【2016年1月29日】
世田谷美術館には、分館として宮本三郎記念美術館があることを、『画家と写真家の見た戦争』展の開催のことと一緒にネットで知った。一昨年(2014年)の秋、やはり世田谷美術館分館の向井潤吉アトリエ館で『向井潤吉 異国の空の下で』という美術展を見たことがある。世田谷美術館は、複数のギャラリーから構成されるイギリスの国立美術館のようである。
先の大戦で、画家の多くが戦争に協力したということ、戦後そうした画家への批判がかまびすしかったことは知っているが、具体的にだれがどういう役割を果たしたのかはよく知らない。せいぜい藤田嗣治がそうした画家たちの中心的役割を果たしたらしいことは、他の画家たちを巡る話題から推測できる程度である。
さいわい、手許に椹木野衣と《戦争画RETURNS》などを描いた会田誠 [1] の対談本『戦争画とニッポン』 [2] が手許にあるので、大いに参考になるだろう。
椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』
(講談社、2015年)。
展示は、見た順序で言えば写真家の師岡宏次、画家の向井潤吉、宮本三郎、久永強の作品で構成されている。師岡宏次の写真作品は、戦時下の農村の人々表情を写し取った作品や、敗戦直後の銀座のいわば戦争の傷跡を写しとったものであった。また、久永強の作品は、『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』 [3] に収められた作品の一部で、シベリア抑留体験を描いたものである。師岡、久永の主題は、従軍画家として戦地に赴いて戦争そのものを描いた向井潤吉や宮本三郎とはその直接性において異なっている。
久永強の作品は、2013年の秋、世田谷美術館で『アンリ・ルソーから始まる――素朴派とアウトサイダーズの世界』という美術館で見た後、画文集『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』を取り上げて少しばかり感想をまとめているので、ここでは向井潤吉と宮本三郎の絵について書いてみようと思う。
向井潤吉《凍日》1937年、油彩・カンヴァス、116.0×145.5cm (『向井/小磯』[4] 図版29)。
向井潤吉《漂人》1946年、油彩・カンヴァス、
84.7×42.3cm (『向井』 [5] p. 26)。
向井潤吉《春泥の道》1951年、油彩・カンヴァス、49.0×59.5cm (『向井/小磯』図版14)。
向井潤吉アトリエ館の『向井潤吉 異国の空の下で』展覧会は、パリ留学中の作品もあったが、もっぱら戦後の風景画の作品を見る機会であった。その時には、いわゆる「戦争画」ということばかりではなく、戦争そのものに関連したことがらを絵の中に見出したということはまったくなかった。
この展覧会では、4点の油彩画と7点の素描画の向井潤吉作品を展示していた。素描作品には、《兵隊》や《(軍用機の中)》という作品があって、たしかに従軍画家でなければ書けない主題だが、私から見れば、「賛美」や「協力」することとは関係なく、画家がその現場にいれば自然と描くような素材としか思えないのだった。
油彩画のうち、《凍日》と《献木伐採》が戦時中、《漂人》と《春泥の道》が戦後の作品である。その中で《献木伐採》(私の手元の画集には収録されていなかった)は、もっとも戦争画らしいタイトルだが、実際には数人の森人が大木を切り倒している様子を描いていて、《凍日》のヴァリアントの主題と言ってもいい作品である。ここでも、私には戦争の匂いを強く嗅ぎ分けることができないのである。
『戦争画とニッポン』には向井潤吉の《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》を収録されていて、椹木が「あれほど劇的な戦争画を描いた」(『戦争画』 p. 48)と向井を評している。その絵は、バターン半島に侵攻した日本軍の勝利を描いたもので、進軍する日本兵と虜囚となったアメリカ人兵士(とフィリピン人兵士)の集団を一人の日本兵が軍用車の運転席から立ち上がって睥睨している図柄である。いわば、「バターン死の行進」という歴史的悲惨(戦争犯罪)に至る直前の日本の勝利を讃えた作品である。
向井潤吉《坑底の人》1942年、油彩・カンヴァス、130.8×161.6cm (『向井/小磯』図版23)。
いわゆる「戦争画」を見ることを期待していたわりには拍子抜けしてしまうような展示だったが、参照の為に眺めた『20世紀日本の美術17巻 向井潤吉/小磯良平』[4] という画集の中には、《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》ほど「戦争画」らしくないにしても、いくつかの戦場を描いた作品が収められていた。そのなかで、戦場そのものではないが《坑底の人》に強く戦争を感じた。坑道で働く人がまるまる戦う兵士の姿のようであるというばかりではなく、銃後で働く日本人に覆いかかる戦争というものを考えさせるものがある。
坑夫が勇敢な兵士に見えてしまう私にとって、軍国主義に真っ黒に染まって戦時を突っ走った日本人と、激しい圧迫のもとで厳しい労働に追いやられる日本人が合わせ鏡のそれぞれに映っているように見えるのである。
向井潤吉の《献木伐採》という実作品と《坑底の人》という画集収録作品を見て思ったことは、仮にこの画家に戦争賛美、戦争協力の意図があったにせよ、画家としての才能(技量)が描き出した現実には巧まずして反戦の表象を内在させてしまうことが想像以上に多くあるのではないか、ということだった。
しかし、一方で、それは観者の側の問題でもあるだろう。《献木伐採》や《坑底の人》を見て戦意を高揚させた人々がいたからこそ、向井潤吉は「戦争画」を描いた作家として評価(批判)されたはずなのである。つまりは、私たちは私たちの政治意識、歴史認識を超えて絵画作品を受容することはない、という必当然な結論を受け入れざるをえない。
宮本三郎《飢渇》1943年、油彩・カンヴァス、130.0×97.2cm
(『宮本』 [6] p. 32)。
宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年、油彩・カンヴァス、
180.7×225.5cm (『宮本』p. 30)。
《山下、パーシバル両司令官会見図》の下絵や《海軍落下傘部隊メナド奇襲》の下絵など典型的な戦争画も展示されてはいたが、宮本三郎の作品を見た感想もまた、ほぼ向井潤吉の場合と似ているものだった。それは何よりも《飢渇》の強い印象による。左腕を負傷しながら満帆のリュックを背負って行軍中の日本兵が飢えに堪りかねて泥水を啜ろうとしている。その水に映った兵士の目の異様な輝きに恐れを感じてしまうほどだ。
《飢渇》を見た一瞬、これは優れた反戦画ではないか、そう思ったのである。そう思ってしまうと、《山下、パーシバル両司令官会見図》もまた、その現場に報道記者がいたら報道写真として写し取っていた場面というだけではないかと思えるのである。もちろん、マレー半島における勝利をおさめた日本軍の将軍たちと敗北した連合軍の将軍たちをそれらしく描くことで戦争画として十分な役割を果たすのだろうが、威厳ある山下将軍に軍国主義の象徴を、ラフな服装のパーシバル将軍に自由主義国家の象徴を見ることさえできるのではないかと、私は思うのである。
戦争画を期待していたのだが、(私の受け止め方の問題かもしれないが)展示されている絵画作品の中に単純簡明な戦争協力、戦争賛美を見ることは私にはできなかった。展示されていなかった向井や宮本のいわゆる典型的な「戦争画」の実物を眺めることができたらどう感じるかは定かではないが、少なくとも「戦争画」と呼ばれる絵画作品を批判することと、戦争に協力した画家(芸術家)を批判することを混同させてはならないということだけは確かだ。
ある画家がなぜ戦争画を描くか(描いたか)ということについて、椹木野衣が宮本三郎を巡って語った言葉が興味深い。
宮本は、戦争画を「頼まれ仕事」と言っていたこともあるようなんですが、その一方で「面白いから描くんだ」という言葉も残しています。さらに、戦後には「あの戦争に過ちがあったかもしれない。けれども、もう一度、ああいう環境に仮に再び私が生存したら、もう一度同じ過ちを犯すだろう」とも言っている。要するに過ちだったかもしれないけれど、絵に対しての反省ははしない、ということですね。 (『戦争画』 p. 47)
宮本はヨーロッパに留学して研鑽を積んだので、西洋における戦争画の重要性を肌で感じてきたはずです。だから、戦争が終わって戦争画が描けなくなり、いくら得意の裸婦に戻ったとはいえ、戦争画を描いたことを根本的には懺悔していないのだから、心の空洞というのはすごくあったのではないでしょうか? 歴史的には誤りかもしれないけれど、一旦は美術史の核心に迫れたのに、今は女の裸を描くしかない自分という、何か自虐にも似たものを宮本の裸婦像から感じるんです。 (『戦争画』 p. 48)
その評価はどうであれ、人類は歴史的に様々な戦争、闘いを経験してきた。その歴史的、ドラマティックなシーンを描いた雄大な絵画は、少なくともヨーロッパの美術館では普通に見られる。そして、少なくともそのような絵画を戦争画として批判的に紹介している例を私は知らない。
歴史的な大転換の場に立ち会った画家がそれを作品として具象化したいという欲求は当然のような気がする。歴史的な重要な場面に出くわしたカメラマンがその対象にカメラを向けないなどということがあろうか。描かれた作品、写し取られた写真に作家のイデオロギーや精神性が反映されるのは当然かもしれないが、その精神性が作品の価値を保証するわけではないこともまた自明であるが。
たとえば、社会主義や共産主義によって社会変革を目指した熱気にあふれた時代に社会主義リアリズムという芸術運動があったが、その思想のもとで生産された「芸術作品」の多くはじつにつまらないものだった。その思想にもかかわらずなのか、その思想ゆえになのか、私にはつまびらかにする力量はないけれども、少なくとも私の若い時代の経験は(芸術)思想が作品の価値をけっして保証しないという歴史的証明のようなものであったことは間違いない。
しかし、そのようなことが、芸術家が戦争を賛美し、人々を戦争に鼓舞することにどのようなエクスキューズをも与えるわけではない。人間としての倫理的責任を芸術作品が肩代わりできるはずがないのである。カラヴァッジオの作品が西洋絵画を代表する傑作だからといって、彼が殺人者であることのエクスキューズにはならないのである。
[1] 『会田誠展:天才でごめんなさい』(森美術館、2012年)。
[2] 椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』(以下、『戦争画』)(講談社、2015年)。
[3] 久永強(絵・文)『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』(福音館書店、1999年)。
[4] 『20世紀日本の美術17巻 向井潤吉/小磯良平』(以下、『向井/小磯』)(集英社、1986年)。
[5] 『向井潤吉アトリエ館 名品図録』(以下、『向井』)(世田谷美術館 向井潤吉アトリエ館、2012年)。
[6] 『宮本三郎の仕事』(以下、『宮本』)(世田谷美術館、2014年)。
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