かわたれどきの頁繰り

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【書評】ネグリ&ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)

2013年08月25日 | 読書

 

 2011年は、私たち日本人にとってはなによりも〈3・11〉の東日本大震災であり、それに続いた東京電力福島第1原子力発電所の原子炉溶融という想像を絶する人災事故が広大な国土を人の住めない放射能汚染地域に変容させてしまったとともに、何十万人もの人々を未来に続く生命の危機に陥れた年としてずっと記憶されるだろう。

 一方、世界的規模に目を転じれば、2011年には政治・歴史的に特筆すべき出来事が連鎖的に発生した年でもある。世界各地で起きた出来事の中で、最も印象に残るのが2011年9月19日にニューヨークで「ウォールストリートを占拠しろ(Occupy Wall Street)」という合い言葉のもとに起きた「オキュパイ運動」である。
 世界経済を蹂躙した米国金融業界を吊し上げるべく1000人規模で始まったこのオキュパイ運動はきわめて象徴的にウォール街から始まり、9月19日の最初のデモから一か月もしないうちに全米30都市に広がった。そこには資産を占有する1%に対する99%の抗議の意志の強さと広がりが示されていた。
 この「オキュパイ運動」は、けっしてアメリカ合州国で孤立して発生したわけではない。「オキュパイ運動」以外の世界での一連の出来事は以下のように生起していった。

 二〇一一年は、二〇一〇年の暮れには始まっていた。二〇一〇年三月一七日、チュニジア中部の都市スィディ•ブーズィードで、コンピューター科学の学位を持っていたと一部で報道された二六歳の露天商ムハンマド・ブーアズィーズィーが焼身自殺を遂げた。その月の末までに「ベン=アリ、出て行け(デガージュ)!」と訴える大衆叛乱が首都チュニスに広がり、そしてじっさい、一月半ばにはザイン•アル=アービディーン・ベン=アリーは亡命してしまった。
 ついでエジプトがこのバトンを引き継いだ。二〇一一年一月末には何万、何十万もの人びとが定期的に街に出て、ホスニ・ムバラクも出て行けと訴えた。カイロのタハリール広場がわずか一八日間占拠されただけで、ムバラク政権はあっけなく崩壊した。
 抑圧的な体制に対する抗議は、あっという問に北アフリカや中東の他の国々にも広がった。この抗議はバーレーン、イエメン、そして最後にはリビアとシリアへも広がったが、チュニジアとエジプトで起きた最初の火花はさらに遠く離れた地域へも飛び火した。二〇一一年二月と三月に米国ウィスコンシン州議会議事堂を占拠した抗議者たちは、カイロの仲間たちとの連帯の意を、そして彼らへの共感の念を表明したのである。
 しかし決定的なステップは、五月一五日にスペインのマドリードとバルセロナの中央広場がいわゆる「憤激する者たち」によって占拠されたときに始まった。スペインの泊まり込み抗議運動はチュニジアとエジプトの叛乱に着想を得て、新しいかたちで自分たちの闘争を前進させた。彼らは、ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロが率いる社会労働党政権に対して「真の民主主義を今こそ!」と訴え、あらゆる政党の代表を拒絶した。そして広範にわたるさまざまな社会問題へと抗議の矛先を向けたのである。それは、銀行の腐敗から失業へ、不完全な社会的サービスから不十分な住宅供給と不当な立ち退きにまで及んだ。  (p. 11-2)

 本書では、2011年に始まる「反逆」の歴史的意味を明らかにしつつ、マルチチュードによる民主主義革命の可能性を論じている。
 もちろん、2013年8月現在のエジプトに見られるように、民主主義への変革はけっして成功しているとは言えないし、必ずしも希望に満ちているわけではない。若者を中心としたマルチチュードとしか呼びようのない人々による民主主義を求める運動は確かにムバラク政権を倒したが、その運動の成果は宗教党派に掠め取られた。
 大衆運動はその構成的権力確立の過程で政党に運動の成果を盗まれるというのは歴史的には当然のような成り行きであって、構成的権力をどう生み出していくのかも、本書の重要な論点になっている。

 もともとエジプトにおいては、ムバラク独裁は歴史的には軍事独裁と等価であって、軍をそのまま温存した民主主義改革は、今日の軍事クーデター政権の可能性を強く示唆していた。
 大衆運動の結果を掠めて成立したイスラム政権は「イスラム独裁」であって、当然のようにその政権への民主主義要求の反乱はふたたび生じることになった。その機に乗じて、明示的であれ暗示的であれアメリカ合州国政府の支持を得たエジプト軍は軍事クーデターに乗り出した。
 各国政府やジャーナリズムが「クーデター」と呼んでいるのに、世界における周辺国家の民主主義を憎悪しているかのようなアメリカはそれをけっして「クーデター」とは認めないことで、エジプト軍は曲がりなりにも選挙で選ばれた「民主主義政権」を打倒することに成功した。
 この道筋は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン[1] やノーム・チョムスキーの『覇権か、生存か』 [2] に書かれたアメリカ合州国の世界戦略の道筋からは当然とも言える。このことは、本書では明示的に議論されていないが、民主主義を求める反逆が構成的権力を確立する際に受ける政治的・宗教的党派の干渉に加えて、〈帝国〉からの干渉にも立ち向かわなければならないというグローバルな政治課題も極めて重要であることを意味している。 

 「二〇一一年に始まったさまざまな運動は、マルチチュードとしての内部組織を共有」 (p. 15) していて、ジャーナリズムが必死になって探しても、カイロのタハリール広場でもニューヨークのズコシティパークでも運動の指導者(リーダー)を見つけることは難しいのだった。ジャーナリストの頭の中には、古典的な社会主義運動、中央委員会の指令で動き出すような改革運動しかイメージされないようなのだ。
 さて、そのような新しい意味を持つマルチチュードの反逆を記述しようとする本書は、当然のように次のような一文で始まる。

 これはマニフェストではない。マニフェストは来るべき世界を垣間見させ、いまだ亡霊のような存在にすぎないものを変革の担い手として主体化してみせる。マニフェストの働きは、その幻視力(ヴィジョン)によって自分に従う民衆を創り出そうとした古代の預言者のようなものだ。
 今日の社会運動はその順番を逆転させ、マニフェストも預言者も時代遅れのものにした。変革の担い手たちはすでにストリートに降り立ち、街の広場を占拠している。支配者を脅かし権力の座から引きずりおろすだけでなく、新たな世界のヴイジョンを呼び起こしている。 (p. 9)

 マルチチュードは、マニフェストで糾合されるような古典的大衆ではない。つまり、一連の運動のなかには「伝統的な社会主義運動はほとんどみられない」 (p. 18) のである。
 現代日本で「マニフェスト」が意味するのは、実現する意志のない政党の駄文であったり、選挙区でまったく異なる公約という真っ赤な嘘であったりするわけで、ここで語られているマニフェストはそれとは違う。
 マルチチュードが広場に集まるのは、それぞれの立場から〈共〉を求め、そのための民主主義の変革、民主主義への変革を求めているためであって、あらかじめマルチチュードを糾合するようなマニフェストをまったく必要としていないのだ(たとえそれが「共産党宣言」のような深く思想的なものであったにせよ)。

 議論は、マルチチュードたる主体形象を見ることから始まる。それらの主体は四つのカテゴリーに含まれるという。

 新自由主義の勝利とその危機は人びとの経済的・政治的生活の条件を一変させたが、それはまた社会的・人間学的〔=人類学的〕変容を引き起こし、新たな主体形象を作り上げた。金融と銀行のへゲモニーは「借金を負わされた者」を生みだした。情報とコミュニケ—シヨンのネットワークに対する管理は「メディアに繁ぎとめられた者」を創り出した。セキュリティ体制と例外状態の全般化は、恐れにとりつかれ、保護を切望する形象としての、「セキュリティに縛りつけられた者」を構築した。そして民主主義の腐敗は「代表された者」という奇妙に非政治化された形象を作り出した。 (p. 24)

 資本と労働という古典的描像ではなく、この極度に深化した消費社会では金融資本が前面に出て、「今日の搾取は、九九%の人びとが 一%の富裕層に――仕事・カネ・服従を負うというかたちで――従属しているという事実にもとづいているのだ」 (p. 29) というわけである。
 「代表された者」は明らかに民主主義の形骸化、代表制民主主義の形骸化によっている。「代表された者」であるにもかかわらず、私(たち)を代表する誰かが確かに存在するという政治的実感を私(たち)はほとんど持っていない。たとえば、国民の半数以上は原発ゼロを望んでいるし、憲法改正に反対している。しかし、選ばれた代表による政府は「原発推進」、「憲法改正」を進めようとしている。
 どのように考えても代表制民主主義が正しい機能を発揮していると考えることはできない。もちろん、ここには「情報とコミュニケ—シヨンのネットワークに対する管理」によって操作された「メディアに繁ぎとめられた者」としての無自覚な主体形象としての選挙民がいるということだ。

 著者が述べる代表制民主主義の姿は、現代日本で私たちが置かれている「代表される者」の実体そのものである。

 今日、政治参加の構造は不可視化しており(先述したように、政治参加の構造はしばしば犯罪的になっているか、圧力団体によってコントロールされるだけのものになっている)、また代表された者は、メディア・サーカス(報道合戦)の耳を塞ぎたくなるような愚劣な言動によって操作された社会で活動している。彼らは美徳を欠いた不透明な情報の氾濫に苦しんでいる。皮肉なことに唯一、不透明でないのは、応答責任を果たすことがないがゆえにますます卑俗になった富裕者が、あけすけに示す権力のみである。  (p. 53-4)

 さて、そのような主体形象としてのマルチチュードは、マスコミでもしばしば指摘されているようにフェイスブックやツイッターなどのソーシャルメデイアをコミュニケート手段として運動を維持しているとされる。
 しかし、著者によれば、ソーシャルメデイアはたんなるきっかけに過ぎず、「これらのメディアはどれも、身体的に一緒にいることや、現場で交わされる身体的なコミュニケーションに取って代わることはでき」 ず、「占拠に参加した人びとは、そこに一緒に存在することをとおして新たな政治的情動を創出する力能を経験した」 (p. 39) という。反逆の現場を通じて、マルチチュードは、いっそうマルチチュードとなるのだ、と言える。
 このことは、「オキュパイ運動」についてチョムスキーも同様の指摘をしている。

 人々はほんとうに孤立しています。こうした状態は自然に生まれるわけではなく、途方もない労力を注ぎこんでつくりだされたものです。民衆を統制するには、ひとりひとりをばらばらに孤立させ、自分のことで精いっぱい、他の何にも関心をもてないという状態に追い込むのが一番いい。オキュパイ運動は期せずして、その状態から人々を解き放つものなのです。機会さえあれば、人は自然と交流するようになる。ズコシティパークでもこの近くのデューイスクェアでも、とにかくそういった場所に集まってくると、たちまち相互サポートと連帯から成るコミュニティをつくりだし、たがいに協力しあうようになります。 [3]

 二〇一一年に起きた数多くの運動は、代表制民主主義に異を唱えているといってもいい。「民主主義というプロジェクトはいったいどこに行ってしまったのか?」 (p. 58) とマルチチュードは問うているのである。
 そして、著者の信ずるところは、民主主義への「ひとつの道筋は、……貧困化され潜勢力を殺がれた主体形象に抗して、叛乱と叛逆を引き起こすことによって開かれる」ということなのである。

 新自由主義は危機・惨事を作り出し、それに便乗して支配・搾取を強化するというのはクラインが『ショック・ドクトリン』で詳述したことだ。つまり、危機は切迫し、状況は絶望的である、と繰り返し主張して、四つの被支配者主体の状況をさらに悪化させることに同意を迫るのである。
 しかし、四つの主体形象はそれぞれの主体の置かれた状況と自らの力量に応じて反乱を起こしたのが2011年の出来事である。「さまざまな支配関係を打破し、四つの服従させられた形象を再生産するプロセスを引っくり返す、主体的な好機が生みだす結果」 (p. 62) としての出来事なのだ。
 その反逆の闘いの持つ思想的営為、実践的行動の意味について記述をいくつかあげておこう。

 個々人の特異性からなる力能は貧弱にされ、縮減され、その結果、私たちの生は陰鬱で、互いに無関心で差異のないものになってしまっている。けれども私たちは、いまここで、ともに存在している。共同体を生みだす好機と同じく、抵抗を生みだす好機もまさにここにあるのだ。 (p. 64)

 「ともに存在する」ということは、特異なものへと生成変化することだ。なぜなら、特異なものになることは、個人化されることとは対照的に、ともに存在する主体の力をふたたび見出すことを意味しているからである。特異なものとなった主体性が発見するのは、他の特異性とともに集合的な主体性をふたたび合成することなしにはいかなる出来事も起こりえないということである。それはつまり、叛逆することなしに特異な主体性がともに存在することはありえない、ということだ。 (p. 66)

 貧困のなかで疲弊した暴徒の粗野な民衆蜂起や暴力的な怒りの表現を、ズコッティパークの秩序立った占拠者たちとはもちろん、まるでカーニバル隊のようだったオルター・グローバリゼーション運動の抗議者たちとですら、ひとくくりにしてくれるなと思う者たちもいるだろう。けれども、これらの闘いのなかに進んだものと遅れたものがあると考えてはならない。政治的意識は自然発生性から〔自覚的な〕組織化へと向かうという、かつてのボリシェヴィキ的な理論は、もはやここではあてはまらない。貧者の叛逆はどうしたらより良く組織化され、より建設的で、非暴力的になるのかなどという、道徳化を推進するような考え方はいっさい捨て去ろう。 (p. 71)

 ここで中心的な役割を担うのが、政治的組織化の形態である。つまりその形態とは、諸々の特異性からなる脱中心化されたマルチチュードが、水平にコミュニケーションを交わす、というものである(またソーシャル・メディアは、そうした組織化の形態と合致したものなので、マルチチュードにとって有用な働きをする)。今日、デモと政治的行動は、指令を発する中央委員会から生まれるのではなく、数多くの小さなグループが集い、そこで交わされた議論から生まれている。同様に、デモのあと、数々のメッセージが近隣の繋がりを通じて、また大都市に張りめぐらされた多様な回路を通じてウィルスのように広がっているのである。 (p. 75)

「憤激する者たち」は、この闘いを構成的なプロセスというよりはむしろ、脱構成的なプロセス、つまり既存の政治構造からの一種の脱出であると考えている。
 しかしまた同時に、この闘いに不可欠なのは、新しい構成的権力のための基盤を準備することなのである。 (p. 90)

 2011年のマルチチュードの反逆を通じて明確になったことは、「脱構成的なプロセス」としての闘いまでは成功するということである。しかし、反逆は、新しい民主主義的な構成的権力、民主主義を永続的に革新し続ける構成的(=憲法制定)権力を確立することなしには最終的な成功とは言えないだろう。マルチチュードはマルチチュードとしてそのような構成的権力を作り上げることが可能であるのか。それが最も主要な課題である。
 著者は、マルチチュードの反逆に固有の時間性、「自己の時間を管理運営する政治的な自律性」に注目する。

 二〇一一年の闘争のサイクルにおいては、そうしたかつての硬直したリズムの代わりに、速度や緩慢さ、深い強度や表面的な加速性が組み合わされ、混ぜ合わされている。あらゆる瞬間において時間は、外からの圧力や選挙の時期が課すスケジュールから引き離され、それ自身の暦(カレンダー)と展開のリズムを確立することになるのである。
 自律的な時間性というこの概念は、それらの運動がオルタナティヴを提示するものであるという、私たちの主張にこめられている意味を明らかにするのに役立つ。オルタナティヴとは、権力のプログラムとたんに対立するだけの行動・提案・言説のことではない。むしろそれは、権力のプログラムとは根底的に非対称をなす立脚点にもとづく、新しい装置のことなのだ。 (p. 100)

 構成的な運動の有する緩慢な時間性――それを典型的に表しているのは、さまざまな集会での討議だ――によって、知識や専門的技能を(コントロールすることに加えて)普及させ表明させることが可能になり、また、それらの普及と表明が強く求められるようになる。……泊まり込んで抗議をつづける人びとは、交渉を重ねて知識と意志を複合的に構築することを通じて構成的な仕方で決定を形づくるのだが、それには時間がかかる。単独の指導者や中央委員会が決定を下すわけではけっしてない。
 多くの場合、意思決定の手続きがゆっくりと時間をかけて複合的に進められていくことで、知識や専門的技能の普及をその土台とするような新たな構成的運動と、旧来のものとのあいだの人間学的(ないしは存在論的)な差異が際立ってくる。スペインの憤激する者たちとウォール・ストリー卜の占拠者たちは、こうした複合性を表す力強い実例であり、彼ら彼女らはその言説と行動において、現行の政治的生活形態(代表制や選挙方法など)に対する批判と社会的不平等に反対する抗議活動、そして金融による支配への攻撃とを組み合わせているのである。 (p. 102-3)

 確かに、反乱現場にいる多数のマルチチュードが経験する集団の固有時がもたらすであろう〈共〉意識が、構成的権力への道筋を生み出す可能性は高いし、それに期待するしかないだろう。しかし、著者の現状認識は厳しい。

 警察と秩序の力が攻撃を仕掛けてきて、彼ら彼女らを追い払おうとしているときに、対抗権力とはいったい何を意味し、またその場合、どのような力を行使することが適切なのだろうか? こうした問いに対しても私たちは満足のいく答えを持ち合わせてはいない。ただ、忍耐強く進められる構成的プロセスは、即座に行動することのできる対抗権力によって補完されなければならないという確信を抱いているだけである。 (p. 110)

 そして著者は、様々な実例、提案を示す。それらは、マルチチュードが現代世界の被支配者の主体を自覚的に生きることとしての反逆、その具体的なプロセスが必ずや新しい解答を生み出すだろうという期待に満ちている。一つの被支配的主体形象による反逆が異なった主体形象の反逆を誘起し、それらの水平的コミュニケーションと固有な時間性の中での討議が必ずや構成的権力への道筋を見出すだろうと確信されているのだ。
 運動の力の簒奪をはかる政党は必ず現われるだろう。彼らは運動の一定時期は味方(擬装かもしれないが)ですらある。マルチチュードの反逆は、彼らの思惑を超えて行くことができるだろう。

 私たちに必要なのは、左翼の教会を空っぽにし、その扉を閉ざし、それを焼き払うことなのだ! それらの運動は、指導者を欠いているにもかかわらず強力なのではない。そうではなくて、まさに指導者を欠いているからこそ強力なのだ。マルチチュードと同じく、それらの運動は水平に組織される。そして、あらゆるレベルで民主主義の重要性が強調されるのだが、それはたんなる美徳を超えたもの、言いかえれば、運動が保持する権力の鍵にあたるものなのだ (p. 191-2)

 最後にふたたび著者は、2011年の反逆、出来事の意味と意義を確認する。

 二〇一一年の闘争のサイクルと、近年における他の無数の政治運動を活気づけたマルチチュードが、組織化を欠く、無秩序な存在ではなかったということは、改めて言うまでもない。じっさい、組織化の問題は、それらの闘争や運動において議論され、実験された、もっとも重要な主題だったのである――すなわち、どのようにして集会を運営するのか、どのようにして政治的な不一致を解決するのか、どのようにして民主的な仕方で政治的な意思決定を形づくるのか、というように。
 変わらぬ熱情をもって自由、平等、〈共〉の原理を守りつづけている人びとにとって、今日もっとも重要な課題は、民主主義社会を構成することなのだ (p. 193)

 

[1] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン ―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店、2011年) 。
[2] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か ―アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社新書、2004年)。
[3] ノーム・チョムスキー(松本剛史訳)『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)p. 185。


原発を詠む(7)――朝日歌壇・俳壇から(2013年6月17日~8月5日)

2013年08月05日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

風薫るサツキ、サザンカ、ハクチョウゲ根こそぎ掘られ除染進行
                   (福島市)伊藤緑   (6/17 野公彦選)

「神明町は除染済みました」日常の挨拶になりし切ない言葉
                  (郡山市)昆キミ子   (6/17 野公彦選)

原発の事故と補償で揺れている国の首相が原発を売る
                  (東久留米市)田村精進   (6/24 永田和宏選)

種が継ぎスミレ苧環花ざかり放置のままの除染待つ庭
                  (福島市)澤正宏  (7/1 馬場あき子選)

原発を笑みもてセールスせし首相この国どこへ導くならむ
                  (神奈川県)堀江照子   (7/8 野公彦選)

そこかしこまっさらの土敷かれいて他人顔なる除染後の街
                  (福島市)美原凍子  (7/15 馬場あき子選)

汚染土の保管に掘った穴の底蝉の子ぽつり戸惑い歩
                  (福島市)伊藤緑  (7/15 馬場あき子選)

怖るべしチェルノブイリの廃炉まつ二十七年コンクリの棺
                  (相模原市)松波善光   (7/15 佐佐木幸綱選)

わが家まで七キロと近づく検問所にて服を着替える防護服にする
                  (東京都)半杭螢子   (7/22 佐佐木幸綱選)

四畳半の仮設に暮らし足るを知る半夏生の今日米寿迎えたり
                  (いわき市)佐藤美二   (7/29 佐佐木幸綱選)

原発の稼働をせかす一派来て霊峰米山顔を曇らす
                  (長岡市)佐藤正   (7/29 佐佐木幸綱選)

これがまあ民主政治か私語一つなくて除染の説明を聞
                  (福島市)武藤恒雄   (7/29 佐佐木幸綱選)

タンポポとハハコグサとの色のみの除染の公園土まだむきだし
                  (福島市)斎藤一郎   (7/29 野公彦選)

熔け落ちし燃料棒は如何ならん朝顔の咲く紺深く咲く
                  (福島市)青木崇郎   (8/5 野公彦選)

参議院選禊となって再稼働一気に進むそんな気がする
                  (西海市)前田一揆  (8/5 佐佐木幸綱選)

再稼働急ぐ人等に預けしは小さき命と思えてならぬ
                  (門真市)奥中渓水  (8/5 佐佐木幸綱選)

津波だけだったならばと思う事多多ある日々に再稼働何故
                  (行方市)鈴木節子  (8/5 佐佐木幸綱選)

原発の無き岐阜の地でノーを言ふ坂本龍一神出鬼没
                  (岐阜市)後藤進  (8/5 佐佐木幸綱選)

足跡が庭の何処かに残りしはず除染で削られる夫の歩きし土
                  (郡山市)昆キミ子  (8/5 佐佐木幸綱選)

仕事だから浜の百棟を壊したと語る男の声弱々し
                  (福島市)澤正宏  (8/5 佐佐木幸綱選)

 

 

夏つばめ被爆の空を反転す
             (行田市)藤田栄之   (6/17 金子兜太選)

六月の牛鳴いてゐる被災村
             (福島市)池田義弘   (7/8 金子兜太選)

農は捨て妻子は戻らぬ梅雨寒し
             (南相馬市)吉岡朝雄   (7/15 金子兜太選)


『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール ――光と闇の世界――』【図録】(国立西洋美術館・読売新聞社、2005年)

2013年08月02日 | 鑑賞

 7月23日の夜は、京都・烏丸五条のホテルの2泊目だった。姉の胃癌手術で一日中病院に詰めていた。末期がんの一歩手前で、摘出が可能かどうかは開腹してみなければ分らないという状況で朝8時半に手術室に入った。昼ちょっと前にようやく摘出手術に入るという連絡があって、最悪の事態の中のさらなる最悪はなんとか避けられて、午後3時頃に手術が終った。

 ベッドに入る前のボトル半分ほどのワインもたいして功がなく、眠りが浅い。午前1時半頃にすっかり目覚め、どこか体の芯が疲れているのにどんどん目が冴えていくので、テレビを付けてみた。NHKBSにチャンネルを移したら、1枚の絵が大写しにされていた。
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《大工の聖ヨセフ》の子どもの右手に持つ蝋燭の光が左手を透かしているという絵である。光で透ける指に目を奪われたのだ。

 ラ・トゥールという名は聞き慣れている感じがするものの、私の知っているそれはボルドー・ワインのことで、そういう名前の画家はまったく知らなかった。ベッドから起き出して、ネット検索をしたら仙台市立図書館にラ・トゥールの画集があるという。2005年に国立西洋美術館で開催された「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」の図録である。
 仙台に帰ってから、その本を借りだした。「内部資料」というラベルが貼られていてごく最近閲覧図書になったという。こんな偶然でラ・トゥールに行きつくことになった。

  
   《大工の聖ヨセフ》(ルーブル美術館所蔵作品の模作)油彩、カンバス、126×106cm、
    ブザンソン(フランス)、市立美術・考古学博物館(図録、p. 91)。

 テレビで見た《大工の聖ヨセフ》はルーブル美術館にある真作で、「ラ・トゥール展」では模作が展示されたらしく、図録の絵は模作である。テレビで見たり図録写真で見たりと、いずれにしても真作か模作かが問題になるような鑑賞はしていないのだが、図録には参考として真作の写真も載っていた。

        
           《大工の聖ヨセフ》油彩、カンバス、137×102cm、
            パリ、ルーブル美術館(図録、p. 172)。

 写真で見る限り、きわめて良くできた模作と思われる。蝋燭だけが光源の絵で、蝋燭が浮かび上がらせる小さな空間以外はすべて闇である。このような構図には特別に惹かれる要素がある。一つは視線の向かう先に迷いが生じないこと、あるいは闇の中の狭い空間のなかの人や物の存在感が濃密に感じられること、一瞬を切り取っているにもかかわらず過去と未来の時間が圧縮されたような時間感覚が生じること、などがこのような絵の魅力を生み出しているように思える。

 手指が蝋燭の光に透けて見えること自体は、物理的には何の不思議もない。可視光が手の平をまっすぐ突き抜けることはないけれど、乱反射しながら何とか通り抜けることはできる。だからX線のように骨の形などは写さずに、ぼーっと光を感じるように透ける。ごく普通のことなのだが、このように描いた絵を私は知らなかったので、驚いたのである。光源は蝋燭だけに徹底していることと、そのリアリティの凄さに目を奪われた。
 ふつう、芸術家が見る場合であれ、凡庸な私(たち)が見る場合であれ、写実とか「見えたまま」のリアリティとかいっても、いわば錯視を内包した観測であることは避けられない。むしろ、その錯視のありようの共同性が客観的事物の形象に芸術的余剰を与えているのではないかとすら思えるのである。

 
  《聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)》油彩、カンバス、93×81cm、
   ナント(フランス)、市立美術館(図録、p. 87)。

 《大工の聖ヨセフ》のように蝋燭の光だけで描かれた絵は、ラ・トゥールの「夜の情景」の絵として分類されているらしい(当然のように「昼の情景」もある)。

 「夜の情景」の絵の代表作と模されているのは、《聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)》である。絵の題は、後世に解釈として付与されたものに過ぎないが、この題意にしたがえば、幻想世界の写実的描写ということになる。作品解説は、「対峙するように描かれたふたつの存在は、希望に満ちた子供と運命を甘受する老人の対比でもある。少年でも少女でもなく、現実のものとも非現実のものともつかない天使は、空想的な衣装をまとう姿で描かれ、その確かな存在感が、言葉では言い尽くせない詩情を作品に与えている」 (図録、p. 86) と述べている。

 「天使のリアリティ」というのは少なくとも私(たち)にとっては奇妙な概念である。客観的存在ではなく宗教的存在である。そのため、ほとんどの画家が描く天使には概念的美化が伴う。それに対して、ラ・トゥールの絵の特徴は対象を美化しない美意識にあるのだ、と私は思う。錯視などけっして認めないというような意志を感じるのだ、それがたとえ不可能であっても。

 
  《書物のあるマグダラのマリア》油彩、カンバス、78×101cm、
   ヒューストン、個人蔵(図録、p. 83)。

 《書物のあるマグダラのマリア》も「夜の情景」である。同じようなモチーフのマグダラのマリアの絵がたくさん描かれている。それらのどの絵も、けっしてマリアの表情を描こうという意志は働いていないようだ。表情によってではなく、光と闇、弱い光が浮かび上がらせる構図によって信仰への強い想いを描こうとしているのか、あるいは、ひたすらマグダラのマリアは美の空間を構成する画材に過ぎないのであろうか。「凝縮された時空」というのが「夜の情景」作品群の特徴であると私は思い、それゆえに信仰者は凝縮された信仰心を見ることが可能になるのではないかと思う。それは画家の意図を超えた絵の力かもしれないのである。


左:ラ・トゥール《ランプをともす少年》油彩、カンバス、61×51cm、ディジョン(フランス)、市立美術館(図録、p.93)。
左:エル・グレコ《燃え木で蝋燭を灯す少年》1571-72年頃、油彩、カンヴァス、60×49 cm、コロメール・コレクション [1]。

 《ランプをともす少年》は、エル・グレコの《燃え木で蝋燭を灯す少年》との対比で紹介されている。《燃え木で蝋燭を灯す少年》は、「エル・グレコ展」の作品解説で「後のカラヴアッジョ派の夜の室内画を思わせるような、光の劇的な効果に主眼を置いた作品」 [2] と評されていて、私自身は「エル・グレコ展」を見た後で、「はっきりした物語性は描かれていないものの、何らかの物語(それがどんな物語かは措くとしても)の始まる予感が感じられて、私の感情が揺すぶられるのだ」と書いたことがある。 《ランプをともす少年》はさらに光の使い方を極端にした描き方である。視線と意識は1点に集中し、その点に向けて過去の時間が収束し、その点から未来の時間が放射していくように感じられるのだ。どんな美化もなく描くがゆえにいっそうその感じが強い。

 さて、ラ・トゥールには「昼の情景」の作品群がある。もともと、2005年の「ラ・トゥール展」は、国立西洋美術館がラ・トゥールの「昼の情景」群の一つである《聖トマス》を購入したことがきっかけで開催されたということである。
 1593年に当時はまだフランスの一部ではなかったロレーヌ地方の町ヴィック=シュル=セーユに生まれたジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、17世紀にはきわめて評価の高い画家だったらしく、それは模作の多さでも窺い知ることができる。しかし、その後2世紀近く忘れ去られた画家で、20世紀初等に再発見されてから、その世界的評価はきわめて高くなったのだという。国立西洋美術館の高橋明也は、展覧会開催時点での「この作家のあまりにも大きな国際的評価と我が国での知名度の低さとの乖離」 (図録、p. 11) を指摘している。私もまた、日本における知名度の低さに寄与した一人である。

    
      《聖トマス》油彩、カンバス、65×54cm、ヒューストン、東京、国立西洋美術館(図録、p. 37)。

  《聖トマス》は、キリストと十二使徒を描いた連作の一つで、画家の初期の画業であるという。アトリビュートとして槍が描かれているが、聖トマスは伝道に赴いたインドで槍に刺されて殉教したと伝えられている。ここにはいかなる美化も与えられない聖者がいる。喜びや安らぎのかけらもなく、苦悩に満ちて人生を積み重ねた「老い」が容赦なく描かれている。
 ジャン=ピエール・キュザンは、ラ・トゥールへの影響を云々される北方の画家たちと対比させて「北方の画家たちにはラ・トゥールと同じような力強さと高貴さ、洗練と色彩の大胆さを見出すが、彼以上に慎ましく率直な優しさと人間の悲惨さへの関心、さらに登場人物へのより強い暗黙の共感が見られる。ラ・トゥールは冷たく、おそらく意地悪で、無関心であった」 (図録、p. 29) と述べている。
 ラ・トゥールにとってすべては画題としての客観的な存在物であって、おそらくは心情を注ぐような自らの人生の随伴者(者)のような対象ではないのであろう。


   左:《聖アンデレ》1620-25年、油彩、カンバス、62.2×50.2cm、
     ヒューストン美術館(個人コレクションより寄託)(図録、p. 41)。

   右:《聖小ヤコブ》油彩、カンバス、65×54cm、アルビ(フランス)、
     トゥールーズ=ロートレック美術館(図録、p. 43)。

 《聖アンデレ》と《聖小ヤコブ》もそれぞれ「キリストと十二使徒」の一つである。どの使徒像も、アトリビュートとともに伏し目がちの姿が描かれている。当たり前のことだが、すべては画家の想像の中から生まれてくる。想像力の中の冷徹な写実性と呼ぶべきか、そのリアリティが個々の使徒の個性を際立たせている。
 想像の中での姿形を写実的と呼ぶべきかどうか戸惑ってしまうが、「ラ・トゥールが好んで表わした禁欲的で寡黙な農民の像は、この《聖小ヤコブ》の姿に最も凝縮された典型的な形で結実している」 (図録、p. 42) と評されていることはこの機制を明らかにしてくれるのではなかろうか。想像の中の聖人像は身近の農民の姿に重ねられ、一人一人の農民像はそれぞれの聖人の姿に結像している。そのようにして写実は徹底され、徹底の余剰としての宗教的リアリティが生まれている、と私には思える。

     
        《犬を連れたヴィエル弾き》油彩、カンバス、186×120cm、
         ベルグ(フランス)、市立美術館(図録、p. 55)。

 写実性がふさわしい対象を得たとき、物語性が際立つ例が、《犬を連れたヴィエル弾き》ではなかろうか。老いた盲目のヴィエル弾きが演奏しながら歌っている。足下には盲導犬の仕事をする相棒であろう小さな犬が、怯えたような目をして伏せている。物語は完結している。

 生きている間にジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵の実物を見ることができるかどうか覚束ないが、《大工の聖ヨセフ》や《犬を連れたヴィエル弾き》という絵がこの世に存在することを知り得たことだけでも良しとしよう。

 ただの判官贔屓だけれども洗礼者ヨハネ好きの私としては、ラ・トゥールの《荒野の洗礼者聖ヨハネ》を最後に見ておくことにする。

 
    《荒野の洗礼者聖ヨハネ》油彩、カンバス、81×101cm、ヴィック=シュル=セイユ(フランス)、
    県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館(図録、p. 121)。

 

[1] 『エル・グレコ展』【図録】(NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2012年)p. 35。
[2] 同上、p. 34。