かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(13)

2024年11月25日 | 脱原発

2016年1月22日

 あるフェイスブック友だちの投稿で、赤坂憲雄さんが1月17日付の福島民報に「山や川や海を返してほしい」という文章を寄稿していることを知った。学習院大学教授で福島県立博物館館長でもある赤坂憲雄さんは、慶応義塾大学教授の社会学者、小熊英二さんとの共編著の『辺境から始まる』 [1] があるが、『東北学へ』シリーズなどを著されている民族学者である。
 政府も福島県も、そして、それぞれの市町村さえも、放射能汚染地となった故郷から避難した人々を躍起になって帰還させようとしている。日本の国民は1mSv/年以下の被爆に抑えられるように法で守られているというのに、福島の人たちは20mSv/年まで被爆してもいいのだ、というあまりにも不当な差別のもとに帰還が進められている。
 赤坂さんはそのことに異を唱えているのである。

 福島の外では、もはや誰も関心を示さないが、どうやら森林除染は行われないらしい。環境省が、生活圏から離れ、日常的に人が立ち入らない大部分の森林は除染を行わない方針を示した、という。それでいて、いつ、誰が「安全」だと公的に宣言がなされたのかは知らず、なし崩しに「帰還」が推し進められている。
 わたしは民俗学者である。だから、見過ごすことができない。生活圏とはいったい何か。人の暮らしは、居住する家屋から20メートルの範囲内で完結しているのか。もし、そうであるならば、民俗学などという学問は誕生することはなかった。都会ではない、山野河海[さんやかかい]を背にしたムラの暮らしにとって、生活圏とは何か、という問いかけこそが必要だ。
  〔中略〕
 除染のためにイグネが伐採された。森林の除染は行われない、という。くりかえすが、生活圏とは家屋から20メートルの範囲内を指すわけではない。人々は山野河海のすべてを生活圏として、この土地に暮らしを営んできたのだ。汚れた里山のかたわらに「帰還」して、どのような生活を再建せよと言うのか。山や川や海を返してほしい、と呟[つぶや]く声が聞こえる。

 家に閉じこもった生活でしか20mSv/年以下が保証されないのだ。20mSvという数字そのものが福島に住む人々の将来的な健康を無視した数字なのに、普通に暮らせばそれ以上の被爆が実質的に想定されるのだ。
 何よりも、赤坂さんが指摘するように、現在の帰還政策は、人間が「ある場所」で生きることの意味をまったく考えていない非人道的な措置なのだ。

 一編の詩がある。東京電力福島第一原発の過酷事故のために富岡町から避難せざるをえなかった女性の詩 [2] である。

富岡のそらへ
     佐藤紫華子

そーと吹いてくる
風に誘われて
すゝきの穂がたなびいている

北へ 北へ
なつかしい
富岡の空へ向かって!

あの空には
思い出がいっぱい

私達の心をのせて
雲は両手を広げ

茜色に染まる
空へと走って
行く……

 森も、山も、川も、私たちが暮らす故郷である。空も、雲も、私たちの故郷には欠かせない。放射能にまみれた森や川、放射能を降らせる空と雲の下で生きることを強制する社会とは何か。私(たち)もその社会の一員であることの意味を考える。考えながら、原発に反対してデモを歩く。

[1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)。
[2] 佐藤紫華子『原発避難民の詩』(朝日新聞出版、2012年) p. 110。

 

 
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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(30)

2024年11月23日 | 脱原発

2016年2月12日

 こんなニュースをネットで見つけた。

 間もなく新政権が誕生するベルギーが、2025年までの脱原発へ一歩を踏み出した。10月30日の組閣交渉の中で結ばれた主要6政党間の合意に基づき、現存する2カ所の原子力発電所は全て閉鎖される方向だ。ただ代替エネルギー源の確保が条件となっており、調整には時間がかかりそうだ。複数の国内メ ディアが伝えた。
 ベルギーは北部ドエル(Doel)と東部ティハンジュ(Tihange)の2カ所に原発を抱え、共に仏公益事業大手GDFスエズ傘下の電力大手エレクトラベルが運営している。合わせて7基ある原子炉のうち最も古い3基を2015年まで、残りを2025年までに廃炉とする計画。2003年に脱原発に向けた関連法が既に成立しているが、今回の合意でこれを堅持することが確認された形だ。

 福島事故を受けてドイツが脱原発に踏み切ったことはよく知られているが、チェルノブイリ事故後にはオーストリアは建設した原発を一度も使うことなく閉鎖し、イタリアも1990年にすべての原発を閉鎖した。また、オランダでも2基中1基を閉鎖し、残る1基については耐用年数を全うさせるか早期閉鎖にするか政治的に議論されているものの遅かれ早かれ原発は閉鎖されることになる。スウェーデンでも2010年に全原発廃棄するという政治的決断がなされたこともあり、原発大国フランスが残っているとはいえ、ヨーロッパが脱原発へ向かって進んでいることは確かだ。
 こうして先進国では脱原発が進むが、経済成長を夢見る後進国においては原子力エネルギーへの幻想は続いているだろうし、そのような国に原発を売り込もうという悪辣な国もある(日本だが)。このような流れから、いずれ、原子力エネルギーをめぐる周辺国化が始まるのではないかと想像される。福井や福島や青森など経済的に恵まれない農漁村に原発を集中させたように、これからはグローバリズムの名のもとに貧しい国々に原発を集中させて原子力の周辺国化が進められていくのではないか。
 日米安保条約や原子力協定ばかりではなく、安倍政権が進めている集団的自衛権行使を可能にする安保法制やTPPによって、日本そのものの周辺国化、属国化が徹底されようとしているとき、その日本が原発輸出を目論んで後進国の原子力に関する周辺国化の先兵的役割を果たそうとするのは、私たちにとっては悲劇であり、世界から見れば喜劇そのものだろう。周辺国の人々からの憎しみは日本に向かい、周辺国から吸い上げた経済利益は日本を素通りしていくことは目に見えている。
 原発を止められない日本は、もうすでに周辺国化された東アジアの後進国の一つに過ぎない(いや、経済的にはともかく、政治的・文化的には先進国になったことなど歴史上一度もない)。なのに、愛国主義者たちの嘆きの声が聞こえてこないのはとても奇妙だ。
 かつて世界の二大核開発拠点だった米国のハンフォードと旧ソ連のマヤ-クの歴史を批判的に描いた『プルトピア』の著者、ケイト・ブラウン米メリーランド大教授(歴史学)が朝日新聞のインタビューに答えて、次のように話している。

 当時〔1950年代〕、原子力発電の技術開発でソ連に後れをとっていた米国は、日本に原子炉を輸出することにしました。広報戦略の一環です。ソ連は、米国の原子炉を「マーシャルアトム」(軍事用の核)だと言ってばかにしていました。米政府はこれを恥じ、アイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」を唱え、原爆被爆地の広島にあえて原子炉を置こうとしたのです。ビキニ事件を受けた日本の反核運動の盛り上がりもあって「広島原発」は実現しませんでしたが、ともあれ、米国製の原子炉が日本に設置されました。それは、原子力潜水艦用に開発された軍事用の原子炉を転用し、民生用の原子炉としては安全性が十分確認されたものではありませんでした。しかし、改良に余分なコストや時間をかけたくなかった。米国は非常に危険でやっかいなものだと知りつつ、ソ連をにらむ西側陣営の日本に輸出した。日本にはエネルギー資源がなく、米国に支配された国だったからこそ実現したのでしょう。

 原発を巡るアメリカと日本の関係や、過酷事故を運命づけられたかのような日本の原発の歴史の始まりが、疑いようもなく、簡潔に、明晰に述べられている。「米国に支配された国」に「非常に危険でやっかいな」原発が押し付けられたのである。
 しかも、そのように周辺国化というよりも植民地化された日本で、安倍自公政権は福島の人々の犠牲に目を向けようともせず、そのアメリカだけに忠誠を尽くすように日本の原発を守り続けようとしているのだ。
 私たちは、日本の無残な政治的状況という点においても、原発に反対してデモを続けるしかないではないか。そのように行動している私たちは、言葉の正しい意味で「愛国者」ではないかと思う(「愛国者」という言葉は歴史的・思想的に薄汚れていて嫌いだが)。愛国主義を標榜する人々のほとんどは安倍自公政権を支持している。そのことは彼らの愛国精神に反しないのであろうか。まあ、彼らの「愛国」とは単に政治権力に従順というだけなのかもしれないが……。

2016年2月19日

 ベルギーは国として2025年までに7基の原子炉全ての廃棄を目指して着実に進んでいるとばかり思っていた。ところが、ティアンジュ(Tihange)原子力発電所の完全廃炉に向けての作業の中で、2号機を2015年3月に再稼働させたという。そのことに対して、国境で隣接するドイツ西部のアーヘン市が、老朽化したベルギー国内の原発の安全管理が適切に行われていないことを理由に、近々訴訟を起こすと発表した。そんなニュースがあった。 
 2025年に完全廃炉を目指すといっても、それまでは機を見て運転するということらしいのだが、問題のティアンジュ原発2号機はコンクリートブロックに亀裂が発見されて停止措置が取られていたにもかかわらず、何の手当もなしに再稼働させたということだ。どこの国でも、原発を再稼働させるためには、どこかで安全性を犠牲にするか無視するかしかないようだ。どこまで何をやっても安全を担保することなどができないことを原発推進側も先刻承知なのである。
 いまや、原発の危険性は国境を越えた訴訟も辞さない深刻な問題となっている。何の手当もできず、大量の放射能を太平洋に流し続けている日本が環太平洋諸国から訴えられる日がいずれ来るのではないか。そうなれば、取り返しようのない膨大な汚染量に対して補償などの経済的な対応はほとんど不可能だろう。ベルギー原発の訴訟は、EUが定めた原子炉の安全管理基準を法的根拠としているが、そのような協定、条約が環太平洋諸国にないことで安穏とできるような問題とは思えない。

 

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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (19)

2024年11月21日 | 脱原発

2016129

 この29日にも高浜原発3号機を再稼働するというニュースが流れ、それに抗議するために関西電力東京支社前で抗議行動をするということをネットで知った。月1回の日曜昼デモを31日にするために今日の脱原発みやぎ金曜デモは休みになっていたので、東京に出かけ関電前抗議、首相官邸前抗議に参加する。
 せっかくの東京というので、世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館の『画家と写真家のみた戦争』という美術展を見にいくのも目的の中に入れていた。美術評論家の椹木野衣さんが『戦争画とニッポン』 [1] という本の中で戦争画について言われていたことが気になっていたのだ。
 アメリカ軍によって接収されていた大量の戦争画が1970年に国立近代美術館に無期限貸与の形で返還されたあと、椹木さんたちがその公開を要請し続けたものの、「社会の国粋主義的な傾向に加担するからよくない」などということで実現しなかったという。敗戦後、芸術家たちの戦争協力への批判はかまびすしかったが、だからといって、その事実としての戦争画を隠してしまうことは「なかったこと」にしたい歴史修正主義にほかならない。しかし、「当時としてはどこに国粋主義などあるのかという思いだったのだが、今日ではにわかにその心配が高まってきた」という意味のことを椹木さんは語られていた。
 安倍自公政権が成立してから、国会における絶対的多数を背景に秘密保護法、集団的自衛権を容認する安保法制など解釈改憲に踏み切ったばかりか、あからさまに憲法改悪を広言している。政権そのものが極右化していることをいいことにネット上での「国粋主義的」言説や、街中でのヘイトスピーチなどの「国粋主義的」行動があからさまになってきた。
 このような「国粋主義的」強権発動をその権力の本質とする安倍自公政権によって、原発も再稼働されるのである。免震棟は作らなくてもよい、ケーブルの不正な敷設があっても再稼働する原発(川内、高浜)には目をつむるという規制委員会によって安全性の追求は次々に放棄されている。これもまた、それをよしとする強権的な政府の意図を背景としているのだ。
 日本の政治は、まともに歴史を見ることがない、現実に起きたことから何一つ学ぼうとしない歴史修正(歪曲または無視)主義的思考にまみれているけれども、私は、戦争画が芸術家による戦争協力、戦争賛美であろうとも、かつてなされたこと、起きたことをまっすぐに見ておきたいと思ったのである。

 関西電力東京支社は、日比谷公園の西隣、国会通りに面している。 日比谷公園を抜けると、国会通りの向こうの歩道に560人くらいでもあろうか、集まって抗議の声を挙げている人たちが見えてくる。官邸前や国会前に行ったことはあっても、関電東京支社は初めてである。このビルの9階に関電支社が入っているという。
 車道寄りに並んだ抗議の人たちは次々と抗議のスピーチやコールを挙げている。富国生命ビルの玄関は5mほどの階段を上ったところにあって、最上段には制服姿の二人が抗議する人たちを見下ろしている。
 「福一事故」のあとでは原発を再稼働することそのものが理不尽であること、再稼働の容認が免震棟建設やケーブル不正敷設を容認することで強行される不正そのものであること、高浜原発ではMOX燃料を使用するなど危険に危険を重ねる愚行であることなどを、抗議の声は訴え続ける。
 高浜原発は、今は再稼働以前の再起動状態に入って明日の朝には臨界に達するとみられる。それでも、私たちは福井から遠いこの地で反対・抗議を続けるしかない。一人が「私たちはけっしてやめない。反対の声を上げ続ける」と絶叫する。そうだ。それしかない。
 1820分ごろまで関電支社前にいた。仙台のデモの時より薄着だが、東京の日中では汗ばむほどだったので、寒さ対策は十分と思っていたが、かなり体が冷え込んできた。降り続く小雨を防ぐためにカメラをジャケットの中に入れていた。防寒ジャケットが半分ほど前開きなので冷え込むのだと、カメラをすっぽりとジャケット内に収めたが、じっと立ち尽くしたままでは一度冷えた体に体温が戻りそうにもない。
 まだ抗議行動は続いていたが、1820分ごろに首相官邸前に向かった。 富国生命ビルから首相官邸前まで1kmほどある。出来るだけ体を動かそうで大股かつ急ぎ足で歩いた。そのせいで冷え込んだ体に幾分か体温が戻ってきた。官邸前の抗議の列の先頭にたどり着いた時にはほとんど寒さを感じなくなっていた。
 雨と寒さで以前に来た時ほどの人出ではないが、抗議の列の前の方ではいつものような大きな声が上がっていた。そういえばフェイスブックで「雨が降ったから人が減ったなんて言われるのが悔しいからぜったい官邸前に行く」という投稿を見かけた。しかし、主催者の悪天候への配慮もあって、今日の抗議行動は官邸前だけで、国会正門前は中止になっていた。
 私のように以前から計画を立てていて、朝のうちに新幹線に飛び乗った人間はその慣性力に逆らえず、悪天候とはいえ参加するしかないのだが……。 
 官邸前で上がっていたコールも、今日は高浜原発再稼働への抗議の声がほとんどである。一通り写真を撮り終えた私もコールの列に加わる。
 車の出入り口で分断された抗議の列の先頭に見知った顔が見える。以前にFB友の目良誠二郎さんから紹介していただいた「NONUKES MORE LOVE」のグループの人たちだ。その中の何人かにはFB友になってもらっている。その中に入れてもらってコールに声を合わせていると、グループの人がつぎつぎ入ってくる。目良さんもカメラを抱えてやってきた。
 「高浜原発、ただちにやめろ」、「やめられないなら首相が辞めろ」などと声を上げているうちに1930分になった。抗議は20時まで続くけれども、仙台の雪掻き人は早めに引き上げたのである。

[1] 椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』(講談社、2015年)。



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(29)

2024年11月19日 | 脱原発

2025年10月16日

 それにしても、おお神よ、これはいったいどういうわけなのだろうか。これをはたしてなんと呼ぶべきか。なんたる不幸、なんたる悪徳、いやむしろ、なんたる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隸従するのを、統治されているのではなく圧政のもとに置かれているのを、目にするとは! しかも彼らは、善も両親も、妻も子どもも、自分の意のままになる生命すらもたず、略奪、陵辱、虐待にあえいでいる。それも、軍隊の手になるのでもなく、蛮族の一群の手になるのでもない(そんなものが相手なら、血や生命を犠牲にするのもやむをえまい)、たったひとりの者の所業なのである。しかもそいつは、ヘラクレスでもサムソンでもなく、たったひとりの小男、それもたいていの場合、国じゅうでもっとも臆病で、もっとも女々しいやつだ。そいつは戦場の火薬どころか、槍試合の砂にさえ親しんだことがあるかどうかも怪しいし、男たちに力ずくで命令を下すことはおろか、まったく弱々しい小娘に卑屈に仕えることすらもかなわないのだ!このようなありさまを、臆病によるものと言えるだろうか。隸従する者たちが腰抜けで、憔悴しきっているからだと言えるだろうか。
           エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ [1]

 人びとが「国じゅうでもっとも臆病で、もっとも女々しい」小男に隷従するわけを論じた『自発的隷従論』の中の一節である。1546~8年、今から470年ほど前に書かれた古典だが、まるで祖父母の世代に「腰抜けめ!」と叱られている気分になるほど、2015年の日本にしっくりと嵌りそうな文章だ。
 この〈小男〉が誰だなどということはことさらに言いたくもないが、人びとが自発的に隷従することで独裁を助けているという時代を越えて共通する認識は、かなり厳しい問題を私たちに突きつけている。
 TPPが包括的合意に達した後のJA全国大会に安倍首相が来賓として招かれて挨拶をしたのだという。TPPに絶対反対という自民党の公約(とくに農民層に向けての)を反故にしたというのに、主体がJAという組織なのか農民たちなのかは判然としないが、こうしたニュースに積極的な隷従の典型を見る思いがする。
 しかも、明示的ではないがボエシの論旨は、人びとの隷従は国家(あるいはプレ国家)の始まりと同時に人びとの中に不可避的に芽生えた心性であることを示唆していて、「共同幻想としての国家」における幻想性のなかに深く隷従性が隠されているのではないか考えさせられた(つまり、私の宿題として残された)のだ。
 もともと『自発的隷従論』を読もうと思っていたわけではない。FBに『独裁体制から民主主義へ』という本の紹介があって、アラブの春を闘った人びとに読まれていた権力に対抗するための教科書だという宣伝文句に惹かれたのだった。
 最近は、デモのためだけにしか街に出かけないので、本屋に寄る機会もほとんどない。やむをえずAmazonで注文したら、これもどうだと『自発的隷従論』が宣伝されていたので、ついクリックしてしまった(安い文庫本だからできたのだが)。
 右手には人びとの自発的な隷従論、左手にはこうすれば独裁体制から民主主義へ転換できるという非暴力的抵抗の方法論。どうしろと言うのだといいたくなるが、どちらも真実なのだと思う。
 辺野古の基地建設に反対する行動では県知事を先頭とする沖縄のマジョリティが結集している。3・11後の官邸前での再稼働反対、原発反対の抗議行動は時には10万を超える人びとを集めて4年も粘り強く続けられている。『首相官邸の前で』を監督した小熊英二さんは、この一連の抗議活動、デモから民主主義への運動の質が変わったと考えている。
 また、若い学生たちが組織したSEALDsが主導する戦争法制に反対する行動、デモによって、デモそのものに対する日本人の意識を大きく変えつつあるように見える。隷従する精神にとっては、デモに参加することは恐怖であったかもしれないが、SEALDsのデモは誰にでもできるごく普通の意思表示にすぎないことを日本人に明らかにしてくれたと思う。
 もちろん、自公政権であることは自発的隷従がまだまだ強いことを意味しているが、最近の日本で生起し、そして継続している抵抗、抗議、反対の動きには隷従する精神を突破する契機を内包していると思えてならない。

 [1] エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(西谷修監修、山上浩嗣訳)『自発的隷従論』(筑摩書房、2013年) p. 13。



2025年11月6日

 11月4日の朝日新聞の3面に「もんじゅ 異例の勧告案」という記事が出ていた。と、パソコンで打ちこんだら「慰霊の勧告案」と誤変換された。日本語としては変だが、イメージはしっくりする。ちょっとばかりATOKのセンスに感心した。

 原子力規制委員会は4日、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)を安全に運転する能力が日本原子力研究開発機構にはないとして、新たな運営主体を明示するよう馳浩文部科学相に勧告すると決めた。

 勧告なので法的拘束力はないものの、実質的には「もんじゅ」に引導を渡したように思える(勧告する側も受ける側も自覚がないにせよ)。日本原子力研究開発機構の前身は、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構で、少なくとも日本の原子力工学を先導してきた国の研究開発機関で、その分野ではトップクラスの人材が集まっていたはずである。勧告を出した規制委員会の田中俊一委員長も日本原子力研究所に在籍していた。
 1995年のナトリウム事故以来、実質的に実証炉としてなんら「実証」実験ができなくなっていた事実そのものが、工学(技術)的に事故を乗り越えることが困難であったことを「実証」したのだったが、今回の勧告は、運営(人文・社会)的な能力も欠如していることを明確にしたのである。
 しかし、新しい運営主体は見つかるとは思えない。機器の点検漏れや虚偽報告など8回もの保安規定違反を繰り返したのは、あたかも高速増殖炉の技術的困難はないかのように見せるためには、そうするしかなかったと考えるのが自然である。「安全に運転する能力」とは、安全を担保する技術的能力を前提とするが、国内で日本原子力研究開発機構に所属する人材以上の能力を有する技術者集団は考えられない。つまり、運営主体を替えても技術的能力が高まる可能性はほとんどない。ヘタをすれば格段に低下する。
 行政事務的な運営主体なら変更は可能だろうが、素人が口出しをすれば「もんじゅ」の安全性の担保はいっそう絶望的になるだろう。最近はとくに「政府が先頭に立って処理をする」だとか「私が責任を持つ」などという言辞で事態を悪化させる例が続いているだけに、科学技術に無知な人間の口出しは恐ろしい。
 どう考えても「もんじゅ」を廃炉にするしか道はないのである。世界中で高速増殖炉にしがみついているのは日本だけだ。1991年に試験炉も実証炉も諦めたドイツに続いて、1994年にはアメリカとイギリスが、1996年には原子力大国フランスですら高速増殖炉の開発を断念した。茨城県大洗町の試験炉「常陽」も福井県敦賀市の実証炉「もんじゅ」も廃炉の決断時である。それが、誰かが好きな「世界最高水準」の政治判断というものだろう。
 世界の原子力先発国家がすべて諦めたのに、どうして日本は高速増殖炉を諦めなかったのだろう。後発国の焦りか、日本の科学技術への盲信(盲信というのは科学に対する無知に基づく)や奢りのためだろうか。
 日本原子力開発研究機構の前身、日本原子力研究所や核燃料サイクル開発機構には、大学で机を並べていた友人たちが研究者として就職した。なべて優秀な学生たちだった。そのうちの何人かは、人生のかなりの部分を「もんじゅ」に関わっていた。とうに退職した彼らは、その「もんじゅ」の現状をどう思って見ているのだろうか。
 原子力工学を学んだ私は、いま、脱原発に一生懸命になっているが、それでも友人たちのことを思うと、少しばかりではなく感傷的になってしまう。福島事故の後の年賀状に、恩師が「彼らのことを思うととても切ない」と書いて来たことも思い出して、いっそう辛い気持ちになる。
 フランスと同じ1991年くらいに高速増殖炉開発計画を断念したとしても、研究者として盛りを迎えていた彼らがその後どんな研究生活を送ることができたか、もちろん私には想像できない。優秀な彼らであれば、新しいテーマで充実した研究生活を送ったかもしれない。たしかな想像はできないが、どこか悔しい感じだけは残るのだ。

 

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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(12)

2024年11月17日 | 脱原発

2016年1月15日

 1月14日の河北新報ネット版に「〈女川原発〉5km圏 ヨウ素剤配布進まず」という記事が掲載されていた。宮城県が女川町と石巻市の原発5km圏内の住民にヨウ素剤の配布を促しているが、問題が多すぎるとして市も町も配布に踏み切っていないという記事である。
 ヨウ素剤は、原発事故時に飛散する放射能のなかで短半減期のI-131の甲状腺への蓄積を抑制して甲状腺癌の発生を少なくするために事故直後に服用しなければならない。しかし、ヨウ素剤が役に立つのは甲状腺癌に対してだけであって、その他のもろもろの急性障害、晩発性障害、低放射線の長期被爆障害には何の効果もない。事故が起きれば、ヨウ素剤によって助かる人も確実にいるだろうが、全体の被害を見れば福島やチェルノブイリ事故の被害規模とそれほど変わらないだろうことは自明である。5km圏内どころの話ではない。
 記事の中で、とくに目を引く記述があった。配布を渋る市、町の動きに対して、県原子力安全対策課の発言に次のような一言があったという。

「議論は重要だが、原発は今そこにある。住民の安心のためには早く配った方がいい。」

 「原発は今そこにある」と言うのである。この危機認識はきわめて正しい。今そこにあって、すぐにも事故が起きる可能性があるから早く配ってほしい、そういう意味の発言である。
 しかし、事故の危険のある原発が「今そこ」にあるのなら、ヨウ素剤を配るかどうかなどとのんびり議論している場合ではないだろう。出来るだけ急いで住民を非難させなければならない。それが無理なら、事故が起きないように原発の再起動を諦めさせたうえで、廃炉にするよう東北電力に求めるのが県民の生命、財産を守るべき県のやることだろう。
 ヨウ素剤を配ることや、避難計画を立てることで守れるものなどたかだか知れている(ないよりまし、そんな程度だ)。廃炉にすることで守れる土地や人間とは比ぶべきもない。

 デモに出かける前に、頼んでいた本が届いた。堀内和恵さんの『原発を止める島』である。上関原発建設計画が持ち上がってから30年以上にわたって反対を続けてきた祝島の人々の苦闘のルポルタージュである。中には、映画監督の纐纈(はなぶさ)あやさんや鎌仲ひとみさん、写真家の那須圭子さんたちの祝島に寄り添う活動の報告も含まれている。
 表紙裏には次のような惹句が書かれている。

日本では、一七ヵ所の地で原発が建設されてきた。
だが、それをはるかに超える二九ヵ所の地で原発を止めてきた。
この事実を知る人は少ない。

瀬戸内海に浮かぶ人口約五〇〇人の小さな島、祝島。
ここには、三〇数年もの間、原発を止めてきた人びとがいる。

祝島から、優しい風が吹いている。


 
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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(28)

2024年11月15日 | 脱原発

2015年9月4日

 民主党政権時代は2030年には原発ゼロにするとしていたので、脱原発運動は条件闘争的な要素もないではなかった。しかし、自公政権になってから、原発を基盤エネルギーに据えるという政策によって、脱原発は反自公政権そのものでなければならなくなった。
 その間、白井聡さんの『永続敗戦論』 [1] や矢部宏治さんの『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』 [2] などの著書に典型的に現われたように、自公政権打倒を超えて、アメリカ合州国政府と向き合うことが避けられないことを多くの国民は知ることになった。
 原発による日本国土の荒廃のみならず、戦争法案という日本国民の命を賭ける政策に対峙せざるを得ない私たちは、当面は自公政権に抗っていくしかないが、いずれは、日本の政治システムの背後にべったりと張り付いているアメリカ支配に向き合わざるを得ない。
 先に詩を引用した鮎川信夫は、先の戦争に行き、生き残った詩人である。新しい戦争危機の時代にあって、その詩集最後には奇しくも「アメリカ」と題する詩が収められている。

それは一九四二年の秋であった
「御機嫌よう!
僕らはもう会うこともないだろう
生きているにしても 倒れているにしても
僕らの行手は暗いのだ」
そして銑を担ったおたがいの姿を嘲けりながら
ひとりずつ夜の街から消えていった
胸に造花の老人たちが
死地に赴く僕たちに
惜しみない賞讃の言葉をおくった
予感はあらしをおびていた
あらしは冷気をふくんでいた
冷気は死の滴り……
死の滴りは生命の小さな灯をひとつずつ消してゆく
Mよ 君は暗い約束に従い
重たい軍靴と薬品の匂いを残し
この世から姿を消してしまったのだ
………
今でも僕は橋の上にたつと
行方の知れぬ風の寒さに身ぶるいするのだ
「星のきまっている者はふりむかぬ」
Mよ いまは一心に風に堪え 抵抗をみつめて
歩いて行こう 荒涼とした世界の果へ……
       鮎川信夫「アメリカ」より [3]

[1] 白井聡「永続敗戦論――戦後日本の核心」(太田出版、2013年)。
[2] 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル、2014年)。
[3] 『鮎川信夫全詩集 1945~1965』(荒地出版社、1965年)pp. 240-243。



2015年9月14日

 安保法案(戦争法案)の是非の議論の時期はもうとうに終わっていて、いまはひたすら反対の声を上げるときだ。この点に関しては、木村草太首都大学東京准教授の発言がきわめて明快だ。木村さんは、9月13日のNHK日曜討論で次のように述べている。

 時期じたいは、私は熟しているというふうに思います。
 まず法案の違憲性ですけれども、元最高裁判事、元法制局長官、著名な憲法 学者、のほとんどが、つまり憲法解釈の専門的なトレーニングを受けた方のほとんどが、この法案に違憲な部分があると言っています。また世論調査でも、違憲であるという認識が多数を占める状況になっていて、違憲な点があるという点は決着がついています。
 また法案の必要性についても、少なくとも、今国会で成立させるべきではないという意見が、どの世論調査でも大勢を占めています。
 さらに政府の説明ですけれども、政府がまともに説明する気があるのかという点についても、それはなさそうだ、ということがわかってきました。
  したがってこれは否決・廃案以外にはない。そういう判断ができる時期に来ていると思います。

 (1) 法律関係者も国民も法案は違憲だと判断して議論は決着している、(2) 国民の大勢が法案成立に反対している、(3) 政府は説明する気がない。よって、否決・廃案する以外にない。
 明快にして簡明、民主主義国家であればこれ以外の選択肢はない。問題は、安倍自公政権も自民党、公明党も民主主義そのものを理解していないところにある。結局、私たちは集会・デモで意思表示するしかないのである。


 

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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(11)

2024年11月13日 | 読書

2015年12月20日


 二つの大惨事が同時に起きてしまいました。ひとつは、私たちの目の前で巨大な社会主義大陸が水中に没してしまうという社会的な大惨事。もうひとつは宇宙的な大惨事、チェルノブイリです。地球規模でこのふたつの爆発が起きたのです。そして私たちにより身近でわかりやすいのは前者のほうなんです。人々は日々のくらしに不安を抱いている。お金の工面、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか? どの旗のもとに再び立ちあがればいいのか? だれもがこういう思いをしている。一方チェルノブイリのことは忘れたがっています。最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブイリは私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです。
 私たちの前にあるのはだれにとっても新しい現実です。
  スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』 [1]

 今年のノーベル文学賞をドキュメンタリー『チェルノブイリの祈り』の作家、スベトラーナ・アレクシエービッチが受賞したことは、大いなる事件である。文明史的な意味でのメルクマールたりうるのではないか、大げさでもなんでもなく、そう思えるのである。
 チェルノブイリの大惨事の後、さらに規模の大きい原発事故が福島で起きてから、ドイツという先進工業国が原発廃棄を国家として決断し、オーストリアのような原発を持たない国家でも原発由来の電力の輸入を禁止した。それは、明らかに一直線に進んできた技術文明の変革の兆しに違いないし、そして、そのような未来への新しい意思に呼応するようなノーベル文学賞の発表だった。
 しかし、一方で、悲惨な原発事故で汚染された領土と数万の被災民を抱えながら、原発再稼働を画策し、場合によっては新しい原発が必要だと公言する極東アジアの後進国がある。
 まるっきり200年以上も昔の産業革命のときと同じような時代錯誤の技術信仰に踊り狂っているとしか思えない愚かな宰相のいる国に生きる私たちは、今日も「原発再稼働反対」、「すべての原発廃炉」を叫ぶためにデモに行くのである。

 今年の最後の読書をノーベル文学賞作家の『チェルノブイリの祈り』を読んで終わらせようと思ったのだが、じっくりと読むのは難しい。全編、チェルノブイリの人々のインタビューで構成されていて、冒頭の作家自身の言葉も、自分へのインタビューの形になっている。
 急性障害で死亡した家族のこと、挽発性障害で苦しむ自分のこと、自分たちを見捨てる政府への不信、住民を指導してきたはずの共産党組織の人の不信と後悔、どれも読み進めるのが辛い話ばかりだ。
 同じことが福島で起き、そして今も起き続けているのだ。

昨日、トロリ—バスに乗りました。その一場面。男の子がおじいさんに席を譲りませんでした。おじいさんがお説教をします。
 「きみが年をとったときにも、席を讓ってもらえないぞ」
 「ぼくはぜったいに年をとらないもん」
 「なぜだね?」
 「ぼくらみんな、もうすぐ死んじゃうから」
   リリヤ・ミハイロブナ・クズメンコワの発言『チェルノブイリの祈り』 [2]

[1] スベトラーナ・アレクシエービッチ(松本妙子訳)『チェルノブイリの祈り』(岩波書店、2011年) pp.32-33。
[2] 同上、p. 219。

 
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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(27)

2024年11月11日 | 脱原発

2015年8月21日

現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性のあいだの闘争である。
       ジョルジョ・アガンベン [1]

 安倍自公政権が推し進める戦争法案や原発再稼働に反対する私たちは、たしかに、戦争によって人を殺さないこと、人々の命が放射能によって脅かされないことを心に据えて闘っている。そのような意味では、私たちは「人間性」の側に立ち、自民党や公明党は「動物性」の側に立っていると考えてもあながち間違いではない。
 しかし、ハンナ・アーレントの「全体主義」論、カール・シュミットの国家の「例外状態」論、ミシェル・フーコーの「生政治」論を参照しつつ、人間はどこまで人間であり得るかを考え続けているアガンベンが語ろうとしていることはそれとは少し違うようだ。
 近・現代の政治は、統治される大衆(国民)を「生かさず、殺さず」、たんに「生き残らせる」ことに専心している。いわば、私たちの自然な生は「剥き出しの生」として扱われ、その人間性が貶められている、とアガンベンは考える。その極端な例はアウシュヴィッツである。そこにはもはや人間と名指すことすら困難な「ムーゼルマン」と呼ばれるまでに貶められた人々がいた。
 それは、ナチス・ドイツに固有で特異な例外と考えることは難しい。今、私たちは、自公政権がナチスのひそみに倣うように憲法を無視する立法を行なおうとしていることや、自公政治家の言説の多くにナチスとの共通性を見ることができるし、イラクのアブグレイブ刑務所における虐待の例を待つまでもなくアメリカ合州国の政治権力もまた同じような性格を帯びていることを知っている。
 私たちを「剥き出しの生」として単なる統計の要素として扱う「生政治」は、近・現代政治権力の避けがたい本質である。そうであるならば、私たちの政治的な闘いは、「動物性」の側に押し込めれられようとしている私たちの「人間性」回復の存在論的闘いである。党派性や政治イデオロギーの闘いではないのである。

[1] ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年) p. 138。



2015年8月21日

 電力会社の保安部門の子会社に近親者がいるという人が、東電が福島第一原発で事故を起こしてから各電力会社が事故対応のため応援を出したとき、それは掻き集められた日雇い労働者であって、けっして電力会社の人間ではなかったのだという話をされた。
 そのことは、原発事故が起きても事故に対処することができる人材も技術も電力会社にはないということを意味している。じつに、東電が事故を起こした原発を前にして右往左往することしか能がないという事実とよく対応している。そんな原子力技術に未来がないということはあまりにも当然なことであって、少なくとも国民の将来に責任のある政治家は次のような内容の報道に注目すべきである。

「熟練した技術者の引退が相次ぎ、若年の技術者が原子力発電という将来性の無い分野に進みたがらないことを考慮すれば、原子力発電からの撤退に時間をかけ過ぎること、あるいは撤退そのものをためらうことは、国家の将来にとってきわめて危険なものになり得る。」
 フランス国立の原子安全研究所がこのように発表しました。

 じつは、学生が原子力工学を見放し始めたのは最近のことではない。少なくとも、15年ほど前に東北大学の量子エネルギー工学(旧原子核工学)専攻の大学院担当教授が年々学生の質が落ちていると私に嘆いていた。その教授は私の後輩なので「たいへんだね」と応えたものの、原発のお守りぐらいしかない学問の将来ということで私自身は「それはそうだろう」と思って聞いていた記憶がある。

 

2015年8月23日

 川内原発が再稼働してしまい、反原発、再稼働反対も絶対に手を抜けないのだが、参議院で審議が進められている戦争法案(安全保障法案)も喫緊の問題である。
 戦争法案に限らないけれども、安陪首相は「息を吐くように嘘を言う」ということでとても有名になった。確信的に嘘をきっぱりと断言するというのが彼の特徴である。原発関連で言えば、福島の原発事故は「完全にコントロールされている」という嘘、「政府が先頭に立って収束に当たる」という嘘。
 それと比べれば、戦争法案をめぐる中谷防衛相などの発言は、その場しのぎの答弁なので支離滅裂になったり、自己矛盾を生じてしまっているというに過ぎないように見える。役人の耳打ちですべて了解できるほどの人材ではないということを示しているだけだ。
 安陪首相の虚言は際立っているというものの、政治家が嘘を語るということそのものはとくに珍しい現象ではないようだ。「政治の世界は虚々実々」などということは昔から言われている。
 以前に読んだジャック・デリダの『言葉にのって』 [1] には「政治における虚言について」という1章が設けられている。そこでは、政治における虚言についてはプラトンをはじめとして古くから哲学の対象として論じられているとして、なかでもデリダはハンナ・アーレントの著述 [2] から多く引用している。その本は、私が読んだアーレントの著作には漏れていた。
 プラトンまで遡るのは私の能力では不可能だが、せめてアーレントの著作くらいは読んでおきたいと思った。現代の日本の政治の舞台で溢れるように発せられる「嘘」を、その原因を個々の政治家の資質に求めるのではなく、政治の本質に由来する虚言としてとらえることが可能なのかどうか、考えてみたいのである。そうすることで、安倍晋三という個人の虚言の本質も見えてくるのではないか、と思う。たとえば、それは子どものでまかせの嘘そのもの……、あるいは、政治的効果が緻密に計算された虚言……などということが見えてくるかもしれないのである。

[1] ジャック・デリダ(林好雄、森本和夫、本間邦雄訳)『言葉に乗って――哲学的スナップショット』(ちくま学芸文庫、2001年) p. 134。
[2] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間――政治思想への8試論』(みすず書房、1994年)。

 

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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (18)

2024年11月09日 | 脱原発

201618

 先史学者で社会文化人類学者でもあるアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』は、人類の発生から現在までの進化の過程を生物学的、社会学的、文化論的に説き起こした大作であるが、そこで解明されている人類の進化は興味深く、かつ悲劇的である。ルロワ=グーランは、1964年の著書の中ですでに次のように述べている。

 現在でも、適応は終っていない。進化は新しい段階、脳を外化する段階に及びはじめ、厳密に生活技術の観点からすれば、転換はすでに行われている。〔……〕時間・空間の縮小、行動リズムの増大、一酸化炭素や産業公害への不適応、放射能の浸透性などは、長いこと人間のものと思われてきた環境に、人間が生理的に適応できるかどうかという奇妙な問題を提示している。十全に進歩を利用しているのは社会だけだ、ということにならないかどうか、自問してみることもできよう。個人としての人間は、すでに時代遅れの有機体であって、小脳や喚脳、手足のように役には立つが、人類の下部構造として背景に退き、〈進化〉は人間よりも人類に興味をもっているのではなかろうか。その上このことは、人類という種と動物種の同一性を確認するに他ならない。動物種については、種の到達点だけが考察の対象になるからである。 [1]

 ヒューマニズム(人間中心主義)は、完全に沈黙せざるを得ない。人間が作り出した一酸化炭素や産業公害や放射能によって、個別の人間ではなく、人類が適応可能かどうか問われている。いまや、個人の私(たち)は時代遅れの有機体に過ぎないという。つまり、一酸化炭素や産業公害、放射能へ私たちの身体的適応は絶対に追いつかないということだ。
 一酸化炭素(地球温暖化)の問題も放射能(原発、原水爆)の問題も、その反人類的な本質は明らかにされているにもかかわらず、資本主義を是とする国家群は解決を拒否している。産業公害もまたインドや中国の大気汚染を見る限り、地球規模の解決の見通しは立っていない(国家権力群は解決しようともしない)。この国家権力群は、ネグリ&ハートに倣って《帝国》と呼ぶと概念的にはすっきりと納まるようだ。
 人類の進化と適応が重大な危機に直面していることを、ルロワ=グーランの記述で辿っているとき、息抜きで読んだはずの詩集の中に、人類どころか地球そのものの墓碑銘が記されていた。

〈墓碑銘〉
太陽が滅び進化のはてに赤色巨星となり白色矮星と化した その億年の大昔
太陽系の惑星((地球))に人類という生物が住み
他に比類なき智能を具有し 火星を探査し月に資源を漁り
宇宙を往来するほどの科学の粋を極めたが
文明から精神を欠落して五蘊皆空を悟らず
権力者のムレが互いに国家を樹てて領土と富を諍い
そして遂に夢魔の生きものと化し
漂える宇宙の塵となった 

  「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている」(部分)[2]

 「そして」なのか「だから」なのかは措くとして、私たちは五蘊を駆使して、原発に反対し、その国家の政策に反対し、今年初めてのデモを歩き、そのデモを終え、明日のさらなる行動へと繋げるのである。

[1] アンドレ・ルロワ=グーラン(荒木亨訳)『身ぶりと言葉』(筑摩書房、2012年) pp. 400-1
[2]
尾花仙朔『晩鐘』(思潮社、2015年) pp. 126-7



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〈読書メモ〉 『現代詩文庫114 新井豊美詩集』(思潮社、1994年)

2024年11月05日 | 読書

……からの距離は雑草にふちどられ
おきさった形象はひび割れている

風がとだえる
道路の両側から庄しよせる熱気の壁が
白い都市の相貌をゆがめる

吐息と汗のいちめんの澱みに
ひしめきあう不定形のものたちが
音をたててくずれ
飛沫をあげ
やがて
遠のき
………
わたしの中心から一個の錘をおろすと
それは水面をかすかにゆるがせて
増水した黒い容積のなかに消えるが
骨の層に達するまえに
糸は切れ
関係を失ったものの反動だけが
そのとき確実にわたしを超えたのだ

路上にポリバケツ
〈像〉とは一皿の空白だと
わたしはすべり落ちた匙を
今朝の食卓にもどした
  崖と隧道と遠近法と
  うなずくものすべてを
  おまえの小さな指で
  ゆびさしたとしても
  表層を漂う
  浮標にすぎない
欠けた皿とナイフを並べ
果実の薄い皮をむけば
うすももいろの芯と
むしくった核 と

そして
敏捷に動く素足を追って閱へと入りこめば閽の手はわたしの眼をおおい鼻孔   をふさぎ臆病なおまえが身を隠す筒状の迷路の夜々はにがくいっそう息苦しく長いのだ 穿たれた裂目に塗りこめられてゆくものは歳月だけではない 上へ上へと白いしっくいによって塗りかためられたかの幻想の島々を思い描くならばどのような悪意と妄想のあおざめた神々がよみがえるであろうか
名づけられることを拒否する名なき島々の岬をめぐる環碟と回路と
  「波動」(詩集〈波動〉)部分 (pp. 8-9)

 詩集の最初に置かれた「波動」という詩の前半部分である。言葉の使い方、表現手法にびっくりするほど感嘆もしたのだが、戸惑いも大きくて少し腰が引けてこの詩集から撤退した方がよいのではないか、そんな気もしたのである。
 「路上にポリバケツ/〈像〉とは一皿の空白だと/わたしはすべり落ちた匙を/今朝の食卓にもどした」という4行に詰め込まれた技法には確かに驚かされ、感心もした。1行目にはシュールレアリズム風のイメージ、2行目には思いっきり観念的な命題、3、4行目にはごくごく日常的な動作の描写が描かれている。とても感心したのだが、どうもうまく心がついていけないのである。
 1行目の「……からの距離は雑草にふちどられ」にも驚かされた。その距離が問題になるような重要な対象が隠されていて、その欠落感を抱えたまま次行へ移らざるを得ない。詩の後半部で「あなた」が出てきて、たぶん「……」は「あなた」ではないかと想像するのだが、欠落感は解消しないのである。
 もう一つ、「おきさった形象」とか「白い都市の相貌」という言葉にアーバン・モダニズム(こんな言葉があるかどうか知らない。もしかしたら私の勝手な創作かもしれないが)の匂いがしてこれにも腰が引けたのである。ポストモダニズムがあらゆる価値を相対化した後で、都会的で小洒落た言葉遣いやファッション(言葉も含めて)があたかも価値あるかのように流行り始めたころ、田舎者の私は強く反発し、リキッドモダンなる時代になってもその感覚が続いていて、腰が引けてしまうのである。
 しかし、詩集の2番目に掲載された次の「薄暮」という詩で、私の印象は一変する。

わたしたちはすこし不機嫌に
黙っている

雑踏のなかで
パンの包をもって
改札口を出る人とすれちがう

長いプラット・ホー厶の先端へ
かたむく名もない夕ぐれから
夕ぐれへと気ぜわしく羽搏きながら
移り棲むほの暗い疲労と
もうひとつ
消滅した一日と
そして都市の重い扉を出る電車の
車内広告に燃えつきる太陽は
どこの地の
太陽か
遠い国では火をふく戦乱があり
近い国では圧政があり
わが地上には
薄暮の貧しい連带がある

混雑する市場や丘の上の集合住宅の眼をいっとき明るくかがやかす燈火はわたしたちを幸せにする?
ごらん どの窓からも真昼間の雲と洗濯物はとりこまれ下着はたたまれ 食卓をめぐって子供らのはずんだ声と若い母親の優しい叱り声が でもひとつだけ燈がともらない窓がここにもあって そこからまた夜が拡がろうとしているなら?

屋上にぬけるもうだれもいない階段の踊場に その上につき出たアンテナの林に たち去りがたげにとどまっているのは沈黙と夢のぬけがらだけだ 奥多摩方面の
遠い山々の稜線にはまだ
かすかな明るみがあり

電車はいま
町はずれの河を渡る
  「薄暮」(詩集〈波動〉)全文 (pp. 10-11)

 いい詩である。一日の仕事が終わった夕暮れ時、電車で帰宅する都会人の1時間やそこらの物語である。車内広告の写真から遠い異国や隣国の政情のこと、私たち貧しい者の連帯に思いを致し、電車の窓から見えるアパートメントの窓々の灯火の有無から幸せな家庭とおそらくは崩壊した家庭とを想像する。
 机の前や書斎や研究室だけから哲学や思想が生まれるわけではない。人は日常の繰り返しの生活の中でありきたりな振る舞いをしながら、あらゆることを考え、想いを進めることができるし、それが私たちの思想や情念となるのだ。この詩にはそういう主張がある、と私は読んだのである。
 そして、「奥多摩方面の/遠い山々の稜線にはまだ/かすかな明るみがあり//電車はいま/町はずれの河を渡る」という詩の終わり方がとても良い。さりげない率直な描写が主題をよく浮き立たせていると思う。
 この詩集に載せられた最初の2編の詩だけでもずいぶんと考えさせられたが、それ以降を読み進めると、この詩人はじつに多才(私にとって多才という言葉は褒め言葉ではないのだが、ここでは文字通り)だということがよく見えてくる。単に多才というよりも、想世界の多重性、異なった世界の時空間が詩人の精神の中に美しく折り重なっているように見える。

すべてをすっかり透きとおらせるためには
魂は透きとおったレンズを持たねばならないが
透きとおったレンズを持つためには
あわれな病者を野に追いやらねばならない
黄金色の麦畑を描くために画家は
彼の病む耳を切り落さねばならなかつた
そして鉛の弾丸と一緒に
光の海に飛び込んでしまった

わたしの手のひらの感情線は繊細で
たくさんの小枝に別れているのに
このさまざまな枝のなかから
ただ一本を
選び取る困難を免れることはできない
空に向って垂直に伸びている枝か
重く曲って地に這う枝か
いずれにせよわたしたちの根は
永遠に地を離れることを許されていないとしても
そのことがいっそう
人間の空を美しくしている

古い足跡の上にも
春になるとたんぽぽの花が咲き
こんな小さな花にさえ
向日性のあることがわたしを
深く感動させる
  「光の声」(詩集〈波動〉)部分 (pp. 14-15)

 「あわれな病者を野に追いやらねばならない」というフレーズにはいくぶん疑問符が付くが、すぐ後のゴッホについての記述から、それがたとえ悲劇的であっても透き通った精神のために己の中のなにものかを捨て去らねばならないという意味だろうと理解できる。無数にある感情線の枝分かれの1本を選ばざるを得ないのは、様々な感情を人は有するがその時々において一つの強い感情が際立つことは避けられないのだ。
 「いずれにせよわたしたちの根は/永遠に地を離れることを許されていないとしても/そのことがいっそう/人間の空を美しくしている」や「古い足跡の上にも/春になるとたんぽぽの花が咲き/こんな小さな花にさえ/向日性のあることがわたしを/深く感動させる」という詩句は、人間存在のありようとして逃れようのない宿命のごときものが美しい世界を形づくることへの反語的なみごとな表象だと思う。
 次の「岬」という詩にも、「光の声」と同じように特別な素材に依存せずに人間の想念、想いの深さを表現した(私にとっては)とても好もしい詩である。

そこでは
えいえん という観念が垂直に
光の雨に打たれている

野茨の白く咲く道を
かわいた風が駆けぬけて
視界は遥か高空へ傾いてゆく
畑や森
崖や隧道
家々やカモメたちの寂しい岸壁を乗せ
うつくしいめまいのように

終点の岬で
バスをおりた
最後のひとりが車道をよこぎり
ひとつの影が日射しをさえぎる
小指ほどの世界の果てまで
ひとはながい自分の影をひきずってゆき
カラの車体は
かるがると世界の裏側へまがってゆく

ひとは
ここに来て願うだろう
吹きすぎる風をとらえることを
いっしゅん という観念が手の中で
かたちある光となってかがやくことを
そのささやかな幻の頭上に
純粋な白い雲がしばらくはとどまることを
祈るだろう

のばされるまなざしが
ひとつの港
ひとつのまち
ひとつの窓
ひとりの天使と赤銷びたひとつの錨
果てという果てを通りぬけ 世界の
中心へとどくことを
  「岬」(詩集〈半島を吹く風の歌〉)全文 (pp. 60-61)

 一方で、散文詩の形式をとった物語と呼べるような詩もある。私にとって散文詩は、文字通り散文であって詩とは思えないということがしばしばあって、いくぶん避けたい気分がするのだが、「海辺の祭り」を引き込まれて読むことになった。

岬で。
水揚げされたばかりの魚の眼が大きく見開かれて 色の深い空がのぞく。その海の窓をくぐり抜けて祭り囃の聞こえる方角へ小走りにゆく。
小さなまちの小さな祭り。

張りぼての鉾を先頭に 花飾りをつけた山車が草いきれの中をねり歩き 白装束の鬼面のアニたちの榊を乗せたあばれ神輿が景気よく海になだれこんだ。

老人たちが笛。
子供らが太鼓。

魚たちの眼球がいちれつに連なり みずいろの吹き流しになって流れてゆく。
おくれて来た夏のおくれて来た祭り。

わたしは忘れられようとしている わたしがそこにいるのに。
烏賊つりの火が明滅してその夏は長かった。ははがいて赤ん坊がいて遠雷の音が響いた。窓の裏側を熱い闇が帯状の霧となって流れ火がばんやりと揺れていた。あれが祭りだったのだ 多分。
小さな部屋の小さな星祭り。願いごとを書かなかった短冊。形而下へ墜ち続ける矩形の夕凪。忘れないで。伯母がいて年寄りがいて女たちがいて 腐敗した魚の臭気がどぶ沿いに緩やかに漂うそのまちでわたしたちのひねこびた赤ん坊は指を吸いつづけいつまでも大きくなれない。

わたしは手紙を書く。現象の向こう側へ避暑地からの手紙に似せてさり気なく。
岬で見た魚たちの蒼い眼球のこと。踊る女たちのこと。醉酊したたくましいアニたちのこと。驟雨と虹と植物になって繁茂してゆく鳥たちについても。
彼等は永遠に楽園の島にいて帰って来ない。
祭りが通りすぎる。道が急に白く乾く。わたしは急がねばならない。
わたしがいてわたしが忘れられる。ははがいてははが忘れられる。赤ん坊がいて赤ん坊が忘れられる。小さなまちの小さな祭り 長い長い夏 すべてが。
  「海辺の祭り」(詩集〈河口まで〉)全文 (pp. 21-22)

 読んでみれば、これは散文詩ではない。1行が長いだけのことで、言葉は明らかに詩のリズムをもって繋がれていくとても良い詩なのである。山育ちの私には海辺の祭りのイメージが薄いけれども、ここに描かれる祭りと人々の描写は懐かしくリアルである。祭りの場にいる(あるいは眺めている)自分と祭りの人々との距離が語られ、そして「祭りが通りすぎる。」からの最終部分で、人生における緊急性と忘却が語られる。
 「海辺の祭り」が過去の記憶を丁寧にたどることで生じる過去への想念を語っているとすれば、「グリューネヴァルト頌」は現前するイーゼンハイム祭壇画から喚起される過去の物語が語られる。いや正しくは、現在と過去が重複して語られるということだろう。

この祭壇画を見てもっとも心をひかれた部分がキリストの凄惨な磔刑像のリアリズムではなく 支えられた腕のなかで殆ど気を失った聖母の蒼白な顔でもなく それ自体はなにをも意味せぬ女の身体の一部分 かつての娼婦マグダラのマリアの背をおおう豊かな金髮であったのは不思議なことのように思われる。鼓動を止めた男の肉体の上に酸鼻に開く傷口にも頭部に鋭くくい込む茨の太い棘にも母の悲哀の涙にも 場面の劇的構成のすべてにわたしの関心はうすかった。ひとり両腕を祈る形にさしのべ苦悩をあからさまにする現世の女の弓なりにしなう背中から腰へ野獣の鬚よりも色濃く波打つ金髮は流れた。暗い空の下に荒漠と拡がるの背景の 褐色を带びた濃緑色の中世空間にはげしいコントラストとなって輝く一房の髮。その即物的な力がわたしをこの祭壇画へと引きよせていたのだ。

 復員した父をまじえたわたしたち家族の戦後の貧しい寄食生活の細部をいま思いおこすことはすでにまれである。
 その頃わたしは僥倖のように二匹の仔山羊を飼っていたのだが 母の出産を前にそのうちの一匹を父は屠殺した。父の振り上げたハンマーでみけんを砕かれた仔山羊が三、四歩飛び上がるようにして倒れ四肢をのばし全身を痙攣させて死ぬまでの一部始終をわたしは凝視していたからいまでも場面を眼の奥に再現することは容易だが その瞬間の幼いけものの悲鳴 鼻孔からどっと流れ出した鮮血の色を思うことはまれである。

 より美しい一匹を残し美しくない一匹の命を手放したことへのわたしの最初の罪の意識を反芻しくり返し手を洗う密かな性癖もいつか消えた。
 その山羊のすべてを食べつくし赤ん坊が生まれてわたしたち家族はあの戦後という時代を無数の小さな罪とひき換えに生き抜いてきた。

 死体がずり落ちてくる全重量を左右上方にのびきった腕の先端で掌に打ち込まれた犬釘が支え 裂けてゆく傷からしたたる血潮が横木の上にどす黒く凝固しはじめている。井戸端に吊された仔山羊は血を抜かれ皮を剝がされたちまち数個の肉片と化した。重い皮表紙の徽くさい頁を繰って描かれたひとりの男の殺害の現場に逃れがたくひき寄せられながらそのとき わたしはおしよせる死と罪の強迫観念から逃れて太陽の光に似たものの持つ生命力を本能的に選びとろうとしていたのだろうか。ひたすら 金色の髮のリアリズムに心われつづけた子供の無意識は。

 イーゼンハイムの この極限の構図のなかに女の波打つ毛髮のひとすじひとすじを執着をこめて描写した画家。あなたにとってその輝きの意味とはなにか。生きることの罪と生命の官能をつなぐ金色のほそいみちすじのありかがいまここにかすかに見えている。
  「グリューネヴァルト頌」(詩集〈いすろまにあ〉)全文 (pp. 47-48)

 私はイーゼンハイム祭壇画の実物を見たことはないのだが、キリストの磔刑が描かれる絵画ではいつもマグダラのマリアに目を魅かれる(聖母子像にしばしば一緒に描かれる幼い洗礼者ヨハネにも魅かれるが)。マリアの「豊かな金髪」に心をひかれた詩人とは異なり、私の場合はいつもマリアの美しさに惹かれるのだが。
 詩は、祭壇画の主題からは少し離れた細部から、「わたしたち家族の戦後の貧しい寄食生活の細部」が想起される構成だが、実際には二つの時空は全く独立しているかの如く描かれている。「より美しい一匹を残し美しくない一匹の命を手放したことへのわたしの最初の罪の意識を反芻しくり返し手を洗う密かな性癖もいつか消えた。/その山羊のすべてを食べつくし赤ん坊が生まれてわたしたち家族はあの戦後という時代を無数の小さな罪とひき換えに生き抜いてきた。」という過去は鮮烈に響く。私にも似たような過去の記憶があるが、この詩句は過去の経験の有無にかかわらず響くだろうと思う(戦争、敗戦、戦後を理解するうえでもそうあってほしい)。
 最後に、この詩人の想世界の中で私から見たら極北と思えるほど遠い世界を見ておくことにする。

海からの白い道を彼女は歩いて来た。運河にかけられた橋を渡った。彼女は微笑しわたしは微笑をかえす。なにかが色づきなにかがあたたかくふくらむ。新しい汐の匂いがしてわたしたちは一つに溶けあう。いっしょね。とわたしはいう。いっしょね?

魚市場の前で西へゆくははに出会った。腰を深く曲げて灰色の眼をした彼女はやさしく ひどく年老いていた。またいつかの祭の日 幟の立つ田舎びた商店街のにぎわいを 幼児の手を引いてゆくうら若い彼女を見た。そばかすのある丸顔に疲労のけだるい影がすけて見えた。

家々の台所に立つ家ごとの彼女らは タぐれの魚の白い腹を裂き俎板についた血を腰を洗う手つきでたんねんに流していた。よく動く細い指で長い髮をすき きりりとたばねた。子らを産んだ涼しい女陰をさっぱりと閉じて戸口をみがいた。

彼女らはいつも遠いところから来る。彼女らは微笑しわたしは微笑をかえす。いっしょね? けれどわたしは 〈そこ〉に帰ることができない。わたしはどこへゆくのか。鏡の前で髮をとかし口紅を拭いファスナーをおろす。何千日目かの同じような夜。わたしはまたしても裂かれてゆく魚だ。折れた指だ。産まない性。黒い水の中で〈……〉とど声もたてずに平べったくなる。
  「西へゆく」(詩集〈いすろまにあ〉)全文 (pp. 33-34)

 私が理解しようとしても理解できない女性性というものがあるだろう。いや、観念的には理解できる気分になること(ところ)もある。だが、情念はどこまで行っても後れを取っている感じがする。女性詩人が書く詩にはそんな部分が含まれていて、それが私にとって魅力のようにも思えるのである。
 しかし、これは性差の問題ではないのかもしれない。私たちは、性差にかかわらず「他者」の中にどうしても届かない精神や情念があることを知っている。だからこそ、「他者」は「他者と」して向き合わねばならないのであり、そうであればこそ、私たちが共有する象徴としての言葉、詩を含めた芸術の計り知れない価値があると考えられるのだ。
 であれば、「西へゆく」のなかの「わたし」へ限りなくアプローチすることに私が新井豊美という詩人の作品を読む正しい意味があるということになるのだが、どうにも遠い道のりのように見えているのがなんとも口惜しい。



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