「まえがき」の出だしはこうである。
かつて、石原吉郎という秋霜烈日の詩人がいた。
清冽な詩を書き、深重な散文を残した。
だが、いまではもう石原吉郎を知る人は少ないだろう。忘れられたのも無理はない。石原が亡くなったのは一九七七(昭和五十二)年。もう三十六年も昔のことだからだ。 (p. 3)
私の心の中のどこかで「えっ」と微かな声が反応した。いまではもう石原吉郎を知る人は少ないのだろうか。忘れられたのだろうか。いや、そうかもしれない。私が、どんな詩人よりも石原吉郎の詩が好きだといっても、皆が石原吉郎を知っているという根拠にはならない。石原吉郎の詩がいかに清冽であったとしても人がそれを忘れない理由にはならない。それは分っているのだが……。
著者はまた、最後の「補遺」でこうも書いている。
石原吉郎の読者の多くは詩ではなく散文から入った、といわれる。わたしもその例に洩れない。すでに記したようにわたしは『望郷と海』から入り、恥を晒すようだが、それまで石原が詩人であることを知らなかった。知らないどころではない。石原吉郎という存在さえ知らなかったのである。そして正直にいうなら、石原はわたしにとって今でも『望郷と海』のひとである。 (p. 220)
本文を読み終わった後なので、そのまま得心したのではあるが、私の石原吉郎経験とは違うのだ。私は『サンチョパンサの帰郷』や『水準原点』、『禮節』の詩集の読者だったのであり、ずっとそうである。若いときのある時期から、詩人の書く散文を読まなくなっていたのだが、『望郷と海』だけは確かに読んだ。それは石原吉郎の詩への思い入れが特例的だったからだが、それでも刊行されている『石原吉郎全集』のうち、私の本棚にあるのは全詩集である第1巻だけである。
私のような石原吉郎経験が「石原吉郎の読者の多く」と異なっているとは、著者が指摘するまで思いもしなかったのである。詩人の散文をあまり読まないということの、たぶん唯一の例外は吉本隆明だろう。「荒地」に属する詩人として知ったはずの吉本隆明を文芸評論家、思想家として読むようになり、逆に、ある時期から彼の詩をまったく読まなくなった。
うまく説明できないのだが、たぶん、私がこの本に衝撃的な感動を受けた最大の理由は、著者と私の石原吉郎経験が逆だったということにあるのだと思う。私は、いわば「不可能性の抒情」とでも呼ぶべき石原吉郎の詩の内包性に瞠目していたし、今も同じ思いである。
著者は、幼年体験とシベリア体験を抱えて戦後の日本を生きる石原吉郎に生起するこの不可能性の心情(思想と呼ぶべきか)を、『望郷と海』から読み解くのである。いわば、私の詩体験のいわく言い難い感動の根源は、著者の読み解きによってその答えを与えられた。そんな思いを強くするのだ。
石原吉郎の不可能な心性、あるいは相反するもののあわいに位置する心性について、著者は様々な角度から述べている。
言葉は最終的には「信」によって支えられるほかないが、まずなによりもその真偽を秤量するに足る言葉そのものがすでに、石原の帰ってきた戦後日本にはあからさまに不在だったのである。 (p. 22)
うち割っていえば、「石原吉郎」という〈シベリア帰り〉は、戦後日本にとって季節外れの闖入者であり、脅威者であり、余計者でしかなかったのである。石原は戦後日本とすれちがい、そして自分じしんともすれちがった。どこまでもすれちがいつづけた。 (p. 33)
石原は感情を観念で締めあげる。その一方で論理を感情が許さない。ところがその論理は観念を信用していない。石原の感情も観念も論理もすくみあがって一直線には走らず、ゆがみ、ねじれるのである。 (p. 43)
洋上で「海さえも失った」と書いた石原は、この判決を受けたとき、すでに帰るべき「陸」(日本=故郷)を失ったのだ。喪失によって空洞が生じたのではない。喪失(観念)そのものが物質化し、その体積から実質(観念)が消滅することによってなにものをもってしても補填されえない喪失。それを、充溢した喪失とも、あるいは喪失の喪失とでもいえばよいだろうか。 (p. 50-1)
いうまでもなく志向された彼岸が生(無限救済)を示唆し、否定さるべき此岸は死(無限処罰)を意味するが、現実の彼岸を断念しつつ、なお此岸をも無化せんとする出口なしの不可能な関係意識が、この生と死のあわいのなかで彼岸とも此岸ともつかぬもうひとつの岸に繁がろうとしたとき、その意識はある観念の地平に向けて投身するほかなかった。 (p. 62)
「人間が欠落そのものとなって存在を強制される場所」(「無感動の現場から」傍点原文)にみずから適応していった「私」という事実、その「私」が生きて帰ってきたという事実と、その人間から「欠落」したはずの「私」がいまもなお人間として生きているという事実との落差が、石原にはどうしても理解できなかった。許されざることであった。「苦痛、不安、絶望感」とは、その「事実の納得と承認」がどうしても石原に落ちてこなかったことを意味している。「石原吉郎」という存在への無限処罰がこれらの事実の間に楔のように打ちこまれていたからだ。 (p. 84)
だがどこまで割っていっても割りきれぬ。もし「最後に残ったその商」が割られうるのなら、たぶんそこが自分の「名前」を失うことになる地点である。すなわち「Nowhere」に住むNobody。すなわち世界から忘れられた存在。どこにも存在しない場所に存在する何者でもない自分。その「Nowhere」に住むNobodyを石原は〈人間〉と呼んだ。 (p. 103)
挙げればキリがないほど、絶対矛盾を引きずって紡がれる石原吉郎の言葉への透徹した眼差しがここにはある。詩人は、そのような場から厳しい「倫理」を立ち上げる。それは、自らが立つ「位置」の確認であり、使者たちへの「礼節」であり、「断念」であり、「私は告発しない」という決意であったりする。
清水昶が「かっこいい」と評したと著者が記しているように、石原吉郎の詩の「かっこよさ」は、そのきっぱりとした「倫理」性による。不可能性をはらむ文節は、私にとって時に理解不能であったりするが、「断念」と「倫理」に支えられたきっぱりとした口調とその余剰がもたらす抒情性が、おそらくは私の詩的感動の起源であろう。
この本は、詩論とか詩人論とかいう枠組みに入らず、「石原吉郎論」とでも呼ぶべきものだろうと思う。その論述の大半は、石原吉郎の散文を集めた『望郷と海』に依っている。したがって、詩の引用は少ないのだが、石原吉郎を語るのであるから、必然的にその詩業には触れざるをえない。その少ない引用詩のひとつに「位置」という詩がある。「位置」は、『石原吉郎全集第1巻』の巻頭を飾る詩 [1]、つまり、第1詩集『サンチョパンサの帰郷』の最初の詩である。
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からのそれが
最もすぐれた姿勢である
この詩は、全詩業の始まりに位置するという意味においても、その内容においても、石原吉郎の詩世界を象徴する一篇であり、代表的な一篇であろう。「君は呼吸し/かつ挨拶せよ」という命令形、「それが/最もすぐれた姿勢である」という存在への断言。このようなフレーズに私はやられてしまうのである。
もちろん、この詩は「君」が行動を起こし、態度を決定するべき「君」そのものの立つべき「位置」を見据えようとするものだ。
著者は、この詩を「論理的な構成からいえばほんとうはうまく繋がっていないようにも見えるのだが、しかしイメージの構成としては一点の破綻もないと断言してよいこの短い詩の中に、石原の関係性としての「位置」が最もよく現われている」 (p.106) と評しながら、『幻想と海』の読み解きとして、次のように述べている。
石原吉郎にとって、詩が無秩序と秩序のあわいにおいて発生したと考えられるように、また「海」が彼岸と此岸の、「幻想の海」が仮生と仮死の、「沈黙」が発語と失語の、「単独者」が共同性と個の、そして晚年の〈切腹の擬式〉が処罰と救済のあわいで生じたと考えられるように、石原吉郎の存在性はつねに、相対する二極が融合しかつ遊離する境界線上に不安な表情をたたえて位置している。
「位置」という意味(概念)もまたその例外ではない。石原はその生涯を通じてみずからの確固たる「位置」を獲得したことはなかった。むろん確固たる「位置」を獲得している人間などざらにいようとも思われないが、しかしわたしたちはふつう石原が望んだようには自分の「位置」などに拘泥しないものだ。そもそも「位置」などという概念そのものがこのふやけきったわたしたちの日常にやってきはしない。 (p. 106)
ここには、書かれてしまった詩とそれを書いた詩人との間の不思議な関係がある。心性が表象へと昇華するときのこの特異な象徴的変容こそが、詩人が詩人であることの証左であろう。
しかし、著者は「位置」に関する詩人の自己解説のような文章を取りあげ、「明確と曖昧が縒りあわさって破綻するほかない場所で、ついに「位置」とは「位置そのもの」なのだ、と石原はいわざるをえなくなっている」 (p. 109) と述べ、「石原は解説などせずに、ただ「位置」という詩一篇を放りだしてくれるだけでよかったのに」 (p. 110) と述べるに至ってしまう。
これは、詩人の「詩」と「散文」との関係のありようの一つの形を示していて、私が詩人の散文を読むことを止めた理由の一つでもある。にもかかわらず、著者はこの本によって、詩人によって書かれた散文の読み解きが詩と匹敵するほどの心性の世界を現出させることもできることを示しているのだが。
著者は、石原吉郎の幼年時における母親の死による「喪失」と「存在の不安」、シベリア抑留による「癒されることのない喪失感にさらされた存在」と自らの「存在性」への執着、キリスト教による「新生」と「救済」の渇望などへ次々と論究し、集団や国家内存在としての自己存在を拒否する単独者としての生から「寂滅」の人に至る石原吉郎の生の道を描いてみせる。
最終章の近くで、著者は石原吉郎の後期の詩業としての詩集『北條』や『足利』を取りあげている。それらの詩は「日本的美意識の極致といわれ」 (p. 200)、鮎川信夫に詩「足利」を「石原美学の極北」と言わしめ (p. 215)、また吉本隆明も「この詩人の晩年の詩は独りよがりの言語的な跳躍に、ある〈匂ひ〉を乗せたために優れたものだった」と評価している (p. 219) という。
鮎川や吉本の評価にもかかわらず、次のように述べて第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』に収められている「夏を惜しむうた」を挙げている。
正直にいうと、わたしはここに引用した〔『北條』や『足利』に収められている〕句と詩をけっして嫌いではない。もっとはっきりいうと、好きである。にもかかわらず、石原のほんとうの声は、どうしてもつぎのような詩のなかにあるという気がしてならないのである。〈かたち〉に堕ちるはるか以前、寂寥にに顔をしかめる一九六一年の詩だ。 (p. 218)
私は著者のこの受容に強く同意する。詩の美学的完成度ではなく、不可能性に苦しみながら紡がれた「喪失」、「断念」から「倫理」、「礼節」へ立ち上がる言葉のほうに私は強く惹かれている。
つまるところ、私がこの本から受けた感動は、著者が石原吉郎の言葉から感受するありように私のそれが似ているためだということに気付くのである。私が石原吉郎の詩から感受していたものを、著者は主として『望郷と海』の文章から感受して解き明かしてくれているのだ。
著者が石原吉郎の幼年期に論究するために、参照のために唯一引用している石原以外の詩人の詩が、吉原幸子の「喪失ではなく」である。
大きくなって
小さかったころのいみを知ったとき
わたしは“えうねん”をもった
こんどこそ ほんとうに
はじめて もった
吉原幸子「幼年連禱・三 I 喪失ではなく」部分 [2]
著者は、吉原幸子の詩についての評価につながるような言葉を記してはいないので、感受のありようが似ているという例にはならないかもしれないが、石原吉郎と吉原幸子は私の中では同じような強度で大切な詩人である。どちらが一番とも二番とも言えないが、一番目と二番目であることは間違いない。
「あとがき」によれば、この論考は1990年ころに書き上げられたらしい。1977年に石原吉郎は死亡しており、全集の刊行も1979年のことであって、執筆当時、編集者に出版には「10年遅い」と言われたということである。その原稿が、「降って湧いたよう」な機会を得て、出版にこぎつけたのだという。2013年にどのような出版に関連する意味があったのか知るよしもないが、この本に出会えた偶然は幸運であった。
これは蛇足だが、この本を読み終えたころに訪ねた仙台市図書館に、この本がいち早く並んでいて少しばかり驚いた。市図書館には、石原吉郎単独の詩集が1冊も所蔵されていないのにである。「商業的には厳しい」と著者は謙遜するが、そんなことはないのではないか、そういう希望が私のなかにはある。そうであって欲しい。石原吉郎が忘れられた詩人などではあまりにも寂しいではないか。
[1] 『石原吉郎全集 I 』(花神社、1979年) p. 5。
[2] 『吉原幸子全詩 I』(思潮社、1981年) p. 70。