であり、若い紅衛兵による運動には違いないが、その運動は毛沢東という断固とした権力に裏打ちされている点で、他の国の運動とまったく異なっていると私は考える。そして、そのことによって、 

一九六八年の全世界的反体制の造反運動が人類に証明したのは、毛沢東の言う「破字当頭、立在其中」(まずは破壊、破壊を通じて新しいものが誕生する)の虚構性であり、中国の紅衛兵運動と世界各国の若者が皆、独自に味わった幻滅である (金観濤+劉青峰「中国の六八年」(王柯訳)、p. 152)

という結末を迎える。

  そして、世界の「68年」といかなる相関もないかのように、アフリカではコンゴ動乱など前近代的な殺戮が横行し(谷口侑「アフリカ・六八年の死角」)、中東ではイスラエルが東エルサレムを併合し、現代の中東問題の基幹的部分が成立している (板垣雄三「六八年の世界史【六七年の中東から見る】」)。

 本書は「第II部 わたしの68年」で、各界著名人の68年経験を語らせている。私は、私自身の68年経験を振り返ろうとは思わない。私個人の経験からなにがしかの意味を引き出すことなど、とてもできそうにもない。旧友と共有する思い出を語るつもりもない。友人たちも同じだろうと思っている。
 一,二年前、NHKで全共闘世代数人が当時を振り返って語る番組があったが、すぐスイッチを切ってしまった。語り口、語調が何となく当時の学生たちと似ていると感じたからである。けっして出演していた人たちの人格の問題ではない。昔の語り口で語ることへの抵抗が私にはある。そういう私の脆弱な神経の問題である。
  それでも、青木やよひの語る実感には、そのまま同意する。

確かに、政治の季節であつたあの数年間が過ぎてみると、体制のシステム自体はゆるぎもしなかったが、時代の空気がはっきりと変っていた。たとえば「権威」というものの価値があらゆる分野で低落し、人々はよかれ悪しかれ自分の好みを優先させるようになった。また、年齢や階層による行動規範がくずれ、服装のユニセックス化やジーンズ化が広く定着した。風俗を含めた文化状況のこうした自由化には、人々の意識をなしくずし的に変えてゆく力がある。ウーマンリブの登場もこの背景と無縁ではない。 (青木やよひ「政治の季節から文化革命へ」、p. 218)

[1] 椹木野衣『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)。