かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(11)

2024年11月13日 | 読書

2015年12月20日


 二つの大惨事が同時に起きてしまいました。ひとつは、私たちの目の前で巨大な社会主義大陸が水中に没してしまうという社会的な大惨事。もうひとつは宇宙的な大惨事、チェルノブイリです。地球規模でこのふたつの爆発が起きたのです。そして私たちにより身近でわかりやすいのは前者のほうなんです。人々は日々のくらしに不安を抱いている。お金の工面、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか? どの旗のもとに再び立ちあがればいいのか? だれもがこういう思いをしている。一方チェルノブイリのことは忘れたがっています。最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブイリは私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです。
 私たちの前にあるのはだれにとっても新しい現実です。
  スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』 [1]

 今年のノーベル文学賞をドキュメンタリー『チェルノブイリの祈り』の作家、スベトラーナ・アレクシエービッチが受賞したことは、大いなる事件である。文明史的な意味でのメルクマールたりうるのではないか、大げさでもなんでもなく、そう思えるのである。
 チェルノブイリの大惨事の後、さらに規模の大きい原発事故が福島で起きてから、ドイツという先進工業国が原発廃棄を国家として決断し、オーストリアのような原発を持たない国家でも原発由来の電力の輸入を禁止した。それは、明らかに一直線に進んできた技術文明の変革の兆しに違いないし、そして、そのような未来への新しい意思に呼応するようなノーベル文学賞の発表だった。
 しかし、一方で、悲惨な原発事故で汚染された領土と数万の被災民を抱えながら、原発再稼働を画策し、場合によっては新しい原発が必要だと公言する極東アジアの後進国がある。
 まるっきり200年以上も昔の産業革命のときと同じような時代錯誤の技術信仰に踊り狂っているとしか思えない愚かな宰相のいる国に生きる私たちは、今日も「原発再稼働反対」、「すべての原発廃炉」を叫ぶためにデモに行くのである。

 今年の最後の読書をノーベル文学賞作家の『チェルノブイリの祈り』を読んで終わらせようと思ったのだが、じっくりと読むのは難しい。全編、チェルノブイリの人々のインタビューで構成されていて、冒頭の作家自身の言葉も、自分へのインタビューの形になっている。
 急性障害で死亡した家族のこと、挽発性障害で苦しむ自分のこと、自分たちを見捨てる政府への不信、住民を指導してきたはずの共産党組織の人の不信と後悔、どれも読み進めるのが辛い話ばかりだ。
 同じことが福島で起き、そして今も起き続けているのだ。

昨日、トロリ—バスに乗りました。その一場面。男の子がおじいさんに席を譲りませんでした。おじいさんがお説教をします。
 「きみが年をとったときにも、席を讓ってもらえないぞ」
 「ぼくはぜったいに年をとらないもん」
 「なぜだね?」
 「ぼくらみんな、もうすぐ死んじゃうから」
   リリヤ・ミハイロブナ・クズメンコワの発言『チェルノブイリの祈り』 [2]

[1] スベトラーナ・アレクシエービッチ(松本妙子訳)『チェルノブイリの祈り』(岩波書店、2011年) pp.32-33。
[2] 同上、p. 219。

 
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〈読書メモ〉 『現代詩文庫114 新井豊美詩集』(思潮社、1994年)

2024年11月05日 | 読書

……からの距離は雑草にふちどられ
おきさった形象はひび割れている

風がとだえる
道路の両側から庄しよせる熱気の壁が
白い都市の相貌をゆがめる

吐息と汗のいちめんの澱みに
ひしめきあう不定形のものたちが
音をたててくずれ
飛沫をあげ
やがて
遠のき
………
わたしの中心から一個の錘をおろすと
それは水面をかすかにゆるがせて
増水した黒い容積のなかに消えるが
骨の層に達するまえに
糸は切れ
関係を失ったものの反動だけが
そのとき確実にわたしを超えたのだ

路上にポリバケツ
〈像〉とは一皿の空白だと
わたしはすべり落ちた匙を
今朝の食卓にもどした
  崖と隧道と遠近法と
  うなずくものすべてを
  おまえの小さな指で
  ゆびさしたとしても
  表層を漂う
  浮標にすぎない
欠けた皿とナイフを並べ
果実の薄い皮をむけば
うすももいろの芯と
むしくった核 と

そして
敏捷に動く素足を追って閱へと入りこめば閽の手はわたしの眼をおおい鼻孔   をふさぎ臆病なおまえが身を隠す筒状の迷路の夜々はにがくいっそう息苦しく長いのだ 穿たれた裂目に塗りこめられてゆくものは歳月だけではない 上へ上へと白いしっくいによって塗りかためられたかの幻想の島々を思い描くならばどのような悪意と妄想のあおざめた神々がよみがえるであろうか
名づけられることを拒否する名なき島々の岬をめぐる環碟と回路と
  「波動」(詩集〈波動〉)部分 (pp. 8-9)

 詩集の最初に置かれた「波動」という詩の前半部分である。言葉の使い方、表現手法にびっくりするほど感嘆もしたのだが、戸惑いも大きくて少し腰が引けてこの詩集から撤退した方がよいのではないか、そんな気もしたのである。
 「路上にポリバケツ/〈像〉とは一皿の空白だと/わたしはすべり落ちた匙を/今朝の食卓にもどした」という4行に詰め込まれた技法には確かに驚かされ、感心もした。1行目にはシュールレアリズム風のイメージ、2行目には思いっきり観念的な命題、3、4行目にはごくごく日常的な動作の描写が描かれている。とても感心したのだが、どうもうまく心がついていけないのである。
 1行目の「……からの距離は雑草にふちどられ」にも驚かされた。その距離が問題になるような重要な対象が隠されていて、その欠落感を抱えたまま次行へ移らざるを得ない。詩の後半部で「あなた」が出てきて、たぶん「……」は「あなた」ではないかと想像するのだが、欠落感は解消しないのである。
 もう一つ、「おきさった形象」とか「白い都市の相貌」という言葉にアーバン・モダニズム(こんな言葉があるかどうか知らない。もしかしたら私の勝手な創作かもしれないが)の匂いがしてこれにも腰が引けたのである。ポストモダニズムがあらゆる価値を相対化した後で、都会的で小洒落た言葉遣いやファッション(言葉も含めて)があたかも価値あるかのように流行り始めたころ、田舎者の私は強く反発し、リキッドモダンなる時代になってもその感覚が続いていて、腰が引けてしまうのである。
 しかし、詩集の2番目に掲載された次の「薄暮」という詩で、私の印象は一変する。

わたしたちはすこし不機嫌に
黙っている

雑踏のなかで
パンの包をもって
改札口を出る人とすれちがう

長いプラット・ホー厶の先端へ
かたむく名もない夕ぐれから
夕ぐれへと気ぜわしく羽搏きながら
移り棲むほの暗い疲労と
もうひとつ
消滅した一日と
そして都市の重い扉を出る電車の
車内広告に燃えつきる太陽は
どこの地の
太陽か
遠い国では火をふく戦乱があり
近い国では圧政があり
わが地上には
薄暮の貧しい連带がある

混雑する市場や丘の上の集合住宅の眼をいっとき明るくかがやかす燈火はわたしたちを幸せにする?
ごらん どの窓からも真昼間の雲と洗濯物はとりこまれ下着はたたまれ 食卓をめぐって子供らのはずんだ声と若い母親の優しい叱り声が でもひとつだけ燈がともらない窓がここにもあって そこからまた夜が拡がろうとしているなら?

屋上にぬけるもうだれもいない階段の踊場に その上につき出たアンテナの林に たち去りがたげにとどまっているのは沈黙と夢のぬけがらだけだ 奥多摩方面の
遠い山々の稜線にはまだ
かすかな明るみがあり

電車はいま
町はずれの河を渡る
  「薄暮」(詩集〈波動〉)全文 (pp. 10-11)

 いい詩である。一日の仕事が終わった夕暮れ時、電車で帰宅する都会人の1時間やそこらの物語である。車内広告の写真から遠い異国や隣国の政情のこと、私たち貧しい者の連帯に思いを致し、電車の窓から見えるアパートメントの窓々の灯火の有無から幸せな家庭とおそらくは崩壊した家庭とを想像する。
 机の前や書斎や研究室だけから哲学や思想が生まれるわけではない。人は日常の繰り返しの生活の中でありきたりな振る舞いをしながら、あらゆることを考え、想いを進めることができるし、それが私たちの思想や情念となるのだ。この詩にはそういう主張がある、と私は読んだのである。
 そして、「奥多摩方面の/遠い山々の稜線にはまだ/かすかな明るみがあり//電車はいま/町はずれの河を渡る」という詩の終わり方がとても良い。さりげない率直な描写が主題をよく浮き立たせていると思う。
 この詩集に載せられた最初の2編の詩だけでもずいぶんと考えさせられたが、それ以降を読み進めると、この詩人はじつに多才(私にとって多才という言葉は褒め言葉ではないのだが、ここでは文字通り)だということがよく見えてくる。単に多才というよりも、想世界の多重性、異なった世界の時空間が詩人の精神の中に美しく折り重なっているように見える。

すべてをすっかり透きとおらせるためには
魂は透きとおったレンズを持たねばならないが
透きとおったレンズを持つためには
あわれな病者を野に追いやらねばならない
黄金色の麦畑を描くために画家は
彼の病む耳を切り落さねばならなかつた
そして鉛の弾丸と一緒に
光の海に飛び込んでしまった

わたしの手のひらの感情線は繊細で
たくさんの小枝に別れているのに
このさまざまな枝のなかから
ただ一本を
選び取る困難を免れることはできない
空に向って垂直に伸びている枝か
重く曲って地に這う枝か
いずれにせよわたしたちの根は
永遠に地を離れることを許されていないとしても
そのことがいっそう
人間の空を美しくしている

古い足跡の上にも
春になるとたんぽぽの花が咲き
こんな小さな花にさえ
向日性のあることがわたしを
深く感動させる
  「光の声」(詩集〈波動〉)部分 (pp. 14-15)

 「あわれな病者を野に追いやらねばならない」というフレーズにはいくぶん疑問符が付くが、すぐ後のゴッホについての記述から、それがたとえ悲劇的であっても透き通った精神のために己の中のなにものかを捨て去らねばならないという意味だろうと理解できる。無数にある感情線の枝分かれの1本を選ばざるを得ないのは、様々な感情を人は有するがその時々において一つの強い感情が際立つことは避けられないのだ。
 「いずれにせよわたしたちの根は/永遠に地を離れることを許されていないとしても/そのことがいっそう/人間の空を美しくしている」や「古い足跡の上にも/春になるとたんぽぽの花が咲き/こんな小さな花にさえ/向日性のあることがわたしを/深く感動させる」という詩句は、人間存在のありようとして逃れようのない宿命のごときものが美しい世界を形づくることへの反語的なみごとな表象だと思う。
 次の「岬」という詩にも、「光の声」と同じように特別な素材に依存せずに人間の想念、想いの深さを表現した(私にとっては)とても好もしい詩である。

そこでは
えいえん という観念が垂直に
光の雨に打たれている

野茨の白く咲く道を
かわいた風が駆けぬけて
視界は遥か高空へ傾いてゆく
畑や森
崖や隧道
家々やカモメたちの寂しい岸壁を乗せ
うつくしいめまいのように

終点の岬で
バスをおりた
最後のひとりが車道をよこぎり
ひとつの影が日射しをさえぎる
小指ほどの世界の果てまで
ひとはながい自分の影をひきずってゆき
カラの車体は
かるがると世界の裏側へまがってゆく

ひとは
ここに来て願うだろう
吹きすぎる風をとらえることを
いっしゅん という観念が手の中で
かたちある光となってかがやくことを
そのささやかな幻の頭上に
純粋な白い雲がしばらくはとどまることを
祈るだろう

のばされるまなざしが
ひとつの港
ひとつのまち
ひとつの窓
ひとりの天使と赤銷びたひとつの錨
果てという果てを通りぬけ 世界の
中心へとどくことを
  「岬」(詩集〈半島を吹く風の歌〉)全文 (pp. 60-61)

 一方で、散文詩の形式をとった物語と呼べるような詩もある。私にとって散文詩は、文字通り散文であって詩とは思えないということがしばしばあって、いくぶん避けたい気分がするのだが、「海辺の祭り」を引き込まれて読むことになった。

岬で。
水揚げされたばかりの魚の眼が大きく見開かれて 色の深い空がのぞく。その海の窓をくぐり抜けて祭り囃の聞こえる方角へ小走りにゆく。
小さなまちの小さな祭り。

張りぼての鉾を先頭に 花飾りをつけた山車が草いきれの中をねり歩き 白装束の鬼面のアニたちの榊を乗せたあばれ神輿が景気よく海になだれこんだ。

老人たちが笛。
子供らが太鼓。

魚たちの眼球がいちれつに連なり みずいろの吹き流しになって流れてゆく。
おくれて来た夏のおくれて来た祭り。

わたしは忘れられようとしている わたしがそこにいるのに。
烏賊つりの火が明滅してその夏は長かった。ははがいて赤ん坊がいて遠雷の音が響いた。窓の裏側を熱い闇が帯状の霧となって流れ火がばんやりと揺れていた。あれが祭りだったのだ 多分。
小さな部屋の小さな星祭り。願いごとを書かなかった短冊。形而下へ墜ち続ける矩形の夕凪。忘れないで。伯母がいて年寄りがいて女たちがいて 腐敗した魚の臭気がどぶ沿いに緩やかに漂うそのまちでわたしたちのひねこびた赤ん坊は指を吸いつづけいつまでも大きくなれない。

わたしは手紙を書く。現象の向こう側へ避暑地からの手紙に似せてさり気なく。
岬で見た魚たちの蒼い眼球のこと。踊る女たちのこと。醉酊したたくましいアニたちのこと。驟雨と虹と植物になって繁茂してゆく鳥たちについても。
彼等は永遠に楽園の島にいて帰って来ない。
祭りが通りすぎる。道が急に白く乾く。わたしは急がねばならない。
わたしがいてわたしが忘れられる。ははがいてははが忘れられる。赤ん坊がいて赤ん坊が忘れられる。小さなまちの小さな祭り 長い長い夏 すべてが。
  「海辺の祭り」(詩集〈河口まで〉)全文 (pp. 21-22)

 読んでみれば、これは散文詩ではない。1行が長いだけのことで、言葉は明らかに詩のリズムをもって繋がれていくとても良い詩なのである。山育ちの私には海辺の祭りのイメージが薄いけれども、ここに描かれる祭りと人々の描写は懐かしくリアルである。祭りの場にいる(あるいは眺めている)自分と祭りの人々との距離が語られ、そして「祭りが通りすぎる。」からの最終部分で、人生における緊急性と忘却が語られる。
 「海辺の祭り」が過去の記憶を丁寧にたどることで生じる過去への想念を語っているとすれば、「グリューネヴァルト頌」は現前するイーゼンハイム祭壇画から喚起される過去の物語が語られる。いや正しくは、現在と過去が重複して語られるということだろう。

この祭壇画を見てもっとも心をひかれた部分がキリストの凄惨な磔刑像のリアリズムではなく 支えられた腕のなかで殆ど気を失った聖母の蒼白な顔でもなく それ自体はなにをも意味せぬ女の身体の一部分 かつての娼婦マグダラのマリアの背をおおう豊かな金髮であったのは不思議なことのように思われる。鼓動を止めた男の肉体の上に酸鼻に開く傷口にも頭部に鋭くくい込む茨の太い棘にも母の悲哀の涙にも 場面の劇的構成のすべてにわたしの関心はうすかった。ひとり両腕を祈る形にさしのべ苦悩をあからさまにする現世の女の弓なりにしなう背中から腰へ野獣の鬚よりも色濃く波打つ金髮は流れた。暗い空の下に荒漠と拡がるの背景の 褐色を带びた濃緑色の中世空間にはげしいコントラストとなって輝く一房の髮。その即物的な力がわたしをこの祭壇画へと引きよせていたのだ。

 復員した父をまじえたわたしたち家族の戦後の貧しい寄食生活の細部をいま思いおこすことはすでにまれである。
 その頃わたしは僥倖のように二匹の仔山羊を飼っていたのだが 母の出産を前にそのうちの一匹を父は屠殺した。父の振り上げたハンマーでみけんを砕かれた仔山羊が三、四歩飛び上がるようにして倒れ四肢をのばし全身を痙攣させて死ぬまでの一部始終をわたしは凝視していたからいまでも場面を眼の奥に再現することは容易だが その瞬間の幼いけものの悲鳴 鼻孔からどっと流れ出した鮮血の色を思うことはまれである。

 より美しい一匹を残し美しくない一匹の命を手放したことへのわたしの最初の罪の意識を反芻しくり返し手を洗う密かな性癖もいつか消えた。
 その山羊のすべてを食べつくし赤ん坊が生まれてわたしたち家族はあの戦後という時代を無数の小さな罪とひき換えに生き抜いてきた。

 死体がずり落ちてくる全重量を左右上方にのびきった腕の先端で掌に打ち込まれた犬釘が支え 裂けてゆく傷からしたたる血潮が横木の上にどす黒く凝固しはじめている。井戸端に吊された仔山羊は血を抜かれ皮を剝がされたちまち数個の肉片と化した。重い皮表紙の徽くさい頁を繰って描かれたひとりの男の殺害の現場に逃れがたくひき寄せられながらそのとき わたしはおしよせる死と罪の強迫観念から逃れて太陽の光に似たものの持つ生命力を本能的に選びとろうとしていたのだろうか。ひたすら 金色の髮のリアリズムに心われつづけた子供の無意識は。

 イーゼンハイムの この極限の構図のなかに女の波打つ毛髮のひとすじひとすじを執着をこめて描写した画家。あなたにとってその輝きの意味とはなにか。生きることの罪と生命の官能をつなぐ金色のほそいみちすじのありかがいまここにかすかに見えている。
  「グリューネヴァルト頌」(詩集〈いすろまにあ〉)全文 (pp. 47-48)

 私はイーゼンハイム祭壇画の実物を見たことはないのだが、キリストの磔刑が描かれる絵画ではいつもマグダラのマリアに目を魅かれる(聖母子像にしばしば一緒に描かれる幼い洗礼者ヨハネにも魅かれるが)。マリアの「豊かな金髪」に心をひかれた詩人とは異なり、私の場合はいつもマリアの美しさに惹かれるのだが。
 詩は、祭壇画の主題からは少し離れた細部から、「わたしたち家族の戦後の貧しい寄食生活の細部」が想起される構成だが、実際には二つの時空は全く独立しているかの如く描かれている。「より美しい一匹を残し美しくない一匹の命を手放したことへのわたしの最初の罪の意識を反芻しくり返し手を洗う密かな性癖もいつか消えた。/その山羊のすべてを食べつくし赤ん坊が生まれてわたしたち家族はあの戦後という時代を無数の小さな罪とひき換えに生き抜いてきた。」という過去は鮮烈に響く。私にも似たような過去の記憶があるが、この詩句は過去の経験の有無にかかわらず響くだろうと思う(戦争、敗戦、戦後を理解するうえでもそうあってほしい)。
 最後に、この詩人の想世界の中で私から見たら極北と思えるほど遠い世界を見ておくことにする。

海からの白い道を彼女は歩いて来た。運河にかけられた橋を渡った。彼女は微笑しわたしは微笑をかえす。なにかが色づきなにかがあたたかくふくらむ。新しい汐の匂いがしてわたしたちは一つに溶けあう。いっしょね。とわたしはいう。いっしょね?

魚市場の前で西へゆくははに出会った。腰を深く曲げて灰色の眼をした彼女はやさしく ひどく年老いていた。またいつかの祭の日 幟の立つ田舎びた商店街のにぎわいを 幼児の手を引いてゆくうら若い彼女を見た。そばかすのある丸顔に疲労のけだるい影がすけて見えた。

家々の台所に立つ家ごとの彼女らは タぐれの魚の白い腹を裂き俎板についた血を腰を洗う手つきでたんねんに流していた。よく動く細い指で長い髮をすき きりりとたばねた。子らを産んだ涼しい女陰をさっぱりと閉じて戸口をみがいた。

彼女らはいつも遠いところから来る。彼女らは微笑しわたしは微笑をかえす。いっしょね? けれどわたしは 〈そこ〉に帰ることができない。わたしはどこへゆくのか。鏡の前で髮をとかし口紅を拭いファスナーをおろす。何千日目かの同じような夜。わたしはまたしても裂かれてゆく魚だ。折れた指だ。産まない性。黒い水の中で〈……〉とど声もたてずに平べったくなる。
  「西へゆく」(詩集〈いすろまにあ〉)全文 (pp. 33-34)

 私が理解しようとしても理解できない女性性というものがあるだろう。いや、観念的には理解できる気分になること(ところ)もある。だが、情念はどこまで行っても後れを取っている感じがする。女性詩人が書く詩にはそんな部分が含まれていて、それが私にとって魅力のようにも思えるのである。
 しかし、これは性差の問題ではないのかもしれない。私たちは、性差にかかわらず「他者」の中にどうしても届かない精神や情念があることを知っている。だからこそ、「他者」は「他者と」して向き合わねばならないのであり、そうであればこそ、私たちが共有する象徴としての言葉、詩を含めた芸術の計り知れない価値があると考えられるのだ。
 であれば、「西へゆく」のなかの「わたし」へ限りなくアプローチすることに私が新井豊美という詩人の作品を読む正しい意味があるということになるのだが、どうにも遠い道のりのように見えているのがなんとも口惜しい。



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〈読書メモ〉 『現代詩文庫34 金井直詩集』(思潮社、1970年)

2024年10月20日 | 読書


 金井直の詩はとても魅惑的だ。生意気な言い方だが、私好みと言っていい。目の前の日常の暮らし(それが病を得た日々であっても)を描く視線と情感がいいが、何よりもそこからごく自然の成り行きのように哲学めいた思念が語られるのがいい。その部分だけを切り出しても素敵なアフォリズムになっていて、ニーチェよりもはるかに抒情性のあふれた警句であったりする。次の詩でも、病院と病人を描きつつ、自分自身と病気をめぐる思惟が語られている(個人的なことだが、私もまた難病指定の病を得て入院生活を送り、今は自宅治療中の身ということもあって、この詩には切実に迫ってくるものがある)。

こちら側の建物の影が
いちめんに雑草の生えた庭を
半分にくぎっている
窓辺には
思いだしたようにきこえる
細い虫の声がある
時折 うすぐらい空気が
刃のようにひやりとする
あちら側の建物の
葭簣張のひよけがつづいている窓の下に
咲き残ったカンナの花が
黄色く憔悴している
この影と光の中庭で
くさりにつながれた羊が
しきりに草をたベている
明暗のあいだ
「生」はそのように
不確な場所につながれているのか
あけ放された窓と云う窓の中の
顔はぼんやり白く
影と光の境界を出たり這入ったりしている羊をみている
その視線はすべてに去られまいとするように
どこにでも向けられる
そしてあちらとこちらの顔が見合わされると
互いに自分の顔に気づいて
おどろいたように窓の奥に消える
やはりつながれているものは
羊ばかりではなかったと
見てはならぬものをみてしまったように思う
しかし 私の眼は見るだろう
人がなぜそのようにそこに在るかを知るために
私は去来するものをみるだろう
つねに薄明の中で
廊下の窓際におかれてある
木のかたい長椅子に腰をおろして
治療室からの呼掛けを待っている
幸福や不幸の順番をおとなしく待っている
所在なく
白壁の何かのしみに見入る
欠伸をする 静かな咳をする
物の本にこころをなだめすかされる
人はさまざまな仕種で
「時」を送り 迎えている
人が「時」に気づくときは
人がいれかわったり 去ろうとする人の足もとに眼をおとしたり 物音におどろいたり
立上った人のけはいを頬に感じたりするときだ
そのとき人は時計の針がどこを指しているかを知ろうとする
そして 治療室に這入っていく人の背中から
人は人生の裏側をのぞいたように思う
治療室から出てくる人の胸もとから
いつ止るかもわからない振子の様子をみせられる
ほんとうは待っているのではなく
何かを待たせているのだと
待っているのは人ではないと思う
ふりかえると長い廊下を
寝台車が音もなくすベっていく
私の眼が行方を追う
ふとひらかれた一つの扉のなかに吸込まれる
扉の内には周到な用意があるにちがいない
けれどもあの冷く光る器具にもまして
人の裡の準備は既に済んでいるだろう
ああ しかし
あの羊をつなぐくさりにもまして
確かなところにつなぐものがあると
それゆえに人のへだたりのふかさは
つながりのふかさに等しいと
私は病んだ人から学ぶ
そして私は
私も病んでいる人だった
人は死なない
人は何ものかの手でくびをしめられるのだ
そのとき 人は人の形に憎悪のくぼみを残す
そのとき 人は愛をめぐらす
透明な花を咲かせる
そのとき私はみるだろう
その現実を支えているものの姿を
眼の高さにある太陽を
 「病舎で」(詩集『非望』)全文(p. 18)

 「しかし 私の眼は見るだろう/人がなぜそのようにそこに在るかを知るために/私は去来するものをみるだろう」とはじめはジョブのように少し軽めの思惟が語られ、「去来するもの」を見ることによって、「人が「時」に気づくときは/人がいれかわったり 去ろうとする人の足もとに眼をおとしたり 物音におどろいたり/立上った人のけはいを頬に感じたりするときだ」と、いわば生の時間のありように思い至る。
 そして、この詩は「ああ しかし/あの羊をつなぐくさりにもまして/確かなところにつなぐものがあるといくぶん/それゆえに人のへだたりのふかさは/つながりのふかさに等しいと/私は病んだ人から学ぶ」と、それに続いて「死」をめぐる思惟が語られて終わるのである。思惟が深まっていく展開と構成が抜群で、すっかり感心してしまった。
 一冊の詩集を読み終えたあと、その中から気に入ったアフォリズム風の詩句を拾い出していくのは、妙に楽しいことに気付いた。そんないくつかの詩句を掲げておく。

急に離れた ために
その手の形に真空が残った そこに猶
こころは保たれている しかし
それをどこか思い出のない場所に
捨てなければならない
そのぬくみに気付かぬうちに
なげきと傷口を持たぬうちに

引込めた手は もう
真空の位置にはかえらないのだから
 「別離」(詩集『飢渇』)全文(p. 11)

不意に冷いものが
くびすじにふれる
死者の手のように
仏陀の息のように
俺の背すじをしきりに寒気がはしる
肺臓の空洞をさかんに風が吹きぬける
俺は額に手をあてる
熱がある もえている
もえつきようとしているものがある
夜なかの火鉢の前に居ると
それがよくわかる
 「現在」(詩集『非望』)部分(p. 26)

僕は なおも生のふちに立ちつづけている
なぜなのか僕にはわからない
だが 立たねばならぬ理由が
どこにもないということを僕は知っている
 「濠をめぐる風景」(詩集『疑惑』)部分(p. 39)

かつて血を流したようにあざやかな
夕映えをみせてくれた水の
藻をかきわけるようにぼくは
悪い思いをはらいのけてたしかめる
まだ生きられる時間のながさみじかさ
 「水の歌」(詩集『無実の歌』)部分(pp. 72-73)

 金井直のこの詩集は、私にとってはときどき引っ張り出して読むような詩集になるだろう。いや、きっとそうするに違いない。このような詩集が見つかることはありがたい。この詩集について、語ることがあるとすれば、「きっとまた読む詩集だ」ということに尽きる。



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〈読書メモ〉 『現代詩文庫226 國井克彦詩集』(思潮社、2016年)

2024年10月15日 | 読書


 國井克彦は驚くほどの抒情詩人である。徹底しているのである。臆面もなく抒情的である、と言いたくなるほどだ。ただ、國井克彦は自分の詩に対する批判も自分の作品で率直に表していて、自身の抒情性を意識的に眺めていることは間違いない。

〈どんな病いよりも
もっともっと苛酷な世界へと引き入れられ
もう此の世の言葉さえも
忘れかけて来たんだよ。〉
とは一九五五年三月二十六日
十七歳の私が書いたもの
このころ人生雑誌「葦」に投稿したものは
かようにひどいしろもの
たちまち二十六歳の女性から叱咤の手紙が舞い込んだ
こんな感傷的な時点から何が生まれるのか
もっと強くなるかさもなくば死んでしまえ!
(中略)
どこかで会ったことがある可愛い子と思ったら
友人の永田の妹ではないか
永田も文学青年で私の詩集をほめてくれた
妹も文学好きと聞いていたので早速詩集を進呈した
ドサッと舞い込んだ永田の妹の手紙は
一九五五年の二十六歳の女性に輪をかけた
こわーい手紙であった
こんな感傷的な視座からは何も生まれない
強くなる見込みもないから死んでしまえ!
便箋数枚に力強い文字が踊っている
 「怖い手紙」(詩集〈夢〉)部分 (pp. 62-63)

 二人の女性は「感傷的」であることを批判している。15歳から雑誌に詩の投稿を始めたという詩人の17歳のころの作品が感傷的だったかどうか私にはわからないが、しかし感傷と抒情性は違う。感傷は、現実を受動的に受け入れる自分を(多くの場合は現実に打ちひしがれて)慰撫するために生起する感情だろう。こんな詩がある。

花のいのちは短かくて
ぼくのいのちはなお短かい
だが巨大なぼくらのいのち
うたかたの波のまにまに
千年の樹にみのる果実をうずめて
ぼくらはまた戻つてくる
おまえ・ぼく・そしてぼくら
おびただしい出血のあとにぼくはこんなことばをえた
ことばたちが一月の風の小さなうずまきのなかで
おちばやちりあくたとともにくるくる舞つている
 「おまえ・ぼく・そしてぼくら」(詩集〈ふたつの秋〉部分 (p. 17)

 「おまえ・ぼく・そしてぼくら/おびただしい出血のあとにぼくはこんなことばをえた」というフレーズはとても示唆的だ。厳しい経験の後で「おまえ」、「ぼく」、「ぼくら」という言葉を覚える、つまり「他者」、「私」、「われわれ」という哲学がしばしば主題とするような認識に自覚的に到達するのである。スティグレールが「私」と「われわれ」とナルシシズムについて論じている。ひどい脇道に逸れるかもしれないが『愛するということ』(1)という著作の内容をフォローしておくことにする。

ここでのナルシシズムの問題とは、リシャール・デュルンの事件が示すような事態です。「われわれ」を殺害しようとしたデュルン――彼は市議会という「われわれ」の公的な代表を狙ったわけで、それはつまり「われわれ」を殺害することに他なりません――は、自分がこの世に存在していない、つまり彼曰く「生きている実感」が持てないということにひどく苦しんでいました。自分を見ようと鏡を覗き込んでもそこにはぽっかりと空いた穴のような虚無しかない、と彼は言っています。これは『ル・モンド』紙に公開された彼の日記によって明らかになりました。その日記にデュルンは「人生でせめて一度、生きていると実感するために、悪事を働かねばならない」のだと記していました。
 リシャール・デュルンが苦しんでいたのは、本源的な(基盤となる、原型としての)ナルシシズムの能力が構造的に剝奪されていたからです。ここで「本源的なナルシシズム」と私が呼んでいるのは。プシュケpsychè 〔人間の生命原理としての魂、心。「姿見=鏡」をも示す〕の機能に欠かせない構造としての自己愛のことです。この自己愛は時には病的に過剰になることもありますが、しかしそれがなければいかなる形での愛も不可能になってしまう基本なのです。
**リシャール・デュルンRichard Durn 二〇〇二年三月二六日、フランスの青年リシャール・デュルン(三三歳)はパリ郊外のナンテール市議会で銃を乱射し、市議会員八名を殺害し一九人を負傷させた。彼は逮捕されたが二日後投身自殺する。(pp. 21-2)

さて、本源的ナルシシズムは「」だけに関わるものではなく、「われわれ」のナルシシズムというものもあります。つまり「」としてのナルシシズムが機能するためには、それが「われわれ」のナルシシズムの中に投影されなければならないのです。ところがリシャール・デュルンは自分のナルシシズムを作り上げることができず、市議会という本来は「われわれ」の代表であるものの内に、「われわれ」ではない他性、つまり「私」の像を一切送り返してこない、自分を苦しめるだけの「他」という現実を見てしまいました。だから彼は、その「他」を破壊したのです。 (pp. 22-3)

しかしながらわれわれ現代人は、大変特殊な意味においてナルシシズムの苦悩に直面しています。その特殊性とは、現代人がとりわけ「われわれ」のナルシシズムの点で、いわば「われわれというものの病によって苦しんでいるということです。私が「」になれるのは、ある「われわれ」に属しているからこそなのです。「」も「われわれ」も個となっていくプロセスなのですが、そうである以上、「」そして「われわれ」というものはある歴史を有しています。それぞれの「われわれ」が異なる歴史を持っているという意味だけではありません。大事なのは、「われわれ」というものの個体化の条件が、人類の歴史の中で変化するということなのです。 (p. 25)

 そしてスティグレールは『象徴の貧困』(2)において、「われわれ」がわれわれであるためには私たちが共有する象徴(言葉や文化、歴史の記憶把持など)を必要とすると主張する。つまり、「われわれ」の「本源的ナルシシズム」は歴史的、社会的で政治的なパフォーマティヴィティを有しているのである。ナルシシズムとリリシズムは違うけれども、リリシズムは「本源的なナルシシズム」をベースにして、現実や他者を要件として構成され、パフォーマティヴな性格を有しているはずである。私は抒情性をそんなふうに考えている。
 さて、わき道の理屈から立ち返って、國井克彦の抒情を思いっきり味わうことにする

あおい空のしたには
東京の みしらぬ住宅地があつて
さびしい板塀の影をふむと
おまえは いつも
いっさんに逃げていつた

十五のとき せたがやの
それは下馬だったり
中里だつたり
あるいは名もしらぬ路地だつたが
あかるい その秋から
おまえは いつも
いつさんに逃げていつた

どこへ 逃げていつたか
おまえは透明な空へ
かえっていったか
どこへ 消えていつたか
だれも ぼくも
探しようがないのだつた

東京に ひとりぽつちでいると
秋はどこから ことしも
やつてきたのか
ぼくらのうえに でんと もう
かぶさっている
そうしておまえは ぼくの
背中だつたり 影だつたりして
つかまえることのできない
へんなものになつて
遠い あぜみちのように
いまはまるで
黙りこんでいる

あおい空の下に
ふたたび よこたわつている
東京の秋
この秋が また まちがいなく
去ってゆくとき
ぼくらの十代は
終るのだ

ぼくにも 語らないおまえと
おまえにも 語らないぼくは
だれもいなかつた
十五のときにもまして
えんえん
やがておりてゆかねばならない
ひつそりと
おまえも ぼくも
実はおりつづけてきた ぼくらの階段を

親しいぼくらの
季節の驢馬にまたがって
 「秋について」(詩集〈ふたつの秋〉)全文 (pp. 11-121)

 この詩の製作年代はよくわからないけれど、一番目の詩集に収められているので二十歳前の作品ではないかと想像される。抒情というよりもナルシシズムの要素の強い作品で、少しばかり尾崎豊の作った歌詞の香りがする。

ふと私はある婦人からの便りを思いだして読み返す
某日茫茫二十八年ぶりに再会したかつてのお人形のような少女は
美しい女流画家となってクラス会の真ンなかにいた
「八幡通りを憶えていますか?
私はよく自転車を乗り回わして
両手ばなしで歩道にのりあげて ひっくりかえりました
プラタナスの葉がとてもやさしくって 涙が出ましたっけ
坂を下って行くと誰も降りることの出来ない “並木橋”駅が
空にうかんでいたのは……あれは夢だったのかしら……。
もう八幡通りはなくなってしまいました
今……コンクリート敷きのかたすみに
冬花がひっそり咲いているのが とてもかわいそうです」
私はいまは遠い彼女に心で言う
空の並木橋駅
あれは私もみた
あれは夕やけで真ッ赤だったよと
ほんとうは並木橋駅なんてなくなっていたのに
黄色い駅の向こうに夕やけの湖をみて
からだのなかまでが真ッ赤になっていって
長い長い貨物列車を見送っていた気がする
残ったくろい煙が徐々に消えてゆく速度までが思いだされる
この世にないものが美しい
みえないものがみえてくる
この重さが私を支配する
今宵この国でメロディーなんかなんでもいい
「八幡通りを憶えていますか?」
今宵これにすぐる詩の一行目はない
 *括弧内は小学校の同級生•氏香(うじ•かおる)さんの手紙の無断借用(原文の儘)。
 「並木橋駅」(詩集〈並木橋駅〉)部分(pp. 54-55)

 ロマンティックというのはこういうことだろうか。この女性のような手紙を送ってくれる友人は私にはいない(いなかった)けれども、そんな手紙には心が癒されるにちがいない。この詩の最後、「この世にないものが美しい/みえないものがみえてくる/この重さが私を支配する/今宵この国でメロディーなんかなんでもいい/「八幡通りを憶えていますか?」/今宵これにすぐる詩の一行目はない」の詩句は、あたかも抒情詩を書くことへの強い決意とその宣言のように思える。

町の家々に灯がともる頃
僕はみなし児にかえる
遠いいつの日にか見た
フクちゃんの漫画を思い出す
夕暮れの町の風景
あゝ良く似ているなあ
フクちゃんが露地から
とび出して来たよ
僕は僕で
屋根から屋根へ
とびまわったり
あの灯を見つめながら
一人で手をたたいたりする
お月様が
きれいだった
 「夕暮れの街」(詩集〈丘の秋〉)全文 (pp. 85-86)

 「フクちゃん」をいちおう知ってはいるものの、読んでいた新聞が違うのでそれほど馴染みはないのだが、夕暮れ時が妙にリアルな詩である。「僕はみなし児にかえる」ということがよくわからなくて困るのだが、子供時代の私には夕暮れ時はなぜか痛切に切ない時間だった。
 「お月様が/きれいだった」という最終2行の直截さには驚いた。衒いというものが皆無なのである。ここに國井克彦の本質が見えている、そんなふうに言いたくなる2行である。

(1)ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ――「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
(2)ベルナール・スティグレール(がブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)



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〈読書メモ〉 在日を生きる(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年)

2024年10月12日 | 読書

 

ぼくは船腹に吞まれて
日本へ釣り上げられた。
病魔にあえぐ
故郷が
いたたまれずにもどした
嘔吐物の一つとして
日本の砂に
もぐりこんだ。
ぼくは
この地を知らない。
しかし
ぼくは
この国にはぐくまれた
みみずだ。
みみずの習性を
仕込んでくれた
最初の
国だ。
この地でこそ
ぼくの
人間復活は
かなえられねばならない。
いや
とげられねばならない。
 「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 33-35)

 帝国主義日本の植民地支配下の朝鮮で生まれ、日本語を母語のように使って生きてきた詩人は、故国から「共匪」として追われて日本に渡ってきた。日本語を教えられ、日本語で「はぐくまれ」生きてきた詩人は、その日本の地でこそ「人間復活は……/とげられねばならない」と言明する。これは、日本で生きる未来への確信だろうか、それとも決意なのだろうか。あるいはまた、願いなのだろうか。そのすべてを包含しているとも考えられる。渡ってきた日本の地で「ぼくの/人間復活」の確信と決意と切実な希求が込められていると考えるのが自然のような気がする。
 私には「在日」として異郷で生きる人間の心情をくみ取ることはかなり難しい。ただ、おおざっぱに概念的に括れば、ひとつはやはり日本ないし日本人との関係(それは在日が置かれている日本の政治的状況でもある)が もたらす心情だろう。もちろん、それは在日同胞(われわれ)と日本人(かれら)という関係も含まれている。もうひとつは、異国の地で祖国を思いやる心情、とりわけ軍事政権による長い圧政に苦しむ同胞、傷つき、なおその傷口が深くなっていく祖国・同胞を遠く離れた異国で思いやることしかできない状況がもたらす心情ではなかろうか。
 ひとつめの日本ないし日本人との関係がもたらす心情は、金時鍾の詩業全般に遍く沁み透っているだろうが、とりわけ同胞在日が暮らしている土地、猪飼野を主題にした『猪飼野詩集』(コレクションIV巻)に集約されている。猪飼野に暮らす在日が置かれている環境と日々の暮らしから主題を採った詩も多いが、そうした現実を超えたようにいわば在日哲学(私にはそう思える)と呼べるように語るいくつかの詩に強く惹かれた。

おしやられ
おしこめられ
ずれこむ日日だけが
今日であるものにとって
今日ほど明日をもたない日日もない
昨日がそのまま今日であるので
はやくも今日は
傾いた緯度の背で
明日なのである
だから彼には
昨日すらない。
明日もなく
昨日もなく
あるのはただ
狎れあった日日の
今日だけである。 
 「日々の深みで(1)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 70-71)

まずうとまれることから
切れることを覚える。
秩序とはそもそも
切れる関係で成り立つものであり
区切られる こころもとなさは
へだたっていることの
つながりともなる。
それは愛情とさえいっていいほどのものなのだ。
考えてもみょう。
変わりばえのない 日日を生きて
なぜ平穏さが
俺たちの祝福となるのか?
ひとえに国が
海をへだててあるから安穏なのか?
さえぎられているものに
俺たちの通わぬ
願いがあるので
せめぎあう思想にも
俺たちの思いは
ひそんでいて平気なのだ。
つまり 壁は
俺たちに必然の対峙を強いる
対話であり
待機であり
まだ果たされてない出会いが
そこで切れていることの確認でもあるのである
 「日々の深みで(2)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 87-89)

 「まずうとまれることから/切れることを覚える」のだ、誰(何)から疎まれるのか。在日の暮らし、労働などについて語った後に上の詩句が綴られているので、在日同胞ないしは日本人から疎まれるのかとも考えたが、すぐ後に「ひとえに国が/海をへだててあるから……」と記されていて、故国を追われるように来日した詩人の想いが強く重ねられていることが分かる。もしかしたら、二重、三重に「うとまれ」、「切れて」いることを畳み込んでいるのかもしれない。

切れる。
はなから切れる。
切れるまえから 切れているので
切ることからも
切れている。
耐えねばならないなりわいに
つながるなにかが
わからないほど
つながることから
切れている。
太陽がひとり
バス道の向こうでずり落ちていても
投げる視界がないから
思いみる国の色どりもない。
夜更けて星を宿す
運河でもないので
もちろん せかれて帰る
海でもない。
こもって切れる。
ともかく切れる。
主義から 切れ
思惑から 切れ
自足しているつもりの
くいぶちからも切れてみる。
 「日々の深みで(3)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 122-124)

 徹底的に「切れている」のである。もう何から切れているのかと問うことは不可能に思えるほど「切れている」のだ。とりわけ「思いみる国の色どりもない」ほどに切れていることは、けっして在日としての孤独というわけではないだろう。むしろ、切れることで孤立し、孤立すること通じてのみ越えられることどもがあって、それが在日という存在の確認、確証につながっていくのではないか。絶望とははっきりと異なる言葉の勁さがそう思わせるのである。
 『猪飼野詩集』ではなく『日本風土記』に収録されている詩で、在日と日本人との関係性という点でとても興味深く読んだ「わかいあなたを私は信じた」という詩がある。

いや。
いや。
若いあなたが断るはずはない。
突然問われたので
とまどったのだ。
きっと。

それに
午後の
閑散な電車だったから
何人かの
好奇の目が
気になるってことさえ
ありうるではないか。

そうに決まってる。
いくらへんてこな
発音だと言って
老いた朝鮮の婦人を
若いあなたが
無視するはずがないのだ

あなたは答える。
今に答える。
まだまだ先ですから
どうぞ座っていなさい

あなたは答える。

私はあなたに
賭けたっていい。
京橋が過ぎたが
"ツルハシ ノコ?"
がくりかえされたが
あなたの母は
そっぽを向いても
あなたは まだまだ
はじらわねばならない
自分の目をもっている。

森之宫を過ぎたころ
母が立たれた。
それにせきたてられたように
あなたも立たれた。
これは何かの間違いだ。
顔だちのやさしい
あなたが
私の大好きな
日本の娘さんが
それほど偏見に
もろいはずがない。
それにもまして
若い世代を
裏切るはずがない。

賭けの余ゆうは
まだ残っている。
この電車の止まったとき
そのときが私の勝負だ。
私はあせらない。
母が大股に
私の前を通りすぎ
うつむきかげんの
あなたがそれに続いても
賭けはまだ終わったわけではさらさらない。

ゆるやかに
ホ—ムが止まる。
スピーカーが場所を告げ
自動扉が道をあける。
母が出る。
私が立つ。
老婆が外に首を出し
あなたの白いたびが
ホームの谷間へ浮き上がる

ツギが
ツ、 ル、 ハ、 シ、 ヨ。

瞬間の永遠。
あなたの示された
指先と
しきりにぺこべこ頭を下げる
老婆の間に
ガラスがはまる。
母はホームの端。
あなたは中央。
私は老婆と
動く電車の中。
たとえ私が負けていたとしても
母よ、あなたを私はなじりはしない。
 「わかいあなたを私は信じた」 (『日本風土記』)全文 (II、pp. 118-125)

 この詩を読みはじめてすぐ、吉野弘の「夕焼け」(『吉野弘詩集 幻・方法』(飯塚書店、1959年、p. 122))を思い出した。電車の中で詩人が若い女性の行動を見つめているというシチュエーションはまったく同じである。その若い娘と老人と間に起きることを見ているということも同じである。違いは、「夕焼け」では詩人も娘も老人も日本人で、上の詩では娘は日本人で詩人と老人は在日の人間であることだ。
 「夕焼け」では、満員電車の中で娘は老人に席を譲る。その老人が下りて、もう一度別の老人に席を譲る。その老人も降りて、別の老人が娘の前に立つが、「娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。/次の駅も/次の駅も/下唇をキュッと嚙んで/身体をこわばらせて――。」。娘の優しさと恥じらいを思いやる詩人は「やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう。/下唇を嚙んで/つらい気持で/美しい夕焼けも見ないで。/と詩を結ぶ。
 一方、「わかいあなたを私は信じた」では日本人の母娘に片言の日本語で降りる駅を訪ねる在日の老婆に対する娘の恥じらいと勇気を詩人は見ている。その娘の勇気は、老婆に対する母親の態度(それは多くの日本人に見られることだろう)と対比され、詩は「たとえ私が負けていたとしても/母よ、あなたを私はなじりはしない。」と結ばれている。この最後の2行に在日として詩人の想いが凝縮されている。私なら母親へのもっと強い批判の気持ちが湧くだろうと思うのだが、ここには私に思い及ばない在日としての詩人のある「乗り越え」があったのだろうと思う。
 在日の心情のありようとして大雑把に二つに括ったもう一つ、異国から祖国で起きていることどもへの思いの詩は、とくに『光州詩片』(コレクションV巻)に収められている。そのなかで異国に生きる在日しての心情が際立っていると見えて心打たれたのは、次の「そこにはいつも私がいないのである」という直截な一行から始まる「褪せる時のなか」という詩である。遠い異国で帰ることのできない祖国、その国で同胞たちが闘い苦しんでいる場所に詩人はいつもいないのである。同胞たちの闘いや苦悩に共感しながらも共在することはできない。これは同胞たちの苦悩に共鳴しながらもまた在日としての別の苦悩だろう。

そこにはいつも私がいないのである。
おっても差しつかえないほどに
ぐるりは私をくるんで平静である。
ことはきまって私のいない間の出来事としておこり
私は私であるべき時をやたらとやりすごしてばかりいるのである。
だれかがたぶらかすつてことでもない。
ふっと眼をそらしたとたん
針はことりともなくずつあの伏し目がちな柱時計の
なにくわぬ刻みのなかにてである。
(中略)
あの暑い日射しの乱舞に孵ったのは
蝶だったのか。
蛾だったのか。
おぼえてもないほど季節をくらって
はじけた夏の私がないのだ。
きまってそこにいつもいないのだ。
光州はつつじと燃えて血の雄叫びである。
瞼の裏ですら痴呆ける時は白いのである。
三六年(*)を重ね合わせても
まだまだやりすごされる己れの時があるのである。
遠く私のすれちがった街でだけ
時はしんしんと火をかきたてて降っているのである。
 *三六年=「大日本帝国」が朝鮮を直接統治した植民地期間の年数。
 「褪せる時のなか」(『光州詩片』)部分 (V、pp. 43-46)

 この祖国の事象現場に不在であることについては、金時鍾自身のエッセイのなかで述べられている箇所がある。

 私に即して言えば、国が奪われるときも、国が戻るときも、私の力の何ら関与することなしに奪われ、戻されてきた。今度こそはと思われた七・四南北共同声明も、がそこにいないだけでなしに、またしても民衆そのものが不在なのだ。この白んだ無力感。問題が大きければ大きいほど、個人の関わりはうすらいでゆく。そして各個人はその不条理に身もだえながらも、それに対処する方法は民衆の手の遠く及ばないところにあるものと決めこんでしまう。
 「南北朝鮮「融和」の中の断層(コレクション V巻、p. 180)

 『光州詩片』は、文字通り「光州事態」に主題を採ったものだが、詩集の「あとがき」に光州事態の歴史的事実についても述べられている。

 韓国にもようやく政治の和みがくるかに見えた"しばしの春"があった。十八年もの長い間、軍事独裁による「維新体制」をほしいままにした朴正熙大統領が、高まる民衆の民主化要求に惧れをなした腹心によって射殺されたあとの、新しい政治体制が敷かれると喧伝されていた数力月のことだ。いわゆる「光州事態」はこのさ中の一九八〇年五月十八日に噴出した。維新体制継承を叫ぶ陸軍保安司令部司令官全斗煥少将は、この日の未明、遂に全土非常戒厳令を布告し、即刻国会を閉鎖させたばかりか、時を移さず民主化運動指導者の容赦ない逮捕を開始した。大統領死去後の新しい事態に逆行するこのような非常戒厳令の撤廃を求めて、光州市民は都市ごと胸をはだけて立ちはだかったのだ。自由への、それこそ無残なまでも美しい散華であった。
  (中略)
 かくして五月二十七日未明、道庁を死守する市民合同武装部隊の壮絶な抵抗が一万七千名からなる戒厳軍との三時間に及ぶ決戦で終息するまで、吹きすさぶ軍事強権の嵐の中で光州はただひとつの民衆の手の中にあった小箱のような「自由都市」であった。この間、光州「暴動」を背後から操縦してきたとして金大中氏が再逮捕され、ウイッカム将軍指揮下の軍使用まで許可されていたばかりか、空母コーラル・シー、ミッドウェーが急拠回航してくるという、異常なまでの極東緊張がかもしだされていた。このような緊張のただ中で、分断された弱小民族の同族相食む惨劇は血しぶいていたのだ。
 
あとがき」(『光州詩片』)(V、pp. 130-132)

 そこ(光州事態の現場)にはいない詩人は、事態のありようを事実に即しつつも想像力を駆使して想世界の中であたかも共在しているかのようなリアルさで描き出そうとする。

まだ生きつづけているものがあるとすれば
耐えしのいだ時代よりも
もっと無残な 砕けた記憶。
それを想い返す瞳孔かも知れない。

この霜枯れた日に
まだ死なずにいるものがあるとすれば
奪いつづけた服従よりも
もっと無念な 青白い忍従。
弾皮(*)が錆びている野いちごの
赤い 復習かも知れない。

まだあるとすれば
それは血ぬられた 石の沈黙。
いや石より濃い 意識のにこごり-
陽だまりで溶けだしている
その貧毛な粘液かも知れぬのだ

だからこそ
渴く。
ものの形が失われて知る
はじめての愛の象(かたち)なのだ。
まだ腐れない髪の毛をなびかせて
だからこそ春は
私の深い眠りの底でもかげろうているのだ

それでもまだ
つきない悔いがあるとすれば
日は変わりなく銃口の尖(さき)で光っており
海はたわみ
雲は流れる。
あの日 噴き上がったまま
まっさおな空に埋められた
私の
けし。
 *弾皮=「薬莢」の韓国語。
 「まだあるとすれば」(『光州詩片』)全文 (V、pp. 30-32)

日が経つ。
日日にうすれて
日がくる。
明け方か
日暮れ
パタンと板が落ち
ロープがきしんで
五月が終わる。
過ぎ去るだけが歳月であるなら
君、
風だよ
生きることまでが
吹かれているのだよ。
透ける日ざしの光のなかを。

日は経つ。
日日は遠のいて
その日はくる。
ふんづまりの肺気が
延びきった直腸を糞となってずり落ち
検察医はやおら絶命を告げる
五つの青春が吊り下げられて
抗争は消える。
犯罪は残る。

揺れる。
揺れている。
ゆっくりきしんで摇れている。
奈落のくらがりをすり抜ける風に
茶褐色に腐れていく肋が見えている
あおずみむくんだ光州の青春が
鉄窓越しにそれを見ている。
誰かを知るか。
忘れるはずもないのに
覚えられないものの名だ。
日が経ち
日が行って
その日がきてもうすれたままで
揺れて過ごす人生ならば
君、
風だよ
風。
死ぬことまでも
運ばれているのだよ。
振り仰げない日ざしのなかを
そう、そうとも。
光州はさんざめく
光の
闇だ。
 「骨」(『光州詩片』)全文 (V、pp. 51-55)

 同胞の惨苦に心を寄せつつも事態現場への不在の苦悩を通じて思索する詩人は、祖国の悲惨な歴史的展開に自分の思いを強く重ねながら、いわば絶望的な不可能性を乗り越えようとしているように見える。詩句はかなり哲学めいてくるのである。

まだ夢を見ようというのですか?
明日はきりもなく今日を重ねて明日なのに
明日がまだ今日でない光にあふれるとでもいうのですか?
今日を過ごしたようには新しい年に立ち入らないでください
ただ長けて老成する日日を
そうもやすやすとは受け入れないでください。
やってくるあしたが明日だとはかぎらないのです。
 「日々よ、愛薄きそこひの闇よ」(『光州詩片』)部分 (p. 107)

いましがたほの白い空のはしを堕ちていったのは 昨日である
闇は反転の間際でしかめくれあがらないので
今日はいつも 空白のすき間からだけ白むのだ。
いち早くうすい瞼を透かしてくるのもその明りである
老人は考える。
年に気どられないもののありかについて。
こうも余生が透けるばかりなら
場合によっては未知すらも 創りだすものであるかも知れないのだ。
さあ眠るとしよう!
私に明日は百年も先のまぶしい光だ!
 「遠い朝」(『季期陰象』)部分 (pp. V、159-160)

 人間は「やってくるあしたが明日だとはかぎらない」と語るためにはどんな惨苦や苦悩を経なければならないのか。無残に展開していく歴史の中でどれほど生きなければならないのか。詩人と私の経験の差、その隔絶感を不安に思いながら詩編を読み続けたのだが、「やってくるあしたが明日だとはかぎらない」というフレーズに納得するもののその思いに至るプロセスはなかなかに想像しがたいものがある。
 しかし、「未知すらも 創りだすものである」というフレーズには少しならず驚き、わくわくする感じがあった。「未知を想像する」といういくぶんポストモダン風の言述は、何か新しい思想的な可能性を生み出す始点になるのではないか、などと思ってみる。「百年も先のまぶしい光」の兆しとなる可能性はないのか、と。もっとも、このフレーズは、明日は百年先ほどにも遠いというある種の絶望を語っている可能性もないではない。「不可能性の可能性」などと言うとますますポストモダン風になってしまう。ポストモダンはとっくの昔に終焉を迎えたと言われているのに………。



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〈読書メモ〉 二つの祖国(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年))

2024年09月29日 | 読書

 19歳で日本に逃れてきた金時鍾は、日本語での詩作活動ばかりではなく、済州島にいたときと同様にコミュニストとして活動をはじめ、日本共産党にも入党した。当然のように、アメリカの傀儡である李承晩韓国政権ではなく、朝鮮民主主義人民共和国を支持する。

俺は義憤を覚える。
俺の歩みは早くなり
服の色が襟元からだんだん赤く染まってくる。
そして俺は人民共和国公民としての肩をはる。
アメリカきらいの
李承晩きらいの
民団きらいの
日本きらいの
これでようやくまともな民族主義者になれたわけ。
 「カメレオンの歌」(『日本風土記II』)部分 (II、pp. 166-167)

四肢のほとんどを折られたまま
奴がにじり寄っていうのだ。
"外国人登録を見せろ〃
"登録を出せ"
"登録を出せ〃
俺はすなおに答えて云った。
生れは北鮮で
育ちは南鮮だ。
韓国はきらいで
朝鮮が好きだ。
日本へ来たのはほんの偶然の出来事なんだ。
つまり韓国からのャミ船は日本向けしかなかったからだ。
といって北鮮へも今いきたかあないんだ。
韓国でたった一人の母がミイラのまま待っているからだ。
それにもまして それにもまして
俺はまだ
純度の共和国公民にはなりきってないんだ―・・
 「種族検定」(『日本風土記II』)部分 (II、pp. 175-176)

 在日の若い詩人たちと「ヂンダレ」という詩誌を立ち上げた。その時代、「社会主義リアリズム」なるくだらない芸術論が席巻していて、多くの芸術家が左翼党派からの政治的干渉に苦しめられていた。若い頃に夢中になって読んでいた詩人のなかにも共産党から除名されたり、自ら党を離れた詩人が何人もいた。
 金時鍾はじめ「ヂンダレ」に拠る詩人たちも政治的干渉・批判を受けることになる。上記の二つの詩が収められている『日本風土記II』は、そのような政治的妨害によって発刊不可能になった詩集を、『金時鍾コレクション』を編む際に四散した詩編を採集して復元した貴重な詩集となっている。そのような事情を、詩人自身が語っている。

 では「『ヂンダレ』批判」に見るような当時の私の置かれた政治的組織的状況と、『日本風土記II』が立ち消えになつたいきさつをかいつまんで話すとします。
 私の第一詩集『地平線』は一九五五年十二月に刊行されましたが、同じ年の五月、在日朝鮮人運動もそれまでの民戦(在口朝鮮統一民主戦線)から朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)へと、組織体が成り変わっていました。まるで中央本部内の宮廷劇のような、ある日突然の運動路線の転換でありました。
 朝鮮民主主義人民共和国の直接の指導下に入つたという朝鮮総連の組織的権威は、祖国北朝鮮の国家威信を笠に辺りを払わんばかりに高められていきました。「民族的主体性」なるものがにわかに強調されだして、神格化される金日成元帥さまの「唯一思想体系」の下地均らしに、「主体性確立」が行動原理さながらに叫ばれだしたのです。組織構造が北朝鮮そのままに改編され、日常の活動様式までがこの日本で型どおりに要求されだしました。民族教育はもちろんのこと、創作表現行為のすべてにわたって、認識の同一化が共和国公民として図られていきました。私はそれを「意識の定型化」と看て取りました。
 在日世代の独自性を意に介さないどころか、問答無用に払いのけていく朝鮮総連のこのような権威主義、政治主義、画一主義に対して、私は「盲と蛇の押問答」という論稿でもって異を唱えました。一九五七年七月発行の『ヂンダレ』一八号に載ったエッセーです(本コレクシヨン第七巻に収録予定)。蜂の巣をつついたような騒ぎになり、私はいきおい反組織分子、民族虚無主義者の見本に仕立てられていって、総連組織挙げての指弾にさらされるようになりました。ついには北朝鮮の作家同盟からも長文の厳しい批判文「生活と独断」が『文学新聞』に掲載され、金時鐘は「白菜畑のモグラ」と規定されました。即ち排除されなければならない者として批判されたのでした。もちろん日本でも、総連中央機関紙『朝鮮民報』に三回にわたって転載されました。これで私の表現行為の一切が封じられました。『ヂンダレ』ももちろん廃刊となり、会員たちも四散しました。
 思想悪のサンプルとなった私は逼塞を余儀なくされていましたが、ほどなくして始まった北朝鮮への煽られるような「帰国事業」熱の隙間を衝いて、私の第二詩集『日本風土記』は前述のように刊行されました。「組織」を見返したい私の、意地の突っ張りでもあった出版でした。立ち消えになった『日本風土記II』の結末は、そのような私への組織的見せしめの処置であったことは明らかでした。
  「立ち消えになった『日本風土記II』のいきさつについて」(II、pp276-278)

 「生れは北鮮で/育ちは南鮮」の金時鍾は、こうして南からは「共匪」として追われ、北からは「反組織分子、民族虚無主義者」として拒否されることになる。二つに分かれた祖国のどこにも詩人の帰る地、許される場所はなくなったということである。
 もとより、祖国を二つに分けることになった北緯三八度線は詩人の心を離れることはなかったろう。第1詩集『地平線』に次のようなフレーズがある。

父と子を割き
母と わたしを 割き
わたしと わたしを 割いた
『三八度線』よ、
あなたをただの紙の上の線に返してあげよう。
 「あなたは もう 私を差配できない」 (『詩集 地平線』)部分 (I、pp. 221-222)

 詩人の意志する、あるいは希求する『三八度線』が「ただの紙の線」になる日は来るのだろうか。三八度線へ思いは、北への帰国事業が始まることでいっそう強いものとなる。

 でも、総連が始めた帰国事業は、僕が組織からの批判を受けることで帰国者対象から外された。新潟の帰国事業センタ—にも出入りできないような立場になっちやった。ですから結局、自分の国に帰る、父の本籍地つまり父祖伝来の地に帰るためには三八度線を越えなくちゃならないのに、自分の国でだめだったし、日本まで来て日本からも三八度線を越えるわけにはいかなかった。
 三八度線を越えるだけなら、知ってのとおり北緯三八度線は東に延長すれば新潟市の北側を通っているので、新潟巿を日本海へ抜ければ三八度線は越えられるわけですね。「ではその三八度線を越えたとして、おまえはどこに行くのか」という、とどのつまりの問題に突き当たることになる。
 「インタヴュー 宿命の緯度を越える」(II、p. 354)

 三八度線への想いはこらえがたく、詩人はその緯度の東の延長線上近くの新潟、北への帰国船が出る新潟港へと向かう。その想いは、長編詩集『新潟』に結実する。
 北への帰国事業が始まるずっと以前、祖国へ帰国する船の第1便はおそらく1945年8月15日の終戦直後、8月22日に青森県大湊から舞鶴港を経て帰国する予定だった三千人を超える帰国朝鮮人が乗った浮島丸だったろう。だが、浮島丸は何者かに爆沈されて舞鶴港沖に沈み、三千余名の祖国への帰還はならなかった。
 新潟沖を航行していったであろう浮島丸と祖国への帰還を喜んでいたであろう朝鮮同胞への想いの詩も『新潟』には納められている。

ひしめきあい
せめぎあった
トンネルの奥で
盲いた
蟻でしかなくなった
同胞が
出口のない
自己の迷路を
それでも
掘っていた。
山ひだを 
斜めに
穿ち
蛇行する
意志が
つき崩す
ショベルの
先に
八月は
突然と
光ったのだ。
なんの
前触れもなく
解放は
せかれる
水脈のように
洞窟を洗った。
人が
流れとなり
はやる心が
遠い家鄉目ざして
渚を
埋めた。
狂おしいまでの
故郷を
分かちもち
自己の意志で
渡ったことのない
海を
奪われた日日へ
立ち帰る。
それが
たとえの遍路であろうと
さえぎりようのない
潮流が
大湊を
出た。
炎熱に
ゆらぐ
熱風のなかを
蛸壷へ吸い寄る
章魚のように
視覚を
もたぬ
吸盤が
一途に
母の地を
まさぐった。
袋小路の
舞鶴湾を
這いずり
すっかり
陽炎に
ひずんだ
浮島丸*が
未明。
夜の
かげろうとなって
燃えつきたのだ。
五十尋の
海底に
手繰りこまれた
ぼくの
帰郷が
爆破された
八月とともに
今も
るり色の
海にうずくまったままだ。
*浮島丸=終戦直後、帰国を急ぐ朝鮮人のために輸送船に仕立てられた軍用船。一九四五年八月二二日、青森県大湊から強制徴用による朝鮮労務者三〇〇〇余名と、便乗した在留朝鮮人家族ら、合わせて総数三七三五人が乗り合わせて釜山へ向け出港したが、水、食品等の補給のためと称し舞鶴沖に投錨したまま、八月二四日午後五時ごろ時限爆弾によって爆沈された。確認された遺体は乳幼児を含む五四二人で、乗船者の約半数以上が確認できない犠牲者となった。現在も東京目黒区の祐天寺には、一一八五体の遺骨が一三〇〇余柱の朝鮮人軍人、軍属の遺骨とともに、引き取り手のないまま、今もって置き忘れた遺失物のように保管されている。
 「II 雁木のうた 1」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 118-124)

 三八度線近い新潟の地で西に延びて朝鮮半島の分断線となる三八度線、分けられた二つのどちらの国へも帰ることのできない詩人の悲しみや絶望は、私の想像のはるか彼方にあるばかりだ。

すでに人跡を絶った
有史前の
断層が
北緯38度なら
その緯度の
ま上に
立っている
帰国センターこそ
わが
原点だ!
ああ船が見たい!
豪雪の下を
雪国びとが
千年にわたって
編んできた
雁木道を
くぐり
海へ
出た。
この人たちこそ

というものを
あらかじめ
持っていた人たちだろう。
あの人は行ったわ!
かくまきの奥で
いたずらっぽく
ほほえんでいる
眼。
あいつは
またしても
ぼくをだし抜いたか! 
 「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 101-103)

ぼくこそ
まぎれもない
北の直系だ!
入江の祖父に聞いてくれ――。
祖父?
いぶかる頤に
髭が長くのびている!
ぼくです!
宗孫の時鐘です!
叫びが
一つの形をとって落ちてくる瞬間が
この世にはある。
 わしの孫なら山に行ったよ。
 銃をとってな―・・
冷ややかな
この一瞥(いちべつ)。
ああ
肉親にすら
俺の生成の闘いは知らぬ!
その祖国が
銃のとれる
俺のために必要なんだ!
 「III 緯度が見える 3」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 223-224)

誰に許されて
帰らねばならない国なのか。
積みだすだけの
岸壁を
しつらえたとおり去るというのは
滞る貨物に
成りはてた
帰国が
ぼくに
あるというのか
もろに
音もなく
積木細工の
城が
崩れる。
切り立つ緯度の崖を
ころげ落ち
平静に
敷きつもる
奈落の日日を
またしてもくねりだすのは
貧毛類のうごめきだ。
 「III 緯度が見える 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (pp. 245-246)

新潟にそそぐ
陽がある。
風がある。
堆(うずたか)く
雪に閉ざされる季節の
と絶えがちな道がある。
いりまじる電波にさえ
いりまじる電波にさえ
ぼくの帰国を
せめて
埠頭に立てるだけの
脚にしてくれ。
瞼に打ちつけて
くずれる波に
とびかう地平の
鳥を見よう。
海溝を這い上がった
亀裂が
鄙びた
新潟の
巿に
ぼくを止どめる。
忌わしい緯度は
金剛山の崖っぷちで切れているので
このことは
誰も知らない。
ぼくを抜け出た
すべてが去った。
茫洋とひろがる海を
一人の男が
歩いている。 
 「III 緯度が見える 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (pp. 249-251)

 「ぼくこそ/まぎれもない/北の直系だ!」という詩人の願いは三八度線を越えることだが、それが叶わない身であれば「その緯度の/ま上に/立っている/帰国センターこそ/わが/原点だ!」と心に決するしかない。
 「ぼくを抜け出た/すべて……」のなかに、「またしても/ぼくをだし抜いた……」男がいて、「茫洋とひろがる海を」渡っていくのである。海の向こうにつながる北緯三八度線を越えて祖国へ帰るべく、幻影の人となって海を渡っていくのである。幻影人ともなれば、浮島丸の三千余名の霊といっしょに祖国に帰ることができるのではないか。



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〈読書メモ〉 帰れない故郷(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年))

2024年09月21日 | 読書

 

 『金時鍾コレクション』全12巻のなかの1巻から5巻まで読み終えた。第6巻に未完詩編が収録されているが、金時鍾の詩業の大半を読んだことになるだろう。第1巻から第5巻までのサブタイトル(刊行年)は、次のようになっている。

I. 日本における詩作の原点(2018年)
II. 幻の詩集、復元にむけて(2018年)
III. 海鳴りのなかを(2022年)
IV.「猪飼野」を生きる人々(2019年)
V. 日本から光州事件を見つめる(2024年)

 金時鍾の詩作品を読んで、間断なく感情が動かされ続けたのは間違いないが、その感覚を率直に言えば「驚き」と「畏敬」の重畳した感覚である。日本の東北の一県で生まれ育ち、その土地を離れることもなく凡庸に生きてきた私には想像もできないような人生を詩人は生きてきた。詩人とその詩の読み手の絶望的な懸崖をどう処理すれば、読書が成立するのだろうか、そう思いつつ頁を繰ったのである。
 5巻に含まれる詩を製作年代順に読んだわけではない(III、II、IV、I、Vと本を手に入れた順に読んだ)が、どの詩を読んでも詩人の人生のなかの事件(出来事)、背景なしにはその詩の意味、時空を共有するどころか、近づくこともできないと思われた。
 第I巻に含まれる処女詩集『地平線』は後の方で読んだのだが、この詩人の詩としては奇妙に明るく、私などの胸にもすとんと落ちてくるような詩があって、それはこんなフレ-ズで終わっている。

働きものの 父が欲しいなあ。
ふくよかな 母の 乳房が欲しいなあ
それにありつける
私の育ちの 日日が欲しいなあ。
「あせたちぶさ」 (『詩集 夜を希うもののうた』)部分 (I、p. 16)

 父と母、その子どもとしての自分のありようについての「願望」を率直に歌ったように見える。この感慨は、「電車に 乗る/街を 歩く。/映画を 観る。/はちきれんばかりの 女性にあい/モンローウォークの ヒップにおされ/のびきった脚の 八頭身に/心が おどる。」と書いた若い詩人の乳房への憧れのような思いから生まれている。
 金時鍾の詩をそれなりに読んだ後で「あせたちぶさ」を読んだときには、この詩人にも私がほっとするような一面があるのだと受け取ったのである。しかし、もしかしたら私の理解はまったく違うのではないかという違和感もまたじわじわと湧いてきたのだ。
 『詩集 地平線』が出版されたのは1955年なので、この詩が書かれた時期には詩人は故郷の済州島に帰ることは不可能で、両親に会うこともかなわない状況にあった。父がいて母がいて子供の自分がいる家族(詩人は一人っ子である)は絶望的に不可能である。現実の不可能性から過去へと遡及する父母と子の暮らしへの強い希求を、若い男性の乳房へのあこがれに仮託しているのではないか。絶望的な不可能事への想いが言葉の裏に隠されているのではないか。そう考えてもみるのだが、そしてそれは私の誤読かもしれないという思いもあって、違和感は残されるばかりなのである。
 少し、金時鍾の経歴を辿っておく。金時鍾は、1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父の家に預けられるが、7歳の時済州島の両親のもとに帰り、以後1948年まで済州島で暮らす。日本による植民地支配下にあって、小学校、旧制中学、師範学校における教育ばかりではなく、ほぼ日本語のみを母語のように使いながら育って、それが日本語で詩を書く原点(理由)になっている。

「僕は自分の国の言葉の素養といったら、賞味二年半の蓄えなんだよ。……一九四五年の八月から四六、四七年、一九四八年の時はもう追い立てられて、逃げ回っとったから。(I、p. 364)

 太平洋戦争が終わり、金時鍾は学生運動を通じて共産党に入党し、1948年4月6日の済州島民の一斉蜂起(済州島4・3事件)に加わり、李承晩政権による大弾圧から逃れるように日本に渡ってきた(私は済州島4・3事件については金石範の長編小説『火山島』を読んだ程度の知識しかないが)。そのため、詩人は韓国に帰ることが不可能となり、父や母の死に目にも会うことは叶わなかった(1998年に金大中政権が発足し、翌1998年には墓参が許され、50年ぶりの帰国が叶った)。
 帰れない故郷を想う詩句はたくさん見られるが、次の詩句の優しさと悲しみの色あいがとくに気に入っている。とはいえ、この詩句が含まれている「秋の歌」は、日本と朝鮮の間の悲劇的な関わりの歴史(その細部はまた多くの詩の主題ともなっている)が鳥瞰するように詠われている長編詩で、私にとっては読みごたえのある一編だった。

私は 秋が 一番好きです
秋には色とりどりの思い出が
たくさんあるからです。

私の瞳のおくに いりついた
祖国の色はだいだい色です。
唐がらしの赤くほされた わら屋根の家
澄みきった空の ポプラも色づき
柿の実は ひくく ひくく
軒下に 色をあやどります。
それは ちょうど
夕暮れどきの あかね色に似て
私の童心を 遠い家路へとゆさぶるのです。

    ○

私の家路は 落葉の 道です。
悲しい日々が うずたかくかさなった
茶褐色の 思い出の道です。
遠く ひくく 伝い来る鐘の音は
消え去った日々の 晩鐘です。
私の 父への 鎮歌を 奏で
私の 母への 弔歌を 奏で
しめやかに しめやかに
九月一日の 哀歌をかなでています。

十五円五十銭で 奪われた 命
秋の一葉よりも もろく散らされた 生命
私の親への つきない 哀歌です。

    ○

私が もの心ついてからの
秋の思い出は
灰色の 九月の歌からです。

秋始めにして 無理じいに散らされた葉
あまたの悲しみと 憎しみをおりまぜて
今日も心ふかく 舞い散っています。
その葉の青さは 永遠にあせない色
苦い樹液を 胸そこに充たし
九月の思いを 新たにさせるのです。
「秋の歌」 (『詩集 地平線』)部分 (pp. 170-173)

 しかし、その故郷は「遠く ひくく 伝い来る鐘の音は/消え去った日々の 晩鐘です。/私の 父への 鎮歌を 奏で/私の 母への 弔歌を 奏で/しめやかに しめやかに/九月一日の 哀歌をかなでています。」というフレーズに明らかに示されているように、故郷の父母たちばかりではなく、日本で理不尽に死んだ父母たち(関東大震災時に虐殺された)への鎮魂の思いとともに想起されているのである(詩句のなかの「九月一日」には「関東大震災の同胞虐殺記念日」という注記が付されている)。
 帰ることのできない故郷には父母が残されていて、ついにその死に目に会えないまま日本で生きざるを得なかった詩人は、父母への思いを何度も書き綴っている。

大通りを
うなりごえをたてて
ジープが去来するとき
ぼくの過去は
土中の迷路を
かきわけるのに終始した。
裏の垣根に
壕を掘り
大地の厚みに
泣いた日から
母はついに
一人子のぼくを
見失った。
裏の垣根に
壕を掘り
大地の厚みに
泣いた日から
母はついに
一人子のぼくを
見失った。
ぼくの過去に
道はなかった。
日帝に
苦役を強いられた
その道を
身がわりに
ひかれていった父でさえ
再び戻ってはこなかった
夜の跳梁がはじまり
夜行性動物への変身は
一切の道を必要としなかった。
「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 20-22)

その夜更けもまた
遠雷は鳴っていたのです。
聞いたというのではありません。
白く虚空を割いて墜ちていった
音を見たのです。
窓辺にはいつしか雨がたかり
はてしないつぶやきが
やはり白くもつれていました。
なぜか消えてゆくものは
白い音をたてて吸い込まれるのです。
過ぎた夏が
網膜で白いように
たぶん 闇の芯で白んでいるのが
記憶なのでしょう。
音はいつもひとつの象(かたち)を刻みます_
夜更けの母は
とりわけ寡黙でした。
炒り豆をつめながら
ただ鼻だけをすすっていました
同じく生涯を分けたはずの夜に
死を期した若者は 
洗いざらした肌着を母からもらい受け
私は母から
ひとり逃げをうつ糧をもらい受けていたのでした。
あの夜更けにもまた
遠雷はひきもきらずいなびかっていたのです。
誰の胸に刻んだというのではありません。
生きながらえても
在るべきものはとっくに消え去りました
夜更けてくずれてゆく
白い街や 白いバリケードの他は
私に残る懺悔はもうないのです。
その夜更けにも
遠雷はにぶくどよめいていました。
見たのではありません。
白く放たれた閃光がつらぬく
白い心が聞いたのです。
がらんどうの広場でうずくまっている
ひとりの母の しわぶきを聞いたのです。
「遠来」(『光州詩編』)全文 (V、pp. 26-29)

 どの詩にも強い思いがこもっていて、初めて読んだときには何か多くのことを語れそうな気がしたが、こうやって改めて書き出してみると、私にはそれに見合うような言葉を紡ぐことができない。詩句を抜き書きしただけでもう十分だと思えるのだ。「死を期した若者は/洗いざらした肌着を母からもらい受け/私は母から/ひとり逃げをうつ糧をもらい受けていたのでした。/あの夜更けにもまた/遠雷はひきもきらずいなびかっていたのです。」という詩句に比肩すべき言葉は私のなかにはない。
 会えないまま亡くなり、墓参もかなわない父母への想いを綴った詩も多い。

地所代がなくて
共同墓地に
埋めた。
妻よ。
墓が濡れる。
墓が。
父の。

家は並んでも
ポコポコと。
母は
その中に横たわる
生きてる
ミイラ。
おおこの南鮮(くに)
なんと
見渡すかぎりの
無縁塚だ。

母よ。
山がけむってる。
海がけむってる。
そのはるかな
向こうが
野辺です。
「雨と墓と秋と母と――父よ、この静寂はあなたのものだ――」(『日本風土記II』)全文 (II、pp. 228-230)

二枚の附箋と
三本の朱線に
低迷した
韓国済州局発の
航空郵便が
一つの執念さながら
胴体滑行の
形象すさまじく
落手した。
炎天下に
かざされた
全逓同志の
手汗のしゅんだ
ハト口ン封筒を
開く。
これは
韓国製の
ひつぎだ。
伏して
うるしを常食し
生きたまま
ミイラとなった
母の
七十余年にわたる
告別の書だ。
ザラ箋の
紙質にしみた
においよ。
失なわれた故郷の
亡国の
かげりよ。
亀よ。
叫びよ。
墓もりができずに
やえむぐらの
おおえるにまかせた
父の
骨の痛みだけを訴えてきた
母よ。
思いは呪いに似て
暴虐と圧制の地に
生きうるものの証しを
ぼくはあなたに迫られる。
(中略)
母よ。
からからに干からびた
韓国で
ミイラとなった母よ。
宇宙軌道からの地球は
マリモのように美しいそうです。
しんそこ
あなたにいだかれた日々は
美しいものです。
不毛の韓国を抱いて
動かぬ母に
夜半。
いつか孵化するであろう
ういういしい青さを手向ける
母の
呪いと愛にからまれた
変転の地で
迎撃ミサイルに追いつめられる
機影のように
父の地
元山を想う。
一人子の
息子に置き去られて
なお
帰れと云わぬ母の
地の塩を
這いつくばってなめる。
――1961.8•14•夜
「究めえない虚栄の深さで」 (『詩集 日本風土記II』)部分 (II、pp. 234-240)

午前10時半。
妻とぼくは
街の中です。
午前10時半。
枯木のあなたがくずおれて
ミイラの母がうつぶせました。
そしてあなたが死んだのです。
そして母が叫んだのです。
泣いたのです。
わめいたのです。
声をかぎりと
ぼくを呼んだのです。
 (中略)
なにぶんとも遠い海のあちらで
ぼくの手の
とうてい及ばない韓国で
母がひとり
葬った
父と
余生と
これからもありそうな
六十の生涯。
たしかにぼくに託されていた
その生涯。
「果てる在日(4)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 184-187)

 どうしても金時鍾の詩業についてメモを書き記しておきたいと思ったものの、詩人の人生と詩業を合わせ読み込んだうえで印象をまとめるというのは、端から無理だと思っていた。まずは、帰れない故郷と会えない父母への思いという点で詩を選んでみた。
 次に考えているのは、「二つの祖国」という視点で、南ばかりではなく北からも拒否される在日朝鮮人としての詩を選んでみたい。その後に日本で「在日」として生きる詩人の日日の姿を詩群の中から探し出してみたいと思っている。



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〈読書メモ〉 『現代詩文庫87 阿部岩夫詩集』(思潮社、1987年)

2024年08月26日 | 読書

 20年近く前から、読んだ本のなかのフレーズや文章を抜き書きするようになった(抜き書きといってもハンドスキャナーとOCRソフトで取り込むだけである)。抜き書きを始めたそもそものきっかけは、定年退職直後にこれから読む本をそこそこまとめて購入したとき、そのうちの2冊は以前に読んだことがあって、きちんと本棚にならんでいるのを発見した時である。
 興味があって、つまりは読みたくて読んだ本のことをすっかり忘れていたということで、かなりがっかりしてしまった。その時、忘れないためには、読んだ本のメモを取ればいいと思いついたのである。それまでも気に入った詩や短歌などはときどき抜き書きしていたので、それをもう少し広げて丁寧にすればいいと考えた。
 とはいえ、どんな本でも抜き書きをすることにはならない。数ページで閉じてしまう本もあるし、読み終えてもどんな言葉も残らない本もある。読んだことが記憶に残らなくてもいいような本ももちろんある。結局、抜き書きは自分が気に入った本のなかでの気に入った文章やフレーズということになる(もちろん、思想書の類では思想の構成上重要な部分の抜き書きということもあるけれど)。
 抜き書きした言葉は、私の人生の折々のシーンで私の心情をうまく表現してくれるのではないか、という期待もある。あるいは、そういうシーンがこれからの暮らしの中であってほしいという想いもある。ときどきは自分の文章や私信の中で引用もする。
 だから、私の抜き書きのほとんどは「ありうべき情景」、「ありうべき情感」を表現するものに傾いている。そんな抜き書きをしていると、感動したにもかかわらず、一行も抜き書きができなかった本にも出合うことになる。
 その一冊が表題の『阿部岩夫詩集』だった。詩を読む限り、1934年山形に生まれた詩人は、辛い生い立ち、悲劇的な民話のような故郷山形の物語、そして自らの病と獄舎の暮らしを苦しんでいる(私はそう読みこんでいる)。
 例えば「生い立ち」についてはこんなフレーズがある。

顔とかさなって
見えかくれする
向こう側に立っている
父よ
やさしい呪文をとなえながら
巫女がいった
海と陸と出合うあの波のなかに
赤い夜をまとった哨兵の姿が
風景になったまま
自分のなかに還れないでいる
父と母は小さな声で呼びあっている

なにをきているのかえ
赤い夜じゃて
どうして父さんに見えないのかえ
顏をなくしだでなぁ
帰っておくれでないかぇ
死んだ仲間が帰してくれねぇんだ
どうしてかぇ

帰れなくなった
父の表情は凍りつき
唇だけが重く泳いでいる
巫女よ
向こう側の風景に
できるだけ父をかさねて下さい
父が殺した男もかさねて下さい
父を殺した男もかさねて下さい
 「わらの魂」(詩集〈朝の伝説〉)部分 (p. 13)

 例えば、獄舎暮らしはこんなふうに。

十時の点検のあと
金網のなかで運動がはじまる
見知らぬ隣人が
アイヌ語でうたを唄っている
看守たちがどなっている
アイヌの唄をうたってはいけないと
男は不意に
白刃をかまえたように
たちまち狂憤に陷り
衰弱した軀が
まるで弾丸のごとく
破壞力をもって看守のなかに
走りだしたのだ
 「不羈者」(詩集〈不羈者〉)部分 (p. 31)

 例えば、故郷山形の記憶(物語)はこんなふうに。

かき落とされてゆく
反撃の夢の手を
身体のなかで泳がせると
一つひとつの田畑の粒が
暗い七五三掛の地形になって
目じりからこぼれる
身体のなかに
出口の明かりがみえ
形も色も定まらないまま
村の座敷牢が
大きな口をあけて軋る
あれは一九五四年の冬
汚物が布に凍りつき
母の身体はひどく重くなって
病巣のなかで方位を失い
死のなかを浮遊する
 「死の山」(詩集〈月の山〉)部分 (pp. 42-43)

 そして、自分の詩業についてもこう記している。

すべては破片で
文字のない「かたち」に身体は
かさなりあわさって病み
詩が最後まで書きためらっている領域
完全な幽霊 <天皇〉の
片足を引き抜こうとすると
一方の足が吸い込まれてしまうのだ

(中略)

藤井貞和よ
殺傷力のある
日本の織り詩はどこにあるのか
おれは夢に耐えきれずに
失神を繰り返しながら完全な死体に近づく
夜(25日)を渡る身体の言葉に
『月の山』のミイラを再び殺し
夢遊病者のように疾走する
 「かたちもなく、暦に」(詩集〈織詩・十月十日、少女が〉)部分 (pp. 108-109)

 引用もしないで読み終えた後、この詩集を一週間ほど手元から離すことができずにうろたえていた。結局、詩集のなかから上の詩句を選び出して、この一文を書くことで蹴りをつけることにした。
 そんな本もある。



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〈読書メモ〉 細見和之『現代思想の冒険者たち15 「アドルノ――非同一性の哲学」』(講談社、1996年)

2024年08月23日 | 読書

 そんなに新しい本ではないが『現代思想の源流』(講談社、2003年)というマルクス、ニーチェ、フロイト、フッサールの4人の思想を解説している本を見つけて読んだ。『現代思想の源流』は、30巻に及ぶ「現代思想の冒険者たち」というシリーズを導く第0巻となっていて、結局、シリーズ30巻のうち12巻を読むことになった。
 そのうちの一冊が第15巻の『アドルノ』だった。読み終えた12巻のなかには読み進むのがむずかしかったり、なかなか理解しにくかったりする本もあったが、細見和幸著のこの本は、圧倒的に読みやすく、快適に読み終えることができた。文章のリズムが、私にはとても受け入れやすかったのである。論理の展開の間合い、喚起される情感の時間発展が心地いいのである。
 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉が様々な人、場所で引用されていて、アドルノという名前はずっと見知っていたが、アドルノの本を読んだ記憶がない(フランクフルト学派の本はあまり読んでいない)。当然ながら、私の興味は「アドルノとアウシュヴィッツ」ということになる。
 そういう私の興味に応えるように「プロローグ」で語られるのは、半世紀以上も前のフォークソング全盛時に流行り、小学校での音楽でも取り上げられてきた「ドナドナ」という歌に関する著者自身の若いときのエピソードである。

あの陰鬱(いんうつ)な印象深い旋律がユダヤ人の歌で、惹(ひ)かれてゆく「仔牛」がユダヤのひとびとの宿命の暗喩であると知ったときの衝撃――。だからいまアドルノをはじめユダヤ系の思想に興味をもっているのだと言えばできすぎた話になるが、あのときの衝搫がぼくのなかにいまなおくっきりと刻みつけられているのはたしかである。(p. 13)

ぼくらが意味不明の囃しことばのように口ずさんでいた「ドナドナ、ドーナ、ドーナ……」の部分は、ドイツ語訳によれば「わたしの神よ、わたしの神よ」という神への呼びかけだったのである。そしてこの歌に付されている短い解説によると、作者はイツハク・カツェネルソン。かれは一八八六年に生まれ、ポーランドのウッジのユダヤ人学校の教師を務めるとともに、多くの歌や戯曲を書き、ユダヤ人の闘争団体とも密接な関係にあった。一九四二年に妻とふたりの息子がアゥシュヴィッツへ「強制移住」させられ、かれはその印象をこの歌に託した。その後カツェネルソン自身も「強制移住」させられ、妻子と同様に四四年にアゥシュヴィッツで死亡した、とある。(p. 16)

だが、決定的に重要なのは、あの「ドナドナ」というわれわれにとってとても馴染み深い歌が、まぎれもなくユダヤ人にたいするポグロム(民族虐待)を歌ったユダヤ人の歌にほかならない、という点である。そして、アドルノもまたユダヤ系の哲学者であるといった問題を遥かに越えて、この歌とわれわれの関係のうちには、きわめてアドルノ的なテーマがぐっと凝縮された姿で存在していると、ぼくにはおもえるのだ。(pp. 16-17)

 そして、プロローグで「ドナドナ」のエピソードで始まったこの本の最終章は、次のような文章で終わるのである。見事である、としか言いようがない。

 最後に「ドナドナ」の旋律をもう一度思い起こそう。あのとき幼いぼくたちは、ぼくたちの耳と身体にあの旋律のもつ痛みの「分有」をすでに刻印されていたのではないだろうか。おそらくアドルノが考える「経験」も、本来そのような場面でこそ生じるのだ。
 ぼくらは他者の痛みから単純に切り離されているのではない。ぼくらの五感は常にすでに、むしろ否応なく他者の痛みの「分有」へと開かれている、と言うべきなのだ。ぼくらの身体とその記憶には、すでに多くの他者がすまわっている。その意味で、ぼくら自身がすでに無数の「他者」なのだ。ぼくが「非同一的な主体」と呼んだものも、最終的にはそのようなイメージに帰着するようだ。この「他者」の記憶を、ぼくらの五感と思考のすべてをあげて解き放ってゆくこと、それこそが、ぼくらがぼくら自身の新たな思考と経験にむけて踏み出してゆくための、第1歩であるにちがいない。 (pp. 286-287)

 アドルノには『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマーとの共著)と『否定弁証法』という大部の著作もあって、これから読むべき本と思いなして、その古本を見つけて積み上げてある(つまり未読である)だけなので、このメモは「アドルノとアウシュヴィッツ」という関心だけにとどめておきたい。
 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は当然のように詩人の反撃を受ける。

 人間の外部から人間に襲いかかってくる自然の猛威なら何とか対策をたて、できるかぎりの防御を試みることができる。だが、そういう人間の知それ自体が、その内部から「現実の地獄」を作り出してしまったあとでは、文字どおりわれわれはなすすべもなく立ち尽くしてしまうほかないのだ。
 あの出来事を「理解」しょうと試みること自体、そこに何らかの「意味」を見いだす企てとして、「死者」にたいする冒濱の嫌疑をまぬがれない。収容所における「死」は生き残った者の生にも途方もない「罪科」を負わせるのである。先に触れたようにエンツエンスベルガーは、われわれが生き延びようと欲するならアドルノの命題は反駁されねばならない、と果敢に説いたのだが、アドルノはそれにたいしてここではこう応答している。

永遠につづく苦悩には、拷問にあっている者に泣き叫ぶ権利があるのと同じだけの表現への権利はある。そこからすれば、アウシュヴィッツのあとではもはや詩を書くことはできない、というのは誤りかもしれない。だがもっと非文化的な問い、すなわち、アウシュヴィッツのあとで生きてゆくことができるのか、ましてや偶然生き延びはしたが殺されていてもおかしくなかったにちがいない人間がアウシュヴィッツのあとで生きてゆくことが許されるのか、という問いは誤りではない。そういった人間が何とか生き延びてゆくためには、冷酷さが、すなわちそれなくしてはそもそもアウシュヴィッツがありえなかったかもしれない市民的主観性の根本原理が、必要とされるのだ。これは殺戮をまぬがれた者につきまとう激烈な罪科である。その報いとして彼はさまざまな悪夢に襲われる。自分はもう生きているのではなく一九四四年にガス室で殺されたのではないか、それ以降の自分の生活はすべて想像のなかで、つまり二十年前に殺戮された者の狂った願望から流れ出たもののなかで営まれたにすぎなかったのではないか、と。(「アウシュヴィッツのあとで」)

 このくだりはさながら、自らアウシュヴィッツの「生き残り」として声なき死者たちの証言のみを自身の創作上の使命としてきた作家、エリ・ヴィーゼルの小説の一節を髣髴とさせる。ヴィーゼルの小説『昼』の主人公「ぼく」は語っている。「ぼくは自分が死者だと思い込んでいた。ぼくは食べ、飲み、涙を流すことができなかった。――自分を死者として見ていたからである。ぼくは自分が死者だと思いなしていた。――死んでから見る夢のなかで、自分が生者だと想像している死者だ、と」(村上光彦訳)。(pp. 181-182)

 「アウシュヴィッツのあと」について、アドルノの思考はきわめて厳しいのだが、著者は、ある一文を見つけ出し、アドルノの別の一面を評価していて、読んでいる私にとっても少しならずほっとする箇所だった。

確かにアドルノのように、近代的な市民社会のある種必然的な帰結として「アウシュヴィッツ」を位置づけるかの発想には、極端なものがある。もしもいっさいが「アウシュヴィッツ」に収斂してしまうのなら、およそそれについて語ること、考えることすら無意味なこととおもえてくる。だがアドルノのことばには、「アウシュヴィッツ」にかかわってほとんど暗黒のテーゼを紡ぎながらも、それを絶えず反転させるイメージも差し挟まれている。たとえばアドルノは、同じ「形而上学についての省察」の「ニヒリズム」と題された節でこう語っている。

強制収容所におかれている人間にとっては生まれてこなかった方がよかったのではないか、うまく脱出することができた人間が何かの拍子にそう判断することがあるかもしれない。だがにもかかわらず、きらきら輝く瞳を前にすれば、あるいは犬がかすかにしつぼを振っているのを前にしただけでも――その犬はついさっきごちそうを与えられたのだが、もうそれを忘れているのだ――無の理想は消え失せる。

 ぼくは何よりもこういう一節に示されている、アドルノの思想のもつ大きな振り幅に惹かれる。「アウシュヴィッツ」という徹底した非日常の時空によって、日常的な感覚のすべてを決して塗りこめてしまわないこと。かといって、日常性に居直ることによって「アウシュヴィッツ」という非日常を自分とは無縁なものとして視野の外へと消し去ってしまわないこと。むしろ、この日常と非日常の振幅のなかに、自分の思想を絶えずおこうと試みること。それはまた、深刻きわまりない思索に耽りながらも、そういう思索それ自体に冷や水を浴びせ相対化する契機を、つねに意識的に持ち込むことでもある。そういう態度こそは、たとえばフッサールやハイデガーの求心的で黙想的な思考スタイルにいちばん欠けているものではないだろうか。 (pp. 185-186)

 ドイツ思想が専攻の研究者である著者の、研究対象であるアドルノに対する愛情のような感覚をそこかしこに感じられた、というのが読後感の一つである。
 この本によって、『啓蒙の弁証法』と『否定弁証法』を読むことにしたが、著者が詩人であることが分かって(詩が好きなのに恥ずかしながら細見和之という詩人を知らなかったのである)、その詩集を三冊見つけてこれも積んである。それから著者の編著で出版されている『金時鍾コレクション』(藤原書店)全12巻のうち。これは第5巻まで読み終えた。
 この本一冊を読むことで、読むべき本が一気に見つかり、当分は読書には困らない。



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〈読書メモ〉 『現代詩文庫17 安西均詩集』(思潮社、1969年)

2024年08月12日 | 読書

 入院中のベッドの中でハナ・アーレントの『全体主義の起源』(全3巻)を読み始めた。ずっと以前に読んだときには図書館からの借用本だったが、今回は古本を購入して読んでいる。再読である。
 入院治療中というのは読書暮らしには最適で(それ以外にはあまりやることがない)、順調に読書が進み、まもなく第2巻の半分くらいのところになったころ、無性に詩が読みたくなった。その病院には入院患者が使えるWiFiがあり、許可をもらえばパソコンも使えるので、さっそくネットで古本を探した。思潮社の『現代詩文庫』というシリーズから7冊ほどの詩集を注文した(現代詩文庫シリーズは値段が手ごろでたくさんの詩人の詩が読めるので、若いころ、ずいぶんと助けられた)。
 ネットで注文した古本のなかに「安西均詩集」も含まれていた。「安西均」の名前はよく知っている。その詩を若いころには絶対に読んでいるはずだ、という確信があるのだけれど、どんな詩を書いていた詩人なのか、まったく記憶がない。記憶がない以上、安西均は未知の詩人で、新しい詩人とその詩に出合えることになると、喜んで読み始めたのである。

 ページを開いた最初の詩は、「ぼくはふと町の片ほとりで逢ふた/雨の中を洋傘(傘)もささずに立ちつくしてゐる/ポウル・マリイ・ヴェルレエヌ」とういう「ヴェルレエヌと雨」の詩。つぎは「フランソワ・ヴィヨンと雪」、その次の詩は「ヒマワリとヴアァン・ゴッホ」、次は「西行と田舎(プロヴァンス)」、次は「人麿と月」というふうに続くのである。
 一読して「安西均は〈知〉の詩人なのだ」という思いに駆られる。まず、ある〈知〉があり、そこからイメージされる語句を美しく配置する、そういう詩のイメージである。
 幼いころから詩が好きで、児童詩も含めてたくさんの詩を読んできた(つもりである)。そうして詩人という人々は〈知〉に恵まれた人たちだと漠然と思いこみ、憧れと敬愛の念を抱き続けてきた。
 とはいえ、私は抒情の詩が好きなのである。〈知〉と〈論理〉に裏打ちされた抒情、強いて語れば、そんな詩を待ち望んでいる。ただ、かつて若い人たちが詩を「ポエム」と呼んでいわば軽蔑すべきもののように話すのを聞いて驚いたことがある。たしかに、抒情詩と呼ばれるもののなかには情緒だけが漂っているような詩がたくさんあって、そういう詩が「ポエム」などとくくられるのは仕方がないという気もする。かつて、小野十三郎が「日本の戦中の精神主義(大和魂!)と詠嘆的抒情のおぞましい結託ぶりへの批判」(細見和之)を行ったのは理のあることであった。

 さて、この安西均詩集には〈知〉が、〈知〉の詩が満ちているが、「ひかりの塩」という詩には目を見張った。

木の葉を洩れる月の光を潜り抜けると
ぼくは飛白(かすり)の着物をきた少年だった

患っている弟のために隣り村の医者へ行き
薬瓶のなかにも月光色の水を詰めてもらう

古い街道の杉並木にさしかかると思わず足がうわずって
海を渡るキリストみたいに「勇気」をよびよせるのだった

………

いまでもぼくは薬瓶をさげて月光の中を急ぐ夢を見る
どこへ誰のもとへ――弟は戦争で死んでしまったのに 

夢の中でぼくはいつも眩く「夜がこんなに明るいのは
あの夏の光のように烈しい命が地の底で塩になっている
 からだ」と。p. 32)

 子供時代、弟のための薬を求めて隣村まで出かける少年(詩人)が描かれ、どのような大きな抒情が紡がれるのかと、どきどきしながら読み進んだのだが、最後の2行は、隠れもなき〈知〉が溢れてしまったようだ。


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