かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

原発を詠む(37)――朝日歌壇・俳壇から(2016年10月3日~10月31日)

2016年10月31日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

玉子焼き焦がし舌打つ夕餉どき核実験をテレビは伝う
             (名古屋市)磯前睦子  (10/3 高野公彦選)

一年に二百億円の維持費食べ二十年間働かぬ「もんじゅ」
             (名古屋市)諏訪兼位  (10/10 高野公彦選)

晩翠の作なる校歌惜しみつつ双葉休校す人住めぬため
             (郡山市)渡辺良子  (10/10 高野公彦選)

汚染水どぼどぼ流れているけれど本当にやるの東京五輪
             (須賀川市)伊東伸也  (10/17 佐々木幸綱選)

猿知恵のごとき凍土遮水壁猿も苦笑の結果となりぬ
             (東京都)野上卓  (10/17 佐々木幸綱選)

将来のことわざ辞典に書かれようもんじゅの知恵は釣瓶落とし
             (奥州市)及川和雄  (10/17 佐々木幸綱選)

ふくしまは黄金の穂波揺れるころか赤とんぼ舞ふわが里を恋ふ
             (国立市)半杭螢子  (10/24 佐々木幸綱選)

痛々しい美しさなり大切にくるまれてくるふくしまの桃
             (調布市)鈴木美江子  (10/31 馬場あき子選)

申請と検問うけて許可一〇分、悲願の墓参も五年の浪江
             (福島市)澤正宏  (10/31 永田和宏選)

耳慣れぬ被告東電被告国傍聴の部屋エアコン涼し
             (岡山市)曽根ゆうこ  (10/31 永田和宏選)

 

人類の存亡のとき鰯雲
             (川越市)渡邉隆  (10/3 長谷川櫂選)

秋風や墓標と思ふ爆心碑
             (長崎市)佐々木光博  (10/17 大串章選)

原子力空母は間近霧かくす
             (横浜市)志摩光風  (10/17 金子兜太選)

被曝地や許可得て辿る墓参り
             (いわき市)小野康平  (10/17 金子兜太選)

列島の原発という毒茸(きのこ)
             (いわき市)馬目空  (10/31 金子兜太選)

秋めくや核廃絶のオバマ鶴
             (近江八幡市)藤本秀機  (10/31 金子兜太選)



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『クラーナハ展 ――500年後の誘惑』 国立西洋美術館

2016年10月19日 | 展覧会

【2016年10月18日】


『クラーナハ展 ―500年後の誘惑』(図録
(TBSテレビ、2016年)

 東京で午後からの会議があって、午前中に展覧会を一つ見るとしたらどれにするか、じつはそれほど選択肢はない。上野恩賜公園内のどれかの美術館から汐留のパナソニックミュージアムくらいまでの東京駅近辺ということになってしまう。新幹線から降りてJRや地下鉄を乗り継いで行く美術館では時間の余裕がなくなってしまう。
 とはいえ、国立西洋美術館で開催されているからクラーナハ展を選んだというわけでは必ずしもない。数はたいしたことはないが、あちこちでクラーナハの絵を見ていて馴染みがあるということもあったが、何よりもクラーナハの絵の印象がずっと強く残っていたということが大きい。例えば、ウィーン美術史美術館での感動の大きさで言えばクラーナハの絵はけっして高くはなかったのだが、無表情で硬質な感じの人物の顔が忘れられないのである。そのタイプの人物像は決して好きではないのだが、気になって仕方がないというのが正直な感想である。


ルカス・クラーナハ(父)《ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公》1515年頃、
テンペラ/板(針葉樹材)、64×48cm、コーブル城美術コレクション
inv. no. M. 166 (図録、p. 41)。


【左】ルカス・クラーナハ(子)《ザクセン選帝侯アウグスト》1565年以降(1575年頃?)、
油彩/カンヴァス、214.5×103cm、ウィーン美術史美術館 inv. no. 3252
 (図録、p. 102)。

【右】ルカス・クラーナハ(子)《アンナ・フォン・デーネマルク》1565年以降(1575年頃?)、
油彩/カンヴァス、214.5×103.5cm、ウィーン美術史美術館
inv. no. 3141 
(図録、p. 103)。

 会場で最初に見るクラーナハの絵は《ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公》である。クラーナハはザクセン選帝侯の宮廷画家だったので、この絵が描かれたことに不思議はないのだが、表情豊かとはいえないまでも無表情で硬質な顔という印象からほど遠い絵である。
 フリードリヒ選帝侯を前にして描いたとされていることから、忠実な写実ということが私が持っていたクラーナハらしさという印象を超えてしまう理由なのかもしれない。最初の一枚で自分の印象を修正しなくてはと思っただけでもこの展覧会は私にとっては大きな意味がある。
 クラーナハ(子)も選帝侯の肖像画を描いていて、《ザクセン選帝侯アウグスト》とその妻《アンナ・フォン・デーネマルク》の全身像が並べて展示してあった。大きな作品ではあったが、肖像画としては凡庸に思えてあまり感動することはなかった。いつものことだが、ある作品に言うべきほどの感動を受けなかった時、私の感受能力に欠損があるのではないかと疑いを持たざるをえない。それで、図録解説を読んでみたのだが、解説はこの絵が描かれた事情の説明がほとんどで、感受すべき美のありようについての評言を見つけられなかった。

 肖像画というのは難しい。ありていに言えば、肖像画で感銘を受けることは多くない。たとえば、ルーベンスには多くの自画像を含め人物画が多い。それでも感動が深いのは、無名の人物を描いた絵である。優れた自画像とほとんど変わらない表現なのに、無名の人物像に心惹かれるのは、無名であるがゆえに獲得される普遍化された人間像がもつ共有性のゆえではないかと思っている。〈象徴〉を通じて人々が共感しあえることと同じように、実在の個人に人間像を限定する肖像画より、無名の人物像において象徴化が高いということだと思う。


【左】ルカス・クラーナハ(父)《聖母子》1515年頃、テンペラ/板(菩提樹材)、81.6×54cm、
ブダペスト国立西洋美術館 inv. no. 4328 (図録、p. 51)。

【右】ルカス・クラーナハ(父)《幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者ヨハネ》1515/20年頃、
油彩/板、29×18.9cm、個人像 (図録、p. 55)。

 《聖母子》も私のクラーナハ観を変えるような作品である。聖マリアの柔らかさ、豊かさに打たれる。いくつかの聖母子像が展示されていたが、この作品に眼をひかれて多くの時間を割いて眺め入った。
 母子像を眺めていて気が付いたのは、幼子の描き方に特徴があることだった。顔の器官が前方によっているのである。母子像のどれもに共通に見られたが、《幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者ヨハネ》の二人の幼子にその特徴がよく顕わされている。西洋絵画には、当然のことながら数多くの(無数の、と言ってもよい)聖母子像があるが、このような幼子の描き方をした絵は記憶にない。きわめて、クラーナハ的なのではないかと思ったのだが、図録解説にこれについての指摘はなかった。記憶にはないが、私が見ることができた聖母子像はたかが知れているので、時代的なあるいは図像学的な意味があるのかもしれない。


ルカス・クラーナハ(父)《ゲッセマネの祈り》1515/20年頃、油彩・板、
54×32cm、国立西洋美術館 inv. no. P.1968-0001 (図録、p. 77)。

 《ゲッセマネの祈り》も印象の強い作品である。ゲッセマネの逸話はキリスト教におけるきわめて重要な場面には違いないが、目を惹いたのは捕吏たちがやってくる背後の夜明けの空の色彩である。光り輝く天使の色彩の明るさに血の色を加えたような空の明るさ、画面のほんの一部分に描かれた空が暗示するこれからの受難、そんな強い物語性に欠かせない夜明けの空である。「黄とオレンジに染まった夜明けの空、および接近する捕吏の群れの描写」(図録、p. 76)は、この時代の他の画家にも共通する描き方だと解説されている。
 下部に三人の使徒が描かれているが、その肢体はどことなく幼子のそれのように見える。屈みこんでいるので正確性を欠くが、身長に対して頭部が大きく描かれているのである。イノセントな幼子の聖性につながるような意図でもあるのだろうか。肖像画ではそのような印象をまったく受けないが、《サムソンとデリラ》のサムソン、《ロトとその娘たち》のロトなども同じような印象を受けて、物語(説話)の一シーンを描いた絵に共通する特徴のようにも思える。


【左】マルティン・ショーンガウアー《聖アントニウスの誘惑》1470/75年頃、エングレーヴィング、
29.4×20.9cm、アムステルダム国立美術館 inv. no. OB 1038 (図録、p. 113)。

【右】ルカス・クラーナハ(父)《聖アントニウスの誘惑》1506年、木版(第2ステート)、
40.7×27.8cm、国立西洋美術館 inv. no. G.2000-1759 (図録、p. 114)。

 版画作品の《聖アントニウスの誘惑》という二作品に強く吸い寄せられるように眺めたのは、じつは、そこに描かれた悪魔たちの姿のせいであった。ショーンガウアーとクラーナハの絵を悪魔の描き方で区別することはできない。じつによく似ている。悪魔の姿を一つ一つ(悪魔をどんなふうに数えたらよいかわからないが)分離して眺めたい気分になる。
 描かれる悪魔の姿が二人の画家でほとんど違いがないということは、同時代の画家たちが共有する悪魔のイメージという理解でいいと思えるのだが、もしかして、もっと長い歴史スパンでキリスト教文化の中で広く培われたイメージである可能性もある。これらの一つ一つの悪魔は、どこか他の絵画の中でも見たような感じがするのだが、今はその時代を確かめるすべはない。西洋絵画における悪魔図像辞典が手許にあってもいいなと思う。ただ。この版画の二作品において一つ一つの独立した悪魔が意味を持っているわけではない。身も蓋もない言い方になるが、悪魔という概念が図像化されていればいいのである。


【左】ルカス・クラーナハ(父)《ヴィーナス》1532年、混合技法/板(ブナ材)、37.7×24.5cm、
国立西洋美術館 inv. no. G.2000-1759 (図録、p. 131)。
【右】ルカス・クラーナハ(父)《ルクレティア》1532年、油彩/板(ブナ材)、37.7×24.5cm、
ウィーン造形芸術アカデミー inv. no. 3678 (図録、p. 169)。

 《ヴィーナス》と《ルクレティア》は、ベースとなる物語を異なるが絵画の主題や構図はほぼ同じだと私には思えたのだが、エルケ・アンナ・ヴェルナーが図録に寄せた「肉欲の誘惑と道徳の戒め――クラーナハの裸体像」という論考の中で、この二作品の主題の違いを次のように指摘している。

 この《ルクレティア》とフランクフルトの《ヴィーナス》というふたつの裸体像は、ふたつの愛のかたちを示している。つまり、ヴィーナスの罠が示す悪徳、姦通の愛と、ルクレティアによって表わされる死にいたるまで純潔な、婚姻による貞淑の愛である。犠牲となるルクレティアの運命はその感動的な表情に見てとれよう。本来の歴史的・神話的な物語の関連性が省かれたことで高められた彼女たちの官能的なありさまが、両作のイメージを結びつけている。純粋な裸体像として、必要最低限のものだけを備え、彼女たちは概念的な擬人像となった。ルクレティアは純潔(Castitas)の具現として、そしてヴィーナスは性欲、性的な官能の悦びの悪徳の具現として、立ち現れているのである。 (図録、p. 29)

 この美術展のタイトルの「500年後の誘惑」という言葉が示すように、この二作品がクラーナハ絵画の最も重要で代表的な作品群に含まれている。これらの女性たちが私たちを誘惑するということだろう。この二つの裸身立像はともに極めて薄い布をまとっているのだが、そのヴェールの意味について、ジャック・デリダの言を引用して、新藤淳が次のように記している(「クラーナハ、その誘惑のアナクロニー」)。

 デリダが着目したのは、何よりも、クラ一ナハの裸体像のほとんどがまとう、あの極薄のヴェールだった。その過剰な透過性をもった薄布は、わたしたちを彼女らの身体からそっと隔てながら、と同時にそちらへ誘い込む。皮膜のように薄く、微細な襞を刻んで流れるその布は、女性たちの素肌を覆いながらも隠さず、恥部を遮りつつも閉ざさない。彼女らは「裸」であって、またそうではない。ここには「内」も「外」もない。そのヴェールは、それらを分割していて、またしていない。“veil”というのが「覆い隠す」という意味の動詞でもあるとすれば、わたしたちがいま「ヴェール」と呼んでいるものは、はなはだ語義矛盾な何かである。はたしてこんなにも、絵と見る者との距離を惑わせる画家が、クラーナハ以外にいるだろうか。
 クラ一ナハの絵はこうして、クラークが考えたような「芸術作品」や「芸術形式」の内/外、本質/非本質、純粋性/不純性といった境界画定そのものを惑わせる (図録、p. 249)


ルカス・クラーナハ(父)《ルクレティア》1510/13年、テンペラ、油彩/板(菩提樹材)、
60×47cm、個人像 (図録、p. 165)。

 ヴェルナーや新藤淳の言葉を引用してしまうと、私が付けくわえられることなどほとんどない。彼らの指摘がきわめて適切であることもあるが、もう一つ、これらの裸体画の作品に私自身が「誘惑された」自覚があまりないからということもある。裸体画の典型のような《泉のニンフ》のように寝そべった女性を描いた作品もあるが受ける感じはほとんど変わらない。
 誘惑されるか、されないかはきわめて私的なことにすぎないが、クラーナハ作品から選ぶとすれば、上の《ルクレティア》のような作品の方がよい。もちろん、ルクレティアが純潔の象徴のような女性だなどという理由ではない。どこかふくよかで豊かな感じに惹かれるのである。


【左】ルカス・クラーナハ(父)《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》1530年代、
油彩/板(菩提樹材)、73.5×54cm、個人像 (図録、p. 203)。
【右】ルカス・クラーナハ(父)《ホロフェルネスの首を持つユディト》1525/30年頃、
油彩/板(菩提樹材)、87×56cm、ウィーン美術史美術館 inv. no. 145
 (図録、p. 205)。

 クラーナハの描く人物の表情はとても薄い。上の《ルクレティア》も無表情と言えるが、それは自死を遂行しようとする人間の絶望の果ての表情と理解できないこともない。
 しかし、《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》と《ホロフェルネスの首を持つユディト》の二人の無表情は驚くべきものである。二人の女性の表情に比べれば、首だけの聖ヨハネやホロフェルネスの死者の方に苦悶や絶望の表情が強く現れているようにすら見えてしまう。
 しかし、二人の女性の無表情には差がある。変な言い方だが、無表情の強度に違いがあるのだ。ユディトの完璧に近い無表情に比べれば、(強いて言えばだが)サロメは微笑んでいるのではないかと思えてくる。いわば、無表情を超えてしまったかのようだ。それはサロメの悪魔性を示しているのかもしれない。それをクラーナハが意図したのかどうかまったくわからないが、人間の感情を負の方へ(悪の方へ)突き詰めていった先に頬笑み(時に哄笑)があるというのは大いにありうることなので、サロメの物語性と相俟ってそう感じてしまったらしいのである。
 ユディトの完璧に近い無表情を眺めていると、人間の顔の造形のイデアの存在が強く信じられていて、人間の顔の造形と感情は切り離せないというような人間主義(ヒューマニズム)的な立場はまだ育っていなかったのではなかろうかと思えてくる(西洋美術史的な解釈は私の能力を超えているが)。


ルカス・クラーナハ(父、ないし子?)《子どもたちを祝福するキリスト》1540年頃、油彩/板(オーク材)、
81×121cm、奇美美術館、台湾 inv. no. 0011119 (図録、p. 233)。

 最後に、《子どもたちを祝福するキリスト》を挙げておく。あまり信頼できない記憶をたどってみたが、このような主題の宗教画を見るのは初めてだとおもう。キリスト教における子どもたちへ向ける慈愛は聖マリアが象徴的にすべてを引き受けていると思い込んでいたので、この絵をとても珍しいものとして受け止めたのである。
 神が子どもに慈愛を示し、祝福し、ときに奇蹟を行うのは宗教として特段に珍しいことではないが、そうした宗教画がキリスト教にあまり見られない。それは、キリストがすべての人間の救いを、マリアが子どもや病人や弱者への慈愛を、そして神が過てる人間への苛烈な罰を与えるものというようにキリスト教そのものが論理構造を持つためではないかと思われる。この絵は、キリストを身近なものとして描いているため、一方ではある俗っぽさを伴っているとも言える。上でヒューマニズムまだ育っていなかったと述べたことと矛盾するようだが、マルティン・ルターと同時代を生きたクラーナハに芽生えた人間主義的な意識を反映しているのかもしれない。
 そんなふうな勝手な想像をめぐらすのだが、現代日本から見るヨーロッパの500年前は私にはじつに遠いのである。いや、それなのに500年前の絵画が目の前にあるということを現代の僥倖として素直に喜ぶべきなのだろう。



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【書評】アレッサンドラ・マウロ編『MARIO GIACOMELLI――黒と白の往還の果てに』(青幻社、2009年)

2016年10月17日 | 読書

現代では、ゆくりなく見えるすべてのことは〈ゆくりなく見えるようにつくられた〉ものにすぎないのであり、それに気づかないふりをするしか、〈ゆくりなく見えるようにつくられたもの〉を楽しむすべはない。そこには驚きも感動もない。映像はたんなる確認行為でしかないのである
            (辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』p. 77)

 


アレッサンドラ・マウロ編
『MARIO GIACOMELLI――黒と白の往還の果てに』
(青幻社、2009年)


辺見庸
『私とマリオ・ジャコメッリ――〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』
(日本放送出版協会、2009年)

 

 図書館の書架の間を行きつ戻りつし、読みたい本を探しあぐねていたとき、写真に関する本でもいいかと思いついた。人並みに一眼レフで写真を撮るのだが、最近、もう少しいい写真が撮れないかと考えることもあったからだ。
 写真の分類の書架に「辺見庸」の名前を見つけて思わず手にしたのが『私とマリオ・ジャコメッリ』という本である。マリオ・ジャコメッリという人物を全く知らなかったのだが、「生と死のあわいを見つめて」という副題そのものは、辺見庸という作家がずっと主題としていたことに思えて、なんでこのコーナーにあるのかと訝りながら手にしたのだった。この本は写真家ジャコメッリに作家辺見庸が共鳴しえたもろもろが書き記されているらしいので、「ジャコメッリ」で検索して『MARIO GIACOMELLI――黒と白の往還の果てに』という大判の写真集を見つけ、辺見庸本と一緒に借りだした。
 まず辺見庸の『私とマリオ・ジャコメッリ』を読み、作家の言葉をたよりに写真集を眺めたのである。私は、写真芸術(ないしは芸術写真)という領野にほとんどなじみがない。だから、この2冊を並べて読み、眺める機会が得られたというのは、私にとってとてもいい偶然、幸運な偶然だった。
 まず、辺見庸の次のような言葉を肝に銘じつつ、写真を開く(以下、『私とマリオ・ジャコメッリ』からの引用は『私と……』とページ、『MARIO GIACOMELLI』は単にページのみを記す)。

フォトグラフ(photograph)という外国語に「写真」という訳語をあてたのは、日本人にとって不幸なことであった。写真とはすなわち〈真を写す〉の謂だが、これほど政冶的であり、また罠でもあるような名辞もないだろう。なぜなら、映像(写真)提示されればただちに、「これは現実に存在するものを写したのにちがいない」という思いこみがわれわれに生じるという仕掛けが、写真という名辞と装置のなかにあらかじめ組みこまれているからである。 (『私と……』、p. 18)


《自然についての認識》1977-2000年、マルケの野(p. 51)。


《自然についての認識》1977-2000年、マルケの野(p. 56)。

 写真集は、ジャコメッリの風景写真で始まる。《自然についての認識》や《大地の物語》という農地のシリーズと、《わが物語の海》という海浜のシリーズである。前者は耕された農地の畝が幾何学的な印象を与える写真がほとんどで、後者は海水浴場や小さなボートの浮かぶ海岸縁を上空からまっすぐ下に見下ろした写真で、いわゆる風景がというよりは風景を用いた「コンポジション」と称される抽象絵画のような効果を与えている写真群である。
 これらの作品には自然そのものと言えるような風景はない。人間によって耕された大地であり、小屋や海水浴客のパラソルが並ぶ砂浜がジャコメッリの自然ということのようだ。言ってしまえば、ジャコメッリは人間が深く関与した自然をどう表現するかに腐心したように見えるのだ。自然といい風景といいながら、ジャコメッリはそこに写し込まれた人間の存在を抽出しようとしているのではないか。たしかに、これらの写真群は、自然が持つ抽象絵画的な美を切り取って見せてはいるが、その美には人間が関わっているということが主題から外せないのではなかろうか、そう思う。

どこが抽象だというのか! 私が愛するジャコメッリのなかには、私がもっとも偉大だと思えるジャコメッリのなかには、悲劇的夢想性は現実の責め苦を礎とし、彼のリアリズムは視覚の威力の申し子なのだ  (p. 163)

 私は「抽象」という言葉を使ったが、フェルディナンド・シャンナは上のように力説している。いくぶん、日本語としての(訳文の)構造が分かりにくいが、ジャコメッリにおける「視覚の威力」に異論をはさむつもりは毛頭ない。シャンナの言う「リアリズム」は目に見えたままを写し取るリアリズムではなく、主題の実相のリアリティの強度について言っている。
 辺見庸は「視覚の威力」をジャコメッリの「眼=カメラ」として、現実から主題を抽象するジャコメッリの創作方法について述べている。

かれはカメラにも、ましてそのメカニズムにもさほどの興味を示さない。なぜなら、かれにとってのカメラはかれ自身の眼だからである。その眼=カメラによって、自分の主観に映ずるなにものかのイメージを現実空間からすくいあげて画像として抽象してゆく。ジャコメッリは撮るのでなく、眼で描くのだ。それがジャコメッリの創作方法である。 (『私と……』、p. 100)


《庭師の妻》1956年(p. 76)。


《ロレート》1958年(p. 92)。

 辺見庸は、ジャコメッリを「写真家」とカテゴライズすることに異を唱え、「映像作家、映像作品と呼ぶべき」(『私と……』、p. 19) と主張する。実際、ジャコメッリは主題表現のため様々な手法を駆使している。それは、例えば、自分の写真を「フォトショップ」で加工することすら「リアリズム」の棄損とためらってしまうような凡庸な私(たち)の写真のまったく異なった極にある。
 「われわれが分析しているイメージはかなりの確率で複合プリント、二つの異なるネガから得られたフォトモンタージュ」(p. 82) とパオロ・モレッロは指摘するが、決してその技法ばかりではない。

たとえばかれは、重ね撮りや意図的な手振れなどの技法はもちろん、映像上にものも貼りつければ、絵筆で絵や模様まで描いた。自分の眼をカメラだと考えていたかれは、自身の眼にとりこんだ、あるいは自身の眼に浮かんだイメージを〈表現〉するためには、なんでも平気でやったのである。古典的な、もしくはナイーブな写真芸術家なら、ジヤコメッリの映像を〈写真〉とはおそらく認めないだろう (『私と……』、p. 93)

 しかし、私のような「古典的な、もしくはナイーブな」一観者にすぎない者にとっても〈写真〉と名指しうる作品もある。それは、上の《庭師の妻》であり《ロレート》シリーズに含まれる作品などである。
 《庭師の妻》はジャコメッリの母親であるというが、使い込まれて先端が光り輝く象徴的な鋤、それと並ぶ農婦の表情、そして手前に置かれた太く力強い右手のそれぞれの存在感が圧倒的なリアリズムとしてある。一方で、この作品はきわめて主情的な表現主義のようにも思える。この写真は、ジャン・フォートリエの初期作品である《管理人の肖像》に描かれた老嬢の前に組まれた手を思い出させる。それは小柄な婦人像に似つかわしくないほどの大きく強調された手であった。
 「時間」と「死」がジャコメッリの写真に通底するものだと語るのは、辺見庸ばかりではなく、表現は違っても『MARIO GIACOMELLI』に抄録された評者たちも同様である。母親の手も、古い鋤の先端の輝きと不均等な磨滅の様子、農作業で鍛えられつつも荒れていく手、すべてが凝縮された時間としてピン止めされている。
 《ロレート》シリーズはおそらく「ロレートの聖母」で知られる巡礼地での撮影だと思われる。グエルチーノの絵画《ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナルディーノと聖フランチェスコ》では二人の聖人が礼拝しているが、カラヴァッジョの《ロレートの聖母》では貧しい身なりの巡礼の男女が描かれている。ジャコメッリの写真はそれぞれに人生を抱えた巡礼の人々が疲れた体を休めている情景で、いわばカラヴァッジョの「ロレートの聖母」から聖母子像と巡礼者の祈りの姿をあえて外すことで、現代の人生の疲労と苦悩を浮き彫りにするようなリアリズムを獲得している。中央に並んで座っている二人の婦人の眼差しに捕らえられて目が離せないのである。


《ルルド》1957年(p. 89)。


《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》1954-1968年、セニガッリアのホスピスでの撮影(p. 101)。


《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》1954-1968年、セニガッリアのホスピスでの撮影(pp. 102-3)。

 《ロレート》シリーズもそうだが、病や身体的障害の恢復の奇蹟を信じて巡礼する人々を写し取った《ルルド》シリーズや、セニガッリアのホスピス施設を撮影場所とした《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》シリーズに(私にとっての)ジャコメッリらしさがよく顕われているように思う。
 ルルドもまた巡礼地なのだが、巡礼路の周辺の情報を一切消し去って、奇蹟を信じて集まってくる人々の列のみを写しとって(映しだして)いる。《ルルド》シリーズには病める人の肖像のような写真もあるが、どちらかと言えば、集まった巡礼者の集団の映像に主眼が置かれているように思える。ベッドに横たわる人も含めた巡礼者の大集団が祈りを捧げている光景を写した1枚は端から端までびっしりと人ばかりで、その地の情報は何も与えられていない。主題は「人間」であり、その「生」と「死」である。
 《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》というシリーズの作品は、どれも私には衝撃的なものだった。私は102歳で死んだ母親を看取り、今は112歳と高齢の妻の母と暮らしている。しかし、肉親や身近な老人を私(たち)が見つめることとジャコメッリのホスピスの住人へ向ける凝視とは大いに異なっているようだ。
 もともとジャコメッリの母親がこのホスピスで洗濯婦として働いていて、少年時代から出入りを続けていることでこのシリーズの撮影が可能になったとされている。しかし、「時間」を紡ぐことすら覚束ないほどに「死」が目前にある人びとを対象としてこのような「時間」と「死」をイメージとして形作るのは、決してそのような撮影条件によるのではなく、ジャコメッリの過酷なまでに凝視する眼の力であるに違いない。
 死の床にある老女とその場所から立ち去るかのごとく配置された黒ずくめ(または黒い影だけ)の人で構成された1枚は、「ホスピスの生活」の写真のなかでも「もっとも名高いもの」とパウロ・モレッロは評して次のような解説を与えている。

中央下に年老いた女性の顔を、そしてそのまわりをぐるりと取り囲んだほかの女たちの、何人かは座り、ほかはゆっくりと遠ざかってゆく黒い影を見せる。前景の女性は頭をハンカチでおおい、目を蘇り、唇は力なく開かれている。その顔のトーンは蠟のようで、血の気がない。もちろん女性はまだ生きている、が、伝わってくる想念は、最後の息をひきとる瞬間は遠くないだろうというものだ。ジヤコメッリはこの程なき旅立ちの、すでに無形化しつつある、薄れゆく軽さの――そしてすなわち、魂の表現の――想念を、技術的には多重露出によって表している。 (p. 81)

 辺見庸は自らの臨死体験を踏まえて、写真家は死にゆく者たちを見ているが、死にゆく者はまたこちらをよく見ているのだと語る。そして、ジャコメッリのこれらの作品群は、ジャコメッリ自身が死にゆく者たちの側から見ているのではないかと言うのである。

「死にゆく人間の意識の側から撮っている」と私が感じたあの一枚は、おそらく、〈見る—見られる〉の相互的関係、あるいはその弁証法にかれが気づいていたことの証ではなかろうか。

かれは被写体であるおばあちゃんの意識の側から撮った。少なくとも、そのように撮ろうとした。そして結果的に、生と死のあわいを、「生に依存した死、死に依存した生」という神秘を埋めこんだ映像をつくりあげたのである。 (『私と……』、pp. 66-7)


《スカンノ》1957年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(pp. 146-7)。


《スカンノ》1959年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(pp. 148-9)。


《スカンノ》1957年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(pp. 146-7)。


《スカンノ》1957年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(p. 157)。

 辺見庸の評言の中で私が最も感銘を受けたのは、ジャコメッリの創造する世界は「識閾」と呼ばれるべき領野で展開しているというものである。

私はジャコメッリのほとんどの映像に知覚心理学などでいう識閾のような心的領域を見ている。識閾とは、なにかに気づくかどうかの意識の境目であり、人間の意識が生起し、あるいは逆に消失していく境界でもある。そこでは意識は薄く、きれぎれでありともすればすぐにもとぎれそうになっている。そこはまた、はしなくも潜在意識や記憶の驚くべき古層がかいまみえたりもするところであり、映像芸術にとっては淡水と海水がまじわるがゆえにさまざまの魚たちがあつまってくる汽水域のように謎めいた〈意識の秘境〉だ。そんな識閾をだれよりも感じさせるジャコメッリの映像に、私はいやおうなく惹きつけられる。 (『私と……』、p. 30)

 ジャコメッリの「潜在意識や記憶の驚くべき古層」は私たちのそれと通底しているだろう。だから、それは、誰にでもある「時間」と「死」を通じて形成された識閾となっていて、スティグレールが語る「象徴」[1] と同じように私たちの共感の根拠となっている(スティグレールの象徴よりももっと意識の深い領野にも思えるが)。
 《スカンノ》のシリーズは、古い習慣や風俗を残している小さな村スカンノの人々を写したものである。それぞれに重ね撮りやモンタージュの技法が施されている写真は、明らかに異様な(視覚的に違和のある)映像でありながら、デジャブのような懐かしさも醸成している。辺見庸は、中央の少年だけに焦点があっている一枚を、これは〈異界〉の映像であり、「いまだ知らぬあの世のデジャヴ」を見ているのだと評している。

「スカンノの少年」の映像は、ジヤコメッリによってとらえられた〈あの世〉であり〈これから見る夢〉であり、〈まぼろし〉なのである。 (『私と……』、p. 9)

 村の石畳の坂道を上る牛と数人の人はどこか茫洋としていて、振り返った少女の顔だけに焦点があっている一枚には、こんな夢をどこで見たことがあると思わせる効果がある。見知らぬ背景も登場人物もぼんやりとしているが、たった一人の人の顔だけがありありと思い出せるほど鮮明な夢、そんな夢を本当に見たかどうかじつは記憶にはないのだが、よく見る夢のように思えてしまう。これこそが「識閾」の象徴的共有性なのではないか。


《良き大地》1964-1966年、マルケの野 (pp. 176-7)。

 辺見庸は、ジャコメッリの作品にはあまりキリスト教の影響を感じないという趣旨のことを述べているが、私は《良き大地》というシリーズ名そのものにキリスト教を感じた。写真集の最初に集められていた写真シリーズの「自然」は耕された農地のことであり、《良き大地》で描かれる世界も農地とそこで働き、暮らす人々を描いている。この大地は、聖書で語られる豊穣の大地、惠みの大地のイメージである。
 ジャコメッリ自身は、キリスト教的精神性を写真表現に明示的には持ち込んでいないのはたしかだと思うが、イタリアの地に根付くように続いたキリスト教文化は意識されざるままに「識閾」の中の背景をなしているのではないかと思われる。しかし、辺見庸がジャコメッリの写真に見る「聖性」は、個別的な宗教を越えてすべての人間において同等である「死」を通じて獲得されたものに違いない。

映像から読みとるかぎりにおいて、ジャコメッリの死生観は、そこに立ち会った人間でなければわからないようなおそろしさを秘めていると私は感じる。それは、人間的とか非人間的とかいう問題ではない。そのような、いってみればありきたりのヒューマニズムではない。そのような次元を突きぬけたところにしか、かれは関心をもっていなかったとおもわれる。ジャコメッリが惹かれたのは、死にゆく人間がつかの間放射する〈聖性〉のようなものだったのかもしれない。

いまわの際にある者の聖性。ジャコメッリはたしかに死にゆく者の幾人かを聖人のように撮った。 (『私と……』、pp. 68-9)

 誰にでも例外なく訪れる「死」によって生まれる共有性こそが、私たちが芸術作品を通じて共鳴しうる根拠なのかもしれない。そして、じつは私(たち)の貧しさが無意識的に「死」を避けてしまう日常的頽落に基づいているだろうことも確かなことのように思われる。

 [1] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)



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【書評】ギュンター・アンダース(青木隆嘉訳)『核の脅威――原子力時代についての徹底的考察』(法政大学出版会、2016年)

2016年10月10日 | 読書

一九四五年八月六日、あの広島原爆の日に新しい時代が始まった。いつ何時あらゆる場所が、いや世界全体がヒロシマと化してしまうかもしれない時代が始まったのだ。あの日からわれわれは負号つきの全能者になったのである。しかし、いつ何時抹殺されるか分からない以上、これは、あの日からわれわれは全く無力な存在になったことにほかならない。この時代がいかに永く、たとえ永遠に続いても、この時代に続く次の時代はない。われわれが自らの手で自分自身を抹殺することがこの時代の特質だが、その特質は――終末そのもので終わるのでないかぎり――終わることがないからである。 (p. 127)

 


ギュンター・アンダース(青木隆嘉訳)
『核の脅威――原子力時代についての徹底的考察』
(法政大学出版会、2016年)

 人類は核兵器を発明したことによって人類を殲滅させることができる「負の全能」を手に入れた。それと同時に、殲滅されうる人類として完全に無力な存在となってしまった。核による世界の終末、アポカリプスは私たち人類の想像力を超えているため、危機を乗り越える知恵や力が沸き立ってくるには大いなる困難がある。もうわれわれには時間がなく、後世の人々にも時間はないが、「終末の時代と時の終わりとの闘いに勝利すること」が私たちの課題である。
 結論から言えば、これが本書によってアンダースが語りたかったことである。

 『脱原発の哲学』 [1] の中に〈反核〉の思想の系譜に重要な位置を占める哲学者として、モンテスキューやジャン・リュック・ナンシーと一緒にその思想が紹介されていることでギュンター・アンダースの名前を知った。記憶にない名前で、調べてみたら、最初の結婚相手がハンナ・アーレントだったことに少し驚いた。アーレントの著作はそれなりに読んでいるつもりだし、その伝記的な部分も少しは知っている。ハイデガーとのことも結婚のことも読んだ記憶があるのに、ギュンター・アンダースの名前を覚えていなかったのである。
 もともとアンダースの著作として読もうと思って探した本は、「核兵器とアポカリブス不感症の根源」という論考が収められている『時代遅れの人間』 [2] の上巻だった。それを検索していたら、この『核の脅威』が今年の新刊として発行されていることを知った。『時代遅れの人間』では原爆、原発に関する論考が「核兵器とアポカリブス不感症の根源」に限られているのに対して、『核の脅威』はタイトル通りに核が現代社会にもたらした脅威についての論考ばかりが収録されている。
 『時代遅れの人間』は、すでに古典と呼ばれてもいいような時代の著作だし、今年の新刊の『核の脅威』と言えども、原論文が執筆されてからだいぶ時間がたっている。核の年代から言えば、ヒロシマ・ナガサキからスリーマイル島事故まであたりと考えてよい(アンダースにはチェルノブイリ事故への発言もあるが、本書には含まれていない)。しかし、核に関する脅威という点において、ギュンター・アンダースの著作が古びていくことは時代状況が許してはいないはずだ。

 フクシマ事故以来、私たちは原発に関する情報の大海の中に放り込まれている。もちろん、情報というものは見ようとしない者にとってはまったく見えないものだが、少なくともヒロシマとナガサキにフクシマを重ねることができる人間には、情報の海を泳ぎ切ることはとても重要なことだ。
 フクシマ事故は、原発に反対する側と擁護し推進したい側のあいだに、原発や放射線の危険性(安全性)についてのかまびすしいまでの議論を巻き起こした。それは、情報隠蔽と情報の掘り起こしの闘いという様相も呈している。原発の細部にわたっての安全性の議論や実際に起き始めている人体障害への放射線の影響についての果てしのない議論は、かつて大学院まで原子力工学を学び、第一種放射線取扱主任者の資格を持って職場の放射線作業の安全管理業務をしていたことのある私にとってすらかなりうんざりするものである。しかも、その一方の側(原発を擁護し推進する側)は、一方的に情報を管理しうる政府・行政権力であることを考えれば、その議論の場で手を抜くことはもちろん許されない。
 しかし、そうした氾濫状態の情報、あるいは偏頗な合理性に執着して論理性を放棄したような権力的な言説の中で強くなっていく思いは、いわばメタ的な位置からもう少し根源的に「核と人間」とか「科学と核技術」、あるいは「原発と人類」、「放射能と人類生存」のようなテーマを考えてみたい。私に考える力量がなければ、何か(誰か)の知恵によって知りたいということだった。そうすることが情報の流量に負けて押し流されないように身を守ることになるのではないか、と思うのである。

 核に関するアンダースの思想を理解するのに必要な概念はいくつかあるが、中でも「プロメテウス的落差」と「アポカリプス不感症」は重要な概念となっている。前者はギリシャ神話、後者は新約聖書の「マタイの黙示録」に由来するので、観念的にはともかく、直感的には(クリスチャンではない日本人としての私には)理解しにくい。
「プロメテウス的落差」については、『時代遅れの人間』に「自分が造った製品の世界と人間との間の非-同調性が日々増加している事実、両者の距りが日毎に大きくなる事実」と規定して、次のように述べている。

水素爆弾を製造することはできるが、自分が製造したもののもたらす結果をまざまざと思い描く力はない。――同様に感情も行為におくれをとっており、何十万回も爆弾で破壊することはできても、死者を悼んだり後悔したりすることはできない。――そして、最後の黒幕か恥をかいた落伍者のように、民俗学の対象になりそうなぼろをまとって、先のものから完全におくれて、――あらゆるもののはるか後方をノロノロと歩いているのが人間の身体だ。 (『時代遅れの人間・上』 pp. 17-8)

 技術ないしはその技術による生産物そのものが、技術を駆使し、生産物を利用する人間の想像を超えてしまった。そのもっとも典型的かつ象徴的な生産物こそ、原爆また水爆である。今や核兵器は、地球の人類を何度にもわたって絶滅するほどの数に達している。
 核が人類に与えているものは、アポカリプス、黙示録に言う世界の終末である。もちろん、そこでは黙示録的世界のような神が関与する天国や地獄はない。純粋に私たち人類の消滅だけがある世界の終末である。しかし、私たち人類は、「プロメテウス的落差」によって世界の終末を想像することができない。「アポカリブス不感症」なのである。
 人類が核兵器を所有したことによって、人類はどんな時代に突入したのか。核兵器は、人類を「絶対的なものへの激変」をもたらした。

 「絶対的なものへの激変」という新しい言い方で何を言おうとしているのか。
 言おうとしているのは、われわれが神に似た状態に達した事実、すなわち「核兵器」を所有して全能を獲得したという事実である。新たな激変が、強大な力を有する状態から全能を有する状態への激変だからである。
 言うまでもなく、われわれの状態は神学的な意味での完全な「神のような状態」ではない。われわれの状態には、創造する全能は明らかに含まれていない。それでも、人類(おそらく地上のあらゆる生命)の存続か死滅かを決める黙示録的な力をわれわれが有するかぎり――これだけでも十分不気味だが――、少なくともネガティヴな意味で「全能」が問題になる。 (p. 23)

 現代人の意識の中に、絶対的なものもしくは無限なものという意味を有するものがあるとすれば、それは、もはや神の力でも自然の力でもない。まして、いわゆる道徳とか文化の力などではない。それは、われわれの力なのだ。全能を示す無からの創造(creatio ex nihilo)の代わりに、反対の力である絶滅の力(potestas annihiliationis)、無への還元(reductio ad nihil)が――われわれ自身のうちにある力として――登場しているのである。長い間プロメテウスのように求められてきた全能の力は、求めずして、現実にわれわれのものとなったのだ。互いに終わらせるだけの力を持っているからには、われわれはアポカリプスの主人なのだ。無限なる者とはわれわれのことだ (『時代遅れの人間・上』p. 251)

 核によって人類(私たち)ができることは人類の絶滅だけである。このアポカリプスには「天国」も「地獄」もない。「負の万能」には、「救済」はなく「虚無」だけが齎される。
 アンダースは、核による無限の能力、人類殲滅に至る全能を有した政治に全体主義そのものをみる。「全体主義と核による全能とが対をなしているところにその根拠があるのだ。核による全能は、全体主義国家の内政上の恐怖政治の外交上の片割れである」と断じている。

 ヒトラーの全体主義はまだ不完全であった。核を独占すればそのとき初めてナチス国家は絶頂に達したことだろう。すなわち内政と外交とが完全に一致しシンクロして、グローバルな規模の恐怖政治となったことだろう。 (pp. 30-1)

 ヒロシマのウラニウム原爆とナガサキのプルトニウム原爆の2発から始まった核時代は、急激に拡大、拡散していった。核兵器は、「使用」から「所有」に移行したかのように見える。しかし、その全体主義としての恐怖政治そのものは何も変わらない。人類殲滅が可能である(殲滅される恐怖を人類に与え続けている)のに、殲滅しない(核兵器を使用しない)からといってそれが「道徳的に積極的な政治」であるはずがない。そこにも、人種殲滅を実際に行ったナチズムに通底するものがある。

――無論、核兵器を現実に武器としながら、「理想的」使用を行なわず、ただ恐喝手段として投入した人々は、理想的に行動したと独善的に信じている。殺されたかもしれないが結局殺されなかった人々のことを、「救われた人々」と呼ぶというヒトラーが始めた慣習は、今日も依然として流行している。生命を「まだ殺されていない存在」と呼ぶ強制収容所に由来する定義が今日でもなくなっていないとすれば、それは殺さないことを自慢するこういう独善家のせいである。 (『時代遅れの人間・上』p. 270)

保有と使用との区別は他の場合には明確だが、核の力が本質的に保有(habere)と使用(adhihere)との区別を無効にして、その代わりに保有=使用という等式を正しいものとする事実を思いださねばならない。これはたとえば核兵器を保有するものは、保有した後に使用する、つまり核爆弾を投下したり発射したりするということではない。(…中略…)「非保有国」の視点から見れば、この等式が正しいことは歴然としている。非保有国はどこかの国が核兵器を保有していることを知るだけで十分であって、それだけでもう恐喝されていると感じ、そのように振る舞うことになる、つまり非保有国は有効に恐喝され無力化されるものとなっているのである。保有国が現実には核攻撃によって脅して恐喝しようと思っていない場合でもそうである。保有国が望むか否かと無関系に、原爆の保有だけで恐喝者になっている事実を覆す力は保有国にはない。保有しているという事実によって、欲するか否かと無関係に、全能の道具をすでに稼働させている。保有することによって使用しているのだ(Habendo adhibent)。  (pp. 237-8)

 核はたしかに世界の終末、アポカリプスへ向かう時代を生み出したが、アウシュビッツもまた凄惨な人種殲滅という手段を通じて、人類が精神もろともにいっさんに破滅に向かう可能性を示した。テオドール・アドルノは、「アウシュヴィッツの後」の世界を「アウシュヴィッツが可能であった世界」 [3] と評した。かつて人々は、人間の本性、その倫理性に鑑みてアウシュヴィッツのような出来事を想像すらできなかったし、絶対的に不可能だと考えていた。ナチスによってアウシュヴィッツが可能になった時代に人類は突入したことに人々は驚愕し、打ちのめされた。それが「アウシュヴィッツが可能であった世界」という思想的認識の意味であって、事実問題からいえば、さらにpossibleからprobableへと一変したと言うべきだろうと私は考える。
 さらに、ジャン=リュック・ナンシーもまた、アウシュヴィッツとヒロシマの差異と等価性を論じて、政治と人類生存における世界の本質的な「激変」についてアンダースとほぼ同様な結論を述べている。

……アウシュヴィッツとヒロシマが――膨大な差異とともに――文明全体のとも言うべきある変異に呼応した二つの名であることにかわりはない。すなわち、そのいずれも、それまでめざされてきた一切の目的とはもはや通約不可能な目的のために技術的合理性を作動させるにいたったのだ。というのも、こうした目的は、単に非人間的な破壊ばかりではなく(非人間的な残酷さは人類の歴史のなかでも古くから知られている)、完全に絶滅という尺度にあわせて考案され計算された破壊をも必然的なものとして統合したからである。こうした尺度は、これまで諸々の民族が、競合、敵対、憎しみ、復讐などを通じて知っているようなあらゆるかたちの殺人的な暴力に比して、尺度を超えたもの(démesure)、超過(excés)として考えられねばならない。この超過とは、単に度合いが変わったということではなく、それとともに、そして何よりもまず、本性(ナチュール)が変わったということである。はじめて、抹消されるのが単に敵だけではなくなったのである。集団的な規模での人間の生が、戦闘をはるかに超えたところにある目的の名のもとで絶やされることになり(しかも、犠牲者は戦闘員ではない)、これによって、多数の者の生のみならず諸々の民族の配置そのものをも自らの権力のもとに従属させるような支配が肯定されることになるのである。 [4]

 人類は、いわば、ソフトウエアとしての人種殲滅のナチズムという思想と人類殲滅のハードウエアとしての原水爆(そして原発)をそろえて手にしてしまった(思想的・技術的合理性を作動させてしまった)。アウシュヴィッツとヒロシマの後、私たちは、人類が「完全に絶滅」するアポカリプスの時代を生きることになった。
 たとえば、仮に、アウシュヴィッツ(ナチズムないしは全体主義)を徹底的に批判し、核兵器を完全に廃棄することができたとしても、私たちの生きる時代の「本性」は変わらない。人類絶滅はpossibleどころかprobableのままであることは変わらない。アウシュヴィッツを知ったものは、知らなかった時代に戻ることはできない。原水爆を作ることを知った人類は、核分裂を知らなかった人類に戻ることはできない。私たち人類が人類殲滅の思想と技術を手にしてしまった事実は覆せないのである。

……先ほどわたしは、間違ったオプティミズムを未然に防ぐために、既存の核兵器を破壊しても核に対する安全の保証にならないことを特に強調した。それでは核に対する安全が保証されないのは、先にも述べたように、われわれの破壊力を妨げるものがあるからだ。すなわち、「われわれの能力はわれわれ自身の能力によって制限されている」からである。――これは、われわれが破壊力を破壊しても、潜在的な製造である「ノウハウ」は同時に破壊されるわけではなく、製造方法に関する知識は無傷のまま残るからである。 (pp. 208-9)

廃絶の祈り続けむ二発から一万六千に増ゆ核兵器 
                            斉藤千秋 [5] 

 現実の世界では、核廃絶は夢のまた夢、政治家の美辞麗句に繰り込まれた虚言の片言にすぎない。世界は、核を保有することによって他国を全体主義的に脅迫している国家群と一方的に脅迫され続けている核を保有しない国に二分されている。つまり、国家の「境目は、「保有国」と「非保有国」とのあいだにある」(p. 238) のだ 。
 核保有国と非保有国の関係は、先進的資本主義国家が新自由主義に基づくグローバリゼーションによって経済後進(中進)国家群を周辺国化していく関係とみごとに対応している。世界を経済的(かつ軍事的)に支配する先進的資本主義国家群をネグリ&ハートは〈帝国〉と名付けた [6]。軍事的・経済的弱小国家群を核によって脅迫、支配している核保有国群は、〈帝国〉を構成する国家群とほぼ(完全ではないが)重なってしまう。
 しかし、核の問題に限って言えば、核保有国といえども安定的に存続しうるわけではない。核保有国家は、核を保有することによって「いっそう不安定」とならざるを得ない。

要するに、「核保有諸国(haves)」の無力さは、「非保有諸国」の無力さと少なくとも同じくらい危険である以上、現実に切り分けることなど問題外であるほど人類全体に等しく分け与えられているのだ。 (p. 239)

戦争が始まったときには、Aがミサイルを発射すればBの迎撃ミサイルが発射される(その逆のケースもある)から、技術的に考えれば、AのミサイルとBの迎撃ミサイル、Bの迎撃ミサイル、BのミサイルとAの迎撃ミサイルがワンセットの機構となるわけである。(…中略…)そのとき勃発するいわゆる戦争は、二つの敵のあいだの戦争ではなく、(…中略…)機構と機構のあいだの戦争でもなくて、――むしろそこで起こっているのは結合された機構による出来事であり、そこではそのつど二つの対立する部分(つまりAという党派とBという党派とのセット)が結合された全体となっている。こういう事実によって、二者対立という原則は意味を失うだろう。(…中略…)起こり得る戦争、思いのまま(ad libitum)迎撃ミサイルや迎撃ミサイルに対する迎撃ミサイルを駆使できる戦争は、もはや戦争ではなくむしろ融合した出来事であろう (pp. 261-2)

 アンダースは、けっして世界の終末の預言者として語っているわけではない。世界の終末が来るから備えよ、などという話ではない。私たちが生きているヒロシマ以後の世界の歴史的本質を語ろうとしているのである。

 われわれがすでに時の終わりに達しているかどうかは明確ではない。それに対して、われわれが終末の時代に、しかも最後に生きているのは確かである、つまりわれわれの生きている世界が危うくなっているのは確かである。
 「終末の時代に」と言うのは、われわれは毎日、終末を引き起こすことができる時代に生きていることを意味している。――そして「最後に」と言うのは、われわれに時間として残されているものは「終末の時代」であることを意味する。なぜなら、この時代はもはや他の時代に取り替えることはできず、それに取って代わるものとしては終末があるだけだからである (p. 285)

 私たちは、世界の終末がpossibleな時代を生きているということだが、チェルノブイリからフクシマという核事故を経験した現在、私にはそれがprobableへと次元が引き上げられたしか思えない。いずれにしても、核の時代は、勝利国もなく、敗戦国もなく、世界の終末として人類の終焉として終わることになる。終焉が必ず訪れるかどうかにかかわらず、私たちは終焉に向かう時代そのものを生きている。

 核兵器はアポカリプスをもたらしたが、原子力の平和利用として推進された原子力発電所もまたスリーマイル島、チェルノヴィリ、フクシマと続いた過酷事故によって核兵器に劣らぬ殺傷力をもつ「道具」であることがはっきりした。この「道具」を用いるようになった人類は、平和利用と人類殲滅の「プロメテウス的落差」に気づいているようには見えない。
 原発は、たしかに一瞬の殺傷能力は核兵器に遠く及ばないが、核兵器よりずっと大量の放射性物質(死の灰)を広範にまき散らすことによってじわじわと人類の生存を棄損していく。たとえば、チェルノブイリ事故による将来にわたる死者は98万5000人に達するというニューヨーク科学学会の評価 [7] がある。低レベルの放射線であっても、晩発性障害と遺伝性障害を通じて(長時間にわたって)私たちの生存を脅かす。
 フクシマの事故は、現時点での死者数はチェルノブイリよりはるかに少ないが、事故後まだ5年しかたっていない。晩発性障害はこれから顕在化してくるが、政府はさまざまな情報を隠蔽、歪曲しながらあたかも放射線の影響はほとんどないかのように喧伝している。国民がアポカリプス不感症を克服してしまえば権力にきわめて困難な政治経営を強いることは明らかだからである。
 原発もまた核兵器と本質的には同じであることは、次のようなアンダースの文章の「核実験」を「原発事故」に置き換えてもそのまま成り立っていることからも明らかである。

実際の核攻撃は言うまでもありませんが、たとえば核実験によっても、地球上のあらゆる生物を襲いかねない以上、どういう核実験をやっても、それはわたしたちに襲いかかります。地球は村になったのです。こことあそこという区別は消えています。次世代の人々も同時代人なのです。――空間について言えることは、時間についても言えます。核実験や核戦争は同時代の人々だけでなく、未来の世代にも襲いかかるからです。 (p. 101)

 私たちは、世界の終末をもたらす核の脅威にさらされていることをおそらくは理としては理解できる。それにもかかわらず、いわば安穏として暮らしている。不安や恐怖に襲われている人間を見ることはほとんどない。この「アポカリプス不感症の根源」はどんなものか。それは何よりも、世界の終末そのものを想像できないことにある。出来事が「閾を超えている」からだとアンダースは語る。私たちが経験しうる、あるいは人類がこれまで経験した危険による「周知の刺激」よりはるかに大きすぎて想像することができないのだ。「脅威は大きすぎるにもかかわらず見えないのではなくて、あまりにも大きすぎるから見えない」 (p. 152) ことがアポカリプス不感症を生み出す。

 われわれが経験しているアポカリブスの脅威が絶頂に達するのは、われわれには破局を思い描く用意ができていないからであり、その能力がないためである。(愛する者の死のような)消滅を想像するのさえ容易なことではないが、アポカリブスの到来を意識している者の課題と比べれば、それは児戯に類する。というのも、われわれの課題は、存在し持続すると思われる世界の範囲にある特定のものの消滅を想像することではなくて、その範囲そのもの、つまり世界そのもの、少なくとも人間の世界が消滅するのを想像することにほかならないからである。(思考力ないし想像力として、われわれの絶滅能力に対応できる)「完全消滅を想像する能力」は、われわれの自然な想像力を超えている。それは虚無の彼方なのだ。しかしわれわれは工作人としてそういう能力を有し、完全な虚無を造りだし得る以上、能力の有限性とか「限界」と言うべきではない。少なくとも虚無をも想像することを試みなければならない。 (p. 132)

 そして、終末における死はすべての人間に等しく訪れる死である。誰でも例外なく死ぬ。「みんながくたばる」のである。この普遍的な死は、個別例外的な危険でないためにあたかもその辺にいつでも転がっているようなささやかな危険のように意味を薄められてしまい、「脅威を意識する能力をほとんど例外なく奪われ」(p. 92) ることになってしまう。
 もう一つ、アポカリプス不感症の根源となっているのは、核を手にした〈帝国〉的権力による危険の矮小化があるが、一方、私たち自身による頽落的認識能力による日常的で無意識の矮小化が作用していることもあるだろう。

核の危険を矮小化するのに最もよく使われる手口は、分類を偽ることである。まず最初に、――「兵器」という言い方がすでにこういう誤魔化しのひとつなのだが――核「兵器」という言い方そのものが偽りの分類である。核「兵器」がもたらす恐ろしい結果を見れば、もう「兵器」というのは論外だからである。特に好んで使われるのが核を「砲弾」の部類に入れることだ――こういう分類をすると、「核兵器」の質的な違いが単に量的な違いに変えられてしまう。――同じことは「きたない」核兵器と「きれいな」核兵器という言い方についても言える。 (pp. 170-1)

 兵器は敵を殺すが、核は敵も味方も殺す。したがって、核は兵器のカテゴリーを逸脱しているということだ。
 アンダースは、「交通事故による死亡者数のほうが核実験による死亡者数より多い」(p. 175) と主張する矮小化の例も取り上げている。フクシマの事故においても、自動車事故による死者の方が多いという程度の低い欺瞞的言説がしばしば経済人などからなされている。事故の結果としての死者数で比較するなら、まず何十年も将来にわたって顕在化する死者数を取り上げる必要がある。先に挙げたチェルノブイリの推定死者数98万5000人のような数字を用いなければならない。
 ここで、原発事故と自動車事故の正しい比較をしておこう。フクシマ事故の死者数は政府や東京電力の隠ぺいがあって正しい数値を得ることが難しいが、いくつかの報道では事故関連死を1,000~3,000人とされている。ここでは、2016年3月6日付けの東京新聞による1,368人という低い値をあえて採用しておくことにする。
 2015年度の4輪自動車の総数は7,740万台(日本自動車工業会)、車の死亡事故は4,028件、死亡者は4,117人(交通事故総合分析センター)である。車の1台当たりの年間事故率は、0.0052%である。1事故当たり死者数は、1.022人である。
 日本の原発総数は54基である。そのうち、東京電力福島第一発電所の4基が事故を起こした。「道具(機械)」の事故率は7.4%である。1事故当たりの死者数は342人である。
 フクシマ事故による将来の死者を数えなくても、1事故当たりの死者数は圧倒的に原発の方が多い。ただし、事故率はこのままでは比較できない。原発による最初の発電は1963年であるから、2015年までの52年間で4基の事故なので、年間に直せば0.14%となる。それでも自動車事故の27倍の事故率である。これから将来にわたって明らかになるフクシマ事故の死者数を数えることになれば、車と原発の危険性を比較するなどということが、何の意味もないことは明らかだ。
 「自動車より原発が安全」などという愚昧な言説に付き合うのは本当にばかばかしいが、こうした言説が政府や経済界の要人から発せられていることは無視できない。彼らは死者数を間違った方法で比較し、間違った結論を導いているが、それにしても、10数万人が避難して故郷に戻れなくなるという自動車事故が歴史上あったかどうかも比較してみたらいいのである。
 腹立ちまぎれに無駄な寄り道をしてしまったが、本題に戻ろう。核の絶対的脅威の矮小化の方法には、まったく逆の方法があるとアンダースは指摘している。

……「控えめな言い方(understatement-idiom)」に劣らず矮小化する欺瞞のやり方は、いわば正反対に「誇張した言い方(overstatement)」である。すなわち、怖ろしいものを「厳かに語る」手口である。この手口も直接に噓をつこうとしているわけではない。「控えめに言う手口」と同じように、この厳かに語る手口も、恐ろしさを包み隠さず真実を述べることができる。怖ろしいものを美しいものを表す言葉に翻訳して、すなわち怖ろしいものをその(気高いという意味での)素晴らしさを強調して崇高なものとして語り、悪の極致を神学的なもの、「地獄的なもの」として語るからである。厳かに語る者がジェノサイドを語るときには、途方もなく怖ろしいものも低俗なものも見事な物悲しい光に包まれる。 (pp. 172-3)

 崇高化、聖性化による、事態の矮小化は事例が多い。靖国神社がその典型的な象徴である。愚劣な戦争の犠牲者を英雄と聖性化し、厳かに祀る。強制された自死に過ぎない特攻を「永遠のゼロ」などと美化する。それでいて、周辺国化された地の人々による〈帝国〉への絶望的な抵抗としての自爆テロを悪魔の所業のように罵る。言説が単なるご都合主義なのである。
 もう一つ、恐るべき矮小化の例をアンダースは挙げている。

 皆さんはみな「メガトン(megaton)」という言葉をご存じです。これはTNT火薬一〇〇万トンに相当する爆破力を表します。想像力のない連中はこう考えるわけです――、破壊の結果である一〇〇万人の死者に、破壊の手段のための用語に似た用語を使ってならないのはなぜか、と。とにかく使ってみようというわけです。つまり「メガトン」という言葉に似せて、一〇〇万の死体を表す「メガコープス」という言葉を造ったのです。
 ロンドンや東京のような数百万人も住んでいる巨大都市を攻撃すれば、五、六個の「大死体」、五つか六つかが出ると予想されますが、――それはそう酷いことではないわけです。それは計算機だけでなく、わたしたちのうちの誰でも、いずれ大死体に繰り入れられる人々でも、楽に処理できるからです。五つか六つなら、十分責任を果たせるように思われます。
 騙されないようにしましょう。ここで露わになっているのは、想像力の欠如だけではありません。想像力の意図的な破壊が露わになっているのです。自分自身の想像力の破壊だけでなく、他の人々の想像力の破壊も起こっています。こういう言葉を振り回す人々はおそらく、自分たちが畏れることなく準備している法外な事柄について勝手な想像をして、自分たちの活動力が萎えてしまうのを恐れているのでしょう、そうならないように、かれらはその下劣なものを、規模が見渡せるものに、つまり自分たちが親しんでいる小桁の掛け算表の数字に変えるのでしょう。 (pp. 109-10)

 こうして、私たちの精神は核による世界の終末という危機からどんどん遠ざけられ、感性が磨滅させられていくのである。

……われわれは逆転したユートピアンなのだ。ユートピアンは自分が想像するものを製造できないが、それに対して、われわれは自分が製造するものを想像することができない。  (p. 133)

 ヒロシマ以後の時代は、ヘーゲル-コジェーブ的な歴史の終焉などではなく、世界そのものの終焉を未来に持つ時代として続いているが、私たちが「アポカリプス不感症」であると気づいた人々はいる。実際に、反核運動も反原発運動も、そして反アウシュヴィッツとしての反人種差別運動も生起し、続いている。しかし、アンダースはこう言う。

 われわれの後ろには、数百万あるいは数十億の「反核ゲリラ」が肩を並べて並んでいるなどということはあり得ない。それどころか反核運動に加わっているわれわれは惨めな少数派であり、――いや、われわれはばらばらになっていて、まとまることがないため、ごく小さな集団というものでさえない。 (p. 149)

 それでは、私たちの闘いの相手は誰だろう。私たちが核の被害者だとしても、加害者である〈帝国〉的権力を維持する人間たちもまた同時に私たちとともに「殺されるべき存在」に過ぎないのである。

 幻想をいだくのは止めよう。間を置くわけにはいかないのだ。人類が「自分で自分を脅迫している」とか「人類の自殺」などという言い方は誤りであることは明らかであり、こういう言葉を使って期待をいくらかでもつなごうとするのは止めねばならない。時の終わりは別として、われわれの世界の終末という状況には、加害者と被害者という二種類の人間が含まれている。したがって反対運動を行う場合も、われわれはこのことを念頭においておかねばならない――われわれの仕事は「闘争」なのである。 (pp. 235-6)

 アウシュヴィッツにおける人種殲滅を人間が行いうる所業として知ってしまった人類、核という人類殲滅の道具を手にしてしまった人類は、何も知らなかった人類に戻ることはできない。出来ることは、終末のpossbilityを可能な限り下げ続ける闘いを続けることだけである。

 アンダースの警告の書は、次のような文章で終わっている。

 しかし唯一確実なのは、終末の時代と時の終わりとの闘いに勝利することが、今日のわれわれに、そしてわれわれの後に登場する人々に課されている課題であり、われわれにはこの課題を先送りにする時間はなく、後世の人々にとっても時間はないということである。なぜなら、(古いものだが、今日になってようやく完全に真実となったテキストに記されているように)「世界の終末には、これまでの時代よりも速く時代は過ぎ、季節も歳月も慌ただしく移りゆく」からである。
 つまり、われわれが昔の時代の人々よりも速く、その時代の時の流れ以上に速く走って、現代の時の流れを追い抜き、時の流れそのものがその場に達する前に、明日における時の流れの場所をあらかじめ確保しておかなければならないのは確かである。 (p. 286)

 

[1] 佐藤嘉幸、田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院、2016年)。
[2] ギュンター・アンダース(青木隆嘉訳)『時代遅れの人間 上・下』(法政大学出版会、1994年)。
[3] 渡名喜庸哲による引用、ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で――破局・技術・民主主義』(以文社、2012年)p. 176。
[4] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で』(以文社、2012年) pp. 32-33。
[5] 斉藤千秋『朝日歌壇・俳壇』(2016年9月5日付朝日新聞)。
[6] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲監、酒井隆史、浜邦彦、よした俊実訳)『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社、2003年)。
[7] 佐藤嘉幸、田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院、2016年) p. 34。



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