かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(8)

2024年10月14日 | 脱原発

20151025

人はみな 逝くものなれば われひとり
風に起ちたり 真野の萱原

             西浦朋盛

 「真野の萱原」は、笠郎女が「陸奥の真野の萱原遠けども面影にして見ゆといふものを」(万葉集・369)と詠った歌枕の地で、いまでは福島第1原発の放射能に汚染されてしまった福島県南相馬市にある。
 手許に西浦朋盛著『かあさん ごめん』(株式会社パレード、2015年)という詩歌集がある。西浦さんとは互いのブログの読者で、短いコメントのやりとりもあるが、あまりプライベートなことは話題にはならない。この本にも、まえがきもあとがきも経歴も記されていない。短歌と俳句と詩だけが収録されている。
 書名が表わしているように、詩歌の主題は亡母への思いである。それは、誤診によって適切な治療が受けられず、長い闘病生活を送らざるを得なかった著者を終生守り続けた母への思いであり、津波と原発事故で故郷を離れざるを得なかったその避難生活の途次で亡くなった母への慚愧の思いが綴られている。

誤診とも 知らざるままに 闘病の
十七年は 無為に過ぎ去る

死いくたび 経ながらさがし 求めし名
アスペルギルス 肺真菌症

母ついに わがくるしみを 告げずして
吾をまもる日々 護れるいのち

うつし世に 母あればこそ ある我ぞ
母なかりせば あらざるいのち

にくみても あまりある 原発事故の
放射線 ははと山河を ころす

唯一の いきる根拠を 奪い去る
原発事故は みとめたくない

仮設にも 仏壇はある 位牌もが
母の名記す かなしきかたち

 福島から離れた地で原発に反対しているといえども、その私が西浦さんの痛切な心情をすっかりと受け止められるはずもなく、ただ黙々と紡がれた言葉を読みこんでいるだけである。長い闘病生活に苦しんでいる人たち(健康に生きている人たちもだが)を、さらに放射能汚染で故郷からも追い出すなどということがふたたび起きないように強く願いながら……


20151120

窓をあけると十一月
十一月の秋風が
白く老いた秋風が
ふくれあがる
そっと見ているわたしだ
この、どこまでふくれるだろう
鉛筆の芯、絶えるばかりである
他者の格調を許すばかりである
いまもとめているものは
久しくもとめられてきたものばかりである

    荒川洋治「故事の迷蒙」部分 [1] 

 私たちが「いまもとめているものは」すべての原発の廃棄である。戦争法制やTPPも一緒に反対するのは、人を殺したり殺させたりしないこと、勤め人も農民も老人も若者も健康で豊かに暮らせるようにと「久しくもとめられてきたものばかり」を求め続けているだけだ。
 晩秋の街は電飾に飾られているが、私たち50人のデモの列を歓迎しているわけではなさそうだ。人々に街に出てくるように、そこかしこの店で消費に励むように誘っているだけだ。格差社会、貧困大国と呼ばれるような国になって、年収200万円以下が1000万人を超えたというニュースが流れているのに、どうしたことだろうと訝かってしまう光景だ。
 年金生活になって、消費とは次第に縁遠くなっている私でも本屋には行く。そこの「哲学・思想」の棚にはスピリチュアルなる本ばかりが並び、いつから子ども騙しのインチキが哲学だの思想と呼ばれるようになったのか、ここでも年寄りは消費から遠ざけられているようだ。
 子ども騙しのインチキで思い出したが、最近、放射能関連のインチキがネットで流れている。一つは、ある種の電解水が放射能を減らすというもので、もう一つは放射能を食べる細菌がいるという話だ。どちらも、核反応と化学反応、あるいは生化学における反応プロセスでの桁違いのエネルギー差に対する無知が生んだ幻想である。
 科学者が言ってるわけでもなく「病理科学」とも呼べない程度の話なのだが、反原発の立場らしい人の中にもリツィートしたりシェアしたりする人がいる。私は「啓蒙の物理学者」だとか「教養ある物理学者」であることを自らに禁じてきたこともあって、仔細に論じたり批判したりするつもりはさらさらないのだが、放射能を心配するあまり、引っかけられる人がいないようにとは願っている。

 [1] 荒川洋治「詩集 醜仮廬」『荒川洋治全詩集1971-2000』(思潮社 2001年)p.163



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〈読書メモ〉 在日を生きる(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年)

2024年10月12日 | 読書

 

ぼくは船腹に吞まれて
日本へ釣り上げられた。
病魔にあえぐ
故郷が
いたたまれずにもどした
嘔吐物の一つとして
日本の砂に
もぐりこんだ。
ぼくは
この地を知らない。
しかし
ぼくは
この国にはぐくまれた
みみずだ。
みみずの習性を
仕込んでくれた
最初の
国だ。
この地でこそ
ぼくの
人間復活は
かなえられねばならない。
いや
とげられねばならない。
 「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 33-35)

 帝国主義日本の植民地支配下の朝鮮で生まれ、日本語を母語のように使って生きてきた詩人は、故国から「共匪」として追われて日本に渡ってきた。日本語を教えられ、日本語で「はぐくまれ」生きてきた詩人は、その日本の地でこそ「人間復活は……/とげられねばならない」と言明する。これは、日本で生きる未来への確信だろうか、それとも決意なのだろうか。あるいはまた、願いなのだろうか。そのすべてを包含しているとも考えられる。渡ってきた日本の地で「ぼくの/人間復活」の確信と決意と切実な希求が込められていると考えるのが自然のような気がする。
 私には「在日」として異郷で生きる人間の心情をくみ取ることはかなり難しい。ただ、おおざっぱに概念的に括れば、ひとつはやはり日本ないし日本人との関係(それは在日が置かれている日本の政治的状況でもある)が もたらす心情だろう。もちろん、それは在日同胞(われわれ)と日本人(かれら)という関係も含まれている。もうひとつは、異国の地で祖国を思いやる心情、とりわけ軍事政権による長い圧政に苦しむ同胞、傷つき、なおその傷口が深くなっていく祖国・同胞を遠く離れた異国で思いやることしかできない状況がもたらす心情ではなかろうか。
 ひとつめの日本ないし日本人との関係がもたらす心情は、金時鍾の詩業全般に遍く沁み透っているだろうが、とりわけ同胞在日が暮らしている土地、猪飼野を主題にした『猪飼野詩集』(コレクションIV巻)に集約されている。猪飼野に暮らす在日が置かれている環境と日々の暮らしから主題を採った詩も多いが、そうした現実を超えたようにいわば在日哲学(私にはそう思える)と呼べるように語るいくつかの詩に強く惹かれた。

おしやられ
おしこめられ
ずれこむ日日だけが
今日であるものにとって
今日ほど明日をもたない日日もない
昨日がそのまま今日であるので
はやくも今日は
傾いた緯度の背で
明日なのである
だから彼には
昨日すらない。
明日もなく
昨日もなく
あるのはただ
狎れあった日日の
今日だけである。 
 「日々の深みで(1)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 70-71)

まずうとまれることから
切れることを覚える。
秩序とはそもそも
切れる関係で成り立つものであり
区切られる こころもとなさは
へだたっていることの
つながりともなる。
それは愛情とさえいっていいほどのものなのだ。
考えてもみょう。
変わりばえのない 日日を生きて
なぜ平穏さが
俺たちの祝福となるのか?
ひとえに国が
海をへだててあるから安穏なのか?
さえぎられているものに
俺たちの通わぬ
願いがあるので
せめぎあう思想にも
俺たちの思いは
ひそんでいて平気なのだ。
つまり 壁は
俺たちに必然の対峙を強いる
対話であり
待機であり
まだ果たされてない出会いが
そこで切れていることの確認でもあるのである
 「日々の深みで(2)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 87-89)

 「まずうとまれることから/切れることを覚える」のだ、誰(何)から疎まれるのか。在日の暮らし、労働などについて語った後に上の詩句が綴られているので、在日同胞ないしは日本人から疎まれるのかとも考えたが、すぐ後に「ひとえに国が/海をへだててあるから……」と記されていて、故国を追われるように来日した詩人の想いが強く重ねられていることが分かる。もしかしたら、二重、三重に「うとまれ」、「切れて」いることを畳み込んでいるのかもしれない。

切れる。
はなから切れる。
切れるまえから 切れているので
切ることからも
切れている。
耐えねばならないなりわいに
つながるなにかが
わからないほど
つながることから
切れている。
太陽がひとり
バス道の向こうでずり落ちていても
投げる視界がないから
思いみる国の色どりもない。
夜更けて星を宿す
運河でもないので
もちろん せかれて帰る
海でもない。
こもって切れる。
ともかく切れる。
主義から 切れ
思惑から 切れ
自足しているつもりの
くいぶちからも切れてみる。
 「日々の深みで(3)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 122-124)

 徹底的に「切れている」のである。もう何から切れているのかと問うことは不可能に思えるほど「切れている」のだ。とりわけ「思いみる国の色どりもない」ほどに切れていることは、けっして在日としての孤独というわけではないだろう。むしろ、切れることで孤立し、孤立すること通じてのみ越えられることどもがあって、それが在日という存在の確認、確証につながっていくのではないか。絶望とははっきりと異なる言葉の勁さがそう思わせるのである。
 『猪飼野詩集』ではなく『日本風土記』に収録されている詩で、在日と日本人との関係性という点でとても興味深く読んだ「わかいあなたを私は信じた」という詩がある。

いや。
いや。
若いあなたが断るはずはない。
突然問われたので
とまどったのだ。
きっと。

それに
午後の
閑散な電車だったから
何人かの
好奇の目が
気になるってことさえ
ありうるではないか。

そうに決まってる。
いくらへんてこな
発音だと言って
老いた朝鮮の婦人を
若いあなたが
無視するはずがないのだ

あなたは答える。
今に答える。
まだまだ先ですから
どうぞ座っていなさい

あなたは答える。

私はあなたに
賭けたっていい。
京橋が過ぎたが
"ツルハシ ノコ?"
がくりかえされたが
あなたの母は
そっぽを向いても
あなたは まだまだ
はじらわねばならない
自分の目をもっている。

森之宫を過ぎたころ
母が立たれた。
それにせきたてられたように
あなたも立たれた。
これは何かの間違いだ。
顔だちのやさしい
あなたが
私の大好きな
日本の娘さんが
それほど偏見に
もろいはずがない。
それにもまして
若い世代を
裏切るはずがない。

賭けの余ゆうは
まだ残っている。
この電車の止まったとき
そのときが私の勝負だ。
私はあせらない。
母が大股に
私の前を通りすぎ
うつむきかげんの
あなたがそれに続いても
賭けはまだ終わったわけではさらさらない。

ゆるやかに
ホ—ムが止まる。
スピーカーが場所を告げ
自動扉が道をあける。
母が出る。
私が立つ。
老婆が外に首を出し
あなたの白いたびが
ホームの谷間へ浮き上がる

ツギが
ツ、 ル、 ハ、 シ、 ヨ。

瞬間の永遠。
あなたの示された
指先と
しきりにぺこべこ頭を下げる
老婆の間に
ガラスがはまる。
母はホームの端。
あなたは中央。
私は老婆と
動く電車の中。
たとえ私が負けていたとしても
母よ、あなたを私はなじりはしない。
 「わかいあなたを私は信じた」 (『日本風土記』)全文 (II、pp. 118-125)

 この詩を読みはじめてすぐ、吉野弘の「夕焼け」(『吉野弘詩集 幻・方法』(飯塚書店、1959年、p. 122))を思い出した。電車の中で詩人が若い女性の行動を見つめているというシチュエーションはまったく同じである。その若い娘と老人と間に起きることを見ているということも同じである。違いは、「夕焼け」では詩人も娘も老人も日本人で、上の詩では娘は日本人で詩人と老人は在日の人間であることだ。
 「夕焼け」では、満員電車の中で娘は老人に席を譲る。その老人が下りて、もう一度別の老人に席を譲る。その老人も降りて、別の老人が娘の前に立つが、「娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。/次の駅も/次の駅も/下唇をキュッと嚙んで/身体をこわばらせて――。」。娘の優しさと恥じらいを思いやる詩人は「やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう。/下唇を嚙んで/つらい気持で/美しい夕焼けも見ないで。/と詩を結ぶ。
 一方、「わかいあなたを私は信じた」では日本人の母娘に片言の日本語で降りる駅を訪ねる在日の老婆に対する娘の恥じらいと勇気を詩人は見ている。その娘の勇気は、老婆に対する母親の態度(それは多くの日本人に見られることだろう)と対比され、詩は「たとえ私が負けていたとしても/母よ、あなたを私はなじりはしない。」と結ばれている。この最後の2行に在日として詩人の想いが凝縮されている。私なら母親へのもっと強い批判の気持ちが湧くだろうと思うのだが、ここには私に思い及ばない在日としての詩人のある「乗り越え」があったのだろうと思う。
 在日の心情のありようとして大雑把に二つに括ったもう一つ、異国から祖国で起きていることどもへの思いの詩は、とくに『光州詩片』(コレクションV巻)に収められている。そのなかで異国に生きる在日しての心情が際立っていると見えて心打たれたのは、次の「そこにはいつも私がいないのである」という直截な一行から始まる「褪せる時のなか」という詩である。遠い異国で帰ることのできない祖国、その国で同胞たちが闘い苦しんでいる場所に詩人はいつもいないのである。同胞たちの闘いや苦悩に共感しながらも共在することはできない。これは同胞たちの苦悩に共鳴しながらもまた在日としての別の苦悩だろう。

そこにはいつも私がいないのである。
おっても差しつかえないほどに
ぐるりは私をくるんで平静である。
ことはきまって私のいない間の出来事としておこり
私は私であるべき時をやたらとやりすごしてばかりいるのである。
だれかがたぶらかすつてことでもない。
ふっと眼をそらしたとたん
針はことりともなくずつあの伏し目がちな柱時計の
なにくわぬ刻みのなかにてである。
(中略)
あの暑い日射しの乱舞に孵ったのは
蝶だったのか。
蛾だったのか。
おぼえてもないほど季節をくらって
はじけた夏の私がないのだ。
きまってそこにいつもいないのだ。
光州はつつじと燃えて血の雄叫びである。
瞼の裏ですら痴呆ける時は白いのである。
三六年(*)を重ね合わせても
まだまだやりすごされる己れの時があるのである。
遠く私のすれちがった街でだけ
時はしんしんと火をかきたてて降っているのである。
 *三六年=「大日本帝国」が朝鮮を直接統治した植民地期間の年数。
 「褪せる時のなか」(『光州詩片』)部分 (V、pp. 43-46)

 この祖国の事象現場に不在であることについては、金時鍾自身のエッセイのなかで述べられている箇所がある。

 私に即して言えば、国が奪われるときも、国が戻るときも、私の力の何ら関与することなしに奪われ、戻されてきた。今度こそはと思われた七・四南北共同声明も、がそこにいないだけでなしに、またしても民衆そのものが不在なのだ。この白んだ無力感。問題が大きければ大きいほど、個人の関わりはうすらいでゆく。そして各個人はその不条理に身もだえながらも、それに対処する方法は民衆の手の遠く及ばないところにあるものと決めこんでしまう。
 「南北朝鮮「融和」の中の断層(コレクション V巻、p. 180)

 『光州詩片』は、文字通り「光州事態」に主題を採ったものだが、詩集の「あとがき」に光州事態の歴史的事実についても述べられている。

 韓国にもようやく政治の和みがくるかに見えた"しばしの春"があった。十八年もの長い間、軍事独裁による「維新体制」をほしいままにした朴正熙大統領が、高まる民衆の民主化要求に惧れをなした腹心によって射殺されたあとの、新しい政治体制が敷かれると喧伝されていた数力月のことだ。いわゆる「光州事態」はこのさ中の一九八〇年五月十八日に噴出した。維新体制継承を叫ぶ陸軍保安司令部司令官全斗煥少将は、この日の未明、遂に全土非常戒厳令を布告し、即刻国会を閉鎖させたばかりか、時を移さず民主化運動指導者の容赦ない逮捕を開始した。大統領死去後の新しい事態に逆行するこのような非常戒厳令の撤廃を求めて、光州市民は都市ごと胸をはだけて立ちはだかったのだ。自由への、それこそ無残なまでも美しい散華であった。
  (中略)
 かくして五月二十七日未明、道庁を死守する市民合同武装部隊の壮絶な抵抗が一万七千名からなる戒厳軍との三時間に及ぶ決戦で終息するまで、吹きすさぶ軍事強権の嵐の中で光州はただひとつの民衆の手の中にあった小箱のような「自由都市」であった。この間、光州「暴動」を背後から操縦してきたとして金大中氏が再逮捕され、ウイッカム将軍指揮下の軍使用まで許可されていたばかりか、空母コーラル・シー、ミッドウェーが急拠回航してくるという、異常なまでの極東緊張がかもしだされていた。このような緊張のただ中で、分断された弱小民族の同族相食む惨劇は血しぶいていたのだ。
 
あとがき」(『光州詩片』)(V、pp. 130-132)

 そこ(光州事態の現場)にはいない詩人は、事態のありようを事実に即しつつも想像力を駆使して想世界の中であたかも共在しているかのようなリアルさで描き出そうとする。

まだ生きつづけているものがあるとすれば
耐えしのいだ時代よりも
もっと無残な 砕けた記憶。
それを想い返す瞳孔かも知れない。

この霜枯れた日に
まだ死なずにいるものがあるとすれば
奪いつづけた服従よりも
もっと無念な 青白い忍従。
弾皮(*)が錆びている野いちごの
赤い 復習かも知れない。

まだあるとすれば
それは血ぬられた 石の沈黙。
いや石より濃い 意識のにこごり-
陽だまりで溶けだしている
その貧毛な粘液かも知れぬのだ

だからこそ
渴く。
ものの形が失われて知る
はじめての愛の象(かたち)なのだ。
まだ腐れない髪の毛をなびかせて
だからこそ春は
私の深い眠りの底でもかげろうているのだ

それでもまだ
つきない悔いがあるとすれば
日は変わりなく銃口の尖(さき)で光っており
海はたわみ
雲は流れる。
あの日 噴き上がったまま
まっさおな空に埋められた
私の
けし。
 *弾皮=「薬莢」の韓国語。
 「まだあるとすれば」(『光州詩片』)全文 (V、pp. 30-32)

日が経つ。
日日にうすれて
日がくる。
明け方か
日暮れ
パタンと板が落ち
ロープがきしんで
五月が終わる。
過ぎ去るだけが歳月であるなら
君、
風だよ
生きることまでが
吹かれているのだよ。
透ける日ざしの光のなかを。

日は経つ。
日日は遠のいて
その日はくる。
ふんづまりの肺気が
延びきった直腸を糞となってずり落ち
検察医はやおら絶命を告げる
五つの青春が吊り下げられて
抗争は消える。
犯罪は残る。

揺れる。
揺れている。
ゆっくりきしんで摇れている。
奈落のくらがりをすり抜ける風に
茶褐色に腐れていく肋が見えている
あおずみむくんだ光州の青春が
鉄窓越しにそれを見ている。
誰かを知るか。
忘れるはずもないのに
覚えられないものの名だ。
日が経ち
日が行って
その日がきてもうすれたままで
揺れて過ごす人生ならば
君、
風だよ
風。
死ぬことまでも
運ばれているのだよ。
振り仰げない日ざしのなかを
そう、そうとも。
光州はさんざめく
光の
闇だ。
 「骨」(『光州詩片』)全文 (V、pp. 51-55)

 同胞の惨苦に心を寄せつつも事態現場への不在の苦悩を通じて思索する詩人は、祖国の悲惨な歴史的展開に自分の思いを強く重ねながら、いわば絶望的な不可能性を乗り越えようとしているように見える。詩句はかなり哲学めいてくるのである。

まだ夢を見ようというのですか?
明日はきりもなく今日を重ねて明日なのに
明日がまだ今日でない光にあふれるとでもいうのですか?
今日を過ごしたようには新しい年に立ち入らないでください
ただ長けて老成する日日を
そうもやすやすとは受け入れないでください。
やってくるあしたが明日だとはかぎらないのです。
 「日々よ、愛薄きそこひの闇よ」(『光州詩片』)部分 (p. 107)

いましがたほの白い空のはしを堕ちていったのは 昨日である
闇は反転の間際でしかめくれあがらないので
今日はいつも 空白のすき間からだけ白むのだ。
いち早くうすい瞼を透かしてくるのもその明りである
老人は考える。
年に気どられないもののありかについて。
こうも余生が透けるばかりなら
場合によっては未知すらも 創りだすものであるかも知れないのだ。
さあ眠るとしよう!
私に明日は百年も先のまぶしい光だ!
 「遠い朝」(『季期陰象』)部分 (pp. V、159-160)

 人間は「やってくるあしたが明日だとはかぎらない」と語るためにはどんな惨苦や苦悩を経なければならないのか。無残に展開していく歴史の中でどれほど生きなければならないのか。詩人と私の経験の差、その隔絶感を不安に思いながら詩編を読み続けたのだが、「やってくるあしたが明日だとはかぎらない」というフレーズに納得するもののその思いに至るプロセスはなかなかに想像しがたいものがある。
 しかし、「未知すらも 創りだすものである」というフレーズには少しならず驚き、わくわくする感じがあった。「未知を想像する」といういくぶんポストモダン風の言述は、何か新しい思想的な可能性を生み出す始点になるのではないか、などと思ってみる。「百年も先のまぶしい光」の兆しとなる可能性はないのか、と。もっとも、このフレーズは、明日は百年先ほどにも遠いというある種の絶望を語っている可能性もないではない。「不可能性の可能性」などと言うとますますポストモダン風になってしまう。ポストモダンはとっくの昔に終焉を迎えたと言われているのに………。



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(21)

2024年10月10日 | 脱原発

2015321

 「321みやぎアクション」の写真を整理してブログを今日明日中に書き上げなければと思うのだが、第一部のライブパフォーマンスの分だけ仕上げて、翌22日の午後は、仙台国際センターで開かれている「言語学者によるメディア・リテラシー研究の最前線」というシンポジウム講演を聴きに行った。午後からの講演に原発事故、原発再稼働、特定秘密保護法など、興味深い講演題目が並んでいたのだ。
 午後の講演全体を通して受けた印象の一つは、さすがにメタレベルから中立的にさまざまな言説を取り上げているという、学問の世界ならごく当たり前のことだった。たとえば、私は一度だけ読売新聞の社説を丁寧に読んだことがあるし、鹿児島県知事の原発再稼働容認の記者会見内容も読んだ。それはブログで批判する(悪口だけのような気もするが)ためだけで、それ以外は不愉快になるのでまず読まないのである。産経新聞などなおさら読まない。
 ところが、大阪学院大学の神田靖子先生は、原発事故をめぐる朝日と読売社説にみる読者誘導の方法を言語学的分析しているし、ベルリン自由大学の野呂香代子先生は伊藤鹿児島県知事の原発再稼働容認の記者会見内容で用いられる言語的、修辞的な手段の分析を行なっている。一橋大学の今村和宏先生に至っては、産経新聞にも丁寧に探せばとてもいい記事があると言われる。それこそ、メディア・リテラシシーとしての冷静な対処ということだろう。
 最後の東北大学の名嶋義直先生がまとめられていたように、メディア(と政府)がいかに言説(ディスコース)を作りだすか、それをどのように正しく(批判的に)読み解いていくかが大事だということだ。ただ、とても気になったことがあった。野呂先生が講演のまとめのところで、「私たちの側から言説をつくる」という意味のことを言われたのだ。
 最後の質疑応答でも話題になったのは、簡単に言ってしまえば、ハーバーマス的な熟議民主主義の場をどうやって形成し、そのうえで私たちの生きているこの社会を席巻するようなディスコースに私たちがいかに参与できるかということだろう。私はハーバーマスのように楽観的ではないので、権力やメディアと私たちが同じアリーナでディスコースを作り上げるという方法よりも、メディア(と権力)に対抗的な「私たちのディスコース」のようなものを市民の側から形成することが大事ではないかと思うのである。野呂先生にインスパイアされて、意を強くしたのだ。
 「言語学者による市民ディスコース創成の方法」だとか「私たちの言説をいかに形成するか、その言語学的考察」のようなシンポジウムがあったらいいな、と思ったのである。私の立場から言えば、もちろん社会学的でも政治学的でもかまわないのだが。
 ブログをさぼった言い訳を書いているのだが、じつは、もっと正しい言い訳がある。この楽天ブログは、1日にアップロードできる写真の容量と文字数に制限があって、私はしばしばオーバーしてしまう。せっせとブログを書いても1日にアップロードできるのは限られているので、翌日に延ばすしかないのだ。残念なことだが、いくぶん喜ばしい。

 

201543

 高浜原発の話はどうなっているのだろう。福井地裁での「大飯原発3、4号機、高浜原発3、4号機運転差し止め仮処分の申し立て」のうち高浜原発の分は、規制委員会による設置変更許可が出ており、緊急性が認められるとして、311日に結審した。関西電力による樋口英明裁判長ら3裁判官の忌避申し立ては、福井地裁に却下されたが、関電は名古屋高裁金沢支部に即時抗告している。
 あの福井判決の樋口裁判長が311日に結審したということは、3月いっぱいで転出する樋口裁判長の任期内(3月末まで)に運転差し止めを認める判決が下されるものと期待されていた。しかし、未だに仮処分決定日は決められていない。
 担当している裁判については、任期を越えて担当できるという制度があるらしいのだが、どうなっているのだろう。
 大飯原発3、4号機の再稼働を認めない名判決を下した樋口裁判長が最後まで担当されて、高浜原発の運転差し止めも認めてくれることを期待している。もちろん、さらに上級審での裁判が続くだろうし、上級審へ行けば行くほど裁判への信頼性が落ちることも確かだ。最高裁人事には現在の政治体制イデオロギーのバイアスがかかっているし、それが下級審に伝播していることは避けがたい。
 しかし、原発関連裁判にかかわる裁判官はいかに体制イデオロギーに浸潤されているとはいえ、樋口判決を目にせざるを得ないだろう。どんな判決を出すにせよ、樋口判決の法の倫理、法の論理を目にした影響はあるはずだ。矜恃のある裁判官なら、それを否定するには、その論理性、倫理性を超克する思考を展開しなければなるまい。あくまで、人間としての矜恃があれば、ということだが。
 もちろん、選挙の一票格差の憲法違反裁判で「違憲状態だが選挙は有効」などというまったく法に馴染まない概念をでっち上げるような行政官としか思えない裁判官が多くいることも確かだが、原発裁判に関しては、樋口判決の前と後とでは決定的に違うだろう。そう思いたい。たかが電気を作るために、10万人以上が故郷を追われ、将来にわたる健康異常や不安に苛まれるという人倫に反する経済的行為が許されるはずはないのだ。
 そもそも生命と経済行為を並列に考えること自体が間違っているのだ。予測不可能、想定外だからといって人を殺していいはずがない。



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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (15)

2024年10月07日 | 脱原発

2015年9月19日

   「9月18日 国会前で」
 2015年9月19日午前2時を回った頃、参議院で安全保障関連法案が可決された。国会前から早めにホテルに戻った私は、テレビもつけず、いくぶん神経が高ぶっていたのか眠れないままに本を読んでいた。
 ハンナ・アーレントの『過去と未来の間』という20年も前に出版された本だが、あまり頭には入らないのだった。ただ、昨日から今日にかけて、「過去」と「未来」を隔てる事態が起きたのだろうかなどという思いがちらっと頭をよぎった。
 18日午後早くからの会議が30分ほど予定より早く終わって地下鉄でホテルへ向かう途中、「国会議事堂」駅で「9条壊すな!」というプラを持った数人が乗ってきた。国会前には、昼も夜も人が集まって抗議していて、もう帰り足の人もいるのだ。
 ホテルで背広を脱ぎ、急いでデモ仕様の服装に着替える。朝、家を出るとき「2足の草鞋だからたいへんね」と妻にからかわれたが、替える靴も含めるとけっこうな量の荷物を担いできたのだった。
 「霞ヶ関」駅を上がると、もうその辺りにも警察車両が何台も止まっている。交差点ごとに大勢の警察官がたむろ(?)しているが、「南側歩道が空いています」と案内しているものの、とくに行き先を規制している様子はない。
 国会前の北側歩道に入ると、スムーズには前に進めないほど人が集まっている。SEALDsらしい青年がコールをしている付近はほとんど身動きできないほどだ。
 車道には警察車両がびっしりと並べられている。車と車の間は人が通れないほどくっつけて並び、その前に警察官が1m間隔で並んでいる。8月30日や9月14日のようには車道には絶対に出さないという構えである。
 憲政記念館の前から北庭を抜けて、最初に入った北庭沿いの歩道から「国会前」交差点を渡って、南庭沿いの歩道に入った。交差点付近は確かに空いていたが、中程からは混み出した。
 不思議なことに、参加者のほとんどの人は警察が設置した鉄柵の前に並んで、警察車両の前に並んでいる警察官と対峙しているように見える。だが、けっして怒鳴り合っているわけでも揉めているわけでもない。じつに静かな示威行動なのである。
 「国会正門前」交差点の角まで辿りつくと、そこから北庭の本部前への横断舗装は閉鎖されていて、何人かが猛烈に抗議していた。たぶん、この交差点が決壊に対して最弱の場所なので警察も必死なのだろう。
 「国会前」交差点から南側歩道に入る。こちらも歩道沿いの1車線が開放されていて交差点付近はまだ空きがあったが、すぐ上で詰まってしまった。そこでしばらくスピーチを聞いていた。午後7時くらいで4万人の参加者だというアナウンスがあった。
 しばらくすると、進行がSEALDsに委ねられ、全体が一斉に若いコールに応えはじめる。私の隣で声を上げていたご婦人が「1枚いただけませんか」というので「戦争させない」というプラを渡し、私は「強行採決ゼッタイ反対」というプラを掲げて声を出した。
  SEALDsのコールが終わる頃がそろそろ引き揚げ時だと判断した。国会内は緊急状態で、多くの人は遅くまで残るだろうと思ったが、年寄りは明日以降のことも心配しなければならないのだ。
 戦争法案は強行採決されたが、国会前に集まった人々の中ではまだ何も終わっていない。国会前に個人個人が自発的に集まって、その数が10万人を超えたということは、大きな意味を持っている。
 その一人ひとりの心の中に本当の民主主義が発動したのだ。「民主主義って何だ。民主主義ってこれだ」というSEALDsのコールの通りなのだ。これまでの私たちは、民主制という制度に安住して民主主義を生きるという姿勢に欠けていたのではないか。
 そして今、これから、一人ひとりの国民の自覚によって、日本の「民主主義」と「近代」は始まるのではないか。そうすることで、近い将来、私たちは日本国憲法、とりわけ憲法9条を体験的に新しく獲得し直すことができるのではないか。そう信じることができる。今日はそういう日だ。
 精神において民主主義を体現し、政治的制度において民主主義を実現することは、私たちが政治的にも精神的にも「自由」を獲得することを意味する。
 疲れたままホテルのベッドにもぐって読んだアーレントの一節を記しておく。

自由の現われは、〈原理〉の顕現と同様、パフォーマンスの行為と時を同じくする。人びとが自由である――それは自由の天分を所有することとは違う――のは、人びとが行為するかぎりのことであり、その前でも後でもない。というのも、自由であることと行為することとは同一の事柄だからである。 [1]

 自らの意志によって国会前に集まり、自らの行為として明晰な声を上げ続けた人びとは、「自由である」ことに決定的に踏み出しのだ。ここから始まる。青臭かろうが何だろうが、そう信ずる。

 [1] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間』(みすず書房、1994年) p. 206。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(20)

2024年10月05日 | 脱原発

2015年2月22日

 金曜日のデモは休みで、2日遅れての月1回の日曜昼デモである。いつもより早めに昼食を作って家を出たのだが、嫌なニュースが続いて気分は良くない。
 沖縄では辺野古の基地反対の運動が続いているが、その弾圧に米軍が出てきた。米軍シュワブゲート前で抗議行動を行なっていた沖縄平和運動センターの山城博治議長ら二人が、基地の警備員によって拘束されたというのである。二人は名護署に身柄が移されたが、3000人近い人々によって不当拘束への抗議が続いている(東京新聞)。 
 この事件は、基地反対運動に対する自公政府による弾圧に加えて、日本に駐留するアメリカ軍も弾圧の前面に現れたということを意味している。
 報道では沖縄県警名護署も勾留理由はよく分らないのだという。米軍に身柄を引き渡されたので、引き続き拘留しているという。つまり、米軍は日本の法律によらず二人を拘留したということで、アメリカ駐留軍は日本の法律を越えて行動していることを意味している。
 もう一つの反吐が出るようなニュースは、「防衛省が、内部部局(内局)の背広組(文官)が制服組自衛官より優位を保つと解釈される同省設置法一二条を改正する方針を固めた」(東京新聞)ということだ。
 いわゆる、「文民統制」によって軍部の暴走を防ぐというのは、太平洋戦争の悲惨な敗北から学んで築いた重要な制度であるが、それを放棄しようというのである。安倍自公政権らしく戦前の軍事国家をめざすらしいのだ。
 この二つのニュースは、日本の現状の本質を顕わに示してはいないか。沖縄では、アメリカのために基地を作ろうと自公政権は警察権力(暴力装置)を駆使している。反対運動が強く、業を煮やしたアメリカ軍は直接弾圧の手を下すようになる。
 しかし、米軍の直接暴力は植民地支配への反発が強まるので得策ではない。そこで、アメリカの走狗である自公政権(官僚)は軍事国家化を図り、いずれ警察に代わって日本の軍(自衛隊)独自の判断で国民弾圧の前面に出られるように策動しているのではないか。アメリカの意のままに政策を動かす日本人が政権中枢に居座っているのである。それこそ真性の「反日」ではないかと腸が煮えくりかえるのだ。
 思えば、長く自民党政権が続いた日本は不幸な国である。ドイツやフィリピンは第二次大戦後の植民地的な占領支配をすでに脱したというのに、独立国家を装っているものの日本はいまだ戦後の占領支配のシステムのままである。「戦後レジームからの脱却」などと安倍晋三は語るが、それは単に戦前のような軍事国家に戻ることしか意味していない。
 日米安保を通じたアメリカの支配を脱して、アメリカによって大幅に制限されている日本の主権を回復して真の独立国家になることがほんとうの意味で「戦後レジームからの脱却」を意味するはずだ。集団的自衛権などという幻想で、アメリカが世界で繰り広げる侵略戦争に国民を送り込みたい安倍晋三には、到底理解できないことだろうが……
 脱原発デモは、当然ながら、原発推進を強引に進めようとする安倍自公政権に対する反対運動に連動する。脱原発というシングル・イシュウの運動でも、その含意するところは本質的なのである。



2015年2月27日


 少し古いニュースになってしまったが、2月18日の東京新聞の電子版に原子力規制委員会の田中委員長の次のような記事があった。

     「地元も安全神話卒業を」 原子力規制委の田中委員長

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は18日の記者会見で「(原子力施設が立地する)地元は絶対安全、安全神話を信じたい意識があったが、そういうものは卒業しないといけない」と述べた。
 田中氏は九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)と関西電力高浜3、4号機(福井県)が新規制基準に基づく規制委の審査に合格した際「運転に当たり求めてきたレベルの安全性を確認した」「絶対安全とは言わない」と繰り返し説明していた。東京電力福島第1原発事故を受け、電力業界だけでなく地元も意識改革が 必要との考えを示した形だ。(共同)

 この記事を読んで、少しびっくりした。原発立地の地元に「安全神話から卒業しろ」と主張しているのである。安全は神話に過ぎないと言い続けてきたのは、反原発、脱原発を主張してきた人々である。一方、「原発は安全だ」という神話を必死になって作ってきたのは自民党政府(と、その走狗の読売新聞)と電力会社であり、それに職業を賭けて全面的に協力してきた田中委員長のような原子力学者ではなかったのか。
 「安全神話」で地元住民を騙してきた人間はいったい誰だったというのか。この鉄面皮、無責任ぶりをなんて評していいのか分からない。
 奇妙な気分だが、「(原子力施設が立地する)地元は絶対安全、安全神話を信じたい意識があったが、そういうものは卒業しないといけない」という文言自体は、しごくもっともで、私たちが「原発は安全ではない」と主張してきたこととほとんど同じである。
 その同じ文言が、高浜原発が再稼働に必要な安全対策の基準を満たしているとする「審査書案」を規制委員会が了承した17日の翌日に当の機制委員長から発せられたのである。
 この事実はとても重要だ。福井の人たちに「高浜原発の再稼働を認めるが、原発は安全ではないから、地元の人間は覚悟しなさい」と原子力規制委員長が宣言したに等しい。もちろん、原発が安全でないということは正しい。その原発を再稼働する自民党政府へ職責を賭けて協力している原子力規制委員長がそう語っているのである。人間の論理的行動(そして、行動倫理)としては破綻しているが、言わないよりマシだとしておこう。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (14)

2024年10月03日 | 脱原発

2015年8月14日

 先週の金デモは仙台七夕の中日(7日)に当たったのでお休みだったが、9日の日曜日にはSEALDs_TOHOKUが主催する集会とデモ「戦争法案反ヤバいっしょ! 学生デモパレード in 宮城」があった。花京院緑地公園に満杯の参加者(600人くらい)に入って、いつもの金デモより長いコースのデモを歩いた。
 若い人のコールはリズミカルでテンポが良く、すっかり乗せられてしまった。戦争法案反対の強い意志も手伝って、張り切って声を上げ、歩き抜いて、その勢いのまま徒歩で帰宅したのだったが、どっと疲れが出てしまった。
 11日には九州電力川内原発が制御棒を引き抜き始め、再稼働に取りかかった。正式には「再稼働」ではなく規制委員会の起動後検査が残されているので「再起動」と呼ぶべきだが、ベッセル内の一部分とはいえ核分裂連鎖反応の臨界に達しているので、物理的には再起動も再稼働も差がない。再起動と再稼働を区別するのは、行政手続き上の問題に過ぎない。
 原発の運転上の危険は、臨界に達する時点で飛躍的に増大し、その後フルパワーに達するまでは徐々に危険が増すことになる。危険度の観点から言えば、臨界に達することと出力を増減させることは本質的に異なる。
 それにしても、戦争法案で世論が沸騰しているときに川内原発の再稼働に踏み切ったことに憤りが増す。あまりにも感覚がジリジリするので、できるだけ神経を押さえ込もうと、『哲学の使命』 [1] だとか、2段組で500頁以上もあるミシェル・フーコーの哲学的生涯 [2] とか、あえて生々しい政治や社会から距離のある本を読んでいた。合間に古い短歌 [3] を読み、画集 [4] を引っ張り出して眺めては己の神経を宥めていたのである。
 しかし、安保闘争を闘った1960年の暮れに自死した岸上大作の短歌なども読み直すことになって、必ずしも心は穏やかになったというわけではない。それでも次のような短歌を見つけた。どちらも1960年頃の窪田章一郎の作 [5] である。

信ぜよと首相語れる眼前に腕組む若者が放つ哄笑

軍事同盟に組みせじと面(おも)あげ拍手する少女(おとめ)らのきよき命を生かせ

 55年前に、あたかもSEALDsの若者たちを支持し、応援する歌が詠まれているようではないか。

[1] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『現勢化――哲学という使命』(新評論、2007年)。
[2] ジェイムズ・ミラー(田村俶、雲和子、西山けい子、浅井千晶訳)『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』(筑摩書房、1998年)。
[3] 『現代短歌全集』(筑摩書房、1981年)、『現代短歌大系』(三一書房、1972年)など。
[4] 『生誕100年 靉光展』図録(毎日新聞社、2007年)、『生誕100年 松本俊介展』図録(NHKプラネット東北、NHKプロモーション、2012年)など。
[5] 窪田章一郎「歌集 雪解の土」『現代短歌全集 第14巻』(筑摩書房、 1981年)p. 271。

 

2015年8月30日

   「8・30国会10万人・全国100万人大行動」
 地下鉄霞ヶ関駅から地上に出たのがほぼ12:30だった。仙台を出るときは雨が降っていたのだが、低い雨雲が垂れ込めてはいてもまだ降り出してはいない。国会正門前に向かう人の列にしたがって外務省脇の坂を上がる。六本木通りに出て右折、「国会前」交差点へ出る。
 今回は警察の過剰警備が心配されて、どの駅からアプローチするのがいいなどという案内が多く流れてきたし、国会議員や弁護士による過剰警備にたいする監視団が結成されるというニュースもあった。多少は心配だったのだが、時間が早いせいかなにごともなく正門前に向かうことができた。
 国会エリア内のアプローチできるぎりぎりの範囲は歩いたし、それにそろそろ開始時間の14:00になるので、声を上げる定位置を決めなければと思いながら国会前庭を横切って行った。
 できるだけ正門に近い場所へ行こうと柵越しに眺めると車道にけっこうな数の人が出ているではないか。決壊したのだ。
 思わず急ぎ足になって公園出口付近でまわりの人と一緒に柵を越えようとしたら、近くにいた警官が制止に来た。もう少しというところで私服(公安?)がやってきて膠着状態になったが、「上が開いてるよ」と教えてくれる人がいて、7、8メートル上で車道に出た。
 社会学者の北田暁大さんが「「あの日あそこに居なかった」と後悔したくないから、いくね。」とツイートしていたのがとても印象的だったが、規制線が決壊して「国会前広場」ができあがった時が「あの日」の「あそこ」の象徴的な瞬間として思い出される日が来るのではないか、などと考えながら人混みの中に入っていった。

地下鉄の切符に鋏いれられてまた確かめているその決意
                        (III ・5月13日・国会前) [1]

装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている [2] 

 時代は変わり、今日は踏みつける装甲車はないのだが、この二首は55年前の60年安保闘争を闘い、その年の暮れに自死した学生歌人、岸上大作の歌である。今日のこの日を詠む歌人や詩人もきっといるに違いない。群衆の中で声を上げながらそんなことも考えていた(「群衆」という言い方も古いな。ボードレールか朔太郎の時代みたいだが)。
 しばらくは近くであがるコールに応えて声を上げていたが、スルスルと前方や後方に移動している人がいる。びっしりと人が詰まっているように見えるが、人が移動できる見えない筋があるようだ。
 私も前方へ少しずつ移動して、最前線のコールが合わせられるところまで辿りついた。仙台でもSEALDs_TOHOKUが主催するデモが2回あったので、すこしは慣れているテンポよい若い人のコールが続く。


[1] 岸上大作「意思表示」『現代短歌全集 第十一巻』(筑摩書房、1981年) p. 292。
[2] 同上、p. 291。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(19)

2024年10月01日 | 脱原発

2014年12月21日

 12月14日の衆議院議員総選挙の当日に見た「もう一つのヘイ・ジュード」というテレビ・ドキュメンタリーは、チェコのマルタ・クビショヴァという歌手の話である。
 マルタは、1968年に「プラハの春」と呼ばれた旧チェコスロバキアの民主化運動を弾圧するために進入してきたソ連軍とチェコ共産党政権に抗議するために、民主化運動を行う民衆を励ます曲であるもうひとつの「ヘイ・ジュード」をレコーディングして60万枚という大ヒットを生んだ。
 そして、当然のごとく、レコーディングの3ヵ月後、ソ連当局によってレコードの回収と販売禁止が命じられる。さらに、マルタは監視下に置かれるばかりではなく、音楽界から永久追放されてしまった。
 もうひとつの「ヘイ・ジュード」の歌詞の作詞者は、ズデニェック・リティーシュという人で、次のような歌詞だという。

ヘイ・ジュード 涙があなたをどう変えたの
目がヒリヒリ 涙があなたを冷えさせる
私があなたに贈れるものは少ないけど
あなたは私たちに歌ってくれる
いつもあなたと共にある歌を

ヘイ・ジュード あなたは知っている
口がヒリヒリする 石をかむような辛さを
あなたの口から きれいに聞こえる歌は
不幸の裏にある<真実>を教えてくれる

ねぇジュード あなたの人生を信じて
人生は私たちに傷と痛みを与える
時として 傷口に塩をぬり込み
棒が折れるほど叩いて
人生を操るけど 悲しまないで
 ブログ「もう一つのヘイ・ジュード(Hey Jude)/ビーバップ!ハイヒール」から 

 テレビ画面に映るプラハのバーツラフ広場を見ながら思いだしたことがある。国際会議のあいまに若い研究者や大学院生5、6人とバーツラフ広場をぶらぶらと歩いたとき、この広場をソ連軍の戦車が蹂躙した「プラハの春」の話をしたのだった。
 若い人には遠いことでも、1968年に22歳だった私には「プラハの春」は切実だったのである。1956年の「ハンガリー動乱」などとともにマルクス主義や共産主義国家について深刻に考え込まざるをえないような事件だった。
 バーツラフ広場を歩いてから4、5年後、大学院生から研究者になっていた一人が、私が話した「プラハの春」のことをずっと覚えていると語っていて、少し嬉しかったことも思い出した。
 そして、「もうひとつのヘイ・ジュード」を見た頃にちょうど読みかけていたのは、アルチュセールの『マルクスのために』 [1] のなかの「マルクス主義とヒューマニズム」という章だった。1968年以前に書かれたものだが、今になってみれば、じつに脳天気な共産主義国家ソ連についての言で、どんなふうに言葉を継いでいいのか分からなくなってしまう。

……この〔社会主義ヒューマニズムの〕願いにもとづいてわれわれは、暗闇から光明へ、非人間的なものから人間的なものへ移りつつある。現にソ連邦が入っている共産主義は、経済的な搾取のない、暴力のない、差別のない世界であり、――ソ連邦の人びとに、進歩、科学、文化、食料と自由、自由な発展、こうしたものの洋々たる前途をきり開く世界であり――暗闇もなく、葛藤もなくなるような世界である。 (p. 423)

 [1] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。


2015年1月23日

 今朝の毎日新聞のニュースに「柏崎刈羽原発:東電常務「避難計画不十分なら再稼働無理」という見出しの記事があった。

 東京電力の姉川尚史常務は22日、新潟県柏崎市内であった東電柏崎刈羽原発に 関する住民向け説明会で、同原発の再稼働について「(原発事故の際の)避難計画が不十分であると、自治体の方が思われる段階では、稼働はできない」と述べ た。会田洋・柏崎市長は市の避難計画について自ら「課題が多い」と改善する余地があることを認めている。避難計画の完成度が、再稼働できるかどうかの重要条件になる可能性が出てきた。

 九州電力の川内原発では、鹿児島県知事や川内市長がまともな避難計画もないまま再稼働を容認したことと比べれば、このニュースはいくぶん「まとも」に思えてしまう。川内原発の避難計画についてはさまざまな案が出されたが、結局まともな計画は策定されていない。それにもかかわらず政府の交付金や九州電力のばらまく金ほしさに避難計画なしでも再稼働を認めるというのは、十全な避難計画そのものが不可能だということの自白のような行為だった。金目当てだけの行動指針しか持たない地方政治家の無能さは無惨なばかりである。
 一見「まとも」そうに見える柏崎刈羽原発についての東京電力常務の発言にもみごとな落とし穴がある。「避難計画が不十分であると、自治体の方が思われる」場合には再稼働はできないということは、どんな避難計画であれ地方自治体の長が「十分」だと主張すれば再稼働できると言うことである。これまでの言動からすれば、新潟県知事が再稼働に同意することはとうてい考えられないが、立地市町村長は川内市とおなじく金目当てに「避難計画は十分」と虚言を申し立てる可能性は十分にあるのだ。
 しかし、私には避難計画などというのは瑣末な問題にしか思えない。ニュースでは触れていないけれども、「避難計画が不十分なら再稼働は出来ない」という文言には決定的で重要な前提がある。「原発事故は起きる」という前提抜きでは、成立しない言葉なのである。
 「原発事故は起きる」→「だから、十分な避難計画は必要だ」→「避難計画は不十分だ」→「事故が起きる原発を再稼働できない」という論理の筋道になっているのだ。
 原発事故が起きても避難計画が十分なら大丈夫なのか。福島の悲惨は、避難計画が十分だったら起きなかったのか。そんなことはない。避難計画が十分だったら、確かに現状よりも福島県民の被爆線量は少なくすんで、将来の死亡や健康被害は予想よりはいくぶん減るかもしれない。だが、事故から4年経った現在でも、10万人を越える福島県民が職も家も故郷も失ったままである事実は、避難計画がどうあろうと変わりようがない。
 フクシマの後では、「原発事故は起きる」という前提から導き出される唯一の答えは、「事故を起こす原発を廃止する」以外にあり得ようはずがない。柏崎刈羽原発周辺の新潟県民は、避難さえ出来れば何の問題もないとでも言うのだろうか。しかも、日本全国に原発があって、いずれ避難する土地すらなくなってしまうかも知れないのに。


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