かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

原発を詠む(88)――朝日歌壇・俳壇から(2024年5月26日~2024年7月21日)

2024年07月30日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

原爆の惨状描写なきことが何より怖い「オッペンハイマー」
(東京都)八巻陽子  (5/26 高野公彦、永田和宏選)

原爆は「そりゃもう」と絶句して後を続けず逝きしヒバクシャ
     (アメリカ)大竹幾久子  (6/9永田和宏選)

はつなつの「風通し」さるる三十三万予の哀しき原爆死没者名簿
     (鹿嶋市)大熊佳世子  (6/16 馬場あき子選)

戦争を知らない世代という我ら核兵器なき世界も知らず
     (さいたま市)鈴木俊恵  (7/14 馬場あき子選)

被曝牛を飼い続ける人の五千日、野太き声が今日も地を這う
     (福島市)美原凍子  (7/21永田和宏選)


福島のいまはむかしの春惜しむ

     (福島県伊達市)佐藤茂  (6/2 長谷川櫂選)

出漁のできぬ被災地蝉(せみ)の殻
     (福島県伊達市)佐藤茂  (7/14 長谷川櫂選)

 

「原発を詠む」は、これをもって終了します。26歳で家庭を構えてから52年間読みつづけた朝日新聞は、明日7月31日をもって購読を終えることにしました。


(写真と記事は関係ありません)

 

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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(5)

2024年07月26日 | 脱原発

2015年3月6日

 デモといえば、加藤恵子さんという方がフェイスブックに書いていた投稿が面白かった。

関西電力前で抗議中、警官がデモ行進が来るから早く止めろとか、道に上がれとかうるさかったのです。どんなデモが来るかと待っていたら、全くのぼり旗はあるのだが何を主張しているデモか全く分からない。その上一言も言わない。腕章なんかつけていたので、どうも春闘がらみの組合のデモらしい。そこで私は、みなさんちょうどいい所へ来られました、関西電力前です、高浜原発再稼働反対の一言、いかがですか? と声をかけたがそれでも無言。しかしなんども呼びかけたら、最後の方でやっと再稼働反対の声が上がった。こちらも手を叩いた。しかし、あの葬式のようなデモは何だったのだろう? もう組合押しつけのデモなんか止めたらどうですか。個人個人が意思表示しようよ。

 私も現役時代は組合のデモにも出ていたが、今の金デモのようにたった1人の意志だけで参加している方がたしかに気分がいい。どんな組織にも、友人、知人のしがらみにもとらわれず、流されず、私の意志だけがすべてというのはほんとうにすっきりとしている。
 加藤恵子さんとは、明治公園で開かれた脱原発デモの集会で1度お会いしたことがあるだけのFB上の知人だが、その行動力にはほとほと感服している。原発、辺野古、憲法、秘密保護法がらみのデモばかりか、ホームレス支援の炊き出しまで行なっている。だから、次のようなFBの投稿も、切実に首肯できるのである。

あまりのバタバタで、本読む時間が全くない。気が変になりそうだ。私の時間を強奪しているのは安倍だ。返せ、私の時間。

 加藤さんの行動力に比べたら、私のは脆弱にすぎるとしみじみ実感せざるを得ないのだ。

 

2015年3月29日

 デモの列は短いので、交差点の信号をスルッと抜けられて、デモの歩みは早い。一番町を出て、青葉通りに差しかかった頃には、空は晴れ上がり陽が射していた。
 デモの参加者が多いとか少ないとか、そんなことを考えてしまう自分へ、この詩の一節を…….

主義を先立て主義に浸って
なにかと呑んでは時節に怒って
あゝなんという埋没。
とうに甦ったはずの国が
今もって暗いのは私のせいだ。
遠い喊声を漫然と待っている
私の奥の夏のかげりだ。
      金時鐘「夏のあと」部分 [1]

  [1] 『金時鐘四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010年)pp. 88-89。



2015年5月8日

 私たちのデモは毎週ほとんど同じ人間たちだが、ここに集まっているこれだけの人たちの中には同じ人はほとんどいないはずだ。私たちには見慣れた風景であっても、彼らにとっては見慣れない(なかには初めて)デモを見ているに違いないのである。
 そんなことを考えたら、真面目にきちんとデモをしなくては、とつい思ってしまうが、私たちはいつだって真面目にデモをしているのだ(多少の慣れはあるにせよ)。それにしても、私(たち)は、このような眼差しの非対称性を意外と無頓着に見過ごしているのかもしれない。心しておかなければと思う。

私は断言する
見るに値するものがあったから
眼が出来たのだと
     吉野弘「眼・空・恋」部分 [1]

 デモの最後列を抜け出して、先頭へ急ぐ。先ほどまで熱で寝込んでいたのでいくぶん辛かったが、先頭を追い越して駆けだして、さらに先、青葉通りの交差点付近で、藤崎前の緩やかな坂を下ってくるデモの列を待っていた。
 デモを待つわずかな時間に、「この坂の名前は何だろう」と一瞬思った。坂の名前などないのかもしれないのに、「こんなことも知らないのは仙台が故郷ではないからなのだ」と思いこんでしまった。生まれた田舎で16年生き、それから仙台で60年も生きてきた。執着心の強さで言えば仙台なのだが、「生れ故郷」ではない。どちらが故郷でも私の心のどこにも差し障りがあるわけでもないのだが……

故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)
     与謝蕪村「春風馬堤曲」(部分) [2]       

 デモが近づいてきて、どこでシャッターを押すかタイミングを計り始めたときから「坂の名前」のことは飛んでしまった。「坂」を下りきって、青葉通りに曲れば、通りの光量は急激に落ちてしまう。やたらにシャッターを押すのは仕上がりが心許ないせいなのである。

 坂といえば「この坂をのぼらざるべからず/踊りつつ攀らざるべからず」という室生犀星の有名な「坂」という詩があるが、日々の散歩や街歩きで想うことは、次のようなことだ。

役人は四角の柱を立て由来を記し
坂という坂はすべて由緒あり気だ

幸いこの細い急な坂道には名がない
朝な夕な四季おりおりに
ぼくはこの坂に名を付して
よすがの楽しみにしている
     天彦五男「名付け坂」部分 [3]

[1] 『吉野弘全詩集』(青土社、2004年)p.254。
[2] 『日本の古典 58 蕪村集 一茶集』(小学館、昭和58年)p.123。
[3] 『天彦五男詩全集』(土曜美術社出版販売、2010年)p.176。



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(10)

2024年07月23日 | 脱原発

2013年12月6日

 「人間が抱える不確実性と脆弱性はあらゆる政治権力の基盤である」 [1] といったのはジグムント・バウマンである。自由主義的な保守(私にはそうとしか思えない)のバウマンにしてからが社会学者としては権力の本質を見抜いているのである。
 自分の将来を考えるための情報が与えられない、自らの安全を守る手立てがない、そして外国(人)や犯罪者に安全が脅かされていると煽られる、国民をそんな状態に貶めておけば、政治権力は安泰なのである。
 そうした点から言えば、安倍自民党は権力の本質をさらけ出しているだけなのだが、近代西洋の諸外国の政治権力と違って民主主義への配慮や逡巡がないのである。たぶん、彼らが日本国憲法を理解できないのも、民主主義の本質が理解できていないからである。そして民主主義を知らないために、近代国家の多くが示すことができた知性の匂いすらしないのだ。
 常々、日本は「未完の近代」のまま現代に至ったと私は考えてはいたのだが、オモチャをねだる子供のように絶対支配権力をこれほどあからさまに欲しがるとは想像できなかった。
 いかに自民党とはいえ、日本の戦後教育を受けたのだから多少の社会性とそれにかかわる程度の知性はあるものと、愚かにも私は思っていたのである。戦後民主主義教育は、この点では失敗したのだ(右翼政治家が教育に口出ししたがるのは自らの失敗を恨んでいるためか?)。
  (中略)
 デモが終って帰宅した夜半、ネルソン・マンデラの死亡のニュースに続いて、参議院本会議における強行採決、「特別秘密保護法」の可決成立のニュースが報じられた。
 アメリカ大陸における奴隷制度、ヨーロッパ大陸におけるナチスによるユダヤ人ジェノサイド、アフリカ大陸におけるアパルトヘイトは、近代における三大「人種差別」である(と私は思っている)。「自由と平等」のために、その南アフリカ連邦のアパルトヘイトと闘い続け、勝ち取ったアフリカ大陸の巨人が亡くなった。
 同じ頃、日本ではビューロクラットの手の平で踊らされている小悪党風の政治家によって国民から「自由と平等」を奪い取ろうとする悪法が成立した。「脳味噌が江戸時代のまま」に「壮大な勘違い」によって遂行された「あの戦争」と、太平洋戦争の本質を喝破したのは与那覇潤 [2] であるが、現代の日本の政治権力は、「脳味噌が明治時代のまま」に「猥雑な思い上がり」によって「これからの戦争」に走り出そうとしている。
 しかし、マンデラのような巨人はいなくても、私たちの「自由と平等」のために闘い続ける普通の人々は日本にはたくさんいるのである。

[1] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ――グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年) p. 90。
[2] 与那覇潤『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年』 (文藝春秋、2011年)。


2013年12月13日

 ここ数日、安倍自民党政権が原発を基盤的なエネルギーと位置づけて、民主党政権の原発ゼロ政策を放棄したというニュースが流れている。原発の新規建設には触れていないらしいが、フクシマ以降、新規の原発立地に同意する自治体や住民はおそらく国内にはないだろう。
 自民党政権はそれを覚悟していて、安倍政権が原発輸出に躍起になっているのは原子力利権を外国に求めざるを得なくなったためだ。
 今読みかけている本 [1] で、樫村愛子さんは2007年に成立した第1次安倍政権を「原理主義」だと断定している。つまり、「原理主義者とは、伝統を擁護する正当性が薄れてきた現代でも、伝統を従来のように無前提に擁護しようとする人たち」で「伝統だから無前提に擁護するのだと、彼らは語るのである」として、「現在の伝統主義とは原理主義であり(すなわち安倍政権は原理主義である)、今日における必然的な病理である」と述べている。
 現在の第2次安倍政権は、現代病を病む政治家の復活だったわけである。
 世界を眺めれば、原理主義の多くがテロリズムと同等と見なされる活動を行なっていることは明瞭である。原理主義者に支配されつつある自民党は、おそらく原理主義=テロリズムの図式をよく知っていて、国民がそのことに気付く前に、国民の目くらましとして、私たちが非暴力的に行なっているデモを「テロだ」と言いだしているのではないか。
 「特別秘密保護法」というのは、「俺たちが原理主義テロリストだということを隠しておくのだ」という意図だったようにすら思えてくる。
 「特別秘密保護法」ではなく、「原理主義テロリズム監視法」が必要なのではないか。いや、原理主義者だからといってそれを監視するというのも、あきらかに反民主主義的ではある。
 監視しあう社会がろくでもないことは、歴史が十分に教えてくれている(だからこそ、日本の原理主義者は歴史修正主義者でもあるのだろうけれども)。

[1] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』(光文社、2007年)。



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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(5)

2024年07月21日 | 脱原発

2013年10月11日


放射能塗(まみ)れの土に父埋める
  (いわき市)馬目空 (2011/9/11 金子兜太選)

夏草や一村去りし被爆の地
  (東京都)橋本栄子 (20011/9/26 金子兜太選)

 原発事故後5,6ヶ月ころの「福島」である。朝日歌壇・俳壇からの書き抜きから俳句を選んでみた。一般的な言い方をすれば、俳句という表現形式では社会事象を踏み込んで詠むのは難しいのではないかと思っていたのだが、むしろ短詩型であることで事象の切り取り方がいっそう厳しくなるようだ。逡巡が許されないなのだ。
 福島のそのような現実は、それから2年経た現在もなにも変わっていない。



2013年10月27日

 原発事故から半年経ったころに、次のような「朝日歌壇」に投稿された短歌である。とても惹かれた歌だ。

目に見えぬ放射能ありひたひたと黒揚羽飛ぶ生の輪郭
  (熊谷市)内野修 (2011/7/18 高野公彦選)

 舞い飛ぶクロアゲハの美しさを「生の輪郭」という言葉に籠めた短歌だが、その美しい姿形は、その輪郭の内部に被爆によって損傷した命を抱いている。現在の蝶の輪郭がいかに美しくても、傷ついた遺伝子を内包した命は、健康な種を伝えることができない恐怖に震えている。
「命」は自らを生きる命ばかりでなく、子どもたちに伝え継ぐべき種としての命をも生きている。だが、今や、残されているのはこの瞬間を飛ぶ「輪郭」の命だけかもしれないのだ。
「生の輪郭」の短歌を引用したブログをアップしてから、若い時分に読んだ詩集の読み直しをしていたら、次のような詩を見つけた。かなりニュアンスがちがうが、これも「生の輪郭」である。  

ぼくの通らなかった道はなかったし
道が傾いているらしいとおもえば
道はかならず傾いていたし
傾いているらしいとおもっただけだとおもえば
道はかならず水平に身をもちなおした。
ぼくの落ちない井戸はなかったし
ぼくの跳ばない崖はなかった。
笹の根は常にぼくの足をとり
太陽は常に中空にとどまって
ぼくの背中をしっかり焼いた。
考えてみると
そうだ
ぼくはぼくの輪廓だけは残らず生きていたのだ。
  安永稔和「やってくる者」部分 [1]

 私たちは、道を歩くこと、井戸に落ちること、草に足を取られて転ぶこと、崖から転げること、夏休みに真っ黒に日焼けすること、こんな幼年の様々な経験で、私たちの存在の輪郭を形作ってきた。そして、まちがいなく「私の輪郭」を作る一つ一つの素材を「残らず生きていたのだ」。
 それなのに今、大人になって私たちは……。ここから「輪郭の内側」が問い直されることになり、大人たちは悔いや悲しみや絶望や諦めに立ち向おうとするのか、あるいは、その前に立ちすくむだけなのか。いや、だからこそ逆に、大人たちはきちんと残らず生きた少年期の「ぼくの輪郭」を懐かしんでいるだけなのか。
 人間として生きるということは、今を生きる命としてだけでも、なかなかに難しい。シベリヤ抑留から生還した詩人、石原吉郎の精神を読み解こうとした勢古浩爾は、その著書『石原吉郎』の中で、「存在」と「存在性」という概念をこう述べている。

「存在」とは存在そのもの(在ること)のことであり、「存在性」とは存在のしかた(在りかた)のことである。それぞれを、存在の事実と存在の意味といいかえてもいい。前者は肉体であるが、後者は箸の揚げおろしから、ひととの関係のしかた、考えかたの一切を意味する。 
    勢古浩爾『石原吉郎』 [2] 

 つまり、「存在性」は「生の輪郭」と考えていい。崖を飛ぶことや遊びほうけた夏休みを通して張り付けられた輪郭(=存在性)、重労働25年という判決と8年のシベリヤ拘留中の様々な困難がもたらした輪郭(=存在性)。
 輪郭を形成するそれぞれの経験素材の意味や価値に軽重はないと考えるべきだろう。しかし、人は(おそらく)それぞれに軽重を仮託することで「存在」を守ろうとするだろうし、今を生きる意味、未来へ歩き出す意味を見い出そうとするのだろう。
 黒揚羽の「生の輪郭」から、連想ゲームのように本を辿ってしまった。この連想ゲームは枝分かれしてまだまだ続く。
 『石原吉郎』の中で著者は、シベリヤ抑留体験を「シベリヤシリーズ」として描いた画家、香月泰男を取りあげている。それを読んだ私は、香月泰男の絵に対して「私の知るシベリアはこれではない」と言って自らのシベリア体験を描いた画家、久永強のことを考えるのだ。
 画家としての香月泰男と久永強の異なったシベリヤ、それに石原吉郎のシベリヤも含めたそれぞれの「シベリヤ体験」、それぞれの「生の輪郭」。これに興味が湧かないわけがない。こうしてわたしは、香月泰男の画集をネット検索で探すことから次の連想ゲームを始めるのだ。
 こんなことをしながら、私は私の「生の輪郭」(存在性)に何か1枚貼り足すことができるのだろうか。

[1] 『安永稔和詩集(現代詩文庫21)』(思潮社、1969年) p. 96。
[2] 勢古浩爾『石原吉郎--寂滅の人』(言視舎、2013年) p. 22-3。



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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(4)

2024年07月19日 | 脱原発

2013年7月12日

 ときおり小雨がぱらついていたが、その雨も止んでいて、デモに出発する。錦町公園からは定禅寺通りを西に向かって歩く。

顔上げて街を行くとも屈辱のごとく雲垂る西空が見ゆ
           道浦母都子 [1]

 同じ時代を見てきたが、私は道浦母都子のように激しく権力と闘ったわけではない。それでもやはり、デモの中にいると上の歌のような感情のフラッシュバックに驚くことがある。夕暮れ時の感傷には、そういう心性も含まれているのだろう。油断していて、感傷にずぶずぶになるのは嫌だ。そんなときには、金子兜太の句がふさわしい。

ほこりつぽい抒情とか灯を積む彼方の街 金子兜太 [2]

[1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 121。
[2] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房平成14年)p. 35。


2013年11月1日

 気がつけば、みちのく仙台の秋はどんどん深まっていた。せめて一度くらい秋らしい感傷に浸るのも、季節の正しい過ごし方だろうに、いつのまにか晩秋なのだ。
 右翼ナショナリスト政権の秋がこんなに息苦しく鬱陶しいものだとあらためて身に染みる。それはまず、日本語が人間が使う言語として世間で通用していないという言語的閉塞感にある。
 よく日本語は論理的な言語ではないとしたり顔でのたまう人間がいるが、どんな言語でも同じように論理的であり、同じように非論理的である。非論理的な側面を強調する言語活動が目立つとすれば、その社会自体の問題である。
 たとえば、東電福島第1原発事故は事故処理対応としてはほとんど水で冷やすだけで終っている。熔けた核燃料の行方すら分らない。雨が降れば降った分だけ放射能汚染水が海に垂れ流しである。つまり、東京電力は原発事故を処理する技術を持っていないのである。これを「コントロール下にある」と表現したら、言語体系は崩壊する。日本語を率先して意味不明言語(非論理的言語よりたちが悪い)にしているのは今日ただいまの日本の政治家たちである。
 政府が汚染水対策の前面に出ると言っているが、これは完全な空念仏にすぎない。東京電力に処理能力がないということは、日本のどこにも、世界のどこにもそんな技術はないということだ。自民党政府がいくら空威張りしても、ない技術は権力や金ではどうにもならない。出来もしないことを出来るかのように大声で語る言語に信頼は生まれない。
 「日本の原子力技術は世界でトップ」と宣言しながら、事故処理には世界の英知を集めるというこの典型的な論理矛盾。言葉が言葉として通用しないこの閉塞感に包まれて夏から秋を過ごした。そういうことなのだ。

秋の暮行けば他国の町めきて 山口誓子 [1]

 政治家の日本語は外国語に聞こえる。いや、そういう句ではない。やめよう。せっかく、詩歌で秋を味わおうという気になったのだから、鬱々となる政治の話は脇に置いておこう。

真昼の月の下を
荒れた道がつづいているのみである
ときに一人の男が
遠くからこちらへ近づいてきたりする
それだけのことで
世界の秋は深くなってゆくように思われる
孤独な道を歩いてくる男だけが
高貴な冷たい戦慄を感じているに違いない
    鮎川信夫「行人」部分 [2]

 政治を志すものの中に「高貴な戦慄」を感じるような人間はいないのか、などと、どうも愚劣な政治のイメージから逃れるのは難しいらしい。せっかくの鮎川信夫がもったいない。

野菊咲き満ちとんぼの貌を明るくす 金子兜太 [3]

けふはけふの山川をゆく虫しぐれ 飴山實[4]

 これだ。やっとしみじみとした秋の雰囲気だ。この秋「けふはけふの山川」に出かけられなかったことが、私の今年の秋の問題だったのだ。

稲にうつくし水ながれ美作一の宮参る 荻原井泉水 [5]

 この俳句はいい。繰り返し口ずさんでみる。リズムといい、音調といい、ざわざわするほどすばらしい。「美作一の宮」がどこにあるか、まったく知らないのだが、この一句によって「象徴界」の美しい秋の宮となる(無季自由俳句を唱えた荻原井泉水に「秋」を強く感じるのは多少皮肉ではあるが)。

[1]『季題別 山口誓子全句集』(本阿弥書店 1998年)p. 260。
[2]『鮎川信夫全詩集 1945~1965』(荒地出版社 1965年)p.142。
[3]『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房 平成14年)p.82。
[4]『飴山實全句集』(花神社 平成15年)p. 164。
[5]『わが愛する俳人 第二集』(有斐閣 1978年)p.59。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(9)

2024年07月15日 | 脱原発

2013年10月4日

 小泉元首相は、従来の自民党政権の原発推進政策は過ちだったとまで認め、原発推進は政治家として無責任であり、今こそ脱原発のチャンスだと主張している。
 脱原発発言自体は、それはそれで結構なことだと思うが、小泉前首相は郵政民営化に見られるように日本における新自由主義経済推進の象徴的政治家であり、いわばワーキング・プア、プレカリアートを生み出す政策に邁進した政治家である。ワーキング・プア、プレカリアートの生活や人生を踏みにじっても、資本が富むという意味での経済力や、国際競争力が大事だと信じている政治家であることは事実だ。。
 さらに、ブッシュのお先棒を担ぎ、イラクへのアメリカ合州国の国際戦略という名の〈帝国〉的侵略に積極的に加担したのも小泉前首相だ。同じようにブッシュに同調したイギリスのブレア元首相はいまやその責任を問われて査問に付されているように、ブッシュのイラク侵略は厳しい批判にさらされている(新自由主義に基づくアメリカの国際戦略と称する経済的、軍事的侵略についてはノーム・チョムスキーやナオミ・クラインの著書に詳しい)。残念ながら、日本ではジャーナリズムにおいてすら小泉首相の責任を問う言説はほとんど見られない。
 小泉前首相の発言については、その政治的意図をいろいろと詮索するような意見も見られるが、「脱原発」発言そのものは歓迎していいと思う。しかし、「元首相」の名や「影響力」やらを持ち出し、それに頼るような心性だけは拒否したい。


2013年11月23日

 甘利ナントカ大臣が小泉原発ゼロ発言を批判して「科学的技術が進んで放射性廃棄物の保管期間を短縮できるようになる」旨の発言をしたというニュースをテレビが流していた。科学的無知というよりたんなるホラ話である。
 物理学的には、ある放射性同位元素に陽子または中性子を必要量だけ注入して安定同位元素に変換することは可能である。あるいは逆に、長寿命放射性同位元素に陽子または中性子を付加してより不安定な短寿命核種へ変換することも理論的には可能である。ただし、そのためには核分裂生成物としての多くの種類の放射性同位元素を分離したうえで、それぞれの同位元素に異なった核変換処理を施さなければならない。
 最大の問題は、核反応断面積(核変換が起こる確率と考えてよい)が極端に小さいことだ。すべての放射性同位元素の核変換が済む時間は、おそらく半減期に応じて減衰するのを待つ時間と匹敵するだろう。つまり、想像を絶する費用をかけて核変換処理施設を建設して長期間の作業をすることは、何もしないで保管しておくことよりいいなどとはとても言えないのだ。
 原子力村の御用学者でも今はそんなことは言いだしはしないだろう。甘利大臣の発言は、原発推進が科学的無知ないしは科学的知識の無視によって進められてきたことの典型的な例に過ぎない。人間がつくった人工物が「安全」で「絶対に事故は起こらない」と宣言した時点で科学は破綻していたのである。
 戦後思想の巨人であった吉本隆明も原発擁護発言をして多くの心ある人びとを落胆させた。吉本は東京工業大学で化学を勉強した人だが、彼の原発擁護論のベースになっている科学観は50年ほど前の高度経済成長期の小学生が抱いたような純朴な「科学万能信仰」に似ている(もちろん、その時代の吉本はすでに名をなした詩人で文学評論家であったのだが)。そういう点で、新聞かテレビかは忘れたが、石原慎太郎という科学音痴政治家の原発擁護発言と吉本のそれがそっくりだったので驚いた記憶がある。甘利大臣が如実に示したように、科学に無知なほど科学信仰に走るのである。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (7)

2024年07月13日 | 脱原発

2014年5月9日

 根本昌幸さんという詩人がいる。福島県浪江町に生まれて、原発事故によって相馬市に避難を余儀なくされた一人である。最近、根本さんの詩集『荒野(あらの)に立ちて ――わが浪江町』を読んだ。優れた児童詩も書いている詩人らしく、やさしく平明な言葉で書かれた詩集である。その中の一篇。

ふるさとはどこですか
と 聞かれて
ふるさとはありません
と 答える。

ふるさとがない――
それはほんとうですか。

ほんとうです。
そう言って うつむく
ほんとうにないんですよ。

生まれた所はあるでしょう。

それはもちろんあります。
けれど今はありません。
捨てた訳ではありません。
途中からなくなったのです。

悲しいことです。

同情などいりません。
目を閉じると
美しい風景が浮かびます。
あれは私のユートピアでした。

夢など持ちたくても
私も もう年を追いました。
    根本昌幸「ふるさとがない」 [1]

 生まれ育った地は、そこにそっくりそのままの物理空間として存在しているが、いわば異次元空間のようにそこに立ち入ることが出来ない。そこは生命の場所ではない。「死んだ町」だと詩人は語る。

死んだ町だった
と 言った人がいた。
あと一言付け加えればよかったものを
その人はそれで
大臣を辞めた。
しかし それはほんとうのことだ
ある日 突然
町から人が消えた。
残された犬や猫や豚や鶏たち
牛や馬。
その他の動物たちは
何を思ったであろう。
言葉の話すことの出来ない
動物たちは
人っ子一人いない町を
餌を求めて
あるいは人間を求めて
さまよい続けたに違いない。
いったい何がおきたのだろう と。
不思議に思ったに違いない。
そしておびえるように
鳴き声を上げたであろう。
やがて動物たちは
目に涙を浮かべて死んでいったのだ。
ある日突然いなくなった
人間たちを恨みながら。
死んだ町は 今も
死んだままだ。
いつまでたっても死んだ町。
いつかは消えていく町。
幻の町。
   根本昌幸「死んだ町」 [2]

 私たちは、まだ放射能の降り注いだ街で暮らしている。私(たち)の反原発の運動は「福島の人に寄りそって」などというものではない。
 昨日、妻は知人から山菜を頂いて困り果てていた。「親切で持ってきてくれたのに……」。若い頃、職業被爆としてけっこうな線量を浴びた私だって食べないのだ。年老いたといえども、私はまだ人生を諦めたわけではない。

[1] 根本昌幸詩集『荒野に立ちて――わが浪江町』(コールサック社、2014年) p. 74。
[2] 同上、p. 60。


2014年8月1日

 ブログで知り合った人で、俳句も短歌も創っている人がいる。その人が、「文月と葉月を取り違えてしまった」というブログを書いていた。取り違えたにしろ、「文月」や「葉月」を想い起こす暮らしの時間を持っているのだと感心した。
 私といえば、原子力規制委員会の川内原発の審査書案や委員長発言に怒り狂ったり、姉の死を前にあたふたと仙台、大阪の往復を繰り返したり、いわば「剥き出しの生」のような余裕のない時間ばかりだった。「剥き出しの生」という言葉を思い出しても、それが、ミシェル・フーコーの著作による言葉だったか、ジョルジョ・アガンベンによるものだったか、判然としない。思想の書からも遠く離れてしまったような気分だ。そんなふうに継続的にへこんでいるのである。
 原発に関して言えば、検察審査会が東京電力の旧幹部3人は起訴相当という結論を出したというそれなりに良いニュースもあった。
 だが、今日の金曜デモのブログはデモを歩いた夏の宵にふさわしい詩の言葉を集めて、気分を変えることに専念することにした。いわば、即興のアンソロジー「夏の宵」である。へこみ続けている気分を思いっきり感傷にまみれさせるのだ。
 初めは、一番好きな詩人の詩から。

どこかで 母のよびごゑがする
原っぱに
くつといっしょに かうもりと 夕やみと
駄菓子のように甘ずっぱい 淡い孤独が
落ちかかる
 吉原幸子「幼年連禱三 IVおとぎ話」から [1]

 夏の夕方、原っぱで遊ぶ子どもたちを呼びに来る母親たちという風景は、今でもあるのか。私の母が亡くなったとき、そんな風景の思い出も消えたような気がして、私の幼年の記憶も消えたのだと思い込んでしまった。

夕空はしろく映えをり不帰の客としらず発ちゆく人もあるべし
     春日井建 [2]

たつぷりと皆遠く在り夏の暮
     永田耕衣 [3]

別るるや夢一筋の天の川
     夏目漱石 [4]

 父、母、二人の兄、姉はもうずっと遠くにいって、私は彼らの誰もが住んだことない仙台の街で、夏の暮れを歩いている。 つい気分が死の影のほうへ傾いてしまうが、たとえば青春の夏だってあったのだ。青春はいずれ終る闘いの時でもあったのだが、それぞれの終りをそれぞれが生きる、つまり、当たり前のように別れは誰にでもやって来た。

表紙にはタゴールの詩を掲げゐつかつてわれらはわれらの夏に
   大口玲子 [5]

君は君のわれはわれなるたましいの翼たたまむ夏草の中
   道浦母都子 [6]

これからは群れなすことも会うこともなかりき君よ 口紅をぬれ
   福島泰樹 [7]

走り去った風
風のうしろ姿

街に 居場所はもはやない
季節に名まへはもはやない
わたしは笑ひだすわたしを眺める
  吉原幸子「晩夏 7 又 別れ」から [8]

カナかなが啼いている。
隣りの子どもの声がする。
ぼくはさっき街から帰ったばかりだ。
街に何があるかわからない。
ただ満ち足りた空洞のような場所から
ばくは毎日帰るだけだ。
  菅原克己「ぼくの中にいつも 3 昼と夜の空のつぎ目」から [9]

 どれもこれも、脱原発にはふさわしくないような詩句ばかりだ。老いた身にも、それなりの闘いは残されてあるというのに。

かなかなの空の祖国のため死にし友継ぐべしやわれらの明日は 
    寺山修司 [10]

[1] 『現代詩文庫56 吉原幸子詩集』(思潮社 1973年)p.36。
[2] 春日井建『歌集 水の蔵』(短歌新聞社 平成12年)p. 24。
[3] 『永田耕衣五百句』(永田耕衣の会 平成11年)p.157。
[4] 『わが愛する俳人 第四集』(有斐閣 1979年)p.149。
[5] 『海量(ハイリャン)/東北(とうほく) 大口玲子歌集)』(雁書館 2003年)p. 20。
[6] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 144。
[7] 福島泰樹「歌集 転調哀傷歌」『福島泰樹全歌集 第1巻』(河出書房新社 1999年)p. 159。
[8] 吉原幸子「詩集 夏の墓」『吉原幸子全詩 I』(思潮社 1981年)p.204。
[9] 『菅原克己全詩集』(西田書店 2003年)p.242。
[10] 『寺山修司全歌集』(講談社、2011年)p. 111。

 

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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(3)

2024年07月11日 | 脱原発

2013年2月5日

大惨事(高木注:チェルノブイリ原発事故のこと)から三、四年して私たちは、ようやく自分の国で事故の本当の規模、事故についての絶望的な真実の全貌を知りはじめる。それを知ると、私たちはますます自分のこと、私たちの大きな社会のことを知るようになる。私たちは自分たちの過去についてだけでなく、未来について知るようになる。
  アラ・ヤロシンスカヤ『チェルノブイリ極秘』より

 上の一文は、もう亡くなられた高木仁三郎さんがその著書『市民科学者として生きる』の中で引用されたものである[1]
 3・11の福島第一原発事故から2年経過しようとしている現在、私たちもまた「絶望的な真実の全貌」を知りはじめている。そして、それを知れば知るほど、反原発から引き返せない私たちの未来を知るようになっている。それが「脱原発みやぎ金曜デモ」に集まる人々の大きな「社会知」であり、「未来知」であるのだと思う。
 反原発といえば、高木仁三郎の名前をはずすことができない。『市民科学者』を標榜して日本の反原発運動のひときわ抜きん出たリーダーであった。反原発キャンペーンのために物理学会にお出でになった高木さんを見かけたことがあるという程度しか私は知らないのだが、ずいぶん昔に仙台で高木さんとニアミスをしたらしいということが最近分かった。
 絓秀実さんが「一九六九年に全国原子力科学者連合(全原連)が結成され、同年一一月、東北大学で行われていた原子力学会で、(高木さんらは)学会・原子力開発のありようを批判するビラを撒いた」と記している[2]。
 当時の大学は全共闘運動が吹き荒れていて、主要国立大学にようやく新設された原子核(原子力)工学科に学ぶ学生たちも「全国原子核共闘」という組織を作っていた。その原子核共闘が原子力学会に乗り込んで抗議をする、ついては仙台での集会場所や道案内などの世話をしてくれという連絡が私に届いたのである。当時の東北大学原子核工学科の学生はおとなしくて、全共闘の学科組織もなかったし、ましてや全国原子核共闘には誰も参加していなかったのだが。
 修士1年だった私は、確かに全共闘シンパとして原子核工学科で発言していたが、けっして過激な活動家ではない。ただ、カリキュラムについて学科教授会を強く批判していたのは事実である。「原子力工学という学問がないではないか。原子核工学といってもただの寄せ集めに過ぎないではないか」というのが私の不満で、それを教授たちにぶつけていた[3]。
 そのような私の言動が洩れ伝わって、全国原子核共闘からの指名になったのだと思う。私としては断る理由はまったくなかったので、たった一人の地元の学生として、集会場の教室を準備したり、原子力学会の会場へのアクセスなどを手伝うことになった。ただし、教室でメンバーと話しているシーンや広い学会場に入ったシーン、それにリーダーシップを発揮している京都大学の学生さんのことなどは覚えているが、その内実の記憶がほとんどない。
 乗り込んだ原子力学会の同じ会場に高木さんがいたかも知れないのに覚えていないのである。ニアミスした可能性があっただろう、というだけのことである。
 そんなこんなは、みんなただの思い出だけである。理系といえども初歩的な物理しか教えない原子核工学科で学んだ人間が物理学者として生きるというのは思っているほど簡単ではなくて、しばらくは物理に没頭するしかなかった。ときに反核デモに参加することはあっても、原子力の分野からは遠く離れた気分で過ごしてきたのだ。
 そんな私に福島原発事故は時間感覚を一挙に40年も遡らせ、その間いったい私は何をしていたのかと苛まれる思いを抱かせたのである。ショックで1年ほどは行動不調になってしまったのだが、脱原発みやぎ金曜デモが始まり、それに参加するようになって少し気持ちが落ち着いてきた。デモは、長い間原発問題から意識を遠ざけてきた私の人生のちょっとしたエクスキューズになっているようなのだ。

1.高木仁三郎『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年) p. 203。
2.絓秀実『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年) p. 79。
3.そのような私の反抗的な言動が理由だと思うが、修士課程を修了するころ、原子核  工学科を追い出されることになる。その追い出し方が不当だったということで学科教授会を越えた工学部教授会と大学評議会のメンバーが動いて、数ヶ月のブランクはあったものの大学の附置研である金属材料研究所の物理系研究室に助手として採用されることになった。落胆していた原子力工学から物理学へ移ることができて、何かほっとするところがあったし、時間が経つほど物理が性に合っていることが分かってきて、結局、定年退職は大学院理学研究科物理学専攻で迎えることになった。原子核工学科を追い出されたのは、私の人生にはラッキーだったのである。



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(8)

2024年07月09日 | 脱原発

2013年7月19日

  それなりに長いこと生きてきたが、選挙というものに楽しい思い出はない。すべての選挙で投票してきたが、私が投票した人物が当選したという経験はほとんどない。いまさらのことだが、ほとんどの場面でマイノリティの側として生きてきた、ということである。
 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。
 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。
 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。
 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。
 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。
 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。
 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。
 くどくど言ってもしょうがないが、今度の参議院選挙の投票は誰に投票するかは悩みようがない。朝食をたべながら家族で選挙の話題が出たが、考えていることは同じで1分もかからず話題が尽きた。我が家の家族は全員、マイノリティになる確率が高い、ということらしい。


2013年9月13日

   昨年(2012年)の7月に始まった「脱原発みやぎ金曜デモ」に参加するようになってから、朝日新聞の「朝日歌壇・俳壇」に掲載される投稿短歌や俳句の中から、原発事故に関連したものを抜き書きしている。
 最近、原発事故に関連する短歌や俳句がめっきり減ってきた。新聞の投稿欄なので、そのときどきの季節やトピックにふさわしい歌や句が選ばれやすいだろうから、それはそれで仕方がない。
 マスコミ・ジャーナリズムは事件や事故を「風化させてはいけない」と言いつのるが、真っ先に風化させているのは、新しい事件や事故、目新しい風俗や風説を追い求めているマスコミであり、そのマスコミの言説をそのまま受け止めているマジョリティの大衆(の一部?)であろう。そういう人々をネグリ&ハートは「メディアに繁ぎとめられた者」と呼んで、権力に支配され虐げられている主体形象の一つにあげている [1]。
 しかし、生まれた土地を放射能で汚され、避難せざるを得なかった人々、放射能被爆に日々怯えて暮らすしかない人々にとって「風化」などあろうはずがない。
 抜き書きを思い立った2012年7月から前、原発事故までの期間の「朝日歌壇・俳壇」には沢山の関連した歌や句が掲載されているのは当然で、いつかそれらを抜き書きしたいとずっと思っていた。
 しかし、古い新聞は捨ててしまっているので、図書館で縮刷版で調べるしかない。図書館の机に拘束されている自分を想像するだけで少しばかりうんざりしてしまって、ずっと放っていたのだが、この水曜日の午後、なんとかとりかかることができた。
 ハンディスキャナーとOCRソフトでノートパソコンに直接読み込めば楽勝と思っていたのだが、縮刷版の文字が小さすぎて文字変換の成功率が異常に低い。直接打ち込む方がずっと早いのだが、ど近眼でなおかつ老眼の身にはこれまた楽な作業ではないのだった。2001年3月と4月分から拾い出すのに3時間かかってしまった。
 とはいえ、始めたものは途中で投げ出せない。拾い出し、抜き書きを続けていけば、私にも何か別の風景が見えてくるかもしれない、そんなことを期待しているのである。
「脱原発みやぎ金曜デモ」が始まった頃、脱原発デモを詠った歌や句がたくさん投稿され、たくさん選ばれていた。

炎天に我もとぼとぼ蟻のごと脱原発を唱えて歩く
  (三郷市)岡崎正宏(2012/8/6 永田和宏選)

炎天の「さらば原発集会」に出たき八十路の思いよ届け
  (東京都)峰岸愛子(2012/8/6 佐佐木幸綱選)

原発の再稼働否(いな)蟻のごととにかく集ふ穴あけたくて
  (長野県)井上孝行(8/20 佐佐木幸綱選)

一〇〇円の帽子被って参加した脱原発デモの後のかき氷
  (神戸市)北野中 (8/20 佐佐木幸綱、高野公彦、永田和宏選)

原発を残して死ねじと歩く老爺気負わずノーと夕風のごと
   (秦野市)森田博信(8/20 佐佐木幸綱選)

国会を囲む原発NOの輪に我も入りたし病みても切に
   (埼玉県)小林淳子(8/20 高野公彦選)

身分明かす物持たず行くデモでなく気軽でもないパレードを歩く
   (日野市)植松恵樹 8/27 永田和宏選)

「故郷」の唄を歌いて人々は明り灯して国会包囲す
  (東京都)白倉眞弓(8/27 永田和宏選)

国会を包囲し気付けばお月さま明るく静かに見守っている
  (町田市)北村佳珠代(8/27 佐佐木幸綱選)

脱原発の人犇(ひし)めきて蓮開く
  (旭川市)河村勁 (7/23 金子兜太選)

 そして、避難先で、あるいは放射能汚染の地で生きなければならない日々を詠った切実な歌や句も散見されるのだ。

兀兀(こつこつ)と人生きるなりふくしまの重いひき臼しずかにまわし
   (福島市)青木崇郎(2012/10/22 佐佐木幸綱選)

みちのくに人は還らず秋刀魚焼く
   (横浜市)永井良和(2012/10/1 金子兜太選)

 私は、私の住む仙台から福島までのその距離感でしか事象を見ることができない。投稿された短歌や俳句は、日本(世界)の至る場所、そして福島のど真ん中そのものから見たフクシマを指し示しているにちがいない。そのような眼差しや感情をいくぶんかでも我が身に取り込めたら、図書館での苦行も救われるだろう、そんな淡い期待を抱いているのである。



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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(2)

2024年07月07日 | 脱原発

2013年6月21日

 静かなスピーチ、激しいアジテーション。初夏の夕暮れどきの集会が進行する。熱意に満ちた演説に「そうだ、その通り」などと思いながら、若い頃のようにアジ演説に呼応してこぼれ溢れるようなエネルギーが沸き立つ感じはもうない。賛意は静かにわき起こる。

この時刻には闇もまだ脚に絡まず、
夜の訪れも、あこがれる
昔の音楽のように、或いは
なだらかな坂のように感じられる。
    J. L.ボルヘス「見知らぬ街」部分 [1]

 子どもの頃、夕暮れどきというのは寂しくて悲しい時間帯だった。鳥も虫もいなくなり、木も花も見えなくなり、そして友達もいなくなって一人で家に帰る頃合いだった。青年期には、1日が始まる朝は不安に満ちていて、夕暮れどきは時間をやり過ごすのに必死で、たいていは飲んだくれていた。老いて今は、1日を暮らし終えた夕暮れどきはとてもいい時間だと思えるのだ。

たつぷりと皆遠く在り夏の暮 永田耕衣 [2]

 夕暮れどきは一人でいる時間のイメージばっかりだが、今はデモの中の一人である。そして、大勢の人の中で、どうしたことか、今日は夕暮れどきの感傷なのである。
 

   夕焼けが赤いと、彼はまた愉しくなり、
雲が出ると、彼の幸福の
色も変わる。
心も変わるときがある。
    ウンベルト・サバ「詩人」部分 [4]

 そう、夕暮れは感傷的な時間帯と限られたわけではない。デモを歩いているということは、私(たち)は自らの「幸福の色」を変えようとしているということだ。そのために、その闘いのために、必要なら「心も変わるときがある」ということだ。
 暗さが増した街角でデモは終る。これから、少しだけビールを飲んだりしながら、夕暮れどきの仙台の街をぶらりぶらりと家路につくのである。

仙台は小さき紫陽花の咲くところスーパーにホヤがごろりと並ぶところ
                                                 大口玲子 [5] 

[1] 『ボルヘス詩集』鼓直訳(思潮社 1998年)p.10。
[2] 『永井陽子全歌集』(青幻社 2005年)p. 468。
[3] 『永田耕衣五百句』(永田耕衣の会 平成11年)p.157。
[4] 『ウンベルト・サバ詩集』須賀敦子訳(みすず書房 1998年)p.51。
[5] 『大口玲子歌集 海量(ハイリャン)/東北(とうほく)』(雁書館 2003年)p. 154。

 

2013年7月12日

 ときおり小雨がぱらついていたが、その雨も止んでいて、デモに出発する。錦町公園からは定禅寺通りを西に向かって歩く。

顔上げて街を行くとも屈辱のごとく雲垂る西空が見ゆ
          道浦母都子 [1]

 同じ時代を見てきたが、私は道浦母都子のように激しく権力と闘ったわけではない。それでもやはり、デモの中にいると上の歌のような感情のフラッシュバックに驚くことがある。夕暮れ時の感傷には、そういう心性も含まれているのだろう。油断していて、感傷にずぶずぶになるのは嫌だ。そんなときには、金子兜太の句がふさわしい。

ほこりつぽい抒情とか灯を積む彼方の街 金子兜太 [2]

[1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 121。
[2] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房平成14年)p. 35。


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