かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【図録】『フェルディナント・ホドラー展』(NHK、NHKプロモーション、2014年)

2015年10月29日 | 鑑賞

 昨年の秋から今年の新年まで、国立西洋美術館で開催された「ホドラー展」を見逃した。まめに美術展の予定を調べることもなく、東京に出かける予定ができてから観覧可能な美術展を探すので、見逃してしまうのはよくある。美術展だけを目的にして新幹線に乗ったというのは、それなりに長い人生の中で、セガンティーニとハンマースホイとフェルメールの3度だけである。
 
「ホドラー展」を見逃したことを知ったのも、仙台市立図書館で新規購入本の棚に並べられていた図録を見てのことだった。日本・スイス国交樹立150周年記念と銘打たれた美術展を見逃した以上、私に残された時間内で実物を見るチャンスはもうやってこないと諦めて、図録で私のホドラー体験とすることにしたのである。

 1853年にスイス・ベルンで生まれたフェルディナント・ホドラーは、1918年で65歳の生涯を終えた。彼が生きた19世紀末から20世紀初めというのは、私などが比較的見慣れた画家の多い馴染みやすい時代なのだが、ホドラーの名前はかろうじて聞きかじっている程度で、その絵のことは皆目知らないと言っていい。
 オスカー・ベッチュマンが図録に「フェルディナン卜・ホドラー:人物像のコンポジション」という論考を寄せていて、ホドラー芸術の全体像を次のように要約している。

ホドラーは、ふたつの側面をもつ芸術家だった。彼は一方で、風景画、肖像画、群像画のジャンルを横断して自然や人間と向き合い、卓越した技量でそれらを模倣しようと試みた。他方、こうして写実的に再現されたものを、彼は、精神的なもの――般的にそう言って差し支えがなければ――と固く結びつけようと自らに課した。目の前にある風景や、群像画のためのモデルを単に模倣して表わすことでは、満足しなかったのである。それは、同時代の多くの画家たちと共通する思いでもあった。ホドラーによれば、コンポジションの秩序こそが見る者を精神的なものへと導く。同時に、コンポジションの秩序は自然の秩序と一致すべきであるとも彼は考えていた。 (p. 25)


【左】《山小屋とアイガー山、メンヒ山、ユングフラウ山》1872年、油彩/カルトン、
49.5×64.7cm、右下に署名・年記、ベルン美術館 (p. 39)。
【右】《レマン湖畔の柳》1882年、油彩/紙、合板に貼り付け、43×33.5cm、
右下に署名、ヴィンタートゥール美術館 (p. 45)。

 図録は、「光のほうへ――初期の風景画」という章から始まっている。《山小屋とアイガー山、メンヒ山、ユングフラウ山》は、崇高な自然を描こうとして山岳風景を多く描いたドイツロマン派の絵画を思わせるところがある。
 図録解説は、《レマン湖畔の柳》における遠くの山岳風景や後ろ向きの人物の描き方にドイツロマン派を代表する画家、フリードリヒとの類似を指摘している (p. 44) が、私の印象は柳の描き方に後の平行主義的な描き方の芽生えを強く感じて、それがドイツロマン的な雰囲気を凌駕しているように思えた。


《マロニエの木々》1889年、油彩/カンヴァス(貼り替え)、47×32cm、
右下に署名・年記、ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 53)。

 《マロニエの木々》では、水面に映る木々や空を描くことで上下を2分する線を中心に鏡面対称性がみられる。ホドラーは、このような反映や反復などを「平行主義」なる絵画理論を提唱するのだが、《マロニエの木々》はその先触れだと考えられている。

「反射/反映(リフレクション)」という現象は、この世にはありふれた、あまりに見慣れた単純な原理にすぎない。しかしホドラーはこれ以後、そうした馴染みの現象に惹かれてゆく。その興味はやがて、世界のなかにさまざまな事物の「反復」や「類似」を見出し、それらを絵画における形式原理として応用しようとする「パラレリズム(平行主義)」なる理論をかたちづくっていくことになる。そのような問題意識がいまだ全面化する前、すなわち1890年代以前に制作された本作には、ホドラーの生涯にわたる関心の先触れがある。 (p. 52)


【左】《思索する労働者》1884年、油彩/カンヴァス、72.2×51.6cm、
右下に署名・年記、ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 71)。

【右】《アハシュエロス(永遠のユダヤ人)》1886年、油彩/カンヴァス、104.5×81.5cm、右下に署名、
ヴィンタートゥール、オスカー・ラインハルト美術館アム・シュタットガルテン (p. 73)。

 まだ若く貧しかった時代、ホドラーは貧しい労働者などの絵を描いたという。《思索する労働者》や《アハシュエロス(永遠のユダヤ人)》は、写実性においてクールベ、主題においてミレーとの強い関連を思わせる。
 《アハシュエロス(永遠のユダヤ人)》は貧しい人びとを描いたわけではないが、永遠に続く苦悩を背負っているというきわめて文学的な主題であって、貧しさから抜け出すことのできない労働者とも通底するところはあるだろう。主題の「永遠のユダヤ人」そのものについて、解説を引用しておく。

「永遠のユダヤ人」とは、13世紀のキリス卜教の伝説に遡る主題であり、20世紀までに数多くの変種(ヴァリアント)を生みながら語られ、また描かれてきた伝説である。匿名の著者による1602年のドイツ語の民衆本において、原型となった「アハシュエロス(Ahasuerus) 」というペルシア語の人名が、靴職人だった流浪のユダヤ人に初めて用いられた。このユダヤ人は、ゴルゴタの丘への道ゆきにあったキリス卜を嘲笑し、そのいかなる助けをも拒んだために、キリストの再来まで永違に流浪するという罰を受けたのだ。この伝説は19世紀には、とくにウジェーヌ・シュー(1804-1857)の小説『さまよえるユダヤ人』によって広まった。 (p. 72)

ドイツロマン派のような風景画、クールベ的リアリズムによる労働者の姿などは、ホドラーの前期作品に属するものである。
 「リズムの絵画へ――踊る身体、動く感情」という章からは、ホドラー的と呼びたくなるようなホドラーの特徴的な絵画が展開する。


《オイリュトミー》(部分)1895年、油彩/カンヴァス、167×245cm、
右下に署名・年記、ベルン美術館 (p. 83)。

 《オイリュトミー》は、白衣を纏った男性が同じ方向を向いて立って(あるいは歩いて)居る絵である。一見、ドラマ性が顕著のように見えながら、じっさいにはきわめて静謐で、どのような情感が描かれているのか判然としない。
 「オイリュトミー」はギリシア語の「美しい」と「リズム」という二つの語をあわせた言葉 (p. 82) だという。つまり、ここで描かれているのは複数の人間の立ち姿が生み出す造形的な美しいリズムなのである。立ち姿の男性像は、「平行」を表わし、その列は「反復」を表わして、いわゆる平行主義的構図と考えてよいのではないか。


【左】《感嘆》1903年頃、油彩/カンヴァス、133×71.5cm、右下に署名、
ベルン美術館 (p. 99)。

【右】《遠方からの歌III》1906-07年、油彩/カンヴァス、178×136cm、右下に署名、
ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 105)。

 《オイリュトミー》とは異なり、《感嘆》や《遠方からの歌III》のようにどこか象徴性を帯びた単独の女性像も多く描かれている。例えば、《感嘆》の女性裸体像は「コントラポス卜と、軽く斜めになった姿勢、そして汎神論的な意味における自然への浸礼という風景要素」 (p. 98) となっていると解説されている。 また、《遠方からの歌III》では、女性のポーズは遠い地平線から歌が「かすかに響いているかような印象」(p. 98) を与えるとされている。
 私がこの二つの絵から受けた最初の印象は、女性のポーズは日常的な姿からはほど遠く、きわめて演劇的なポーズだということだった。もちろん、それゆえに、その姿は「祈り」のようでもあり、自然への「崇敬」の姿を演劇的に表現しているとも言えるだろう。
 しかし、《オイリュトミー》と同様に、人間の姿態を通じて平行主義的なリズムを表現したものとも考えられるのである。《マロニエの木々》では、水平な対称軸を持つ鏡面構造に平行主義の芽生えを見ているが、《感嘆》や《遠方からの歌III》にも女性の身体の縦中心線を対称軸とする鏡面対称を見ることができる。もともと人間の肉体は左右対称に近いが、腕を広げることでその対称性を強調したと見ることが可能ではないか、と思うのである。人間の姿態、ポーズによる絵画的リズムの表現ではなかろうか。


【左】《悦ばしき女》1910年頃、油彩/カンヴァス、166×118.5cm、右下に署名、
ベルン美術館 (p. 109)。

【右】《恍惚とした女》1911年、油彩/カンヴァス、合板に貼り付け、172×85.5cm、
右下に年記・署名、ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 111)。

 《感嘆》や《遠方からの歌III》と比べれば、《悦ばしき女》や《恍惚とした女》に平行主義的な構図を見つけることは難しいが、ここでも日常的な姿態ではなく舞踊によるポーズが描かれているという点では、演劇なポーズと共通するものはある。単純な対称性を越えた形態による絵画的リズムを追求した作品なのかもしれない。


【左】《レマン湖とジュラ山脈(風景の形態リズム)》1908年、油彩/カンヴァス、48×64cm、
右下に署名、アールガウ州立美術館 (p. 115)。

【右】《シャンベリーで見る風景》1912|16年、油彩/カンヴァス、60.5×79cm、ヴィンタートゥール、
オスカー・ラインハルト美術館アム・シュタットガルテン (p. 121)。

 初期の風景画とは大きく異なる絵が「変幻するアルプス――風景の抽象化」の章に収められている。上の二作品は、平行、反復によって「形態のリズミックな構成という意識に貫かれた、稀な風景表現」(p. 114) となったホドラー絵画の典型的な作品であろう。
 《レマン湖とジュラ山脈(風景の形態リズム)》は、自然の風景と言いながら、ここまで平行と反復を徹底してしまえば、「コンポジション」のような抽象画にかなり近接した作品になっている。
 《シャンベリーで見る風景》はいくぶん自然に近いが、それでも雲や山襞に反復のリズムが表現されている。


【左】《ミューレンから見たユングフラウ山》1911年、油彩/カンヴァス、88×65.5cm、右下に年記・署名、
ヴィンタートゥール、オスカー・ラインハルト美術館アム・シュタットガルテン (p. 121)。

【右】《シャンベリーの渓流》1916年、油彩/カンヴァス、82×101cm、右下に年記・署名、
ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 137)。

 ホドラーの風景画には、平行主義とどういう関連があるのか私には明確に指摘できない作品群がある。《ミューレンから見たユングフラウ山》や《シャンベリーの渓流》のような作品である。
 筆致の雄渾さを見るとセザンヌの風景画を思い起こすし、色彩の変化、コントラストからはフォービズムの香りがしないでもない。反復も平行も判然としないが、岩壁の重なり、山稜の襞、渓流の石の配置、木々の枝の重なりに明確なリズムが表現されているのは確かである。逆様に言えば、このようなリズムを表現するために雄渾な筆致で描いたのではないかとも思えるのである。


【左】《自画像》1873年、油彩/カンヴァス、52.4×65.7cm、右下に署名・年記、
ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 35)。

【右】《怒れる人(自画像)》1881年、油彩/カンヴァス、73×53cm、右下に署名、
ベルン美術館 (p. 57)。


【左】《バラのある自画像》1914年、油彩/カンヴァス、43×39cm、右下に年記・署名、
シャフハウゼン万聖教会博物館 (p. 183)。

【右】《緑のジャケットの自画像》1917年、油彩/カンヴァス、83.5×60cm、右下に年記・署名、
スイス、個人蔵 (p. 199)。

 自画像というと、苦渋の人生のときどきで描いたゴッホの自画像をまず思い浮かべてしまうが、ホドラーの図録にも15歳から死の前年までの自画像が収められている。
 自己の描き方、手法的な変化はとても興味深いが、ゴッホやシャルフベックのようにそのときどきの心性を強く反映している自画像と比べれば、ホドラーの自己観察はきわめて冷静、客観的である。図録解説では、そのようなホドラーの自己描写にレンブラントとの類似を見出し、次のように述べている。

〔……〕つまり、レンブラントは鏡に映し出される自身の姿を「他者」として再-発見することで、ジャック・ラカンの精神分析がいう幼児期の「鏡像段階」を再演していたというのである。ラカンのよく知られたその理論によれば、幼児は鏡のなかの自分の姿を「他者」として発見することで、自らの身体を統一的なものとして把握し、自我を形成していく。
 すでに晩年を迎えていたとはいえ、この《バラのある自画像》でのホドラーも、鏡に映る自身の表情に、これまでに自分でも知ることのなかった「他者」を発見したというべきだろうか。 (p. 182)


【上】《死した農民》1876年、油彩/カンヴァス、カルトンに貼り付け、22.7×51cm、
右下に署名・年記、ジュネーヴ美術・歴史博物館 (p. 59)。

【中】《バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル》1915年、油彩/カンヴァス、
60.5×124.5cm、チューリッヒ、コニンクス財団 (p. 191)。

【下】ハンス・ホルバイン(子)《塞の中の死せるキリスト》1521/22年、油彩/カンヴァス、
バーゼル美術館 (p. 190)

 最後に、愛する人の死を描いた《バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル》を挙げておく。痩せ衰えて死の床に横たわる構図は、40年近く前に描かれた《死した農民》にも描かれた構図であり、それはハンス・ホルバインの《塞の中の死せるキリスト》に由来するという。
 愛する人の死でありながら、ここにはあまり悲嘆のような感情は見られない。《死した農民》と同じように、「死した人はニュートラルな対象物と化し」 (p. 190) ているのである。愛する人を失う悲しみ、そしてその死を冷徹に眺めざるを得ない芸術家の悲しみ、二重の悲嘆を画家は耐えるのであろう。


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原発を詠む(27)――朝日歌壇・俳壇から(2015年9月7日~10月19日)

2015年10月19日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

「核兵器、絶対失くしてほしいかな」広まる「かな」のあまりの軽さ
             (富士見市)武川行男  (9/7 高野公彦選)

除染土は永久に日本の一部分どこに置いても誰が埋めても
             (大船渡市)桃心地  (9/13 永田和宏選)

原爆忌被曝の友とゆめで逢ふあの日思へばこころが痛む
             (西海市)原田覚  (9/13 佐佐木幸綱選)

原爆を落とした国の戦争に従いてゆくのか敗戦国は
             (境市)梶田有紀子  (9/21 永田和宏選)

「心配しね、帰村かなへば牛(べご)育でる」老農は笑ひ目頭に手を
             (福島市)斉藤一郎  (9/21 馬場あき子選)

避難地で四十五分の鹿舞(ししまい)を受け継ぎ舞う子ら異郷に生きる
             (福島市)澤正宏  (9/28 高野公彦選)

追われたる生徒の住みし楢葉町学年主任の教え子訪ぬ
             (福島市)武藤恒雄  (10/5 佐佐木幸綱選)

汚染土の袋を次々洪水が攫(さら)いてゆけりこの責めは誰
             (岐阜県)棚橋久子  (10/5 馬場あき子選)

浜辺にはオイランアザミ咲き群れて川内原発見ゆるが哀し
             (熊本市)徳丸征子  (10/12 高野公彦選)

 「首都圏の原子炉」と言われる原子力空母当たり前のように居るではないか
             (熱海市)宮島郁子  (10/19 馬場あき子選)

原爆を落とした国への肩入れを涙しており帰らぬ兵士は
                 (長野市)青木武明  (10/18 高野公彦選)

 

梧桐(あおぎり)の大きな陰に原爆忌
             (富士見市)阿部泰夫  (9/7 長谷川櫂選)

原爆忌伝えて言葉武器となる
             (佐賀県有田町)森川清志  (9/7 大串章選)

美しきこの惑星に原爆忌
             (三郷市)岡崎正宏  (9/7 金子兜太選)

福島の身の毛立ちたる羽抜鶏
             (鴻巣市)佐久間正城  (9/7 金子兜太選)

原爆忌アメリカ終(つい)に謝らず
             (前橋市)荻原葉月  (9/13 金子兜太選)

原爆忌次は十億屍(しかばね)
             (習志野市)吉本久世  (9/13 長谷川櫂選)

心にはフクシマありし震災日
             (埼玉県皆野町)宮城和歌夫  (9/21 金子兜太選)

福島は霧の帳(とばり)の再稼働
             (長崎県波佐見町)増田竹廣  (9/21 金子兜太選)

夜の秋原爆ドーム舎利頭(しゃりこうべ)
             (橋本市)岩橋蘇風  (10/5 長谷川櫂選)

核のゴミ捨て場のなくて彼岸花
             (盛岡市)守屋光雅  (10/19 金子兜太選)



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【書評】ベルナール・スティグレール『現勢化――哲学という使命』(新評論、2007年)

2015年10月16日 | 読書


ベルナール・スティグレール
(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)
『現勢化――哲学という使命』
(新評論、2007年)

 

 「われわれは誰もが皆、哲学に運命づけられている」(p. 10) とスティグレールは語る。わが身のこととして振り返れば途惑ってしまうばかりだが、そこには、まさにスティグレールらしい前提が存在する。

われわれは皆、そしてまさに「われわれ」という集団を作るその限りにおいて、潜在的に(en puissance可能態として)、哲学をするよう定められています。 (p. 10)

 スティグレールの哲学は、私たちが「心的かつ集団的個体化」を成り立たせる「私」と「われわれ」の関係を通じて「生き方そのものに関わる次元」(p. 14) で思考することによって成り立つ。「心的かつ集団的個体化」、「私」、「われわれ」については『象徴の貧困』 [1] でも論じられているが、その概念はスティグレール哲学の鍵となるもので、本書でもその議論から始められている。

  「私」の時間はもちろんそのまま「われわれ」の時間ではないものの、「私」の時間は「われわれ」の時間の中に生起し、また「われわれ」の時間自体はその「われわれ」を作り出す複数の「私」たちの時間によって条件付けられています。シモンドンが個体化と呼ぶものは、社会(ポリス)的動物である人間の時間性のこの二つの次元を緊密に結びつけるものなのです。 (p. 16)

個性化とは個体化の結果であり、個体化とはそれ自体ひとつのプロセスなのです。そのプロセスによって多様一般、つまり「」という多様そして「われわれ」という多様が統合されていき、こうして個の分割-不可能性へ、すなわち自分自身との完全な一致へ向かっていくのです。さて「私」というものは、「われわれ」と自称する集団の個体化(これ以上分割できなくなること)、すなわちその集団がひとつにまとまることに貢献することによってしか、みずからをとすることができません。 (pp. 16-8)

 スティグレールが分割不可能な「私」と「われわれ」と語るのは、たとえば、森達也が坂口安吾を引用しつつ批判するような「私」と「われわれ」の頽落形式を超克するためだと考える方が理解しやすいかもしれない。

〈この戦争をやった者は誰であるか、東京であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。〉
 安吾が『堕落論』で提示するこのメカニズムは、まさしくアレントが断罪したアイヒマンの「凡庸であるがゆえの罪」でもある。集団や組織と相性が良いからこそ、日本人は個の思考を停止することが頻繁にある。主語が「私」や「僕」などの一人称単数から、「我々」や「我が国」などの強くて大きい代名詞へとスライドする。その帰結として述語が暴走する。ありえないことが起きる。でも主語は常に不特定多数なのだ。だから責任の所在が曖昧になる。自分に絶望しない。その前に目を逸らす。 [2]

 ここでは「私」から逃亡した、あるいは「私」を失った「我々」や「我が国」があり、しかもその複数形自体が集団的個体化のなされていない茫洋としたものに過ぎず、スティグレールが「みんな」と名付けた単なる多数の群れでしかない。スティグレールの「私」は個別化され自立した個体としての「私」であり、共有すべき「象徴」を通じた集団的個体化によって「われわれ」と不可分の「私」である。ここで、共有すべき「象徴」は、言語や文化、倫理などを内包するものである。
 プロセスとしての「心的かつ集団的個体化」には終わりがない。そのプロセスには次のような機制が働く。

私は分かちえないものとしての私自身になろうとし、完全な統一、自己同一性に向かっていくのですが、しかし私はみずからにつねに矛盾し続けるのです。というのも、集団の中でみずからを個体化しつつ(その集団自体も私を通じて集団として個体化していくのですが)、私は私自身moi-mêmeのうちに絶えず他者としての私moi-autreを見出してしまうからです。つまり〔統一に向かうまさにそのプロセスにおいて〕私は絶えず分割されていき、一方集団の方もみずからを異化し分割されていくのです。こういう事態になるのは、個体化のプロセスは構造的に完遂しえないものであるからに他なりません。 (pp. 17-8)

 「私」の中に「他者」を見いだすことは、「われわれ」という分割不可能な個別的集団の形成に貢献する契機そのものである。
 スティグレールは、ソクラテスこそ「私」と「われわれ」を徹底して生き、そして死んだ哲学者として挙げている。

 同じようなプロセス的な枠組みの中で、ソクラテスはあらゆる行為を通じて都市国家の個体化に参加し、そして最後まで、ということは極限まで、彼はみずからの個としての運命を集団の運命に結びつけたのです。死に至るまで彼はそれを貫くのですが、その死は彼の個体化の終焉であると同時に、哲学という「われわれ」の始まりでもありました。ある意味で、ソクラテスは都市同家に死ぬほどまでにみずからを結びつけることで、哲学的態度というものを創始したのであり、それは「私」と「われわれ」の模範的な関係としてあらゆる哲学の基盤となるべきものでした。ですからそういう意味で、この終焉はまた無限化でもあったのです。 (p. 22)

 21世紀の現在、ソクラテスの時代の「われわれ」として語られる「都市国家(Cité シテ)」を現代の国家に置き換えることは困難だろう。『象徴の貧困』で著者が論じたように、「自分たちが社会に属しているとはもう感じていない」人びとが極右政党に票を投じた2002年のフランス大統領選挙のように、「われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのよう」に国民が分裂している状況で「国家」を「われわれ」と見なすことはできない(たとえ、政治権力はそれを願っているにしても)。私たちは、「われわれ」と呼べる人びとの中にいることは間違いないが、その「われわれ」は社会そのもの、国家そのものにはほど遠い。社会そのものが「われわれ」と呼べるようになることが究極的な理想であろうが、私たちはそのプロセスの途次にいるにすぎない。

 ソクラテスによって「創始」された哲学の道を選び、歩んできたスティグレールの思考の道筋を語るというのが、そもそもの本書の主題である。
 人はどのようにきっかけで哲学者になるのか、ある一人が可能態として持つ哲学的潜在力を現実態として「現勢化」する機制はいかなるものか。本書は、ベルナール・スティグレールという若者が、希有な経験の中から哲学者として「現勢化」するプロセスを、自信の哲学を語ることによって明らかにしようとした講演を基としている。

 スティグレールの哲学的現勢化は、牢獄から始まる。その経歴は、訳者解説 (pp. 129-30) によれば次のようなものである。
 一九五二年生まれのベルナール・スティグレールは、六八年に学生運動に巻き込まれ高校を中退し、その後共産党に入党した。農業労働者を始め、さまざまな職を転々とし、七六年に党を脱退した後、トゥールーズにカフェバーを開き、トゥールーズ大学教授の哲学者ジェラール・グラネルと出会う。店の経営の行き詰まりから酒と薬に溺れるようになった彼は、銀行強盗事件を引き起こし、彼は禁固五年の刑に服すことになる。

 その「犯行」それ自体は哲学とは全く無縁のものだったのですが、その後の五年間は哲学の実践、いわば実験的現象学、現象学の限界への移行をおこなった時期でした (p. 41)

 投獄中、グラネルの力添えによって独房で本を手にして哲学に没頭する。独学に加え、服役中にトゥールーズ大学の通信教育で学位を取得する。出所後、グラネルの仲介で知己を得たジャック・デリダの指導のもと博士論文を執筆したのち、多くの哲学者たちと出会い、薫陶を受け、頭角を現した。八八年からはコンピエーニュ工科大学で教鞭を執る傍ら、国立新図書館のアーカイブ構想に携わった、後INA (国立視聴覚研究所)副所長、IRCAM (音響、音楽研究所)所長、二〇〇六年にポンピドゥーセンター文化開発ディレクターに選任され、今日に至る。
 訳者も記しているように、ほとんどのフランスの哲学者が高等師範学校を経て大学教授資格を取得するというエリートコースと辿ることと比べれば、スティグレールの経歴は異様と言ってもよい。「まさに余人を以て代え難い」(p. 130) 才能のみによって、フランス(ヨーロッパ)の現代哲学の世界に確かな存在を顕示しているのである。

 獄の中で哲学書を読みふけり、哲学者としての現勢化していくスティグレールの思索においてきわめて重要な役割を担ったのは「欠如」という感覚であり、概念であったに違いない。
 アリストテレスを読み、ヘーゲルに思考を繋げて、「知的魂」を考える。しかし、独房の中では「水から出た魚のよう」(p. 50) に「知的魂の生活に必須の環境、つまり世界という、さまざまな社会的交わりをサポー卜する組織を作り上げる人為物からなる骨組み」(p. 52) が欠如していることに気付く。その欠けている知的環境ないしは世界との媒体となるものの可能性を「言語」に見いだす。

 やがて私は、その環境とは人為的に作られた物、代補supplément一般からなるものだと考えるようになりました。言語はそのような代補のひとつの次元であり、そこではもっとも日常的にロゴスの経験が生じます。しかしさまざまな「もの」chosesを成り立たせる技術的人為物もまた、代補の別の次元を形成しているのです。 (pp. 51-2)

 世界が欠如しているがゆえに、世界をそこから離れたうえで考えることができる。独房の中で想起する世界は、すみずみまで代補supplémentによって構成されることになる。

 そして私が見出したのは――私はここでプラトンの用語を使いながら、プラトンに反する観点で言うのですが――、そのエレメントとは記号によって支えられた記憶ヒュポムネーシスhypomnéseであり、それこそが内的想起アナムネーシスanamnéseを可能にする(それに場を与える)ものなのだということでした。 (p. 53)

 さらに、人間には根源的な「欠如」があることにも気付いていく。弟エピメテウスが不死ではない生き物として作られた人間に与えるべき長所を忘れてしまったことを埋め合わせるために、プロメテウスが火すなわち技術を盗みに行くという神話を引いて、次のように「起源の欠如」について述べている。

その盗みという犯行は、特性の欠如、言い換えれば根源的欠陥/起源の欠如を補うための「行為への移行」でした(結局それは補えないのですが)。以来この欠陥/欠如という痛手を与えられているのが、死すべき存在les moitelsとしてのわれわれ人間なのです (p. 58)

 私たち人間は、この根源的欠陥を補うためにさまざまな補綴物や技術を生み出してきた。その最大にして最良のものが文字、言語である。哲学の起源である内的想起アナムネーシスの遂行は「世界をいわば理念的に描き出せるようにしてくれるものの仲介(媒介)intermédiaireがあったからこそ可能になった」のであり、その媒体こそ「読んだ本や書かれた言葉のヒュポムネーシス」(p. 66) なのである。
 社会と隔絶された獄舎の日々は、現実世界の欠如ではあったが、その欠如こそが読書を通じての理念世界の形成の駆動力であったと言えるのではないか。スティグレールは、率直に「書物と紙」と「読み書きの技術」に感謝する。それだけがあれば、「誰でも哲学という行為を実行に移すための方策に到達しうる」と語る。そして、牢獄の生活は、スティグレールに「エポケーという判断停止を経験的に実践するという状態から、理論的、方法論的、つまり「必当然的」たらんとする実践へと移行すること」(p. 80) を可能にした。

 さて、世界の中断において、そして世界の必当然的な残滓のうちに、私はまず世界の不在、例の博識な欠乏docte manqueを見出しました。その欠乏はそのような(博識な)ものである限り、むしろ欠如défautであり、それは「足りないil manque」というよりもむしろ「(欠けているがゆえに)必要ななくてはならないil faut」ものであり、何かを与え、生じさせる(donner lieu場を与える)ものなのです。欠乏というのは、世界の不在においてその不在を生きることができず、欠如における博識な必要性を見出すことができないもの、つまりその必要性を創り出すinventerことができないもののことです。世界の不在の不可能性、その耐えられなさという、世界とは呼べない恐ろしい状態im-mondeに限りなく近いところで、私は世界を還元しえない局所性として、しかもそれ自体いかなる状況においても構成された局所性として見出しました。 (pp. 82-3)

 すなわち私はつねに、ある「今」と「ここ」という局所性に属していて、それはどんなことが起ころうと変えることができないということです。たとえ投獄されていようと、私は欠如(デフォルト)というかたちでの局所-local-ité、そして局所-性としての欠陥に属しているのです。なぜなら〔その状況においても〕私は今だに、イディオム的である限りの私の言語やあらゆる過去把持によって構成されているのですから。過去把持とは欠けている(もう-そこに-ないce-n‘est-plus-làのですから)ものの痕跡です。しかし過去把持は、なくてはならないもの、まさに意味をなすものとして、つまりイディオム、局所性、言い換えれば現存在(étre- làそこに-あるもの)として、もうそこにないものを突如、全く違うかたちで提示するのです。そうやって提示される世界とは、曖昧で不完全で生気のない外部ではありません。また事物や存在が物理の法則の単なる合計としてり立つようなそんな世界でもありません。それはまさしく、意味を-なすslgni-fier限りにおいての世界であり、そしてその世界はみずからの局所-性にもとづいてのみ意味をなすことができるのです。 (pp. 88-9)

 「今」、「ここ」にいる「現存在」は、プロメテウスによって「不死ではない生き物」(p. 56) として作られた人間の「私」である。獣でもなく神でもない「私」に、「ラスコーの壁画」を描いた人びとと何かを共有していることを想起させる力こそ局所性としての「死にゆく存在、すなわちわれわれ人間という欲望し意味する存在のエートスとしての人間-性(morta-/lité死にゆく定め)」(pp. 90-1) なのである。
 15,000年も隔てた人びとと「私」は何かを共有しているという実感こそ、心的かつ集団的個体化によって「私」と「われわれ」を構築していくことの意味を確信する(おそらくは)第1歩であったはずだ。つまりは、「われわれ」の想起にとって不可欠なエレメントは「他者」の認識ということだ。 

 さてあらゆるエポケーの目標である「超越論的」主体への接近も、こうして、他というものの外では不可能に思われました。そしてこの「他」それ自体も、意味を生み出す実践の外では、つまり外部というものの外では、到達しえないものでした。したがって内というものはなかったのです。なぜなら、世界の不在においても輝いていたのは、他者の他性なのですから。そして私が私自身の中で保とうとしていた意味を生み出すための独-においても、必須と思われたのは他性ここでもまた欠如というかたちででしたがであり、その他性を私は私自身の中に見おさなければならず、それゆえ私はこれらの実践によって自分を他なるものへと変えていったのです。……
 到達すべきはもはや他我alter egoではなく、我なき他alter sans l’egoでした。それは私に端を発して構成される他者ではなく、「私自身moi-méme」というよりむしろ「他者である私moi-autre」としての私の第一構成要因である他者であり、そのような私に対してこそ、外部というものが生起する場を与える)donner lieuのです。外部とは「すでに-そこにあるもの」le déjà-làの間題でもありますが、それは第三次過去把持、つまり痕跡、ヒュポムネーシス的な提示という形で具体化されているのです。 (pp. 102-3)

 「他者」になっていくというスティグレールの個体化は、今、ここにある個者として「すでに-そこにあるもの」を想起することにほかならず、過去把持的な想起から未来代予持へ展開することで「われわれ」の個体化ともなるものだ。つまり、個体化によって「私」となることは、「我なき他alter sans l’ego(p. 105)を構成することで「われわれ」となるのである。「われわれ」が私と他者を包含する概念であることは、しごく当然のように思われるが、「他者」の概念こそが多くの哲学者、思想家が思念をめぐらしたきわめて重要な対象なのである。
 例えば、アルフォンソ・リンギスは、哲学や社会学、あるいは政治学や経済学が対象、ないしはフィールドとしてきた共同体に重なっているまったく別の共同体、「何も共有していない者たちの共同体」[3] をとりあげ、遠い存在であるその共同体に属する「他者」を考えることで「われわれ」の意味を追求した。
 あるいは、「他者の他者性はあらゆる手がかりの届かぬところに置かれねばならない」と語るエマニュエル・レヴィナスは、他者の外在性を「顔」と表現し、「顔」は「私」を見つめ「私」に関わることで、直ちに「私」は他者に対して責務を負う立場となり、他者に対して有責となると、宗教そのものの如く「他者」と「倫理」を語るのである。
 スティグレールの「私」と「われわれ」は、社会的な人間存在の理念形であるとともに、すぐれて倫理的な哲学の枠組みを呈示しているのだと思う。

 最後に、ごく個人的なことがらに関連してスティグレールの言葉を引用しておく。

 私の鍛錬は実は一連の規律から成り立っていました。
 たとえば私は五年のあいだずっと、一日の始まりにマラルメを読むことにしていました。目覚めると私はすぐに起きあがったものですが、それは朝の夢現のなかで生じる制御できない未来予持を避けるためでした。詩や散文を読んではまた読み返し、原則として三〇分のその読書は、暗記するためではなく聴くためのものでした。 (p. 73)

 私はけっして鍛錬などをしているわけではないが、少なくとも「朝の夢現のなかで生じる制御できない未来予持を避けるため」だけに、ほぼ午前4時頃の朝の目覚め時からしばしの間の読書を20年近く続けている。読書のための読書というよりはどちらかと言えば、緊急避難としての読書である。緊急避難が日常の習いとなってしまった。
 それが、このブログ名「かわたれどきの頁繰り」の由来である。

 

[1] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)
[2] 森達也「深い絶望とともに考え続けるからこそ現実的な選択ができる」『週間金曜日』1056号(株式会社金曜日、2015年9月18日)pp. 16-7。
[3] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[4] サロモン・マルカ(内田樹訳)『レヴィナスを読む』(国文社、1996年)

 

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