かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】『山口哲夫全詩集』 (小沢書店、1988年)

2012年08月24日 | 読書

じじもぎの木の向う
罅われまんまの降るあたり
おんば日傘のかさぶた小僧が
おどろなイドラに身体じゆう
骨がらみ骨うずき
果てはもっぱらの中っ腹さげ
あやめ笠をばたおやめぶりに
みぢん斬り
まわし蹴り
さても空間は盲ら縞もようの
そのやみらみっちゃが病みつきで
じじもぎの実の腫れるかわたれ時
尻ばしょりの韋駄天ばしり
せんずり峠の伏魔殿すわか
熊鷹まなこの錦切れ野郎め!
輪ぎり前げり五月なげ
犬の糞もて泥縄かけて
女日照りの仇を打った
  (してまた床ずれの
  骨がらみ骨うずき
  じじもぎの花の贋の青さに)
                「風雲録」全文 (p. 10-1)

 この『山口哲夫全詩集』の冒頭の詩を読んで、明らかに私は間違ったと思った。私が読んだところでどうにかなる、何ごとかが私の中に残るたぐいの詩ではない、私の手には負えない、と思ったのである。

 ひとつはシュールリアリスティックなイメージの重ねかたである。若い頃、西脇順三郎はそれなりには読んだ。超自然主義的なイメージには苦労したが、それでもヨーロッパ近代の景色、香りのような雰囲気があって耐えられた。しかし、この詩の語彙の一つ一つは明確に日本的であって、いわば言葉一つ一つが私たちの日常のそれぞれの匂いや重みを持っている分だけ、逆に思念もイメージも情緒も焦点を持たないで発散するようなのである。私は、シュールなのが苦手なのである。
 もうひとつは、言葉遊びである。この詩はリズム、語調をきわめて重んじることで成立している。だからこそ言葉遊びが成立しているとも言えるのだが、シュールリアリスティックでかつ音の共通性に基づく言葉遊びなので、さらに詩の言葉は私の中で微塵になって発散するようなのだ。
 正直に言えば、私はもともと詩人の言葉遊びは嫌いなのだ。幼児教育にはきわめて有効だと、幼児教育を職業とした妻は言うのだが、私には上品なオヤジギャグにしか聞こえない。古典の和歌の「掛詞」に感動したことはない。万葉、古今、新古今と「掛詞」も巧みに使われるようになるにしたがって、人生の真実が薄れていくように感じたものだった(授業の「古文」が嫌いだったということの心理的補償作用、つまり意趣返しみたいなものだが)。そんな私は、マザーグースの面白さには一生縁がないのではないか。それはそれで不幸だが、乗り越えるすべを知らない。

 少しうちひしがれて読み進んでいくと、「東風(どんふあん)」という詩が出てくる(p.64-70)。「東風」を「どんふあん」と読ませる題そのもので困り果てているところに、「彼方の父国語にユダる/ラ•マヨネイエーズの禊ぎ」だの、「渡りに混堂の/湯さがりの恋風に/褒美なる姦ツォーネをとぼす」だの、「丘のアンネのリンネ的」だの、「中間子曰く/あんまりエントロがピーなので/さぞや越路も吹雪だろう」だのという恐るべき「言葉遊び」が次々と現れるのである。

 もう終わり、とても前には進めない、この辺でおしまいにしよう、と考えて最後に巻末の著者略年譜を開いてみた。

 山口哲夫は、昭和21年生まれである。私もその年に生まれた。昭和61年2月、山口哲夫は直腸癌の手術を受ける。昭和61年2月には、私も胃癌検診の結果、胃の摘出手術を受けた。昭和63年5月、山口哲夫は癌の転移に伴う尿毒症によってこの世を去った。私は、生き残った。

 読み続けることにした。

ユキアナまでは曳かれもの。夏引く枝川のせせらぎに沿
て昼つ方。灼けた鉄骨二輪車の荷台にほとほと揺られ。
揺られ道のく千鳥あし。櫂ばしら引導人の背には影のほ
とぼり。半ズボンのししあしがおどけ纏足ぶりを模倣し
て。ぎったんばっこん鳥の肝! しもやけ残る円盤少年
の淡きまどろみに。春夢君をたずねて水東を過ぐ。曳か
れ揺籃ピクニック。行くほどに飴屋の隔子に誘われて。
煙管婆さまと二言みこと。ユキアナ参りの首途にて。か
しこみて寒行の斧借り受けよ飴の家。引導人の背には春
のほとぼり。山また川をこの日の合言葉に。今は亡き夜
型の父に捧げる。ひと巻きの雪男の想像図。
                          「雪窟幻想」部分 (p. 80-1)

 先の「東風」が第一詩集『童顔』の最後の詩で、この「雪窟幻想」は第二詩集『妖雪譜』に含まれる詩である。言葉は「多雪の故郷」の道を確実に辿っていくようである。もちろん、旋律へのこだわりは捨てられていない。
 「かしこみて寒行の斧借り受けよ飴の家」の部分まで読み進んだとき「5-7-5-5」なのに完結したリズムの俳句でありながら、またおなじく美しいリズムを辿ってきた短歌でもあるという強い印象を受けた。「寒行の斧借り受けよ」が「7-5」でありながら「5-7」であるためである。「斧」の一語でリズムは美しい遷移を遂げるのである。

 娘の親となる詩人は、さらにいっそう明瞭に世界を区切る。それは、ある意味、親としての凡庸さでもあろうが、美しい「凡庸さ」が描かれる。

その後頭部の波頭にあご寄せて
あの汽車ポッポを見よ、と
遠い平野
河のあたりから来る
煙吐く黒い黙示を呼び返そうとするが
力を添えたオペラグラスの
もやった視界の導入部で
娘は両目をつむってしまう
この風が苦しくても、小さな
青いちゃんちゃんこを脱がせるすべを知らないから
父は
しましまの半てんの裾をひるがえし
ふりかぶつて岸
の内角めがけて投げ降ろすが
娘は
これらのインサイドワークに首を振るばかり
無意味が命中しないのだ
  ………
父は
真昼の展望台の上で
「逃れる聖家族」の
ひたむきを絵本にしながら
スぺースの捕手としてのみ坐像し
まるで
母性愛に目覚めている!
      『娘の彼岸』部分 (p. 223-5)

 父であろうとし、娘であろうとしつつ、風景の中に立つ二人。「無意味が命中しないのだ」のフレーズが心を穿つ。この一行によって、私は詩人を信じた。



(写真は記事と関係ありません)

 


【書評】与那覇潤『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年』(文藝春秋、2011年)

2012年08月22日 | 読書


 
『中国化する日本』だなんて、その辺に溢れている「煽り」本らしい雰囲気のネーミングだが、これはけっしてそのたぐいではない。たまたま、私は著者の名前と本の概要を知っていたのだが、そうでなければ本屋でこのタイトルを見ただけではたぶん手を出さなかっただろう。

 雑誌『atプラス』11号に大塚英志と著者の「中国化する日本/近代化できない日本」というタイトルの対談が掲載されていたので、本屋で探したのである。
 現代の日本人のありようを、宮台真司は「田吾作」と言い、大塚英志は「土人」と呼ぶ[1]。「未完の近代を生きている私たち」という私の最近の実感にぴったりと嵌った彼らの言説は、与那覇潤のこの著書によって歴史学的根拠、背景を与えられているように思う。
 この本は真摯な歴史の本であり、文字通り、大学における歴史講義を書籍化したものである。

 本書によれば、日本の近世(前期近世と後期近世=近代)を読み解くキーワードは、「中国(郡県制)化」と「再江戸時代(封建制)化」と「ブロン」である。そして、国家はそのシステムとシステムに馴染まされ、そしてシステムを支える国民の心性とからなっている。したがって、システムの導入は、国家の変革にそのまま直結するわけではない、という機微もまたキーである。いやむしろ、国家システムと国民心性の乖離が、「ブロン」を結果してしまう、ということが歴史の日本的特徴なのかもしれない。
 星新一の造語だという「ブロン」とは、メロンのような大きな(かつ美味な)果実がブドウの実のように無数に稔る理想の果物に与えられた名辞だが、実際に得られたのは、ブドウのように小さな実がメロンのようにほんのわずかに稔る植物だった、という由来による。

 内藤湖南の言説に端を発する歴史観によれば、世界で始めて近世化したのは中国の「宋」である(p. 30~)
 宋は「貴族制度を全廃して皇帝独裁政治を始めた」つまり「経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみ」を作った。「科挙」によって選抜されたエリート役人が全国に派遣されて地方政治を行い(郡県制)、税は物納から貨幣によって納めるようになる。

 すなわち冷戦後、主権国家どうしの勢力均衡に立脚した国際政治のパワーバランス(その最後の事例が米ソの均衡)が崩れ、米国一国の世界覇権へと一気に傾いたように、宋朝の中国でもいくつかの名門貴族が相互に掣肘しあう関係が終わり、皇帝一人のお膝元への全面的な権力集中が起きる。かつての社会主義国よろしく貴族の荘園に閉じ込められていた一般庶民も解放されて中国(≒世界)のどこでいかなる商売に従事してもよろしくなる――ただし、皇帝(≒アメリカ)のご機嫌さえ損ねなければ。
 これが、宋朝時代の中国大陸で生じた巨大な変化なのです。ポスト冷戦の「歴史の終わった」世界などというのは、それを全地球大に引きき伸ばして拡大したものに過ぎません。
  ……
 こうして宋朝時代の中国では、世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤廃された結果、移動の自由・営業の自由・職業選択の自由が、広く江湖に行きわたることになります。科挙という形で、官吏すなわち支配者層へとなり上がる門戸も開放される。科挙は男性であればおおむね誰でも受験できましたので、(男女間の差別を別にすれば)「自由」と「機会の平等」はほとんど達成されたとすらいえるでしょう。

 ……え、「結果の平等」はどうなるのかって?
 もちろん、そんなものは保障されません。機会は平等にしたわけですから、あとは自由競争あるのみです。商才を発揮してひと山当てた人、試験勉強に没頭して頑張りぬいた人にのみ莫大な報償を約束し、それができないナマケモノは徹底的に社会の底辺に叩き落とすことによって無能な貴族連中による既得権益の独占が排除され、あまねく全員が成功に向けて努力せざるを得ないインセンティヴが生み出されるのです。
 また、自由といっても与えられるのは経済活動についての自由だけで、政治的な自由は(科挙への挑戦権を除
けば)極めて強く制限されます。貴族を排除して皇帝が全権力を握った以上、その批判は御法度、彼に逆らう「自由」などというものは存在しません。……ほら、自分の商売は好き勝手し放題だけど、「党」の批判は絶対厳禁、のいまの中国と同じでしょう?
 ――つくづく、ひどい世界ですね。でも、ここでちょっと振り返ってみてください。先ほどまで見てきた「冷戦後の世界」と比べて、そこまでひどいでしょうか?
 
低賃金の新興国に市場を奪われても、お前の努力不足が原因だ、だったらもっと賃金を切り下げて働け、それができなければ自己責任だといわれる今日の社会。アメリカのご機嫌を損ねられないばっかりに、基地提供でも戦争協力でも唯々諾々と従うよりほかはない極東の某「先進国」の現状を鑑みるとき、「中国は遅れた社会だ」なんて口が裂けてもいえません。むしろ「中国こそわれわれの先輩だ」というべきでしよう。 (p. 33-5)

 皇帝と科挙官僚による権力独占のための機制として働いたのが「理想主義的な理念に基づく統治行為の正統化」である。その政治体制に関する理念は、朱子学によって強化される。後の満州族であった清朝の雍正帝は、「主流派である漢民族の人々が掲げてきた理念が全世界に通用する普遍的なものであるからこそ、それを正しく身につけた人物であれば、天子の座についてもよろしいのであって、「夷狄」が皇帝になることは中華帝国の恥辱ではなく、むしろ進歩を示すことなのだと、アピール」 (p. 70) することができたのである。

 この理念による説得(そして権力奪取)は、現代アメリカにもそのまま当てはまる。「バラク・オバマ氏の演説の巧みさが、「差別されてきた黒人である自分でも大統領になれた事実こそが、アメリカというこの国の輝かしい伝統であり希望の証」という形で、放っておけば自分と対立しそうな(たとえば保守派の白人層のような)人々をも彼らが奉じる建国の理念に訴えることで味方に取り込んでいく点にある」 (p. 69) とされる。

  この、相手の信じている理念の普遍性をまず認め、だったら他所から来たわれわれにも資格があるでしょうという形で権力の正統性を作り出すやり方が、宋朝で科挙制度と朱子学イデオロギーが生まれて以降の、かの国の王権のエッセンスです。言い方を変えると、世界中どこの誰にでもユーザーになってもらえるような極めて汎用性の高いシステムとして、近世中国の社会制度は設計され、そのことを中国の人々は「ナショナル・プライド」にしてきたと見ることもできます(「日本でしか使えない」ことを自慢する「親方日の丸」方式とはえらい違いですね)。 (p. 70)

 「宋からは多くを学びそこねた国」としての日本も、律令制の再編を進めるが、科挙制度の導入ができずに世襲制の官職・統治システムを強化するだけであった。中国で「近世」が始まったころ、日本は院政の成立によってかろうじて「中世」に達したのであった。「院政」とは、天皇、荘園貴族を中心とするシステムでは貨幣経済を導入できないため、その身分システムから離脱した上皇による革新であった、という。

 かくして、対中貿易を通じて宋銭をどんどん日本国内に流入させ、農業と物々交換に立脚した古代経済を一新し、かつ荘園制に立脚した既存の貴族から実権を奪い取っていく。この、科挙以外の貨幣経済の部分で、宋朝中国のしくみを日本に導入しようとした革新勢力が、後白河法皇と平清盛の強力タッグ、西日本中心の平氏政権であったということになります(小島毅『義経の東アジア』)。
 ところが、こういう市場競争中心の「グローバリズム」に反動が伴うのは今も昔も同じで、猛反発したのが荘園経済のアガリで食っていた貴族や寺社の既得権益勢力(権門)と、国際競争に適した主要産品がなく、没落必至の関東地方の坂東武者たちでした(東日本でも東北は、金を輸出できるので競争力が強い)。
 この守旧派貴族と田舎侍の二大保守勢力が手を組んで、平家一門を瀬戸内海に叩き落とし、難癖をつけて奥州藤原氏も攻め滅ぼし、平氏政権下では使用が公認されかけていた中国銭をふたたび禁止して物々交換に戻し、平家に押収されていた荘園公領を元の持ち主に返す代わりに、自分たちも「地頭」を送り込んで農作物のピンハネに一枚噛ませてもらう――かように荘園制に依拠する詣権門に雇われた、よくいってボディーガード、悪くいえば利権屋ヤクザ集団が源氏であり(こういう見方を「権門体制論」といいます)、彼らの築いた「反グローバル化政権」こそが鎌倉幕府だったわけです。
 世を「武士の時代」といってはいけない第二の理由がここにあります。同じく「武士」とされるなかでも、隣国宋朝の制度を導入することで、古代日本とは異なる本当に新しいことをやろうと試みた平家(ファースト・サムライ)は、実は敗北してしまっていた。
 むしろ、従来型の農業中心の荘園制社会を維持しょうとした守旧派勢力である源氏(ワースト•サムライ?)の方が勝ってしまって始まったのが、日本の中世だったのです…… (p. 45-6)

 さて、日本の中世はいつ始まったのか。これも内藤湖南によって、応仁の乱以降とされる。「室町時代までの日本中世は「いくつかの中国化政権の樹立を通じて、日本でも宋朝と同様の中国的な社会が作られる可能性があった時代」、戦国時代以降の日本近世は「中国的な社会とは180度正反対の、日本独自の近世社会のしくみが定着した時代」として」(p. 75)考えられる、という。
 身分制の解体という中国型の近世モデルに対して、強固な身分制を基礎とする「封建制」が日本の中世のシステムとして江戸時代を通じて長く続いた理由は、「イエ」と「イネ」だという。急速に普及した水田耕作は、大地主の粗放な荘園経営を破綻させ、家族中心の小規模農業をもたらした。その農民は身分制によって土地に固定されるが、それはまた「排他的に占有できる職業や土地があって、アガリを世襲することも認められているから、欲を張らずそれさえ愚直に維持していさえすれば子孫代々そこそこは食べていける家職や家産が、ようやっと貴族と武士だけではなく百姓にも与えられた」(p. 87)ことを意味する。
 中国型の近世(郡県制)と日本型近世(封建制)がもたらす文化はまったく正反対、裏返しの関係になる。著者は、その反対称性を次のようにまとめる。

〔中国近世文化の特徴〕
A  権威と権力の一致……貴族のような政治的中間層と、彼らが依拠する荘園=村落共同体(中間集団)が打破された結果、皇帝が名目上の権威者に留まらず、政治的実権をも掌握する。
B 政治と道徳の一体化……その皇帝が王権を儒教思想=普遍主義的なイデオロギーによって正統化したため、政治的な「正しさ」と道徳的な「正しさ」が同一視されるようになる。
C 地位の一貫性の上昇……さらに、皇帝が行う科挙=「徳の高さ」と一体化した「能力」を問う試験で官僚が選抜されるため、「政治的に偉い人は、当然頭もよく、さらに人間的にも立派」(逆もまた真なり)というタテマエが成立する。
D 市場べースの秩序の流動化……貨幣の農村普及などの政策により、自給自足的な農村共同体をモデルとした秩序が解体に向かい、むしろ商工業者が地縁に関係なく利益を求めて動きまわる、ノマド(遊牧民)的な世界が出現する。
E 人間関係のネットワ—ク化……その結果、科挙合格者を探す上でも、商売上有利な情報を得るためにも便利なので、同じ場所で居住する者どうしの「近く深い」コミュニティよりも、宗族(父系血縁)に代表される「広く浅い」個人的なコネクションが優先される。 (p. 48-9) 

 〔日本近世文化の特徴〕
A’ 権威と権力の分離……多くの歴史上の政権で、権威者=天皇と、政治上の権力保有者(たとえば将軍)は別の人物であり、また現在の政党や企業などでも、名目上のトップはおおむね「箔付け」のための「お飾り」で、運営の実権は組織内の複数の有力者に分掌されている。
B’ 政治と道徳の弁別……政治とはその複数の有力者のあいだでの利益分配だと見なされ、利害調整のコーディネートが為政者の主たる任務となるので、統治体制の外部にまで訴えかけるような高邁な政治理念や、抽象的なイデオロギーの出番はあまりない。
C’ 地位の一貫性の低下……たとえ「能力」があるからといってそれ以外の資産(権力や富)が得られるとは限らず、むしろそのような欲求を表明することは忌避される。たとえば、知識人が政治に及ぼす影響力は、前近代(儒者)から近現代(帝大教授、岩波文化人)に至るまで一貫して低く、それを(ご本人たち以外)誰も問題視しない。
D’ 農村モデルの秩序の静態化……前近代には世襲の農業世帯が支える「地域社会」の結束力がきわめて高く、今日に至っても、規制緩和や自由競争による社会の流動化を「地方の疲弊」として批判する声が絶えない。
E’ 人間関係のコミュニティ化……ある時点で同じ「イエ」に所属していることが、他地域に残してきた実家や親戚(中国でいう宗族)への帰属意識より優先され、同様にある会社(たとえばトヨタ)の「社員」であるという意識が、他社における同業者(エンジニア、デザイナー、セールスマン……)とのつながりよりも優越する。(p. 49-50)

 後期近世=近代は、当然ながら明治以降ということになるが、その実体は1000年以上前の宋代への中国化に過ぎない、ということを次のように例証している。

……明治維新とは「新体制の建設というよりも旧体制の自壊」に過ぎないのです。
 その旧体制たる日本近世の本質とはなにかといえば、もともと中世の段階まではさまざまな面で昂進していたはずの「中国化」の芽を根こそぎつみとって、日本が宋朝以降の近世中国と同様の社会へと変化する流れを押しとどめていた「反・中国化体制」ですね。
 
それを自分で内側から吹き飛ばしてしまつたわけですから、当然ながら明治初期の日本社会は南北朝期以来久々の、「中国化」一辺倒の時代を迎えることとなります。 (p. 126)

 将軍や幕府といった二重権力状態を排除して、明治天皇ご足下の太政官に政治システムを一本化したわけですから、ようやっと(後醍醐天皇や足利義満もめざした)「宋朝以降の中国皇帝のように権力が一元化された王権」が確立されたことになります。
 
さらに、1890年にはいわゆる教育勅語を発布、儒教道徳の色彩が濃い徳目を「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」(この教えはわが国のみならず全世界に通用する普遍的な教えなのでありますからこそ、私は臣下のみなさんと一緒にこれを実践してゆくのであります:意訳)と宣言します。政治権力の集中性プラス普遍的な道徳イデオロギーに基づく正統性、まさしく素晴らしい中華王権の誕生です。 (p. 127)

 1894年からはじまる高等文官任用試験(現在の国家公務員I種試験)のルーツのひとつは、科挙にあるといわれています。今日の公務員について、「実際の仕事とは何の関係もない、やたらと範囲の広い教養科目ばかりが出題されて、ガリ勉丸暗記型の受験秀才ばかりが合格する。こんな連中がキャリアだなんだといって、本当の実務を担うノン•キャリアよりも上位にふんぞり返っているから、日本の官僚はダメなんだ……」式の批判を耳にしたことのない人は、いまやいないでしょう。
 そう、かような理不尽な試験採用も、もとが「科挙」なんだと思えば当たり前。 (p. 128)

 え、福沢先生は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で人間平等を説いた素晴らしい思想家じゃなかったのかって? ――もちろん、全然違います。
 その文章の直後に「今広く此人間世界を見渡すに…其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり…賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」(今の世の中、勝ち組はみんな勉強したから成功してるんだ。勉強しないでダラけたやつが負け犬に落ちぶれているだけだ:意訳)と述べているように、福沢が強調した平等はあくまで「機会の平等」であって「結果の平等」ではないというのが、今日の明治思想史の見解です(坂本多加雄『市場・道徳・秩序』)。
 
要するに、検定教科書で『学問のすすめ』が引用されているのは、「勉強しないようなバカは自己責任だから将来貧乏になってもグダグダいうんじやねえぞ」と政府に言われているのと同じだと思わなければいけないのです。それを教師も生徒も一緒になって「江戸時代までは身分差別がありました。しかし明治になって平等になりました」などとお花畑な会話の素材にしているのだから、なるほど日本の教育は平和ボケしているのでしょう。 (p. 128-9)

 明治以降の日本は、明治維新によって導入された「中国型近世システム」と、日本固有の近世システムであった封建制を懐旧する「再江戸時代化」勢力の争いとして記述される。じっさい、それに基づいて、本著の大部は明治から現代までのほとんどの事象の解明に充てられている。

 たとえば、労使紛争は百姓一揆である、つまり高度な産業社会は「工業化した封建制」なのだ。あるいは、「脳味噌が江戸時代のまま」に「壮大な勘違い」によって遂行された「あの戦争」。「より徹底した再江戸時代化」を断行した田中角栄。「党内の派閥」「世襲の地縁」「地元の利権」とういう封建制そのものの選挙で、国会議員はけちな地方大名。封建制としての中選挙区制度と郡県制としての小選挙区制度。自虐史観と他人を罵る本人たちの自虐史観。とにかく、右も左もばっさりの小気味のよい事例が盛りだくさんである。

 そして最後に、朱子学によって強化された宋の国家理念と同じく、日本国憲法九条は日本国家の優れた政治理念である、理想である、と著者は考える。

 よく考えてみてください。だって、現実の皇帝が朱子学道徳の体現者にして世界一の完璧な人格者だなんて、ありえると思いますか? あるわけないでしょうが。そんなことは百も承知です。それでも理想としては掲げておいて、あるときは国政を正す道具に、またあるときはナショナル・プライドにする。
 また、なにせ世界に通用する教えですから、よそから入ってきた奴らに「取られて分け前が減る」とは考えない。むしろ、われわれの正しさが彼らをも惹きつけたのだ、という自身の普遍性の証と考えて、ますます全世界大で流通するような、大言壮語に磨きをかける。
 ……かようなあたりが、中国化する世界をゆるゆると生き抜く方法ではないでしようか。
 この辺の間合いになれていないのが、やはり日本人です。だから改憲問題がヒステリックになる。「九条を変えなかったら、中国が攻めてきても何ひとつ防衛ができない!」と叫ぶ右派がいれは「九条がある以上、今すぐ安保も自衛隊も廃止!」と騒ぐ左派もいる。バカバカしいことこの上ありません。 (p. 288-9)

 前文に国際社会についての話があるのは変だ? 書いたのがアメリカ人だから気に入らない? そんなこと、どうだっていいじゃありませんか。だって人類普遍の教えなんだから、どこの国に向けて誰が書こうと正しいものは正しい。儒教社会の近世中国にあなたが生きていたら、孔子の出自は何民族か、なんて気にしますか? 満洲族に朱子学を「盗られた」だなんて思ってどうします? もちろんその理想は全然実現には遠いわけですが、そんなのはまだ夷狄どもがまつろわぬゆえと考えて、泰然自若としておればよいのです。
 そしてここに、中国化する世界、および隣国としての中国と日本がつきあう際のヒントもあるように思います。せっかく、儒教並みに現実離れしているけれども妙に高邁でスケールの大きな憲法を持っているのだから、この際それを「ジャパニズム」の核にすればいい。独立宣言やゲティスバーグの演説が「アメリカニズム」のコアにあるのと同じです。

 要はその理念を使って、中国やアメリカと自国の文明の普遍性を競いあえばいいわけです。 (p. 289-90)

 自身アメリカ人であるP・ス夕ロビン氏は、中国が経済や軍事でアメリカを追い抜くことは可能、また西洋型の民主主義とは異なる「賢明な専制支配」が、今後は社会発展のモデルになることすらありうる、とあっさり認めた上で、かような中国にとって真の覇権を築く上での最大のネックは、アメリカニズムに相当する普遍理念がないことだと指摘しています(『アメリカ帝国の衰亡』)。もちろん、共産化にともなって儒教を捨て、その共産主義も改革・開放で事実上放棄して軍拡とお金儲けに狂奔しているからですね。
 だとすれば、その分をたまたま日本に残っている「中国的」な理念で補ってあげるのが、本当の日中友好であり、また「中国化」する世界で日本のめざすべき進路ではないか。「憲法九条はアメリカの押しつけか」とかいう議論をぐだぐだやっているヒマがあったら、「いかにして憲法九条を中国に押しつけるか」を考えるのが、真の意味での憲法改正ではないか、と私は思います。
 
わが国の憲法の理念からして、こういうことはよろしくない。お宅もかつては儒教の国だったはずですが、その普遍主義は、道徳精神はどうしましたか。今や中華はわが国の方に移ったという理解でよろしいか――こういう競争の結果、たとえば東アジア共同体のビジョンはやはり中国ではなく日本の憲法をべースに、というシナリオがありえないものでしょうか。 (p. 291)

 国家理念、国家理想を実現性とか現実性によってその価値をはかるのではなく、じつにその理念性、理想性そのものによってその実効的有用性を見るのである。そしてそれは宋時代から連綿と続いてきたもので、とりわけて目新しい考えではない。歴史を見通せる才能はそう語るのである

 [1] 大塚英志、宮台真司『愚民社会』(太田出版、2011年)。


原発を詠む(1)――朝日歌壇・俳壇から(7月16日~8月13日)

2012年08月13日 | 読書

 朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して読まれたものを抜き書きした。「原爆」「原爆忌」の歌・句については、3・11原発事故と関連する場合のみピックアップした。

 

福島と福井に「福」の字がついて再稼働とう不幸始まる
        
         (福井県)下向良子 (7/16 高野公彦選)

 

若狭から原発の灯の消ゆる日のもしやと思ひもしやは消ゆる
               
(福井県)大谷静子 (7/16 永田和宏選)

 

現代の赤紙ならむ関電の計画停電予告のハガキ
               
(高槻市)有田里絵 (7/23 高野公彦選)

 

除染後の遊具の河馬のかなしさよ砂場にすなのひかりはあるも
               
(鹿児島市)篠原廣己 (7/23 永田和宏、馬場あき子選)

 

我が母は五キロ圏内原発の近くに住みて風車を仰ぐ
                
 (東京都)夏目たかし (7/23 馬場あき子選)

 

原発というおごそかな機器を抱き滅びへ向かう青き球体
               
(名古屋市)南真理子 (7/30 高野公彦選

 

あれしきの被曝で何を騒ぐかと言つてはならぬ我は被爆者
               
(アメリカ)大竹幾久子 (7/30 永田和宏選)

 

原発の温廃水に太りいし刈羽の海のメジナを思う
               
(中央市)前田良一 (7/30 馬場あき子選)

 

ふくしまはめげずに生きるフクシマに背を向けないで目を見開いて
               
(福島市)伊藤緑 (7/30 佐佐木幸綱選)

 

炎天に我もとぼとぼ蟻のごと脱原発を唱えて歩く
               
(三郷市)岡崎正宏 (8/6 永田和宏選)

 

たづきなき避難者われは流れきて山谷に暮らすほのかなたづき
               
(東京都)シンタロウ (8/6 馬場あき子選)

 

炎天の「さらば原発集会」に出たき八十路の思いよ届け
                
(東京都)峰岸愛子 (8/6 佐佐木幸綱選)

 

大江さん、寂聴さん、龍一さん十万超ゆるノーのどよめき
               
(名古屋市)誠訪兼位 (8/6 高野公彦選)

 

ベン・シャーンの視線を避けて原発は憑かれしごとく再稼働する
               
(春日井市)久瀬昭雄 (8/13 馬場あき子選)

 

汚染土を植木屋さんは持ち帰るこれも自分の仕事だからと
               
(福島巿)澤正宏 (8/13 佐佐木幸綱選)

 

気がつけば原発列島戦争もそうだったのだいつか来た道
               
(青梅市)津田洋行 (8/13 佐佐木幸綱選)

 

輸血するごとく原発稼働せり救はんとしてほふるや未来
               
(長野県)井上孝行 (8/13 高野公彦選)

 

 

脱原発の人犇(ひし)めきて蓮開く
               
(旭川市)河村勁 (7/23 金子兜太選)

 

梅雨寒やいつか来た道再稼働
               
(東京都)辻隆夫 (7/23 金子兜太選)

 

原発に反対水母押し寄せる
               
(札幌市)江田三峰 (8/6 金子兜太選)


『生誕100年 松本竣介展』 宮城県美術館

2012年08月10日 | 展覧会

 これは巡回展で、岩手県立美術館→神奈川県立近代美術館→宮城県美術館→島根県立美術館→世田谷美術館の順に開催されている途中である。待ちきれなくて、最初に開催された岩手県立美術館へ5月初めに観に行った。

 盛岡に出かける数ヶ月前から私の中ではちょっとした「マイブームとしての松本竣介」があった。簡単に言えば、松本竣介の画風の変遷の意味に少しばかり興味があったのである。
 このマイブームは、2008年秋に「アメデオ・モディリアーニ展」を観るために岩手県立美術館に出かけた際、常設展でたくさんの竣介作品を観たときからじわじわと始まっていた。それほど岩手県立美術館はたくさんの竣介作品を所蔵している(萬鉄五郎の作品も多い)。
 マイブームのせいで、竣介の絵ばかりではなく、朝日晃、土方定一、麻生三郎、村上善男、中野淳、宇佐美承、洲之内徹、小沢節子など、竣介についてのあれこれを述べた文章を、手近で読めるものについてはできるだけ読んでみた。おかげで、松本竣介の画業の総体についてイメージができつつある(かなりおぼろげではあるが)。

 そのマイブームも鎮静化しつつあるが、我が家から3分ほどの美術館のなかに松本竣介の絵が素描も含めて200点以上も並んでいることを想像するだけ腰が浮き立つ。展覧会が始まって6日、美術館の中のレストランで昼食を、と妻を誘って出かけた(盛岡のときは、じゃじゃ麺はどうですか、と誘った)

 地方の美術館の比較的大きなイベントは、地方新聞やテレビのローカルニュースで紹介されるが、「松本竣介展」は、展示作品のなかの《立てる像》を取り上げて紹介されていた。美術館の解説か、メディアの判断かは分からないが、この絵が竣介の代表作(のひとつ)として扱われていると受けとっていいのだろう。

     
      《立てる像》1942年、油彩・画布、162.0×130.0cm、神奈川県立近代美術館 [1]

  《立てる像》には次のような評があって、どことなく古い時代に評されていた「抵抗の画家・松本竣介」のイメージと重なる。

時代がつつむ険悪な空気のなかで、小さなヒューマニズムの影にかわって自分の肉体をまるごと侵すことよりほかに方法がなかったとすれば、当然、画家自身が明日に向かってふく風の前に立たざるをえない。わたしは《立てる像》をみるたびに、画家が現実という名のさまざまな鉄拳で打たれることを覚悟していたように思う。それは恐ろしいまでに矛盾をはらんだ現実である。 [2]

 しかし、村上善男が海藤和の文章を引用し、また竣介の戦争画を例示しつつ論じた [3] ように、竣介の「抵抗画家」という評価は現在ではあまり適切とは考えられていない、と思う。それは、竣介の画業によってではなく、戦時中の彼の文章によってもたらされた誤解だったのであろう。

 この《立てる像》と松本竣介の文章の両方についての洲之内徹の指摘が面白い。

……実は、私はあの作品〔「立てる像」〕が好きでない。「立てる像」だけでなく、それら一聯の「画家の像」「三人」「五人」等の家族を描いた大作(その中心にいつも竣介がいる)が私はどうしても好きになれないのである。どの絵も人物が硬直していて、妙に押しつけがましく、しかも空虚で、どうしてああいう絵がいい絵なのか解らない。しかしいい絵にはちがいないので、「立てる像」は鎌倉近代美術館の所蔵になっており、他のどれか一点は、確か、長岡近代美術館に入っているはずである。 [3]

 絵の中からはあんなに繊細に、あんなに静かに、しかも強い説得力を持って人の心の奥深く語りかけてくる松本竣介が、ひとたび文章を書くと、どうしてこんなしゃっちょこばったタテマエ論者になってしまうのか。どうして、彼はいつも「人間と芸術家の名のもとに」真向上段に正論を振り翳し、声高にものを言うのであろうか。どうして私達とか、われわれとか、いつも一人称を複数形で使いたがるのか。彼の年齢的な若さということもあるだろうが、それだけでは勿論理由にはならない。 [4]

 じっさい、松本竣介の文章を集めた『人間風景』 [5] を読んでみると、じつに生硬な文体が続く。正論と言えば正論、生真面目で「しゃっちょこばった」ごくごく観念的な主張が述べられている。正直に言えば、読んでいてもまったく面白くない。研究者でも何でもない私のような読み手には、最後まで読み通すのが苦痛になるような一冊である。
 そして、その生硬な観念を絵のなかに持ち込もうとしたのが、画家自身とその家族を描いた一連の絵だったのだろう。しかし、竣介の全体の画業の中ではこれらの絵は例外に近い。 

   
      《風景》1942年6月、油彩・画布、38.0×45.3cm、個人蔵 [6]

 《立てる像》の背景は、《風景》という独立した絵として描かれている。この絵自体は、典型的な竣介の風景画で、竣介らしい味わいの深い作品である。人によっては、このような風景画を高く評価している。
 この絵を背景として、巨大化したウルトラマンのような異様な大きさの自画像を描き加えたのが《立てる像》である。おそらく戦争期の高揚がもたらしたと推測されるのだが、「強い意志をもつ存在としての自己」を強く表象しようとする自画像である。画家は、まさに風景に人間くさい物語を持ち込んでいるのである。

 物語性が強く表出されている竣介の絵は、「「立てる像」だけでなく、それら一聯の「画家の像」「三人」「五人」等の家族を描いた大作(その中心にいつも竣介がいる)」に限られている、と私は思っている。
 そして、この絵画における「物語性」こそが評価を二分する契機になりうるものである。物語性は、一枚の絵の理解可能性を大きく膨らませる。たとえば、フェルメールである。フェルメールは、《取り持ち女(放蕩息子)》、《真珠の耳飾りの女》、《手紙を読む青布の女》など、きわめて物語性の強い風俗画によって高く評価されている画家である。その解釈しやすい物語性こそが人口に膾炙する最大の理由、異常に高いフェルメール人気の理由だと思われる。《デルフトの眺望》や《デルフトの路地》などは二の次である(私は後者の絵を強く好むが)。

 《立てる像》が代表作のように扱われる理由は、このわかりやすい物語性によるのだろうと推測している。しかし、物語性は、その「わかりやすさ」のゆえに観る側の理解のありようを強く限定する。画家によって与えられた物語以外の物語を観る側に許さない。それを、「押しつけがましい」と感じる鑑賞者がいるのは不思議ではない。すべての人に同質の感動を与える物語などは希有なのである。
 当然ながら、絵画にはこのような物語性を拒否し、絵画自体の美によってのみ一枚の絵であろうとする、それ自体で絵画の価値を表出しようとするものもある。そして、上記以外の竣介の絵は、ほとんどがそのような絵であると思う。
 たとえば、竣介のモンタージュ技法に重要な影響を与えたとされるジョージ・グロス野田英夫は強い社会批評、風刺性を持つ絵を描いたのだが、竣介は、その社会批評的な要素をきれいに洗い流したモンタージュ技法によって街・都市を描くのである。

 そのモンタージュ技法による私の好きな絵の一枚であって、かつ特別な興味を持っている絵が、下に示す《街にて》である。「特別な興味」とは、右下に和服の女性が描かれていることだ。和服の女性が竣介の絵に登場するのはきわめて珍しい。この絵(と、まったく同じ構図、同じ色彩で描かれたサイズの異なるもう一枚の《街にて》)以外で和服姿の女性が描かれているのは、ごく初期の作品、19才の時の《婦人像(叔母・千代子)》だけである(図録によれば)。

      
       《街にて》1940年9月、油彩・板、116.6×90.7cm、下関市立美術館 [7]

 つまり、この例外を除けば、松本竣介における人物像は男性も女性もすべて洋装である。この絵でもそうだが、帽子を被っている女性が多く描かれ、それは戦前にあってはいわゆる「モダン」と呼ばれていた服装である。
 このことと竣介がこだわった都市の風景とを重ね合わせると、竣介の心象風景の中のモダン、「近代」が見えてくる、というのが、私が辿りついた竣介理解のひとつである。
 〈「未完の近代」を彷徨う意志の画家〉というのが、松本竣介理解における私のモチーフで、いずれもう少し理路のしっかりした考えにまとめてみたいと思っている(能力にあまるかもしれないが)。
 

      
      《彫刻と女》1948年5月、油彩・画布、116.8×91.0cm、福岡市美術館 [8]

 時代とともに変遷する松本竣介の最晩年の絵が、《彫刻と女》である。この絵を初めて観たとき、「あっ、新しい竣介だ」と思ったのだが、これが36才で夭折した画家の到達点であったのか、それとも新しい時間発展の最初であったのか、私には判断できない。
 竣介の親友であり、画友であり、もっとも優れた理解者でもあった麻生三郎の言葉で締め括ることにする。


『彫刻と女』『建物』この二点は絵画自身というか、客観的になってレアリテが強い。よけいなものは一切ない。「知性と感性の乖離」といった彼の頭のなかのことが、肉体的に処理できた作品である。彼の方法論は感性と意識との対決であり、両方同時にのぞいていたのであろうが、この作品ではもつと大きな力で仕事がなされていることが感じられる。質的な飛躍であり、質の革命であったろう。彼の仕事がこれまでより大きくなつたというものだ。これが最後になったのが残念である。彼の近代的な生活および絵画思考がまちがいなく、発展的に決定された作品だと思う。 [9]


[1] 『生誕100年 松本竣介展』図録(以下、図録)(NHKプラネット、NHKプロモーション、2012年)p. 93。
[2] 酒井忠康『早世の天才画家――日本近代洋画の十二人』(中央公論新社、2009年)p. 322。
[3] 村上善男『松本竣介とその友人たち』(新潮社、昭和62年)。
[3] 洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社、昭和53年) p. 236。
[4] 同上、p. 240。
[5] 松本竣介『人間風景』(中央公論美術出版、昭和57年)。
[6] 図録、p. 157。
[7] 図録、p. 65。
[8] 図録、p. 231。
[9] 麻生三郎「松本竣介回想」『松本竣介画集』(平凡社、1963年)p. 118。


清水昶の三冊の詩集

2012年08月07日 | 読書

『野の舟』 (河出書房新社、昭和49年)
『さ迷える日本人』 (思潮社、1991年)
『黒い天使』 (邑書林、1998年)

 細見一之が、「一九六八 日本の現代詩」という副題を持つ短い文章で、清水昶にも触れていた [1]。確かに1968年当時、長田弘や佐々木幹郎と同じように清水昶もまた日本の若手詩人を代表していた。

 清水昶が死んで1年以上も過ぎようとしている。1969か70年頃だったと思うが、その詩人に1度だけ会ったことがある。大学院修士課程の学生だったある日の夜半、私の後輩に案内されて私のアパートに突然現れたのだ。

 仙台の詩の同人誌の招待で来仙され、夜の街から私の後輩にうまいこと乗せられてやって来たらしい。私は、その同人をすでに脱けていたうえに、心ひそかに詩を断念していた時期であった。後輩も詩人も私が詩を書く人間であると思い込んで話をするので、会話はまったく弾まないのであった。とくに韜晦趣味があるわけではないが、詩を書くとか書かないとかをその場で表明するつもりもまったくなくて、どのように受け答えをしてよいのが戸惑ってばかりいた。
 話の内容はほとんど覚えていない。ただ、詩人が「あなたのような人が、仙台で詩を書いていこうとするのは苦しいでしょうね」という意味のことを話されたことだけは(当然ながら、詩を断念していた私にはどのような応答もできずにいたことと併せて)ずっと心に残っている。

 細見の文章に誘われて、清水昶の詩をもう1度読んでみたいと思ったのだが、私の本棚には一冊の詩集もない。昭和47(1972)年発行の『詩の根拠』という評論集があるだけである。詩を断念してから10年近くはほとんど詩を読まなかったが、本屋でたまたま見つけた清水昶の名前だけで買った本だろうと思う。

 やっと集めることができた詩集が、冒頭の三冊である。『野の舟』は詩人が33才前後の詩を集めていて、50才を越えてからの詩集であるあとの二冊とは、だいぶおもむきが違う。
 『さ迷える日本人』と『黒い天使』では、幼年期や学生時代の記憶、別れた恋人の記憶が平明な文体で描かれ、その優しい抒情は現在の日常に静かにその時空を連続させている。

ぼくは振り返る
羽月の月下の夜を
春子里子妹姉や
父親に折檻されて荒縛で縛られ
一夜軒下に狸のように吊るされていても
耐え抜いた
混血朝鮮人少年助坊は
素晴らしい鉄拳を持っていた
彼ら悪童はみな正義の味方だった
蛍狩りも一緒にやった
タ暮れ時竹笛を合図に
村の悪童たちが夏のたんぼに集まって
それぞれ笹竹を手にして
それぞれが狙った平家蛍?には
咄嗟に自分の名前が付く
たとえば
アレガあきらちゃんの蛍!
助坊の蛍!
てっちゃん蛍!
はるこ、さとこの蛍!
 ……
東京も老いている
どこにも蛍はいない
蛍の墓はもとより
清水家代々の墓もない
いったい
ぼくはどこに入つたらいいのだろう
平成十年元旦
深夜のラジオニュースは
地球全体が
黄昏の季節に入っていることを
告げている
        
「蛍」部分 [2]

すべては夢だ!
歌謡曲のように
終着駅には見知らぬ女が降りてくるばかり
あの暗緑に濡れた彼女は ひっそりと閉じて
遠い記憶の駅で途中下車したのだろう
京都での学生時代 下宿の暗闇に眠っているとき
おびただしい落花の音で
はっと目を覚ましたことがある
ある種の花は
音をたてて死ぬこともめるのだ
そのとき
北村太郎さんではないが 何故か
もう死ぬのではないかとかんがえた
肉体のそとがわでは
海のような学生運動が終焉し
友人たちは みな走りぬいたあと
空気のぬけた自転車のタイヤのようだった
少年の頃から
ゆうひが好きだった
燃え落ちほろびゆくもの……
満開の桜が嫌いなのは
全身で美しさを誇り
無惨に散ることを知らないからだ
だれもが迷っている
東京の林立するビルの町にも
ゆうひが火の粉のように降ってくる
そんな日にかぎつて
夜の空に異様に赤い月が浮かんでいる
夢のない日を
今日は深く眠れるだろうか
            
「ゆうひ」全文 [3]

霧の道をさ迷い歩いた
もし青春があつたとするならば
そのようなものだろう
霧だって音をたてて流れることがある
京都で流れ者の学生だったときも
霧の音を聞いたような気がした
五番町タ霧楼の跡地にあつた
小さな居酒屋「タ霧」に入り浸っていた
 ……
「タ霧」には
本当の美少女の夕子がいた
学生たちは
みんなその子を狙って
あつまったが
だれも手をだせない
彼女の背後には
濃い黒い霧のようなヤクザの影がありすぎた
 
……
五番町の夕子
抒情の消えた東京にも
霧が吹きはじめた
        
「京都夕霧五番町」」部分 [4]

 それがどんな哀しみにみちていようとも、過去は許されている。いや、許すとか許さないとかを越えて、その時空がそっくりそのままそれ自体として感受されている。そしてその態度は、そのまま現在のありようの受容へと繋がっているようだ。

 しかし、もっと鋭く勁く抒情が立っていた『野の舟』による若い詩人は、次のようにみずからの心のありようを明らかにしている。

 わたしは少年期から青年期に至るまで、さまざまな地方、さまざまな都市に移り棲みましたが、そこで出会い、そしてわかれた多くのひとびとのなかでも印象深かったのは、まるで自身の心のなかにのみ頭を垂れてくらしているようなひとびとでした。わたしは彼らの心のなかに土足で入り込もうとしては手痛くはねつけられてばかりいましたが、彼らこそわたしのなかに、しつかりと棲みついているわたしと同じ他人であることを長い時間をかけて、ようやく気づいたような気がします。わたしは、さしたる希望も絶望も持ちえない、この「精神の白夜」の底を、さらに底なしに生きてゆくひとびとを恐れます。そして、そのようなひとびとを自己の内部に棲みつかせてしまった、わたし自身をこそ、もつとも恐怖します。 [5]

 少年の日わたしは死の恐怖にとりつかれ、深夜ふとんをかぶって、ひとりすすり泣いていたことを覚えている。だれも手をさしのべることの出来ぬ闇深くでふるえていた幼い魂から涙とともに死はひき潮のようにひいていってしまったのだが、そのとき以来、青年期にいたる今日まで、やみくもな死の恐怖感に憑かれたことは、わたしにはない。「荒廃」といった言葉でしか呼びようのないこの市民社会から浸透してくる荒んだ感覚は、わたしを死の方へと導くのではなく、自身の絶望観をも拒んで「見る者」へとみずからを回転させ、その拠点から市民社会へのはげしい反撥を見せるようになっていった。しかし、この世で生きのびてやるのだと云う断言を内心にひそませる者にとって、この見者の徒はしばしば破られ、単身、世界の荒廃に向かって足を踏みだすとき人知れぬ無力感が暗い穴をひらきはじめる。それが死への誘惑を秘めているかどうかは現在のわたしには判然としないが、死が人間のぬぐいようのない事実であることを想うとき、その絶対さとうらはらにあくまで幻想としてしか個人の内部でとらえ得ぬ死の観念がいかなる肢態をとって人生に棲みつくかがその人の思想を大きく決定づけてしまうこともあるのだ。 [6]

 そのような心性の詩人が描いた『野の舟』には、幼年時代から未来の死に架けて張られた緊張した時間軸と、内部の他者から市民社会へと張られた空間軸をもつ時空のなかを、自在に行き来する抒情がある。

毎日きまった時刻に
1頭の馬がめくらの男を乗せ
明澄な朝を目ざして
おれたちのなかから旅だつ
闇から闇へと老いてゆく男を乗せて
虚妄にひかる馬一頭が
夜の未来を踏みしめてゆく
めくらの男と馬の行手に
たぶん
殺されるために生きのびている覚悟がある
封じられるために語る口がある
     「おれたちは深い比喩なのだ」部分 [7]

ストップモーシヨンの映像は
一瞬の後またたくまに崩れ落ち
恐怖は地獄で
世界よりもあかるく輝いた
やがて一刻の後
人々は笑い声さえたてながら日々のフィルムにまぎれてゆき
フィルムのそとがわでは
ひとりの男が
犬のように擊たれて斃れている
わたしは
耳のうらがわで
ゆっくり塔が燃え落ちる音を
はるかに遠く
聞いていた
          「塔」部分 [8]

前進がすなわち
かぎりなき後退である今日
われらは
素足で痛みを踏みしめて
深い虚空に傾いた
ゆうぐれの地平線上を歩いてゆけ
火を求め
みえざる柩を負わされて
ついにいのちの
点となる日まで……
         「柩」部分 [9]

抒情をきわめた一族は
殺しあいながらほろびさり
そして
まぼろしの
さらにまぼろしの
夥しいひまわりが朽ちもせず
吹きっ曝しの雪の首都
石の墳墓で
現実よりも鮮明にきみを待つ
      「ひまわり ――冬の章」部分 [10]

 詩としての出来具合、完成度を云々することはできないけれども、正直に言えば、若い時分に書かれた詩群の方に魅力を感じる。そこには、恐れも哀しみも不安も憎しみも、想世界の実在として配されている。そして、その想世界からは『黒い天使』や『さ迷える日本人』に至る道が確かに延びていたのだろうが、読み手である私の現在の生そのものへと繋がる道をも内包しているようなのである。
 そのように詩人の中の詩的想世界が、多様な読み手の多様な現実の生へと時間発展する潜在可能性を保持していることが、優れた詩の条件ではなかろうか、少なくとも私のような読み手にとっては。

[1] 細見一之「正直な怒り、正直な抒情、正直な愚痴」絓秀実・編『思想読本11 1968』(作品社、2005年)p. 98。
[2]『詩集 黒い天使』(邑書林、1998年)p. 20。
[3]『詩集 さ迷える日本人』(思潮社、1991年)p. 36。
[4]『詩集 黒い天使』p. 6。
[5]「あとがき」『詩集 野の舟』(河出書房新社、昭和49年) p. 116-7。

[6]「死の上をはだしで歩く詩人―大野新論」『死の根拠―清水昶評論集』(冬樹社、昭和47年)p. 118-9。
[7] 『詩集 野の舟』p. 10。
[8] 同上、p. 20。
[9] 同上、p. 38。
[10] 同上、p. 50。