《白衣の自画像》を国立近代美術館で見たのが、私にとって初めての靉光であった。自画像の風貌といい、靉光という名前といい、日本人画家なのかどうか疑った記憶がある(日本の近代画を並べているので、日本の画家には違いないのだが)。そのほかにも靉光の作品を見たのかもしれないが、《白衣の自画像》のことだけが強く印象に残っている。
その後、州之内徹の『絵の中の散歩』[1] や『気まぐれ美術館』[2]、窪島誠一郎の『戦没画家・靉光の生涯』[3] などで靉光のあれこれを読んだりしたが、絵を見る機会はなかった。2007年に生誕100年展が開催されていて、しかも宮城県美術館にも巡回していたにもかかわらず、見逃していたことを最近になって知った。退職2年前の2007年、私は仕事に追われまくっていた時期でもあったが、生誕100年展を見逃してしまっては、私の残された時間の中で靉光の絵をまとめてみることは無理だろうと諦めて、ネットで100年展の図録を探すことにしたのである。
靉光はこの三つの「自分の相貌」をのこして同年〔昭和一九年〕五月二十六日に入隊、やがて南京の前線におくられ、二十年二月ごろには第二十軍野戦貨物廠配属となり、武漢地区、洞庭湖付近に駐屯を命じられるのである。そして、終戦の知らせをききながら、一九四六(昭和二十一)年一月十九日早暁、上海郊外の呉淞第一七五兵站病院でマラリアとアメーバ赤痢を併発し、ついに三十八歳七ヶ月のみじかい生涯をとじる。 (『生涯』 p. 41)
私は、遺作のような三つの「自分の相貌」の一つを見たということだったのである。さて、図録のなかに収められていたのは、この夭逝した画家がどこへ向かおうとしていたのかまったく想像を絶するような、驚くべき多様な才能なのであった。人間の可能態としての才能を多面体に例えるなら、一つの面がムクムクと盛り上がるように才能が力強く立ち上がってくるのを見て図録のページをめくると、反対側の面が大きく膨らみ始めている。そういうことが続いて、その多面体はあちこちに膨れ上がっているが、さて靉光を靉光たらしめる可能態の面はどれか、私には判断ができないのである。
州之内徹は、吉井忠という画家の「要するに、あいつは絵の虫みたいな奴だったんだ、それだけだ」と評した言葉がとても心に残ったと書いている(『絵の中の散歩』 p. 217)。「絵の虫」はあらゆる主題、あらゆる手法を喰い尽くそうとしたということであろうか。
【左】《父(石村初吉)の像》1917(大正6)年、木炭、墨・紙、52.2×44.6cm (図版1)。
【右】《養父(石村梅蔵)の像》制作年不詳、墨、鉛筆・紙、50.5×36.9cm(図版8)。
図録巻頭に収められた《父(石村初吉)の像》は、10歳の作だという。人生の辛苦を貌に刻み込むように生きてきたであろう父親としての男のリアルをこのような肖像画として描くことが可能な10歳とはいかなる才能なのか。絵の才能に恵まれているとか描写力に優れているということでうまく収まらないような気がする。絵の才能と言ってしまう以上の何か、早熟の才能と言ってしまう以上の何か、靉光という人間に固有の何かがあるに違いない。そう思うのだが、それはふたたび才能という言葉に回帰せざるを得ない。
《養父(石村梅蔵)の像》は、さらにリアリティという点ですぐれた描写力を示しているが、《父(石村初吉)の像》と比べると「優れた」描写力の分だけ(私にとって)印象が弱くなってしまっている。
《コミサ(洋傘による少女)》1929(昭和4)年、油彩・カンヴァス、
80.0×65.0cm、広島県立美術館(図版9)。
靉光は一時期ゴッホ風の絵を描いていて、その一つとして《屋根の見える風景》が収録されているが、その作品と同じ年に、いかにもルオー風の《コミサ(洋傘による少女)》も描いているのである。
靉光は、小学校に入るころに叔父の養子となって生家を離れたのだが、コミサは生家に残った妹である。この絵は、結婚を控えた妹を描いているという。窪島誠一郎はこの絵を評して、「結婚する愛妹の姿にたくして、靉光は自らの心の空洞と、どこにももってゆきばのない人恋しさ、親恋しさをえがいたともいえるのである。幸福の絶頂にあるはずのコミサの、うつむいて瞑想している横顔こそが、そのまま当時の靉光のゆくえさだまらない心情の表現であり、同時にそこには、他家にとつぐ妹を思いやる兄としてのやさしさと慈しみがあふれている。」(『生涯』pp. 18-9)と述べている。私には、そこまで感情の細部まで読み取る能力はないが、結婚の喜びだとか、肉親の情愛だとかにけっして括ることのできない人間の存在のありよう(実存と呼べばいいのか)に筆が及んでいることは確かだと思う。
ゴッホ風の《屋根の見える風景》を無視して、《父(石村初吉)の像》、《養父(石村梅蔵)の像》、そして《コミサ(洋傘による少女)》と辿ってくると、靉光の画業が向かう道がなんとなく予想できそうな気がしてくるが、それはまったく見当違いであることがすぐに明らかになる。
【左】《キリスト(赤)》1932(昭和7)年、グワッシュ、墨・紙、35.8×24.9cm (図版15)。
【中左】《キリスト(黒)》1932(昭和7)年、グワッシュ、墨・紙、40.5×24.5cm (図版14)。
【中右】《編み物をする女》1934(昭和9)年、グワッシュ、クレヨン、墨・紙、27.5×15.0cm (図版19)。
【右】《乞食の音楽家》1934(昭和9)年、グワッシュ、墨・紙、27.0×15.0㎝ (図版20)。
《父(石村初吉)の像》、《養父(石村梅蔵)の像》、《コミサ(洋傘による少女)》に続いて《キリスト(黒)》だけを見たら、文字通りルオーの世界に迷い込みそうだが、《キリスト(赤)》から《乞食の音楽家》などの一連の人物画を眺めると、まったくの見当違いであることは自明だ。身体のデフォルメ、戯画化も含めて、存在にまっすぐに向かう(ルオー的な)人物像というよりは、存在へのアイロニーあるいはシニシズムによる形象化という印象を受ける。
靉光は多くの画家からの影響を受けた(あるいは、手法を取り入れた)と言われているものの、この一連の人物像から誰彼のどのような影響関係を抽出することなど私にはとうていできそうもない。
ある特定の画家をイメージするとき、どれか全作品を代表しうるような作品、あるいは、もっともその画家らしい作品を思い浮かべることが多いし、美術展や画集を見るときには無意識にそのような作品を探しているような気がする。しかし、この図録をこの辺りまで眺めてくると、そういう作品を見つけることは難しいと思い始めたのだった。
《シシ》1936(昭和11)年、油彩・カンヴァス、144.5×228.0cm、(図版33)。
《眼のある風景》1938(昭和13)年、油彩・カンヴァス、102.0×193.5cm、
東京国立近代美術館(図版35)。
一連のライオンを描いた作品や《眼のある風景》は、靉光のシュールレアリスム的な作品である。図録に収録された論考や作品解説を読むかぎり、これらの作品が靉光の代表的のものとみなされているようだ。
図録の巻頭論文で、大谷省吾が《眼のある風景》のシュールレアリスムについて、次のように述べていることはたいへん示唆的で興味深い。
中央の眼は、それら〔絵の中の〕無数の生成する形のひとつが、たまたま明確な像を結んだにすぎないのではないか。だから中央の眼だけでなぐ画面全体が見る者を見つめ返すのである。このような効果は、〔……〕存在そのもののリアリティを獲得するために、ひたすら対象を見つめ、描いては消す作業を徹底して繰り返すうちに、期せずして生み出されたもののように思われる。写実を突き詰めた末に、突き抜けてしまった作品。だとすれば、《眼のある風景》はシュルレアリスムというよりも、むしろ「過剰なるレアリスム」と言った方がよい。当時の日本の画家たちの多くが、空想的なイメージの組み合わせによって、戦争前夜の不安や過酷な現実からの逃避願望を象徴的に表わすために、シュルレアリスムを取り人れようとしたのに対して、あくまでも対象に即しながら、その過剰さゆえに幻想を浮かび上がらせる靉光の手法は、明らかに異なっている。しかし、シュルレアリスムとはそもそも「何かを超えて離れるという意味とはすこしちがって(中略)むしろ現実の度合が強いという意味をふくんで」いるのだとすれば、靉光のめざしていたものは、実は本来のシュルレアリスムに最も近かかったのかもしれない。 (『図録』p. 13)
【左】《蝶》1941(昭和16)年、油彩・カンヴァス、41.1×31.9cm、広島市現代美術館(図版40)。
【右】《花(アネモネ)》1942(昭和17)年、油彩・カンヴァス、41.3×32.2cm、
大阪市立近代美術館建設準備室(図版49)。
《シシ》や《眼のある風景》は、「第2章 ライオン連作から《眼のある風景》へ」という章に収められているが、それに続く第3章は「東洋画へのまなざし」と名付けられ、その前半には、日本画であればさしずめ「花鳥画」に分類されるような主題の油彩画が収載されている。
描かれているのはたしかに花や鳥や虫たちであるが、きわめて幻想的な作品群である。《花園》と題された黒と暗い赤色で描かれた暗鬱な幻想の花園に浮かび上がるように描かれた鮮明な揚羽蝶の写実性が際立っている。その揚羽蝶は、上の《蝶》にも描きこまれている。シュールレアリスムの視座と手法を内在化した画家がめざす「花鳥画」の過激な情感にたじろぐばかりである。
しかし、その第3章の後半にはよりいっそう「日本画」と呼ぶべき線描画や水彩画が掲載されている。
【左】《男の顔[末広一一の像]》1941(昭和16)年頃、インク・紙、20.7×17.3cm、
信濃デッサン館(図版79)。
【右】《娘》1941(昭和16)年、水彩、墨、鉛筆・紙、79.4×82.8cm、
広島県立美術館(図版82)。
【左】《瓶花》1941(昭和16)年頃、水彩、墨、鉛筆・紙、80.5×55.7cm、
広島県立美術館(図版84)。
【右】《あけび》1941(昭和16)年頃、水彩、墨、鉛筆・紙、80.0×55.0cm、
広島県立美術館(図版86)。
《娘》は未完の作品であるが、《コミサ(洋傘による少女)》とはまったく対極的な繊細で淡い色彩で描かれている。完成作品としては《畠山雅介氏の像》や《末広一一氏の像》という男性の座像が収録されているが、《娘》もまた同様の画法で描かれる予定だったと推察される。どの作品も、日本画における人物像そのものであるが、未完であるがゆえに《娘》が醸し出すある種の余剰に私は引かれたのである。
《瓶花》や《あけび》もまた、《蝶》や《花(アネモネ)》と比べるべくもなく、文字通りの日本画として受容できる作品である。
《二重像》1941(昭和16)年、墨・紙、24.5×20.0cm、
広島県立美術館(図版88)。
《海》1943(昭和18)年、油彩・キャンバス、72.3×90.7cm、
広島県立美術館(図版100)。
《二重像》という作品には、日本画における繊細で緻密な線描、《蝶》や《花(アネモネ)》における幻想性、《コミサ(洋傘による少女)》や《キリスト(黒)》のような人間存在へのまなざし、そういったものが総合されて表現されているのではないだろうか。
そんな風に思って《二重像》を眺めていたのだが、まったく同じような筆致で《作品》とのみ題されたきわめてシュールな作品群が続くのである。そこには人間は消えているので、これまでの画業の総合という《二重像》の私の受け止め方は違うようである。これらの作品もまた、靉光の才能多面体の一つの面に過ぎないようだ。そのことは、《海》によって確認される。「繊細で緻密な線描」とは正反対で、大胆な筆致、大胆な色彩、いわばフォービズムの世界である。
【左】《帽子をかむる自画像》1943(昭和18)年、油彩・カンヴァス、60.0×50.0cm、
広島県立美術館(図版111)。
【中】《梢のある自画像》1943(昭和18)年、油彩・カンヴァス、72.8×53.2cm、
東京藝術大学(図版112)。
【右】《自画像[白衣の自画像]》1944(昭和19)年、油彩・カンヴァス、79.5×47.0cm、
東京国立近代美術館(図版118)。
靉光を靉光とアイデンティファイすることができる唯一の作品というものはない(少なくとも、私には見つけられない)という確信(?)を抱くようになったころに、連作の自画像が現れる。
三つの自画像を残して出征し、戦病死したことから、私(たち)はあたかもこの三作品が遺作、遺言のように思ってしまうのだが、画家自身はどのように思っていたのだろうか。才能の多面体なるものを措定して靉光の多様な画業を喩えてみたのだが、靉光は画家としての自己確認をどのようにしていたのだろうか。
様々な世界へ突出していく才能を眺めながら、もしかしたら靉光は画家としての自己同一性の発見に苦しんでいたのではないかという思いにとらわれた。いや、もう少し正確に言えば、これらの自画像が画家(あるいは人間存在)としての自己同一性の追求への意思表明としてあったのではないかと思ったのである。まだ達成できていない自己確認への意思(と不安)が描かれているのではないかと感じたのだ。
私の主観的過ぎる感想はさておいて、これらの自画像については優れた批評家が言及している。大谷省吾は、針生一郎やヨシダ・ヨシエの《自画像》評を紹介しつつ、次のように述べている。(ヨシダ・ヨシエがこの1月4日に亡くなったというニュースに接した。享年86、合掌)
針生一郎による「運命に抗してたたかう人間の内部を語ってあますところない」という説が、おそらく最も支持されてきた考え方であろう。これに対してヨシダ・ヨシエは「わたしには逆に、この一群の作品が、当時の日本の前衛美術運動の挫折の体験と、かなり深くむすびついているような気がしてならなかった」と主張している。靉光を「抵抗の画家」の偶像に祭り上げるのではなぐ戦時下で苦悩するひとりの生身の人間として捉えようとするヨシダの考え方にも、説得力がある。だが、私はいろいろな研究者の意見を読み比べながら、それぞれの解釈は実は、それぞれの論者自身の「画家は社会に対していかにあるべきか」という思想の反映のように思えてならなかった。 (『図録』p. 15)
たしかに、靉光の画業は戦争を抜きにしては語れないに違いない。《シシ》や《眼のある風景》、あるいは《蝶》や《花(アネモネ)》に、時代を覆っていたであろう暗さや不安感を見ることはできる。だからこそ、あらゆる方向へ突出しようとする靉光の画業を、まるで生き急いでいたためかのように考えてしまいたくなるのである。
戦争の暗い時代を生き、出征し、戦地で夭逝する芸術家、才能にあふれた画家の心のありようを私が推量することなどできはしないが、州之内徹が紹介する次のような夫婦の日常があったことは、とても強く心に残る。
靉光のことになると、きえさんはいつものように、自分は靉光の女房にはちがいないが、結婚生活といっても十年ほどだし、それに自分は毎日勤めに出、靉光は靉光で、二階の画室には人を寄せつけず、ときにはひと月もふた月もそこへ籠りきりで、だから、そんなときは顔を合わせることもあまりない、そういう具合ですからねと言い、たまに二階から降りてきたと思うと、何も言わずにあたしの頭をはたいておいて、また上って行ってしまったりするんですよ、と笑っている。
「夫婦喧嘩ですか」
「そうじゃないんですよ、仕事の緊張が続いて自分で耐えられなくなると、そうやって気を晴らすんでしょう」
黙って殴られている靉光夫人の姿に、私は感動した。なんという素敵な夫婦だろう。 (『気まぐれ美術館』 p. 150)
[1] 州之内徹『絵の中の散歩』(新潮社、昭和48年)。
[2] 州之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社、昭和53年)。
[3] 窪島誠一郎『戦没画家・靉光の生涯――ドロでだって絵は描ける』(以下、『生涯』)(新日本出版社、2008年)
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