【左】『詩集 別離と邂逅の詩』(集英社、2001年)(以下、〔A〕)
【右】『堀田善衛詩集 一九四二~一九六六』(集英社、1999年)(以下、〔B〕)
図書館の棚に堀田善衛の詩集が2冊並んでいた。若いころの不確かな記憶を探っても、堀田善衛の詩を読んだ記憶がない。ついぞ堀田善衛を詩人だと思ってはいなかった。彼の詩を読んことがないのは確かだろう。
『詩集 別離と邂逅の詩』は、「大部分昭和十二年頃から二十年の春頃までに至る、殆ど全部戦争中の作品」だと、あとがきに記されている。『堀田善衛詩集 一九四二~一九六六』とは時期が短期間しか重なっていないように見えるが、制作年と発表年の違いがあるらしく、かなりの詩編が重複して収載されている。
なにを思へといふのだらう
しづかに雪が降つてくる
水車は凍えてうごかない
すべてに休みはあるのだらう
だまって埋る野原の草木
小鳥は死んでゆくだらう
小川だけがちろちろと
どこにも憩ひはないであらう
雪も怺へて降つてゐる
けれどもやがて高まつて
むせび泣く鳴咽の声が聞えはせぬか
しづかに雪が降つてくる
かうした夜にはさびしいものの手を
ふととりにくるものがゐる
「序の歌 しづかに雪が」全文 (〔A〕p. 12-3)
『詩集 別離と邂逅の詩』の巻頭を飾る詩は、ソネット形式の典型的な抒情詩である。静かな受容で始まる詩は、「死んでゆく小鳥」や「嗚咽の声」に思いを寄せるものの、その悲しみは茫漠としており、抗いも戦いもあるわけではない。己が身を包み込む景色や空気、「自然」と呼ぶには身近な周囲に過ぎるもの、いわば〈atomosphere〉とでも呼ぶべきものと溶け合うように一体化しながら、小さな悲哀や不安を掌で包み込んでいるような叙情性。
まだずっと若かったころ私が求めていた詩は、このような叙情を湛えた詩ではなかったか。
どのみちすべてはすぎるのだ!
あとには余韻があるばかり
霧がしづかに忍んで来れば
薄紅ゐの花弁も落ちてゆく
「ある夜に IV どのみちすベては」部分 (〔A〕p. 35)
月の光を 浴び
日の光を 浴び
かう してゐる。
「……のであつた」部分 (〔B〕p. 8)
このような静かで受容的な抒情を美しいと思う青春時代は確かにあったのだけれども、一瞬のきらめきのように消えていってしまった。私の場合は、それはささやかな政治的経験に過ぎなかったけれども、堀田善衛にとっては時代が否応なく顕わにしてくる死への予感ではなかったか。
故郷を言ふな
在所を言ふな
暁が来たら
ひよつとしたら死ぬかもしれない
「友よ」全文 (〔A〕p. 44)
ごらん
誰かが坂を登つてゆく
しづかに誰かに招かれて
「夜の深みに」全文 (〔A〕p. 71)
それは時代の空気が持つ死の予感がもたらしたものではあろうが、自覚的には幼年時代の終り、少年期への訣別としてやってきたのであろう。
僕はたしかにどこかで道を間違へた
きはめて正当に誰もがそれとは言はなかったが
哀歓の最終の親しみで
あの日の童話が真面目に告げた
ここにわが幼年時代終る……
丘の頂きに立ち上り僕は読む
茜に輝き流れる雲にそのうらに
別の空の来ることを
「明るく歌のように」部分 (〔B〕p. 23)
死の予感は、戦争とともに現実として顕わになってくる。友と別れ、友を送り、友の死を引き受けながら、詩人は歌うべき歌を探し求めなければならなかったのではないか。詩はソネット形式を放擲しつつ、変容を始める。
しづかな歌よ
私はけふ またひとりのひとを戦争に送った
やがてそのあとの 誰もゐぬ風景を
ささへるやうに そこにゐた歌よ
許せ
私はその歌をうたひたいのだ
二度とふたたび 相見ることは
もうあるまいに…… と
ひとは去り ひとはゆき
ひとは集り ひとは散れども
たったひとつぼくには分らぬことがある
なぜ訣れてののちにのみ
なつかしいものは漂ふか
それが人生であつたかのやうに
「今日」全文 (〔A〕p. 94-5)
……花がうつくしいとは
呼べなくなつた
花をみながら
かうしてまたひとつことばを失ったことは
しんしんと
《お前は未だ生きてゐる》と思はせる
「戦争」部分 (〔A〕p. 105)
多くの友が死んだ――
花びらを見つめれば
花びらのひとつひとつは
亡友たちの面かげに
似てゐる……
と ふと思ったので
一層よく見守らうとすると
ああしかしどういふ自然のいとなみか
あるひは友たちの息ぶきであるか
まざまざと 花びらが露を払ひのけその重なりを解かうとする――
若死にをした友たち
かれらの明るい言葉をつたへることが
これからの私らの仕事であらう
「戦争」部分 (〔A〕p. 106)
Kも死に
Tも死に
僕も死に
誰もゐない
人は死に
記憶がのこり
記憶がひろがり
むくろはくづれゆく
「哀歌」部分 (〔B〕p. 79-80)
「K」や「T」、「若死にをした友たち」のために「言葉をつたへる」こととして詩は書かれたのだろうか。例えば、次のような詩編で、「言葉をつたへる」ことが成功しているとは、私にはとても思えない。言葉は硬く、観念的で、リズムを失っている。いや、むしろそのリズムは初期近代詩への先祖返りの匂いすらする。戦争の時代の詩を歌うことの困難、不可能性を詩人は体現してしまっているのではなかろうか。
――夜
この窓に遠く点々と瞬く都会の灯
私は都会を愛する私はすべてを愛する
都会の石の腹 腹熱 粘膜 眩暈の堂宇
じめじめした洞窟 女と男と食物の解体してゆく露地
快楽の胸 死を含む精液 女陰のやうな洞窟のやうな寝床
そこにさし出される盃
盃につがれた酒を飲みうたふ歌
私は都会を愛するすべてを愛する
私は何を愛してゐるか
「暗黒の詠唱と合唱」部分 (〔B〕p. 116-7)
君よ
暗い平野では相手知らぬ多くの軍隊が
いまだに眼に見えぬ血を流してゐる
われわれもまたこの夜戦の只中に挟まれてゐるのだ
波はあまりにも広大な海の奥処でひとり嘆き
己れの生んだ軍隊をもはや戻さうとはしない……
闘ひ争ひつひには既にして雲雀の歌を聞かず知らず
血は砂は砲煙は天の絵玻璃と成り代り
偉大なりし真昼の破片もまた地に落ちて
爬虫と成り巨鳥と成り数を増して闘ひ争ふ
暗闇に鈍器を振ひ霧に夜に蔽はれた川は水ならぬものを流し運ぶ
しかし海の奥処よ
「現代史」部分 (〔B〕p. 139)
だからこそ、堀田善衛は「これからの私らの仕事」として、小説『若き詩人たちの肖像』を成したのだ。「若死にをした友たち」への詩人の責任としてそれは成された。そう言っていいと思う。