かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【私事・些事】 〈その人〉

2020年05月19日 | 私事・些事

【2011/9/3】

 〈その人〉について思い出せることは極端に少ない。私が4,5才の頃の静止画のような断片的なイメージが少しあるだけだ。

〔エピソード 1〕

 私は4才くらい。膝のうえで〈その人〉に抱かれている私は、カンカラ(缶詰の空き缶)を手にしている。目の前では、5,6人の男たちが花札に興じながら、金のやりとりをしている。私を膝に乗せていた〈その人〉は花札には加わっていなかったと思う。
 どのようなタイミングなのか理解できなかったけれど、ときどき〈その人〉のところに金が差し出される。〈その人〉は紙幣は自分でしまい、硬貨を私の持っているカンカラに入れてくれる。
 私はカンカラの中にしだいに増えていく硬貨を楽しみに、長いこと〈その人〉の膝の上で抱かれていたような気がする。それでも、夜が更け、眠くなって部屋を出ると、待ち構えていた母がカンカラごと金を没収する。

 その頃、〈その人〉は近隣の男たちを集めて、小規模な博打場を開いていたということであった。戦後5,6年の東北の農村の多くは貧しく、出稼ぎに行く人も多かった。夜汽車で東京に出て行く前に、この小さな賭博場に引っかかり、なけなしの汽車賃や一張羅まではぎ取られる人もいたというのだ。そんな人に、はぎ取られた服と汽車賃をこっそり手渡すのが母の必須の仕事だったという。ほとんどの場合、そんな人の妻や子供を母はよく知っており、どんな暮らしをしているのかもよく知っていて、見ていられなかったのだ、と後に母が言っていた。

〔エピソード 2〕

 季節はよくわからない。母も兄たちも姉たちも留守で、私一人が(たぶん、母を待ちわびて)居間でぼんやりしているとき、〈その人〉は帰ってきたのである。
 「ほれ、おみやげ。」
といって、新聞紙で無造作に包まれたものを手渡された。開くと、刃渡り30cmほどの短刀であった。柄の部分を入れれば、40cmをこえる短刀は、4才か、5才の私には大きすぎる重いおもちゃで、言葉もなく困惑していた記憶がある。
 どこかの駅でチンピラと揉め、そいつから取り上げた、という意味のことを〈その人〉は幼い私に言った。

 母が帰宅すると、その短刀はすぐに取り上げられた。だが、短刀は捨てられることなく、台所の隅の半坪ほどの炭置き場のなかで炭割り道具として長いこと我が家で使われていた。

〔エピソード 3〕

 ある朝、出勤時間をとっくに過ぎているのに、次兄がまだ家にいて荷物をまとめている。荷物には、下着のようなものもあったけれども、菓子類のようなものもいくつかあって、私は次兄から離れられないのであった。
 めずらしく背広にネクタイの次兄は、「これから北海道の叔父さんに飛行機で送るのだから、お前にはやれない」と言う。お昼過ぎにはその飛行機が家の上を北のほうに飛んでいくから、と言い置いて家を出て行った。憲兵だったという叔父(母の弟)が少し前に我が家に訪れ、背の高い叔父に初めて会った私は、北海道に住んでいる叔父についての話をしきりに聞きたがっていたということだ。
 昼過ぎ、しばらくは空を眺めていたが、飛行機は見つけられず、日は暮れ、暗くなって次兄が帰宅した。そして朝の話のつづきは家族の誰も口にしないのであった。

 その頃、〈その人〉は、炭鉱か工事現場かの「たこ部屋」に人を世話する仕事をして警察に捕まり、留置場に入っていたというのだ。その日、次兄は〈その人〉に面会と差し入れに行ったのだということがわかったのは、小学5,6年になった私がその時の話をしたとき、三兄がこっそり教えてくれたことによる。

〔エピソード 4〕

 私は〈その人〉に叱られた記憶がない。
 その頃、長兄は中学教師に、次兄は町役場に勤めるようになっていた。兄や姉たちと〈その人〉の関係がどんな風だったか、私にはまったくわからない。

 我が家の囲炉裏には、足をおろせるように15cm幅の板が炉の四辺、灰の上に置かれていた。ある日、〈その人〉はその板を取り上げて、次兄を何度も叩くのだった。家に入れる金が少ないというのが、打擲の理由だったようだ。
 その後、次兄は町役場の宿直室に泊まり込み、家に帰ってこなくなった。中学2年か3年だった次姉が、中学校へ行くとき、毎朝遠回りをして食事を次兄に届けるのが日課になった。その姉についていき、役場の玄関で次兄と会って、一人で家に帰ってきたということもあった。町役場と我が家のあいだは1本道で、幼い私にも何でもない道だったのである。

 その後まもなくして、〈その人〉は家を出て行った。もともと留守がちの人だったので、家を出て行ったという事件の印象は全くない。

〔エピソード 5〕

 これは私の記憶による話ではない。母が幼い私に繰り返し聞かせてくれたことである。

 母は私を連れて、隣町のある家を訪ねた。そこには、家を出た〈その人〉が女の人と暮らしていた。母が何をしようとしてその家に行ったかは、話さない。母がいつも話そうとしたのは、その家に入ったとき、私が
  「どうして玄関に敷居がないの。」
と母に尋ねた、ということだけである。

 戦後間もない東北の農村には、玄関に敷居のない家がまだあったのである。農村の中でもとりわけ貧しい場合である。ある同級生の家の玄関には敷居がなく、莚が戸の代わりにぶらさがっていた。私の記憶のなかにあるのは、この一軒だけだ。

 母はなぜこの話を幼い私に聞かせたがったのだろう。家を捨てた〈その人〉が、我が家より貧しそうな見栄えの家で暮らすことをはからずも私が指摘したことで溜飲を下げていたのであろうか。あるいはまた、その家に住む女の人に対してであったろうか。

 母と私がその家を尋ねてまもなく、〈その人〉はその家の女の人といっしょに東北の農村からも出て行ってしまった。母に連れられていったその日が、〈その人〉を見た最後ということになる。
  
〔その後〕

 〈その人〉が私たちの周囲から消えてしまったあと、私たちは平穏に暮らした。少なくとも私の生活は、母、そして年の離れた三人の兄と二人の姉のなかで、ただ一人の子供として、甘え、甘やかされて過ごす日々だったのである。母や兄姉たちがどんな思いでいたのか、知る由もなかった幼い私にとって、貧しかったが、不幸なんかではなかった。
 兄や姉たちには叱られた記憶がない。せいぜいからかわれたくらいで、その典型は「お前は川流れだ」というものである。私一人だけ年が離れているのは川を流れてきたのを拾ったからだ、という。兄や姉たちが口をそろえて言いつのり、私もそうなのだと納得したりもしたが、まったく平気だった。不幸でもなんでもない「川流れ」、それを嫌だとは思わなかったのである。可愛がられている、という実感のほうがはるかに強かったのだと思う。

 〈その人〉はとうに私の中から消えていた。記憶にないあの日が最後の完全無欠の別れであった。そのはずだった。

〔その後のエピソード 1〕

 19才、大学二年として仙台で暮らしていた私が、夏休みで帰省すると、少し前に、〈その人〉が田舎に突然現れたということであった。〈その人〉がいた頃に住んでいた家はすでに取り壊されて跡形もなかったはずである。兄姉たちはすべて結婚し、独立していて、母は次兄夫婦と暮らしていた。
 次兄の家を探し当てて現れた〈その人〉と、母や兄たちがどんな話をしたのかはわからない。誰も話そうとしないのである。いま暮らしている住所を書き残して〈その人〉はふたたび消えてしまったというのである。母は、帰省した私にその住所をこっそりと教えてくれた。

 その年の12月、暮れも押し詰まったころ、その住所(東京都昭島市)に出かけてみた。工事現場の飯場のような大きな家だった。40代、50代の男の人たちが大勢いた。
 〈その人〉が私の顔を知らないのは当然であったが、自己紹介をしたはずの私への反応も、ぼんやりしたものだったような気がする。心当たりがなかったのではないか、と思う。初めて会った大柄な男の人が相手をしてくれ、小さな部屋でいっしょに酒を飲んだが、〈その人〉は一度も顔を出さなかった。
 そのおじさんが私のマフラーを気に入ったらしいので、次の朝、別れしなにそのマフラーをプレゼントしてその家を出た。そのとき、〈その人〉と顔を合わせて挨拶をしたのかどうか、まったく覚えていない。

 私のなかには〈その人〉がいないように、〈その人〉のなかにも私はいないのだ、ということだけを確認して仙台に帰ってきた。仙台に帰って、年が明けた頃、私はひどく精神が弱ってしまい、下宿のおばさんに強く説得され、数ヶ月大学を離れることになった。「精神の弱り」は、〈その人〉とはまったく関係のないことを理由としていた。

 〈その人〉を訪ねていったことを家族に話すこともなく、ふたたび私の家族とその人とは没交渉となった。遠く離れて暮らす兄と姉を訪ね歩いて、その時期を過ごした。  

〔その後のエピソード 2〕

 25才であったか、26才になっていたか、このエピソードの最初のシーンの時期の記憶はじつに曖昧なのだ。大学院の修士2年か、大学の附置研究所の助手か、私の人生の区切りの明確などちらの時期に属するのか、まったく思い出せないのである。

 次兄から連絡があって、できるだけ早く一度家に帰ってくるように、というのであった。
 帰省すると、〈その人〉が病気で倒れたという連絡があったという。脳溢血で倒れ、寝たきりだという〈その人〉を、次兄は引き取ることにした、というのだ。次兄が話しているあいだ、母はしきりに「ほっとけ、かまうな」と口をはさむのだが、次兄は耳をかさない。
 迎えに行くのだが、私にいっしょに行ってほしいという。シャイで口べたな次兄は、私を交渉役にしようというのである。

 次兄夫婦と私は、昭島を訪ね、〈その人〉の病状を確認し、世話をしてくれていた家族になにがしかの謝礼をして、〈その人〉を引き取った。
 昭島から東京駅まではタクシー、東京-仙台は夜行寝台車、仙台からはまたタクシーで、ある市の比較的大きな病院に〈その人〉を入院させた。病院には母が待っていて、〈その人〉は母の付き添いで入院生活を送ることになる。

 私が26才の2月、〈その人〉はその病院で65才で亡くなった。始まりの記憶がないので、どれくらいの入院の後で死んだのか、はっきりしない。入院中に2度ほど、〈その人〉の髭を剃ってやった記憶がある。

 〈その人〉が亡くなった日からちょうど1ヶ月後に私の結婚が予定されていた。葬式を出した後で、結婚式をどうしたものか相談すると、母も兄姉たちも口を揃えて「予定通り」というのである。我が一族は、〈その人〉の喪に服すことはなかったのである。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 森林麟太郎のいくつかの短編小説 [1] に刺激されて、〈その人〉について思い出せることを書き出してみた。私と同世代の森林麟太郎は、幼年時代、青年時代、そして父親となって向きあった子供のことを、いわば緊密に重なり合う想世界として小説に描いた。
 私にも父母がいて、妻がいて、子もいて、そして長いこと生きてきたが、父のことを思い出すことは皆無に近かった。夢に見ることもまったくない。成人してから、ふたたび父と会うことになった。その大人としての父との交渉を、イヴェントとして記述することはそこそこできるのだが、その時の父のイメージ、その時の父に対する私の感情のようなものは何ひとつ私のなかに残っていないのだ。
 私の父に対する無感情、無感覚は、思いがけないところで役に立った。ふたたび家族の前に姿を現した父との交渉は、もっぱら私の仕事になった。おそらく母や兄姉たちは自分たちの抑えきれない感情がどのように表出するのか、怖れを抱いていたいにちがいない。私には表出されるべき感情がないようなのであった。
 父にしても、留守の間に生まれ、たまに戻ったときに数度目にした程度の幼児を息子だとする認識を育てられなかったのではないか、と思う。

 私の意識のなかの、私と父の関係について何か変だと感じたのは、森林麟太郎の小説「奥の堂物語」の次の1節を読んだときである

だがそのような、天からはほど遠く地にだけはまるで近い存在である人間として見ればごくありふれたあたりまえの事実でさえ、時が経てばひとは忘れる。わたしも忘れる。あなたも忘れる。でも、たとえ忘れ去ったとしても、記憶は残る。記憶は忘れ去った日々の中からときに夢の中の事実として、ときに亡霊の形してひとびとの心の中によみがえる。これが私らの歴史というものなのだ。だれかがおおやけに書き残したから歴史になったのではない。忘れ去ることができても記憶として追いかけてくる打ち消しがたい事実があるからこそ、歴史は歴史として存在し続けるのだ。(森林麟太郎「奥の堂物語」

 意識してそうしようと思えば、父のことをエピソードとして思い出し、数え上げることはできる。だが、そこにはエピソードだけがあって生きた父は存在しないようなのだ。日々の暮らしの中で思い出すなどということは皆無だし、テレビドラマや映画、小説などでさまざまなタイプの父親が描かれていても、私の父を思いうかべもしない。夢になんか1度だって登場しない。
 「記憶は忘れ去った日々の中からときに夢の中の事実として、ときに亡霊の形してひとびとの心の中によみがえる」というわけではないのだ。父をめぐって私の過去で「起きたこと」を忘れてはいない。しかし、夢としても亡霊としても現れるような記憶としては存在していない。もしかして、「父」は私の潜在意識、無意識の領野から(つまり、森林麟太郎のいう「記憶」から)とうの昔に追放されていたのはないか、と思ってしまったのだ。
  意識にありながら無意識の領野にはない、などという矛盾に満ちた心というものがあろうか。

無意識は、諸問題と諸差異を糧として生きているのである。歴史というものは、否定を経由せず、また否定の否定をも経由せず、反対に、諸問題の決定と諸差異の肯定を経由するのである。 (ジル・ドゥルーズ [2])

 ドゥルーズ流にいえば、「父祖」は喪失されたものとして諸《理念》-諸問題の要素に含まれていないのではないか。諸《理念》-諸問題に存在しないものは生まれようがないのである。父から子へ、さらにまた子へと紡がれるような物語、歴史を私は語ることができない。父と自分、自分と子の2重写しの感情が幻想的に描かれる「お暗き夜半を」を読みながら、そう思ったのであった。

 ひとつの影が言った。
  「あなたは幼くして父を見殺しにした。それがたとえあなたの母のためだったとしても、あなたは光から許されることはない。あなたは身を賭して償いをするのです。すべて与えられなかったものとして、あの暗闇に戻って行きなさい」
  ひとつの影が答えた。
  「お母さん、ぼくお父さんを捜しに行って来る」
  それはあの五歳の時のままの息子の声だった。(森林麟太郎「お暗き夜半を」)

 私は、〈その人〉の写真を一枚も持っていない。

 

[1] 森林麟太郎の作品は、『青空文庫』というWEBサイトに掲載されていたが、現在は読むことができない。
[2] ジル・ドゥルーズ(財津理訳)「差異と反復 下」(河出書房新社、2007年) p. 261。

 

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【私事・些事】 参照系二つ

2020年05月11日 | 私事・些事

2010/12/1

 私には、座右の銘とか人生訓とか呼ばれるようなものの持ち合わせがない。誰か、偉い人の言葉を信じて生きるというような素直さがないのである。小学生の頃、読書感想文でいくら宿題として期待されても、伝記物、いわゆる偉人伝などを読んだ記憶がない。いや、実際には少しは読んだのである。そして、その語り口に含まれるある種のいやらしさに嫌気がさしたのだ。功なり名遂げた人を、後付けでほめまくる話なんて反吐が出る、と本気で思っていた。いや、この年になっても変わらない。

 


病気の原因? (安西水丸「天誅蜘蛛」より[1])

 

偉人あれば偉人にかならず逸話あり近代少年に読ましむる為
                                                    小池光 [2]

 座右の銘や人生訓でよく引き合いに出されるひとつに「論語」がある。もともと儒教として宗教であったものが倫理化して、日本では儒学などと呼ばれていた。「論語」は受験対策として一応は目を通した記憶がある。私の高校時代には、「漢文」という科目が独立していたのである。しかし、ただそれだけで終わってしまった。やはり、倫理臭が強いと、身を遠ざけるのは私の習性のようである。
 それでも子供の時分には、いつか処世訓や人生訓のようなものが身について、そうして大人になっていくのだろうと漠然と思っていた。一人前の大人というのはそういうものなのだろうと、想像していたのである。けれどもそんなことはいっこうになくて、私はじゅうぶんに年老いてしまった。幼年期のイメージから言えば、大人になり損ねたのだろう。

 進むべき道、行動を指示するような処世訓も人生訓も座右の銘もないが、いろんな場面で思い浮かべる言葉はある。何も指示するわけではないが、場面場面での思考の参照系にはなっていると思う。一つは、

蠅のゐない文明なんて嗤ふべき錯誤だ

という金子光晴の詩の中の1行である。出典はもう分からない。20才前後に読んだはずなのだが、手持ちの金子光晴のいくつかの詩集には見あたらない。「現代詩手帳」とか「詩学」のような若い頃に呼んでいた雑誌に掲載されたものかも知れない。したがって、金子光晴らしく旧仮名遣いにしたが、この通りであったかは保証できない。音はこの通りだという確信はある。
 この句はまず、文字どおり文化、文明系への参照として思い出すのである。人はどうしても、新しいものへ、事物、事象の改変、改訂へと向かうことが価値あることとして生きることが普通だと思っている。ハイデッガー流に言えば、私はいつだって「頽落」にどっぷりと浸かって生きている。自分に役立つ、自分の得になる、利益となるという方向へ落ち込んでいく。そうして失うものを自覚的に認識できているのか、という場所でこの句は作用する。
 また、この詩句は、自然、環境への態度決定における参照系でもある。最近は、生物多様性について喧しく議論されている。2010年には「生物多様性条約第10回締結国会議」が名古屋で開かれた(現実には有用生物資源をめぐる先行資本と後進資本の戦いにしか見えないのだが)。金子光晴の詩句は、ラジカルな生物多様性の宣言である。蠅は有用生物資源か。たとえ有用生物資源ではなくとも、「蠅のゐない文明なんて嗤ふべき錯誤」なのだ。「有用生物資源」という語彙に含まれる本質的な反自然性こそ問題なのだ、とこの詩句は語ってはいないか。

 やはり、20歳前後に読んで記憶に定着したもう一つの参照系がある。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

という寺山修司の短歌である。これも、何で読んだか記憶がないので、新しい本から引用した [3]
 これを私は「愛するに足る祖国であるか」という設問として思い浮かべるのである。祖国もそうだが、この社会で生きていくうえで、私たちは多くの組織、集団に帰属することになる。それは故郷であったり、母校であったり、職場であったり、労働組合であったり、時には政治党派であったりするだろう。そうして生きるプロセスの中で、私が帰属する、それゆえに愛する、などという思考方法はとらないということである。
 たとえば、生を受けたこの日本、この生は避けがたくこの国にある。その事実から、全く無媒介に祖国愛とか愛国心に突き進む心性が、いかに歴史を誤ったかは自明である。みずからが帰属するものから少し身を引き、踏みとどまるのは苦しい行いである。無条件に身を委ねたら、どんなに気楽な人生かとは思う。そのとき、「身捨つるほどの祖国はありや」と思うのだ。

 この二つの参照系は、決してその場その場でどう生きるか教えてはくれない。考えるベースだけを気付かせてくれるだけである。私は、これだけで十分だと思いたい。あらかじめこう生きろと指し示すような人生訓や座右の銘では、多分私は生き方を間違う。いや、世間的には正しい生き方かも知れないが、多分悔やむことになる、という方が正しいようだ。その場面で、悩み考えずに生きる方向が定まってしまったら、生きる実感が少ないのではないかと思ってしまうのである。

[1] 安西水丸『東京エレジー』(ちくま文庫 1989年) p. 88。
[2] 『現代短歌文庫65 続々 小池光歌集』(砂子屋書房 2008年) p. 112。
[3] 寺山修司短歌集『万華鏡』鵜沢梢選(北星堂書店 2008年) p. 72。

 

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【私事・些事】 三つの書斎

2020年05月03日 | 私事・些事

【2010/11/24】

 じつのところ、我が家には書斎と呼べる部屋はないのである。20年ほど以前のことだが、家の建て替えに際して、無い知恵を絞りつつ間取りを考えているとき、大学の研究者という私の職業を慮ってか、妻が「書斎はどうするの?」と聞いてくれたのだが、即座に「いらない」と答えた。書斎を造るほど余裕のある建坪ではなかったし、書斎に坐って何かを行っている自分が全く想像できなかったのである。書斎の使い方の実感がなかった。

 小学2年くらいから、母と二人暮らしになったが、私は本を読んだり、宿題をしたりということをいつも居間 [1] で、母の側でやっていた。それは家を出るまでの高校2年まで続いた。当時、テレビは当然ながら無かったので、ラジオを聴きながら、そして母ととりとめのないことを話しながら、本を読むのが習いとなっていた。
 じつのところ、六人兄弟の末っ子で、甘えん坊の私には、母とそうしている時間がいちばん楽しかったのである。だから、宿題が終わっても、その時間を長く続けるために、本を読み続け、時にはなにがしかの勉強を続けることも多かった。それでいつも早く寝ろと叱られてばかりいたのである。
  
 職を得て、結婚しても、書斎のある家に住めるわけでもなく、調べ物をし、論文を書くのも居間である。話し相手は妻に代わり、ラジオはテレビに変わったが、やっていることは幼年時と同じなのである。子供をあやす、という新しいことも加わってはいたが。
 だから、私の第一の書斎は居間である。これは今でもずっと続いている。何となく安心で、居心地が良く、いわゆる書斎が欲しいと思ったことは1度もない。

 大学では原子力工学を専攻した。当時は、原子力が未来のエネルギー産業の中核になるだろうと期待されて、主だった大学に原子力関連の専攻ができつつあったのである。しかし、得た職は物理学が専門であった。同じ理工系といえども、物理学の研究者で生きるには、物理学として学んでいない基礎が多く残されていた。
 そこで、第二の書斎として寝室が選ばれた。といっても枕元ということである。眠りに入る前、目覚めた後、僅かな時間でも利用しようと、枕元には小さな本棚をそろえ、大学の講義では学ばなかった物理の本を読み始めたのだ。ただ、そのような本は、じつに有効な催眠導入剤として働くのであった。どちらかと言えば神経質で、なにかの拍子に眠れなくなる私は、その当時はよく眠れたのである。
 それでも、長い間(18年くらい)続けていると、枕元書斎といえどもかなりの量の教科書が読めるのである。この書斎は、凡庸とはいえ平均的なレベルの物理学者になれたのではないかと自覚しはじめた頃、いつとはなしに閉じられた。家にもパソコンを据えたために、論文書きやデータ解析など、自宅への持ち帰り仕事が増えたことも一因ではある。

 家を建て替えた後に、二階にもトイレができた。やや広めだったため、本棚として小さな箱を置き、新しい第二の書斎とした。ここはあまり長居をしないので、ある一定量のまとまりを読まないといけないような本は不適である。雑誌とか、詩集、歌集などがふさわしい。ここでは、万葉集から始まる古典詩歌のほとんどを読んだし、若い頃夢中になっていた現代詩集の再読、再々読もできた。

 トイレを読書の場所にするというのは、ささやかなちょっとしたアイデアのようだが、本読みには普通のことらしい。

  寒き日を書もてはひる厠かな   正岡子規 [2]  

 本好きの娘が、小学校の高学年になった頃、異常に長風呂になったことがある。私と一緒に風呂に入ることを拒否し始めた頃の話である。それなりの年齢になって、体を磨くことに執着し始めたのではないかと疑っていたのだが、長風呂の原因は読書だった。風呂に本を持ち込んで、読んでいたのである。
 第三の書斎は、娘に教えられて、風呂の中ということになった。娘がそんなことをするまでは、風呂で本を読むことなど、思いもしなかったのである。風呂の中というのは、意外に集中して本が読めることに気付くことになった。したがって、ここではどちらかと言えば七面倒くさいたぐいの本が主として対象となる。
 ただし、この第三書斎は欠点が多い。ここを読書の場にし始めた頃、ときどき妻が「だいじょうぶ?」といって覗きに来る。酒好きの私には入浴時が危険な時間帯である、と妻は信じて疑わないのである。私が風呂で倒れることをいつも心配しているらしい。これが第一の欠点。
 第二の欠点は、借用本は読めないことである。風呂というのは、どちらかと言えばリラックスできて快適な場所であって、居眠りにもふさわしい場所でもある。入浴時の読書と居眠りは両立しない。本がズボッと風呂に入ってしまうのである。たいていの場合は、ガクッとなった瞬間に目覚めるので、本の下部、数センチが濡れることになる。
 第三の欠点は、寒い時期に起きる。体を洗って石けんを洗い流すときにはシャワーを使用する。そのときに、本を浴室の中のどこにおいても、シャワーの飛沫がかかってしまう。そこで、体を洗う前に本を脱衣場に出すのであるが、冬場にはそのときに体が冷えてしまうし、浴室の温度も下がってしまう。そこで浴槽に沈んで体を温め直すのだが、体を温める時間こそ本を読む時間なので、何かしら損をした気分になるのである。

 ちなみに、2010年11月24日現在、3つの書斎で読んでいる本は次のようなものである。第1書斎(居間):吉本隆明「超戦争論」下巻、第2書斎(トイレ):「寺山修司俳句全集 全一巻」、第3書斎(浴室):ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイデプス 資本主義と分裂症」下巻。

 

[1] 居間と言っても当時は囲炉裏端のことである。私は横座(主座)に坐り、母は嬶(かか)座に坐ってなりわいの和裁をしている。客座には小学時代は「ニコ」という二毛猫が寝ていて、中学~高校の時は「クロ」という文字どおりの黒犬が寝ていた。
[2] 『子規句集』高浜虚子編(岩波文庫 2001年、ebookjapan電子書籍版) p. 178。

 

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