かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『マグリット展』 国立新美術館

2015年05月23日 | 展覧会

2015/5/23

 魅惑的な絵が続くのだが、いつもの美術展とはだいぶ気分が異なる。多くの場合、展示作品によって喚起される自分の感情の変化を楽しみながら会場を回るのである。美しさに感動したり、構図や色彩に感心したり、ときには不快感に襲われたりもするが、いずれにせよ、あまり言葉を必要としない精神状態になっていることが多いのだ。すべて見終わって、その時の気分をもう一度反芻しながら図録を眺めるときに、初めて絵と言葉の対応が現われる。それは感想としての言葉であったり、私の気分と図録解説の比較であったりする。いずれにせよ、言葉は事後的なものである。
 しかし今日は、普段の美術展の気分のままではどこか居心地が悪いのである。理由はすぐ明らかになる。どの絵も観る者に言葉を要求していると思えるのだ。絵画の意味や解釈、あるいは反論を挑戦的に要求されていると感じる。それはいつもの鑑賞態度とは大きく異なるので、戸惑ってしまったというのが適切かもしれない。
 異和を感じながらも、言葉をなるべく想起しないように努めて、つまりは心の中でも黙々と会場を歩いたのである。タイトルは読むが、いつものように解説は読まないことにして歩いたのだが、タイトルを見てしまうと、それだけで心はざわざわするのだった。

 この美術展の図録 [1] は、じつのところ、異様に言葉が多い。5篇のマグリット絵画に関する論考ばかりではなく、展示作品の分類ごとの解説、作品に添えられた解説までじつに丁寧な言葉が添えられている。
 なかでも、ミシェル・ドラゲによる巻頭の論考「マグリットと精神分析」 [2] は、当時流行であった精神分析をマグリットが極度に嫌っていたこと、そればかりではなく、どのような絵画解釈に対しても拒否する姿勢を崩さなかったと述べているのである。
 作品の解釈や反論を挑発的に求められていると私が感じたこととは逆に、マグリットは(とくに心理学的な)解釈を拒否し、次のように語ったという。

「私は無意識を信用しないし、世界が眠りのなかとは違うかたちで、夢のように私たちに与えられるとも思いません。私は白昼夢に信を置きません。想像力もやはり信じていません。想像力は気まぐれです。私は真実しか探しません。真実、それは神秘です。最後に、私は『観念』にも信を置きません。もし観念を持っていれば、私の絵画は象徴的なものになるでしょう。しかし、断言しますが、私の絵画は象徴的なものではありません」。 (ドラゲによる引用。図録、p. 29)

 「真実」は「神秘」だといい、さらに「神秘」は「世界のこと」 (図録、p. 32) だと断言するのである。このようなマグリットの言葉を念頭に置いて作品を見直したら、私には混乱しか起きようがないと思うのだが、しかし、マグリットの言葉にかかわらず、図録は解釈に満ちているので、それを頼りに見直してみることにする。


《彼は語らない》1926年、油彩/カンヴァス、81×60cm、個人蔵 (図録、p. 78)。

 《彼は語らない》という作品こそ、ありとあらゆる絵画作品の中でもっとも饒舌に語りかけようとし、解釈としての多言を要求しているように思う。そんな作品だと思う。語らない彼は石膏製の頭部だけで、背後に(たぶん、語るであろう)女性が隠れるようにいる。
 石膏像はデスマスクとも解釈できるが、ここでは構図的には生者の仮面のようでもある。しかし、「彼は語らない」と名付けることで、反語的に彼は「語りうる」という可能性を暗示しており、彼が仮面以上の存在であることを示唆しているようだ。この二重存在は何を意味しているのか。少なくともそのような精神分析的な解釈を誘っているようにしか、私には思えなかった作品である。


《火の時代》1927年、油彩/カンヴァス、73×100cm、エリック・ドゥセル蔵 (図録、p. 82)。

 図録の写真では判然としないが、《火の時代》では描かれた雲の物質感に惹かれた。また、炎も硬質な物質感を持っていることに気付かされる。雲も炎も本来はガス状の存在であるのに対して、他の絵ではいつもしっかりとした存在感で描かれる人物がこの絵の中では微妙に透明で希薄な存在として描かれている。
 しかも、その人物は他に例がないネイティブ・アメリカンであることも、なにか意味ありげである。たとえば、かつて栄えたネイティブ・アメリカンの時代へのシンパシーがあるかと問えば、私はそれを感じないとしか答えようがない。意味ありげのまま、言葉はほとんどない。不思議な感じの絵である。


《巨人の時代》1928年、油彩/カンヴァス、73×54cm、
ヒラリー&ウィルバー・ロス蔵 (図録、p. 91)。

 背広の男性が裸の女性を襲っている。「まさに強姦が行われようとしている瞬間の様子」(図録、p. 90)だという。存在感(量感)のある女性の輪郭に沿って空間が切り取られ、それによって3次元的な人物像が2次元平面の狭い空隙に押し込められている印象を与える。
 さて、どうして《巨人の時代》なんだろう。この絵もまた、疑問は尽きないのである。


《透視》1936年、油彩/カンヴァス、54×65cm、
ヒラリー&ウィルバー・ロス蔵 (図録、p. 123)。

 《透視》の前に立つと、少し笑いかけた。卵(の未来)を透視して成鳥を描いている。あまりにも率直簡明で、ここには、謎も神秘もまったくない。並の手品師でも、観客がもっと驚くような「透視術」をやってのけるだろう。画家の心性は知らないが、ここには企まざるジョークがある。描写力がすばらしいだけにいっそうそんなふうに思えるのだった。
 ただし、作品解説は異なる。「《透視》において示される画家の魔術的な力は、今度は文字通り、未来を見通す透視力である。絵の中の画家は、卵を見つめながら、その未来にある鳥の羽ばたく姿を描き出しているのだ。」(図録、p. 122)ということで、私の感慨はかなり俗っぽいということらしい。もちろん、何の卵が分からないのに、成鳥の種類を正しく描いて見せたということなら、それは脅威の才能である。
 いずれにせよ、この作品はマグリットの自画像でもあるということだ。


【左】《恋人たちの散歩路》1929年または1930年、油彩/カンヴァス、92×73cm、
パークヴュー・コレクション (図録、p. 104)。

【右】《空の鳥》1966年頃、油彩/カンヴァス、68.5×48cm、
ヒラリー&ウィルバー・ロス蔵 (図録、p. 223)。

 青空の白雲という図柄の作品が多く目についた。全面、青空と雲が描かれている明るい絵なのに《呪い》と名付けられた作品もあったが、多くは切り取られた空が何かにはめ込まれているという絵である。
 《恋人たちの散歩路》は、散歩路の上に広がるであろう青空が額縁の中だけにはめ込まれていて、本来の空の場所は光すらも存在しない空無であるかのように暗黒となっている。《夏》という作品は、建物の前に掲揚されている旗の部分がくり抜かれて青空が覗いているように描かれている(けっして、旗の図柄が青空と雲ということではない)。
 《空の鳥》は、羽ばたく鳥の部分が「空」に置き換わっていて、文字通り「空の鳥」というわけである。左右が反転しているもののほとんど同じ構図の《大家族》という作品もあるが、暗い背景との対照において《空の鳥》はみごとな形象をなしている。
 きわめてデザイン性に優れた作品と思って眺めていたが、ベルギーの航空会社、サベナ国際航空のシンボルマークに採用されていたということだ。


【左】《人間の条件》1933年、油彩/カンヴァス、100×81cm、
ワシントン・ナショナル・ギャラリー (図録、p. 116)。

【右】《野の鍵》1936年、油彩/カンヴァス、80×60cm、
ティッセン=ボルネミッサ美術館 (図録、p. 117)。

 カンヴァスの中の絵と背景の見分けがつかないという作品に《美しい虜》という風景画がある。そこでは野に立てられたイーゼルに架けられたカンヴァスに描かれた絵が背後の風景と連続していて、わずかに細くカンヴァスの縁が描かれて、それと判別できる。
 まったく同じ趣向で窓外の風景を描いたのが《人間の条件》である。解説には、カンヴァスに描かれた風景とカンヴァスの背後の風景が「まったく同じであるという保証はない」と記されているが、空や木々の連続性からそれを疑う必要があるとは思えない。
 《野の鍵》では窓ガラスがカンヴァスの代りを果たしている。窓ガラスを通してみている風景は、じつはガラスに映しとられていた風景であることが暴露されている。つまり、ガラスに写し取られた絵と窓外の風景の同一性を示している。私たちが見る風景の実在性に関する存在論的考証としてマグリットの作品があるような気分になる。
 ここでもやはり、《人間の条件》や《野の鍵》というタイトルには、マグリットがいかに拒否しようとも、丁寧な精神分析が必要ではないかと思わせるものが確かにある。


【左】《生命線》1936年、油彩/カンヴァス、73.1×54.1cm、
ポーラ美術館(ポーラ・コレクション) (図録、p. 154)。

【右】《夢》1945年、油彩/カンヴァス、83×69cm、
個人蔵 (図録、p. 157)。

 《生命線》というタイトルは、めずらしく分かりやすい。「彫刻の女性像が生身の人間へと変身を遂げていくのか、あるいはその逆なのか」(図録、p. 154)と作品解説にあるように、上半身は石像、下半身は生身の婦人像である。文字通りの生命線としての境は、臍の上あたりにある。
 一方、《夢》では壁に映る女性の影が、あたかも女性を立体的に石像として写し取ったかのように描かれている。絵画作品としては圧倒的に《生命線》の方が私の感受力を刺激するものの、《夢》の方が人間存在の二重性を表象してるようにみえて、もしかしたら豊かな存在論的思惟の源になり得るのではないかと思ったりもする(ただし、私にはそのような思考へのきっかけすら生まれてはいないのだが)。


《記憶》1948年、グワッシュ/紙、46.5×37cm、個人蔵 (図録、p. 164)。

 《記憶》は、もっとも印象的な作品の一つである。頭部だけの彫刻のこめかみから流れ出る鮮血が際立っている。波立つ海、暗雲広がる空という背景もいい。一輪の薔薇も白鈴も意味深げであるが、目を閉じて深く考え込んでいるような彫刻の表情こそが鮮血を際立たせている最大のものだろう。


【左】《オルメイヤーの阿房宮》1951年、油彩/カンヴァス、80×60cm、
個人蔵 (図録、p. 167)。

【右】《ピレネーの城》1959年、油彩/カンヴァス、200×145cm、
イスラエル博物館 (図録、p. 199)。

 《オルメイヤーの阿房宮》と《ピレネーの城》の二つを合成させて天高く雲の上に配置すると「天空の城ラピュタ」になる。壊れかけている外壁は大きな根に支えられ、巨大な姿を空に浮かべる姿にそんな想像をした。
 《オルメイヤーの阿房宮》は奇妙な存在体を描いているが、根から石垣壁に変化する構図も、阿房宮や背景の色調もとても魅力的な作品で、私のお気に入りの一つになりそうだ。


《ゴルコンダ》(部分)1953年、油彩/カンヴァス、80×100.3cm、
メニル・コレクション (図録、p. 206)。

 《ゴルコンダ》は、奇妙だがとても印象の強い作品だ。作品解説はこう述べている。「おそらくブリュッセルと思われる匿名的な街並みを背景に、コートを着て山高帽を被った大勢の男たちが空中に浮かんでいる。3種類の大きさに描き分けられた男たちは、極めて整然と規則的に並んで画面と平行な3つの層を形成し、空間を埋めている」(図録、p. 205)
 細部を見ると男たちはそれぞれ異なった人物らしいが、かといって個性や差異を問題にする必要は感じない。彼らに個性を見いだすことに意味があるとはどうして思えないのである。天から降ってくる雨粒に個性がないようなものだろう。図録解説はまた、マグリット自身の次のような言葉を引用している。

「群衆がいます。それぞれ違った男たちです。しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群衆を表すのです。しかし、それが一体なんでしょう? どこでも男たちを見かけるということを意味しているのでしょうか? そんなことはありません。おそらく私は、あなたが男たちを見るとは思ってもいないところに、彼らを置きました。」 (1966年の『ライフ』誌によるインタヴュー、MAGRITTE Catalogue Raisonné, Ⅲ, pp. 205—206に引用)


《レディ・メイドの花束》1957年、油彩/カンヴァス、163×130.5cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 229)。

 山高帽を被ったコートの男性がバルコニーに立って庭(の林)を向いている。その背中に配されているのはボッテチェリの《春》に描かれている女神フローラである。《レディ・メイドの花束》には、どこにでもいるような紳士が描かれている(《ゴルコンダ》ではそのような男が群衆として無数に描かれている)にもかかわらず、きわめて鮮明な印象を与える。それは、ボッテチェリのフローラを背負う男としての不思議から来る。
 「背負う」と書いたが、ほんとうに男とフローラは何らかの関係があるのだろうか。もしかしたら、男は漫然とバルコニーに立っているに過ぎず。異次元空間に出現したフローラを意匠として男の背後に描いただけかもしれない。
 解釈を拒む絵画をどうにか理解しようとあがくと大いなる誤解に落ちこむばかりに違いないが、このようなシュールな組み合わせ、配置こそマグリット絵画の特徴であることだけは間違いない。

 

[1] 『マグリット展』(以下、図録)(読売新聞東京本社、2015年)。
[2] ミシェル・ドラゲ「マグリットと精神分析」図録、p. 28。


【書評】名嶋義直・神田靖子編『3・11原発事故後の公共メディアの言説を考える』(ひつじ書房、2015年)

2015年05月21日 | 読書

 

 「リテラシー」という言葉は普通に使われているし、ことさら特殊な専門的なことを含意しているわけではない。そう思いながらも、じつは、とても微妙な、ある種の頼りないようなニュアンスで受け取ることが多い。私にとってのことだけだろうが、たとえば英語のリテラシーならば、ある程度明確な意味合いで使えるように思う。
 職業柄、教科書や解説を除いて200篇を超える論文を書いたが、日本語で書いた論文はたった1篇だけで、あとはすべて英語で書いた。それに、私の仕事に先行する論文や関連する論文を数えきれないほど読んでいる。しかし、その英語は、物理学の中の固体物理学分野に限られる。もっと正確に言えば、固体物理学の磁性物理に関するものに限られる。
 磁性物理という狭い分野を離れてしまうと読み書き能力は途端に怪しくなる。結論から言えば、残念ながら私の英語リテラシーはかなり貧しいと断言できる。ましてや、物理学を離れて人文科学系、社会科学系の英語ばかりではなく英語社会一般に溢れている英語も覚束ないのだ。
 それでは、日本語テクストのリテラシーだったら大丈夫なのだろうか。これはかなり若いときの記憶なのだが、「リテラシー」ということを聞いた(考えた)とき、日本語の読み・書き・話す能力なら何とかなるだろうとあまり真剣に受け取らなかったように思う。

 年を経て、じわじわと気付かされてきたのは、当然ながら、日本語といえども私のリテラシーはだいぶ怪しいということなのだが、もう一つ気付き始めたことがあった。私の周囲、というよりも日本社会のほとんどの人たちが自分の日本語リテラシーを信じて疑っていないかのごとく振る舞っているということだ。私から見れば、明らかに間違っていると思えることを力強く断言、広言する根拠が、「本に書いてあった」、「新聞が報道していた」、「テレビで言っていた」と言うことがあまりにも多いのである。
 文字通り、「メディア・リテラシー」の問題なのだが、どうも私たちの文化的土壌には、知識や知恵、情報は与えられるものであって、自ら前に歩み出して獲得するものではないという気分が蔓延しているような気がする。今はやりの「反知性主義」とは異なった意味で、日本ではずっと「知」を尊重するという社会一般の価値観が低かったように思う。所与のものとして認めてしまっている社会システムから与えられる情報が「知」であると誤解する風潮の中では、メディア・リテラシーの充足はかなり困難に違いない。

 編著者の一人である名嶋義直が主催した「言語学者によるメディア・リテラシー研究の最前線」というシンポジウム講演を聞きに行く機会があって、その時に本書が出版されるのを知った。シンポジウム講演の半数ほどは、私が強く関心を持つ原発報道に関するものだったし、さらに本書は原発問題に特化しているので大いに期待していたのである。原発報道の実態と、これから私(たち)が原発報道にどのように接するかということをリテラシー研究の専門家に教えてもらいたいということだ。

 本書は、ミランダ・シュラーズの巻頭言から始まる。ドイツは、福島原発事故後、国家として脱原発へと政策の転換を決定したが、それは長期にわたるドイツ国民による反原発の運動があった。ベルリン自由大学教授のシュラーズは、2022年までにすべての原発の閉鎖をドイツ政府に勧告した諮問機関「ドイツ脱原発倫理委員会」の委員であった。
 以下、次のような論考が続く。名嶋義直「序章 背景となる諸事象の説明」、「第一部 民と官のことば」として、高木佐知子「電力会社の広報にみる理念と関係性」、野呂香代子「「環境・エネルギー・原子力・放射線教育」から見えてくるもの」、大橋純「官の立場のディスコース」、「第2部 新聞のことば」として、庵功雄「新聞における原発関連語の使用頻度」、神田靖子「新聞投稿と新聞社の姿勢」、名嶋義直「福島第一原子力発電所事故に関する新聞記事報道が社会にもたらす効果について」とあって、最後は、名嶋義直「終章 吉田調書をめぐるできごとを読み解く」でまとめられている。 

 冗談めいた話からはじめよう。著者一同による「まえがき」に、次の1文がある。おそらく、野呂香代子が自身の論考で取り上げている文科省発行の小学校副読本『放射線2011』の作成目的の「放射線等について学び、自ら考え、判断する力を育成すること」と言う文章 (p. 87) なども念頭にあったのではないかと思われる。

 読者は、批判的な読みの実践を読み込むことによって、最終的には「情報を自分の生きている社会と関連づけて読み解き、考え、判断する」という「批判的読解力」を獲得する。これこそが本当の意味での、文部科学省が学習指導要綱に掲げる「生きる力」であり、読者自身に身につけてほしいと願うものである。 (p. xviii)

 私は、国立大学の大学院修士課程まで原子力工学を学んだ。国家資格である第一種放射線取扱主任者も取得して、一時は職場の放射線安全管理業務も担当したこともある。国家機関としての大学では学業として、次いで同じ国家機関での放射線安全管理業務を通じて、「放射線等について学び、自ら考え、判断する力を育成」した(された)のである。それに基づき、「考え、判断」した結果、日本は原子力をエネルギー源とする政策を早急に転換し、すべての原発を直ちに廃炉にすべきだという結論に達したのだ。
 小学校副読本どころか大学院まで放射線等について学んだという点において、私という個人は、文科省が学習指導要領で記した目的を事実上体現しえた教育成果そのものではないかと思うのだが、どうだろう。もっとも、修士課程終了時に、私のような者は原子力工学の世界に無用だということで、みごとに放逐されたのだったが [註1]

 閑話休題。本書の話題に戻ろう。
 名嶋は、序章の「背景となる諸事象の説明」で、原発事故後に生じた諸々の経過を的確に要約しているが、その中で私がとくに注目したのは、次のように述べている事柄である。

 政府は、原発事故後の2011年4月、福島県11市町村に、警戒区域(原発から20キロ圏)、その外側で放射線量が20ミリシーベルト/年を超える計画的避難区域などの避難指示区域を設定した。2011年末には、放射線量に応じて、(a) 2012年3月から数えて5年以上戻れない帰還困難区域(50ミリシーベルト超/年)、(b)数年で帰還をめざす居住制限区域(20~50ミリシーベルト超/年)、(c)早期帰還をめざす避難指示解除準備区域(20ミリシーベルト以下/年)への再編を決めた。この再編は2013年8月に完了し、避難指示解除準備区ではお盆や年末年始に伴う2週間程度の特別宿泊も認められた。
 しかしこの20ミリシーベルト/年という基準値は、法律で定められている各種の基準値、たとえば、放射線業務従事者の基準値が50ミリシーベルト/年であること、放射線管理区域の基準値が5ミリシーベルト/年であること、一般の人の「追加被曝」線量限度が1ミリシーベルト/年であることなどを考えると、かなり高い数値であることがわかる。今後当然のごとく予測される健康被害を考えてか、政府は住民に積算被曝量を記録できる線量計を貸与し、住民が自身の被曝量を「後から」知ることができるような仕組みを導入する予定である。合計でどれくらい被曝したかを継続的に管理する必要があるということは、確実に放射性物質汚染があることに他ならず、安心して健康な暮らしが送れる環境ではないということである。もはや基本的人権の侵害と言える状況である。 (p. 3-4)

 この被曝限度に関する政府の決定は極めて深刻な問題であり、その反倫理性に対する名嶋の厳しい批判に全面的に同意する。そのうえで、一般人の被曝限度を法律によって1mSv/年と定めていたにもかかわらず、政府が避難解除の目安を20mSv/年以下に設定しているという事実が「3・11原発事故後の公共メディアの言説」にもたらす効果について考えさせられたのである。
 生活に必要なインフラの整備の問題もあるが、帰還地区が1mSv/年ではなく20mSv/年相当の放射能汚染があっても良いとなると、帰還可能区域が格段に拡大する。そして、実際に避難支援打ち切りと相俟って帰還が始まれば、晩発性障害による生命、健康の危険を強いられながら汚染地区で暮らすことになるが、メディアが表象するのは、おそらくは福島が復興しているとイメージである。そのメデイアによって、福島を除く地域の日本人は原爆事故の問題は終わりつつあると認識するだろう。
 3・11原発事故後の原発推進勢力がその言説の背後に常に隠し持っている意識は、「原発事故はなかった(ことにしたい)」ということである。それは、「原発事故(放射線被曝)は重大な問題ではない」という意識として言説に現われていると思う。「原発事故が起きた」、ましてや「放射線被曝で多数の生命が危機的状況にある」などということは原子力推進には消えて欲しい「障害」情報に他ならない。

 たとえば、高木佐知子が分析対象として取り上げている3・11後の電力会社のプレスリリースは、原発事故にはまったく触れることなく、原発が稼働していないための電力不足や節電のお願いに終始している。関西電力は「東日本大震災を受けて」とだけ表現し、東京電力も「東北地方太平洋沖地震により原子力発電所、火力発電所の多くが被害を受け停止した」と記述するに留まる。あたかも原発事故で放射能が大量にまかれて多くの生命が危険に晒されている事実は存在せず、電力会社は地震と津波の被害者であるにすぎないという表現があるだけなのだ。
 高木は、このような言説を正当に見せる表現戦略として、N. Faircloughの分析手法を紹介していて、門外漢の私にはとても興味深い(引用が含まれるが、出典は本書を参照されたい)。

Fairclough (2003)は、「いかなる社会秩序もものごとのあり方やものごとのなされ方に対する説明と弁明の正当性が広く認められること(すなわち正当化)を必要とする」(Fairclough2003:219)として、Van Leeuwenによる4種類の正当化ストラテジ一、1)権威化(authorization) 2)倫理的評価(moral evaluation) 3)合理化(rationalization) 4)神話作成(mythopoesis)を援用している(Fairclough 2004: 98)。これらは、権威や価値や有用性があるということを述べたり、正当な行為には報酬があるという語りをすることで正当化を主張する方法である。この節電依頼においては、この中の「合理化」(rationalization) ストラテジー、が用いられている。すなわち、「社会が構築してきた知識を参照することによる正当化」であり、その知識は、本データでは、原発による電力供給の知識や夏の電力需給の見通しと電力不足に関する知識などである。これらの知識が、文や節のつながりにより、追加され、具体的化されることによって、節電という目的とその有用性に対して妥当性が与えられることとなり、依頼の説得性が生み出されたと考えられる。 (p. 41)

 高木の分析は、プレスリリースの細部にわたっているが、その分析に基づいて次のような説得的な主張がなされている。

 企業の主張や顧客への依頼がどのように自然で説得力あるものとして伝えられていったのか、その一端が明らかになった。本章で考察したのは、企業の理念や関係性についての暗示的メッセージである。ことばによる情報として提示されるものでないため、解釈されなければ気づかない場合もあるかもしれないし、ことばとともに何となく受け入れて納得してしまうこともあるかもしれない。しかし、できるならば、すぐに納得することなく、これらのプレスリリースにおいて提示されたことばがどのような社会状況を背景にしたものであるのか、だれがどのような立場で発したものなのかを考えることが重要だと思われる。さらに、原発再稼動の観点はどこまで必要なのか、そもそも必要なのか、節電の依頼は、結局は受け入れやすい形での指示行為となっているのではないか、などについて問うことも必要であろう。このような問いを発することで、私たちは、企業によるディスコースの実践を検証することができるのである。 (p. 42-3)

 積極的に「暗示的メッセージ」を発するばかりではなく、背景には「原発事故はなかった」という虚偽の空気、虚妄の背景があるように、私は思うのだ。なんとなく直感的に感じることはあるが、そればかりではなく、言語リテラシーによって言説の背景のさらに奥へ突き抜けていく眼差しが私(たち)には必要だということである。

 野呂香代子が分析するテクストは、文科省発行の原子力(放射線)についての小学校用副読本である。ここでもまた、放射線被曝は深刻な問題ではないことを暗示するかのような表現で、一般人の被曝限度1mSv/年を福島では20mSv/年へと引き上げようとする政府の意図を補完するかのようである。

 『原子力ランド2011』では、医療関係の放射線も含まれていて、ロボットに「少しの量なら体に影響はないんだよ!」と言わせている。教師用の指導のボイントを見ると、「放射線は好ましくないイメージが先行しがちであるが、自然からの放射線として身の回りに常に存在し、普段我々は放射線とともに生活をしている」とある。 (p. 86)

 宇宙線を含む自然放射線も人体にとっては有害で、すでに自然放射線由来の癌死や遺伝的障害の存在はよく知られているにもかかわらず、自然放射線に多少の人工放射線による被曝が加わっても問題がないという主張である。つまり、ここでも「原発事故による生命、健康への危険はない」かのごとく表現することで、意図的であれ無意識的であれ、「原発事故はなかった」ないしは「原発事故があってもたいした問題ではない」という虚偽のイメージを背景化しようとしていると考えることができる。
 きわめて適切な野呂の分析は、結果としては鋭い批判となっていて、私のような立場の人間には心地よく読み進めることができる。たとえば、副読本の「 [2] 事故の後、福島県から避難した人たちが差別を受けたり、子どもがいじめられたりしたこともありました。また、被害を受けた地域では、検査によって安全が確かめられていても、正確な情報が行き届いていないことにより、物が買ってもらえなくなったり、その地域への観光客が減ったりする「風評被害」も受けました。」という文章を取り上げて、次のように分析する。

 ここで面白いのは、「被害を受けた地域」で「風評被害も受けた」という作りである。何の「被害を受けた」を受けたのか、その「受けた」被害の内容を説明せずに、その地域では「風評被害も」「受けた」と、その被害の内容を詳しく明示していることである。

[(被害内容の説明なし)]被害を受けた地域では
[(風評被害の詳しい説明)]風評被害も受けた。

 「被害を受けた地域」とはどこを、また、どんな被害を指すのだろうか。[1]の「放射性物質が多く降り積もった地域」を指すなら、「多くの人たちが自分の家にもどることができて」いない地域ということになる。しかし、(食品)検査をしているのだから、その地域に人が住んでいるということになる。つまり、(放射性物質の)被害を受けたが、人が住み、生産活動をしている地域ということになる。なぜそのような事態が引き起こされたか、それにより、どういう事態が生じるのかについては、全く触れていない。  (p. 82)

 ここでも、原発事故による被害(の実態)は背景のさらに後方に押しやられてしまっている。受けた「被害」はあると言いながら、その実態は不可視化されている。こうした分析は、福島の深刻な現実の描写と国の政策への鋭い批判として結果する。

 また、「事故が起こる」と自動詞を使うと、被害者、加害者の対立は生まれないが、「差別」「いじめ」「風評被害」は、加害者、被害者を作る。原発事故を起こしたのは東電であり、原発を推進しているのは国であるのに、それには言及せず、「差別」「いじめ」「風評被害」をテーマに選ぶことで、国民を被害者、加害者に分断させ、被害の責任を暗に国民側に負わせるというテクストの構成になっているのではないだろうか。 (p. 84)

 そして、野呂はその「まとめ」の節に、「明確に言ってしまえば、そもそも国が原発を推進するかぎり、国民を言葉(とお金)でだまし続けなければならない、ということではないだろうか」(p. 89) という文言を置くのである。

 3・11原発事故後の民主党政権のスポークスマンは枝野官房長官で、菅直人の後を継いで政権を担ったのは野田佳彦である。政府の公的見解として、その二人の発言を語用論的にきわめて明快に分析しているのが、大橋純の論考である。 
 枝野は、経産省を引き合いに出すときには、「記者の皆さんにブリーフを経産省の方でしていただこうと思っております」とか「経産省の方等で、ご報告をいただけるかというふうに思います」という表現をすることを取り上げ、大橋は次のように述べる。

 つまり枝野氏が経産省に対してへりくだり、経産省を立てているのである。経産省に頭が上がらない官邸の体質が見て取れるが、この経産省の力の優位は、次の東京新聞の2014年3月29日の朝刊記事でより鮮明になる。 

中長期のエネルギー政策の指針となる「エネルギー基本計画」政府案をめぐり、自民、公明両党が再生可能エネルギーの導入目標について、抽象的な目標を明記することで大筋合意したにもかかわらず、経済産業省が二十八日、それでも原発依存度の縮減につながりかねないと合意案を拒否、与党了承の手続きが先送りされた。与党の合意を省庁が拒否するのは異例で、原発推進を狙う経産省の姿勢が浮き彫りとなった。

 参考までに付け加えるが、この件について他の大手新聞は全く報じていない。 (p. 105-6)

 政治を官僚から取り戻すことを標榜することで政権を奪取した民主党政権が、結局は、官僚の抵抗を打ち破ることに力量不足であったことをさらけ出してしまい、ふたたび自民党に政権の座を明け渡してしまったことを枝野のささやかな謙譲語がすでに象徴的に示していたのである。
 枝野には放射線量、被曝線量に関して何度も繰り返し使用された「直ちに人体に影響を及ぼすような数値ではございません」という(皮肉にも)とても有名になったフレーズがある。「直ちに人体に被害がある」のなら、それは原爆、水爆様の爆発を意味している。広範に放射能をばらまく原発事故においては、晩発性障害が問題になるのは最初から明らかである。にもかかわらず、被曝の影響を急性放射線障害に限定することで、ここでも「原発事故による生命、健康への危険はない」かのごとき表現となっている。国民のパニックを防ぐという口実もあったろうが、明らかに「原発事故があってもたいした問題ではない」という虚偽のイメージの背景化が、すでに原発直後の政府見解に孕まれていたと考えることができよう。パニック回避を口実とする枝野の文言について、大橋は次のように要約している。

 このように、次第に統一された文言が、国民に対して何度も枝野氏から発せられ、事態の楽観視、リスクの過小評価が徹底されていく。枝野氏が認識するスポークスパーソンとして果たすべき役割が、迅速に事実を伝えることより、不安やパニックの回避だったことが分かる。それを客観的に表すのは、「落ち着いて」が16回、「冷静に」が13回用いられ、避難や屋内退避などの指示に「念のため」が9回、「万が一/万一」が10回であり、政府は「万全(16回)を期す/な対応をしている」ので、国民は安心して、パニック状態にならないよう要請されていることが頻度数の多い言葉からも明らかになる。………ここで、上記、枝野氏の敬語表現で明らかにされた経産省の優位性については再度明記しておく必要があるだろう。事態の深刻さが認識されるにつれ、国策として、安全な日本のイメージ創り、不安やパニックを回避する談話が記者会見における枝野氏から発信されていく。また、日本のイメージを損なう発言、情報については、徹底して政府が介入するようになる。  (pp. 112-3)

 大橋は、さらに政府のクールジャパン政策に言及していて興味深い。これは、最近のマスコミ(とくにテレビ)が、「日本のここがスゴイ」的な番組、報道を多くしていて、クールジャパン政策がけっして政府の政策ばかりではなく、メディアが一体となった気持ちの悪い現象であることと良く対応している。

このようにクールジャパン政策が原発問題の対極に位置し、日本のポジティブなイメージのみを演出し発信し続ける場合、日本が抱える様々な負の問題から内外の目を逸らしてしまう危険性を多く孕んでいる。震災事故後の保障の問題、老朽化する原子炉の廃炉、使用済み核燃料の処理問題など経済的に大きな負担を国家が背負うことが明確になった。それに加え、現在も続いている放射能汚染水漏れ、長期的な低レベル放射線量被曝問題など深刻な問題が山積みである。東日本大震災後のクールジャパン政策の歩みを考えると、今後、原発推進、原発技術の海外輸出などが盛り込まれないという保障はない。長引く不況の中で、新たな活路を開くためのクールジャパン政策が被災地の復興を後押しするのはよいが、大震災後のクールジャパン政策は、日本人、日本文化の特殊性、優位性を謳った日本人論、日本文化論の台頭、ナショナリズムへの回帰を示唆しているのではないだろうか。 (p. 125)

 読売新聞と朝日新聞における原発関連語の使用頻度を統計的に調べたのが、庵功雄の論文である。残念ながら、私は理系にもかかわらずデータの統計処理を行うような仕事はしなかったので、カイ二乗検定(と残差分析)の結果の意味を実感的に理解できない。ただ、カイ二乗検定と残差分析をそのまま受容すれば、結果はきわめて納得できるものだ。
 次の神田靖子の論文も相俟って、庵のこの論文は私の空想(妄想)をいたく刺激したのだ。ここで取り上げられた原発に関するさまざまな語彙について、それぞれ対相関係数を付与して、語彙対の使用頻度から関連言説の中での対象テクストの相対位置価が出せるのではないかと考えたのである。
 たとえば、原発推進か原発反対かを-3から+3までの7段階で評価するとしよう。原発に関連するa1とa2という語彙対にも-3から+3の間で適切な値を与えられるものとする。5個の語彙を選べば対の数は10である(10個の語彙では対数は45に激増するので、いちおう5個の語彙としておく)。対の使用頻度で対相関係数の平均を求めるとテクストの原発に対する態度が7段階で評価できる(はずだ)。ただし、この場合、相対位置価が既知の複数(多いほどよい)の異なったテクスト(研究者が読み込んであらかじめ相対位置価を付与しておく)を用いて、10組の対相関係数を調整する必要がある。妥当な係数が得られれば、新しいテクストの対使用頻度を数え上げれば自動的に相対位置価が出せるというわけである。一つの対に「原発賛成・反対」、「新自由主義賛成・反対」、「グローバリズム賛成・反対」のような複数の対相関係数を与えて、多次元空間における相対位置価も出すことができる(はず)。
 このアイデアが妄想に近いという理由は、語彙の選択に大きな任意性があって妥当な語彙選択が可能かどうか不明なこと、社会的、政治的イシュウは時限的であるので、妥当な対相関係数が得られる頃にはそれを適用すべきテクストは過去のものとなってしまうことが十分にあり得ることなどである。最悪の場合、対相関係数を定めるためにあらかじめ相対位置価を与えたテクストしか残っていないことになって、猫が自分の尻尾を狙ってぐるぐる自己言及的に回るというような無意味で無惨な結果になってしまう。とはいえ、ひとしきりこんな妄想を楽しむことができたのは、言語学の手法が門外漢の私にとってとても珍しくて興味深いせいなのである。

 先ほど触れた神田靖子は、読売新聞の「気流」という読者投稿欄の原発に関する採用傾向と社説を分析対象とし、対照として朝日新聞の社説も取り上げている。どの著者も同様だが、神田もはじめに分析の方法論について節を設けている。

 ここにいう「ディスコース」(discourse)とは、「同時にそして連鎖的にたがいに関連しあう言語的行為の複雑な束」(Reisigl and Wodak 2001:66)とされる。本章のテーマについて言えば、それぞれ「ディスコース」である「原発推進」と「脱原発・反原発」が共ディスコースの関係にある。さらにそれらの下位に、多様なメディアで取り上げられた「廃炉」「原発のコスト」「電力不足」「再生エネルギー」「事故補償」といったディスコース・トピックが位置する。 (p. 159)

 読売新聞によって選択掲載された読者投稿記事を、「事故について(原因など)」、「電力不足」、「再稼働とエネルギー政策」という3つのディスコース・トピックに分類して検討を加えている。よく知られているように、読売新聞は社主であった正力松太郎を先頭に一貫して原発推進の論陣を張ってきたメディアであり、その投稿欄もまたその趣旨に沿って取捨選択された投稿で構成されているのは当然と言えば当然である。神田は、投稿を分析した結果を次のようにまとめる。

つまり、新聞社の主張と同じ主旨のものを採用し、読者からの声という具体的な事例によって強化したと言えよう。「気流」欄の投稿は「原発の難しいことはわからない、しかし今現在、電気が止まるのは困る、文化的な生活形態は変えたくない」といった庶民感情に訴え、原発の必要性を確認させる装置の1つなのである。 (p. 191)

 当然ながら、読売新聞の社説は強硬な原発推進論を表明している。そして、その背後に原子力の平和利用を超えた意図の存在を指摘している。社説の中から、その意図が明らかになる。

 ではこれほどまでに原発を推進しようとする根拠は何であろうか、読売新聞社を立て直した人物が日本の原子力事業を牽引してきたという経緯から、原発推進派を擁護するのは当然であろう。しかしエネルギー問題だけであろうか。社説は事故直後から原発稼動を訴えてきた。「脱原発に向えば、(略)、国際的な発言力も大きく低下するだろう」(110714)、「日本は、平和利用を前提に、核兵器材料にもなるプルトニウムの活用を国際的に認められ、高水準の原子力技術を保持してきた。これが、潜在的な核抑止力としても機能している」(110810)、「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になりえるプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」(110907)と述べている。
 ここから明らかなように、「平和利用」という名目を掲げながら、最終的には核兵器に転用可能な原子力を維持し続けたいという思惑が見えている。信夫隆司氏が指摘するように「この原発と軍事の関係こそ、福島第一原発事故後も政治が原発ゼ口を進めることのできない隠された理由になっている」のかもしれない。 被爆国日本が1950年代に「原子力の平和利用」という言葉に幻惑され、明るく文化的な未来の夢を託して導入に賛同した原発には「核兵器転用可能」が秘密裏に盛り込まれていたことに改めて気付かされるのである。 (pp. 189-90)

 投稿記事と社説は緊密に連動しており、そこから神田は読売新聞が取り上げなかったディスコース・トピックに注目して、次のような興味深い事実を指摘する。

こうしてみると、読売新聞社説が取り上げなかったディスコース・トピックは多い。例えば次のようなものが挙げられる。

・原発の危険性 ・廃炉費用と所用時間 ・発送電の分離
・使用済み核燃料処理 ・事故補償 ・事故責任の所在

 ここから読売新聞は原発の負の側面に触れることを意図的に回避しており、原発の優位性のみに焦点を当てて読者を誘導しょうしていることが明白に見えてくるのである。 (p. 159)

 原発の負の側面に触れないことは、いわば原発事故を言説の背景から放逐することに等しく、やはり「原発事故はなかった(ことにしたい)」、「原発事故(放射線被曝)は重大な問題ではない」式の原発イメージの誘導がなされるのである。福島県民を除く残りの日本人のマジョリティがこのようなメディア戦略に誘導されれば、野呂香代子が指摘した「国民の分断」を越えて、私たちが福島の被害者を「棄民」として見殺しにすることへ加担するに等しいこととなるだろう。メデイア・リテラシーの貧困は、場合によっては罪ですらありうるということだ。

 名嶋義直は、テクスト分析の極と呼んでよいような極めて短い新聞記事の見出しを対象としている。そして、見出しの言語形式などの分析を通じて、「多くの見出しには権力による何らかの意図が介在しうる余地があり、そのある意図に動機づけられた談話行動」を次のような分類によって整理している。

全体的に言うと、8つの談話行動の実践が確認され、それらは4つずつがそれぞれ1つにまとめられ、2つのグループに大別される。ここではその概略を述べる。
 まず「前提化」・「権威化」・「低評価」・「負の側面の焦点化」という4つの談話行動の実践が確認された。これらは当該事態について積極的に言及していくという点において「本来の事態を前景化する(見せる)」方向での実践という共通点を持ち、「事態の既成事実化(存在の容認)」という意図が関わるものとしてまとめることができる。
 残りの4つは「全体の中での部分化」・「焦点のすり替え」・「事態のすり替え」・「別事態の焦点化」という実践である。これらは「関連のある事態」を語ることによって当該事態について積極的な言及を避けるものである。その点において「本来の事態を背景化する(見えなくする)」方向での実践であるという点で共通性を持ち、「事態の非存在化(存在の非容認)」という意図が関わるものとしてまとめることができる。つまり、「事態の既成事実化(存在の容認)」と「事態の非存在化(存在の非容認)」という、表面的には対極的な2つの意図に動機づけられた8つの談話行動の実践が確認できたということである。 (p. 203)

 そうした見出しに見られる実際の談話行動の傾向を次のようにまとめている。

「既成事実化」させて「見せる」実践よりも「非存在化」させて「見せない」実践の方が、談話行動を行う意図や主体の存在が捉えにくくなっていることがわかる。言い方を換えれば、「見せない」実践の方に権力の意図がより巧妙に仕組まれうるとも言える。 (p. 231)

 「見せない」実践は、「原発事故はなかった(ことにしたい)」と言う推進論者の意図に見事にはまるだろう。また、産経新聞の「首相、福島の桃に「とても甘い!」」(p. 224) や毎日新聞の「フラガールズ甲子園、笑顔と元気で観衆魅了 福島・いわき」(p. 227) などという新聞見出しがもたらす効果について、著者は次のように述べる。

……原発事故とは表面的に無関係に見える別事態を繰り返し報道していくことで、読み手に気づかせることなく、事故が収束して従来の生活が戻ってきたと言う解釈や事故などなかったかのような印象を持たせることが可能である。そこに権力が介入する余地があると考えられる。もし権力がそのような解釈を広めることを意図して談話行動を実践しているとしたら、そこには原発事故という事実を消し去ろうという意図が存在するかもしれない。 (p. 229)

 名嶋は「……かもしれない」と慎重だが、世間では安倍自公政権による報道への介入や大手マスコミの取り込みがしきりに取沙汰されているし、フーコー流に言えば、権力は私たちの日常的な細々とした周囲に張り巡らされているので、マスコミ報道が権力に絡め取られていることは想像に難くない。少なくとも私は、「原発事故はなかった(ことにしたい)」という権力の意図が一貫して存在しているという実感を抱いている(もちろん、分析によってではなく、直感のようなものを通じて)。
 多くの新聞見出しの分析例からひとつだけ興味深い例を挙げておく。

(68)五輪招致委「250キロ離れ東京は安全」福島県民「差別的」
<http://www.tokyo-np.co.jp/article/nationaI/news/CK2013090702000127.html> 2013.9.7

 「東京は安全」という表現は副助詞「は」の持つ対比効果ゆえに「福島はその限りではない」という意味を暗示する。それが言い過ぎなら、少なくとも「東京」を「は」で主題化して「東京」についてのみ語ることで、その時だけであっても福島を主題から外し非存在化している。だからこそ福島県民がその言動を「差別的」だと感じるわけである。
 ここで言う「分断」とは、「250キロ」という地理的な距離の遠さだけに起因するものではなく 、福島第一原発の問題に対する関心や興味を弱体化することで起こる「人と事態との『心理的な分断』」である。………したがって、「東京は安全」という談話行動の実践には、東京と福島と対比させたり、東京だけを取り上げて福島は取り上げなかったりする潜在的な意図があったと見ることができる。よって、(68)はその「心理的な分断」という意図が、それに動機づけられた談話行動の実践を通して、見出しの中で顕在化したわかりやすい例であると言える。 (p. 233)

 名嶋義直は、「終章 吉田調書をめぐるできごとを読み解く」という論考も寄せている。政府事故調による原発事故当時の吉田昌郎東電福島第1発電所長(故人)からの聞き取り調書の内容を朝日新聞がスクープしたものの、報道内容に誤りがあったと朝日新聞が認めた事件についての考察である。朝日新聞に対して、政府や他のマスコミから激しい批判が浴びせられたが、名嶋はそれを「貶めてその権威を奪うという逆方向の実践」と指摘して、次のように原子力ムラに言及している。

 そして私たちは、その「非権威化」を達成すべく、批判と要求と指導とを繰り返してきた強い立場の側に誰が立っていたのかを今一度認識する必要がある。それは個別的には、原発再稼働を進める姿勢を鮮明にしている政府与党自民党・政治家という「官」であり、客観的な姿勢で種々の記事や主張を発信する新聞社やジャーナリストなどの「メディア」であり、学術的・科学的な態度で客観的な意見を述べる学者や学会関係者などの有識者という「民」であり、原発を保有し運転する電力会社という「民」であった。そして、それを全体的に捉えれば、官や民が共通の目標や姿勢や利益などで結びついた集合体であり共同体であった。それはいわゆる「原子力ムラ」に他ならないというのが筆者の考えである。 (p. 268)

 原子力ムラについては、多くの論述がある。政・官・民の精緻な相関図もネットを通じて出回っている。政治的、経済的利害関係を考慮すると、ムラの人口は日本の一部とは呼べないほどに大きなものだと言う人もいる。
 その原子力ムラが、メディアを通して「原発事故はなかった(ことにしたい)」攻勢をかけているのだと考えると、事態はとても楽観視できるものではない。福島の避難民が10万人以上も存在し、福島で生きることを決断すれば20mSv/年という将来の生命が危ぶまれる放射線被爆を強制させられる事態が厳然として存在することを考えれば、メディア言説の一つ一つに透徹したまなざしを持って向き合うことはきわめて重要だ。
 原発推進のメディア言説が効果的に作用して原発を漫然と容認している人々に本書のような言説分析が届くことを願うが、おそらくは容易なことでは届かないだろう。これもまた、メディアの社会構造的効果なのかもしれない。

 ここまで、メディア言説の深い奥底を「原発事故はなかった(ことにしたい)」、「放射線被爆はたいした問題ではない」と主張する意図が流れているという観点から本書を眺めてきた。言語学的分析という中立的手法を用いているとは言え、6人の研究者による原発事故を巡る論考を、それぞれの主題に沿って、なおかつ全体を通してまとめるなどというのはとても難しかったので、視点を限定して振り返ってみたということである。そのため、論考の大部を取り逃がしてしまったかみしれない。しかし、読み解けなかった大部を惜しむより、わずかでも私の内部に入ってくるものがあれば、それで良しとしたい(あえて言うほどのことでもない。もともと私の読書はそういうものなのだから)。 

 

[註1] まったくの私事だが、誤解があってはいけないので、敢えて注釈を附しておく。私の博士課程進学が学科教授会によって拒否された(正確には、入学願書が握りつぶされた)ことで、私は原子力工学の場に居場所がなくなった。修士課程の院生として、原子力工学のカリキュラムを巡って学科教授会(団体交渉などを通じて)を批判していたこと、政府の原子力政策(ひいては原子力学会)に反対していた全国原子核共闘という全共闘系の組織に協力していたことなどがあったのは確かで、それが素地となっていただろうが、なによりもこんな面倒くさい学生を引き受ける研究室がなかったのが最大の理由だったと思う。優秀な学生であれば、多少の無理をしても引き受ける教授が現われたと思うのだが、残念ながら私はそれほど優秀な学生ではなかった。追いだされたとも言えるが、追い出されるに値したとも言えるのである。その辺の事情というか機微は、同じ大学の別の部局で教授になったことでよく理解できるようになった。ただ、いずれにせよ、学科教授会は私を拒否する手続きにおいて法的な瑕疵を犯したということになって、私の処遇は学科を越えて学部長扱いとなり、救済措置として工学部採用の助手職を与えられ、部局間の折衝を経て、間をおかず付置研究所の物理系研究室へ転属となって、私の職としての物理学が始まったのである。研究者として望まれて助手になったわけではないが、いずれにせよ、最終的には理学研究科物理学専攻で職を終えることになった。


【書評】井上俊夫『詩集 八十六歳の戦争論』(かもがわ出版、2008年)

2015年05月15日 | 読書


井上俊夫
『詩集 八十六歳の戦争論』
(かもがわ出版、2008年)

 

 この詩集にことさら付け加えたい言葉があるわけではない。奇もなく衒いもなく、平明な言葉で率直簡明に綴られた詩篇である。
 ただ、解釈改憲を越えて憲法改正を喫緊の政策課題として掲げた自公政権が、集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法の制定、戦争法案の国会提出と矢継ぎ早に戦争国家への道を急いでいる現在の政治状況の中で、井上俊夫という従軍体験を持つ老詩人の言葉を紹介しておくことはきわめて大事なことに思えて、抜き書きノートから書き出すことにした。

 私は敗戦後の生れである。もう少し厳密に言えば、母の胎内で敗戦の日を迎えた。そういう年齢である。だから、戦争は、大人たちの日々の言葉の端々から伝わってくるもの、本などの言葉を通して知るものとしてあった。
 若い頃、「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行って、いい歌だと思って口ずさんだりしたが、「体験していない」ことは「知らない」ことではない、という異和はずっと持っていた。私たちは言葉を持ち、想像力を持っている。体験しないことは知らないことだと言ったら、「歴史」も「歴史学」も「文学」も「歌」も存在の意味を失ってしまう。
 戦争を直接体験した人々の証言も私たちにとってかけがえのない想像のよすがである。しかし、私たちの国は、高齢の戦争体験者を失いつつある。

火葬場で焼けているのは老兵の屍だけではない
老兵の脳髄に刻まれていた
生々しい軍隊と戦場の記憶が
一枚のペーパーのように
青白い炎をあげて燃えているのだ。

八十代、九十代の高齢になるまで
秘かに抱いてきたのに
もはや誰にも伝えることがない
人それぞれの多彩で慚愧に堪えない軍隊と戦場の想いが
音もなく燃えているのだ。
                「燃えるペーパー」部分 (p. 108-9)

 1922年5月大阪近郊の農家に生まれた井上俊夫は、1942年から1946年にかけて太平洋戦争に五年ほど従軍した経験を持つ。この詩集は、おそらくは息子を越えて孫たちの世代に戦争の体験、戦争の意味を伝えるべく編まれた詩集である。

 当時、若者はどんな思いで招集され、従軍していったのか。戦後のひととき、若者たちは、唯々諾々と雪崩をうつように戦争へ心身とも取り込まれていったように見えた大人たちを非難することもあった。生まれてから戦後民主主義の空気を吸ってきた若者たちには理解しにくいことは確かであった。 

戦争に駆り出された頃の私はほんとに無知な若者だった。
だが、この無知はなんにも知らない無知ではなかった。
文学青年だった私は日本文学はもちろん
ロシア文学もフランス文学もアメリカ文学も
かなりの数の本を読破していた
戦時下の論壇で活躍していた戦争肯定の知識人たちの本も読んでいた
つまり私は無知ではなかったのだ。
だが、かんじんの戦争の本質を見抜くために欠くことができない
社会主義思想や反戦・反軍国主義の思想の知識は皆無だった
つまり私は「無知でない無知な若者」だったのだ。
              「無知でない無知な若者」部分 (p. 149-50)

 当たり前のことだが、当時の日本人のほとんどが無知だったなどということはありえない。詩人もまたけっして無知だったのではない。「無知でない無知な若者」という指摘が意味することは重要だ。
 戦後七〇年の今、多くの人々が高等教育を受けるようになった。私の世代では半分が中学校卒で就職し、半分が高校に進学した。集団就職の世代である。今では、ほとんどが高校に進学する。大学進学者など、戦前と比べることも愚かしいほどに多いのだ。戦前と比べれば、きわめて多くの人々が知識、知恵を獲得する機会を得ている。
 にもかかわらずまっしぐらに戦争へ向かう自公政権を支持しているのはそういう戦前と比べたらはるかに高学歴の人々だ。やはり、どう考えても「無知でない無知な若者」が多いと考えざるを得ない。

 「無知でない無知な若者」は、戦地でどんな経験をするのだろう。野蛮な悲劇とそれに耐える偽悪的な姿もかいま見える。その偽悪的なたくましさが、戦争の悲惨に耐えて敗戦を迎えたとき、天皇制を心情的に乗り越える際にも発揮されたようだ。

陸軍歩兵二等兵Wが
三八式歩兵銃の手入れが悪いとの口実で
初年兵教育係上等兵から顔が変形するまで殴打された二日後に自殺した
手持ちの三八式歩兵銃で自分自身を撃ったのだ。

……

「初年兵の分際でどうして三八式歩兵銃で自殺するやりかたを知っていたのか!」
「誰か教えた奴がいるはずだ。即刻、内務班(兵士たちの居室)を調べろ!」
中隊長は内務班長(下士官・軍曹)に命令した。

軍隊歴五年の軍曹はハイと神妙な顔付きで答えながらも
心の中で赤い舌をペロッと出した。
三八式歩兵銃で自殺するやりかたなんか支那派遣軍百万の兵士は
みんな古参兵から教わって知っているんだ。
それに日頃気に喰わない将校がいたら
戦闘中のドサクサに紛れてそいつの背中を後ろから
ズドンと一発、三八式歩兵銃で狙い撃ちして
安らかに靖国神社へお送りすることもみんな知っているんだ
知らないのはお前さんみたいなボンクラ将校どもだけよ。
         「三八式歩兵銃(その二)」部分 (p. 32-5)

しかし命令通り菊花御紋章をヤスリで削る私たちは至って陽気だった
「この天チャン(天皇陛下)の印が小銃についているため
 俺たちは随分エライ目にあわされてきたなあ」
「恨みかさなる三八式歩兵銃と御紋章だよ。こんなもの
 そのまんま熨斗を付けて支那軍にくれてやればいいんだ」
「あちらでもこちらでも御紋章をヤスリでギーコギーコと削られて
 今頃天チャンは泣いておられるぜ」
私も御紋章を削りながらこれでもう天皇とはキッパリお別れだと思った
とうとう天皇と天皇の軍隊とはなんの関係もない人間になれたと思った
だから戦後になって象徴天皇として天皇制が復活したけれど
私にすれば、それはとっくの昔にヤスリで削り取ってしまって
もはや何の関心も持てない存在に過ぎないのだ。
          「三八式歩兵銃(その三)」部分 (p. 41-2)

 しかし、戦争から帰還した若者はほんとうに戦争を、ファシズムを、天皇制を、軍国主義を乗り越えたのだろうか。ときとして、畏るべき感慨が沸き起こることもあったようだ。それは戦争体験が深ければいっそう恐怖に満ちた感慨であったろう。

往年の私が中国の戦場で迎えた歩兵連隊での軍旗祭。
その日は朝からドシャ降りの天気だったが
われら下級兵士は重い背嚢を背負い腰に帯剣をぶらさげ
肩に三八式歩兵銃を担いだ完全武装で
顔まで泥水を跳ね上げながら
勇壮な喇叭の音にあわせて分列行進をおこなったのだった。
「頭ァ、右ィ!(カシラァァ、ミギィィ!)」の号令で
われら年若き兵士が一斉に注目する輝かしき軍旗の遥か彼方に
白馬にまたがった幻想の大元帥陛下がおわしまし
われらは生きて再び内地の土は踏むまいと誓い合ったのだった
ああ、あの時のオルガスムスに似た陶酔感。

今にして思えばファシズムが様々な軍歌や行進曲を通じて
前線の兵士や銃後の国民に撒き散らかしていた麻薬が
戦後五十有余年も閲したこんにちなのに
書斎で君が代行進曲にあわせて歩いていると
いまなお有効期限が切れていないことをはっきりと思い知らされるのだ。
できることならもう一度
一兵士としてこの身をミリタリズムの悪魔に捧げたくなってくるのだ。
もう一度戦争をやりたくなってくるのだ。
         「「君が代行進曲」にあわせて」部分 (p. 96-7)

 もちろん、詩人はけっして恐怖の感慨に打ち負かされることはない。戦後の民主主義を軽蔑し、平和憲法を毛嫌いしつつ、イラクへ自衛隊を派遣するまでになった戦後日本の政治の頽落に向けて、詩人は戦争経験から立ち上がる言葉を対抗させる。それは、戦争に至るまでの日々の暮らしの中で、体に染み込むように植え付けられた軍国思想の乗り越えの困難さをも明らかにしている。

当時の国民はみんな天皇の赤子だった
だから天皇のおんために死ぬのが当然とされていた
それにしても老いも若きも見事なまでに
皇国史観と軍国主義に染め上げられていたものよ。

それも一朝一夕に染められたのではなく
梅干しを作る際、青梅がじわじわと赤くなっていくように
幼い時から受けてきた天皇制教育により
徐々に、けれども確実に染められていったのだ。

だから戦争が終わって六十有余年にもなるこんにち
いまだに梅干しのようなアタマを
後生大事に持っている人が大勢いる。

いまの内閣総理大臣は戦後生まれで
戦争を知らない世代のはずなのに
なぜか梅干しのようなアタマをお持ちだ

いったん真っ赤に染め上がった梅干しを
もとの青梅に戻すことの困難さを思え。
         「梅干しの壺を覗きながら」部分 (p. 122-4)

 いや、もっと強烈な主張がある。もう一度日本の兵となって死にたい、と81歳の反戦志願兵は〈反語〉鋭く語るのである。

イラクへ派遣された自衛官が
公務中に死亡した場合
賞恤金と特別褒賞金とかいうものを併せて
一億円が支給されることにきまった。

私がいた昔の軍隊では夢想だにできなかった
大盤振舞だ、びっくり仰天だ。
こんな大金が貰えるなら私もイラクへ行きたい
そして反米武装勢力が放つ銃弾に斃れて
金一億円也
を拝受し、それを孫への置土産にしたい。

私はいま八十一歳だが
近くの飯盛山に登って足腰を鍛えている。
自慢じやないが元は中支那派遣軍の部隊で鍛えあげた下士官
従軍足掛け五年の歴戦の勇士だ。
自動小銃の扱い方なんぞ教わらなくとも心得ている。
無線通信もやれるはずだ。

小泉内閣総理大臣殿
石破防衛庁長官殿
どうか私をイラク派遣自衛隊の一員に加えてください
もっとも私が常日頃
アメリカの従属国さながらに振舞う
政府の卑屈な態度に愛想を尽かしており
かの日中戦争にしても
あきらかに日本の侵略戦争だったという歴史認識を抱き
昭和天皇には戦争責任があると主張するなど
あなた方がいうところの「反日的思想」の
持主であることがお気に召さないようでしたら
いますぐ「転向」いたします。

日本は万世一系の天皇をいただく神の国であり
「大東亜戦争」は欧米の植民地とされていた
アジアの諸国を解放し、独立させるための聖戦でした。
そして今の憲法を改正して、自衛隊を名実共の国軍とし
今後どこの国へでも日の丸の旗をはためかして
威風堂々の進攻ができるようにすべきです。
今までの私はこうしたことに異論を唱えるなど
重大な誤りを犯していました。
私は今ここに「転向声明」を書いて署名捺印します。
これは決してイラクへ行きたさの
偽装転向ってものじゃありません。
私の本心から出た言葉であります。

どうか私をイラクへ派遣し
「日本人戦死者第一号」の光栄に浴させてください
ただし小泉首相ご贔屓の
靖国神社に私を祀ることだけはご勘弁願います。
    「老いたれど紅旗征戎吾が事にあり」全文 (p. 152-5)

 イラクに派遣された自衛官は、一人もイラクで死亡することはなかったが、帰国後の自殺者が多かったと聞く。ベトナム戦争後のアメリカ帰還兵、イラク戦争後のアメリカ従軍兵士にも自殺するもの、心を病んでしまったものが大勢いたとも聞く。
 心病まずして戦争を遂行できるというのは、まともな人間の行いではないのだ。戦争という名を冠したら、人を殺すことに躊躇いがなくなるという想像を私はすることができない。

 さて、最後に、戦争の日々からはるか遠くまでやってきた老詩人にはこのような詩もあるということを紹介しておく。

二人は公園のベンチに腰をおろして
とりとめもない話をする
私八十五歲
妻八十三歳。

二年前、妻は末期癌であと三ヶ月のいのちと宣告された
それが抗癌剤を飲み続けることによって
奇跡的に生き永らえているのだ。

さあ、歩きましょう
今度はクルマに頼らないで歩く練習だよ
私は妻の手をとつてゆっくり歩き出す。
今日は四十メートルも歩けたよ
次は六十メートルにするんだな。

……

二人は再びベンチに腰をおろす
妻はブランコや滑り台で元気に遊ぶ子供たちを見て
私にもあんなに自由に走り回れる時があったのにね
こんなにしみじみとした口調で言う妻は
いつ頃のおのが姿を思い浮かべているのだろう。

私にも三十キロを優に超す重い背嚢を背負い
天皇家の紋章入りの三八式歩兵銃を後生大事に持った
完全武装姿で中国大陸の戦場を
駆けずり回っていた時期があった。

ああ、エノキの大木がいい陰をつくっている
梅雨の晴れ間のいい風が渡ってくる。
         「公園で」部分 (p. 126-8)

 詩人は、この詩集が刊行された2008年の10月16日に逝去された。「生々しい軍隊と戦場の記憶が/一枚のペーパーのように/青白い炎をあげて燃え」てしまったのだ。あらためて、合掌。


【書評】ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社、2001年)

2015年05月12日 | 読書


ジョルジョ・アガンベン
(上村忠男、廣石正和訳)
アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』
(月曜社、2001年)


 おこがましくも書評などと称して読後感などを書きなぐっているが、もちろん読んだ本のすべてについて書いているわけではない。つまらなかった本は無視する。反発するような内容の本についても書かない。批判や悪口が主となってしまうような本については書かないと決めている。私は批評家ではない。
 私の本棚には、同じ本が何組かある。読んだことを忘れて、また買ってしまうのである。けっこういい本なのにすっかり忘れてしまうおのれの脳の働き(働かなさ)に驚いて、抜き書きやメモ書きを始めたのがそもそもの初めである。私自身のためだけの行いであれば、いい本についてだけ時間を費やしたいのである。

 とてもいい本だ、きわめて重要な内容だ、なんとしても書評を書きたいと強く思う本がある。たくさんある。中には、ある種の義務感さえ生じているというのに、まったく書き出せない本というものもある。アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』という本書はその典型的な一冊である。
 強く心を揺すぶられ、さまざまな思いを喚起され、その歴史的事象へイメージが大きく展開している。書けないはずがないと思いながら、取りかかれない日が続く。イメージを膨らませながら、イメージが届いていないのではないかという不安もあるが、なによりもアウシュヴィッツに対抗しうるしっかりした言葉を私は持っていないのではないか、そういう不安が先行しているのである。
 それでも書き出すのは、やはり義務感のようなものが強いからだ。ここをくぐり抜けないと、前に進めないという強迫観念のようなものもある。このまま放棄するのは悔しいという単純な感情もある。などということをうだうだ書きながら、少し勢いをつけて前に進もうという魂胆である。

アウシュヴィッツの教訓のひとつは、まさしく、ごく普通の人間の頭の中を理解することはスピノザやダンテの頭の中を理解するよりも途方もなく困難だということである。 (p. 10)

 アウシュヴィッツについての証言は、処刑する側であれ犠牲となる側のものであれ、ごく普通の人間たちのものであるが、それを理解することが「途方もなく困難」なのは、『イェルサレムのアイヒマン』でアイヒマンの所業を「悪の凡庸さ」(邦訳書 [1] では「悪の陳腐さ」)と表現したアーレントの言葉が誤解されてしまう理由でもある、と著者は「序言」で指摘する。
 しかし、この理解の困難はまだ「尋常な」困難のように思える。アウシュヴィッツは歴史上経験された無二の「尋常ならざる」人間(社会)の事象である。言葉というものが、反復する人間(社会)や自然の事象に寄り添って形成されてきたことを考えれば、尋常ならざる唯一のアウシュヴィッツを言葉で証言することはいっそう困難であろう。
 「アウシュヴィッツは永遠に理解不可能であると主張する人々」 (p. 7) もいる。しかし、著者は「すべてを納得してしまう者のようにあまりにも拙速に理解しようとするのでもなく、安直に神聖化してしまう者のように理解を拒否するのでもなく、その隔たりに留まりつづけている」 (p. 9) ことを選択する。
 本書は、証言の不可能性を探りながら証言の森を探索し、思考を重ねるきわめて困難な試みである。

 本書は、「第1章 証人」、「第2章「回教徒」」、「第3章 恥ずかしさ、あるいは主体について」、「第4章 アルシーヴと証言」で構成され、巻末に 「証言について――アウシュヴィッツの「回教徒」からの問いかけ」と題する上村忠男の解説が附されている。

 アウシュヴィッツに象徴されるナチス・ドイツによる人種殲滅の悲惨な歴史的事象を、私(たち)は、歴史上数あるジェノサイドと区別して「ホロコースト」と呼ぶことでその特異性を意味していると考えてきた。しかし、著者は「ホロコースト」という言葉に異議を唱える。「ホロコースト」という語は、「神聖で至高の動機に対する全面的な献身という意味合いをもった崇高な犠牲」 (p. 35) という意味を強く担っているのだが、著者はまた、激しい反ユダヤ主義のテクストの中でユダヤ教徒虐殺を指す用例 (p. 36) をも指摘している。
 本書では多くのアウシュヴィッツの「生き残った者」の証言が取り上げられているが、その主要な一人、プリモ・レーヴィの「極端な宗教家たちが大量殺戮を預言者風に解釈しようとすることにわたしは腹を立てている。わたしたちの罪にたいする罰だというのである。ちがう。わたしはこれを認めない。無意味であるということこそが、大量殺戮をいっそう恐ろしいものにしているのだ」([Levi 1, p. 219], p. 32) という記述を引用して、著者は次のように宣言する。

……「ホロコースト」という語の場合は、たとえ遠回しにではあっても、アウシュヴィッツと聖書のolah、ガス室での死と「神聖で至高の動機にたいする全面的な献身」を結びつけることは、愚弄としかおもえない。この語は、火葬場の炉と祭壇を同一視するという受け入れがたいことを前提としているだけでなく、反ユダヤ主義的な色合いをはじめから担っている意味の遺産を相続している。したがって、ここでは、この語をけっして使わないことにする。この語をあいかわらず使う者は無知か無神経さ(あるいはその両方)を露呈しているのである。 (pp. 37-8)

 「生き残った者」レーヴィが、生き残ったがゆえに見聞きすることができた世界の殺戮をひいて、アウシュヴィッツを次のように述べている。

広島と長崎の恐怖、グラーグ〔ソ連の強制労働収容所〕の恥さらし、ベトナムでの無益で血なまぐさい戦闘、カンボジアでの自国民大量殺戮、アルゼンチンでの行方不明者たちなど、その後わたしたちが目にすることになった残忍で愚かしいたくさんの戦争があったが、ナチスの強制収容の方式は、わたしが書いているこの時点まで、量についても質についても類例のないもの(unicum)である。 ([Levi 2, p. 11f], p. 38)

 アウシュヴィッツで起きたことは、「言語を絶する」とか「名状しがたい」とか「書きあらわしえない」とか言われるが、ヨーロッパキリスト教社会では、これらの表現は、「神を讃えるための、また神を崇めるための最良の言い方」 (p. 39) であることも確かなことである。つまり、それは「沈黙のうちに崇める」こと、「敬虔な沈黙を守る」ことなのだが、著者はそうすることを拒否して、次のような意思表示を行う。

アウシュヴィッツは「言語を絶する」とか「理解不可能である」と言うことは、euphemein、すなわち沈黙のうちにそれを崇めることに等しい。神にたいしてそうするがごとくにである。すなわち、そのように言うことは、その人の意図がどうであれ、アウシュヴィッツを讃えることを意味する。これにたいして、わたしたちは「恥じることもなく、名状しがたいものを凝視する」。たとえ、その結果、悪が自分自身について知っていることをわたしたちはわたしたち自身のうちにも容易に見いだすということに気づかせられることになろうともである。 (p. 39)

  名状しがたいものを凝視する作業は、アウシュヴィッツを「生き残った者」たちの証言を吟味していくことにほかならないが、生き残った者たちは真性の証人でありうるのか。証言は可能であるのか。生き残った者たちは、自らの証言について次のように語る。

証人たちは、定義上、生き残った者たちであり、したがって、その全員がいくらか特権を享受しているのだ。〔……〕普通の囚人の運命については、だれも語っていない。というのも、普通の囚人にとっては、生き残ることは物理的に不可能だったからである。 ([Levi 1, p. 215f], p. 40)

その体験をしていない者たちは、それがなんだったのかを知るすべはない。その体験をした者たちは、もうそれについて語ることはない。本当に、どこまでも語ることはないのだ。過去は死者たちに属している。 ([Wiesel, p. 314], p. 40) 

くり返し言うが、わたしたち、生き残って証言する者は、本当の証人ではない。〔……〕わたしたち、生き残った者は、わずかな少数者であるだけでなく、例外的な少数者である。わたしたちは、不正のゆえに、あるいは能力のゆえに、あるいは幸運のゆえに、底に触れることのなかった者たちなのである。底に触れた者、ゴルゴンを見てしまった者は、戻ってきて語ることはなかった。あるいは、戻ってきたとしても、黙していた。 ([Levi 2, p.64f], pp. 40-1)

 真性の証人とは、ガス室で死んだ者たちと戻って来ても語ることのない「底に触れた者、ゴルゴンを見てしまった者」たちである。したがって、生き残った者たちは、「自分が証言するのは証言することの不可能性のためでなければならないことを知って」 (p. 42) いながら、彼らの代理として「欠落」を抱え込んだまま証言するのである。

といっても、生き残って証言する者もまた、完全に証言することはできず、自分のうちにある欠落を語ることはできない。このことが意味するのは、証言とは二つの証言不可能性の出会いであるということ、言語は、証言するためには、非言語に席をゆずって、証言不可能性をあらわにしなければならないということである。証言の言語とは、もはや意味作用をおこなわない言語である。が、それはまた、それ自身の非意味作用のもとで言語をもたない者のうちに入りこんで、ついにはもうひとつの非意味作用を受け取るにいたる。完全な証人の非意味作用、すなわち、定義上証言することのできない者の非意味作用を受け取るにいたるのである。 (pp. 49-50)

 言語が証言されないものから書き取ったと信じている痕跡は、いまだになお言語の発する言葉(parola della lingua)ではない。言語がもはや初めにはなく、――ただ単純に――証言せんがためにそこから脱落するときに生まれるものこそが、言語の発する言葉なのだ。「かれ〔使徒ヨハネ〕は光ではなかった。光について証言するために来たのである」〔『ヨハネによる福音書』 一・八〕。 (p. 50)

 ガス室に送られた者たちは証言ができない。そればかりではない。生きて戻ったにもかかわらず、証言できない者たちがいる。「底に触れた者、ゴルゴンを見てしまった者」たちで、「回教徒(der Muselmann)」と呼ばれた。極度の飢えと病によって人間ならざる人間となった人たちである。

あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人が収容所の言葉で呼ばれた名にしたがうなら、いわゆる回教徒である。かれはよろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎなかった。 ([Améry, p. 39], p. 51)

かれらは、ミイラ人間、生けるしかばねだった。 ([Carpi, p. 17], p. 52)

病人の一団を遠くから見ると、アラブ人が祈っているような印象を受けた。この姿から、栄養失調で死に瀕している者たちを指すのに、回教徒という、アウシュヴィッツで普段使われた名称が生まれたのである。 ([Ryn et Klodzinski, p. 94], p. 54)

かれら、回教徒、沈んでしまった者たちこそが、収容所の中枢である。神の火花が自分のなかで消えてしまい、本当に苦しむことはできないくらいにすでに空っぽになっているため、無言のまま行進し、働く非-人間たちの、たえず更新されてはいるがつねに同一の匿名のかたまりこそが、収容所の中枢をなしているのだ。かれらの死を死と呼ぶのはためらわれる。というのも、かれらは疲弊しきっているために死を理解することができないので、死を前にしても恐れることがないからである。わたしの記憶は、かれらの顔のない姿でいっぱいである。 ([Levi 3, pp. 81-82], p. 55)

 当然のことだが、彼らは回教徒ではないので、ここでは日本語で直截に「回教徒」と呼ぶことは避けて、多くの日本人には馴染みのないドイツ語のムーゼルマンを用いて回教徒という印象を弱めておきたいと思う。
 ムーゼルマンこそが「収容所の中枢」だと語るレーヴィは、続けて、「現代の悪のすべてをひとつのイメージのうちに凝縮させる」とムーゼルマンの姿そのものになると述べている。
 ムーゼルマンは、収容所における極限状況が引き起こした前代未聞の人間の変容を体現している。「人間が非-人間に移行し」 (p. 59) たのである。ムーゼルマンの死を、人間の死と呼ぶことすら憚られるようほどに、死の尊厳すら否定されているのだ。

……犠牲者がこのように死の尊厳を否定されているのが目撃され、「死産児」というリルケのそれを思わせるイメージのもとに、死なない死をもって落命するという刑を受けていたのはたしかである。しかしそれなら、収容所においては、死ぬ死、本来的な存在のうちで耐えられる死とは、なんでありえたのだろうか。そして、アウシュヴィッツでは、本来の死を本来のものでない死から区別することに本当に意味があるのだろうか。 (p. 98) 

 ムーゼルマンが、生と死の間、人間的なものと非人間的なものの間に置かれた存在であったことには、次のような政治的な意味を持つと証言されている。

回教徒は絶対権力の人間学的な意味をきわめてラディカルな形で体現している。じっさい、殺すという行為においては、権力はみずからを廃棄してしまう。他者の死は社会的関係を終わらせるからである。反対に、権力は、みずからの犠牲者を餓えさせ、卑しめることによって、時間をかせぐ。そして、このことは権力に生と死のあいだにある第三の王国を創設することを可能にさせる。死体の山と同様に、回教徒もまた、人間の人間性にたいする権力の完全な勝利のあかしなのである。まだ生きているにもかかわらず、そうした人問は名前のない形骸となっている。こうした条件を強いることによって、体制は完成を見るのである。 ([Sofsky, p. 294], p. 60)

 この政治的意味は、ミシェル・フーコーの「生政治」そのものを思い起こさせる。アガンベンは、「主権において、死は、君主の絶対権力がもっとも顕著にあらわとなっていた地点だったのにたいして、今ではその反対に、死は、個人がいかなる権力をも逃れて、自分自身のもとに戻り、いわば自分のもっとも私的な部分のうちに閉じこもる契機となる」([Foucault, p. 221], pp. 109-10) というフーコーの言述を引用して、次のように「生かしながら死ぬままにしておく」政治的意味を述べている。

領土の主権という伝統的な姿のもとでは、権力は、その本質において生殺与奪の権利として定義される。しかし、こうした権利は、なによりも死の側で行使され、生には、殺す権利を差し控えることとして、間接的にしかかかわらないという意味では、本質的に非対称的である。このため、フーコーは、死なせながら生きるままにしておくという定式によって主権を特徴づける。十七世紀以降、ポリツァイ〔治安統治〕の学の誕生とともに、臣民の生命と健康への配慮が国家のメカニズムと計算においてしだいに重要な地位を占めるようになると、主権的権力はフーコーが「生権力(bio-pouvoir)」と呼ぶものへとしだいに変容していく。死なせながら生きるがままにしておく古い権利は、それとは逆の姿に席をゆずる。その逆の姿が近代の生政治(biopolitlque)を定義するのであって、それは生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる。 (p. 109)

 「生権力」、「剥き出しの生」、「例外状態」こそ、アガンベンが追求し続けてきた主題に他ならないが、ここでは「証言」についての理路をたどることとする。

さて、プリモ・レーヴィにおける証言の現象学的観察、生き残って証言する者と回教徒、えせ証人と「完全な証人」、人間と非-人間のあいだの不可能な弁証法を読みなおすことにしよう。証言は、ここでは、少なくとも二つの主体を巻きこんだプロセスとしてあらわれる。第一の主体は、生き残って証言する者で、かれは話すことはできるが、自分の身にかかわることとして語るべきものはなにももっていない。第二の主体は「ゴルゴンを見た」者であり、かれは「底に触れた」ために語るべきことをたくさんもっているが、話すことはできない。この二人のうちのどちらが証言しているのだろうか。どちらが証言の主体なのだろうか (p. 163)

 少なくとも、アウシュヴィッツの後、言葉として残されたものは生き残った者たちの証言である。彼らは、真に証言するべきことを「たくさんもっている」ムーゼルマンに代わって証言しているのである。つまり、間接的ではあるが、ムーゼルマンが証言しているということなのだが、しかし、ムーゼルマンは「非-人間に移行した」人間である。「すなわち、そこでは、言葉をもたない者が話す者に話させているのであり、話す者はその自分の言葉そのもののなかに話すことの不可能性を持ち運んでくるのである」 (p. 164) ということになって、証言する主体を指定することができない。これを、アガンベンは「証言の主体は脱主体化について証言する者である」と表現する。

こうして、アウシュヴィッツについての見解を二分している対立する二つのテーゼがどんなに不十分であるかがわかる。ヒューマニズム的な論法による見解では、「あらゆる人間は人間的である」と主張される。反ヒューマニズム的な論法による見解では、「一部の人間だけが人間的である」と唱えられる。証言が語っているのは、これらとはまったく異なることである。それは以下のテーゼに定式化することができるだろう。「人間は、人間的ではないかぎりで、人間である」。あるいは、もっと正確に言えば、「人間は、非-人間について証言するかぎりで、人間である」 (p. 164)

 「生き残った者」は何を生き残ったのか。ごく普通の人間らしい生に継いで、単なる「剥き出しの生」をつなぐように生き残ったのか。それとも、「死と闘って、非-人間的な状況を生き抜いた者」 (p. 181) なのか。
 「人間は人間のあとも生き残ることのできる者である」ということが、「アウシュヴィッツの教訓を要約するテーゼ」 (p. 182) であるとアガンベンは主張する。

第一の意味においては、それは回教徒(あるいはグレイ・ゾーン)のことを指しており、人間よりも長く生き残る非人間的な能力を意味している。第二の意味においては、それは生き残り証人のことを指しており、回教徒よりも、非-人間よりも長く生き残るという、人間の能力を指している。しかし、よく見ると、この二つの意味は一点に収斂している。そして、その一点は、いわばそれらの内奥にある意味の核心をなしており、その核心において、この二つの意味は一瞬のあいだ一致するように見える。その一点にいるのが回教徒であり、そこにおいて、このテーゼの第三の意味、もっとも本当の意味であると同時にもっとも両義的な意味が解き放たれる。それは、レーヴィが「かれら、「回教徒」、沈んでしまった者たちこそが、完全な証人である」と書くことによって明らかにした意味である。すなわち、人間とは非-人間であり、人間性が完全に破壊された者こそは真に人間的であるということである。
 ここでパラドックスとなっているのは、人間的なものについて真に証言するのが人間性が破壊された者だけであるとするなら、このことが意味するのは人間と非-人間の同一性はけっして完全ではないということ、人間的なものを完全に破壊するのは不可能であるということ、つねにまだなにかが残っているということである。証人とはその残りのもののことなのである (p. 181-2)

 先に述べたように、ムーゼルマンの存在からフーコーの生政治への言及がなされたが、「生き残った者」の考察から、「二十世紀の生政治をもっとも特徴的な性格を定義する」もう一つの定式があると著者は指摘する。「死なせるでも生かすでもなく、生き残らせるというのが、それである」 (p. 210)

 「残りの者」というメシア思想的な概念がある。メシア到来の時、救われるのはイスラエルの「残りの者」だけである。しかし、「残りの者」はイスラエルの民の一部を指す言葉ではないと言う。「残りの者というのは、終末、メシア到来のできごと、民の選びにじかにつながれた瞬間に、イスラエルが引き受ける内実である」 (p. 220) というのだ。「残りの者」は、その救済をとおしてイスラエルの全体が救われるという「救済の装置」 (p. 221) なのである。この不可能にも思える概念は、「メシア到来のアポリア」そのものである。
 旧約聖書のこのアポリアをひいて、アガンベンは「アウシュヴィッツの残りのもの」を語る。

残りの者の概念において、証言のアポリアはメシア到来のアポリアと一致する。イスラエルの残りの者は、民全体ではなく、その一部でもなく、全体にとっても部分にとっても、自分自身と一致することの不可能性、また相互のあいだでも一致することの不可能性をまさに意味しているように、そしてメシア到来の時は、歴史上の時でもなければ、永遠でもなく、両者を分割する隔たりであるように、アウシュヴィッツの残りの者――証人たち――は、死者でもなければ、生き残った者でもなく、沈んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもなく、かれらのあいだにあって残っているものである。 (p. 221)

 アウシュヴィッツのガス室で消えた者たち、ムーゼルマンとしてアウシュヴィッツを「生きた」者たち、そして生き残った者たち、そのすべての人間たちのあいだにある「残りのもの」をこそ、私たちは「名状しがたいもの」として凝視し続けなければならない。
 そうすることで、「新しい倫理の土地に取り組む未来の地図制作者にとって目印となるかもしれない杭をあちこちに打ちこむこと」 (p. 10) が、ジョルジョ・アガンベンが本書で企図したことである。

[1] ハンナ・アーレント(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン ――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房、1969年)。

著者による引用文献

Améry, J.
Un intellettuale a Auschwitz
, Bollati Boringhieri, Torino 1987 (ed. orig. Jenseits von Schuld und Sühne. Bewältigungsversuche eines Überwältgien, F. Klett, Stuttgart 1977). 池内紀訳『罪と罰の彼岸』法政大学出版局、1984年

Carpi, A.
Diario di Gusen
, Einaudi, Torino 1993.

Foucault, M.
Il faut défendre la sociéte
, Gallimard-Seuil, Paris 1997.

Levi, P.
1. Conversazioni e interviste, Einaudi, Torino 1997. 多木降介訳『プリーモ・レーヴィは語る』青土社、2002年
2. I sommersi e i salvati, Einaudi, Torino 1991(2a ed.; la ed. 1986). 竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞社、2000年
3. Se questo é un uomo. La tregua, Einaudi, Torino 1995 (4a ed.; la ed. rispettiv. De Silva, Torino1947 ed Einaudi, Torino1963). 竹山博英訳『アウシュヴイッツは終わらない』朝日新聞社、1980年、竹山博英訳『休戦』朝日新聞社、1998年

Ryn Z. et Klodzinski S.
An der Grenze zwischen Leben und Tod
. Erne Studie über die Erscheinung des «Muselmanns» im Konzentrationslager, in «Auschwitz-Hefte», vol.1,Weinheim e Basel 1987.

Sofsky, W.
L'ordine del terrore
, Laterza, Roma-Bari 1995 (ed. orig. Die Ordnung des Terrors, Fischer, Frankfurt a.M. 1993).

Wiesel, E.
For Some Measure of Humility, in «Sh'ma. A Journal of Jewish Responsability», n°5, 31 October 1975.


原発を詠む(22)――朝日歌壇・俳壇から(2015年4月13日~5月11日)

2015年05月11日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

 痛みなき被ばく線量の積算に「大丈夫」と若い作業員笑う
             (いわき市)池田実  (4/13 佐佐木幸綱選)

 汚染水はさておき自民党内の声は確かにアンダーコントロール
             (西海市)前田一揆  (4/13 佐佐木幸綱選)

 防護服全面マスクで身を固め向かう建屋は墓場か戦場か
             (いわき市)池田実  (4/13 高野公彦選)

 コントロールされていますとボスが言ひされてゐないと元ボスわめく
             (熊谷市)内野修  (4/13 高野公彦選)

 福島の博物館員が「ガレキではない我歴だ」と言う展示物
             (近江八幡市)寺下吉則  (4/20 佐佐木幸綱選)

 わっと散るフナムシたちのその先に煌々と照る原発がある
             (吹田市)谷村修三  (4/27 永田和宏選)

 帰れない原発被災のふる里は見渡す限り除染土の山
             (いわき市)金成榮策  (4/27 佐佐木幸綱選)

 生かされて生きてしまったこの四年(よとせ)桜の花は今年又咲く
             (春日部市)川崎康弘  (5/4 佐佐木幸綱選)

 広島の原爆で死んだアメリカ人十二人という戦争のむごさ
             (福山市)武暁  (5/4 高野公彦選)

 除染から廃炉作業に身を投じやがて福島がふるさとになる
             (いわき市)池田実  (5/11 高野公彦選)

 防護服六千日々に使ひ棄て廃炉の道の真闇続けり
             (福島県)斉藤あきら  (5/11 永田和宏選)

 好きなだけ掘れとスコップわたさるる出荷停止の解けぬ竹の子
             (日立市)加藤宙  (5/11 永田和宏選)

 

 穴を出て蛇フクシマを這ふばかり
             (いわき市)馬目空  (4/13 金子兜太選)

 列島の危ふさ思ふ海市かな
             (白井市)酒井康正  (4/20 大串章選)

 

 

朝日俳壇・花壇欄コラム『うたをよむ』(5/11付け)
  本多一弘福島発のうたは問うから抜粋

「私が暮らす福島は震災以降、様々な困難と複雑な状況を抱えている。福島在住の歌人は、何を、どう歌っているのか。

ふるさとの地形に線量記されゐて天気予報のごとく見てをり
                 吉田信雄

 福島の夜のニュース番組では、県内各地の放射線量の情報が天気予報のように告げられる。作者は、原発のある大熊町から会津若松市に避難している。線量の数値は見えても、故郷の風景は目にすることができない苦しさが伝わってくる。
………

福島は「入る」べき域となりゆきぬ辛夷の花のぽうぽうと白
                 高木佳子

 静かな眼差しが問題を鋭く抉りとる。………「行く」でもなく、「帰る」でもなく、「入る」べき区域となってしまった福島。人間の営みをよそに自然界では辛夷の花が咲いている。「ぽうぽうと白」という語の響きが悲しい。

目に見えぬものに諍い目に見ゆるものに戦く まずは雪を搔け
                 齋藤芳生

 海外や東京で働いた後、故郷に戻ってきた作者。福島で暮らす人々は、目に見えぬ放射性物質に喘いでいた。「雪」は、春が訪れてもいまだ溶けぬ雪と解決しない問題を象徴する。「まずは雪を搔け」というこの痛烈な呼びかけにわれわれはどう応えていくのか。今、一人ひとりの生き方が問われている。」