レヴィナスの倫理はすでに宗教なのだ。
ジャック・デリダ『死を与える』 [1]
エマニュエル・レヴィナスという哲学者を、私は、長い間、知ることがなかった。初めてその名を意識したのは、7,8年前に読んだ『死を与える』で、ジャック・デリダがヤン・パトチュカの『異教的詩論』の読解を通じて、ヨーロッパ的(キリスト教的)責任論を論じながらレヴィナスを参照していたときである。しかし、そのときの私の関心は、その後で論じられる旧約聖書のアブラハムの試練についてであった。
デリダは、アブラハムの試練を論じたゼーレン・キルケゴールの『おそれとおののき』 [2] の読解を展開しているのだが、若いときに全集本を購入してキルケゴールを読みふけった身としては、何十年ぶりかでキルケゴールの『おそれとおののき』の理解に到達したような気分(あくまでも気分だけだが)になったのだった。聖書とキルケゴールとデリダの本を並べて、どことなく満足していたのだ。
結局、デリダの『死を与える』では、キルケゴールのことばかりが印象に残って、パトチュカの名もレヴィナスの名も霞んでしまっていた。
レヴィナスの名前との二度目の遭遇は、ジュディス・バトラーの『生のあやうさ』という本である。バトラーは、〈9・11〉後に起きたアメリカ合州国でのグアンタナモ基地に拘束されているモスレムやイラク侵略戦争時におけるアブグレイヴ刑務所でのイラク人に対する非人道的な虐待、拷問を強く批判する中で、人間の根源的な倫理を語る際にレヴィナスを引用している。
エマニュエル・レヴィナスの考えによれば、倫理とは生の脆さ(プレカリアスネス)に対する危惧に依存している。それは他者の脆弱な生のあり方の認知から始まる。レヴィナスは「顔」に注目し、それが生の脆さと暴力の禁止をともに伝える形象であるとする。攻撃性は非暴力の倫理では根絶できない。レヴィナスはこのことを私たちに理解させようとする。倫理的闘争にとって人間の攻撃性こそが絶えざる主題なのだ。攻撃が押さえ込もうとする恐怖と不安、これらを考察することで、レヴィナスは倫理とはまさに恐怖や不安が殺人的行為にいたらないように抑えておく闘いにほかならないと言う。レヴィナスの議論は神学的で、神を源泉とする倫理的要求をたがいに突きつける人間の対面を引きだそうとする。 [3]
レヴィナスの「顔」という概念に強く引かれた。人倫について語るとき、レヴィナスを知っているかどうかというのは決定的ではないか、そう思ったのだ。バトラー贔屓なので簡単に影響を受けたのである。
しかし、どう読んでもレヴィナスは難しい。難しい思想なのかもしれないが、まず語り口が難しい。一時は、翻訳が悪いのではないかと疑ったくらいに理解しにくい。図書館でレヴィナス解説本らしき『他者と死者 ――ラカンによるレヴィナス』という内田樹の本を開いてみたら、まえがきでいきなり「私はレヴィナスについてはかなり長期にわたって集中的な読書をしてきたが、いまだにレヴィナスが「ほんとうは何を言いたいのか」よく分からない」 [4] という文章が目に入ってくる。内田樹にしてそうならば私には無理だ、レヴィナスは諦めようと私の心は定まりかけた。
幸なのか不幸なのか定かではないが、内田樹の著書の隣に本書のサロモン・マルカ著『レヴィナスを読む』が並んでいた。内田樹訳だったので、手にとって訳者あとがきを眺めると、次のようなことが書いてある。
このなかからまずマルカを選んだのは、本人が書いているように、彼が専門の哲学者ではなく、レヴィナスの教え子であり、その人間に接して深く傾倒しているという、どちらかと言えば研究の中立性を損なうような要因に着目したからである。
私たちがマルカに期待しているのは、とってつけたような客観性ではなく、もっとなまなましいものである。レヴィナスがフランスの青年ユダヤ知識人の目にどのような人物として映じているのか、その威信と影響力はいかばかりのものであるのかを知ろうと思って読む限り、マルカの「党派性」は、本書の資料的な有用性を損なうものではないと思う。 (p. 181-2)
「師に仕える」とは、師のもらす片言隻語のうちに、師の起居動作のうちに珠玉の叡智が宿っていると信じる関わり方のことである。それはひとりの哲学者の思想的な深さや精密さを客観的に評価するためのポジションではない。客観性を代償とすることによってしか得られない知見というものが存在する。私たちは師に仕えてそれを学ぶのである。 (p. 184)
私は「師に仕える」という生き方をしない。尊敬する人も、かつて教えを受けた人も大勢いるが、いわば「帰依する」ようなあり方で接したことはない。「客観性を代償とする」ということができないのである。もちろん、帰依しなければ到達できない「智」というものがある(らしい)ことは知っているつもりだが、論理学をベースとする哲学の本でここまであからさまに断言していることに妙に感心した。
「研究の中立性を損なうような要因に着目し」て、マルカの本を訳することにした、という意味のあまりのけれん味のなさに驚いて、つい本書を借りだしてしまった。なんか、引っかけられた気がしないでもないが、これが、『レヴィナスを読む』を読むきっかけである。レヴィナスを理解したいなどという気持ちから少しならず脱線しつつある。
ロシア文学とドイツ哲学とフランス文化を滋養とし、へブライ語の聖書とアラム語のタルムードとで骨格を形成されたこの同時代人は、私たちの巡歴の物語をその始めから語り直し、私たちに踏み行ってゆくべき「扉」(Baba)を改めて教えてくれます。顔の出現。私たちの観念に到来する神。私たち自身に対する忠誠。書物の偉大さ。古代の文典に隠された宝庫。彼の民族の狂気の、そして崇高なる冒険。問いは普遍的ですが、答えは彼ひとりのものです。そこに私たちは魅了され、ひとたびこの著作を愛するようになると、それを他のひとびとに伝えずにはいられなくなるのです。 (p. 4)
「日本語版への序文」で、レヴィナスの紹介と自分の立場を簡潔に表現した著者は、「まえがき」ではレヴィナスの仕事を「平易な言葉に言い換えてよいものだろうか」 (p. 5) として、「たしかにレヴィナスは「万人に通じる学問」というようなナイーヴな考え方をする人ではない」 (p. 6) として難解であることを率直に認めている。
そのような難解な思想を読み解く思想家たちは、もちろん大勢いるらしく、著者は第1章でレヴィナスの文体、文章を賛美する言葉を集めている。
デリダは『全体性と無限』の文体の効果を指摘してこう書いている。
『全体性と無限』における主題の展開は純粋に記述的でも純粋に演繹的でもない。それは岸辺に打ち寄せる波の限りない執拗さとともに繰り広げられる。同じ波が同じ岸辺に繰り返し寄せては戻る。しかし、ひとつひとつの波は完結しており、無限に更新され、豊かになってゆく。解釈者と批評家に対するこの挑戦ゆえに『全体性と無限』は単一の論題をめぐる叙説(trait)ではなく、一個の作品(œuvre)となっているのである。(『エクリチュールと差異』(L’Ecritlire et la différence,éd. du Seuil, coll. “Points,” p,124, note 1)
文体は張りつめ、震えている。批評家たちはこの文体が厳正であるがけっして威圧的にはならないことを認めている。「引き締まり、自己修正する刻苦のエクリチュール。終わりなく穿たれる、目も眩むほどの深み」とギィ・プティドマンジュは記している。「語法は精密で、緩みがないけれど、同時に小刻みに震えている。」ジャック・コレット。「厳正で、抑制され、しかし小刻みに震えている。」モーリス・ブランショ。マルク・フェスレールは「燃え立つような重み」を備えた文体について語っている。 (p. 12-3)
つまり、こういうことだ。レヴィナスの文章では記述性や演繹性に期待してはいけない。「打ち寄せる波の限りない執拗さ」や「目も眩むほどの深み」を見通す能力、あるいは「小刻みに震えている」エクリチュールを受容する繊細な感受性がなくては、レヴィナスを理解することは難しいということらしい。あたかも先天的に付与された能力が必要であるかのようだ。
レヴィナスの語が「哲学の境界線を切り広げてゆくとき、ひとは詩的領域と出会う」 (p. 14) のだという。つまり、学問から芸術への変容を追随できる才能を必要とする。これは明らかに困難な仕事だ(当面は、不可能とまでは言わないでおくが)。
レヴィナスは、その哲学の基盤をフッサールとハイデガーに置いている。存在と存在者を截然と区別したハイデガー存在論を受けたレヴィナス哲学の鍵概念に「ある」(il y a) がある。「ある」の経験は、「非-意味の経験。というよりはむしろ、非-意味としての存在の経験、空虚に対する恐怖のうち生きられる、いかなる事物の存在でもないものとしての存在の経験」 (p. 22) なのだという。触ることも、言葉で指示することも、ましてや解釈することのできない「存在」。この存在を存在者としての「他者」の存在とすること、その他者の表徴としての「顔」。そんなふうに理解を進めればいいのではないか、というのが私のさしあたっての直感である。
他者の他者性はあらゆる手がかりの届かぬところに置かれねばならない。なぜなら他者の「外在性」(extériorité)は不可逆的であり、還元不能であり、他者に賦与されるあらゆる「内容」に時間的に先行しているからである。 (p. 24)
他者がそのようなものであれば、私のような凡庸なものにとっては、すでにいかなる関係も他者と切り結ぶことはできないと考えてしまう。しかし、レヴィナスは他者の「顔」と向き合い、ある美しい飛躍を見せる。
レヴィナスにとって他者は、その顔(visage)に即して、私に対して意味する。顔は認識に与えられるものではない。そうではなく、顔は別の仕方で一挙に私にかかわってくるのである。他者は、その語の二つの意味において「私をみつめ=私にかかわる(meregsrder)」のである。つまり私は一挙に他者に対して責務を負う立場となり、他者に対して有責となるのである。他者は顔の開放性あるいは裸形性の名において私に語りかける。というのは、顔こそが表現そのもの、表現という出来事そのものであり、つまりあらゆる言語活動に先行する言語活動だからである。その裸形性において、その赤貧において、その無防備において、顔は最初の「語ること」である。「汝、殺す勿れ。」もっとも脆弱なものはこのとき同時にもっとも命令的となる。 (p. 23-4)
「あらゆる手がかりの届かぬところに」にある「他者の他者性」としての「顔」に見つめられることによって、「私は一挙に他者に対して責務を負う立場」という自己認識にいたるプロセスは、明らかに宗教的飛躍である。この飛躍のプロセスは、息子イサクの命を捧げよと神に命じられたアブラハムを想起させる。「神へのアブラハムの関係について言われていることは、あらゆる他者としてのまったく他なるもの(=まったく他なるものとしてのあらゆる他者)[tout autre comme tout autre]への私の関係なき関係についてもあてはまる」 [5] 。「まったく他なるもの」への「関係なき関係」なのに、倫理的不可能性を無視するかのように沈黙のままアブラハムは神との黙契に従おうとする。そうすることで人間社会の倫理から神との絶対的関係、絶対的な倫理性へ転移する。
神への冒しがたい絶対的契約としてのアブラハムの倫理は、レヴィナスにおいては絶対的な他者への負債から生まれる倫理なのである。そこでは、他者のありようがどうであるとか、情況がどうであるとか、そのような一切の条件は存在しない。そして「他者」はその表徴である「顔」によって絶対的な倫理を語りだし、命令するのである、「汝、殺す勿れ。」と。いわば、倫理とは「神の啓示」に等しい。
自己の倫理を喚起するものとして存在する他者と神の関係について、著者は次のようなレヴィナスの言葉を引用している。
他者は神の受肉ではなく、神が顕現する高さの現れである。その高さはまさしく他者の顔を通じて現出するのだが、それは顔において他者が受肉していないからなのである。〔……〕わがうちなる無限の観念――あるいは私と神の関係――は私と他の人間の関係の具体性、つまり社会性(それは私の隣人への有責性に他ならない)に即して私に到来するのである。というのも、この有責性は私がなんらかの「経験」を通じて負うことになったものではないからである。しかしこの有性は私がなんらかの「経験」を通じて負うことになったものではないからである。しかしこの有責性にもとづいて他者の顔は、その他者性、その異邦性そのものを通じて「どこから由来するのかわからない」戒律を語るのである。(『観念に到来する神について』 (De Dieu qui vient à l’idée, Vrin 1982) p. 11) (p. 29)
レヴィナスの思想は、ヨーロッパのキリスト教社会の中のユダヤ教という信仰のありようの理解なくしては近づくことが難しい。著者は、レヴィナスに先行するユダヤ人思想家についても述べ、たとえばフランツ・ローゼンツヴァイクとレヴィナスについて次のように記している。
レヴィナスとローゼンツヴァイク、この二人の仕事は、その霊感において、静けさにおいて、ユダヤ教に最高の表現を賦与しょうとする共通の気遣いにおいて、異論の余地なく近い。二人の仕事の差異は、彼らを涵養した経験と、その誕生の「原風景」と、それがくぐり抜けた政治史の違いを映し出している。
しかし私たちはこれ以上両者の照応と差異を詳述することはできない。ここでは私たちにとって決定的と思えるひとつの要素を指摘しておくことにとどめよう。それはローゼンツヴァイクは大外傷(le grand traumatisme)以前のヨーロッパを生きたということである。ローゼンツヴァイクは最終的試練を知らなかった。そしてこの試練こそがおそらくエマニュエル・レヴィナスの仕事の中核に位置しているのである。 (p. 96)
つまり、レヴィナスの思想は、アウシュビッツで象徴される「大外傷」と向き合うことで骨格を獲得したとも言えるのではないか。「他なるものに対する強迫観念、他なるものを前にしたときの終わりなき有罪感。他なるものに対する無限の負債。自己廃位、自己剥奪。こういったことはすべておのれ自身に釘付けにされている「私」という不純物を洗い流すために必要」 (p. 101) としたうえで、「私」の上に立ち上げていく倫理こそが、あまたのユダヤ人迫害を乗り越えてきたユダヤ教のように、「大外傷」を乗り越え、昇華させることができるのだと思われる。
アウシュヴィッツの神学? レヴィナスを神学者に列するよりも適切な遇し方があると私たちは思う。伝統的神学は――正統的神学は――つきるところ謎を深め、無意味なものを別の無意味なものに置き換える以上のことはしない。
レヴィナスはアウシュヴィッツについて真実をつたえようとしているのではない。この出来事についても、ユダヤの民の上にこれまでふりかかってきた出来事と同じように、レヴィナスはそこに人間の条件のかたちを探し求めている。 (p. 102-3)
著者は、アウシュヴィッツと向き合うレヴィナスの立ち位置を、「傷口に火を当てるような発言」としてレヴィナス自身の言葉を紹介している。
六百万ユダヤ人――そのうちの百万人は子供たちでした――の受難と死を通して、私たちの世紀全体の贖いえない劫罰が開示されました。それは他の人間に対する憎悪です。それは開示であり、黙示でした。世界大戦と絶滅収容所と全体主義とジェノサイドと捕虜と核の危機と背中合わせの理性とスターリン主義に転化する社会的進歩の二十世紀。もしゲルニカからカンボジアにいたるまで地上に氾濫した血がいわば一点に集まり、時の終わりまで煮えたぎる場所があるとしたら、それはアウシュヴィッツです。ふたたびイスラエルは聖書に記されているとおり、万人の証人となり、その「受難」によって、万人の死を死に、死の果てまで歩むべく呼び寄せられたのです。 (『ラルシュ』1981年6月号) (p. 105)
イスラエル(ユダヤ人)は、「その「受難」によって、万人の死を死に、死の果てまで歩むべく呼び寄せられた」という認識は、他者の「顔」によって「他者に対して責務を負う立場」を認識する倫理と通底している。上のテキストでは、レヴィナスが「アウシュヴィッツにおける神の不在」こそがユダヤ人が「ひとつの倫理的忠誠を引き受けることを命じていると主張している」のだと著者は語る。ここでもまたアブラハムの試練が想起される。
レヴィナスの政治的立場というのははっきりしないが、「「初期マルクス主義」に分類する人がいるかもしれない」 (p. 51) ような文章を残している。
経済的人間から出発するマルクス主義哲学の偉大な力は、根源的な仕方で説教の偽善性を忌避する能力のうちに権原を持つ。その意図が誠実である限り、飢えと渇きを癒そうとする善意がある限り、マルクス主義哲学が提起する闘争と犠牲の理想、つまるそれが指し示す文明は、このよき意図の深化に他ならない。マルクス主義が魅惑的なのは、そのいわゆる唯物論によってではない。この提言とこの指針が保持している本質的な誠実さのゆえなのである。(『実存から実存者へ』 (De l’existence à l’existant, Aux éditions de la revue Fontaine, 1947; Vrin1977)〔西谷修訳、朝日出版社、一九八七年〕 p. 69) (p. 51)
しかし、もちろんコミュニストではない。だから、1968年に起きた重要(と私は思っている)政治的情況については、やや些末な否定的な言葉が著者によって拾われている。
六八年五月についてはいかなる言及もない。書かれたものを徴する限り、どのような態度表明もなされていない。私たちにわかるのはパリ大学ナンテール校の教授は、あえて語らないという方針を本能的に選択したということである。彼自身は学生からの異議申し立てを受けたわけではない。のちになってレヴィナスはコーン=バンデイットのある種のアクセントに引き込まれたことを認めている。その心の広さに心打たれたわけではない。レヴィナスはむしろ傷つけられたのである。善意にあふれ、学生の反乱に対して好意的であった学部長のポール•リクールは公共の場で自分の学生たちから罵倒され侮辱された。その光景が他のなによりも深くレヴィナスの心に刻みつけられた。 (p. 55)
「六八年を拒否するのは、ひとつの伝統の擁護と顕彰のためである」と著者は理解を示す。その伝統とは「なにかを語るためには師を必要とする、という考え方」 (p. 58) である。いかにも、その師であるラビ、シュシャーニ師と出会ってから「一切の社交生活から身を引き、この奇怪なラビの門人」になって、タルムード(聖書と並ぶユダヤ教の根本教典)を徹底的に学んだレヴィナスらしい師弟観である。
著者は、政治性を遠ざけるレヴィナスの立場を「慎重で孤高な」と形容しているが、次のような寓話を用いて擁護に務めている。
聖書に登場するミリアムが「女預言者」であることを私たちはどうやって知るのだろうか。聖書の文章は彼女にその形容詞を与えているけれど、なぜ彼女がそう呼ばれるにいたったのかについてはなにも教えていない。答を教えてくれるのはラビ的注釈である。モーゼの姉ミリアムは、モーセがナイル河からファラオの娘の手で救い上げられたとき「遠くから見守っていた」。このちょっとした待機と警戒の態度が彼女を聖別し、女預言者の地位に押し上げたのである。この寓話を教えてくれたのは、ご賢察のとおり、レヴィナスその人である。 (p. 64)
巻末に「エマニュエル・レヴィナスとの対話」という著者によるインタビューが収められている。その中で、レヴィナス理解にとって大いに助けになりそうな言葉があった。
レヴィナス 私は「経験」(experience)という言葉よりも 「試練」(épreuve)という言葉のほうが好きです。それは「経験」という語のなかには、私を主体とする認識作用のようなものが語られているからです。一方、「試練」という語には、生と「真理の検証」という批判的な理念が二つながらふくまれています。私にとってひとつの「場面」にすぎないはずの「試練」が私からはみ出してしまうのです。ユダヤ的実存にとっての試練は確実にいたるところに現前しています。しかし、私の哲学的エッセィはすすんでドグマ的真理を論証しようとするものではありません。そこになんらかの精神性が見られたとしても、それはあくまで結果的にそうだということです。 (p. 154)
認識作用よりも真理の検証を重んじるという望ましい哲学的態度について語っていて、ここには、ユダヤ人が課されつづけた「試練」を哲学的基盤としてきたレヴィナスがいる。「経験より試練」という感覚は、ユダヤ教やキリスト教ならずあらゆる信仰心から遠い私にとっては、必ずしも馴染みやすいわけではない。にもかかわらず、それはレヴィナスに関心を持つ限り、避けては通れない。
レヴィナス 問いはこう立てられます。「自分が存在しているせいで、私たちはだれかを抑圧してはいないか。」このとき、おのれ自身の上に安住し、私は私であるという自己同一性のうちにとどまり続けていた自己同一的な存在が、自分にははたして存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。人間として生まれたことの本当の甲斐というのは、おのれの存在を一度ひっくり返して、自己同一的な安心感と手を切ることにあるのではないのか、と自問することになるのです。私が私の本のなかで言おうとしてきたことは、ほぼこれに尽くされています。むろんこの話にさらにたくさんの複雑なものが付け加わるのですが。 (p. 155)
もちろん、信仰心がこのような心性を支えることは大いにあろうが、ここでは、宗教とは独立して倫理を立てていくことの可能性と実行性が語られている。これこそレヴィナスがユダヤ教という宗教的枠組みを超えて、受容されている理由ではないかと思う。
[1] ジャック・デリダ(広瀬浩司、林好雄訳)『死を与える』(以下、デリダ)(筑摩書房、2004年) p. 173。
[2] ゼーレン・キルケゴール「おそれとおののき」(桝田啓三郎訳)『キルケゴール著作集 第五巻』(白水社、1962年)。
[3] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ ――哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007年)p. 13。
[4] 内田樹『他者と死者 ――ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004年)p. 6。
[5] デリダ、p. 162。